「……なるほどね。話は分かったよ」

 ――渋谷区・代々木公園。
 楪依里朱は、天枷仁杜の話を聞き終えて静かに足を組んだ。
 仁杜がたどたどしく、時折高天小都音伊原薊美に助け舟を求めながら話した内容は、概ね先の電話の内容に毛の生えた程度のものだ。
 この世界の神、無邪気な太陽。神寂祓葉を倒すための共闘戦線を結ばないかという旨の話。
 だが同じ話をするだけなら、わざわざこうして顔を合わせる必要はない。事実、その話には先があった。

「あんた達はあのバカ……祓葉を倒すまで、時と場合に応じて私に力を貸す。
 代わりに私は、あんた達が道半ばで脱落しないように情報と、同じく場合によっては力を提供する。うちの〈蝗害〉を仕向けることもしない。
 祓葉を討った後はそのまま敵対で構わない。纏めると、ざっとこんなところ?」
「あ、うん。えへへ……いーちゃん、頭いいんだね……」
「あんたが言うと煽りにしか聞こえないから黙ってて欲しいわ」

 呆れたように嘆息する、イリス。
 ご機嫌を窺うようににへにへ笑っている仁杜。
 そのふたりを見守りながら、小都音は薊美と視線を合わせた。
 薊美は小さく唇を噛む。言葉はないが、これだけで意思疎通はできた。

「で、結論だけど」

 そして事は、彼女達の危惧した通りの方向に進む。


「雁首揃えて全員阿呆かよ。この話に頷く奴なんていると思って言ってんの?」


 そう――これだ。

 イリスには、明らかに仁杜の熱弁が響いていなかった。
 理屈ではない。まず感情が、圧倒的に自分達へ否を唱えている。
 理性でなく衝動。理屈でなく感情。楪依里朱は精神の青さ故に、時に数式を無視する。

(……苦手なタイプだな。こういう人って、何話しても聞いてくれないから)

 薊美は内心でそう嘆息した。
 話し合いというのは、その場の両方に相手の話を聞く気があって初めて成立する営みだ。
 逆に言えば、どちらか片方でも端から聞く気がないのなら、話し合いは成り立たない。
 今のこの状況は、まさにそれ。楪依里朱には、最初から交渉などする気がないのだと、この時点で仁杜以外全員が理解していた。

 順序立てて説明し、互いが得られる利益を言って聞かせ、アピールする。
 なのに示したデータを無視して、お前の態度が気に入らないから却下、と対話を拒否されては意味がない。
 イリスは、そういう類の人間だった。喫茶店で見た時も直情的なタイプだとは思ったが、想像よりも悪い。
 こんな癇癪持ちみたいな女が〈蝗害〉を従えているなんて何の冗談だと、薊美は改めて気の遠くなる思いになる。
 魅了を使ってもいいが、失敗したらすべてが終わりだ。よって薊美には、静観以外の択がない。

「そもそも私は、祓葉を倒すのに助力なんて求めてない。今も昔もね。
 そこのニート女が勝手に早合点して知った口で這い寄ってきたってだけ。議論の前提がまず成立してないでしょ」
「だ、だからそのために今わたしのキャスターが頑張って……」
「ああ、確かにちょっとは保ってるみたいね。
 で? それが? 私が今ここで令呪でアイツを呼んだら、あんたの大事なお友達は一瞬で肉塊だけど?
 この場は私の気まぐれと厚意で成り立ってること、調子に乗る前に少しは考えたらどう」
「え、えぇ……。それは流石に論点がずれて――」

 仁杜達の最大の誤算。
 それは――魔女の癇癪を見誤っていたこと。

「あ?」
「ひぃっ! な、なんでもないです……あっ……食べたいものとかあったら買ってくるよ……へへ……エヘヘ……」
「なんでもなくないでしょにーとちゃん! 何のために此処まで来てんのさ……っ、ああもう……!」

 このままでは埒が明かない。
 見かねた小都音が、揉み手をし出した仁杜を押しのけて交渉のテーブルに出る。
 イリスの眼光が、面倒臭そうにそれを射貫く。
 本物の殺意というものに縁のない日々を送ってきたからこれだけでも背筋が冷えるが、此処で退いてはいられない。

「……あのさ、イリスちゃんだっけ」
「そうだけど。今度は何?」
「あなたは今ああ言ったけど、確かににーとちゃんの言う通り論点ずらしだよね。
 本当はちょっと焦ってるんじゃない? 予想じゃもう今頃、全部キャスターを片付けた〈蝗害〉が戻ってくる筈なのに……って」
「……、……」

 実際、当たらずも遠からずだろうと小都音は踏んでいた。
 〈蝗害〉。東京を脅かし、あの神寂祓葉とも単独で勝負ができたという厄災。
 それがまだ、この代々木公園まで帰投できていない。仁杜のキャスターを……ロキを、倒せていない。
 その事実を寄る辺に、仁杜とは違う、攻撃的な交渉を試みることにした。

「分かるでしょ。こっちには、私と伊原さんのサーヴァントが控えてる。
 一度戦ったんだから、決して油断できる相手じゃないってのは把握済みのはず」

 ライダー、ジョージ・アームストロング・カスター
 そして小都音のセイバー、トバルカイン
 彼らが霊体化もせず姿を晒している理由は、言うまでもなくこの魔女への牽制だった。

「もし本当に戦いになったら困るのはあなたの方だって、ちょっと考えたら分からない?」
「舐められたものね。一回見たサーヴァントに、もう一度不覚を取ると思われてるなんて」
「確かにそうかもね。でも、にーとちゃんのキャスターが想像より強すぎたっていうのは図星でしょ?」

 もちろん、理想はイリスを懐柔できることだ。
 行動を共にする同盟なら一番いいが、協定だけ結ぶ形でも構いはしない。
 だがそれが成らなかった場合、次善の策を取ることを辞してはいられないと小都音はもう理解している。恐らく、薊美もそうだろう。
 すなわち――この場での、楪依里朱の排除。
 対祓葉のアテを失うのは痛いが、〈蝗害〉を潰せればそれはそれで間違いなくプラスだ。

 そのためのカスターとトバルカイン。
 無論、イリスも何か手立ては用意しているのだろうが……流石に〈蝗害〉の直接的な助力なくして、この二体を捌くのは現実的ではない筈。
 射撃と斬撃。二種の手段で、魔女の手を奪い封殺することを既にこちらは考慮に入れている。
 なんだかんだで友達思いな仁杜は難色を示すだろうが、こればかりは背に腹は代えられない。
 だからこうして強く出ることもできるのだったが、イリスの難物さはやはり予想の上を行っていた。

