- 張郃(ちょうこう)
- 字は儁艾(しゅんがい)
(?-231)
後漢末に黄巾の乱討伐募集に名乗りを上げ、韓馥の軍に属した。
しかし、冀州が袁紹の支配下になり、そのまま袁紹に仕える。
公孫瓚の討伐では、戦功を上げ昇進をしている。
官渡の戦いで、曹操軍に食糧貯蔵基地を襲撃された際には、精鋭をもって救援に向かうべきだと進言したが、郭図は曹操の本陣を突くべきだと主張。
結局、袁紹は郭図の策に従って大敗。更に、その郭図が張郃のことを讒言した為に、身の危険を感じた張郃は曹操に帰順した。
曹操は「韓信(前漢を興した劉邦の将軍)が漢に帰伏したようなものだ」と、大変喜び、すぐ将軍に取り立てた。
その後は各地を転戦。
袁譚を始め、韓遂・馬超討伐にも従った。
張魯が降伏すると、夏侯淵と共に漢中の守りにつき、劉備と対峙した。
漢中争奪戦においては二郡を平定し、劉備の夜襲もものともせず、目覚しい活躍を見せた。
こういったこともあり、劉備は夏侯淵より張郃を恐れていた。
曹丕(曹操の息子)が帝位につくと、羌族や蛮族を討伐。
曹叡(曹丕の息子)が帝位につくと、司馬懿と共に荊州で孫呉と対峙した。
228年、諸葛亮が祁山に出陣すると、軍を率いて街亭で馬謖を撃ち破る。
この時、馬謖は山の頂上に布陣。
張郃は彼らの水くむ通路を封鎖し、敗北に追いやった。
再び諸葛亮が出陣し陳倉を攻撃すると、明帝(曹叡)は張郃を呼び寄せ救援に赴かせた。
張郃は諸葛亮が長期戦のできないことを察知し、「私が到着しないうちに諸葛亮は退却しているでしょう」と告げ、昼夜問わず進軍すると、案の定諸葛亮は引き揚げた。
諸葛亮もまた彼を恐れたのである。
231年に諸葛亮がまたも祁山に出陣し、張郃は軍を率いたが、到着すると諸葛亮は退却を始めた。
この時、張郃は「逃げる敵は追うべきではない」と言ったが、司馬懿が聞き入れず張郃に追撃を命じた。
木門で伏兵に遭い、矢が右膝に当たり、それが元で戦死した。
『演義』では司馬懿が止めるにもかかわらず、張郃が追撃したことになっている。
『演義』ではこのように司馬懿が作戦を練り、それを張郃が実行しているように描かれている。
諸葛亮の魏侵攻では、張郃の活躍が司馬懿の作戦によるものとしている場面が多いのだ。
最終更新:2010年02月11日 15:50