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Happy-go-lucky (幸運) Ⅰ

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Happy-go-lucky (幸運) Ⅰ ◆Live4Uyua6



 ・◆・◆・◆・


「……っと、そろそろ行かないと」

格調高いソファに実を埋めていたクリスは目を擦りながらゆっくりと立ち上がった。
濡れていた眼はきっと寝ていたのではなくて。
クリスはじっと窓の先を見つめている。
彼にしか見えない雨が降っていた。
思い出しているのは何の事だろうか。
それはクリスにしかわからないけど。
その表情は何処か陰鬱なところがあった。

「…………さて、次はなんだっけかな」

口では自分がやるべき仕事を思い出そうとしているが、頭に浮かぶのは別の事だった。
思うのは先程考えていた事。
クリスは、クリス・ヴェルティンは戻る所も進む所も無い。
ならばクリスはどうすればいいのだろう?
クリスにはその答えが浮かぶ事がなく。
結局の所、停滞するだけであった。
止まったままでもいいというつもりはクリスにも到底無かったが、それでも止まるしかないのは哀しくも歴然たる事実。
それならば、

「なら、今考えても仕方ないのかな」

今考えて無理に答えを探しても見つかる事はないのだ。
クリスはゆっくり背伸びをする。
不意に笑みがこぼれる。
そうやって、思考を放棄する事が停滞の証だというのに。
苦笑いしか出なかった。

「本当……とんだ戯言だ」

下らない……戯言だった。
停滞を意味するのが解っているのに、それでも考える事を止めるなんて。
クリスはそうやって自嘲していた。
窓から見える雨は少し勢いを増しているような気がした。

「お、クリスじゃないか」
「あ、ちょうどいい所にいたねー」

そんなただ窓を眺めていたクリスに対してかかる二つの声。
クリスはその聞き覚えのある声にゆっくりと振り返った。薄い笑みを浮かべたまま。
振り返った先には予想通り、大十字九郎羽藤桂が穏やかな笑みを浮かべてクリスの方に向かって来ている。
二人ともプールから直ぐ着たのか髪はまだしっとりとした湿り気が感じられる。
桂にいたってはトレードマークのツインテールを解いて長い髪をそのまま背に流していた。
それが逆に大人びた雰囲気を出していてクリスは少しドキッとしてしまった。

「二人とも今プールから上がり?」
「うん、気持ちよかったよー」
「いや、だから遊んでいるわけじゃねえからな……」
「わかってるよー九郎さん、ちゃんと訓練もしたもん」
「わかってんのかな……本当」
「うん、わかってるよ。だって思いっきりやられて気絶したし」
「おい!? 根に持ってねーか!?」

くすくすと笑う桂に少しオーバー気味に反応する九郎。
そんな微笑ましい光景に思わずクリスも笑みがこぼれてしまう。
先程あんなに鬱蒼としていた気分も無邪気な笑顔のお陰でいくらか晴れた気がした。
少しの間笑いあって、そして九郎が思い出したように

「あ、そうだクリス。アルが呼んでたぞ」
「アルが?」
「ああ、何かお前に用事あるみたいだったけど」
「そう……まだプールに?」
「うん、柚明さんも一緒だよ」
「解った、ありがとう、ケイ、クロウ」
「ううん、大した事無いよ」
「ああ、それじゃあ俺達このままカジノだから」
「うん、ゆっくりしてきて」

そう言って九郎と桂は大きく手を振りながらクリスの下を離れカジノに向かっていく。
その温かい背をクリスはずっと見守っていた。
短かったけど何か温かく微笑ましかったあの光景。
それを少し思い出しながら、もう一度笑った。

「さて……アルの所に向かおう……かな」

その呟きを誰も聞く事は無かったけどそのクリスの声は少しだけ明るかった。


 ・◆・◆・◆・


「……随分とまた大きいな」

水着に着替え屋内プールの中へと入ってきたクリスは、視界いっぱいに広がるその光景に思わず嘆息した。
クリスも子供の頃は川で水遊びや水泳ぐらいはしていたが、こんな大きなプールを見ることなど、ましてや泳ぐことなど経験がない。
だから、こんな派手な色使いの下着のような水着なんての初めてだった。
少し恥ずかしいとクリスは思いつつも、温泉の時はそれすらなかった事を思い出し、結局別にいいかと結論付ける。
そして辺りを見回し……、そして目的の人物はすぐに見つかった。