「――ニートの方がマシだわ。雑魚の囀りは、もっと聞く価値がない」

 尖る眼光。
 刹那、白黒の色彩がイリスの座るベンチの周りを囲うように現出する。
 小都音と薊美が、目を見開いた。発する言葉は、言うに及ばず。

「セイバー!」
「ライダー、撃ってください」
「ふむ。致し方ないな!」

 最初に動いたのは、カスターであった。
 躊躇なくその手に握ったライフルを、イリスに向けて発砲する。
 されど、防御無視の領域は展開されていない。
 イリスは弾丸を白黒の膜で受け止め、その場でゴマ粒ほどのサイズまで押し潰してしまう。
 次いで、間合いに迫ったトバルカインの斬撃へつまらなそうに目を向けた。

「珈琲屋の時も思ったがよ。黙って聞いてりゃずいぶんムカつく餓鬼だな、お前。腕でも落とせばちょっとは殊勝になるか?」
「英霊の癖にヤクザの真似事? お里が知れるわ、祓葉(アイツ)にまるで届けなかったヘボ剣士が」

 弾丸を防ぎ終えた膜が、槍衾を描けば即席のブービートラップと化す。
 トバルカインはこれを、太刀の一振りで両断。
 しかしその矢先に待ち受けるのは、総数にして千へ及ぶ、ボール状に成形された色彩の雨霰だった。
 一球一球が鉄球を遥かに凌駕する重さと密度を持つそれの乱射は、機関銃の掃射に数倍勝る威力を秘めている。

「チッ。大口叩いといてシャバい真似してんじゃねえぞ、魔女気取りのクソガキが」
「理解しなよ。私にわずかでも"止められてる"時点で、逆立ちしたってあの女には届かないって」

 トバルカインには、一撃たりとも直撃はしていない。
 ただ、足を止められていることは確かだ。
 彼女は殺人のエキスパート。人を殺すということにかけて、原初の鍛冶師はこの上なく長けている。
 それでも、白黒の魔女は既に人間が到達できる点を超えている。
 下手な英霊ならば彼女に勝てず。優れた英霊でもこの通り、その無法に等しい手数と出力は決して油断のできない脅威として君臨する。

 そしてイリスに言わせれば、その時点で駄目なのだ。
 自分如きに止められている時点で、祓葉へ挑むには到底能わない。
 レミュリンのランサーもそう。今まさに死合っているセイバーもそう。

「さて。これはもう"その気"になっていいと見るが、構わないねお嬢さん方」
「やってみろよ。できないから」

 国は日本、処は代々木公園。
 百年余りの年月を超えて異国の地に顕現する、悪名高きソルジャー・ブルー。
 放たれる一斉射撃は、しかし全長数百メートルまで肥大化した白黒の壁にすべて阻まれる。
 ――この騎兵隊(ライダー)もそう。イリスは足を組んで座ったまま、不機嫌そうにため息をついた。

「まあ、確かにこのまま戦い続けてたらいつかは私が押し負けるでしょうね。
 けど、それはぜんぜんそっちの優位を証明しないってことは理解できてる?
 私がその気になれば、今すぐにでも此処に〈蝗害〉を呼び寄せられるけど?」

 令呪の行使に必要なものは、腕と、そして声。
 このふたつが揃っていれば、事が済むまで最速で一秒とかからない。
 では目の前の英霊たちは、自分にどれだけの時間を与えているのか。
 この間で〈蝗害〉を呼んでいたら、とっくのとうに此処は地獄に変わっている。
 猪口才にも己へ言葉を弄して挑んできたこいつらは、ひとり残らず蝗の餌になって死んでいる。
 それこそ、敗北を認めて。同じように令呪を使い、尻尾を巻いて逃げ出しでもしない限りは。

「いい加減分かれよ。あんた達は前提も、身の程も、話し合おうとする相手も、全部間違えてる」

 楪依里朱は、端から助けなど欲していない。
 神寂祓葉は殺す。だがその使命は、自分だけのものだ。この未練は、己が向き合うべき宿業だ。
 そこに矛盾を指摘することは簡単だ。しかし、イリスはそれを聞き入れない。
 彼女はどこまでも幼く、青く。そして――狂っているから。

 道理でなく、理屈でなく、ただ感情。
 間違いだらけの交渉の席は当然のように破綻する。
 少々の不測の事態など、そうか、それで?と飲み干しながら。
 月の眷属達の狙いは成就することなく、静かな崩壊を喫し始め……

「――――――」

 ……る、かと思われたその瞬間。
 イリスの表情が、一瞬、確かな驚愕に染まった。
 理由は彼女以外知り得ない。脳内に響く、厄災の総体意思の言葉を聞けるのは主である彼女だけだから。

「あの、クソ虫……!」

 この世界の神たる、白い少女と勝手に殺し合った時でさえなかった要望。
 令呪を寄越せという声に、状況を問い質すのも忘れる衝撃を覚える。
 数秒の間を置いて、魔女の腕から消える一画分の刻印。
 その消失を、白黒の隙間を縫って天枷仁杜が目撃し、彼女がそれを言葉にして追及するまでの一瞬を更に縫って。


「――――楪ッ!!」


 代々木公園に響いた、新手の少女の声。
 響く羽音、重なる不穏と状況の変化。
 新たな役者の登場を経て、魔女と月の交渉は予想を超えた混沌に突入していった。



◇◇



 連戦連勝、常勝不敗。
 豪放磊落にして質実剛健。
 理想の国(テーバイ)の名を真に偉大たらしめた大将軍。
 エパメイノンダスの出陣を、現代へ顕現したニブルヘイムの主はただ冷めた視線で迎えた。
 それだけで次の瞬間、英雄の惨死が確定する。
 敗北を知らぬ将軍が、轟いた衝撃に為す術もなく血反吐を吐いた。

「ご、は……ッ!?」

 起きた事象はただひとつ。
 英霊でさえ反応できない、回避を勘に委ねるしかない次元の速度で迫った槍が、展開した神聖の盾諸共に彼を跳ね飛ばした。
 それだけだ。しかし間違いなく、この一瞬がエパメイノンダスにとっては聖杯戦争始まって以来最大の死線だった。
 地に膝を突き、転がり、ようやく起き上がったところで初めて自身の喀血に気付く。
 異邦の大神が愛した神槍の一撃を受けて命を保っている自体で驚愕モノの話であることは言うまでもないが、この男が半ば不意打ちとはいえこうも痛ましい姿を晒している事実に、その真名を知る者は皆驚いたことだろう。

「……おいおい、マジか。俺なりに覚悟を決めて出陣(で)てきたつもりだったが、こりゃちと想像以上だな」

 エパメイノンダスが命を拾えた理由は、神の一撃に匹敵する不意打ちに対しても反応の追い付く、鍛え上げられた戦闘勘。
 そして――彼が此処へ出てくる際に受けた、"とある人物"の施しのおかげだった。
 どちらか片方でも欠けていたなら、今の一瞬でテーバイの将軍の命は散っていた。
 未だに整わない息と、隕石の直撃でも受けたみたいに抉れた周辺の大地の有様がそれを証明している。

「そうつれない態度取らないでくれよ。俺もそれなりには名の知れた武人、英雄ってやつだぜ。なあ、お二方よ!!」
「――はあ。嫌なんだよなあ、空気の読めないオッサンって。ハンマー振り回すしか能のねえアホを思い出すからさ」

