文字論(もじろん) 英grammatology
『言語学大辞典術語』
言語学の諸分野の中に,文字を扱う分野があってよいと思われるのに,今までのところ,そういう領域は認められていない.最近,この方面に多少関心が寄せられてきてはいるが,言語学の概説書などを見ても,ほとんど本式にはとりあげられてはいない.その理由は,簡単である.言語学が生まれ,育ってきた欧米では,アルファベットという表音文字が用いられ,これは1字1音を原則とする文字であるため,字はそのまま音におき代えられ,したがって,文字は音論に付随して述べられるに過ぎなかったからである.
言語学の諸分野の中に,文字を扱う分野があってよいと思われるのに,今までのところ,そういう領域は認められていない.最近,この方面に多少関心が寄せられてきてはいるが,言語学の概説書などを見ても,ほとんど本式にはとりあげられてはいない.その理由は,簡単である.言語学が生まれ,育ってきた欧米では,アルファベットという表音文字が用いられ,これは1字1音を原則とする文字であるため,字はそのまま音におき代えられ,したがって,文字は音論に付随して述べられるに過ぎなかったからである.
なるほど,文字による言語は,発生的に,音声による言語からいえば,二次的なものであるが,その社会的機能からすれば,音声言語に勝るとも劣らない言語である.第一,言語学に限らず,すべての学問は,文字なしには成立しない.言語学にしぼってみても,言語の歴史という大きな領域は,過去から残された文献や記録があってはじめて可能である.この場合,言語の文字化の過程が当然問題にされるべきであるのに,この点について従来あまりに暢気であった.そこで,文字を本格的に扱う分野を建設する必要が起こってくるが,それが文字論とよばれるべきものである.
一方,従来でも,文字を専門に考える学問がなかったわけではない.それは,文字学(graphology)とよばれるものである.しかし,文字学は,総じていえば,個々の具体的な文字体系,あるいは,いちいちの具体的な文字の歴史的発展や伝播,さらにはその系統を探るものである.たとえば,中国文字学は,漢字の,もっとも古く知られている段階(甲骨文字)から時代を追ってその外形の変遷を記述する.このような個々の文字学は,あるべき文字論に豊富な材料を提供するものではあるが,しかし,文字とはそもそも何かといった一般的な問題には,時に触れることはあっても,正面から文字の一般的な性格と取り組むことはなかった.このような問題こそ,言語学で取り扱われるべきであって,文字論がその専門領域である.これに対して,文字学は文字論のいわば各論に当たることになろう.
では,文字学と違って文字論はどういう問題を取りあげようとするのであろうか.まず,文字は一体何であるかを問う,すなわち,文字の本質の問題である.文字が視覚的言語記号である以上,文字の本来の言語的機能は何であるか,が考えられなければならない.このことについては,「文字」の項にも述べてあるが,究極的には文字の言語的機能は表語にあるということができる.その文字がいわゆる表意文字にせよ,表音文字にせよ,みな表語を目的としているのであって,表意といい,表音というのも,表語の方法についての種別である.
ところで,「表語(logography)」という言葉は,一見分かるようで,必ずしもそう単純ではない.というのは,「語(word)」という概念が常に明白とは限らないからである.中国語の語は,単音節・孤立語というこの言語の特性から,単位の抽出は容易で,その単位に一つ一つ文字を与えればよい.しかし,どの言語もこのようであるとは限らない.たとえば,日本語のような言語では,体言は孤立的で,単位抽出は容易であるが,用言となると,しばしば複雑な用言複合体をなすので,単位抽出もそう簡単ではない.用言複合体それ自身は連辞の一単位ではあるが,語よりも大きな単位である.もっとも,用言複合体は,語幹と接辞,接辞と接辞の間はいわゆる「膠着(agglutination)」しているから,音的に分析することはそれほど難しいことではないけれども,意味のある全体としてみるときは,これを語と等置することは困難である.
しかし,上代の日本で,漢字を表語的に使って日本語を表わす場合,はじめのうち,用言複合体を1つの漢字で写していた.もっとも,後には漸次助動詞や助詞を,いわゆる「送り仮名」の形で表音的に表わすようになった.
