執事の手記

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執事の手記 - (2019/03/01 (金) 22:37:05) の1つ前との変更点

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<p><span style="font-family:arial, helvetica, sans-serif;"><span style="font-size:14px;">私がこの手記を綴ることによって、私は課せられた使命を果たすことになる。</span></span></p> <p><span style="font-size:14px;">あの日から、私はこの瞬間を記述することを望んでいたのだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">誰から命令されたかなどということは関係なしに、私がそう望んでいたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">これで、一つの事件から始まった物語に終止符が打たれるのだと思うと、私はとても複雑な気分になってしまう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私の償いが果たされたのか、それすらわからぬまま、終止符は打たれる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私達の物語が、ついに終わろうとしている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">さて、私が今から書くのは、私が関与した、あの領地の出来事の顛末だ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">今は手紙を読み解くことしかできない私にできたこと。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それは、あの事件がどのような道をたどり、どのようにして潰えたかを記述することだけだ。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">ある領地で、領主の家族が毒殺されるという事件があった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それを指示したのは、私の主だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女は、その身で抱えきれないほどの野望を抱いていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">最後まで付き従った私でも、彼女の野望の底を覗くことは叶わぬほどの、深淵から去来する欲望。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">混沌とした敵意の一端が這い回り、発せられる瘴気がある平穏な家族を襲い、領地を攫っていった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女は自身の息のかかった貴族を、そこの領主に擁立してしまったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">計画が完全に成功しなかったことで、彼女は地方に幽閉されることになったが、それでも彼女は止まらなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">どういう手段を使ったのか、彼女の幽閉は、隠居といってもいいほど快適な生活を送れるようになったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">いつの間にか、監視さえ彼女の館から離れていき、ついには窓から見えなくなるほどまで離れてしまった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">次第に従者が増えていき、彼女は普段どおりの生活を取り戻しかけていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女が望めば、彼女はこの国のすべてを支配してしまえるのだと、そう思えるほどに。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">心身ともに深い傷を負った私にとって、私を雇い続けてくれる存在が彼女しかいなかったこということも相まって、私は彼女に最後まで付き従うことになった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私が手紙をどこかへ持っていくごとに、彼女の自体は改善された。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">あるときは彼女の親戚の屋敷へ、あるときは名も知らぬ酒場へ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">この世で最も尊い魔法のようにも見えた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">天才的な手腕が振るわれると、彼女につながったなにかが効率的に動き、彼女の思い通りになっているのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">これほど恐ろしく、美しいものがあっただろうか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">手紙番をし、彼女の操る糸の一端を知る私だからこそ、そう思えたのだろう。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">ところで、私は彼女の所領と彼女とのやりとりだけは密かに目を通していた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">なぜかと問われれば、</span></p> <p><span style="font-size:14px;">いや、書くまい。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">その領地は、彼女が熱心に力を注いでいた場所だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そこで行われていたのは、彼女の罪のなかで一番重いものだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女は、その領地で諸島連合から禁制品の密輸入を画策し、指揮を執っていたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私が推測する限り、その流通網は広大であり、それでいて敵の警戒網にかからないようなものだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">まさに、魔法。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">どうしてそのようなことができるの、私にはわからなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">だが、その領地での活動において、彼女の野望を支援するものがいたことはわかっている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">実をいうと、私は彼女の後援者を知っている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">長年の覗き見によって、後援者がとある貴族派閥だということがわかったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">驚くべことに彼女を支援していたのは酒造に関わる業界だったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女が酒造業界と関係を持っているということすら知らなかった私は、当時ひどく混乱したことを記憶している。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界の内情を語るには、まず我が国での酒造の近代史を知っておく必要がある。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ひどいほうへ事態が転がり始めたのは、エスキ芋の大量流入がきっかけとなっていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">突如勃興したエスキア市国による芋バブルが崩壊した後、我が国は暴落したエスキ芋を大量に輸入することになった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">これは、我が国の芳しくない食糧事情を考慮すれば、誰もが考える方策だっただろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">いくら輸入しても尽きぬエスキ芋には、国王派も貴族派も飛びついたことが記録に残っている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そして、大量の食料を貯蔵し終え、それでもまだエスキ芋が余りあるということを知ったとき、貴族たちはエスキ芋を有効活用しようと躍起になった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">大半は市井からの好評を得るために、人道援助的な側面をもってエスキ芋が利用された。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">統計によれば、この政策のおかげで国内での暴動事件の発生数は極端に下がったとされている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そのなかで、他と違った動きを見せたのは酒造業界だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">アルコールのすべてを支配していた彼らは、エスキ芋の大量流入によって狂気に引き込まれていった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らの資本は貯蔵されたアルコールである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そのアルコールを無尽蔵に製造できるとすれば、どうだろうか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界にとって、未来への投資の対象は、彼ら自身が作るアルコールである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒とは、商売をするための商品などではない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らが自分で管理できる、投資の対象だったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">安い原材料を元に大量に作ったアルコールを貯蔵しておき、彼らの気分次第で値段を上げ下げして売ることができるとすれば。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">貴族による寡占状態だからこそ、談合はたやすいものだっただろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それに、彼らがアルコールを安定して卸せるところがあったことも、狂気に拍車をかけた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界は、軍という太い繋がりがあったからこそ、この計画を実行に移してしまったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">アルコールは我が国においては貴金属のように重宝される。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">飲用としても、消毒のために使われるにしても。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">腐らず、死なず、いつまでも人間のそばにあり続ける。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">長い視点でみれば、価値が下がり続けていく現金──それも国王派が管理している──よりも、現金の相場に依存してさえ、値が崩れないアルコールを持っているほうが、彼らにとっては都合がよい。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">需要が下がらない、魔法のような投資対象は、彼らを狂わせた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">すぐに酒の大量生産が開始された。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">だが、すぐに彼らは壁にぶつかることになる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">大量に提供されるエスキ芋にたいして、増幅剤の在庫がなくなったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">増幅剤は、効率的に酒造を行うために、必須な材料である。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">一つの設備あたりの取れ高を増やすためのものだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">増幅剤がなければ、酒造の効率は極端に下がってしまう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">裏を返せば、増幅剤を安定して入手できる彼ら貴族だからこそ、酒造業界を寡占できたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">その彼らをして、増幅剤を切らしたということは、彼らの狂気の終わりといっても過言ではなかっただろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そのとき、彼らには三つの選択肢があった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それを限界として、狂気を終息させるか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">設備投資を始めることで、狂気を存続させるか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らでさえ満足に入手できない増幅剤を入手するか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">狂気はすぐさま、満場一致で三つ目を選んだ。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">ところで、増幅剤とはいったいなにを指しているのか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">端的に表現すれば、それは糖分全般のことを指す。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">エスキ芋だけでは、大量のアルコールを作るには効率が悪すぎた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造の過程をみれば明らかだが、アルコールを作成する最終工程において、糖分が必要である。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そのため、糖類を増幅剤として投入することが肝要なのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">増幅剤は、その糖分を追加で投入することにより、酒造をより効率化させるための手段だったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">だが、我が国において糖分は希少なものだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">国産の糖分の産出地は数に限りがあり、それすらも気候の問題で収穫がおぼつかない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そこで、価値を見出されたのが、輸入糖類だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らは南方の土地から砂糖を輸入することで、増幅剤を手に入れようとしていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">特に、最有力候補とされたのは、諸島連合の砂糖だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">だが、我が国は諸島連合にたいして、砂糖には特に重い関税を敷いている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">関税だけではない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">法律に関しても、諸島連合からの砂糖の輸入は法で裁かれる重罪だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">実質的な禁輸措置である。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">他の供給源からの輸入も考えたようだが、陸路での輸送になるため、彼らといえど採算が合わなかったようだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らは港を求めた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">自分たちが管理し、誰からも──そう、国の法規からも──指図を受けない楽園を作り出そうとした。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らが求め、彼女がそれを叶えるために実行した場所。