 前髪をかき上げながらうんざりしたように言う、金髪の青年――ロキ。
 彼のことをエパメイノンダスは、ひと目で神、もしくはそれに準ずるモノと判断した。
 佇まいに滲み出る風格。肉体のひ弱さだけで侮らせない、世界に落ちた滲みのような存在感。
 なるほど道理で、"アレ"と張り合えるだけのことはある。そして続き視線を向けるは、追っていた標的の姿。
 ツナギに身を包み、フードで目線を隠した……無量の軍勢を背に立つ、バットを構えた男であった。

「で、どうするよ〈蝗害〉。何か新手が入ってきたけど、尻尾巻いて逃げ帰るかい?」
「冗談だろ。ようやく面白くなってきたところじゃねえか、それに役者が増えるってのはいいことさ」

 歯を剥き出して笑う有様、一言――獰猛。
 仮に前知識がなかったとしても、彼が〈蝗害〉であることはひと目で理解できただろう。
 そう断ぜるだけのものが、その男にはあった。
 二体の敵を視認し、形容を終えて、エパメイノンダスは笑みを崩さぬまま一滴の汗を伝わせた。

(こりゃあ、難敵どころの騒ぎじゃねえな……)

 化け物だ、どちらも。
 スケールが違う、則る道理のカタチが違う。
 端的に言って両方、まかり間違っても現世にまろび出てきていい存在ではない。
 さしものエパメイノンダスも、冷や汗を流すことを禁じ得ないほどの難敵。
 これを相手に戦いを演じるなど、もうそれは台風や津波のような災害を相手に陣を敷くようなものだ。
 常勝の将軍をして謙遜抜きにそう思う。思いながら、彼は"協力者"へと念話を飛ばしていた。

 マスターに対するものとは形式(フォーマット)の違う会話だ。
 鎧の内に仕込んだ人型の紙人形、それが通信機の役割を果たして意思伝達を繋げてくれる。
 名も顔も素性も知れない何某かへと、エパメイノンダスはさりとて猜疑心なく声を届ける。

『何か読めたことはあるかい、ご老人』
『――頭が痛いわ。幻術士の類とは思っとったが、こりゃちぃと想像を超えとるぞ』

 脳裏に響くのは、老人の声。 
 この何某かは、エパメイノンダスへ件の紙人形を飛ばして接触を図ってきた。
 余分な情報を与えたくなかったため、そのことはマスターである河二達にも詳細には伝えていない。
 だがエパメイノンダスは、その判断は迂闊ではなかったと確信している。 
 更に言うならこの紙人形が、東洋は陰陽道にて用いられる"式神"の類であろうことも、察しを付けていた。

『目の前の生きもんを騙すだけなら学べば誰でもできる。
 じゃが、世界そのものを騙すとなればそりゃ最早この世にあっていい存在じゃあないわな。
 極楽浄土も地獄絵図もあのパツキン男の意のままっちゅうことよ、こりゃやってられん。普通に考えたら、まあ勝ちようがないわ』
『なるほど、難儀な話だな。で、俺はどうすればいい?』
『――"信じるな"。飛蝗めの方はどうにもならんが、色男の方は単に幻を見せてくるだけに過ぎん。
 頑なに目の前の光景を信じず立ち向かえば多少は威力が萎える。まあそれでも無策に受ければ死ぬがの、わははははは!』
『ふむふむ、理解した! ではそのように挑ませて貰うとするか……!』

 世界を騙す幻術。
 理不尽極まりなく、端的に言って馬鹿げている。
 そもそも普通はそこに達せもせず死ぬのだが、エパメイノンダスは自身に舞い降りた幸運を誇りもしない。
 戦いとはただ目の前にある事象との対話である。思考を尽くし、言葉を尽くし、そして働きを尽くし押し通るもの。
 であればこそ既に準備は万端。後は挑み、戦い、生きるか死ぬかを占うのみ。
 口元の血を拭い、盾を展開したテーバイの将軍が、暴食の厄災と偽りの全能者が競う戦場へ堂々身を投じる。

「ま、いいや。予定にない展開だけど、全員殺せばあの子も大喜びでしょ」

 ぱん、ぱん。
 手を叩く、ロキ。
 瞬間、その両隣に神話が顕現する。

「ってわけで、オーダー、全殺し。頼んだぜ狂犬、そして親友」

 顕れたのは、二体の猛獣であった。
 片や狼。千切れた鎖を四肢からだらしなく垂らし、涎を滴らせながらルビー色に血走った眼光を煌めかせる狂える狼。
 片や蛇。ビル群をその蜷局の内に収め、長い舌を伸ばして不気味に蠢く死の象徴めいた蛇。
 この場に北欧の神話と縁ある神ないしそこに出自を持つ英雄が居たならば、慄くかそうでなくとも目を見開いて驚いたに違いない。

 フェンリル。
 ヨルムンガンド。
 北欧最凶の狼と、北欧最大の蛇。
 その二体を、眼前の奇術師(キャスター)は大袈裟な準備など何ひとつ挟むことなく、まるで布の中から鳩を出すように呼び出してみせたのだから。

「■■■■■■■■■■■■■■■■――――――!!!!!!」

 轟く、白狼の咆哮。
 物理的破壊力さえ伴って響くバインドボイスは、エパメイノンダスに盾を前方展開しての防御を決断させるに十分だった。
 護りに徹さなければ冗談抜きに、今の一吠えだけで身体のどこかが砕け散る。
 しかし一瞬でも足を止めたことの代償は、振るわれる蛇の巨体が身を以って支払わせる。

「ぐ、ぅッ……!」

 尾を用いての一薙ぎ。
 それだけで受け止めた盾が軋みをあげ、炸裂した衝撃だけで吹き飛ばされそうになる。
 されど忘我を晒している暇はない。牙を剥いて涎を滴らせたフェンリルの突進を受ければ、これどころの被害では済まないと理解していた。

「つくづく手荒な歓迎だな……! 良し、出し惜しみをしている場合ではないと得心した!」

 元より此処に出てきた時点で覚悟の上だったが、やはり手の内を隠しながら戦える相手ではない。
 エパメイノンダスは一切の温存を止め、自分に出せる総力をこの戦いに投入することを即断する。
 迫る白狼の爪、英霊だろうと掠めただけで三枚に卸すであろうそれに臆することなく槍を構え。
 その眼がカッと見開かれた瞬間、将への行く手を阻むように百を超える盾と槍が現出した。

「いざ来たれ、戦の時間だ! 過酷だろうが笑って行こうぜ――――そうだろ、お前らッ!」

 比率は150対300。
 単一の英霊が持てる域を優に超えた、一個隊クラスの兵力がエパメイノンダスの鬨の声に呼応して、神話の戦場へと列び立つ。
 彼らは三百から成る軍隊。ただし1×300ではなく、2×150、つまりは二人一組で互いを守り合いながら勝利を目指す愛の戦士達。
 愛という神聖なる感情が力を引き出す、そんなロマンチックな合理性でテーバイに栄光をもたらしたエパメイノンダス自慢の同胞。


