郭嘉


郭嘉(かくか)
字は奉孝(ほうこう)

(170-207)
曹操軍の中で、信頼はともかく一番曹操に可愛がられていた軍師だろうと、管理人は思う。

二十歳の時、中央の役所に召し出されたが、すぐに姓名をくらまし密かに英傑達と手を結び、俗世間とは付き合わなかった。
その為、多くの人々に知られることはなく、彼を知る人物は数限られていた。
また、袁紹の下に行ったこともあるが、郭図らに「そもそも臣下が主君を判断するもの。袁紹はいたずらに士人にへりくだっているが、人物を使う機微については無知。いろいろとやりながらも肝心な点が疎かで、策略好きであっても決断しない。これでは天下を治めるのは難しい」と切り捨て、去っている。
その後、荀彧の推めで曹操と会い、郭嘉は「真の主だ」と喜んだ。

この会見の際に曹操が袁紹について「彼と戦いたいが、力では相手にならない。どうする?」と尋ねた。郭嘉は答える。
「袁紹には10の敗北のたねがあり、貴方には10の勝利の因がある」
(10とは道・義・治・度・謀・徳・仁・明・文・武。詳しくは以下の通り)

1、袁紹は面倒な礼式・作法を好んでいるが、あなたは自然の姿に任せている
2、袁紹は天子に逆らい(曹操が帝を奉じている為)、あなたは天子を奉じている
3、漢の末期は寛(大らか。転じて、しまりのなさ)で失敗している。袁紹は、その寛を用いて寛(漢王朝)を救おうとしている。あなたは猛(きびしさ)でそれを糺している為、上下共に掟が守られている
4、袁紹は外で寛大でも内は猜疑心強く、人を信用していない。信認しているのは親戚や子弟ばかり。あなたは人を用いる時疑いを持たず、相応しい才能を持っているかどうかだけが問題で、他人・親戚を分け隔てしない
5、袁紹は策略のみ多いが決断に乏しく、時期を失する失敗がある。あなたは方策が見つかればすぐに実行し、変化に対応する
6、袁紹は先祖からの栄誉を下に高尚な議論と謙虚な態度を勝ち得た。これにより議論を好み外見を飾る人物が、多く彼に身を寄せた。あなたはうわべだけで飾ることなく、功績のある者にはおしむところなく賞賜を与える。中身のある人物はあなたの役に立ちたいと思っている
7、袁紹は目に入る他人の飢えや凍えには哀れむが、眼に触れないことに対しては考慮がない。あなたは目の前の小さなことには時にないがしろにするが、大きなことになるといろいろな人々と接している。眼に触れないことに対しても周到に考慮し、処置している
8、袁紹は臣下達が権力を争い讒言に混乱している。あなたは道義をもって下を統制し、水が染み渡るがごとく讒言が染み渡ることがない
9、袁紹の善悪の判断ははっきりとしない。あなたは善しと思ったら礼で推し進め、善しとしない場合は法で正す
10、袁紹は好んで虚勢を張るが、軍事の要点を知らない。あなたは少数を持って多数に勝つ傭兵は優れている。味方の将はそれを頼みとし、敵はそれを恐れる


呂布討伐において、3度攻め撃破したが、兵士の疲労を考慮し曹操が兵を引こうと考えた。
郭嘉は手を緩めることなく追撃するよう進言し、呂布を捕らえることに成功する。
そして、曹操は袁紹と戦う前に劉備を討伐しようと考えていたが、背後から袁紹に攻められるのではと心配していた。
郭嘉は「袁紹は優柔不断なので、攻めては来ない」と予言。その通りになり、劉備討伐に成功した。
袁紹と戦う際に南の孫策の動きを曹操が気にしていたが、郭嘉は「孫策は江東を平定したばかり。しかも討伐したのは英傑ばかり。当然主君の仇討ちを狙っている者もいるにもかかわらず、孫策は軽く考えて警戒をしていない。きっと刺客の手にかかる」と進言。
その言葉通りに、200年、孫策は刺客によって重傷を負い亡くなっている。官渡の戦い中だった。
袁紹の死後、袁譚と袁尚を討伐。連戦連勝していた。
諸将はこの勢いに乗じて追い詰めようと進言するが、郭嘉は「事を急げば彼らは助け合うが、緩めれば互いに争い始める。彼らの変化を待ち、一気に平定した方がいい」と説いた。
これも郭嘉の読み通りに、互いで争い合うことになった。
北方に出陣している為に、留守にしている本拠地に荊州にいる劉表や劉備が攻めてくるのではと恐れられていたが、郭嘉は劉表の性格を読み切って、その可能性は低いと指摘した。
こうして官渡の戦い後も曹操と共に従軍し、河北平定を成し遂げる。
しかし、帰還すると危篤状態に陥り、亡くなった。38歳だった。
葬儀で曹操は、天下が治まれば郭嘉に後事を託そうと考えていた、と臣下達に述べた。

このように、郭嘉は深く計略に通じ、曹操もほとんどの大きな戦いにおいて、ほぼ郭嘉の進言通りに動いている。
「奉孝だけは、わしの意図をよくわきまえている」と語っていることから、曹操にとってかゆいところに手が届く軍師だったことが分かる。

郭嘉と陳羣(ちんぐん)という文官とは仲が悪かった(一方的だが)。
陳羣は郭嘉の品行が悪いと、度々朝廷に起訴した。しかし、郭嘉はそのことについて全然意に介しなかった。
そんな彼らを見て、才能と人格は別という主義の曹操は郭嘉を重用し、また陳羣の公正さも気に入っていたという。

演義での彼もほぼ同じで、もっと神がかり的な予言もしていたりする。

三国志中盤のメインイベント『赤壁の戦い』。
曹操軍は、孫権軍(+劉備軍)に大敗する。
その時、曹操は「奉孝が生きていれば、こんな目にあわせなかったものを」と嘆息し、「哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝」と嘆いたという。
歴史にifはないが、もし本当に生きていたら、この戦いはどうなっていただろうかと思うと、ワクワクする管理人である。
最終更新:2010年02月10日 11:35