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">最小限の犠牲と最大限の成果が、私を打ちのめした。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">降り積もる雪のように、砂糖は彼女の領地へとやってきた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">誰も咎めるものはいなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">港湾は、彼らからもたらされる利益を甘受し、受け入れてしまったからだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">悪事の共犯者となって、たがが外れてしまったからだったのかもしれないが。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">外からあの領地をみれば、新しい領主が貿易によって莫大な利益をもたらしたと思われ、羨ましがられていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">半分は当たりで、半分は外れ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">密輸した禁輸品で法外な富を儲けているのだから。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私がこの件で一番懸念したことは、諸島連合にこの事態を把握されることだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">我が国の一部が率先して内憂を抱え込もうとしているのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そこにつけ込むなど、諸島連合にはわけもないはずだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ところが、どうしたことか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">諸島連合もこの事態を把握していないらしく、彼女の所領は平穏そのものだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">船から降ろされた積荷がうず高く積まれては、次の貨物がやってくる頃には片付いていく日々だったようだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私が知るかぎり、主な流通経路はラオデギアに集積された砂糖を湾岸沿いに彼女の所領へ運んでいたそうだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そこに、なにか帳簿上の細工があったのかもしれないが、私には調べきることができなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">一つだけわかることは、フォウ王国人の商人が、外地でのみ活動する際には、禁輸品についての取り扱いを緩和されるという、ある種の特約を拡大解釈していたということだ。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">荷揚げされた砂糖の行方は、雪の中に消えていった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女の所領の近くに、極地探索隊の重要な後方拠点あった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">領地の港で荷受けされた軍需物資は、ある程度の規模になるまで集積される。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女はそこへ砂糖を紛れ込ませることを指示した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">集積所では、莫大な量の物資が文字通り山と積まれるため、砂糖を潜り込ませることなど、容易かっただろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">また、集積所の警備が外へ持ち出されることにたいして敏感になっていたことも幸いした。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">帳簿上の物資と現実のそれが合わないことが当然だったため、物資が増えたことに気づくものはいなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そして、最初の砂糖は予想通りに、軍需物資として、軍に守られながら吹雪のなかを進んでいった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">誰も邪魔するものはいない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">いや、邪魔な詮索行動はすべて軍が跳ね除けてくれた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">軍需物資はいつでも、軍の腐敗を内包している。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それを監査しようとする警察や調査員の影があることは軍自身もよくわかっていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ならば、そこになにが隠されていようと、軍は外部に向けて軍需物資の中身を公表することはない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">かくして、砂糖は無事に極地探索隊のもとに運び込まれる次第となった。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">砂糖を待っていたのは、彼らの息がかかった貴族の子弟たちだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らは、その駐屯地でのリーダー格であり、様々な優遇措置を与えられていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">子弟たちは、物資の横取りすら許される存在だったと記憶している。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そのような者にかかれば、差出人不明、宛先も不明な物資を自分のものにすることは容易かったはずだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">子弟が砂糖について我が国の法を知っていたかは定かではない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">極地の吹雪に、法は無力だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">当事者以外にはわからない暗躍が始まったのは、子弟たちが隠した砂糖が膨大な量になってからだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">とはいえ、膨大な軍需物資に混ぜた砂糖が膨大に貯まるのに、三ヶ月とかからなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">海から吹く風に粉雪が舞うように、砂糖は貴族子弟たちの手を渡り、西へ西へと、物資にまぎれて移動した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">我が国の南東に張られていた警戒網は極地まで届いておらず、誰も子弟たちの運んできた物資を疑うものはいなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">極地を横断した砂糖は、南下して彼らのもとまで届くことになった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ここで初めて、子弟たちは砂糖の存在を看破されるかもしれない存在と対峙した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">我が国は極地から物資を南下させる場合のみ、税関とも呼べるものがあった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">「ありふれた悲劇事件」の教訓として、極地から旧遺物を持ち込むものがないか、検査する組織だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">だが、特務部も砂糖を発見することはなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">特務部が運営する税関組織は、極地のすべてから南下する物資のすべてを検査できるわけではない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">配属されていた特務部の数も多いわけではなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そうしたなかで、特務部の注意は旧遺物にのみ注がれており、生活物資として積まれていた物資を検めることは後回しになってしまっていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">まして、禁輸品が水に溶けていたり、塩を入れた袋に紛れていたりと、特務部が発見できなかったとしても、彼らの怠慢と断言することはできない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">特務部の一翼として、課せられた仕事をしただけである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">最終的に、税関すらくぐり抜けた砂糖は、様々な方法で酒造業界に関する貴族に引き渡された。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">極地から南下してくる物資には、意外なことに需要というものが存在した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">極地に集積された物資で、使われたものや、使われなかったものの行く先は、決まって南である。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">極地で使われ、ボロボロになった布の山を目当てにする商人が存在するように、彼らの膨大な物資が、民需を満たすのに一役買っていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">また、市井が求めるもののほかに、貴族がこぞって求めたのは、炭酸泉であった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">昔から、炭酸泉から湧き上がり口で弾ける水は、長寿の秘薬として重宝されてきた過去がある。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ただし、発見されている炭酸泉はみなどこかの貴族の所有物となれば、おいそれと炭酸泉を融通してくれることなどないだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ところが、極地で発見される炭酸泉は──子弟同士の縄張り争いはともかくとして──誰の所有物でもなく、また子弟の小遣い稼ぎの手段として運用されているからには、高値さえつければ誰にでも売却されるようなものだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それを買ったのは彼らだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">この試験的な取引が繰り返されるうちに、誰も砂糖の密輸に気づかないことが判明すると取引は次第に単純化していった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">最初は本当の炭酸泉に混ぜていた砂糖も、次第にただの水樽で運ばれていき、飲用に耐えられなくなったとの理由で樽ごと処分されるようになった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">水の処分は、彼らの息がかかった施設で行われた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">軍が処分する量を鑑みて、水樽をすべて引き受け、時間をおいて廃棄していくという業者が存在していた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らによってすでに買収されていた業者は、廃棄用と称して持ち込まれた、砂糖水の入った樽を回収していった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">安定した砂糖の流入経路を得られた彼らは、さっそくそれで増幅剤を作り、エスキ芋を使った酒造に精を出した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">こうして、我が国の酒造業界は衆目を逃れ、約束された栄華を手にした。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">投資した対象が自身の酒である以上、それを売却して初めて利益を確定することができるという点を除いては、順調なものだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らは彼女の功績をたたえ、彼女は酒造業界と深いつながりを持つようになった。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">もちろん、彼女は砂糖の流通を野放しにはしなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界の言いなりになるだけでは、彼女の計画は無償奉仕で終わってしまうからだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">すぐさま、砂糖の流通量は絞られることになった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">流通を管理するのは簡単で、極地で砂糖を管理していた子弟の一部を抱き込んだのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">最初の契約が遂行されたことによって、酒造業界から手に入れた端金を使って。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ときには、子弟同士の不慮の事故さえ起こさせた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女は、酒造業界とは別に、極地での砂糖流通の管理さえ行えるようになった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">子弟を本家から離反させることに、大した時間はかからなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">極地などにいる子弟というのは、大抵が貴族の中でも、家の力がないもので構成されている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">家督争いから真っ先に外された、まさに疎まれた存在だ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">子弟たちが、家の繋がりよりも金銭の繋がりに与ろうとしたのも、彼らなりの処世術である。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">まさか、掴んだ金を巡って殺し合いに発展するとまでは思っていなかっただろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">砂糖に足を取られた彼らの末路は、悲惨だった。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">極地の吹雪が赤い色を凍らせている間に、彼女は酒造業界に砂糖流通の管理を告知した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">堂々たる通告をしたためた、きらびやかな装飾の手紙は、意外なことに酒造業界の貴族に受け入れられた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女は、酒造業界の弱点を知り尽くしていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">手始めに、砂糖の流通を管理することが、酒造業界に恩恵をもたらすのだと訴えかけた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">まず、砂糖を手配するときに不手際があってはいけない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">欲を出して砂糖を大量に流通させようとすれば、当然ながら密輸が露見する確率が高まる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界が儲かるからと、わがままで砂糖を大量に仕入れようとすれば、どうなるかは自明の理である。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ところが、酒造業界も貴族の個人経営で行っている以上、個人の思惑で動くものは出てくるだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そのような要求にたいして、彼女に拒否する権利を与えておけば、酒造業界の一部が起こした暴走で、すべてが瓦解するのを防ぐことができる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女は酒造業界からの譲歩によって、長期的な利益を引き出すことに成功した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">次に、砂糖は安定した価格で卸されなければいけない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">流通量を安定させるには、量と価格の相場が必要だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それが密輸したものであっても。