「さあ、お前たちの愛を今一度俺に魅せてくれ。――――いざ共に行かん! 『神聖なる愛の献身(テーバイ・ヒエロス・ロコス)』!!」


 応、と雄々しく応える代わりに、その無数の盾は陣形を組んでフェンリルの爪を受け止めた。
 いくらかの後退は余儀なくされたものの、それでも防ぎ切ってみせたことは揺るぎない事実。
 更に防いだだけでは終わらず、白狼討伐という無謀とも呼べる目標に果敢に挑み、槍で鎖付きの神獣を突き刺し攻めていく。

 無数の武器と防具が独りでに動いて、現代に存在する筈もない巨大な狼と戦いを演じている様は異様そのもの。
 しかし、寄り添い思いやりながら攻めと守りを巧みに織り成すそれらの背後には、神聖隊の益荒男達の姿が透けて見えるようであった。
 神話の狼獣の毛皮を破って血を噴出させるテーバイの強きつがい達。
 苛立たしげな唸りをあげながら地を蹴りビルの壁面へ跳んだフェンリルの姿が、彼らの奮戦が無謀ではあれど無駄ではないと暗に証明する。

「へえ」

 その光景を見て、ロキは小さく眉を動かした。
 彼は世界さえ手玉に取って騙し抜く生粋の奇術師。
 故に当然、神聖隊の奮戦を支える道理が何かはすぐさま察せた。

「伊達に英雄名乗ってないか。いや、それとも後ろのブレインが有能なのかな?」

 ――道理で考えて、本物のフェンリルを相手にたかだか連携と陣形、結束程度でどうにかなるわけがない。
 だがロキが取り出した二匹は、あくまでも彼が宝具を用いて生成した幻術。幻の神獣に過ぎないのだ。
 それでもタネが割れていなければ、その力、規模(スケール)は本家本元にも肉薄した脅威として君臨する。
 なら逆に言えば、だ。幻を幻と見抜き、偽物と分かって挑むことができるのならば、これは神獣になど遠く及ばぬ影絵に過ぎない。

 エパメイノンダスは、"協力者"の助言によって既にウートガルザ・ロキの術を幻の類と看破している。
 将軍の認識はすぐさま部下である神聖隊に情報として伝達、共有され、結果として愛し合う彼らもまたロキの手品に耐性を得られるわけだ。
 だからこそ成り立っているのが、テーバイの神聖隊と北欧のフェンリルの対峙という夢の対戦カード。
 夢幻など恐れぬ大将軍の精神力は、本来なら即死級の現実湾曲にも等しい大幻術の効力を著しく削ぎ落としていた。

「臆するな、所詮は幻! 触れりゃ少しは痛むだろうが、それでビビる俺達じゃあねえ! そうだろッ!!」

 彼もまた、部下に負けじと前へ出る。
 無論蛮勇ではなく、そうした方が勝率を引き上げると踏んでの行動だ。
 ビル壁から飛び掛かったフェンリルの突進を盾で受け止め、腕が千切れそうなほどの衝撃に奥歯を噛み締めながらも、槍をクロスカウンターの要領で突き出してフェンリルの右耳を抉り取る。
 その上で、エパメイノンダスは自身を襲う衝撃のベクトルに逆らうことなくあえて吹き飛ばされた。
 そうすることで、後ろに控えていた十数の槍持ちと入れ替わり(スイッチ)、フェンリルへの間断ない攻撃を可能とする。

「■■■■ッ……■■■■■■■■■■■■――――――!!!!!!」

 しかし敵は幻なれども、神をも恐れぬ最凶の狼。
 槍で数十度突いた程度では倒れず、それどころか更に怒り狂うばかりだ。
 響く咆哮が槍を蹴散らし、盾を押し止める。
 続く剛爪は、槍持ちと将たるエパメイノンダスを守るべく立ち塞がった幾つかの盾を、文字通り引き裂いて粉砕した。

 ――悲劇の一瞬。だが、相棒を失った兵士達は曇らない。

 砕け散った盾と恋仲(ペア)であった槍の数本が、猛烈と言っていい勢いで吶喊を敢行したのだ。
 その一撃は、端的に言って自身の生存を念頭に置いていない。それどころか考慮すらしていない。
 まるで後を追おうとするような。命に代えても仇を討つという、高潔なる覚悟の念さえ窺える槍撃が十重の方向から同時に轟いた。

「覚えておけよ犬ッコロ。神聖隊に訪れる死は、決して愛し合うふたりを分かたない!」

 限界を超えた代償として、件の槍達はひとつまたひとつと自壊していったが。
 自我も歴史も持たないただ強いだけの猛獣には、彼らの己を顧みない突撃はちゃんと効いた。

「■■■■■■……!」

 確かに漏れた苦悶と、口元から溢れる疲弊由来の涎。
 その一瞬をエパメイノンダスも、彼の同胞達も決して見逃さない。
 再び大きく目を見開いて、仲間との離別にも凹まず挫けず、将軍は声を張り上げた。

「生で結ばれ死で導かれた魂は、必ずや共に安らぎの楽園(エリュシオン)へと旅立つのさ。
 だが、尤も! 仲間に先立たれた俺達は、奴らの無念を胸に抱き続ける! それはそれ、これはこれ、ってなァ!!」

 自らも再び突撃する。
 口から漏れた血は袖で拭う。
 気にするな、気にするな!
 痛みは後から悶えればいい――勝って終わればそれさえ笑い話で、酒の肴さ!

「ぜぇぇぇぇぇえ、やぁぁぁぁぁあッ!!」
「■■■■■■■――!!!」

 咆哮の中を縫いながら、神聖隊の白狼狩りは正念場を迎える。
 本気で抵抗するフェンリルの爪がエパメイノンダスの肩口を裂いた。
 しかし浅い。負傷を考慮せず前線に立つ将軍が何処にいる。
 どうせ傷を負うなら、それが最小限で済むようにと常に思考を回しているに決まっている。
 だからエパメイノンダスは簡単には死なない。だから、彼は勝ち続けてきたのだ!

 猛進、猛追、猛撃、猛攻!
 神聖隊は崩れない。獣狩りの術など心得ている!
 あがくフェンリルの爪牙は盾が防ぎ。
 暴れるフェンリルの余力は槍が削り。
 そして陣形の維持は、常に将が担い続ける!