「アル、僕に何か用?」
「おお、待っておったぞ、クリス」

目的の人物、アル・アジフはぺったんこで絶壁でしかない胸をそらしながらクリスに応答した。
浮き輪に身体を任せ、揺れる水面を細い足でパチャパチャと少し気だるげに蹴っている。
その先のプールサイドでは柚明が一冊の本を前に腰を下ろし、なにやら集中している様子であった。
おそらくあれも魔術の訓練なのだろう。アルと柚明が受け答えをする様子を見るに、それも上手く行き始めているようであった。

子供のようなアルと、逆に大人びた柚明。二人の水着姿を見続け、クリスはばつが悪そうに目を逸らす。
こんな下着かそれ以上に露出の高い水着なんてものをクリスは見たことがない。
昼に見たなつきや、さっき見た桂も同じようにしていたのだから彼女達の常識では普通なのだろうが、しかし目に毒なものだった。
とりあえず、このままではいけないとクリスはアルに話の先を促した。

「それで、何の用かな?」
「ふむ、クリス、汝に問おう」

アルは少し考え、凛とした瞳でクリスを見た。
クリスはそのじっと見る瞳に少し緊張しながらも彼女の次の言葉を待つ。

「クリスよ、汝には戦う覚悟があるか?」
「え……?」

クリスはアルの言葉に不意をつかれた様に聞き返してしまう。
アルは片目を瞑りながらクリスにもう一度問うた。

「戦うという事……。
 これから妾達はあの主催者達共と戦わねばならん。正直汝を戦わせるのは気がひけるが、……汝は少しでも魔力があるのだ。
 ……背に腹は変えられまい……汝にも戦ってもらいたいのだ……汝も唯湖という目的があるのであろう?」
「……それは人を傷つけることだよね」
「……まぁそうなるであろうな」

クリスはそっと心の中で戦うと言う言葉を反芻する。
余り現実味が無い言葉のように思えたが実際直ぐ傍まで来ているのだ。
そしてアル達は少しでも戦力の足しにと魔力が使えるクリスに白羽の矢を立てたという事。
唯湖を救う為には彼女が待っている主催者側の基地に行くしかないのだ。
そこに彼を害そうとする敵が居るのは確実で、それを排除しなければならない。
だから……戦うしかない。
例え人を傷つけることになっても。
クリスはもう一度その言葉を反芻して、アルの言葉に答えた。

「クリス……無理とはいわん戦―――」
「――――戦うよ。僕も。僕も戦う」

アルが言い切る前にクリスは直ぐ返答した、返答できた。
少し驚きながらもアルはまじまじとクリスの顔を見つめ、そこに浮かぶ決意を推し量る。
クリスの目は真剣そのもので、口元には何時ものような笑みが浮かんでいた。
彼は言葉にする。
自身の、クリス・ヴェルティンの覚悟を。

「人を傷つける為じゃなくて……護る為に。大切な人を護る為に。救う為に。僕は戦うよ」
「汝はそれでいいのか?」
「うん……奪うんじゃなくて護る為に……護る為だけに僕は戦いたい」

誰かを奪うのではなくて大切な人を護る為に。
玖我なつきを。
来ヶ谷唯湖を。
護る為に……戦いたかった。
黙って、護られるだけではなく。
クリス自身の手で大切な人達を護らなければ意味が無い。
自分の大切な人ぐらい自分の手で、護りたかった、救いたかった。
それがたとえ無力な自分でも。
護る……それだけの意志は絶対無くさないように。
誰にも負けないように。
クリスは戦うと。
それが、玲二からの問いの答えになるだろうと。
クリスは戦う覚悟を決めた。

アルはその言葉に会心の笑みを浮かべ腕を組みながら言う。

「ふむ……まぁ合格よの。クリス。しかと汝の言葉を聞いた。汝の覚悟しかと確かめたぞ」
「うん……」
「ならば護る為に戦うがよい、クリス。これは汝への手向けだ」
「……ロイガー……ツァール?」