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">なぜなら、酒造業界も一枚岩ではなく、派閥が存在したからだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">新参者を退場させることに成功したならば、彼らの派閥同士での抗争が待っている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女が一部の貴族と交友関係を構築しようとしているという噂が流れたことも含めると、相場を確定させるという行為に飛びつくものは多かった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女に利権を与えることで、見返りとして他の派閥よりも安価に、大量に砂糖を手に入れることができれば、抗争に勝ち得るのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ところが、派閥ごとに利権を彼女に分け与えていれば、酒造業界自体が遠からず骨抜きにされて瓦解してしまう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界の貴族は、この点については連合を結成し、彼女との団体交渉に持ち込むことに成功した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女はそれを確認すると、彼らに譲歩した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">形式上ではそうなっているが、実際は彼女が酒造業界の分断を利用して、一括した砂糖の価格交渉と卸を引き受けることに成功したのである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">最後に、もし最悪の事態が起きたときに、後始末のできるものがいなければいけない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私達が考えていた最悪のこととは、砂糖が流通するということであった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">砂糖はとても貴重である。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">皮肉なことに、砂糖を貴重品にしているのは、我が国での独力生産が非常に難しい糖分にたいして、輸入すらも厳しく取り締まっているゆえである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ここが緩和されれば、砂糖はどのような高値がつくにせよ、一般的な流通網に乗せられることになる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">問題はこの点に集約されていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">流通が発生すれば、需要と供給が発生する。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">相場は大きく揺れ動き、混乱を生み出すだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">しかし、彼らが心配していたのはそのような単純なことではない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">砂糖は彼女から安定して仕入れられるのであるから、砂糖の相場がどうこうで心配する必要はないのである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">問題は、長期的な視点にたてば、流通する砂糖は相場が下がっていくだろうということだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">科学技術の発展が砂糖の生産を向上させることも含めて考えれば、砂糖が貴重なものでなくなる時代が訪れるかもしれない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そこで、彼らは砂糖の管理の条件を譲歩する代わりに、彼女と契約を交わした。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">極地に蓄えられた砂糖を、不必要になった時点で放棄することを要求したのである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界は彼女の手腕を褒め称えていたが、膨大な砂糖の備蓄量を知ると一転して震え上がった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">砂糖が合法化したとき、彼女が利益のために備蓄していた砂糖を我が国に放出すればどうなるかを想像したのだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">大量の砂糖による相場の崩壊と、それに伴う酒造業界の乱立は、彼らが溜め込んだ酒を売り抜ける手段を永遠に失うということを示している。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界が最終的な利益を確定させるためには、それまでに作った酒を売り抜けなければいけないのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">砂糖を極地から出さないためには、彼女の徹底的な管理体制を必要とする。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">誰が勝手な行動をとっても、計画が破綻するように見せつけることができるのは、まさに彼女の手腕によるものだった。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">流通の管理は徹底的に行われた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">砂糖は定期的な価格の更新と流通量の変更を受けながら、着実に酒造業界に供給された。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ときには流通量を絞ったり、価格を上昇させたりしたこともあった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">一見、彼女の独断で相場を動かしているようにも見える調整だったが、彼女は彼女で苦心していたようだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">予測はされていたが、見立てよりも早く砂糖相場が出来上がってしまったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女が卸す砂糖にたいして、酒造業界の貴族が即座の現金化を図ろうとしたのである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">もちろん、業界の内輪で行われた取引だったが、砂糖を酒造に使わずに転売する行為は、その場しのぎの資金調達としては優れていたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女が酒造業界における新参者の排除に協力したのも、この事態の発生をできるだけ遅らせるためだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">だが、結果的に派閥争いのなかから、現金化の動きが発生したからには、彼女にも止められるものではなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女にとって砂糖の流通量の管理はなによりも優先すべきものとなり、この行為が外部にまで及ぶことを防ぐために、様々な手を打ったようだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それに比べて、極地に溜め込まれる砂糖は増え続けた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">腐らず、密にたかる虫すらいない極地の環境で、砂糖は万年雪のなかに蓄えられ続けた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ここまでの量となると輸入費用も莫大なものになったはずなのだが、彼女はそれでも砂糖の輸入をやめなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界の造反や、事態の露見に備えて、物量作戦による目眩ましを展開するつもりで備蓄していたのだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">だが、酒造業界が三十年かけても消費しきれるかわからない量の砂糖が保管されている極地の状況を考えられるだろうか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">このまま砂糖が蓄え続けられたらどうなるのが、凡人の私には予測することができず、それが私を混乱させたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私の目には、諸島連合を出し抜き続けて砂糖を密輸できていることに感嘆し、彼女が大量の砂糖を密輸し続けていることに恐怖を覚えていた。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">雲行きが怪しくなり始めたのは、特務部が極地に分隊を派遣し始めた頃だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">きっかけは、施設が一つ発見されたことだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">後に炭酸水の水源となる施設は、</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ある人物が第一発見者だったことが原因で、非常に政治的な区分に設定された。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">貴族派が及び腰で動かないとわかった瞬間、特務部は施設の維持と管理を名目に極地へと分隊を派遣した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">特務部の躍進は極地にとどまらなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">独自の補給路を確保するために、彼女の所領に特務部を次から次へと送り込んできた。軍の補給線の隣に特務部の補給線を拓き、極地のための気象観測施設が所領に設置された。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">今から考えれば、派遣された気象観測士が彼女の所領を偵察するための密偵だったのだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">まったく、余分な人材を一時的にとどめておくためだけの組織だとばかり思っていたのだが。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">特務部は、やはり王国の暗部を内包していたらしい。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">観測士独自の専門用語で固められた郵便物は、解読の難解さから検閲をくぐり抜けた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女が本腰を入れていれば、もっと早く密偵の特定ができたかもしれない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">だが、彼女の置かれていた問題を鑑みれば、そこに手が届かなかったのは仕方のないことだ。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">彼女の抱える問題は、解決策を持たない袋小路に閉じ込められたようなものだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界の内部留保が貯まる一方で、酒のもととなる素材がなくなってしまったのである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">買い叩いたエスキ芋が底をついたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">暴落から十数年。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">どれだけ溜め込んでいたのかと呆れるほどだが、それでもなくなってしまった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">嘆かわしいことに、酒造業界はエスキ芋の枯渇にたいしてなんら対策を講じていなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女の思惑とは裏腹に、あまりにも短期間の儲けで満足して、次の課題に取り組まなかった結果の悲劇だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">なぜ砂糖が必要だったのか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それはエスキ芋をアルコールに変えるのに効率的だったからである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">エスキ芋がなくなれば、砂糖は必要なくなってしまうのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ところが、そうはならなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">意外な形で、酒造業界は砂糖を求め続けた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女は酒造業界が甘い見立てで次の行動を起こそうとしていることを看破できなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それが彼女の致命傷となった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界の半分は自分たちの失政を棚に上げて、彼女に泣きついた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">これではもう儲けを出すことはできない、と。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">もう半分は楽観的に、彼女から砂糖を安く大量に仕入れようとした。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">次の十年は砂糖菓子で儲けるぞ、と。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ここで、彼女は非常に頭を悩ませることになる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界は、砂糖の取り扱いにたいして意見が完全に二分化してしまった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">にもかかわらず、砂糖を以前より大量に必要とする点では一致していたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界の半分が求めたのは、増幅剤であるはずの砂糖を主軸に据えたアルコールの作成だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">もう半分は、酒造に使用していた砂糖を、砂糖菓子に転用する計画だ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女はすかさず砂糖菓子の計画を蹴った。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">どれほどの貴族と関係が悪化しようが、砂糖菓子計画を蹴り続けた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">砂糖を砂糖として使えば、遠からぬうちに悪事が発覚することがわかりきっていたからである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界の半分がアルコールと砂糖に頭をやられた集団だとは思ってもみなかったのかもしれない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女は、このどうしようもない集団の、もう半分の意見──ほとんど戯言だが──を真剣に聞かざるを得ない状況に追い込まれた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">エスキ芋に代わる原材料が見つかるまでの急場しのぎとして要求された砂糖の量は、増幅剤だけの利用を念頭に置いていたときと比べて、三倍や四倍では済まない莫大なものだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">流通量が増えれば、砂糖の露見する確率が上がるのは当然として、それを凌駕するほどの大きな懸念事項が存在した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">流通量を増やすということは、それを盾にして砂糖の価格を下げようとするだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">しかし、砂糖は砂糖としても、とても高価なのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">正規の手順を踏んでいないからこそ、破格の値段で取り扱われているということを理解していないものの、なんと多いことか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">砂糖が安価に流通すれば、してしまえば、砂糖は転売に晒されることになる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">計画発足当時でさえ転売は横行していたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">流通量が増えた状態で転売されれば、いずれは酒造業界の内輪同士での取引では絶対に収まらなくなってしまう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">エスキ芋が枯渇して酒造にたいする砂糖の利用率が下がっている状態なら、酒造以外のことで砂糖が売られてしまうのはわかりきったことだった。