『特別昇格』

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『特別昇格』 - (2018/01/25 (木) 16:26:31) のソース

<p> 前回までのあらすじ</p>
<p> 黒翼隊の襲撃を受けた、ヘボン達が身を寄せたのはリューリア地方を根城とする馬賊『ラーヂ』の地下要塞であった。<br />
 
 そこで明かされたのはヘボンの顔面に描かれた歪な紋様に対しての、中途半端でそれっぽくはあるが、特に確信は突いてこないラーヂ達に古くから伝わる絵図であり、その中には彼等だけではなく帝国全土を揺るがしかねない脅威である『邪龍』に関しても記されていた。<br />
 
 全く訳がわからないまま、とりあえず馬賊達の支援を取り付けてもらったヘボンは今後の動きを話し合う前に、『祈祷師』と呼ばれる胡散臭く暴力的な少年達の囲い込み私刑を受けて昏倒してしまう。<br />
   その昏倒した夢の中で見せられた光景とは、ラーバ中佐の生い立ちにまつわる幻影群だった。<br />
 
 次々に明かされる彼女の生い立ちに次第に魅せられていくヘボンであったが、突如として彼を悪夢の淵へ落とすかのように、残忍なまでに固執する邪龍の主たる少女の幻影の出現によって、彼は夢の中においても窮地に立たされてしまう。<br />
 そしてその窮地を救ったのも夢の中において現れた中佐だった。</p>
<p> </p>
<p> <span style="color:#A52A2A;"><strong>操舵手ヘボンの受難#34</strong></span> 『特別昇格』</p>
<p> </p>
<p>  安心感に身を置いていると、ヘボンは自然と瞼を閉じていた。<br />
   そして、次に目を開いたときには、また風景が変わっていた。<br />
 
 今度は何事だろうかと周囲を見回しながら、視界に入ってくる風景は先程までの一室に似ていたが、円状の部屋の形と室内中央に置かれた丸上の大きなテーブルに、それを囲うようにして壁際に設置されたソファにヘボンは横になっていた。<br />
 
 近くに目をやるとテーブルの上に、どす黒い色をした葡萄酒が詰められた細長い酒瓶とその隣に空の皮と骨で形作られた空のグラスが一つ、焼いた人工肉を小さく刻んだ物を皿に並べた料理が置いてある。<br />
 
 随分と豪華になった夢だとヘボンは思いながらも、自身の体の内から感じる強い倦怠感にもう一度身を横たえて瞼を閉じようとしたが、今度はヘボンの隣に座っている中佐がソレを許さないとばかりに静かに声を掛けた。</p>
<p> 「残念ながら、現実だよ。ヘボン君。君はしっかりと覚醒した。・・・3日も眠っておいて、まだ眠るつもりかい?」</p>
<p> 彼女はそう普段の様な不敵な笑みを浮かべ、寝入ろうとしているヘボンを見下ろしながら軽くその体を揺すってきた。<br />
   ヘボンにとっては今更、現実と言われてもその境界はあまりに曖昧になっている。<br />
 
 だが、仮にも現実と階級が上の者にそう言われれば、大人しく従う他がないとばかりにゆっくりと体を起こしながら、上官に対する無礼な装いを直すようにして、しっかりとソファの上に座り直そうとした。<br />
   しかし、目を開いてから強く感じる倦怠感がそれを邪魔するのか、彼の動きはあまりに緩慢でテーブルに突っ伏すのがやっとの事だった。</p>
<p> 「無理に起きなくても良いが、兎に角食事をしたまえ。話はその後だ」</p>
<p> 突っ伏したヘボンの顔色は何処までも青白く、声を掛けてきた彼女を虚ろな瞳で見上げていた。</p>
<p> 「なんなら、無理に食べさせることも出来なくはない」</p>
<p>
 そう彼女は此方を見下ろしながら、愉快そうな口調でそう言ったが、その言葉が言い終わる前には既にヘボンは緩慢な動きながらも、人工肉を手掴みで口に運んで咀嚼していた。<br />
 
 その様子を見て彼女は、つまらなそうな顔をして見せたが、一旦腰をソファに押しやって懐から煙草を取り出し、指に挟んではそれをクルクルと回しながら天上を少し見上げ</p>
<p> 「どうも、君は夢の内でないと自由に出来ないらしい」</p>
<p> そう小さく呟いたが、その声はヘボン自身の咀嚼音に掻き消されるほど小さくか細かった。<br />
 