クリスに手渡したもの。
ロイガー&ツァール。
クリスがこの場で使い続けていた武器。
元々はアルの愛用品である道具。
なのにそれをクリスに託したのだ。
クリスは戸惑いながら

「いいの……大事なものでしょ? アルが使ったほうがいいんじゃ……」
「良い。汝が戦うならばなるべく使い慣れたものがいいだろう。貸すだけなのだ、しっかりと返すのだぞ……クリス」
「うん……」

アルの好意を、アルの優しさをしっかりと受け取る。
クリスは笑いながらその使い慣れた剣を握った。
これは傷つける道具ではなく護る為だと。
例え、それが詭弁、戯言だとしても。
そうだと思うように強く握った。

「……それとクリスさん、これもです」
「剣と……鞘?」
「エクスカリバーとアヴァロン……あのアーサー王が使った武器です……それをクリスさんが使ってください」
「アーサー王の武器を僕が……いいの?」

何時の間にか訓練を止めた柚明から渡されたのは一振りの剣と鞘。
それはかのアーサー王が使ったという謂れのあるものだった。
その剣は一振りすれば岩をも易々と切り裂き、それを納める鞘は持つ者を癒し、またいかなる攻撃をも跳ね返すのだと言う。
クリスはそれをまじまじと見つめて、やはり自分が使っていいのかと柚明に問う。
こんな伝説の中で語られるものを自分如きが使っていいのか不安だった。
でも、柚明は優しく温かく笑って、

「はい、護る為に戦うんですよね?」
「……うん、僕はそうするつもり」
「ならば使ってください。アヴァロン……それは人を癒し護る、理想の為の鞘。クリスさん貴方が使って護り、大切な人を癒してください」
「……うん、解った」
「はい、私も護る為に……桂ちゃんを護る為に戦いますから」

アヴァロンとエクスカリバーを渡した。
護るべきものが居るもの同士。
何処か共感しながら優しく笑いあった。
護る為に戦うと誓い合って。

そしてアルがコホンと一息ついてクリスの身体を見ながら言う。

「さて、クリス。汝は見るからに貧弱そうだの」
「……言わないでよ」
「まぁ良い。汝が戦える為に特訓を行う」
「……特訓?」
「そうだ、汝が魔力を使えると言ってもまだまだひよっ子。もう少しぐらいは使えるようにしなければの……」
「……わかった」
「ふむ、ならば早速行おうかの」

特訓の開始を告げ、アルは水の中からあがり一歩先に歩き出す。
そのアルの背をみてクリスは思う。

戦わないといけないと。
護る為に。
救う為に。

それが人を傷つける事への方便、戯言のように思われても。


クリスは戦う。


大切な、大切な人を護る為に。



「――――僕が護るんだ……僕の大切な人達を……その為に――――僕は戦う」



覚悟を……決めたのだった。




 ・◆・◆・◆・


 規則的な機械の稼動音と、小気味よく駆ける足音が重なり、シンフォニーを奏でる。
 軟体が変形して作られた腕により持ち上げられたバーベルが、下ろされガチャンと音を鳴らす。
 そういった無機質な音が広がる中で、一際鮮明に響いてきたのは、ハッ、ハッ、という呼吸の音色だった。

「ふぁいとー! おー!」

 食後の運動と呼ぶには些か激しい、本格的な体力作りに励む少女の姿が、その一室にあった。
 ここはランニングマシン、フリーウェイト、バランスボールなどの器具が揃ったフィットネスクラブ。
 下の階にある屋内プールも合わせれば、リゾートの最中においても宿泊客が体を鈍らせる心配は無用。
 基礎体力が一番の課題とも言える彼女――高槻やよいは、こんなところで頑張っていた。

「お、サンドバックなんかもありますね。ここは美希も、得意のJETアッパーに磨きをかけ……」
「……」

 今、新たに二人。室内に少女たちが踏み入った。
 意外と広い中を見渡しては感嘆の息を漏らす山辺美希と、憮然とした顔つきのファルシータ・フォーセットである。

「ふぁ、ふぁいと……お、おー」
「ファイ、オー!」

 彼女たちの視線の先には、ランニングマシンの上でただひたすらに走りこみを続けるやよいの姿があった。
 遠目からでも、額に浮かんだ汗の輝きが捉えられる。一向に止まる気配がない。
 ファルと美希の到来にも、どうやら気づいていないようだった。
 それだけの集中力――とファルは考え、やはり憮然とする。