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">そして、彼女の命運が尽きた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界との関係の調整に奔走する彼女は、彼女の所領で動く、不穏な影を見落とし続けた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">数年も密偵を野放しにしていれば、所領の内情など、骨子から見抜かれてしまっていても不思議ではない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">いや、あえて野放しにしたのかもしれない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女は賭けたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">我が国の、複雑怪奇な「国益」に。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">静寂を破ったのは、急を知らせる一通の手紙だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">港に停泊していた船舶への臨検で、砂糖が出てしまったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ありえないことだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">港湾は最初に利益によって恭順させた場所だったからだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らが自分たちに不利なことを言うはずがない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">では、何が起こったのか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女の予測しないことが起きたのだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">おそらく、マルダル地方全体で諜報戦が起きているのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">特務部が派遣した気象観測士が我が国の密偵だったとして、彼らと対抗するのは我が国の別組織の密偵などではない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ワリウネクル諸島連合だ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">諸島連合の密偵が入り込んだのだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女の所領は、我が国と彼の国が散らす火花の火口となりかけていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">では、この臨検を仕組んだのは諸島連合側なのだろうか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">諸島連合は彼女の我が国のなかでの暗躍を知らないはずである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">もし、諸島連合が知っていればこのような事態では済まないはずだからだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それが意味することは、我が国が諸島連合への先制攻撃の材料として、彼女の所領を生贄に選んだということだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">誰もが口を揃えて「諸島連合の雪事件」と触れ回っているようだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">少しでも調べれば、諸島連合は事件に関与していないことなど明らかだろうに。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ここまでくれば、なんらかの意思が事件を諸島連合の陰謀にすり替えたがっているのは明らかだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女もこうなってはどうにもならないことはわかっていただろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私は複雑な気持ちで、国益という文字が踊る手紙を何度も送り出した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">帰ってくるのは、協力を得られないという返事だけだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女の所領は、対ワリウネクル諸島連合の前哨基地として差し押さえられるのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">国益は彼女を手放した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">賭けに負けたのだ。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">沈みゆく船から逃げるものはもういない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">館で事情を知っていたものは、皆どこかへ行ってしまった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">様々な理由をつけて館から出て行ったきり、帰ってこなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女はそれを責めることをしなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">バラバラになって逃げるという行為は、自殺と変わらないことを知っていたからだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">早く逃げるだけ、早く捕まってしまうということを知らないわけでもあるまいに。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それきり、彼女は手紙を読むことも、出すこともやめてしまった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">代わりに、こうして私が封を切り、私が読んで、私が物語の終わりを綴っている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女の所領から来る救援の要請が、私の書斎に溜まっていった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">港の砂糖は、部屋の隅に積もった塵を光のなかへ掃き出すように残らず摘発された。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">不届き者が横領し、防水袋に入れて港の底にうず高く敷き詰められた砂糖さえ、逃れることはできなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">防水袋はワリウネクル製ではなかったがために、中には泥しか詰まっていなかったようだが。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">唯一の救いは、軍の物資集積所に詰め込まれた砂糖は、軍の威信にかけて発覚を逃れたことだろうか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">どちらにせよ、ここまで大規模な作戦が白日の元に晒されたからには、後戻りなどできない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">港湾責任者が、ここにあった白い粉はすべて雪なのだ、と言い訳をしても、巨大な雪崩となった砂糖密輸事件を止められるものはいない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">追加で派遣された特務部の証拠品押収船が、何者かによって爆破されるという事件まで起きては、国王派からの報復が激化することは必至だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">誰がそれを起こしたかなどは問題ではなく、起きた事実だけが事態を悪化させる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女の所領は、速やかなる国王派の派兵によって占領された。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">抵抗は無意味だ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ガルゼラル領は大義名分を失った。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">手紙など出す気も起きないが、たとえ今から手紙を出したとしても間に合うまい。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">あの領地からの最後の手紙は、ガルゼラル邸を失って落ち延びたものたちが、国王派による略式裁判と市街地の暴動の様子を伝えたものだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">統治者を失った街は瞬間的に暴動状態となったようだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">領地が我が国にたいする不正によって富を得ていたとなれば、裁かれるのは領主だけでは済まないだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">恐怖が蔓延すれば、火の手が上がるのにそう時間はかからない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">様々な文書が混乱に乗じて焼かれただろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">だが、それすら国王派は利用して、特務部を鎮圧任務に動員したようだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">理由としては、検分中の施設への物資を運ぶ補給線が途絶することを予防するためだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">すべてが計算され尽くしていたとしか思えない手際である。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">少なくとも、この事態が思いつきで実行されたということではないだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">手紙を紐解いていくと、少しずつおかしな点が浮き彫りになってくる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">例えば、港湾責任者が釈明を切り出す前から「雪」という言葉は使われていたようだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">観衆に「諸島連合の雪事件」を問い詰められて初めて、とっさに港湾責任者ひねり出した釈明なのだろうと、私は見立てている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">つまり、この出来事が「諸島連合の雪事件」と命名されるのは、最初から規定の方針だったのだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">事件を起こし、事件がもたらす出来事を先に起こし、手早く事態を収束させる手際。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">わだちにはめられた車は、行先を選べない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">尊敬に値するほど鮮やかな手法が実行できる存在を、私は一つしか知らない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">発起人は、雪原雷帝の子孫だろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">間隙を突き、内憂を粉砕する。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それが貴族派の裏切り者のエルカ家というものだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼相手では、彼女も叶うまい。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そういった意味では、彼女の今の態度はまったく正しいのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">打つ手が無いのであれば、手を打たないことが最適解となる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それが死への一本道でも。</span></p> <p style="margin-left:10.5pt;"> </p> <p style="margin-left:10.5pt;"> </p> <p><span style="font-size:14px;">そうか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">エルカがやったのか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女の負けは最初から決まっていたのかもしれないな。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">最初の失敗が、エルカと彼女をつないでしまったのかもしれない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">エルカが私情を挟むような人間ではないことなどわかっていても、あのときからすでに決まっていた運命なのだとしても不思議ではない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">人の縁は繋がるのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私が繋いだ縁が彼女を破滅させたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">抱いたぬくもりを覚えている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">あの子を支えて持った右腕も、あの子を抱き込んだ左腕も。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ないはずの左手の指が、ふかふかだったあの子の服の感触を思い出す。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私達の罪が、回り回って私達を滅ぼすのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">これほど興味深いことはない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私に残された利き腕は、私達の終わりを綴ってくれる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私が罪を半分逃れた理由は、約束された滅びとでも言うのだろうか、それを記述するためにあったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私は贖罪のために、私の主を本にして売るのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">魅せられたように、使命が私を離さない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">「お前の免れた罪は、消してお前を離さない。殺された温もりを右腕が覚えている限り」</span></p> <p><span style="font-size:14px;">言われずとも、私が呪いにかけられていることなど、私自身が知っていたさ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">さあ、もう行こう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">特務部の名を借りた、我が国の暗部が屋敷の扉を叩いている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ついに彼らは元凶を突き止めたようだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私は、私達の最期を綴らない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女と共にいよう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">闇に消える私達の最期を、誰かが綴ってくれることを信じて。</span></p>