 口に含んだ人工肉は、肉という外見だけは保っていたが、一口噛みしめるとまるで乾パンの様なモソっとした食感がして、おまけに肉汁という概念すら無いのか酷くパサパサと乾燥していた。<br />
   それを横にあった葡萄酒も同時に口に含むことで、ある程度の水分と辛みを乾燥しきった人工肉に持たせると、ようやく飲み込める程度の代物になった。<br />
   人工肉にしても三流品だが、その葡萄酒もそれほど味が良い物とは言えない。<br />
   だが、元より強い空腹感からなる倦怠感に苛まれているヘボンにとっては、臓腑を満たすことが出来る酒と肉の存在だけでも有り難く。<br />
   さり気なく隣の彼女が寄越してきた、水の注がれ膨らみを帯びた柔軟性皮ビッチャーの中身もしっかりと飲み干していた。<br />
 
 既にヘボンの脳裏には先程までの悪夢の記憶も、現状に対する認識も無く、ただただこの三流品の群れのような食料について脳内で文句を垂れながらも、有り難く頂くという事だけに集中していた。</p>
<p> 「・・・済んだかい?」</p>
<p> 漸くヘボンが食事を終えた姿を見ると、彼女は煙草を指に挟んだままに彼に聞いた。</p>
<p> 「・・・お見苦しいところお見せ致しました」</p>
<p>
 ここで改めて、ヘボンは己が随分と無礼な様を上官たる彼女に見せつけてしまったと気付いて顔を蒼くした。つい、夢の中のような自由な空気を未だに引きずってしまっていたらしい。だが、そう思えばあの夢とは何で、己はラーヂの穴蔵の中で無理に昏倒させられたのに、目が覚めた現実と言われるこの現在地は何処であるのかと、判然とした疑問が浮かんでくる。 <br />
  それについて、ヘボンはすぐに口を開こうとしたが、彼女はそれを煙草を挟んだ指を彼に向けて笑みを浮かべながら制した。<br />
  君の疑問は全てわかっていると言わんばかりの顔を彼女はしていたが、ヘボンの経験上この女は物事の核心については漏らさないだろうと言うことはわかっていた。</p>
<p>
 「今、君は私が指揮する中隊のレリィグの一室にいる。ここは私の私室だが、まぁラーヂ達の穴蔵から君を2日前に運び出した。私が何故ここにいるかについては、そう何度も説明させないでおくれよ?」</p>
<p>
 彼女はそう念を押した上で、長話をするぞという合図の代わりに、テーブルの隅に置いてあったマッチで煙草に火を点けて、紫煙をたっぷりと吸い込んでからそれを室内を包み込むかのようなゆったりとした勢いで吐き出した。</p>
<p>
 「ラーヂ達は驚いたが、ミュラー達が居たことで上手く仲介する事が出来た。現在、私たちはこのレリィグを含め、ラーヂ達の騎兵部隊を護衛に据えてヨダ地区へと向かっている。大体3日程の行程になるだろうね」</p>
<p> 彼女はそう説明しながら、煙草を持っていない手をゆったりと広げて、ヘボンに室内をもっとよく見るように促してきた。<br />
 
 目に強く刺激を与えすぎないように考慮された、薄い朱色の壁とそこに一つ装飾のために掲げられた軍旗のような垂れ幕には、クルカが円を描くように丸くなり中央部に向かってゲロか火か何かを吐き出しているような紋章が織り込まれている。<br />
   これがラーバ家の紋章であることをヘボンは朧気に思い出しながら、すぐ隣では彼女の説明がまたゆっくりと始まった。</p>
<p>
 「私たちが指揮を執っていたアルバレステア級は、保身派から発見されやすいので、兄上の方に流して人員とレリィグに搭載できる機体と装備だけ、このレリィグに移したという訳だ。ここ一帯の空域は既に保身派の監視下にあるからね。陸路の方が輸送部隊として偽装できるから、まだ幾らか安全な訳だよ」</p>
<p> 彼女の説明を聞きながら、ヘボンは壁に4つほどある手近な窓から、少し外の様子を伺ってみた。<br />
   空はある程度の雲の群れに覆われ、その隙間から日光が差し込み。<br />
   手近には前後に蠢いている巨大なレリィグの歩行脚が見えている。<br />
 
