ガリアグル地方 西にスクルフィル、南に帝国領ヨダ地区、オージア地方、北に六王湖、ヒグラート地方があります。 [[クランダルト帝国]]に征服されて以来帝国領の一部ですが、ここに住む90%がガリアグル系の民族で独自の文化が発展していました。 征服されてからも自らの出自と血を忘れることなく、一世紀以上クランダルトの統治下にありました。 表向きには帝国へ服従しつつも、それとは裏腹に民衆の間では激しい独立意識が高まっていたのです。 [[南北戦争]]中には反乱を起こしたところで圧倒的な力の前に一瞬で制圧されるのは目に見えていました。 彼らは待ったのです、帝国の力が弱くなり、他国が支援してくれるようになるまで。 約半世紀にも渡る壮絶な闘争の始まりです。 時は経ち、ガリアグルに転機が訪れた。 長く続いた[[南北戦争]]が終わり、世界は戦後処理に向けて動き始めたのだ。 644年 一世紀半に渡って行われた[[南北戦争]]はリューリアにて終戦が宣言された。対帝国同盟としての[[アーキル連邦]]は機能を失い 離脱に動く国家が多くあった。 645年 ついに[[アーキル連邦]]が崩壊。 アーキルは大混乱になる。が、正統アーキルを名乗り国家としての体裁を成す。 そして、その頃帝国は開始から既に半世紀は立とうとする皇国戦線にて大きく前進する。 647年 鉄槌作戦が開始され帝国は皇国に勝利する。 しかし戦勝祝いというよりはもう戦争はいいという厭戦気分の方が多くの国民の意見だった。 649年 ガリアグルでは独立連盟議会が発足 [[クランダルト帝国]]に対する蜂起が全土で発生し独立連盟議会が権力を奪取、 臨時ガリアグル国政府が成立。 ガリアグル国国家主席フェリナン・シェリエールの言葉です 「約一世紀にも及ぶ我々の苦難の中でこれは大きな進歩である。これよりガリアグル人民による暫定政府を発足する。政府を中心として、国全体で政策や秩序の回復を目指していく。」 650年 バルカでガリアグル国の独立宣言が成された。 同年、宣言を反乱とみなした帝国軍が鎮圧のためと越境を開始し、ガリアグル軍もこれに抵抗した。 これによりガリアグル国と[[クランダルト帝国]]は戦争状態に突入した。 ガリアグル独立戦争の始まりです。 シャル・カルペン・ド・ラトル将軍は言いました 「敵は帝国主義の超大国で優れた軍隊を持ち、最新兵器を備えている。戦闘機、空中艦、大砲、機関銃と豊富だ。一方我々は普通の市民で簡素で粗雑な武器しか持っていない。しかしガリアグルのために最後まで戦い抜く決意がある。」 ラトルは次々と地方を攻略していきましたが、帝国軍の兵器は脅威の破壊力でした。 ラッシジアで戦ったジャン・タインは語ります 650年3月のことです。 「我々の部隊は今朝からずっと攻撃を受けていた。そこで10個の精鋭大隊を作り、ラッシジアを取り返そうとした。その時、空から音が聞こえ、奇妙な鳥が現れた。だんだん近づいてくる。 [[グランバール]]だった。 銃撃や空爆から逃げるように部下に指示した。ところが[[グランバール]]は急降下、次の瞬間 地獄の光景が目の前に広がった。爆弾が落ちてきて辺り一面が火の海になり、数百メルトまで広がった。兵士たちは震え上がった。増粘焼夷弾だった。まるで天神の怒りを食らったかのようだった。」 当初、クランダルトは帝国の同胞だと思っていたガリアグルの独立戦争に対し、一過性の火遊びだろうと考え、治安維持の為の軍を送りこめば直ぐにでも鎮圧可能と踏んでいた。 実際、ヨダ地区から侵攻を開始した帝国地上軍は瞬く間にラッシジア、アンヌム、ゲノラグルを占領。カヲランデルタにまで軍を進め、半年もあれば臨時首都のバルカに帝国旗が翻るだろうと誰もが信じていた。 しかしカルカーソン北方のジャールにて兵力・兵站の不足や艦砲射撃の欠如など様々な要因により壊滅的な敗北を喫する。 実は帝国空軍艦隊の大部分はヨダ地区にて待機していた。 そして世界的な反戦ムードや帝国本国が国内問題として処理した事により、公にはガリアグル国内での軍事行動は存在しないことにされており、大規模な軍や艦隊を動かすことができなかったのだ。 