 盾がまた幾つか消えた。
 槍が奮起して突撃し、白狼の脚や腹を貫いた。
 傷口から溢れた臓物を速やかに無数の槍が切り取って断絶させる。
 エパメイノンダスの槍が、高らかに狼の右の眼窩を抉った。

「■■■……■■■■■■……■■■■■■■■■■■■■■■――――!!!!!」

 あげる咆哮は、苦悶か嚇怒か、あるいはその両方か。
 フェンリルが、槍衾と化すのにも構わず身を低く構える。
 目鼻口から蒼白い炎を噴き出しながら、血塗れの身体でそうする姿は鬼気迫る。
 突進の構えだ。獣とは、どいつもこいつも死に際が何より恐ろしい。
 まがい物なれど神獣であれば脅威度は一層引き上がる。
 事実この白狼は驚くべきことに、得体を看破され、四肢を貫かれ、内臓を撒き散らしても尚、この段階から神聖隊の八割以上を消し飛ばせるだけの破壊力を宿していた。

 幻だろうが、フェンリルである以上その本気は神速に達する。
 エパメイノンダスは、神聖隊は、防ぐしかない。しかし防げば隊は総崩れになる。
 燃える隻眼に殺意の眼光を灯し、フェンリルは最後の一撃を放つべく地を踏み締める。
 伸るも反るも破滅の崖っぷち。そんな状況で尚、エパメイノンダスは――笑うのだ。

「お膳立ては十分だろ。……やってくれ、爺さん」
『おうよ。見事な働きじゃい、希臘人の小僧』

 エパメイノンダスの声に、応える者がある。
 次の瞬間、風に吹かれた一枚の紙が、今まさに最後の一撃を放とうとしていたフェンリルの額に触れた。
 陰陽道の式神。そう気付く知能が幻の白狼にあったかどうかは定かでないが、結論から言うと、そこはさして重要ではない。


『狗は嫌いじゃないがの。だからこそ一思いに殺してやるのもまた慈悲よ――――急々如律令』


 老人の声が、エパメイノンダスの脳裏に響くと共に。
 貼り付いた式神が、真紫の色彩を放ちながら、小規模ながら絶大な威力の爆発を引き起こしたのだ。
 爆風は抉られた片目を通じて脳内に雪崩込み、瀕死の白狼から命も思考も奪い去る。
 結果、神聖隊を壊滅させる終末の一撃は放たれることなく、偽りのニブルヘイムに現界したフェンリルは息絶えて消滅した。
 獣狩り、これにて完遂。額の汗を拭って、エパメイノンダスがもうひとつの戦場を睥睨する。


「……参ったな。"小手調べ"でこれか」

 そう――彼は分かっている。
 あの金髪のキャスターにとって、フェンリルなど片手間に仕向けた刺客でしかないこと。
 なのに、エパメイノンダスは既に血を流し、神聖隊の同胞を複数失っている。
 "協力者"の助力がなければ、最後の一撃で死んでいた可能性だって否定はできない。
 たかが小手調べ、牽制で、これなのだ。事態は正直、予想を超えていたと言わざるを得なかった。

『わはは、心が折れたか? ならば早めに言ってくれい。そしたら儂も退くんでの』
「指示出しと援護だけに徹しておいてよく言うぜ。あんたが直接出てきてくれれば、俺ももうちょい安心できるんだがな」
『そこまでしてやる義理はないわ。何せ、儂は幻術男よりもあの虫螻どもとの相性が最悪なんでな。
 なぁに、安心せぇ。時が来て、かつ勝算がありそうなら、その時はちゃあんと本気で力添えしてやるから』
「……胡散臭えが、今は信じるしかなさそうだ。俺を悲しませないでくれよ、ご老人!」

 実際に実力の片鱗を味わって確信した。
 あの"幻術使いのキャスター"は、やはり〈蝗害〉と肩を並べる最強格の脅威だ。
 今こうして自分が生きていることすら、彼らの気分がたまたまこちらの抹殺に向いていないからというだけに過ぎない。
 そう思い知りしながら、それでも闘志を消さない異邦の将軍に、姿の見えない老人は呵呵と笑って続けた。

『お前さんの言う通り、奴らの本領はまだこの遙か先よ。
 稚い神が後先考えずに始めた蠱毒の弊害、もしくは抑止の連中が差し向けたせめてもの抵抗勢力。
 だがいずれにせよ、連中が美味い空気吸ってる内は儂らに未来なぞありゃあせん』

 今更臆する繊細な神経は持ち合わせていない。
 エパメイノンダスは、焚き付けられるまでもなく戦いを続ける気だ。
 その奮戦が、勇気が、何かを変えるか否かは賽の目次第。
 しかし挑むと決めた以上は、確かなことがひとつだけ。

『心せぇよ、ランサー。お前さんはこれから、もう一つ下の地獄ってもんを見ることになる』

 幻のニブルヘイム。
 死の世界の王と、理喰らう虫螻の王は、共に健在。



◇◇



 その乱入は、彼女達以外誰しもにとって予想外の展開だった。
 無論、それは白黒/蝗害の魔女、楪依里朱も例外ではない。
 自分の名を呼んだ少女、過去に一度見たことのあるその顔へ訝しむように眉を寄せているのが証拠だ。
 息を切らし、されど瞳には確固とした使命感を滲ませて立つ女。彼女の名を、イリスは確かに知っていた。

「琴峯、ナシロ……」
「おう、そうだ。覚えててくれたとは光栄だな、蝗害の魔女サマ」

 琴峯ナシロ
 イリスは学校にも、そこへ通うクラスメイト達にも微塵の興味も持ってはいなかったが。
 ナシロのことだけは、微かに記憶にあった。というのも彼女とは、顔を突き合わせて揉めたことがあるから。
 もっともイリスにとってナシロの印象は、よくいる世話焼きを拗らせた傍迷惑な偽善者以上でも以下でもなかったのだが――
 それも、この瞬間までだ。見慣れない少年を連れ添ってこの代々木公園に現れた彼女が、一体何者なのか。考えるまでもなく分かる。

「……馬鹿みたい。あいつ、手当たり次第にも程があるでしょ。
 こんなクソウザい味噌っかすにまで令呪配って、一体何がしたいんだか」

 琴峯ナシロもまた、聖杯戦争のマスターである。
 〈古びた懐中時計〉を与えられ、令呪を配布され、運命線上に迷い出た器のひとつ。
 が、彼女はイリスにとって、決して大きな価値や意味を持つ存在ではなかった。
 単なるクラスメイト。事の道理も知らない、言葉を尽くす価値もない凡人。ありふれた馬鹿。それだけである。

「で? 級友思いの琴峯さんは何しに来たの。もしかしてまた御高説でも垂れてくれるわけ? 人の気持ちがどうとか、対等がなんとか」
「お前の〈蝗害〉を今すぐ止めろ」

 言葉と共に、ナシロはその手に武装を顕現させた。
 否、顕現ではなく投影だ。魔術師であるイリスには、それがすぐに分かる。
 投影されたのは、黒い投擲剣。黒鍵と呼ばれる、代行者の得物(シンボル)。