<p><span style="font-family:arial, helvetica, sans-serif;"><span style="font-size:14px;">私がこの手記を綴ることによって、私は課せられた使命を果たすことになる。</span></span></p> <p><span style="font-size:14px;">あの日から、私はこの瞬間を記述することを望んでいたのだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">誰から命令されたかなどということは関係なしに、私がそう望んでいたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">これで、一つの事件から始まった物語に終止符が打たれるのだと思うと、私はとても複雑な気分になってしまう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私の償いが果たされたのか、それすらわからぬまま、終止符は打たれる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私達の物語が、ついに終わろうとしている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">さて、私が今から書くのは、私が関与した、あの領地の出来事の顛末だ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">今は手紙を読み解くことしかできない私にできたこと。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それは、あの事件がどのような道をたどり、どのようにして潰えたかを記述することだけだ。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">ある領地で、領主の家族が毒殺されるという事件があった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それを指示したのは、私の主だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女は、その身で抱えきれないほどの野望を抱いていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">最後まで付き従った私でも、彼女の野望の底を覗くことは叶わぬほどの、深淵から去来する欲望。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">混沌とした敵意の一端が這い回り、発せられる瘴気がある平穏な家族を襲い、領地を攫っていった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女は自身の息のかかった貴族を、そこの領主に擁立してしまったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">計画が完全に成功しなかったことで、彼女は地方に幽閉されることになったが、それでも彼女は止まらなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">どういう手段を使ったのか、彼女の幽閉は、隠居といってもいいほど快適な生活を送れるようになったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">いつの間にか、監視さえ彼女の館から離れていき、ついには窓から見えなくなるほどまで離れてしまった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">次第に従者が増えていき、彼女は普段どおりの生活を取り戻しかけていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女が望めば、彼女はこの国のすべてを支配してしまえるのだと、そう思えるほどに。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">心身ともに深い傷を負った私にとって、私を雇い続けてくれる存在が彼女しかいなかったこということも相まって、私は彼女に最後まで付き従うことになった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私が手紙をどこかへ持っていくごとに、彼女の自体は改善された。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">あるときは彼女の親戚の屋敷へ、あるときは名も知らぬ酒場へ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">この世で最も尊い魔法のようにも見えた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">天才的な手腕が振るわれると、彼女につながったなにかが効率的に動き、彼女の思い通りになっているのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">これほど恐ろしく、美しいものがあっただろうか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">手紙番をし、彼女の操る糸の一端を知る私だからこそ、そう思えたのだろう。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">ところで、私は彼女の所領と彼女とのやりとりだけは密かに目を通していた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">なぜかと問われれば、</span></p> <p><span style="font-size:14px;">いや、書くまい。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">その領地は、彼女が熱心に力を注いでいた場所だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そこで行われていたのは、彼女の罪のなかで一番重いものだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女は、その領地で諸島連合から禁制品の密輸入を画策し、指揮を執っていたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私が推測する限り、その流通網は広大であり、それでいて敵の警戒網にかからないようなものだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">まさに、魔法。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">どうしてそのようなことができるの、私にはわからなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">だが、その領地での活動において、彼女の野望を支援するものがいたことはわかっている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">実をいうと、私は彼女の後援者を知っている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">長年の覗き見によって、後援者がとある貴族派閥だということがわかったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">驚くべことに彼女を支援していたのは酒造に関わる業界だったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女が酒造業界と関係を持っているということすら知らなかった私は、当時ひどく混乱したことを記憶している。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界の内情を語るには、まず我が国での酒造の近代史を知っておく必要がある。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ひどいほうへ事態が転がり始めたのは、エスキ芋の大量流入がきっかけとなっていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">突如勃興したエスキア市国による芋バブルが崩壊した後、我が国は暴落したエスキ芋を大量に輸入することになった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">これは、我が国の芳しくない食糧事情を考慮すれば、誰もが考える方策だっただろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">いくら輸入しても尽きぬエスキ芋には、国王派も貴族派も飛びついたことが記録に残っている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そして、大量の食料を貯蔵し終え、それでもまだエスキ芋が余りあるということを知ったとき、貴族たちはエスキ芋を有効活用しようと躍起になった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">大半は市井からの好評を得るために、人道援助的な側面をもってエスキ芋が利用された。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">統計によれば、この政策のおかげで国内での暴動事件の発生数は極端に下がったとされている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そのなかで、他と違った動きを見せたのは酒造業界だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">アルコールのすべてを支配していた彼らは、エスキ芋の大量流入によって狂気に引き込まれていった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らの資本は貯蔵されたアルコールである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そのアルコールを無尽蔵に製造できるとすれば、どうだろうか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界にとって、未来への投資の対象は、彼ら自身が作るアルコールである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒とは、商売をするための商品などではない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らが自分で管理できる、投資の対象だったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">安い原材料を元に大量に作ったアルコールを貯蔵しておき、彼らの気分次第で値段を上げ下げして売ることができるとすれば。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">貴族による寡占状態だからこそ、談合はたやすいものだっただろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それに、彼らがアルコールを安定して卸せるところがあったことも、狂気に拍車をかけた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界は、軍という太い繋がりがあったからこそ、この計画を実行に移してしまったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">アルコールは我が国においては貴金属のように重宝される。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">飲用としても、消毒のために使われるにしても。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">腐らず、死なず、いつまでも人間のそばにあり続ける。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">長い視点でみれば、価値が下がり続けていく現金──それも国王派が管理している──よりも、現金の相場に依存してさえ、値が崩れないアルコールを持っているほうが、彼らにとっては都合がよい。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">需要が下がらない、魔法のような投資対象は、彼らを狂わせた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">すぐに酒の大量生産が開始された。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">だが、すぐに彼らは壁にぶつかることになる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">大量に提供されるエスキ芋にたいして、増幅剤の在庫がなくなったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">増幅剤は、効率的に酒造を行うために、必須な材料である。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">一つの設備あたりの取れ高を増やすためのものだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">増幅剤がなければ、酒造の効率は極端に下がってしまう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">裏を返せば、増幅剤を安定して入手できる彼ら貴族だからこそ、酒造業界を寡占できたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">その彼らをして、増幅剤を切らしたということは、彼らの狂気の終わりといっても過言ではなかっただろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そのとき、彼らには三つの選択肢があった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それを限界として、狂気を終息させるか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">設備投資を始めることで、狂気を存続させるか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らでさえ満足に入手できない増幅剤を入手するか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">狂気はすぐさま、満場一致で三つ目を選んだ。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">ところで、増幅剤とはいったいなにを指しているのか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">端的に表現すれば、それは糖分全般のことを指す。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">エスキ芋だけでは、大量のアルコールを作るには効率が悪すぎた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造の過程をみれば明らかだが、アルコールを作成する最終工程において、糖分が必要である。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そのため、糖類を増幅剤として投入することが肝要なのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">増幅剤は、その糖分を追加で投入することにより、酒造をより効率化させるための手段だったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">だが、我が国において糖分は希少なものだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">国産の糖分の産出地は数に限りがあり、それすらも気候の問題で収穫がおぼつかない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そこで、価値を見出されたのが、輸入糖類だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らは南方の土地から砂糖を輸入することで、増幅剤を手に入れようとしていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">特に、最有力候補とされたのは、諸島連合の砂糖だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">だが、我が国は諸島連合にたいして、砂糖には特に重い関税を敷いている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">関税だけではない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">法律に関しても、諸島連合からの砂糖の輸入は法で裁かれる重罪だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">実質的な禁輸措置である。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">他の供給源からの輸入も考えたようだが、陸路での輸送になるため、彼らといえど採算が合わなかったようだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らは港を求めた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">自分たちが管理し、誰からも──そう、国の法規からも──指図を受けない楽園を作り出そうとした。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らが求め、彼女がそれを叶えるために実行した場所。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">最小限の犠牲と最大限の成果が、私を打ちのめした。