 そして、その向こうにはレリィグの走行速度に併せてゆっくりと併走している、地面に生えた丈の長い草原の色と混ざり合うほど迄に自然な色をしたヴァ型がいた。<br />
 
 その機体は数日前に見たことがあるラーヂ達の物であることはすぐに判ったが、そのヘボンが見ている視界に映るラーヂ達のヴァ型の他に、朱色に塗られたヴァ型も混じっているのを見て、どうやら元からのレリィグの護衛機もあるらしかった。</p>
<p> 「欲を言えば、もっと兵員と機体を集めたかったのだけれどね。物々しくしすぎると逆に目を引いてしまうから、護衛機はこれでも最小限なんだ」</p>
<p> ヘボンが窓の外を眺めていると、すぐ近くまで彼女は顔を近づけて、ヘボンが見ている光景と同じ物を見ながら言った。<br />
   しかし、ヘボンに取ってみれば十二分に物々しい行軍であるように思える。<br />
   今、視界に見えているだけでもヴァ型はラーヂの物が3機、それに加えて朱色の正規軍らしい色つきのヴァ型も2機確認できる。<br />
   しかも、挙げ句の果てにこれは配色が妙なヴァ型も1機いることにヘボンは疑問を呈した。<br />
   その配色がおかしいヴァ型とは、全身が黒く塗られており、機体側面の紋章を示す部分だけギラつくような派手な黄色で、紋章が書き殴られている。</p>
<p> 「あれは?」</p>
<p> ヘボンは思わず指を差してそのヴァ型について彼女に尋ねると、彼女はしたり顔に疑問に答えた。</p>
<p> 「あれは、黒翼隊のヴァ型さ」</p>
<p> 彼女の回答にヘボンは大いに狼狽えた。<br />
   黒翼隊が此方の完全な敵であるというのに、それがレリィグを護衛しているとはどういうことかと驚愕した。<br />
   しかし、狼狽えるヘボンの表情を見て、彼女は愉快そうな顔をしてそれに答えた。</p>
<p> 「大丈夫さ、あれは味方だよ。数日前までは黒翼隊の地上部隊に居たらしいが、乗員ごと此方へ投降してきたんだ。あの化け物が恐ろしくなったらしい」</p>
<p> 彼女は愉快そうな顔をしながらも、冷静な声音でそう語った。</p>
<p> 「化け物とは・・・邪龍の事でありますか?」</p>
<p>
 「それもあるね。だが、あの乗員の一番の心配はニエン少佐の事さ。既に完全に人間らしい形では無くなっているらしい。君だって、もし私から触手が生えていたら裸足で逃げ出すだろう?」</p>
<p> 「二本脚で立っているだけで逃げたくなるであります」</p>
<p> 「今のことは聞かなかった事にしておくよ」</p>
<p> ヘボンの皮肉というには真剣な面持ちでの返事に、彼女はクスリと小さく笑いながら目を逸らした。</p>
<p>
 「だが、ああいう化け物達に追従したくないと思う者いるが、逆によりつけ上がる者まで多くいる。現にあの乗員達から聞いた情報では、あの女は帝国を正す救世主として半ば神格化されている動きもあるらしいよ」</p>
<p> 「帝国を正す・・・」</p>
<p>
 「そうさ。連中の士気は天井知らずに上がっているよ。現状分析については地の底まで下がっているだろうけどね。だが、そんな狂信者じみた連中と正面とぶつかり合うのは賢明じゃないんだよ」</p>
<p> 彼女は静かに別の窓から景色を眺めながら、煙草をテーブルの上にあった灰皿に押し当てて消すと、外を眺めながら言葉を紡いだ。</p>
<p>
 「あの連中に対して、どうやって対処するかは帝国貴族達も大変苦慮している。下手な鎮圧部隊や内紛では潰せないことは十二分に、この前の邪龍の性能で把握しただろうからね。だが、それでは不十分だ。必要なのは邪龍に対するより詳しい情報・・・、つまり君がヘルマン中尉に託された書類等の事だ」</p>
<p>
 彼女がそう発言するまで、ヘボンはほとんどあの書類のことを記憶の隅に追い遣っていた。 確かコアテラの銃座の隅に押し遣っていたと思ったが、無事であろうかとふと不安になった。<br />
   だが、その不安げなヘボンの顔を見越したかのように、彼女は不敵な笑みを浮かべ尻目にヘボンを見た。</p>
<p> 「安心したまえ、あの書類はしっかりと此方で確認保管した。…ただ、内容を正確に把握するには時間を費やすだろうね」</p>
<p> 「どういう事でありますか?」</p>
<p>
 「『暗号化』されているんだよ。事が事なだけに当たり前の処置だろうが、何せ秘密主義の塊の様な『耳目省』が携わって作成された書類群だからね。あの樽女め、面倒な事をしてくれたよ」 </p>
<p> 彼女は少し苦々しげにそう言ったが、ヘボンには『樽女』が誰を示すのかすぐにわかった。 <br />
   わかりはしたが正確な名前を脳内に思い浮かべると、その人物に脳内で殺されるような気がして考えないことにした。</p>
<p> 「あの樽女の妹が君と同行してくれていたのは幸運だったが、彼奴め・・・あまりに工作員としての知識が無い」</p>
<p> 落胆したような色を言葉に乗せて、彼女はソファに背中を預けて天井を見上げている。<br />
   常に不敵そうな笑みを浮かべる彼女でも、いろんな意味であの姉妹には敵わないらしい。</p>
<p>
 「何も、暗号を解読する為の資料や設備が無いとはいえ、多少の事は理解していると思って尋問したのだけれどね。驚いたことにあの女は工作員としての自覚すら無かった!」</p>
<p> 「では、何だったのでありますか?」</p>
<p> 「ただの兵士さ。それも最前線に回されるような、暴れる事しか能が無い類いのね。内の部隊の連中の方が遙かに賢くてインテリだよ」</p>
<p> ソファに持たれた彼女は、半ば疲れ切った中年男性の様な雰囲気すら漂わせていた。<br />
   ころころ顔つきの変わる彼女を見て、ヘボンは少し可笑しく思えたが、顔には出さなかった。<br />
   ただ、脳内に妹は筆を握れないと零していた樽女の言葉が過ぎると、彼女はあの産業塔のポート上で朽ち果てたのかと思わずにはいられなくなった。</p>
<p>
 「兎に角、暗号解読の為にも設備と専門家がいるヨダ地区には向かわねばならないし、君に話したとおり、装備と兵員を整えない限りは保身派の囲いを突破出来ないだろうしね」</p>
<p> 彼女は少し髪を撫でながら一呼吸をおいて、改めてヘボンを見据えて口を開いた。</p>
<p> 「・・・君には、この事態が収束するまで働いて貰うからね」</p>
<p>
 要はそこに尽きると言わんばかりに、彼女は言い放ってから、ゆっくりとテーブル上の残っている葡萄酒の瓶へ手を伸ばすとグラスに一杯注いで、此方に手渡してきた。</p>
<p> 「飲み給えよ。君には他に選択肢が無い上で、こう言うのは不本意だが、私としても君の力を強く欲しているんだ」</p>
<p> 彼女は少し視線を落としながら、静かにグラスを差し出してくる。<br />
   それを促されるままにヘボンは受け取りはしたが、葡萄酒を口に含むことはまだ出来ないでいた。</p>
<p> 「・・・本当にこんな事態が収束するのでありますか?」</p>
<p> 「それは君や様々な者達の働きによる。だが、君がいなければ帝国は文字通り崩壊するかもしれないよ?」</p>
<p> 中佐はそう真剣な口調ではあったが、僅かに口元を緩めて見せた。</p>
<p>
 「最早、君の脱走罪がどうこうは言わない。既にこの非常事態に対し、実質的に軍規は無いに等しい。だが、君が確実にその罪状から逃れるためには、正式に私の部下となって作戦に参加する他ない」</p>
<p> 「もう、書類も無いのでありますね」</p>
<p> 「このグラスがその代わりさ」</p>
<p> 彼女はヘボンに酒を飲むように促してくるが、強くは言わなかった。<br />
 