ジャールの戦いの後、ガリアグル軍は守勢を脱し以降は積極的反攻に出た。 651年 現地の情勢悪化を確認したドクトルは、近い将来ガリアグル軍は六王湖などからさらに援助され北部ガリアグル制圧が困難になると予想し、ゲノラグル地区やラッシジア地区に兵力を集中し要塞化してガリアグル軍の攻撃に耐えねばならないと判断した。同年1月、ガリアグル軍首脳部もゲリラ戦術だけでは決定的な勝利はできないと判断、総攻撃に出る準備を開始した。 652年 帝国軍の劣勢は明らかになっていた。 ガリアグル軍は大規模戦闘は行なわず各地でゲリラ戦を積極的に行った。 兵站線や防備が手薄な場所を攻撃し、帝国軍を損耗、疲弊させた。 特に、カルカーソンとナーゼルグムでは激戦を続け帝国軍の小規模陣地を襲撃、次々と全滅させていった。帝国軍は小規模陣地群を撤収させ、アンヌム、カヲラン、カラングル、イエングルに兵力を集中した。結果、兵力消耗は防げたが主要拠点との連絡線が遮断され、点の支配に陥り各地で孤立した。特にカラングル攻防戦及び国道8号線の戦いでは「カラングルの悲劇」と呼ばれるほどの大敗を喫した。 653年 ガリアグル軍は各地の帝国軍主要拠点を攻撃し、これまでのゲリラ戦ではなく師団単位の正規軍を投入した。これらの部隊は砲迫を装備した近代的な部隊であった。 ガリアグル軍は各所で攻勢に出て、半年が経つ頃には帝国軍はゲノラグル地区まで戦線を縮小した。 653年末 帝国軍は遠隔地にガリアグル軍主力を誘引ののち一気に撃滅し、戦局を打開する計画を立てた。 計画のための適した地には六王湖国境より南、川沿いに広がるバリエグ平原が選ばれ、ゲノラグルに近い盆地であるパル=ド=スラーグルを拠点として帝国の主力部隊を囮として展開し、この拠点を包囲しようとガリアグル軍主力が現れた所を砲爆撃で粉砕し、精鋭の降下猟兵部隊をバリエグ平原に降下させガリアグル軍を包囲殲滅する作戦だった。 パル=ド=スラーグルは[[南北戦争]]中に建設された野戦飛行場の跡地があり、空からの補給と増援が可能で、ゲノラグルからの作戦機の往路を考えると補給地点に相応しい場所だった。 653年11月 帝国軍主力はゲノラグル北方のパル=ド=スラーグルに集結していた…。 当時、ガリアグル軍兵士だったアラン・マルセルは帝国軍がパル=ド=スラーグルの飛行場跡地に展開、築城しているのを目撃しました。 計画は始動した。「シェッツドランケッド作戦」の開始です。 パル=ド=スラーグルに4個降下猟兵大隊と1個機甲中隊が降下、同地を占領し、約2万人の兵力と火砲及び10両の空挺戦車が配備され、陣地設営、空中補給および近接航空による支援態勢が整えられた。 「帝国軍は強い。戦車や装甲兵、降下猟兵。激戦になるだろう。パル=ド=スラーグルが勝敗を分けるに違いない。」 11月末 帝国空軍のヘルケ中型爆撃機から増粘焼夷弾が落とされます。 しかし帝国軍の要塞は彼らの4倍の戦力のガリアグル兵に包囲されていました。 ラトル将軍の言葉です 「偵察員から毎日報告を受けた。敵はパラシュート降下によって兵士や兵器、有刺鉄線、物資などを運んでいた。さらに[[南北戦争]]時代の滑走路を修理している。帝国軍は宣言した。これは攻撃じゃない 我々はこの場所に留まるつもりだ。そう言った。 受けて立とう。」 ガリアグル軍はパル=ド=スラーグル降下の一報が入ると、それまで分散配置していた5個師団の集結を決定。周辺の諸民族と連携し隠密裏に陣地に大砲・食糧を運び込んだ。また小規模なゲリラ部隊を駆使して各地の帝国軍を拘束し部隊移動を秘匿した。 「帝国軍は迂闊でした。パル=ド=スラーグルには砲兵による攻撃がないと思っていたのです。我が軍の第27技術工兵大隊は夜通しで作業し、パル=ド=スラーグルへの道路を拡張した。さらに山中を通る道を作り、人力で前線まで大砲を運べるようにしました。」 42日間の地獄と語り継がれる戦いが間もなく始まります。 