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">降り積もる雪のように、砂糖は彼女の領地へとやってきた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">誰も咎めるものはいなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">港湾は、彼らからもたらされる利益を甘受し、受け入れてしまったからだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">悪事の共犯者となって、たがが外れてしまったからだったのかもしれないが。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">外からあの領地をみれば、新しい領主が貿易によって莫大な利益をもたらしたと思われ、羨ましがられていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">半分は当たりで、半分は外れ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">密輸した禁輸品で法外な富を儲けているのだから。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私がこの件で一番懸念したことは、諸島連合にこの事態を把握されることだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">我が国の一部が率先して内憂を抱え込もうとしているのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そこにつけ込むなど、諸島連合にはわけもないはずだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ところが、どうしたことか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">諸島連合もこの事態を把握していないらしく、彼女の所領は平穏そのものだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">船から降ろされた積荷がうず高く積まれては、次の貨物がやってくる頃には片付いていく日々だったようだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私が知るかぎり、主な流通経路はラオデギアに集積された砂糖を湾岸沿いに彼女の所領へ運んでいたそうだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そこに、なにか帳簿上の細工があったのかもしれないが、私には調べきることができなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">一つだけわかることは、フォウ王国人の商人が、外地でのみ活動する際には、禁輸品についての取り扱いを緩和されるという、ある種の特約を拡大解釈していたということだ。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">荷揚げされた砂糖の行方は、雪の中に消えていった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女の所領の近くに、極地探索隊の重要な後方拠点あった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">領地の港で荷受けされた軍需物資は、ある程度の規模になるまで集積される。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女はそこへ砂糖を紛れ込ませることを指示した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">集積所では、莫大な量の物資が文字通り山と積まれるため、砂糖を潜り込ませることなど、容易かっただろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">また、集積所の警備が外へ持ち出されることにたいして敏感になっていたことも幸いした。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">帳簿上の物資と現実のそれが合わないことが当然だったため、物資が増えたことに気づくものはいなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そして、最初の砂糖は予想通りに、軍需物資として、軍に守られながら吹雪のなかを進んでいった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">誰も邪魔するものはいない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">いや、邪魔な詮索行動はすべて軍が跳ね除けてくれた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">軍需物資はいつでも、軍の腐敗を内包している。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それを監査しようとする警察や調査員の影があることは軍自身もよくわかっていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ならば、そこになにが隠されていようと、軍は外部に向けて軍需物資の中身を公表することはない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">かくして、砂糖は無事に極地探索隊のもとに運び込まれる次第となった。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">砂糖を待っていたのは、彼らの息がかかった貴族の子弟たちだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らは、その駐屯地でのリーダー格であり、様々な優遇措置を与えられていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">子弟たちは、物資の横取りすら許される存在だったと記憶している。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そのような者にかかれば、差出人不明、宛先も不明な物資を自分のものにすることは容易かったはずだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">子弟が砂糖について我が国の法を知っていたかは定かではない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">極地の吹雪に、法は無力だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">当事者以外にはわからない暗躍が始まったのは、子弟たちが隠した砂糖が膨大な量になってからだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">とはいえ、膨大な軍需物資に混ぜた砂糖が膨大に貯まるのに、三ヶ月とかからなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">海から吹く風に粉雪が舞うように、砂糖は貴族子弟たちの手を渡り、西へ西へと、物資にまぎれて移動した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">我が国の南東に張られていた警戒網は極地まで届いておらず、誰も子弟たちの運んできた物資を疑うものはいなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">極地を横断した砂糖は、南下して彼らのもとまで届くことになった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ここで初めて、子弟たちは砂糖の存在を看破されるかもしれない存在と対峙した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">我が国は極地から物資を南下させる場合のみ、税関とも呼べるものがあった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">「ありふれた悲劇事件」の教訓として、極地から旧遺物を持ち込むものがないか、検査する組織だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">だが、特務部も砂糖を発見することはなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">特務部が運営する税関組織は、極地のすべてから南下する物資のすべてを検査できるわけではない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">配属されていた特務部の数も多いわけではなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そうしたなかで、特務部の注意は旧遺物にのみ注がれており、生活物資として積まれていた物資を検めることは後回しになってしまっていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">まして、禁輸品が水に溶けていたり、塩を入れた袋に紛れていたりと、特務部が発見できなかったとしても、彼らの怠慢と断言することはできない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">特務部の一翼として、課せられた仕事をしただけである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">最終的に、税関すらくぐり抜けた砂糖は、様々な方法で酒造業界に関する貴族に引き渡された。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">極地から南下してくる物資には、意外なことに需要というものが存在した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">極地に集積された物資で、使われたものや、使われなかったものの行く先は、決まって南である。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">極地で使われ、ボロボロになった布の山を目当てにする商人が存在するように、彼らの膨大な物資が、民需を満たすのに一役買っていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">また、市井が求めるもののほかに、貴族がこぞって求めたのは、炭酸泉であった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">昔から、炭酸泉から湧き上がり口で弾ける水は、長寿の秘薬として重宝されてきた過去がある。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ただし、発見されている炭酸泉はみなどこかの貴族の所有物となれば、おいそれと炭酸泉を融通してくれることなどないだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ところが、極地で発見される炭酸泉は──子弟同士の縄張り争いはともかくとして──誰の所有物でもなく、また子弟の小遣い稼ぎの手段として運用されているからには、高値さえつければ誰にでも売却されるようなものだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それを買ったのは彼らだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">この試験的な取引が繰り返されるうちに、誰も砂糖の密輸に気づかないことが判明すると取引は次第に単純化していった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">最初は本当の炭酸泉に混ぜていた砂糖も、次第にただの水樽で運ばれていき、飲用に耐えられなくなったとの理由で樽ごと処分されるようになった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">水の処分は、彼らの息がかかった施設で行われた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">軍が処分する量を鑑みて、水樽をすべて引き受け、時間をおいて廃棄していくという業者が存在していた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らによってすでに買収されていた業者は、廃棄用と称して持ち込まれた、砂糖水の入った樽を回収していった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">安定した砂糖の流入経路を得られた彼らは、さっそくそれで増幅剤を作り、エスキ芋を使った酒造に精を出した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">こうして、我が国の酒造業界は衆目を逃れ、約束された栄華を手にした。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">投資した対象が自身の酒である以上、それを売却して初めて利益を確定することができるという点を除いては、順調なものだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らは彼女の功績をたたえ、彼女は酒造業界と深いつながりを持つようになった。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">もちろん、彼女は砂糖の流通を野放しにはしなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界の言いなりになるだけでは、彼女の計画は無償奉仕で終わってしまうからだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">すぐさま、砂糖の流通量は絞られることになった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">流通を管理するのは簡単で、極地で砂糖を管理していた子弟の一部を抱き込んだのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">最初の契約が遂行されたことによって、酒造業界から手に入れた端金を使って。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ときには、子弟同士の不慮の事故さえ起こさせた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女は、酒造業界とは別に、極地での砂糖流通の管理さえ行えるようになった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">子弟を本家から離反させることに、大した時間はかからなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">極地などにいる子弟というのは、大抵が貴族の中でも、家の力がないもので構成されている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">家督争いから真っ先に外された、まさに疎まれた存在だ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">子弟たちが、家の繋がりよりも金銭の繋がりに与ろうとしたのも、彼らなりの処世術である。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">まさか、掴んだ金を巡って殺し合いに発展するとまでは思っていなかっただろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">砂糖に足を取られた彼らの末路は、悲惨だった。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">極地の吹雪が赤い色を凍らせている間に、彼女は酒造業界に砂糖流通の管理を告知した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">堂々たる通告をしたためた、きらびやかな装飾の手紙は、意外なことに酒造業界の貴族に受け入れられた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女は、酒造業界の弱点を知り尽くしていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">手始めに、砂糖の流通を管理することが、酒造業界に恩恵をもたらすのだと訴えかけた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">まず、砂糖を手配するときに不手際があってはいけない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">欲を出して砂糖を大量に流通させようとすれば、当然ながら密輸が露見する確率が高まる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界が儲かるからと、わがままで砂糖を大量に仕入れようとすれば、どうなるかは自明の理である。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ところが、酒造業界も貴族の個人経営で行っている以上、個人の思惑で動くものは出てくるだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そのような要求にたいして、彼女に拒否する権利を与えておけば、酒造業界の一部が起こした暴走で、すべてが瓦解するのを防ぐことができる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女は酒造業界からの譲歩によって、長期的な利益を引き出すことに成功した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">次に、砂糖は安定した価格で卸されなければいけない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">流通量を安定させるには、量と価格の相場が必要だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それが密輸したものであっても。