 此方の出方を敢えて待っているらしい姿は公正にも見えたが、盤遊戯の詰めにした状態で最もらしい権利を与えようが、それは体裁を辛うじて保っている程度に他ならない。</p>
<p>
 「ただ、君はミュラーやベルン達とは違う。彼等には恩赦をちらつかせて付いてきて貰ったが、最早そんな物は効力を持たないというのに、それでもこの場に付いてきている・・・何故か判るかい?」</p>
<p> 「いえ、小官には・・・」</p>
<p>
 「・・・帝国人としての意地という物だよ。もう邪龍の様な化け物がこの世に生み出された時点で、彼等は悟っているのだ。あんな物を放置しておいて、何もかもが無事で済むわけが無い。脳天気にそれを信奉するのは、辛うじて危うい足場でそれに乗っかっている者達だけだ。・・・だが、我々はそうじゃない、ならば抗う他に手段は無いと思わないかい?」</p>
<p> 彼女はそう目を伏せながら、静かにではあるが語気を強くするようにゆっくりと語った。<br />
  しかし、ヘボンにはこれが彼女の口車であることは薄々と感じていた。<br />
  出来る限り最もらしい語句を並べて、相手をその気にさせる他もう無いのだろう。<br />
  既に実質的に彼等を率いてきた『特別恩赦』の効力は、彼女から失われている。<br />
 
