孫堅


孫堅(そんけん)
字は文台(ぶんだい)

(156-192)
孫家は代々呉で役人をしており、正史では、「孫武(孫子の兵法で有名)の子孫だろう」と言われているが、定かではない。
男前で度量が広く決して他人には真似できない行動が目立ったという。
17歳の時、父親と一緒に船に乗って出かけたが、そこで海賊達が商人から奪った財宝を分配しているのに出くわした。
周りの旅人達は海賊を恐れて近づこうともしなかったが、孫堅は父親が止めるのも聞かず刀を手にして、彼らの前に進み出た。
そして手を振って周囲の者に合図をしたので、海賊達はその合図を官兵が自分達を捕らえに来たものと錯覚をし、財宝を置いたまま逃走。
孫堅はそれを追いかけ、海賊の首を一つ斬って戻ってきた。
この事件によって孫堅の名が広く世間に知られるようになり、役所は彼を召して仮の尉(県の軍事・警察を司る職)に任命した。
172年、会稽で自らを陽明皇帝と名乗り、数万の民を煽動した宗教的クーデターが発生。
孫堅は武芸に優れた勇敢な者を1000人ほど集め、官兵と共に攻撃し鎮圧した。
この功により県の次官となり、後に他2件で同職を歴任。
どの任地においても評判はよく、役人や民衆も親しみを持ち、彼の下には知り合いや大志を抱く若者達が集まり、その数は数百人にも及んだ。
孫堅は彼らを手厚く待遇し、自分の身内のように扱った。
184年、黄巾の乱が発生。朝廷に任命された大将の希望もあって孫堅は大将の配下となる。
彼らの向かうところ敵はなく、賊軍は徐々に追い詰められて城に篭った。
孫堅は自ら軍の先頭に立って城壁を乗り越え、味方の軍勢を城内に引き入れ賊軍は大敗した。
その後、長沙の地で1万余りの兵を率い勝手に将軍を名乗った者達を討伐する為、孫堅は長沙太守に任じられた。
すぐさま兵を率いて1ヶ月もしないうちに反乱軍を撃ち破る。
孫堅は赴任すると、有能な役人達を任命して以下のことを厳命した。
  • 良民達を手厚く遇すること
  • 公文書は正しい手続きによって処理すること
  • 捕らえた盗賊などを勝手に処刑することを禁じ、太守の下に護送すること

反董卓連合に孫堅も挙兵。
まず、自分に対してひどく扱った荊州刺史を殺害。更に義勇軍に対して非協力的な南陽太守も殺害。その軍勢を吸収した。
袁術と会見をして協力することを約束し、袁術の口利きで将軍の位を手に入れた。
孫堅は出陣の酒宴を開いていたところへ董卓の急襲を受けたが、慌てることなく軍勢を纏めて悠々と入場をした。
董卓軍は孫堅軍に少しの乱れもないのを見ると、城に攻撃もせず引き返した。
董卓との戦いが激化すると、孫堅は董卓の大軍に囲まれ窮地に陥る。
孫堅は数十騎と共に囲みを破ったが、尚も敵が追ってくる。
側近の祖茂が赤い頭巾を被り敵の目を誤魔化している間、無事に逃げ延びることができた。
孫堅は再び軍勢を纏めると、今度は董卓軍を撃ち破り華雄を討ち取った。
この時、袁術に告げ口する者がおり、「孫堅が将来危険な存在になる」と聞いた袁術は信じ、孫堅に兵糧を送らなくなった。
孫堅はすぐ袁術の下に駆けつけ、「朝廷のため、またあなたのためにも私は命をかけて戦っているのに、何故あなたは讒言を信じて私を疑うのですか」と言うと、袁術は返す言葉もなく、すぐに兵糧を遅らせた。
董卓は孫堅が勇猛果敢であるので敵にしておくのはまずいと考え、孫堅の一族を高職に就けてやろうと持ちかけ、味方にしようとする。
しかし孫堅は、「董卓のような漢王室をないがしろにした男とその仲間を皆殺しにしなければ、私は死ぬに死ねないのだ」と言い、更に軍勢を進めた。
そして、董卓が洛陽の街を焼き、長安へ都を移すと、孫堅は洛陽に入って董卓が暴いた皇帝の陵墓などの修復を行った。

この時、古井戸から『伝国の玉璽』を手に入れ自国に持ち帰ったという話が注釈の『呉書』にあるが、注釈を入れた裴松之が、「孫堅のように王室に忠義な人物が玉璽を隠し持つ訳がなく、孫堅の名誉を傷つけるものだ」と批判している。

192年、孫堅は袁術の要請を受けて荊州の劉表を攻めたが、劉表も配下の黄祖を送って対抗しようとした。
孫堅は黄祖を破り、劉表が立て篭もる城を包囲したが、孫堅が単独で見周りをしていたところを、黄祖の兵が放った矢に射殺された。
また一説には、劉表配下の者が山陰づたいに孫堅に近づき、上から石を投げ落としたところ、孫堅の頭に当たって即死したとある。
『演義』では、孫堅の最期はこの後者になっている。
後に次男の孫権が皇帝に即位した時、『武烈皇帝』と諡された。

孫堅が死亡した時、孫策はまだ17・8歳。
このまま軍は瓦解してもおかしくはなかったが、孫策が後に挙兵すると孫堅時代からの武将もつき従っている。
確かに孫堅の死で孫軍という一勢力は消えたが、孫軍の火は息子である孫策・孫権、そして古参の武将達が絶やさず燃やし続けていたのだ。
最終更新:2010年02月11日 15:57