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">なぜなら、酒造業界も一枚岩ではなく、派閥が存在したからだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">新参者を退場させることに成功したならば、彼らの派閥同士での抗争が待っている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女が一部の貴族と交友関係を構築しようとしているという噂が流れたことも含めると、相場を確定させるという行為に飛びつくものは多かった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女に利権を与えることで、見返りとして他の派閥よりも安価に、大量に砂糖を手に入れることができれば、抗争に勝ち得るのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ところが、派閥ごとに利権を彼女に分け与えていれば、酒造業界自体が遠からず骨抜きにされて瓦解してしまう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界の貴族は、この点については連合を結成し、彼女との団体交渉に持ち込むことに成功した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女はそれを確認すると、彼らに譲歩した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">形式上ではそうなっているが、実際は彼女が酒造業界の分断を利用して、一括した砂糖の価格交渉と卸を引き受けることに成功したのである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">最後に、もし最悪の事態が起きたときに、後始末のできるものがいなければいけない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私達が考えていた最悪のこととは、砂糖が流通するということであった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">砂糖はとても貴重である。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">皮肉なことに、砂糖を貴重品にしているのは、我が国での独力生産が非常に難しい糖分にたいして、輸入すらも厳しく取り締まっているゆえである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ここが緩和されれば、砂糖はどのような高値がつくにせよ、一般的な流通網に乗せられることになる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">問題はこの点に集約されていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">流通が発生すれば、需要と供給が発生する。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">相場は大きく揺れ動き、混乱を生み出すだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">しかし、彼らが心配していたのはそのような単純なことではない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">砂糖は彼女から安定して仕入れられるのであるから、砂糖の相場がどうこうで心配する必要はないのである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">問題は、長期的な視点にたてば、流通する砂糖は相場が下がっていくだろうということだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">科学技術の発展が砂糖の生産を向上させることも含めて考えれば、砂糖が貴重なものでなくなる時代が訪れるかもしれない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そこで、彼らは砂糖の管理の条件を譲歩する代わりに、彼女と契約を交わした。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">極地に蓄えられた砂糖を、不必要になった時点で放棄することを要求したのである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界は彼女の手腕を褒め称えていたが、膨大な砂糖の備蓄量を知ると一転して震え上がった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">砂糖が合法化したとき、彼女が利益のために備蓄していた砂糖を我が国に放出すればどうなるかを想像したのだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">大量の砂糖による相場の崩壊と、それに伴う酒造業界の乱立は、彼らが溜め込んだ酒を売り抜ける手段を永遠に失うということを示している。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界が最終的な利益を確定させるためには、それまでに作った酒を売り抜けなければいけないのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">砂糖を極地から出さないためには、彼女の徹底的な管理体制を必要とする。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">誰が勝手な行動をとっても、計画が破綻するように見せつけることができるのは、まさに彼女の手腕によるものだった。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">流通の管理は徹底的に行われた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">砂糖は定期的な価格の更新と流通量の変更を受けながら、着実に酒造業界に供給された。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ときには流通量を絞ったり、価格を上昇させたりしたこともあった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">一見、彼女の独断で相場を動かしているようにも見える調整だったが、彼女は彼女で苦心していたようだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">予測はされていたが、見立てよりも早く砂糖相場が出来上がってしまったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女が卸す砂糖にたいして、酒造業界の貴族が即座の現金化を図ろうとしたのである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">もちろん、業界の内輪で行われた取引だったが、砂糖を酒造に使わずに転売する行為は、その場しのぎの資金調達としては優れていたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女が酒造業界における新参者の排除に協力したのも、この事態の発生をできるだけ遅らせるためだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">だが、結果的に派閥争いのなかから、現金化の動きが発生したからには、彼女にも止められるものではなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女にとって砂糖の流通量の管理はなによりも優先すべきものとなり、この行為が外部にまで及ぶことを防ぐために、様々な手を打ったようだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それに比べて、極地に溜め込まれる砂糖は増え続けた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">腐らず、密にたかる虫すらいない極地の環境で、砂糖は万年雪のなかに蓄えられ続けた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ここまでの量となると輸入費用も莫大なものになったはずなのだが、彼女はそれでも砂糖の輸入をやめなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界の造反や、事態の露見に備えて、物量作戦による目眩ましを展開するつもりで備蓄していたのだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">だが、酒造業界が三十年かけても消費しきれるかわからない量の砂糖が保管されている極地の状況を考えられるだろうか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">このまま砂糖が蓄え続けられたらどうなるのが、凡人の私には予測することができず、それが私を混乱させたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私の目には、諸島連合を出し抜き続けて砂糖を密輸できていることに感嘆し、彼女が大量の砂糖を密輸し続けていることに恐怖を覚えていた。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">雲行きが怪しくなり始めたのは、特務部が極地に分隊を派遣し始めた頃だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">きっかけは、施設が一つ発見されたことだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">後に炭酸水の水源となる施設は、</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ある人物が第一発見者だったことが原因で、非常に政治的な区分に設定された。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">貴族派が及び腰で動かないとわかった瞬間、特務部は施設の維持と管理を名目に極地へと分隊を派遣した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">特務部の躍進は極地にとどまらなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">独自の補給路を確保するために、彼女の所領に特務部を次から次へと送り込んできた。軍の補給線の隣に特務部の補給線を拓き、極地のための気象観測施設が所領に設置された。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">今から考えれば、派遣された気象観測士が彼女の所領を偵察するための密偵だったのだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">まったく、余分な人材を一時的にとどめておくためだけの組織だとばかり思っていたのだが。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">特務部は、やはり王国の暗部を内包していたらしい。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">観測士独自の専門用語で固められた郵便物は、解読の難解さから検閲をくぐり抜けた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女が本腰を入れていれば、もっと早く密偵の特定ができたかもしれない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">だが、彼女の置かれていた問題を鑑みれば、そこに手が届かなかったのは仕方のないことだ。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">彼女の抱える問題は、解決策を持たない袋小路に閉じ込められたようなものだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界の内部留保が貯まる一方で、酒のもととなる素材がなくなってしまったのである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">買い叩いたエスキ芋が底をついたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">暴落から十数年。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">どれだけ溜め込んでいたのかと呆れるほどだが、それでもなくなってしまった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">嘆かわしいことに、酒造業界はエスキ芋の枯渇にたいしてなんら対策を講じていなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女の思惑とは裏腹に、あまりにも短期間の儲けで満足して、次の課題に取り組まなかった結果の悲劇だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">なぜ砂糖が必要だったのか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それはエスキ芋をアルコールに変えるのに効率的だったからである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">エスキ芋がなくなれば、砂糖は必要なくなってしまうのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ところが、そうはならなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">意外な形で、酒造業界は砂糖を求め続けた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女は酒造業界が甘い見立てで次の行動を起こそうとしていることを看破できなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それが彼女の致命傷となった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界の半分は自分たちの失政を棚に上げて、彼女に泣きついた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">これではもう儲けを出すことはできない、と。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">もう半分は楽観的に、彼女から砂糖を安く大量に仕入れようとした。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">次の十年は砂糖菓子で儲けるぞ、と。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ここで、彼女は非常に頭を悩ませることになる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界は、砂糖の取り扱いにたいして意見が完全に二分化してしまった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">にもかかわらず、砂糖を以前より大量に必要とする点では一致していたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界の半分が求めたのは、増幅剤であるはずの砂糖を主軸に据えたアルコールの作成だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">もう半分は、酒造に使用していた砂糖を、砂糖菓子に転用する計画だ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女はすかさず砂糖菓子の計画を蹴った。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">どれほどの貴族と関係が悪化しようが、砂糖菓子計画を蹴り続けた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">砂糖を砂糖として使えば、遠からぬうちに悪事が発覚することがわかりきっていたからである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界の半分がアルコールと砂糖に頭をやられた集団だとは思ってもみなかったのかもしれない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女は、このどうしようもない集団の、もう半分の意見──ほとんど戯言だが──を真剣に聞かざるを得ない状況に追い込まれた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">エスキ芋に代わる原材料が見つかるまでの急場しのぎとして要求された砂糖の量は、増幅剤だけの利用を念頭に置いていたときと比べて、三倍や四倍では済まない莫大なものだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">流通量が増えれば、砂糖の露見する確率が上がるのは当然として、それを凌駕するほどの大きな懸念事項が存在した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">流通量を増やすということは、それを盾にして砂糖の価格を下げようとするだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">しかし、砂糖は砂糖としても、とても高価なのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">正規の手順を踏んでいないからこそ、破格の値段で取り扱われているということを理解していないものの、なんと多いことか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">砂糖が安価に流通すれば、してしまえば、砂糖は転売に晒されることになる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">計画発足当時でさえ転売は横行していたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">流通量が増えた状態で転売されれば、いずれは酒造業界の内輪同士での取引では絶対に収まらなくなってしまう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">エスキ芋が枯渇して酒造にたいする砂糖の利用率が下がっている状態なら、酒造以外のことで砂糖が売られてしまうのはわかりきったことだった。