「……、はぁ……?」

 ――なんだこいつ。
 それが、ナシロの抱いた感想で。
 河二も同じで、それどころか当のイリスさえ同じだった。

「あんた……こいつの協力者か何かか?」

 ナシロは怪訝な顔で、半ば抱き着く形で庇いに入った"それ"を見つめる。
 小柄な女だった。顔立ちもえらく童顔で、ぱっと見ではよくて中学生にしか見えない。
 が、恐らく自分よりも年上だ。そのことが余計に、ナシロの調子を狂わせる。

 何より。
 まったく、これっぽっちも――強そうに見えないのだ。
 それどころか、この場に集った全員の中で一番弱いと断言できる。もちろん、自分も含めて。
 それほどまでに何ひとつ、強さとか逞しさとか、そういうものを感じさせない。

「えっ。あ、そうなるのはまだこれからっていうか……」
「なら頼む、邪魔しないでくれ。
 あんたが誰の味方をするのも勝手だが、今は時間がないんだ」

 訝しむように眉を顰めつつ、だが此処で引き下がるわけにはいかないと、ナシロは続く言葉を紡いだ。
 あくまでも見据えるべきは、対処すべきは楪依里朱
 魔女を止めずして〈蝗害〉は止まらない、そうでなくとも自分達は前に進めない。
 千載一遇の好機なのだ、これは。だからこう言ったわけだが、結局ナシロはこの女を無視できずに終わる。

「あ、あのさ……。さっきから、一応話、聞いてたんだけど……」

 何故なら、女はおどおどとした調子で。
 けれど、やけに堂々とした物言いで――

「こ、この子……そんな間違ったこと言ってなくない!?」
「……、あ……?」

 ――引き下がるどころか、進んで戦いの舞台に上がってきたからだ。



 女――天枷仁杜は、早い段階でそれに気付いた。
 いや、もしかすると伊原薊美は同じように気付いていたかもしれない。
 彼女は他人を見る。他人を見て、正しく評価して、その上で踏み潰すから。
 そして仁杜の敏さは、理屈がない。だから仁杜は、何の取り柄もないのに気付くことができた。

 ――……いーちゃん、なんで反撃しないんだろう? さっきまであんなに元気に戦ってたのに。

 〈Iris〉……もとい、楪依里朱は直情の怪物だ。
 考えるより先に手が出る。話し合っていても途中で打ち切ってくる。
 だからこっちの交渉も常に一触即発だったし、半ばからはほぼ戦闘状態に入ってしまった。
 そのイリスが、何故かこの琴峯某という少女に対しては一切そういう兆しを見せていない。
 話している内容からしてもどう考えても穏当な感じではないのに、これは一体どうしたことだろう。
 少し考えて、すぐにハッとした。彼女のサーヴァントが、自分の自慢のロキくんと今も戦い続けていることを思い出したからだ。

 ――もしかしていーちゃん、魔力切れ起こしてる……?

 仁杜は、イリスがレミュリンという魔術師と直近で戦闘を行っていることを知らなかったが。
 そうでなくても理由付けはあった。さっき、彼女の腕から令呪が一画消えるのを見ていたのだ。
 命令の内容までは聞き取れなかったが、何か令呪を必要とする状況が生じたのだろうことは分かっていた。

 ロキは強い。仁杜は誰よりそれを知っているし信じてる。
 〈蝗害〉という規格外のサーヴァントとの戦闘が今に至るまで長引いているのがその証拠だ。
 察するに彼女は、ロキに苦戦する〈蝗害〉をサポートするために令呪を行使したのではないか。
 そしてその結果、何らかの事情で魔力プールを大きく食い潰される結果になったのだとしたら。
 今、イリスはナシロに何もできない。そこまで考え至った仁杜は、当然のように、あたふたした。

 どうする。どうしよう。
 当然ながら、小都音達にイリスを助ける義理はない。
 そもそも、今の今まで交戦していたのだ。
 本当に魔力切れを起こして抵抗の手段がないのなら、どう考えても彼女はピンチということになる。

 ――まあでも、いーちゃん言うこと聞いてくれなそうだったし、別にいいかなあ……? それならそれでも……

 そんな考えが自然と頭をよぎったけれど、次の瞬間、彼女と過ごした思い出が脳裏に去来した。
 初めて会った時。いつもぶっきらぼうで口が悪くて、そのくせゲームはそんなにうまくないこと。
 散々人を罵倒してくる癖して、誘ったらすぐパーティーに招待してくること。
 こんな性格してても、実は結構可愛げあること……そこまで思い出すと、やっぱり駄目かも!!と浮かびかけた冷淡を蹴飛ばした。

 ――いーちゃんのことだし、恩を売ったらころっと靡いてくれるかもしれないし……とにかく、この怖い子から守ってあげないと……!

 天枷仁杜はクズである。
 自分に何より優しくて、見たいものしか見なくて、信じたいことしか信じない。
 けれどそんな性格だから友達がいない仁杜は、一度心を開いた相手のためなら結構頑張れる。
 そして本気を出さなければいけない状況に追いやられた月の乙女は、常軌を逸した結果を生み出せる。



「この世界って……要するに、祓葉ちゃ――えっと、誰かの作ったゲームなわけじゃん!?」

 むぎゅう、とイリスに抱き着きながら、震える瞳で少女を見据える。
 そうして吐く言葉は、彼女の思いの丈そのものだ。
 嘘偽りを用いて駆け引きするなんて高等技術をコミュ障ニートは持ち得ない。
 だからやっていることは単純、話を聞いていて思ったことを片っ端から叩き付けるだけである。

「で、この世界の人達って、ゲームのキャラなわけでしょ。
 別にどこかのちゃんと命ある人を使ってるわけじゃなくて、GMが作った聖杯戦争用のモブ……っていうか、NPCだよ。
 そんなのいくら死んだって、えっと…………」

 んー、あー、と言葉に迷った結果。


「…………ど、どうでもよくない……?」


 ニートは、当然のように少女の地雷を踏み抜く。


 教会で、誰より多くの悩みと迷いを聞いていた少女の。
 その青い心を、自堕落のままに踏み荒らす。
 彼女なりに一生懸命紡ぎ出した、されど何の混じり気もない本心で。

「えぇっと……ナシロちゃん、だっけ……?」

 傷口の切開などという上等なものでは断じてない。
 これは、子どもががむしゃらにおもちゃを投げつけて大人への抵抗を試みているようなものだ。

「ナシロちゃんも、ゲームはやったことあるよね……?
 レベル上げるために敵倒したり、ひとつのダンジョンでず~っとそうやってレベル上げたり、するでしょ?
 その時に倒した敵にも家族がいるかも、とか、こいつにも命があってー、とか、いちいち思う……?」
「……、……」
「思わないよね? この世界もそうじゃん、別にわたしたちがどんなに思いやって可愛がったって、なんにもなんないよ……」