「……ファルさん? なーんか、顔おっかないことになってますよ?」
「気のせいでしょう」

 なんだろう。
 なんだか知らないが、おもしろくない。
 眼前の光景が、ひたむきに頑張るやよいの姿が、歪んで映る。

 あるいは、既視感のようなものかもしれない。
 もしくは、同属嫌悪に近いなにかという可能性もある。
 彼女は冷静に分析をこなし、“ファルシータ・フォーセット”と“高槻やよい”という人間を重ねていく。

「ほらほら、だんだんとペースが落ちてきたぞ。気合入れろー」
「は、はいぃ~」

 才能を持たない者の努力は愚かに見え、才能を持った者の努力は称賛に値する。
 高槻やよいの場合は前者でもあり、後者でもあった。

 歌い手、いやアイドルとしての彼女の長所は、歌唱力やダンスの表現力よりもまず、そのキャラクターだ。
 誰に対しても分け隔てなく、欠片も嫌悪感を滲ませない、人当たりのいい性格。
 無償で明るさを振りまくその裏に邪気はなく、天然。
 彼女のキャラクターはまさに、天性のものと言えるだろう。

 誰を利用したとして、どう自分を偽ったとしても、ファルに真似できる分野ではない。
 ならば、私はそれを嫉妬しているのか――とファルは考え至り、しかしすぐに否定する。

(私が――ファルシータ・フォーセットが歌に縋ったのはなんのため? 上を目指そうとした、そもそもの理由は……)

 生きるため、だった。
 毎日のパンを得るために、雨風を凌げる家を得るために、人間らしく暮らすための環境を得るために。
 自分に不足していたありとあらゆるものを掴み取るために、ファルは歌を生きるためのすべとし、また歌を好きになったのだ。

 己を偽り、たくさんの人を利用し続けてきたのは、すべて生きるためだったと言える。
 それしか方法を知らなかったから。生きていく上で、それが最善の道だと知っていたから。
 おかしい、という自覚がなかったわけではない。身の回りの人間と自分の生き方を比せば、それくらいすぐにわかる。

 だが、そもそも自分と他人とでは周りの境遇からして違うのだ。
 ピオーヴァ学院の級友たちは、毎日のパンに困ったりなどしなかった。
 温かい家族と安定した生活、音楽家以外の道を選べる選択権、いろいろ持っていた。
 対してファルには、他のみんなが持っているすべてが欠けていて、歌だけが残っていた。

 そうだ、やっぱり自分は間違ってなんかいなかった。
 生きようとすることが間違ったことだなんて、誰が言えよう。
 ファルシータ・フォーセットには生きたいという願望がある。だから酷い人間で在ることを容認する。
 なんの疑問も含まない。それがごくあたりまえのことなんだ。とファルは解答を得たのだった。

「うぅ~……プ、プッチャンコ~チぃ……ちょっと休憩しま、しょうよ~……っ」
「まだまだ。ここで俺様が甘やかしちまったら、やよいのプロデューサーに面目が立たねぇからな」
「そ、そんなぁ……。プロデューサーは、こんなに、スパルタじゃ、なかったのにぃ……」

 ……解答は得たものの、胸のもやもやはまだ消え去ってはいない。
 納得できていないのだ。自分の生き方を肯定してなお、高槻やよいの頑張りを目で追いかけている。
 目の前の彼女は、プッチャンに弱音を吐きながらもランニングマシンの上を走り続けていた。
 あんなもの、本当に嫌ならすぐにやめられるのに。

「熱中してますねー。どうします? お邪魔になるかもしれないし、美希たちは退散しときますか?」
「……」

 ファルが暮らすピオーヴァと、やよいが住む日本という国では、経済環境にも違いがある。
 飢餓に苦しむ子供などそうはいない豊かな国であるとも聞くが、それでもファルとやよいの境遇は非常に近しかった。