ところで,文字は音声言語に基づいて作られるのであるが,その音声言語の文字化に際しては,その言語を反省し,観察し,そしてその中に何らかの単位を認めたにちがいない.ところが,音声言語の使用者は,その話している言語の単位などいちいち自覚して話しているわけではない.その音声言語を文字化しようとする場合,文字言語は音声言語の音声連続を連続体としてそのまま写すことはできず,必ず区分して書かなければならないので,必然的に単位の認定が必要となってくる.ここに「語」がいわば生まれるのである.言いかえれば,文字は語を表わすのがその目的であるが,逆に,文字によって語が作り出されるともいえるという甚だ微妙な関係にあるらしい.この点は,将来の文字論でもっと深く掘り下げられるであろう.
このように,厳密にいうと,「表語」の「語」に問題があるばかりでなく,「表語」の「表」にも問題がある.簡単にいえば,この「表」は音声言語の文字化ということであろうが,この音声という聴覚映像から文字という視覚形象へウツス(移→写)過程に一体どんなことが起こるのか,このことは過去の記録を使って進める言語史の研究にとってはもっとも基礎的な問題のはずである.ところが,こういう問題はほとんど考慮に入れられなかったといってよい.言うまでもなく,過去の文字化の過程は具体的には知りうべくもないが,いろいろな可能性を考えることは,過去の記録の性格を知り,その記録に綴られている言語の実相を明らかにする上に必要不可欠であると思われる.文字論という分野がもし成立するならば,この文字化の問題がその中心的な課題になるにちがいない.
文字が語を表わす場合,その表わし方はさまざまである.しかし,概して言えば,漢字のような,1字が1語を表わす,直接的な表語文字(logogram)と,語を直接示すのではなく,その語の音形を示すことによってその語を表わすという間接表語の,表音文字(phonogram)とに分けられる.もちろん,これは典型的な場合の両極であって,実際には,その両極の間を揺れ動いている.また,表音(phonography)といっても,その語の音形を微に入り細を穿って描きだすのではなく,その音形を思いおこせばこと足りるのである.したがって,音声学に基づく発音符号は,音声を記述するのが目的で,語を写すことを目的としないので,文字ではない.なお,中国の古典に『易経』というものがあり,その中の「繋辞伝」という篇に,八卦の効用を述べた孔子の言として伝えられる文の中に,「書不尽言,言不尽意」(書ハ言ヲ尽クサズ,言ハ意ヲ尽クサズ)という言葉がある.書は文字のことであり,言は言葉のことであるが,誠に言いえて妙である.文字では音声の委曲を尽くせないし,言語では言わんとするところを尽くすことができない.文字と言語の本質を突いた名言である.
さて,文字化を受ける言語はどんな言語であるか,という問題も,文字論にとって重要な課題である.文字によって書かれる言語は口頭で話される言語とはいろいろな点で相違している.それは,基本的には,音声が発音の瞬間に漠然たる音表象を残して消え去るのに対し,文字には紙や木あるいは石の書写材料に残されるという,恒久性があるという違いに基づくのであるが,この違いは,音声言語と文字言語の社会的機能の相違の基礎になる.すなわち,音声言語は直接的伝達に役立つが,文字言語は間接的伝達の役を引き受ける.そして文字による間接的伝達は,複雑な社会では音声言語よりも遥かに広範に利用され,その伝遠の種別も多様である.
このような社会的機能の相違は,当然,音声言語と文字言語の質的相違をもたらす.その相違が,「口語(spoken language)」と「文語(written language)」の相違となって現われる.この文語と口語との関係については,「文語」の項において述べる.
なお,文字によって書かれた記録についての学問,仮に記録学とでもいうべき学問も当然考えられてよい.この学問の中では,文献学や古文書学が中核となるであろう.文字論は当然この学問と密接な関係をもつはずである.
なお,文字によって書かれた記録についての学問,仮に記録学とでもいうべき学問も当然考えられてよい.この学問の中では,文献学や古文書学が中核となるであろう.文字論は当然この学問と密接な関係をもつはずである.