 言動は稚拙。
 理屈も稚拙。
 けれど、だからこそ――嘘がない。

「どうせ全部作り物なんだから。わたしたちしか、生きてなんかないんだから」

 この女は心の底から本心で、何かそう歩まねばならない目的があるとかでもなく、これを言っている。

 その事実が、魔女に沸騰していたナシロの脳髄へ水を引っかける。
 が、だとしても、認められる理屈ではなかった。
 ギリ、と拳を握り……絞り出すように、声を発する。

「どうでもいい、だと」

 思い出すのは、この世界で見つめてきた人々の顔だ。
 都市の営みを現実と信じ、日常の変化に怯え、それでも懸命に生きている人達の顔。
 笑顔があった。怒りがあった。彼らにはちゃんと感情と表情があって、十人十色の生き様があった。

「生きてなんかない、だと……?」

 駄目だ。
 その言葉だけは、侮辱だけは――聞き流せない。

 どうでもよくなんてあるものか。
 彼らは皆、自分の足で立ってちゃんと生きている。
 散った命と、まだ此処にある命。
 それをすべからく侮辱する言葉に、琴峯教会の跡取りは憤らずにはいられない。
 声を荒げ、魔女から視線を外してまで仁杜を睥睨する。
 びく、と身を震わせながら、半分涙目で、女は心優しいシスターへと叫んだ。

「だ……だってそうでしょ!? 聖杯戦争が終わったらこの世界、全部消えてなくなるんだよ!?」
「っ」
「作り物で、未来になんてなんにも続かない。
 そんなの、ただの"モノ"じゃん……? いーちゃんなんにも間違ってないよ……」

 ぐらり――と、揺れを感じる。 
 実際の震動ではない。心が、この無邪気さすら感じさせる無配慮に揺さぶられているのだ。

 何故ならそれは、悪意を持って吐かれた嘲弄ではないから。
 分かるのだ、ナシロには。シスターとは人へ寄り添う仕事。必然、人の吐く言葉の持つ意味には敏感になる。
 己の不安を誤魔化そうとする言葉。過ちから逃げようとする言葉。もしくは、何かを貶めようとする言葉。
 天枷仁杜の放つ言葉は、そのどれでもない。彼女は心から、自分の口にする言葉を真理と信じていて。

 そして事実。
 この世界の理に則るならば、仁杜の言葉は正しいのだ。

 すべての命は、作り物である。
 すべての命は、背景である。
 すべての命は、この都市の結末を以って臨終する。
 そも、此処に命など存在しない。
 自分達、聖杯戦争の演者(アクター)を除いては。

「ほ……ほら! 反論できないでしょ!?」

 故に言葉に窮する。
 ナシロは、善人だが――その一方で、聡い娘だ。
 彼女自身、そうだということは知っていた。
 そうでなければ、こんな言葉は出てこない。

『……この世界は作り物で、私ら以外の住民も本物じゃないってのは、私もわかってるんだがね』

 この世界は作り物で。
 自分達演者以外の誰も本物じゃない。
 夢だ。幻だ。偽りだ。
 だから――それを助けることに、本質的な意味は何ひとつない。
 いやそれどころか。慮ろうとすることさえ非効率の賜物で、物言わぬぬいぐるみを家族のように愛でる子女の幼気と変わらない。

 純真が感情を欺瞞として論破する。
 いっそ露悪的なまでの正論が、少女の善性を踏み躙る。
 そう、確かに返す言葉はない。
 重ねて言うが、ナシロは馬鹿ではないのだ。

「……そう、だな。ああ、確かにそうだよ。
 あんたは、あんた達は、正しいんだろう。
 だけどさ、私は見ての通りあんた達よりガキだからさ。負け惜しみに聞こえるかもしれないが、これだけは言わせてくれ」

 恐らくこの都市において、正しいのは目の前の彼女達の方なのだろう。
 すべては被造物で塵芥。冠を争奪する聖戦を彩る背景でしかない。
 上手く使えば糧にもなるが、使い潰したとて別に問題はなく。
 彼ら一人一人、一個一個の生にあれこれ頭を悩ませるのは阿呆の所業だ。
 確かに正しい、分かるとも。
 だからこそ、その上でナシロは。

 ・・・
「お前達は…………本当に、どこまで行っても、そういう人間なんだな」

 自分の愚鈍を自覚した上で、目いっぱいの不快を目の前のふたりへ表明した。
 眉間に皺を寄せて、唇を噛んで、睨み付ける。

「だったら、いいよ。少しでも話をしようとした私が……間違ってた」

 続く言葉は、自分への戒めでもあった。
 楪依里朱は確かに、言ってしまえば嫌いな相手だった。
 だがそれでも、膝を突き合わせて語らう選択肢までは捨てたくないと思っていた。
 そこに一抹の期待がなかったと言えばきっと嘘になる。そしてそもそも、そこからして甘かったのだ。

「――楪」

 既にこのクラスメイトは、狂っている。
 此処にいるのは、ひとりの"魔女"だ。
 〈蝗害〉は止まらないだろう。
 熾天を、あるいはそれ以外の何かを目指す彼女は変わらないだろう。

 ただその狂気のままに、人を殺す。
 都市を喰らい、すべての祈りを踏み躙る。
 それを悪魔の所業と謗るほど傲慢にはなれない。
 自分が異端なことは理解している。他のすべてを捨て、鬼畜に堕ちてでも遂げたい何か。そこに善悪を論ずるつもりはない。
 そんな感情はナシロが示す、相容れぬ者達へのせめてもの受容と敬意。
 されどその想いに謙って自分を曲げるほど聖人君子になれるかと言ったら、これもまた否だった。

「私は、お前を倒すよ。
 もう止まってくれなんて生ぬるいことは言わないし求めない。
 お前らのルールと、お前らの世界観で、その暴虐を終わらせてやる」

 故に答えは、このようになる。
 〈蝗害〉とそれを従える魔女を討つ。
 彼女達が都市の理に従って黙示録を紡ぐのならば。
 自分もまた、自分の理に則って英雄譚を紡いでみせると。


 告げた次の瞬間に、悪魔の羽音が代々木公園に集った一同の鼓膜を揺らした。


「もう我慢しなくていいぞ、アサシン」


 それは――心を揺らし、魂を揺らす、魔王の旋律。
 神を否定し、人を脅かし、恐怖の象徴として語られるモノの降臨。
 ぶぶぶぶ、ぶぶぶぶ。ヒトの精神のその安寧を、根本の土台から崩落させる跳梁が黒い輪郭を伴って顕れる。