 生きていくために、歌を歌うことを選んだファル。
 家族を養うために、歌を歌うことを選んだやよい。

 歌が好きだったから、歌を選んだファル。
 歌が好きだったから、歌を選んだやよい。

 他人を利用して、トップを目指して。
 他人と協力して、トップを目指して。

 失敗すれば死――という危機感を内包して。
 失敗しても諦めない――と努力をつづけて。

(……わからない)

 二人の明確な違いはなんだったのか、ファルにはわからなかった。
 こちらの世界で巡り会えた、クリス・ヴェルティンの音色を思い出しても、解は得られない。
“あの”クリスは、どうして“私の”クリスよりもいい音が出せたのか――その答えは、もう出ているというのに。

(……あっ)

 そこで、ファルは気づいた。
 気づいて、しまった。

「美希さん」
「なんですか?」
「私……壊れてしまったのかも」
「へへぇ……へ?」

 初めから、疑問を向けるべきはこちらだったのだ。
 ファルは、クリスの奏でる音の違いで、自身の在り方に疑問を抱いた。
 以前なら、こんなことはなかったのに――そう思うことが自然であったはずなのに。


“ファルシータ・フォーセットとしての在り方に、疑問を抱いている自分がいる”。


 これが、そもそもの間違いであり、そもそもの変化に違いなかった。
 話は簡単だ。
 疑問を持ってしまった時点で、既に解決していたと言ってもいい。


“ファルシータ・フォーセットとしての在り方に疑問を抱いた瞬間、私はファルシータ・フォーセットではいられなくなった”。


 今ならすんなりと、本音が吐けるような気がする。
 けれども横に美希が立っているので、発言は我慢する。
 代わりに強く、心中で思う。

(うらやましい)

 自分よりも上手く、クリスの音を引き立たせた玖我なつきが――。
 自分のクリスよりも上をいく、極上の音色を奏でたなつきのクリスが――。

(私も、ああいう風に在りたかった)

 叶うなら、やよいのようなひたむきな姿勢で、大好きな歌と接したかった――。

(けれどそれは、私にとって死にも等しい)

 私はもう、ファルシータ・フォーセットではいられない。
 だからといって、ファルシータ・フォーセット以外のなにかになれるわけではない。
 アイデンティティの崩壊は、人間としての成長を促すわけではないから。
 どんなに頑張ったって、今さらいい人はなれないんだ。
 そう受け止めると、悲しくなった。

「ちょ、ファルさん!? なにいきなり泣いてるんですか!」
「……え?」

 自分で気づくよりも先に、美希に指摘されて発覚する。
 頬を、涙が伝っていた。

「あら……」

 驚きは一瞬、されどそうおかしなことではない。
 だって、私の心はこんなにも切ない想いで溢れかえっているのだから。
 涙の一滴や二滴、流れ出たって不思議ではない。むしろ、人間らしくて安心する。
 ファルは切なさを噛み締めるようにして、言う。

「不思議。人間って、感極まると泣いちゃう生き物なのね」

 涙を流すだなんて、いったい何年ぶりのことだろうか。
 ファルは自嘲気味に笑い、隣の美希はその様を見て動揺しているようだった。
 美希が騒ぎ立てたところで、トレーニングに没頭していたやよいとプッチャンもようやく気づく。
 ランニングマシンを止め、息を整える間もなくファルのほうへと駆け寄ってきた。

「ファルさん! い、いったいどうしたんですか!?」
「ははーん。さては、美希にいじめられたな?」
「うぇ!? いやいや、美希は無罪潔白ですよ!」

 ぜぇぜぇと息を切らしながらも、やよいは涙を流すファルを気にかける。
 なんて純真な瞳なのだろう。いや、これはもう純潔と言ってしまってもいい。
 この瞳をいつまでも不安の色で曇らせてしまっては、心が痛むというものだ。

「……いいえ」

 そんな、柄にもないことを思う。
 ファルは指で涙を拭い、言った。

「なんでもないの。それよりもやよいさん――」

 もう、ファルシータ・フォーセットではいられない。
 ファルシータ・フォーセット以外のなにかにも、なれない。
 それじゃあ、今ここにいる私はどうすればいいのか――?