 それでも、彼女に付き従う者達は一体なんであろうか、以前にヘボンはミュラー曹長に脱走して空賊にでもなるかと言われた事があったが、今それが朧気に彼の脳裏に蘇る。</p>
<p> 「飲み給えよ、ヘボン君。・・・いや、どうか飲んで欲しい」</p>
<p> 朧気な回想が脳裏に蘇ろうとしたとき、ヘボンは彼女が此方を見据えながら、目に僅かながらの水気を浮かべていることに気付いた。<br />
 
 彼女がこうして哀愁深い表情を浮かべたのは、昔の恋人を撃ち落とした際の物であったか、それを見ているとヘボンは情に流されては不味いような本能的な危機を感じたが、既に彼女とはこの短期間の内に妙に深い物で結ばれているような気さえヘボンは感じたくはなかったが、感じるほかなかった。</p>
<p> 「・・・誰しも、無言で付いてきてくれるが・・・、一人ぐらいは自分で説得したいのだよ」</p>
<p> 何処か悲しげに彼女は目を背けた。<br />
   その彼女が完全に視線を背けた瞬間に、ヘボンはグラスに注がれた葡萄酒を飲み干した。<br />
   喉に絡みつくような仄かな甘みは、喉を傷つけるようにして何処かヘボンの気を張り立たせた。</p>
<p> 「中佐殿」</p>
<p> そう静かにヘボンは彼女に声を掛けた。<br />
   ハっとしたような面持ちで彼女が此方を振り向いた。<br />
   すぐに視線は僅かに朱を帯びた彼の面持ちと空になったグラスへ向けられた。<br />
   それを見た途端に、今までに張り詰めていた線が一気に切れたように、彼女はテーブルに突っ伏して背中を震わせて嗚咽を漏らした。<br />
   その仕草にヘボンは少々戸惑ったが、暫くの沈黙を経て彼女に寄り添った。<br />
   まるで、小動物の様に彼女の背中が小さく弱々しく思えた。<br />
   今の今まであまりに恐ろしく、例の人外と化した少佐とどっこいどっこいにすら思える人物とは随分とかけ離れていた。<br />
   <br />
   それを見ながら静かに背中を摩ると、ヘボンは文字通り小動物みたいな知り合いである『エレン』の事を暢気に思い出していた。<br />
   彼女もヘボンが原隊に居る時に一度だけこの様に嗚咽を漏らしたことがある。<br />
 
 それはエレンの相棒でもあり、原隊のマスコットである、何故か兵長という階級まで持っている『ギュンバ』という図体のでかいクルカが、酷い手違いで物資の合間に挟まれて死にかけた際の事であった。<br />
   瀕死のギュンバを介抱しながら、彼女は普段の勝ち気な態度を崩壊させてまで幼子のような外見で幼子のように泣き喚いた。<br />
   そんな事を思い出しながら、ヘボンは随分と質の悪く自身にのし掛かってくる現実を再確認していた。<br />
   背中をゆっくりと摩る内に、彼女の嗚咽は少しずつ静かになっていくが、こんな調子でこの巫山戯た悪夢が済んでくれれば良いと強く思った。</p>
<p> </p>
<p>
 中佐は徐々に嗚咽の音を抑え、平静さを取り戻すとわずかに体をヘボンから自力で離れてから、顔をヘボンに向けない様にして、室内に掲げられた紋章の垂れ幕へ手を伸ばした。<br />
  どうやら垂れ幕の内側には窪みがあり、そこに何か仕舞ってあるらしく、彼女はそこから一つの包みを取り出してヘボンに手渡してきた。<br />
  手渡すと彼女は背中を向けて、感情の高ぶりを抑えるようにゆっくりと口を開いた。</p>
<p> 「・・・その包みの中に入っている、飛行帽を被り給え。何しろ君の顔は多くの者に様々な影響を与えるからね」</p>
<p> 彼女の言葉のままにヘボンは包みを開いた。<br />
   中には彼女の言ったとおり、飛行帽が入っていた。<br />
 