「街の真ん中で何やらかしてるんだ、お前。その癇癪で一体何人死ぬと思ってる……!」
「……まさかとは思うけど、本気でそんな世迷い言垂れに来たの?」

 は、と、鼻で笑うイリス。
 心底呆れた様子で目を細め、小さく息を吐く。
 "らしい"ことだとは思うが、あまりの馬鹿さに憐れみすら覚えた。

「だったら答えはノーよ、ノー。
 シスター様のクソ下らないボランティアに付き合ってる理由はないから、さっさとケツまくってお引き取り願える?」
「……一応聞くよ。なんとも思わないのか、お前は。これだけのことをしておいて」
「思わない。というか逆に、あんた達は本気で無辜の犠牲とやらにいちいち心痛めて戦ってんの? だったらそんな馬鹿げた話もないと思うけど」

 返ってきた言葉は、悲しいくらいに予想通り。
 楪依里朱ならこう答えるだろうなという答えが、想定と一言一句違わず返ってきた。
 ぎり、と奥歯を噛み締め、黒鍵を握り締める手に力が籠もる。
 同時に、この女は本当に、何ひとつ自分の常識が適用できない人間なのだとそう理解した。

「悲しい奴だな、お前は」

 挑発でも、皮肉でもない。本心だ。
 ナシロだって、少しは希望を持っていた。
 もしかすると、実際に言葉を交わせば譲歩の余地も見つけられるのではないかと。
 級友のよしみというわけではないが、そんな可能性だって捨てたくはないと思って此処に来た。
 自分も彼女も同じ人間なのだから、立場は違えど通じ合える部分はどこかにあるかもしれない。
 ナシロは、そういう期待を捨てきれない、善性の徒であった。
 が、その期待はあまりに身も蓋も、人の心もない返答でにべもなく切り捨てられた。

「お前は、この世界で生きる人達の顔を見たことがあるか?」

 ナシロは、見たことがある。
 毎日、教会を訪ねて祈りを捧げる人々の顔を見てきた。
 琴峯教会のシスターとして。そして、この都市へ悲劇をもたらしている元凶のひとりとして。

「あの人達は、みんな私達と同じだ。
 誰もが嬉しかったら笑って、悲しかったら泣くんだよ。
 断じてお前の思ってるような、機械みたいな人形なんかじゃないんだ」

 日々悪化する治安と、緩やかに変わっていく日常に怯える顔を覚えている。
 私達が悪いことばかりするから、神さまが怒ったのかしらね。そう言って目を伏せた馴染みのおばさんの顔を覚えている。
 そういうものが今も脳裏に焼き付いて離れないから、ナシロはこうして、魔女に怒っているのだ。
 そして求めているのだ。〈蝗害〉を止めろと。戦争に臨み願いのために戦うのは勝手だが、罪もない誰かを巻き込むんじゃないと。
 しかしその訴えは切り捨てられた。楪依里朱にとってこの世界の民は、日常は、単なる戦争の背景でしかないのだと思い知らされた。

「もう一度言うぞ、楪」
「……、……」
「飛蝗どもを止めろ。はいと言わないなら、私は何をしてでもお前の首を縦に振らせてやる」

 射殺すような眼光で、再度求めるナシロ。
 が――彼女とて、気迫で魔女が怯えてくれると信じているわけではない。
 その証拠に視線が動く。向かう先は、高乃河二。この公園を共に訪れた同行者。
 河二は静かに、二回瞬きをした。事前に決めておいたサインだ。
 ナシロが視線を向けた時、状況が"どうにかなりそう"なら一回。逆に"芳しくない"のなら、二回。
 マスター同士で念話は行使できない。故に、こうして意思伝達のサインを決めておく必要があったのだ。

(……並のサーヴァントなら、琴峯さんのアサシンでどうにか押し通ることもできると思っていたが……)

 高乃河二。
 彼の注意は、主に二体のサーヴァントへ向けられていた。
 片方は、如何にもアメリカ人といった顔立ちと種別の笑みを浮かべ、ライフル銃片手に佇む偉丈夫。
 ステータスで言えば河二のランサーよりも全体的に低く、宝具次第ではあるものの、まだ承服できる範囲のリスクだ。
 問題は、もう片方。褐色肌で、背の低い。体格だけで言うなら、先の偉丈夫より格段に劣って見える少女英霊だった。

(――アレは異常だ。あのサーヴァントがその気になれば、僕達はいつでも全滅できる)

 河二は、物心ついた頃から亡き父に武を仕込まれて育った。
 未だ手練の域にはいないと自負しているが、それでも武人故の直感というものはいつの間にか備わっていたらしい。
 その直感が警鐘を鳴らす。訴えている。あの英霊に剣を抜かせてはならない。抜かれたら、その時点ですべてが終わると。

 だから瞬きを二回した。
 武人ではないナシロはその真意を完璧には理解できないが、それでも想像力を巡らせ、状況の悪さを理解する。
 ヤドリバエの威圧というジョーカーも、この状況では迂闊に切れない。タネの割れた手品を二度も信じてくれる人間はいないのだから。
 今も彼女の眷属は代々木公園に集った一同を囲うように配備され、何か起きればすぐに攻撃を実行できる態勢にしてあるが、しかし信用しすぎるのが禁物であるのは明らか。
 どうする。どうやって、楪にこちらの目的通りの答えを出させる。
 緩まぬ気迫を放つ一方で逡巡するナシロ。そんな彼女をよそに、イリスは改めて言った。

「雑魚の言葉に従う理由はない。
 頷かせたいなら、ちょっとはそうしたくなるような要因を持ってきたら?」
「……どうしても、お前は"そう"あり続けるっていうのか」
「当然でしょ。逆になんで聞いて貰えると思うのか、皆目理解できないんだけど」
「どうしてだ。どうしてお前は、そうまで――そうまでして、聖杯戦争に命を懸けるんだ?」

 ナシロの言葉に、イリスは僅か、眉を顰める。
 その反応をナシロは見逃さない。
 楪依里朱は感情で動く人間だから、ポーカーフェイスを不得手としている。

「それは……」

 武力では、どうせ敵わない。
 分かっている。卑屈な諦めではなく、頑然とした事実として。
 ならば、言葉で闘うしかないとナシロは考えていた。
 悪あがきじみた発想という自覚はあったが、それしかないのなら全力を尽くすまで。
 息を吸い込み、そして吐き出す。それと同時に、魔女へ切り込む一枚を言葉にした。

「〈はじまりの聖杯戦争〉を制した、"お前達"をそうまで狂わせたモノに関係する理由か。楪」
「…………黙れ」
「いいや、黙らない」

 凍てつく殺意と共に放たれた返事。
 これを一蹴して、ナシロは脚を一歩前に出した。

「改めて言っておくぞ。
 私はお前にどんな理由があったとしても、お前のしてきたこと、していることを許さない」

 それは、狂気の対極。
 月並みにして、ありふれた、されど貫くとなればとても難しい概念。
 すなわち、正義。善なるものが報われ、悪なるものは裁かれてほしいと願う普遍の心。
 琴峯ナシロは常にそれで動く。自分を律し、律するがこそ他者を愛し、敬い、時に批判する。

「何か理由があるなら聞いてやる。
 その上で、〈蝗害〉を止めさせる。
 私をあまり舐めるなよ、楪。琴峯教会の跡取りとして、神に仕える者として、必ずや今この場で両方を成し遂げてやる」
「――ッ」