 答えは出て、しかし新しい疑問が、胸にぽっかり穴を開ける。


 ・◆・◆・◆・


 昔の私が、今の私を見たら……きっと「馬鹿みたい」って言うわね。

 自分の在り方に疑問を抱くだなんて、本当にどうかしてる。

 人は一人では生きていけない。人は誰かを利用することで生きていられる。

 再確認。私の抱く価値観は、まったく変わってなんかいない。

 今だって、他のみんなを利用しようとして生きようとしているだけなんだから。

 うん。変わってなんかいない。変わってなんか、いないんだ。

 ……………………でも、このやり方が最善と呼べるわけではないのよね。

 そんなこと、わかっていたことじゃない。

 ただ、私にはそのやり方しかなかっただけ。

 クリスさんの音色が素晴らしいからって、なんだというの?

 やよいさんの姿が眩しいからって、仕方がないことじゃない。


“私はもう、ファルシータ・フォーセットではいられないけれど――ファルシータ・フォーセットでしかいられないんだから”。


 矛盾していたとしても、生き方を変えるなんてことはできない。

 自分の価値観を否定して、別の人間として生きることなんてできない。

 なら、悩むだけ無意味だもの。

 そう考えると、すっきりした。

 涙も止まって、心も晴れやかだ。

 この心に、偽りなんてない――。


「――やよいさんは、私のこと、好き?」


 …………あれ。
 私はいったい、なにを口走っているのだろう。
 今さら、他人の評価を気にするだなんて……いいえ、違う。

 問題なのは、もっと根本的なこと。
 私は、なんて質問をしてしまったのかしら。
 やよいさんと美希さんが、揃って唖然とした顔を浮かべている。

 どうしよう。間違いなく誤解されている。
 ここはどうにかして、質問を撤回しないと。

「は、はい! 私、ファルさんのこと大好きですよ」

 焦り出した矢先に、やよいさんは答えを返してきた。
 一切の邪気もない、純真な笑顔をこちらに向けて。
 きっと、質問の意図を理解してもいないのだ。

「ごめんなさい。質問の仕方が悪かったわ。私が聞きたいのは――」
「おいお~い。そんな大声で好きって言われると、俺の立つ瀬がねーんだけどよ」
「あ、もちろんプッチャンのことも好きですよ。美希さんだって」
「むむむ、微妙に取ってつけた感が……まだまだ美希めの好感度が足りていないご様子」

 プッチャンさんや美希さんも交え、やよいさんは恥ずかしげもなく好意を表に示す。
 私が期待していたのは、そんな肯定的な言葉じゃないのに。

 人間は、もともとの色が白ければ白いほど黒に染まりやすい。
 この高槻やよいという純白の少女を、いっそ黒で穢してしまおうか。
 眩しすぎるほどの輝きは、私の中の悪意を呼び起こす。

「……違うのよ」

 ふと、そんなことを呟いている自分がいた。
 私がファルシータ・フォーセットでしかいられないのなら、こんなことは簡単なはずなのに。
 ピオーヴァの街で、アーシノさんやクリスさんにそうしてきたように。
 この世界で、古河渚さんにそうしてきたように。

「あなたが好きと言っている私は、私じゃない。いつだったか、言ったでしょう?
 私はあなたたちとは違う、酷い人間だから。どんなに羨んだって、変わったりできないから。
 あなたに好かれているファルシータは、私とは別人。いいえ、まやかしなのよ」

 やよいさんにも嫌われて、軽蔑されて、恨まれるくらい、酷い人間になれば。
 私はきっと、安定する。また、元のファルシータ・フォーセットに戻れるのだ。

「だからね、私にはもうわかっているの。やよいさんは私のことが――嫌い。
 私とあなたとでは、なにもかもが違いすぎるから。好きでいられるはずが、ないのよ」

 こんな風になってしまったのは、みんなとの距離を近くしすぎたから。
 自分に疑問を抱いてしまうくらいなら、馴れ合うべきではない。
 悪者は悪者らしく、偽善者は偽善者らしく、私は私らしく。
 みんなとは、一度距離を置いて――