「――――懺悔は、恐怖を教えた後に聞いても遅くはないからな」


 黒髪を揺らした、ちいさな悪魔が空に現出するなり。
 その顕現を合図として、無数の黒蠅が暴食の限りを尽くすべく溢れ出した。



◇◇



 ぶおん、と、そんな音がした。
 次の瞬間、エパメイノンダスが覚えたのは衝撃。
 反応が間に合ったのは奇跡だ。指揮を出す暇はなかったから、純粋な咄嗟の行動だけで彼は命を繋いだことになる。
 では何故、テーバイにその名轟きし大将軍が、指揮を出し遅れるなどという無様を晒したのか。
 その答えはひどく単純で、だからこそ決してあり得ないものだった。

 一瞬――すべてを忘れて、見惚れてしまったから。

 美しい。
 アフロディーテが降臨したものかと思った。
 なんだこれは、どこぞの女神か。
 それとも己の知らない何処かの星神が、像を結んで顕れたのか。
 いや、顔の造形ではない。それ自体も素晴らしいが、重要なのはそこではなく。
 見つめているだけで現実のすべてが揺らぎ、狂おしい夢に溶けていくような恍惚とした快楽。
 地上の一切を微笑みひとつで慰める、この世ならざるナニカ。
 いつまでも見ていられる、見ていたくなる、いやしかし駄目だ惑うなこれは夢だ幻だそもそも何故俺は戦の最中にこんな呆けた思考をしている馬鹿か阿呆かボケでも来たか笑えねえぞ――さっさと目ぇ覚ましやがれ、エパメイノンダス!

「お……お、おぉッ――!?」

 思考があるべき位置に戻るや否やに、エパメイノンダスの両足は地を離れ宙に浮いていた。
 指揮を忘れたのは末代までの不覚だったが、防御自体は間に合った。
 間に合った筈だ。なのにその防御ごと、踏み止まることも許されず膂力だけで吹き飛ばされた。

「が、はぁぁぁッ……!!」

 度重なる災厄に曝され、鉄筋むき出しの廃墟と化した商業ビルに突っ込む。
 次の瞬間ビルは倒壊し、エパメイノンダスの屈強な身体を瓦礫の底に埋没させていった。
 そしてその時、もう白い少女は、己が屠った英雄の方など見てはいない。

「は――何だよ、オイ。もう遭ってやがったのか、テメエも」

 向かう先は〈蝗害〉、シストセルカ・グレガリア
 光の剣を膨張させ、振り下ろす。斬撃は光の帯となり、前方の蝗どもを焼き払う。
 星の聖剣を思わす美しき殲滅。これを可能としたのが名のある英霊でも神でもない、ひとりの少女であるなどと誰が信じよう。

 光帯は柱となり、渋谷の大地に巨大なクレーターを作り出す。
 ワルキューレ、スキーズブラズニル、フリズスキャルヴ。
 それら一切の刻んだ暴威のどれも、威力だけで言うならこの一撃に遠く及んでいない。
 破壊を通り越して破滅としか形容の利かない光景を生み出しながら、それを背にして立つ少女は微塵の曇りもない美しさを湛えていて。

 そう――これが、これこそが、この都市の悪夢。
 悪魔すら目を奪われるほど美しく、しかし聖者でも恐れ慄くほど恐ろしい現人神。
 神寂祓葉という最新、それでいてどこまで到達するか誰にも分からない超越の化身。
 そもそもからしてロキの牙城を誰も崩せない絶望的な戦場に、ダメ押しのように落とされた一滴の波紋。
 その波は地を覆う津波となって、抗うモノのすべてを呑み干し喰らう。
 これぞ白き厄災。第一の死に非ず、遊星の遣わす死にも非ざる、人類最新の恐怖/死なれば。


『おう、餓鬼。まさかあんな紛いもんに撫でられた程度で死んだわけじゃあるまいな』


 瓦礫の山の中から、響いた念話に応じるように手が突き出す。
 そこから顕れたのは、塵と芥に塗れたエパメイノンダスだった。
 英霊は神秘を通してしか殺せない。たとえ高層ビルの崩落を直に受けたとしても、この通り生存を続行することができる。

「ハァ、ハァ……無茶言ってくれるぜ。結果的に生きちゃいるが、本気で死ぬかと思ったよ」
『何じゃ、希臘の絡繰人形どもはずいぶん軟弱な子を育てたもんじゃの。
 大体幻術だと教えてやったろうに。どんだけ見目麗しかろうが強かろうが、夢は夢じゃ。男なら気合で殴り伏せんかい』
「叱責痛み入るよ。で――その言い草、ちと妙だな。
 幻なのは俺も承知してたが、もしやアンタ、アレの原作を知ってるのかい?」
『皆まで言わんと伝わらんか? 知っとるよ。知っとるから、こうも舐め腐っていられんのよ』

 呵呵と笑う老人の傲岸さに、思わずエパメイノンダスは苦笑した。
 老人は戯けてはいるが、巫山戯ている様子はない。
 それは、彼の言葉とその余裕が根拠のない妄言妄信の類ではないことを証明している。

『分かったらさっさと立てい、ランサー。
 見たところ、そろそろ正念場よ。
 お前"ら"の頑張り次第じゃ、儂も褒美をくれてやるわい』
「……金平糖、ってオチはなしだぜ? 爺さんよ……!」

 ならば――此処は己も賭けるとするか。
 エパメイノンダス、かくして戦線に復帰す。
 疾走は重厚なれども鈍重ではなく、それどころか疾風のように素早く。
 復帰と共に叩き込む槍の穂先で、さっき不覚にも目を奪われた麗しの少女に敵意を伝えた。

 ただの少女が、その幻想が、英雄と打ち合う。
 神聖隊の猛槍は布陣を組んで華奢な身体を槍衾に変える。
 負わせた負傷は、しかし瞬時に時を巻き戻すように復元され。
 返す刀で振るわれた光の一閃が、将軍に死を感じさせる。
 常勝の将軍をして、これと結び合う時には死を想わずにはいられない。
 脅威としての度合いで言えば、先のフェンリルがまるで子犬に思えるほど、この白き悪夢は凶悪だった。

 打ち合ってみて分かる、この幻に技術はない。
 力押し、ゴリ押し、一から十まで子どものチャンバラと同じだ。
 が、純粋に強すぎるから、盾での防御にも躊躇する。
 無策に守りを組めば、一撃で何枚盾を割られるか分かったものでないからだ。
 太祖竜(テュフォン)。最初に用いた喩えが、今再びエパメイノンダスの脳裏をよぎっていた。
 大神ゼウスをさえ一度は地に臥させた荒れ狂う竜の神話が、この娘にはとても相応しく思えたから。

