- 龐徳(ほうとく)
- 字は令明(れいめい)
(?-219)
正史では「龐悳」。
若くして官職に就き、190年~193年の間に馬騰に従う。主に異民族の反乱を鎮圧。昇進していく。
馬超が鍾繇の下にいた時から馬超に従い、先鋒として活躍。
馬騰が都に行った時は馬超の下に留まり、そのまま従軍。
その後、馬超が曹操に負け、張魯の下に逃げ込んだ時まで従った。
しかし、曹操が漢中を落とした際に降伏。以後、曹操に従う。
曹仁と共に、荊州にいる関羽と対峙する。
漢中に彼の兄がいたことで疑いを持つ者もいたが、「国から恩を受けている。道義から死を捧げなければならない。俺が死ぬか、関羽が死ぬか」と語り、関羽の額に矢を射当てた。
関羽の軍では、龐徳が白馬に乗っていたことから「白馬将軍」と呼んで恐れていたという。
曹仁のいる城から十里のところで駐屯していたが、長雨のせいで川が氾濫。堤に登るが、船を出した関羽軍に四方から射られ、味方が次々と降伏。
龐徳は船を出し曹仁の元へ行こうとしたが、船が転覆。関羽に捕らえられた。
降伏を勧める関羽を罵り、殺害された。
三国志演義の中では。
関羽と戦う際に、死を覚悟して棺を担いで出陣している。
ちなみに、彼の息子は蜀滅亡の際に、関羽の一族を皆殺しにしたという。
最終更新:2010年02月10日 11:59