「そんなことありません!」

 ――やよいさんが叫んで、私は両手を掴まれた。
 やよいさんの両手は力強く、私の両手を握って離さない。
 プッチャンさんの力が加わっている、とも思ったが違う。
 普段の彼女からは想像もできないくらい強引で、乱暴な力。

「あの、ファルさんの言ってることは難しくてよくわからないですけど、これだけは言えます」

 離して――と私が言おうとしたところで、目が合った。
 子供っぽい表情が、胸の内を強く主張せんと大人ぶっている。

「私は、今こうして手を握っているファルさんが好きです」

 両手にぎゅっと力がこもる。
 痛みを感じるほどではなかった。
 けど温もりは、十分すぎるほどに伝わってきた。

「他のファルさんなんて知りません。私が知ってるファルさんは、ファルさんだけです!」

 ――なんてことを言うのだろう、この子は。
 まだ子供なんだ、と納得しようとしてもできない。
 穢せない。彼女は純白すぎて、黒では穢しきれない。
 安易に踏み込めば、逆にこちらが漂白されてしまう――それほどに。

「ファルさん?」

 やよいさんが首を傾げる。それと同時に、両手は離された。
 彼女の右手に嵌るプッチャンさんの顔は、どことなく笑っているように見えた。
 美希さんにいたっては、満面の笑みを浮かべている。いや、あれはにやついていると言うべきか。

 みんながみんな、赤くなった私の顔を見ていた。

 私はたまらなくなって、やよいさんの温もりが残る両手で顔を覆い隠した。
 せめてやよいさんだけには気取られまいと、その場で蹲る。
 そのまま、貝のように動きを止めた。

「ファ、ファルさん!? どうしたんですか? おなか痛くなったんですか?」
「放っておくのが情けってもんだぜ、やよい。いろいろと悩み多き年頃なのさ」
「なーんか青春の香りがしますね。というか、こっちまで赤面してしまいそう」

 駄目だ。
 この子だけは、私でも穢せない。
 この子を利用するだなんてことは、私には無理。


 だって、やよいさんは。

 こんなにも不安定で、こんなにも曖昧な私を。

 ファルシータ・フォーセットでしかいられない、私を。


 ――好きだ、って。そう言ってくれたんだから。


 ああ、本当に。
 今さら他人の評価に振り回されている自分が、馬鹿みたい。
 結局はなにも変わらないじゃない。
 ここで彼女たちに認められているのは、他でもない“私”なんだ。
 ええ、そう。それで上手くいってる。なにも悩む必要なんてない。

 人はみんな、助け合って生きている。
 いつだったか、ベッドの上の彼は私にそう言った。
 私はそんな幻想的な言葉を否定して、それは利用し合っているだけなのよ、と返した。

 助け合うのも、利用し合うのも、ようは同じこと。言葉が違うだけ。
 一見して助け合っているように映る関係も、腹の底を探れば悪意が見えてくる。
 でも腹の底を探るだなんて真似は、誰にだってできやしないんだ。
 できるとすれば、それは私だけ。

 この価値観は、誰にも共感してはもらえない――唯一無二の、ファルシータ・フォーセットだけのものだから。

 なら、今のままでいい。今のままでいいんだ。
 おかしなものよね。かつては、愛情を注いでいた一人の男性に、この価値観を共有してもらいたいと思っていたのに。
 今では、他人に共有してもらうべきものではないのだと、はっきりわかる。

 私が手に入れられなかった音色。
 私が掴み取れなかった未来。
 私が持ちえた別の可能性。

 たとえそれらが離れていってしまったとしても。

 私は、私。

 私を、私として見てくれる人が、そばにいる。
 大好きな歌を、一緒に歌ってくれる人が、そばに。
 歌は、いつだって手段ではなく目的だったから。
 誰を羨む必要も、なかったのだ。

 私の生き方を肯定してくれる人を、私は見つけた。

 それを思えば、逃してしまったチャンスや、あったかもしれない可能性など、ちっぽけだ。
 ファルシータ・フォーセットとしての過去はやり直せないかもしれない、けれど今の私には未来がある。