ガリアグル兵士のサイッド・シャールです 「到着には一か月もかかった、夜に歩き、昼に休憩した。道端で寝ることもあった。空襲に備えて塹壕も掘った。」 「彼らは武器も多く性能が良い。しかし我々には切り札がある。それは勇気だ。 我々は最後まで命を懸けて戦い抜く。」 「ガリアグルを再び明け渡したりはしない。」 654年2月 パル=ド=スラーグルへの攻撃が開始されました。 攻撃開始からガリアグル軍の猛烈な砲撃が加えられた後、人海戦術により独立した高地に設けた3個の帝国軍陣地は早々に陥落した。帝国軍は劣勢となり2月末には滑走路も使用不可能になった。 ラトル将軍の言葉です 「帝国軍は飛行場を防衛できなかった。彼らの鉄壁の防御が崩壊したのだ。パラシュート降下でしか部隊を増強できず、負傷者の送還も出来ない。拠点のベッドは50台しかないが何百人という負傷者が出ている。帝国軍には悪夢だろう。」 壮絶な戦いは[[南北戦争]]のカノッサや寒波戦争を思い起こさせました。死傷者数は増大していきます。 「今夜、帝国軍の中枢を攻撃し、息の根を止める。」 帝国軍はゲノラグルから2個降下猟兵大隊の派遣と近接航空支援を増強させたが、占領した陣地の塹壕に篭るガリアグル軍にはあまり効果がなかった。悪天候が災いし空軍の活動は制限され、ガリアグル軍の砲撃支援を受けた夜襲で次々と陣地を攻略していった。 末期には一つの小陣地のみをかろうじて保持するのみで、それも3月28日に陥落し生き残った帝国兵は捕虜となった。 ラトル将軍はその日の午後 攻撃中の部隊から報告を受けます。 「敵の兵士が降伏しました!」「帝国軍司令官を拘束!」 突然、本部の全員が歓声を上げた 手を叩いて抱き合った。飛び上がって喜んだ。 驚きで顔を青ざめさせた者もいた。 両軍共に数々の勇敢な行動が見られ、パル=ド=スラーグルの戦いは伝説的な戦いになった。 ガリアグル軍は輝かしい大勝利 帝国軍には恥ずべき敗北でした。 両軍の死者は合わせて1万8000名以上 帝国軍の捕虜は4000名になりました。 パル=ド=スラーグルでの勝利にガリアグル中が沸きました。 当時の帝国統治省役人 クラウツ・ハイノが振り返ります。 「最初は信じられませんでした。 北半球諸国と覇を競った[[クランダルト帝国]]に属領だったガリアグルが勝ったのです。兵士たちはごく普通の市民でした。」 パル=ド=スラーグル陥落後、ガリアグル軍はラッシジアに攻勢を仕掛け、手を緩めることなく交渉を有利に進めるべく、各地への攻撃を実施した。4月に帝国軍はラッシジア、アンヌム、イエングルを結ぶ一帯から撤収を開始、4月末にはゲノラグル地区からも撤退しここにいたり帝国の敗北は明白となった。 654年5月 カルログラード会議 中立を保っていたネネツでの都市でガリアグルとクランダルトの和平交渉が行われ、次のような和平協定が結ばれた。 ・停戦の即時実施 ・ガリアグル領からの帝国軍の即時撤収 ・ガリアグルの独立を確定する 等 ようやく帝国がガリアグルから手を引いたのです。 ラトル将軍の言葉です 「平和な期間が必要だ。首都となる場所を決め、空港や道路を整備してこの勝利の成果を高めるべきだ。そして将来の独立保証のために軍を準備する必要がある。」 ガリアグル国国家主席フェリナン・シェリエールの言葉です 「我々は数々の勝利を収めてきた。しかし今回の勝利は格別である。帝国政府がガリアグルの主権を認めたのだ。これから集中して取り組むべきは、民族の団結とこの独立を安定させることである。」 独立による混乱は国家間の対立を招き、帝国との怨恨は根深くその終結には長い時間がかかります。 ここからもまた彼らには苦悩や困難が待ち受けており、平和は遠い道です。 これからなのです。 帝国との国交が回復するのは戦争から30年後の事です。 ガリアグルは六王湖やネネツ、後に独立するオージアとの関係を深めていきます。 そして冷戦に巻き込まれていくのです。 ガリアグル独立40周年記念特別番組 「パル=ド=スラーグル」 終 制作・著作 バレグ中央放送