(……爺さんは、"そろそろ"正念場だと言った。
 その物言いを信じるならば、戦況を変えるのは恐らく俺じゃねえ)

 ならば今は、斃すことを念頭に置かなくてもいい。
 重要なのは死なないこと、それでいて戦線を維持すること。
 ゴールが見えれば、歴戦の将軍は腰を落ち着けたような気持ちで向き合うことができる。
 戦場において絶望は常。直面したそれを如何に乗り越えるかによって、将の器とは推し測られる故に。

「はは――ッ、おい、見ての通りこっちはジリ貧だ。そろそろ目に物見せてくれると嬉しいぜ……!?」

 エパメイノンダスは笑う。
 窮地の中にあって尚、いや、だからこそ笑う。

「なあ、おい――――蝗どもよ!!」

 その豪放磊落なコールに応えるように。
 今の今まで雌伏を続けていたもうひとつの悪夢が、爆発的に膨張した。




 そう、まさにこのタイミングだったのだ。
 シストセルカ・グレガリア。
 恐れを知らぬ虫螻の王が、劣勢に甘んじて蠢き続けていた理由。
 それは、ロキの創り上げた極寒のニブルヘイムに対抗する術を可能な限り迅速に押し進めていたからに他ならない。

 ――イリスよ、令呪を寄越しな。
 ――訳あってな、早急に乱交(パーティー)が必要になった。
 ――惜しむなよ。俺に勝って欲しけりゃ、大盤振る舞いよろしく頼むぜ。

 魔女を説き伏せて令呪一画を切らせた飛蝗達が専念したのは、生殖。
 群れの大半を地中に潜らせて、令呪によるブースト込みでの異常な速度での性行為と受精、そして産卵に明け暮れた。
 時計の針を加速させるかのように爆速で繰り広げられる命のサイクル。
 兵隊の補充のためにそうしたわけではない。彼らが種として求めたのは、目の前の死界への"適応"だった。

 寒さという、変温動物である昆虫にほぼ共通と言っていい弱点。
 それを克服するために、急激な生殖で耐性個体を爆増させた。
 幻とはいえニブルヘイム、その死寒の中で生存できる水準の個体を殖やした。
 彼らは本能で生きて喰らうが、だからこそ時に人間に負けず劣らず狡猾だ。
 種の存続のために表層の同胞をスケープゴートとし、これを隠れ蓑にしながら必要な進化を急がせた。
 そうして変異個体が増殖した結果何が起こるか。その答えこそが、この光景である。

「Yyyyyyyyyyyyyyyyyyeah――――――――!!!!」

 死界の大地を地底から引き裂きながら、溢れ出す飛蝗の大軍勢。
 神秘と幻想を、この上なく醜い現実と欲望が塗り潰していく。
 生誕祝いの戦乙女を瞬時に平らげ、凍土に巻き起こる砂の嵐。
 ただしこの嵐は生き物を喰べる。血を吸い肉を噛み、魂の一片まで腹に収めて子を産むアバドンの乗騎。

 そんな悪夢の先陣を切って駆け出し、白き神の虚像へ殴りかかったのはやはりというべきか彼らの総体意思だった。

「ロキ野郎、テメエあの女をナメ過ぎだ」

 轟く光剣、しかし砂嵐は微塵も退かない。
 進む、進む。昨夜本物の彼女へそうしたように。
 ならば相手もやることは同じ。
 白い灼光の柱は、再び渋谷の地表を焼き焦がして結末を焼き直した。

 だが――


「こんな解りやすい生物(エモノ)に、この俺様が負けるワケねえだろ」


 ――獰猛に嗤う凶蟲、光を切り裂いて。



◇◇



 瞬間、高乃河二が最も恐れていた一枚が即座に行動した。
 細められた眼光は猛禽の如し、剣を抜く速さは閃光の如し。
 技ではなく業、生きとし生けるものを殺すということのハイエンド。
 原初の鍛冶師が、ベルゼブブの顕現に合わせて自らの首輪を切り離し躍動する。

 迎え撃つのは、宿り蝿の眷属だった。
 大人の男ほどもある体躯を有し、禍々しい槍を携えた、巨大な蝿の悪魔。
 無論大元が贋物(フェイク)である以上、彼らも所詮、人の恐れる悪魔の形というパブリックイメージを基に生成された"もどき"に過ぎない。
 それでも〈蝗害〉の死骸を用い作り出した数十余りの眷属は、純粋に戦力として大きな意味を持つ。
 偵察はもちろん、戦闘においてだって決して単なる張りぼてではない。
 数の優位と、偽りなれど幻想種を用いた正面戦闘……ヤドリバエの蝿王が優れた魔術師に拾われていれば、必ずや都市に未曾有の災禍をもたらしていたと語られる所以。

「おい」

 しかし、聖杯戦争とは前提からして幻想の氾濫を想定し組まれた儀式。
 境界記録帯という幻想が蔓延る都市において、悪魔の不穏が持つ意味は日常より数段薄い。

「舐めてンのか、お前ら?」

 抜刀。
 からの、挨拶代わりの二撃。
 それだけで、突撃を敢行した二体の蝿悪魔が十六の肉塊に断割されて飛び散る。

「こいつらが人でなしのイカレ女どもだってことには百パーセント同意だけどよ、最初に吹っかけてきたのはそっちの方だろうが。
 売ったからには、買う価値ってもんをせめて魅せてくれや。殺しは慈善事業じゃねえんだぞ」

 トバルカインは鍛冶師だが、だからこそ彼女は殺人鬼だ。
 いや、殺人鬼、という形容は正確には語弊がある。
 彼女は必要とあらば何だって殺す。ヒトも、虫も、獣も、悪魔だって。
 不穏の羽音でできる抑制はたかが知れており、数十の眷属など単なる羽虫の群れと変わらない。

 彼女が動き出したことの意味、その深刻さを誰より理解しているのもまた河二だった。
 実際に動く姿を見て自分の警戒の正しさを確信するどころか、むしろ不足に気付かされたほどだ。

(……不味いな。初動すら、目視できなかった)

 まず間違いなく、エパメイノンダスのいない自分達で勝てる相手ではない。
 今はヤドリバエの眷属が辛うじて足止めしてくれているが、あの剣先が少しでも自分かナシロに向いた時点ですべては終わる。
 あのサーヴァントが敵軍に存在する時点で、勝率など推し測るまでもなく零だ。
 数秒とかからず、この身体を達磨落としのように切り刻まれて終幕する。
 見えた結末は絶望的そのもの。されど、それでさえまだ真の底ではないというから事態の過酷さは地獄めいていた。