 神を信じると同時に。
 神をも恐れぬ、その足取り。
 ナシロは、命知らずにもイリスへ迫っていた。
 殴りつけてでも言うことを聞かせると、覚悟の据わった両眼が告げている。
 それは、恐れを知らない狂える魔女にさえ眉根を寄せさせるほどの、堂々。
 ヒトが普遍的に持ち、愛する善性。ただこれだけを掲げて、ナシロは今此処にいる。

「相棒(ほごしゃ)を呼びたきゃ好きにしろ。だがそれでも、私は諦めないぞ――楪ッ!」

 捻くれた子どもを叱責するように響く喝破の声。
 今にも胸倉を掴まん勢いで、ナシロは行動を続ける。
 イリスはただ、不快そうな顔でそれを見つめ。
 あくまで魔女との交渉に出てきた立場であるサーヴァント達も、それを諌める行動を起こさず静観する中。

 ただひとり――

「ま……」

 ――そう、ただひとり。

「ま、待て待て――――――っ!!! い、いいい、いーちゃんにひどいことしたら、私が許さないんだぞぅ…………!!??」

 事の道理も今の状況も分からない駄目人間(ばか)が、声をあげてイリスの手を引いた。



◇◇



 将軍・エパメイノンダスが神聖隊を率いてフェンリルの打倒を成し遂げた一方で。
 シストセルカ・グレガリアとウートガルザ・ロキの戦端は、一方的なものと成り果てていた。

「――おいおい。大口叩いといてその程度かよ、虫螻の王サマ?」

 玉座に座り、頬杖を突きながら、ロキは嘲笑と失望を露わにそう言った。
 玉座の名前はフリズスキャルヴ。オーディンが座ったと云う、世界のすべてを見通す高座。
 まがい物なれど、ロキの眼には今渋谷区及びその周辺のすべてが捉えられている。
 無論、彼の寵愛する月が居る代々木公園のことも。月乙女(アルテミス)より尚尊き彼女の、新たな番狂わせも。
 すべてを上機嫌に笑覧した上で、その片手間に、彼はこうして寒さに震える蝗どもを相手取っているのだ。

「まあ無理もない。よく頑張った方だよ。俺は正直、スキーズブラズニルの時点で勝てるもんだと踏んでたからね」

 虫螻、シストセルカ・グレガリア――サバクトビバッタの総体意思たるツナギ男は、息を切らしながら片膝を突いていた。
 神寂祓葉という〈太陽〉を相手取ってさえ、こうまで無様な姿は晒さなかった彼。
 にもかかわらずロキの幻術の前には、虫螻の王さえ例外ではなかったらしい。
 ニブルヘイムの寒気と、ロキが遣わす無数無尽の脅威。
 その無体なる連打は、ごく順当な結末として黒き死の原型に敗北の気配を滲ませていた。

 渋谷の地面のそこかしこが、触れれば溶ける、気化したものを吸っただけでも途端に死に至る毒液で濡れている。
 蜷局を巻いて舌を出し、油断なく敵手を見据えて君臨し続けるのは世界蛇・ヨルムンガンド。
 更にフリズスキャルヴに座すロキを守るように、またも数百のワルキューレが滞空している。
 彼女達はヨルムンガンドに抗おうとする蝗どもを、大義のもとにその槍(グングニル)で逐一迎撃していた。
 平時なら力任せにねじ伏せられる程度の戦力、障害。
 されどサバクトビバッタの活動を著しく弱め抑えるニブルヘイムの極寒が、彼らのパフォーマンスを激しく鈍らせているのだ。

「所詮、魔女なんてのはひねくれ者の餓鬼でしかないってことさ。
 分かったら君も大人しく俺の月に跪けよ。あの子は優しいからな、きっとかわいい笑顔で迎え入れてくれるぜ」
「……おうおう、もう勝った気でいんのかよ? ならプレイボーイとして助言してやる。ナルシストはモテねえぜ、クソ野郎!」
「虫にだけは言われたくねえよ雑魚。それとも自慢の複眼も目の前の現実は認識できないか?」

 挑発に応えるように振るわれるバット。
 無数の蝗を凝集させて編んだそれは、見かけはチープでも神話の業物に並ぶ密度を含有している。
 触れればそれこそ神獣さえ地に叩き伏せる魔蟲の獲物。
 だが――

「FPSやったことないのか? 待ち伏せ(ロック)されてる場所に飛び込んだら、すぐにDMRであの世行きだぞ」

 ヨルムンガンドの巨体に触れる前に、シストセルカの総体を無数の光が貫く。
 フリズスキャルヴに座す偽りのオーディンを守るべく侍る、ワルキューレの狙撃めいた投擲は決して番狂わせを許さない。
 手足をぶち抜かれて地に転がった瞬間に、頭上のヨルムンガンドが口を開き毒を吐く。
 攻性に徹すれば神でも喰らい尽くす暴食者達。しかし転じて、防御に臨めば彼らは所詮……

「ッ、ぉ、おおぉおおおォ……!」

 ただの、ひ弱で見窄らしい虫の群れでしかない。
 気温低下による活動の停滞を施した上で、蛇の毒という殺虫剤が群体を見る間に死滅させていく。
 二重仕込みの対〈蝗害〉戦術があげた成果は蛇杖堂の老人が用立てたそれの比ではない。
 今、この最凶対決の行く末は、完全にウートガルザ・ロキの手のひらに握られていた。

「つまんね。これでよくもまあ、俺に勝てるとかイキってたもんだよあのメスガキ」

 ふう、と嘆息しつつ、ロキは迫った槍の一本を指先で受け止めた。
 エパメイノンダスの神聖隊だ。フェンリルが討伐され、遂にかの一軍がこちらの戦場にも雪崩込んできたのだ。
 〈蝗害〉と神聖隊、そして姿の見えない陰陽師の三体を同時に相手取る形となったわけだが、ロキの顔色は変わらない。

「いいよ、おいで。暇潰しには丁度いい」

 へらり、と笑ったその瞬間、巨人王の玉座が煌々と光を放った。
 ライトアップされたのではない。真に偉大な神だけが座ることを許されるそれが、三百六十度全方向に向けて破壊の光条を射ち出したのである。

「来いっつった奴の態度じゃねえだろッ!」

 回避は、正攻法ではほぼ不可能と言っていい。何しろ数が異常すぎる。
 目算でも数千に達する数の光が、ホーミングミサイルのようにリアルタイムで方向を変えながら迫ってくるのだから悪夢じみている。
 エパメイノンダスは躱すのを諦め、神聖隊を駆使して耐え凌ぎながら前進することを選択した。
 そして玉座の破壊光は、何もこの将軍だけを狙って放たれたわけではなく。