 しかし、それはどちらかと言えば覆面の様な形状をしており、目元のゴーグル代わりの遮光レンズはあの産業塔で耳目省の武装工作員達が装着していた不気味な装置を彷彿とさせる物だった。<br />
 
 口部分を覆うマスクはある程度の膨らみがあり、被る際にはある程度嘴の様に膨らむように思える造りであり、ヘボンの装いは産業塔の時分から飛行服を着込んでいるために、特にその飛行帽を付けることに対して違和感は無かったが、何しろ傍から見ればどうにも不気味に見える飛行帽に思える。<br />
   朱色に染められた生地に、耳部分に当たる箇所に紋章の刺繍が織り込まれているが、これは勿論ラーバ家の変わったクルカの紋章だ。</p>
<p> 「食事や喫煙以外はそう滅多に取らない方が良い。特に他人の目がある時はね」</p>
<p> 「それは、どういう・・・」</p>
<p>
 「君は敵対する組織という組織に目を付けられている。夢の中でも味わったとおり邪龍は・・・いや、あの娘は君に対して強い憎悪を募らせている。それは他の者すらも操るようになって君の命を狙うだろう。・・・この非常事態では君のように飛行帽を被ったままの兵士も普通に多いから、特に異様ではないだろうが・・・、私が見間違えると困るからね。・・・特別製さ」</p>
<p> 少し彼女は得意げにそう言ったが、ヘボンにはどうも彼女の言葉が別の意味を孕んでいる様な気がしないでも無い。<br />
   特に見間違えると言う点が引っ掛かったが、深く詮索する前に彼女は言葉を紡いだ。</p>
<p> 「それと君は非公式ながら『特務曹長』に昇格してもらう」</p>
<p> この言葉にヘボンは詮索どうこうの考えが吹っ飛んだ。<br />
   今更、昇格しようともこの中佐が真面目にそれ相応の給与を支払うようには思えないし、まさに便宜上の為の階級昇格がであることは目に見えていた。</p>
<p> 「そちらの方が、何かと都合が良いからね。その追加要項については君の軍隊手帳を書き込ませて貰った」</p>
<p> 「また、寝ている間に取ったのでありますか?」</p>
<p> 「人聞きが悪いな。手続き上必要な措置だよ」</p>
<p> 彼女は此方に顔を向けないままにそう言って見せたが、先程の嗚咽を漏らしていた様子から、随分と調子が戻ってきたように愉快そうな口調に戻っていた。</p>
<p> 「不都合な形ではあるが、君には早速、体慣らしにレリィグの護衛任務に就いて貰うが・・・いいね?」</p>
<p> その調子を崩さないままに、彼女はヘボンに背を向けたまま言った。<br />
   ここまで来ると拒否の『き』の字すら無かったが、敢えて一応の段取りを踏んでおこうという彼女の癖の様な物が垣間見えた。<br />
 
 それに対して、ヘボンは彼女に指示されたとおりに深く飛行帽を被りながら、レンズ越しに彼女を見据え、幾ら悪夢に苛まれようと体から離れることのない長い軍隊生活で染みついた、直立不動の敬礼を持ってしてその背中に答えるのだった。 </p>
<p> </p>
<p> 中佐に促されるままにヘボンは彼女の私室を後にした。<br />
   吹き曝しのレリィグの背上部通路には穏やかな風が流れ込み、彼の体に穏やかに当たる。<br />
 