「おお……なんと悍ましい気配か。なんと醜悪な妖艶か。
 死体の山も臓物の河も見慣れているが、まことの悪魔を見るのは初めてだな」

 響く声は畏怖。
 そして、それを塗り潰して余りある勇気の賛歌。

「かつて私はこの身を星条旗の使徒と称した。神の教えに従い、私自身の野心に従う者だと。
 であれば今こそ――それに相応しい働きを成し、死して尚我らの名声を高め上げようではないか!
 さあ行くぞ我が同胞、合衆国の星々達よ!」

 その声に呼応するように、蹄の音が不穏の満ちる代々木公園へ奏でられ出す。
 姿を表す、星条旗をあしらった軍服姿の騎兵達。
 現代と地続きの"歴史"、とある偉大な国の栄光と負を象徴する死の担い手(ソルジャー・ブルー)。

「"神話の世界"だ!! 悪魔が甘く囁くならば、かき消す勢いで歌っていこうぜ!! Garry Owen,Garry Owen,Garry Owen――!!」
《Garry Owen,Garry Owen,Garry Owen――!!》

 悪名高き第7騎兵隊、ジョージ・アームストロング・カスター、悪魔狩りのため堂々出陣す。
 この世界の神にさえ剣を向け、銃を撃った、恐れを知らない英霊達の蛮歌が再び響く。
 そして言わずもがな、神と魔女の共闘戦線と、虚仮威しの悪魔ども、そのどちらが脅威として上かは明らかであった。

 皆無に等しい勝率が、カスターの出陣で完全に消滅する。
 仮に奇跡以上の幸運が微笑んだとしても、イリスか仁杜のどちらかがサーヴァントを呼び戻せばやはりすべては終わる。
 琴峯ナシロが告げた宣戦は単なる自殺行為。イリスのそれを笑えない、無軌道な癇癪に終わってしまった。

「おう、雑魚ども」
「さあ、恐怖しろ」

 これより始まるのはごく容易い蹂躙。
 多くの先住民がそう散ったように。
 鍛冶師の試し斬りで血風に変えられた数多の礎達のように。
 心優しい少女と、純朴な復讐鬼は、この公園にて露と消える。

 その結末を変えられる者はただひとり、そう。


「――アサシンッ!」
「わ、分かってますってぇ……!」


 空を舞い、眷属を率いる、ベルゼブブの冠(な)を持つ虫螻以外には存在しない。


 彼女は基本的に、惰弱そのものである。
 それはステータスからも窺えることだ。
 しかしそんな彼女にも、ふたつほど強みが存在した。

「こほん――ふ、ふ。
 本当に、悪魔使いが荒いんですから……これはもう、その身も魂も、最後の一滴まで啜らせて貰わないと割に合いませんね?」

 ひとつは、飛行能力。
 ヤドリバエという昆虫が信仰の力で偽悪魔化した英霊である彼女は、当たり前に空を飛べる。
 カスターの騎兵隊が放つ銃弾、それは空に向けられていた。
 これを、ヤドリバエはすいすいと、事も無げに次々躱す。
 それどころかその勢いのまま、自身の主を狙った弾幕の前に眷属を飛ばして肉の盾にする指揮さえこなしてみせる。

「はい、そこ。
 悪魔(わたしたち)の貴重な餌から目を逸らしてどうするんですか?
 主人のディナーですよ。眷属なんだから、身を粉にして死ぬ気で守りなさい」

 蝿王のロールプレイを行いながら、という余裕まである……というのは流石に言い過ぎだ。
 流石にこの状況で自身の本質を看破され、すべてがハッタリだと見透かされたら何もかもが終わってしまう。
 そう分かっているから、本当はぴーぴー叫びながら逃げ回りたいところを死ぬ気で堪えているのだ。死ぬ気なのは蝿王様も同じなのである。
 とはいえ逃げ回ってばかりではいずれ限界が来る。具体的には、トバルカインが眷属を鏖殺した瞬間に詰みが確定する。

(――う、う~~……! やらなきゃダメですよね、流石に……!)

 なればこそ、此処で求められるのが第二の強み。
 ただしこれについて、ヤドリバエは実のところ、まったく自信がなかった。

 ――サーヴァント・ヤドリバエは、ベルゼブブの名を笠に着ただけのハリボテである。
 しかし、では彼女のすべてが偽りなのかというと、そういうわけでもない。
 不穏の羽音や眷属生成宝具など、蝿王由来の力をいくつか持つに至ってはいる。
 第二の強みというのもその一環だった。端的に言うと、ヤドリバエはスペックだけで見るならそう弱くはない。
 ステータスこそ誰の目にも分かる味噌っかすだが、出せる出力だけなら蝿王の肩書きに恥じないものを即座に用意できる。

 真に使いこなせれば、眼前の二体にも決して見劣りしないだろう。
 そう、使いこなせれば。では実際その技量がどうなのかは、彼女がナシロに手綱を握られるまでの一部始終を思い返せば分かることだ。

 どんな魔弾も砲撃も、当てられなければ意味がない。
 その一点が、ヤドリバエを都市の中でも最低ランクの一体に貶めていた。
 今までは本格的な戦闘がなかった。河二と雪村鉄志の交戦に介入した際も、得意の威圧を使って上手く収めることができた。
 だが今回ばかりは、そう簡単にもいかない。何故なら相手はどちらも鏖殺上等、穏健とは程遠い人でなしどもだ。

 ナシロと目が合う。
 黒鍵を投影し、臨戦態勢のまま事の趨勢を見守っている彼女は小さく頷いた。
 ううううやっぱりぃ……と、ヤドリバエはこのままプ~ンと飛び去りたい気分になるのを堪えられない。

(いやまあ、やればできる筈なんですよ。
 たった一回……たった一回当てられたら、いいんですけどねぇ……)

 その一回が、あまりに遠い。
 ナシロに引きずられてやった鍛錬の中でさえ、的へ綺麗に当てられた試しはほぼない。あっても誰の目にも分かるまぐれ当たりだった。
 けれど今回はそうもいかない。下手を打てばハッタリがバレるどころか、更に相手を刺激して最悪の事態を生む。
 永遠にこうしてうじうじしていたいが、時間はもうほとんど残されていないのだ。
 腹を括らなければいけない時、というのがすぐそこまで来ていた。威圧と飛行と、眷属の指揮でどうにか威厳を保ちながら、途方に暮れて葛藤するヤドリバエ。
 そんな彼女に助け舟を出したのは、意外な人物だった。


「アサシン。思い出すんだ」


 高乃、河二である。
 多くを語ることはできない。彼と自分の間に、念話は通っていない。
 だからヤドリバエは、その一言で思い出すしかなかった。
 しかし幸い、今はこれで十分だった。脳裏に再生される、彼の英霊の声。
 〈蝗害〉蔓延る戦場に向かった"将軍"が、腹立たしくも自分の頭を子どもにするみたく撫でながら残した言葉を。