 なら、私は私として、私なりのやり方で、新しい未来を切り開ければいいのだ。
 ――彼女を、利用して。

「悔いて、躓くような女じゃないもの」

 ぼそり、と誰にも聞こえないように呟く。
 自分をそこまで繊細だと思ったことはない。私はもっと、図太い人間だ。
 彼だって――井ノ原真人さんだって言っていた。利用したいなら利用しろ、って。

 生き方を改める必要もない。
 在り方に疑問を抱くこともない。
 答えは、いつもどおり。

 それが、ここでの私の生き方。
 もう、わかった。
 そろそろ、前を向こう。

「……なんだか、急に火照ってきたわ。水でも浴びてこようかしら」

 ゆっくりと立ち上がって、平静を装いながらそう言った。
 鏡がないからわからないけれど、おそらく赤くなっていた顔は元に戻っていたと……思う。たぶん。

「プールに行きましょう、美希さん。もちろん、付き合ってくれるわよね?」
「あれれ、美希でいいんスか? いやまあ、喜んでご一緒させていただきますけど♪」
「……お願いするわ」

 含みを持たせた微笑の美希さんが、なんだか鼻に付いた。
 グループの中でも、彼女は私と近しいところにいるからだろうか。
 いろいろと心の内を暴かれているような気がしてならないけれど、不思議と嫌ではない。

「あ、じゃあ私も汗かいちゃったし、一緒に……」
「あーっと! そういやなつきのママさんが、後でカジノのほうに来いって言ってたっけなー!」

 わざとらしい素振りで、プッチャンさんがやよいさんを引き止める。
 正直、助かる。今は、やよいさんと顔を合わせているのがつらいから。
 その……一緒にいると、意識せず顔が赤くなってしまったり、にやけてしまったりしそうで。

「うう~……それじゃあ仕方ないです」
「そうそう、仕方がねーな。いやぁ、俺としても、ファルたちの水着姿はぜひ拝んでおきたかったんだが」
「……むっ」

 なにやら、やよいさんとプッチャンさんが口論を始めそうな雰囲気だ。
 今の内に退散するとしよう。水でも被れば、この胸の高鳴りも静まるかもしれないし。

「さ、行きましょう美希さん」
「あいあい~」

 そうしたら、きっと。
 やよいさんの好きな私として、また彼女と接せられると思うから。


 ……思うだけでなく、本当にそう在りたいと思う。

 誰かから好意を受け取るというのは、嬉しいことだ。

 それが裏のないものであるとわかりきっているのなら、なおさら。

 私は、大好きと言われたあの瞬間、確かに。

 顔が赤くなるのを抑えられないくらいに、嬉しくて嬉しくてたまらなかったのだ。


 ・◆・◆・◆・


「てけり・り」

 出会った当初は記憶喪失だった彼女も、随分と人が変わったものだ。
 20キロのバーベルを持ち上げながら、端のほうで事の成り行きを見物していたダンセイニは思う。

「てけり・り」

 彼女は、ダンセイニに筋肉の真髄を叩き込み後継とした井ノ原真人が、特に気にかけていた女の子である。
 ダンセイニには、自分と他人の価値観の違いについて悩み、居場所を得ようと必死になっている風にも見えていた。
 教会では、さりげないアシストでやよいやトーニャたちとの仲を取り持ってあげたりなど、尽力してきたりもした。
 真人が撒いた種はダンセイニの手によって芽を出し、そして今、彼女は自分の意思で大きく開花して見せたのだ。

「てけり・り♪」

 感無量とはまさにこのこと。ダンセイニは、リーダーの座を託された者として誇りに思う。
 とはいえ、ダンセイニの仕事はまだまだ終わったわけではない。
 今後も皆の筆頭として、各人のメンタルケアは徹底して行わなければならないだろう。

「てけり・り」

 自分もちょうど汗をかいたことだし、プールにはきっと、ご主人様もいる。
 彼女のその後の経過を見るついでに、少しばかり涼みにいくとしよう。

「てけり・り」

 お子様の水着がどうのこうのと言い争っているやよいとプッチャンに、プールに行ってくるとだけ告げた。
 応答は得られなかったが、仲睦まじい光景を壊すことはしたくないので、ダンセイニはそのままクールに去るのだった。


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