- 張遼(ちょうりょう)
- 字は文遠(ぶんえん)
(165-221)
本来の姓は「聶」。
これは、漢時代に匈奴との交易を利用して匈奴を騙し陥れようとした、聶壱(じょういつ)の子孫だからだ。
しかし、復讐を恐れて姓を変えたという。
若い頃、郡の役人になったが、丁原に召し出され都に赴いた。
その後は何進・董卓の配下を経て、呂布配下となった。
曹操が呂布を破ると、軍勢を率いて降伏。爵位を授かり、役職に就く。
その後もたびたび戦功を上げ昇進。
ある時、夏侯淵と共に攻めた先で、敵の将にうまく利害を説いて、単身その将の妻子に挨拶へ行き、彼を帰伏させた。
しかし、曹操は「これは大将のやり方ではない」と咎められ謝罪している。
袁譚・袁尚討伐、荊州の江夏攻略など、たびたび戦功を上げている。
張遼はいつも冷静沈着かつ勇猛で、駐屯していた先で反乱を企てた者が火を放って騒いだが、「反乱に加わっていない者は動くな」と騒ぎを鎮めて、首謀者を斬った。
また、曹操の命を受け楽進・李典と共に7000の兵を率いて合肥の地に駐屯した時、孫権は10万の兵で合肥を囲んだ。
この時、曹操が残していった「もし孫権がきたら、張遼と李典は城を出て戦い、楽進は城を守れ」という命令書に従い、僅か800の兵で敵に斬り込み、孫権を窮地に追い込むほどであった。
この戦いで、孫権軍は戦意を失い、城に引き返して守備を固めたが、10日以上合肥を囲んでも落とすことはできず、遂に引き揚げた。
張遼はすかさずこれを追撃。孫権を捕らえる寸前にまで追い詰めたのだった。
その後も呉に対する押さえとして働き、221年に参内した際には呉を破った話を聞いて感動した文帝(曹丕。曹操の息子)は、彼の為に邸宅を建て母親にも御殿を建ててやった。
その後、任地に戻ったが病気にかかると文帝は太医を派遣し、自らその手を取り御衣を下賜し、同じ食事を与えた。
病気が少し回復すると任地に戻り、魏に対して臣下の礼をとっていたが背いた孫権に睨みをきかせた。
孫権は諸将に「病んでいても敵は張遼だ。注意せよ」と命じている。
この年、呉の将を破るが、病気が重くなり死去。
文帝はその死に涙を流したという。
- 『遼来来』
- 孫権を追い詰めた戦いは呉の領民にとって余りにも恐ろしかったらしく、張遼の名前を聞くだけで子供の夜鳴きがおさまるほどだったという。
- 何故、張遼が『山田』なのか
- 肥のアクションゲーム『真・三國無双2』における叫びが、「邪魔だー!」が「山田ー!」に聞こえたことから。
最終更新:2011年10月26日 11:57