 中佐に指示されるままにヘボンは飛行帽を既に被っていたが、レンズ越しに見る景色というものは何処か息苦しい物があり、任務等においての被り慣れたソレとは違って普段から装着していなければならないという事に、ヘボンは改めて随分と面倒な条件を引き受けてしまったと少々後悔した。</p>
<p> 「目が覚めたのかっ!ヘボンっ!」</p>
<p> だが、幾ら彼が飛行帽で顔を覆っていても判るのか、通路の先から此方に声を掛けてくる相手が見えた。</p>
<p> 「ニール、無事だったのか」</p>
<p> ヘボンはその此方へ歩み寄ってくる友人へ手を挙げながら、挨拶した。<br />
   産業塔から同行していたニールも、このレリィグにどうやら拾われたらしく。<br />
   おまけに産業塔の時よりは幾らか身奇麗な軍服に身を包んでいた。</p>
<p> 「それはこっちの台詞だ。三日前にあのガキ共にお前が殴り倒された時はどうしたものかと思ったが…、大丈夫か?殴られた傷は?動けるのか?」</p>
<p> 彼は心配そうに此方へ歩み寄ると、ヘボンの顔を覆っている飛行帽を訝しげに眺めながら、此方を気遣うような声音で聞いてきた。</p>
<p> 「問題ないよ。原隊に居た時はもっと長い日数の間、気を失ったものさ」</p>
<p>
 「そうか…。いや、何せお前が寝たまま運ばれて、ずっとあの女の部屋に連れ込まれてたから、何か妙な処置でも施されてるんじゃないかと勘繰ってたところだ」</p>
<p>
 ヘボンがマスクからくぐもってはいるものの、明るい声音で話すと、ニールは安心したように改めてまじまじと彼を見つめてから、自分についてくるようにと促してきた。<br />
  そのままレリィグの通路をゆっくりと歩いていくと、レリィグの周囲を歩行するヴァ型等に目がいった。<br />
   先程も中佐の私室の窓から眺めはしたが、改めて近くで見てみると随分と物々しい護衛に思えた。</p>
<p> 「ところで、皆…いや、ミュラー曹長やベルン軍曹に…あと、准尉殿はどうなったんだ?中佐には尋問をしたと聞いたが」</p>
<p>
 「あのデブとハゲマッチョとエーバの事か?問題ねぇさ。この長虫に乗ったときは耳目省だって丁寧に扱われたが、情報を知らねぇってなったもんで、他の連中と同じように護衛隊に雇われたよ」</p>
<p> ヘボンの質問について、ニールは皮肉げな顔をしながら後ろを歩くヘボンへ向けながらそう言う。<br />
  しかし、ヘボンはニールの言葉に妙な単語が使われた事が気になって、ふと足を止めた。</p>
<p> 「おい、待てよ。『雇われた』ってのはどういう意味だ?」</p>
<p> 「なんだ?お前は金貰っていないのか?」</p>
<p> 此方の足を止めた様子に、ニールも歩くのをやめて振り返ると呆れたような顔をヘボンへ向けてきた。<br />
   何やら一杯食わされているような感触をヘボンは感じ始めたが、それはすぐに的中した。</p>
<p>
 「ここに居る連中は、あの女についてきた囚人兵と雇われの傭兵達さ。ラーヂ達もあれだけ支援だのなんだのと俺達に宣ったが、支援目的のご本人が登場したら急に調子に乗りやがって、ヨダ地区まで護衛してやるとかなんとか言って金をせびり始めやがった。…まぁ、それで俺もあわよくばと事に一枚噛んでいる事を説明して幾らか支給される手筈になったがな」</p>
<p> 「お前だって、軍需物資の横流しで憲兵に追われている身じゃ、そんな偉そうに金を貰える立場になれる訳ないだろ?」</p>
<p> ニールの説明に対してヘボンは呆れ果てながら、通路の縁へ背を持たれさせながら、うんざりしたように少し空を見上げた。<br />
   一方のニールは肩を少し窄めながらおどけてみせた。</p>
<p> 「そこが他の奴とは違うところさ。ところで、お前が貰ったものといえばその飛行帽と階級章だけってのか?今時そんな物で喜ぶのはガキぐらいだぜ」</p>
<p> 「あぁ、『特務曹長』だとさ。呆れたよ、また中佐殿にこき使われる」</p>
<p> 「元気出せよ。無事に事が終わって原隊に復帰で除隊出来れば、追加の金も出るんじゃないのか?」</p>
<p> 「…事が、終わればな」</p>
<p> 気落ちしたヘボンの肩に腕を掛けながら、ニールは励ますように足を進ませた。</p>