『教えるならじっくり基礎からやるのが俺流なんだけどな。
 だが今はそんな時間もねえ。だから、一言だけアドバイスを残しとく』

『思うに嬢ちゃんは、技術云々の前に当て方ってもんを知らねえんだろう。
 ナシロの嬢ちゃんも、勤勉じゃあるが殺し殺されの状況を経験してきたわけじゃないだろうしな。
 当て方を知らないんじゃ、いつまで経っても上達しないのも無理はない』

『いいか――アサシン。
 的に当てるコツなんてのはな、突き詰めりゃひとつしかないのさ』


 人の英霊に施されるなど、蝿王を目指す者としては屈辱以外の何物でもなかったが。
 今はまさしく、そんな藁にも縋るべき状況だ。
 ヤドリバエは空を舞いながら、脳内で彼の、エパメイノンダスの言葉を反芻する。
 あの暑苦しい男は何と言ったか。覚えている。確かに、こう言った筈だ。


『"相手をよく見ろ"。物言わぬ的でも、逃げるウサギでも、向かって来る敵でも同じだ』

『見ろ。ただ見つめて、理解しろ。そうすりゃそこには、当てるための情報ってのが山ほど転がってる』

『風向き、地形、疲労の状況、表情、主義思想……なんでも見逃すな。
 敵が分かりゃ、撃つべき場所ってもんが必然見える。
 これさえ抑えておけば、まったく当てられないってことだけは無くなるだろうぜ――――』


 視認する――撃つべき敵/場所を。
 口惜しいが確かに、今までこうも真剣に的を視たことはなかった。
 見る、のではない。それと同時に観て、視るのだ。医者が看て診るように、ただ、覧る。
 その時、ヤドリバエは無言だった。時間さえ、忘れていた。
 時が引き伸ばされるように感じる。思考をして闘うという経験を当然、寄生虫は持ち合わせていない。
 だからこそこれは初めてのことで。故に、得られた実感は後にも先にもないほど大きかった。


(…………、…………あ)


 気付きは一瞬。
 行動へ起こすまでは、更に刹那。



(もしかして――――――――こういう、こと?)



 右手に、蝿王の権能を。
 悪魔が悪魔たる上で最も重要な力。
 己が地上の法理を超越した存在であると示すための、力。
 それを満たすと同時に、定めた狙いの場所へ向け解き放つ。
 当たらずの光弾、張りぼての権威。
 射出されてからすぐに、その成否は詳らかとなった。



「――ぬ、ッ……!?」

 光の向かう先。
 それは、ジョージ・アームストロング・カスターであった。

 狙いの意図は単純明快。
 ヤドリバエにとって、トバルカインはそもそも解決できる相手ではないと踏まれていたからだ。
 力と技術、何より速さ。あのレベルの反応ができる手合いに当てられたなら喜ばしいが、此処で一番怖れるべきは外すこと。
 故に彼女は、カスターを選んだ。霊格で劣るのが明らかで、かつ宝具により生み出す軍勢という無視できない厄介さを持っている。
 定められた的。第7騎兵隊の英雄は、まず感じる魔力の大きさに目を瞠る。

 だが重要なのはそれに引き続くリアクション。
 丁か半か、鬼か蛇か。いいやそれ以前に、アタリかハズレか。
 その答えを物語る彼の反応は、これだった。

「これは不味いな――ええい、すまん!」

 馬を飛び降り、最前線から後方へと瞬時に飛び退くことを選んだ。
 カスターは歴史に名を残す無謀な英雄だが、しかしその実、彼の無謀は最低限の保証ありきで行われる突撃だ。
 勝算がわずかでもあるなら征く。が、ないのなら退くことに異論は持たない。
 そんな彼が、迷わず退いた。その事実の意味が、次の瞬間衝撃と閃光で示される。

 カスターはそれを、戦術爆弾の炸裂に喩えた。
 吹き飛ぶ軍馬、及びこれを乗りこなす騎兵達。
 悪夢もたらすソルジャー・ブルーが忽ちにして肉片と化す。
 もしも後退を選ばず直撃していた場合に、カスターがどうなっていたのかは推測するまでもない。

「……! おい――ライダー! 無事か!?」
「ああ、問題ない! ないが、ははははは! 流石は恐るべき悪魔だな、予想以上の威力だった!! 君も留意し給え、セイバー!!」

 戦場という水面に投げ込まれた一個の巨岩。
 その生み出す波が、最大の死神の思考を一瞬だけ逸らさせる。

「――――あ、は」

 気付けばヤドリバエは、笑っていた。
 成功体験、なんて高尚な語彙を虫螻の彼女が持っていたかは定かでない。
 が、今、確かに彼女はそれを得ていた。
 初めて、まともに撃ち込めた。敵を殺せはしなくとも、避けた上で脅威と認識させることができた。
 英霊にアドレナリンなどという概念があるのかどうかは知らないが、兎角その事実は、紛い物の悪魔を高揚させる。

 そして誰もが知っている、この悪魔がひどい"調子乗り"であることを。
 過去最大の成功体験を得て増長したヤドリバエが次に取る行動は決まっていた。
 普段は裏目に出るか、飼い主であるナシロに制裁されて終わるだけのそれが。
 今この瞬間だけは、彼女達全員を窮地から救う希望の光明を生み出す。


「さあ存分に恐れ叫びなさい、傲慢で矮小な英霊ども。
 これなるは悪魔の真髄、恐れられたるモノの極致!
 魅せてあげるから、泣き喚きながら消え果てるがいいですよ! あーっはっはっはっはっはっは――――!!!!」


 ようやく掴んだ"当てる"感覚の片鱗、それを上機嫌のままにぽいと放り捨てて。
 ただ一時の感情に任せて、無造作に光を放ちまくる。
 すなわち、空から地への大乱射。悪魔の力をハチャメチャに撃ちまくりながら、高笑いを響かせる。
 当然狙いが悪いので、一発たりともカスターやトバルカインに直撃してはくれず、それどころか自分の眷属をフレンドリーファイアで爆殺している始末だったのだが……だとしても、下手な鉄砲数撃ちゃ当たるという言葉もある。
 それに、ヤドリバエの真実を知るナシロと河二以外にしてみれば、彼女の光弾は自分達の英霊さえ戦慄させる立派な脅威だ。