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">そして、彼女の命運が尽きた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">酒造業界との関係の調整に奔走する彼女は、彼女の所領で動く、不穏な影を見落とし続けた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">数年も密偵を野放しにしていれば、所領の内情など、骨子から見抜かれてしまっていても不思議ではない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">いや、あえて野放しにしたのかもしれない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女は賭けたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">我が国の、複雑怪奇な「国益」に。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">静寂を破ったのは、急を知らせる一通の手紙だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">港に停泊していた船舶への臨検で、砂糖が出てしまったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ありえないことだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">港湾は最初に利益によって恭順させた場所だったからだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼らが自分たちに不利なことを言うはずがない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">では、何が起こったのか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女の予測しないことが起きたのだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">おそらく、マルダル地方全体で諜報戦が起きているのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">特務部が派遣した気象観測士が我が国の密偵だったとして、彼らと対抗するのは我が国の別組織の密偵などではない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ワリウネクル諸島連合だ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">諸島連合の密偵が入り込んだのだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女の所領は、我が国と彼の国が散らす火花の火口となりかけていた。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">では、この臨検を仕組んだのは諸島連合側なのだろうか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">諸島連合は彼女の我が国のなかでの暗躍を知らないはずである。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">もし、諸島連合が知っていればこのような事態では済まないはずだからだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それが意味することは、我が国が諸島連合への先制攻撃の材料として、彼女の所領を生贄に選んだということだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">誰もが口を揃えて「諸島連合の雪事件」と触れ回っているようだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">少しでも調べれば、諸島連合は事件に関与していないことなど明らかだろうに。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ここまでくれば、なんらかの意思が事件を諸島連合の陰謀にすり替えたがっているのは明らかだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女もこうなってはどうにもならないことはわかっていただろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私は複雑な気持ちで、国益という文字が踊る手紙を何度も送り出した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">帰ってくるのは、協力を得られないという返事だけだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女の所領は、対ワリウネクル諸島連合の前哨基地として差し押さえられるのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">国益は彼女を手放した。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">賭けに負けたのだ。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size:14px;">沈みゆく船から逃げるものはもういない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">館で事情を知っていたものは、皆どこかへ行ってしまった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">様々な理由をつけて館から出て行ったきり、帰ってこなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女はそれを責めることをしなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">バラバラになって逃げるという行為は、自殺と変わらないことを知っていたからだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">早く逃げるだけ、早く捕まってしまうということを知らないわけでもあるまいに。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それきり、彼女は手紙を読むことも、出すこともやめてしまった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">代わりに、こうして私が封を切り、私が読んで、私が物語の終わりを綴っている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女の所領から来る救援の要請が、私の書斎に溜まっていった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">港の砂糖は、部屋の隅に積もった塵を光のなかへ掃き出すように残らず摘発された。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">不届き者が横領し、防水袋に入れて港の底にうず高く敷き詰められた砂糖さえ、逃れることはできなかった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">防水袋はワリウネクル製ではなかったがために、中には泥しか詰まっていなかったようだが。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">唯一の救いは、軍の物資集積所に詰め込まれた砂糖は、軍の威信にかけて発覚を逃れたことだろうか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">どちらにせよ、ここまで大規模な作戦が白日の元に晒されたからには、後戻りなどできない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">港湾責任者が、ここにあった白い粉はすべて雪なのだ、と言い訳をしても、巨大な雪崩となった砂糖密輸事件を止められるものはいない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">追加で派遣された特務部の証拠品押収船が、何者かによって爆破されるという事件まで起きては、国王派からの報復が激化することは必至だった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">誰がそれを起こしたかなどは問題ではなく、起きた事実だけが事態を悪化させる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女の所領は、速やかなる国王派の派兵によって占領された。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">抵抗は無意味だ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ガルゼラル領は大義名分を失った。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">手紙など出す気も起きないが、たとえ今から手紙を出したとしても間に合うまい。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">あの領地からの最後の手紙は、ガルゼラル邸を失って落ち延びたものたちが、国王派による略式裁判と市街地の暴動の様子を伝えたものだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">統治者を失った街は瞬間的に暴動状態となったようだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">領地が我が国にたいする不正によって富を得ていたとなれば、裁かれるのは領主だけでは済まないだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">恐怖が蔓延すれば、火の手が上がるのにそう時間はかからない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">様々な文書が混乱に乗じて焼かれただろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">だが、それすら国王派は利用して、特務部を鎮圧任務に動員したようだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">理由としては、検分中の施設への物資を運ぶ補給線が途絶することを予防するためだった。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">すべてが計算され尽くしていたとしか思えない手際である。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">少なくとも、この事態が思いつきで実行されたということではないだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">手紙を紐解いていくと、少しずつおかしな点が浮き彫りになってくる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">例えば、港湾責任者が釈明を切り出す前から「雪」という言葉は使われていたようだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">観衆に「諸島連合の雪事件」を問い詰められて初めて、とっさに港湾責任者ひねり出した釈明なのだろうと、私は見立てている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">つまり、この出来事が「諸島連合の雪事件」と命名されるのは、最初から規定の方針だったのだろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">事件を起こし、事件がもたらす出来事を先に起こし、手早く事態を収束させる手際。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">わだちにはめられた車は、行先を選べない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">尊敬に値するほど鮮やかな手法が実行できる存在を、私は一つしか知らない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">発起人は、雪原雷帝の子孫だろう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">間隙を突き、内憂を粉砕する。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それが貴族派の裏切り者のエルカ家というものだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼相手では、彼女も叶うまい。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">そういった意味では、彼女の今の態度はまったく正しいのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">打つ手が無いのであれば、手を打たないことが最適解となる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">それが死への一本道でも。</span></p> <p style="margin-left:10.5pt;"> </p> <p style="margin-left:10.5pt;"> </p> <p><span style="font-size:14px;">そうか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">エルカがやったのか。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女の負けは最初から決まっていたのかもしれないな。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">最初の失敗が、エルカと彼女をつないでしまったのかもしれない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">エルカが私情を挟むような人間ではないことなどわかっていても、あのときからすでに決まっていた運命なのだとしても不思議ではない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">人の縁は繋がるのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私が繋いだ縁が彼女を破滅させたのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">抱いたぬくもりを覚えている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">あの子を支えて持った右腕も、あの子を抱き込んだ左腕も。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ないはずの左手の指が、ふかふかだったあの子の服の感触を思い出す。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私達の罪が、回り回って私達を滅ぼすのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">これほど興味深いことはない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私に残された利き腕は、私達の終わりを綴ってくれる。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私が罪を半分逃れた理由は、約束された滅びとでも言うのだろうか、それを記述するためにあったのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私は贖罪のために、私の主を本にして売るのだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">魅せられたように、使命が私を離さない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">「お前の免れた罪は、消してお前を離さない。殺された温もりを右腕が覚えている限り」</span></p> <p><span style="font-size:14px;">言われずとも、私が呪いにかけられていることなど、私自身が知っていたさ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">さあ、もう行こう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">特務部の名を借りた、我が国の暗部が屋敷の扉を叩いている。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">ついに彼らは元凶を突き止めたようだ。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">私は、私達の最期を綴らない。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">彼女と共にいよう。</span></p> <p><span style="font-size:14px;">闇に消える私達の最期を、誰かが綴ってくれることを信じて。</span></p>

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