「人気者は忙しくてね。遊び事も効率で考えなきゃいけないのさ」

 エパメイノンダス。〈蝗害〉。どこかへ隠れ潜んだ陰陽師。
 ロキは遊びと称しながらも、大真面目にこれら全員の鏖殺を狙っている。
 その上で空には狙撃と迎撃を同時に担うワルキューレの集団。
 奇術師の舞台はド派手だが、しかし計算されていて無駄がない。
 更に彼は言わずもがな、ステージに選ばれてしまった街に及ぶ被害に頓着する気もまったくなかった。

「おいおい……!」

 ビルが、住宅が、路面が、慈悲のない殲滅により穴だらけに変わっていく。
 一体どれだけの人数が巻き込まれたのかは定かでないが、スキーズブラズニルの虐殺とニブルヘイムの極寒を生き延びた幸運な人間がもしいたとしても、間違いなく九割九分九厘これで死んだだろう。
 河二はともかく、ナシロがこの場にいなくてよかったとエパメイノンダスは不謹慎にもそう思ってしまう。
 それほどまでに壮絶で、地獄めいた光景だった――この崩壊すら夢幻であってくれないかと、心から考えるくらいには。

『分かっとるとは思うが、鈍るなよ』
「ッ……心配には及ばねえが、人に助言してる場合かい爺さん!」
『餓鬼が儂の心配なんざ十年早いわ。手前のことだけ考えェ』

 そう、エパメイノンダスは義の武人だが、夢は見ない。
 彼は現実を知っている。戦士だけが命を落とせば済む戦場もあれば、そうでない戦場もあると知っている。
 だから憤りを抱く一方で、ただ冷静に敵を攻め落とす手段を考え続けていた。
 見たところ〈蝗害〉は弱っている。叩くなら今のように思えるが、それより上の脅威が幅を利かせているからそうも行かない。

「主役を放って仲良く個通かい? 悲しいじゃないか――俺は君だけを見ちゃやれないが、君は俺だけを見ておけよ」
「ッ」

 ロキの声が響くや否や、辛うじて保っていた戦線が崩壊する。
 理由は空から、光の網目を縫って落ちてくる偽・大神宣言。
 舞台装置としての戦乙女が、ヴァルハラに誘うこともなくただ死だけを求刑する光景は何の冒涜か。

「ぐ、お、がぁッ……! 何のこれしき、ィッ……!!」

 軍略家の脳が死に瀕してフル回転する。
 プログラミングじみた精密さで下す指示の元に動く槍と盾。
 確定する筈の死を引き伸ばしながら、将は先陣を切って進む。
 狙うはロキ、その首だ。間合いへ踏み入るなり裂帛の気合を込めて突き出す槍は、神聖隊の放つものとは比べ物にならない重みを秘めるが。

 それを指の一本で受け止めるのが、ロキ。
 まるで城壁に槍を突き立てたみたいな衝撃が、槍で穿とうとした筈のエパメイノンダスの身体を鈍く痛め付ける。

 ――どうなってやがんだ、こいつ。

 エパメイノンダスは、既に夢を夢と見抜いている。
 言うなれば明晰夢。道理の通じぬ夢幻が相手だろうが、得体を認識して自分を強く持てば抵抗することは可能だ。
 その証拠にフェンリルという、本来なら絶対に届かない相手さえ倒せた。
 今この時に限っては、〈蝗害〉以上に目の前の状況に適応できている自信もある。
 なのに、いやだからこそ。彼は目の前のロキというサーヴァントに、何かまったく別の道理が味方しているように思えてならなかった。

 強すぎる。
 そう、強すぎるのだ。
 恐らくは魔術師のクラスであろう英霊が、三騎士である自分の近接攻撃を何故こうも軽々受け止められる。
 じゃれついてくる子どもを相手にするような余裕を持って臨み、事実まったく寄せ付けないなどという芸当が可能なのか。

「おう、兄さんよ。ヒントくらい寄越しちゃくれねえかい……!」
「ヒント? ああいいよ。この世にはさぁ、純粋な力のでかさとか身体の強さとか、そういうのじゃ測れないエネルギーってもんがあるのさ」
「へえ! 案外良いこと言うじゃねえかよ、この地獄絵図の真ん中じゃなかったら酒でも酌み交わしてえ気分だぜッ!」

 被弾のリスクを無視してまでの攻撃偏重。
 それでさえ押し切れる気配がない、小揺るぎもしない。
 踊り踊らされる将軍の武威を前にして、ロキはアルカイックスマイルを浮かべ、望まれたヒントを口にする。

「答えは"愛"で"友情"さ。そういう神聖なものが、俺をどこまでも強くしてくれてるんだよ」
「ははッ、そうかぁ! 愛で、友情か!!」

 放たれたヒントは皮肉そのもの。
 神聖なる愛を胸に、そして傍らに侍らせ、結集し声をあげたエパメイノンダスの益荒男達。
 これを前にしながら、無数の犠牲を撒き散らしつつ、ウートガルザ・ロキは愛と抜かしたのだ。
 単なる悪意であれば買いようもある。しかしエパメイノンダスには、分かってしまう。
 愛の力、その凄さを知り、人の善き営みとして尊ぶエパメイノンダスは――その強さを"見誤れない"。

「いい女を見つけたようだな、キャスター!」

 信じがたいことだが――この悪童じみた奇術師は、本当にそれで強くなっているらしい。
 なんという冗談。なんという荒唐無稽。
 気合と根性で物理法則を超えられると豪語するように、今、愛の力が道理をねじ伏せ君臨している。

「ありがとう。ムサ苦しいオッサンに褒められても正直微塵も心は動かないんだが、何かしてもらったらお礼を言わなくちゃな」

 ニコ、と、ウートガルザ・ロキが甘いマスクで微笑んだ。
 どんな女性でも一瞬で頬を染めさせ、恋に落として余りある美しい顔だが、この場に限ってはその笑顔こそが一番の不吉の予兆になる。

「言葉と、そして行動。このふたつで見る目のある君に礼をしよう」

 フリズスキャルヴの肘掛けを、ロキの中指が打つ。
 それは破滅を告げるにしてはあまりに軽い音。
 だがこれが、本当の終わりの合図になる。
 その音を引き金として、"降臨"は完了した。



 ――――とぷん。



 そんな音が、して。


 水面のように波紋を広げながら、地面にひとりの女が降り立つ。
 白い女だった。女、というよりは、少女だった。
 綺麗よりは可憐が勝つ。が、それだけでは形容しきれない超常的な魅力が宿って見える。
 その顔には一切の悪意なき、地上のすべてを慈しみながら歓迎する微笑。
 靡く白髪は、さながら天上の神が拵えた羽衣を解いてあしらった糸のよう。
 ならば右手に握る光の剣は、夜空に刻まれた流星の軌跡そのものか。



「これが、この都市の見る最大の悪夢だ」

 幻の大地に、幻の神が降臨する。
 ロキの生み出す景色はすべてが夢。
 だとしても、その悪夢は、世界を犯す。

「頑張りなさい。応援してるよ、心から」

 命題――神寂祓葉に、勝利せよ。



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最終更新:2025年01月18日 23:28