 であればどうなるか。必然――代々木公園は、災厄降り注ぐ今までとは意味を異にした修羅場と化す。


「わ、わわ、わ……!」
「にーとちゃん!!」

 頭を抱えながら恐慌する仁杜。
 それを助けるべく、小都音が薊美の手を無理やり引きながら駆け出した。
 薊美も逆らわない。カスターのマスターと特定され、もし個人として狙いを定められたら生き延びられる自信はないからだ。
 ならばまだ頭数を増やした方が生存確率は上がる、そう判断してのことだった。後は、咄嗟の行動だったが故に小都音に自分を何か利用しようという悪意が感じられなかったのもあるだろう。

「ことちゃん、薊美ちゃん……! 大丈夫……!? それに――あっ」

 仁杜がそこで、自分の隣に座っていた楪依里朱がいないことに気付く。
 彼女は既にベンチを立ち上がり、不機嫌も露わな表情で立っていた。

「……付き合ってらんない。まさかこんな馬鹿騒ぎに巻き込まれるなんてね」

 当初の予定を大幅に超えて長引いている、〈蝗害〉と仁杜のキャスターの決闘。
 不意の魔力切れに、琴峯ナシロ達の乱入。混沌を極めたこの状況は、激情家のイリスを苛立たせるには十分すぎるものだった。
 最低限の魔力だけを用いて白黒の防壁を展開し、粉塵に混ざって飛んでくる石や木の枝を防御する。
 そうしながら、彼女はすべてを無視して公園の出口へと足を向け始めた。

 その行動を阻むように飛んでくるのは、一振りの投擲剣。
 黒鍵を投げ放ったナシロを忌まわしそうに見つめながら、イリスは残り少ない魔力を回す。

「……楪。お前は」
「いいわ、認めてあげる。
 あんたの言うことややることはつくづく反吐が出るほど偽善じみてるけど、馬鹿も度を過ぎれば一級品だってこと」

 当然のように防がれる黒鍵。
 交錯する視線は、互いが互いを認めないという鋭さで溢れていた。

「あんたのサーヴァントが暴れたところで、私の方にまで気を回す余裕はないでしょ。
 アレだけ目を引いたらもう後は無理。セイバーとライダーに袋叩きにされて終わり」
「……、……」
「だからその間に、舐めた真似してくれたお礼だけはしてあげる。
 良かったね、喜びなよ。あんたカトリックなんでしょ? だったら戦争の中で魔女の手にかかって死ぬのは、殉教ってやつなんじゃない?」

 イリスの背後に浮かび上がったのは、白黒の色彩で編まれた無数の刃だった。
 サイズはナイフほどで、祓葉やルーとの戦いで見せたのに比べれば幾分も劣る。
 が、それでも、魔術師としてあまりに日も修練も浅いナシロにとっては十分なほどに脅威的な死線だ。
 眉間に皺を刻み、こめかみに青筋を立て、魔女はシスターを殺すと告げている。

「……やりたきゃやれよ。その代わり後悔するんじゃないぞ、楪。
 どれだけ魔女を気取ろうが、私に言わせりゃお前はただのやさぐれたわがままな不登校児だ。
 世の中なんでも自分達だけを中心に回ると思ってたら大間違いだってこと、お前は今に思い知ることになる」
「長い遺言だね。続きは死んでから喋りなさい」

 処刑の合図は魔女の随意に。
 解き放たれる白と黒の凶器が、ナシロを殺すべく迸る。
 ヤドリバエでは止められない。止める余裕がない、トバルカインとカスターの二重の網目は如何にノッている彼女でも潜れない。

 ナシロの両手に握られた黒鍵が、我武者羅に注がれた魔力で大きく膨張する。
 オーバーエッジ。膨らんだ刀身を盾にして強引に防ぐしかない事実が、ナシロとイリスの間にどれほど大きな差があるかを物語っている。
 防ぎきれなかった分が肩口を、腿を、脇腹を切り裂いた。
 いずれも浅いが、苦悶に顔が歪む。擦り切れるのは時間の問題で、魔女の呪いは高らかにけれど静かに響き渡る。

「この都市に、あんた達端役の席はない」

 ――物語の主役は、常にひとり。
 ――それを追い落とす存在も、己ひとり。
 不変の理を唱えながら、楪依里朱は王手をかけた。

「疾く死ね、偽善女……!」

 ナシロをすり潰すための刃が、殺到し。
 黒鍵の弾ける音と共に、彼女の身体が地面を転がる。
 幸いにして直撃は免れたものの、倒れて喘鳴を漏らす姿は実に敗者じみている。
 詰みだ。イリスがそれを確信し、最後の一手を繰り出さんとした、その時。



「――――問おう、蝗害の魔女」



 魔女も、英霊達も、仁杜達も。
 誰もが視界から外していた、ひとりの少年の。
 この代々木公園において間違いなく"端役"であった少年の声が、響いて。



「――――この技に、覚えはあるか」



 不覚を悟った瞬間にはもう遅く。
 神速で踏み込んだ復讐者の鉄拳が、魔女の腹を打ち抜いていた。



◇◇



 喰らいついた蝗の群れが、少女の偶像を瞬時に穢す。
 振り抜かれたバットの一撃は、愛らしい表情を割れた西瓜さながらに変えた。
 撒き散らされた幻の血肉を嬉しそうに喰らい、冷気に沈んだ先ほどまでの姿が嘘のように猛り飛び回る飛蝗達。
 一見すると荒唐無稽な絵面であるが、彼らはまず前提条件の時点でエパメイノンダスや陰陽師とは違っている。

 シストセルカ・グレガリアの軍勢は、一匹たりともロキの御業の正体など見抜いていない。
 興味がないから、無数に群れてネットワークを形成する総体のどれ一匹として考察を行ってすらいない。
 これから食べる飯がどこでどう作られ、どのように育ったかなど些事。
 腹に収めてしまえば全部一緒だろと、暴食者の肩書きに相応しい暴論だけを武器にロキへ食らいつき続けているのだ。
 夢、現実、その境界線を論じ考えて戦うなんてしち面倒臭い、御免被る。
 本能のままに生きる昆虫(おれたち)はいつ何時でも馬鹿騒ぎの一辺倒、それでいいしそれがいい。

「見る目がねえなあロキくんよォ! テメエ曲がりなりにもアレを見ておいて、こんな劣化コピー以下しか創れねえのか間抜けェ!!」

 祓葉の偶像は、既に再生を始めている。
 本家本元が持つ機能を、当然この模倣体も与えられていた。
 が、それでも虫螻の王はこれを駄作と罵る。
 彼は知っているからだ。本当に尊く恐ろしい星の輝きというものが、どれほど救い難い生物であるかを。

