- 審配(しんはい/しんぱい)
- 字は正南(せいなん)
(?-204)
袁紹が冀州を支配すると、軍の事務を逢紀と共に統括する。
曹操を攻めるべく軍議において、郭図と共に積極策を唱え、田豊・沮授の持久策と対立した。
結局、袁紹は審配らの積極策を取り、戦いに際しては留守を預かった。
しかし、独断的な性格が災いし、法律に違反したとして許攸(きょゆう)の家族を捕らえた。
激怒した許攸は曹操の下へと降る。これが曹操軍による袁紹軍兵糧基地襲撃の発端になった。
袁紹亡き後の後継者問題では、三男の袁尚を支持。
後に曹操に本拠地を攻められるが、知謀の限りを尽くして戦う。ところが、東門を守備していた兄に裏切られ城は陥落。曹操軍に捕らえられた。
曹操はその忠義さを買おうとしたが、審配によって兄の家族を殺された臣下の申し出があり、処刑された。
その処刑の際には、「我が君は北にいる」と言い、北を向いて死んだという。
忠義の士と称される反面、独断で計画性がない、と言われている。
最終更新:2010年02月12日 10:25