 そしてそんな辛辣極まりない評価に、同意する者がもうひとり。

『なるほどのぅ。やはりあの蝗"も"、奴に遭っておったか』
「……おいおい、仲間外れは俺だけかよ? 俺の眼にはあれも十分すぎるほど化け物に映ってんだが?」
『無理もないが、何度も言っとるじゃろう。夢は夢、幻は幻よ。どれだけ精緻を凝らしても、影絵が本物に至ることなどありゃあせん。
 その上――これは肝心要の精緻さすら足りとらん。臆さず進めい、若造。この影絵は、ただの強いだけの夜霧じゃ』

 陰陽師の語る言葉の意味を、エパメイノンダスは大まかに理解する。
 戦場を知らない者の紡ぐ策と、戦場を馳せた者が紡ぐ策との間には天と地もの差がある。
 要するに奇術師ロキは、この冗談みたいに強い〈少女〉の存在と輪郭は知っていても、実際にその真髄を味わったわけではないということ。
 だから乗り越えようは無数にあると、彼も虫螻の王も異口同音にそう言っているのだと悟った。

「そういうことなら、俺だけビビってるわけにもいかねえな……!」

 獰猛な笑みを浮かべ、覚悟を決めて光と蝗の躍る最前線へ突撃する将軍。
 飛び交う破壊の余波は盾の配列を一秒ごとに組み替えながら防ぎ、勇猛果敢に進軍していく。
 〈蝗害〉にはこの状況でも見境というものがない。
 守りを掻い潜った飛蝗の数匹に身体の各所を喰らわれながら、それでもエパメイノンダスは見えた勝機に彼ら同様食らい付くと決めた。

 再生と崩壊を繰り返しながら、一秒たりとも微笑みを崩さず、美しい悪夢として剣舞を踊る少女。
 光剣が閃くたびに大地が割れ、景観が崩壊し、白が都会の多様を焼き払う。
 そんな中に、神聖隊の槍が雨霰の如く迸った。
 可憐な少女を無数の槍が串刺しにする光景はグロテスクだが、目的は討伐ではない。
 今いる位置に縫い止めて、これ以上の縦横無尽な移動を抑制すること。
 そのために部下達を使いながら、エパメイノンダスは遂に自身の持つ一槍を少女の背中へと突き立てることに成功した。

 心臓を確実に貫いた手応えを感じつつも、微塵たりとて油断しない。
 己の役目も同じ――固定すること。この荒れ狂う白い厄災に、決して仕切り直しの余地を与えないこと。

「さあ食い尽くせよ、悪食の蝗! 何でも残さず喰うのがおたくの一番の取り柄だろう……!?」
「ほざけよオッサン。こちとら最初からそのつもりだぜ……!」

 次の瞬間に起きたのは、鳥葬より尚酷い処刑だった。
 縫い留められた幻想を、現実の飛蝗が群がって食い尽くす。
 再生するならそれも良しと、傷口から体内に侵入して苗床に変える。
 癒やした端から喰らい、貪り、殖え、結果内側から少女の肉体が醜く膨れ上がっていく。

 そうなると、もうこれは美しい女神の似姿などではなく、ただの肉の風船に過ぎなかった。
 原型を留めないまでに内部から破壊されていき、最後の瞬間は実に呆気ない。
 ぱん、と、まさに限界まで空気を詰められた風船が破裂するように、幻想の神は弾け飛んだ。

 それきり。
 外から見える強さだけで構築されたまがい物では、決して本物の"祓葉"に並べない。
 シストセルカ・グレガリアの軍勢によって不滅は破られ、そしてこの瞬間、ロキは玉座から再び戦場へと引きずり出される。


「あーあ、つまんねえの」


 興ざめだ、とばかりに嘆息するロキ。
 指先をシストセルカとエパメイノンダスに向け、暫し趨勢を見守らせていたヨルムンガンドの巨躯を動かす。
 奇術王のステージに休憩時間は存在しない。
 ひとつの演目が終わったなら即座に次が来る。矢継ぎ早の釣瓶撃ちに間断はなく、彼はエンターテインメントの何たるかを誰より心得ていた。

 よって――
 このサーヴァントとまともに戦おうとすることは、実のところとても無駄な行為であると言わざるを得ない。
 ウートガルザ・ロキに対してムキになればなるほど、誰もが彼の手のひらで玩弄される。
 雷神トールがそうだったように。悪童の王たる、もうひとりのロキがそうだったように。
 重要なのは相手をしないこと。そして、もしくは――



「上出来じゃ。ようやく夢の陥穽が見えた」



 乗らず、挑まず、ただ機を窺い続けること。
 手品は手品、幻は幻。
 真面目に殴り合う気など持たずに、斜に構えて奇術王の舞台を眺め続けること。

 その男は、最初から今までずっとそれだけに徹していた。
 戦場に示す存在感は最低限。介入はおろか、対話さえも念話に留めてひたすら我が道を往き続ける。

 そんな彼だからこそ、ロキが見せた初めての隙を見逃さなかった。
 それを見て取るなり、掌を返して陰陽師は夢を穿つ一手を打ち出しにかかる。

「南斗北斗・讃歎玉女・左青竜・右白虎・前朱雀・後玄武――急々如律令」

 老人の姿は、ニブルヘイムの冷気さえ届かぬ遥か彼方。
 破壊の余波からものうのうと逃れられる遠方の、ビルの屋上にあった。
 そこで彼は古めかしい書物を片手に、文字通り、目を凝らして夢幻の戦場を俯瞰している。

 いわゆる、千里眼と呼ばれる類の異能である。
 彼は本来この手の力と縁がないが、実のところ彼には、それを体得しているかどうかなど些末な問題でしかなかった。
 己が蒐集した知識の中には、数多の秘術呪術が納められている。
 必要な時にそれを引き出して行使すればいいだけのことであって、己はこれを身に着けたぞと誇らしげに胸を張る輩は、彼に言わせれば尻の青い餓鬼にしか見えない。
 老人はこの書物に記された術を使い、現在一時的に千里眼を獲得していた。
 冠位どもと並べるほどでは無けれども。歴戦の勇士や弓兵、英雄……そう呼ばれた者達とならば容易に肩を並べる、その程度の視力はある。


「初陣から悪いの、仲さんよ。ちょいとひと肌"被って"くれや――――『真・刃辛内伝金烏玉兎集』」


 見えた陥穽、舞台の崩しどころ。
 それを逃すことなく、陰陽師・吉備真備はニブルヘイムたる渋谷に神を投下した。

 真備を守護し、今も荒ぶり止まないさる男の荒御魂を。
 不遜にも神の皮を被せ、贋物の守護神として投げ込んだのだ。
 所詮はこれも夢幻。知己に皮を被せただけのまがい物。
 されど。

「そろそろ吠え面のひとつも見せんかい、北欧の悪餓鬼めが」

 夢幻(うそ)を弄することにかけては、真備も多少の心得がある。



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最終更新:2025年01月18日 23:31