黒木優太

1994年8月16日生まれ。神奈川県出身
2016年にドラフト2巡目でオリックスに指名。

小学校より軟式野球を始め、中学ではシニアリーグ所属したことを機会に硬式へ転向。
高校入学時はショートであったが肩が強かった事もあり投手へ転向、146km/hを投げられるようになったが甲子園出場はできなかった。3年の秋にプロ志望届を提出も指名漏れとなった為、立正大学へ進学することとなった。
大学進学後は1年秋より主戦投手となり、2年春での春季リーグでリーグ最多の4勝(先発抑え合わせて)をあげて優勝へ導く。3年時には東都大学選抜のチームに選出され、4年時春には4連勝をあげるも5月の試合中にけが(右肩脱臼)により、秋のリーグ戦まで試合に出場できなかった。4年間で16勝12敗、防御率1.74という成績だった。在学中のトレーニングを経て、4年春には153km/hを計測されるとスカウトに注目される様になり、改めてプロ志望届を提出した。
入団後の1年目は主にリリーフとして登板、開幕戦の対楽天では10回より登板、1回1安打1三振でプロ初ホールドをあげる。5月16日の対ソフトバンクでは登板した直後に味方が逆転してプロ初勝利をあげる。
18年シーズンもセットアッパーとして登板も、シーズン終了後に先発転向を見据えてフェニックスリーグで先発調整として永井イニングを登板。
19年シーズンは春季キャンプでは1軍スタートも右肘に違和感を覚え、右肘内側靱帯の炎症と診断される。その後ファームで登板も6月に痛みが再発、右肘靭帯が骨化しており、トミージョン手術を受けることとなった。復帰まで14か月を要する事から、シーズン終了後に一度戦力外通告を受けて育成契約を結んだ。
20年シーズンはリハビリに励み同年10月に復帰、フェニックスリーグでも順調な回復を見せていた事からシーズンオフに再び支配下を勝ち取った。
21年シーズンは右肩の不調もあり1軍の登板はなく、22年シーズンは4年振りに開幕を1軍で迎えたものの、同年4月に新型コロナに罹患、同年5月に再び1軍へ戻ってきた。この年は交流戦での登板が6試合で無失点と活躍した。
23年シーズンは12試合に登板し1勝に留まり防御率も6.58と振るわなかった。同年11月24日に吉田輝星との交換トレードが成立、オリックスより移籍。
24年シーズンは2軍でスタートも同年7月2日に移籍後初昇格を果たすも、翌日3日に登板し1失点のほろ苦いものとなった。

エピソード

  • あこがれの選手はジョニー、背番号も同じ54番を希望した。そしてハムに入団会見の時も「ジョニーと呼んでください」と話していた。
  • 好きな歌手は倖田來未、入団後に初任給でファンクラブへ入会した。登場曲も倖田來未の楽曲を使用していたが、22年になんと倖田來未側からオファーがきて書き下ろしの楽曲を提供された。
  • お父様が帯広出身、また父方の親族が帯広に在住しているとの事、ハム入団が決まった際に祖父母に連絡して喜ばれた模様。
  • 入団会見の際にトライさんからもらったネクタイを着用で臨み、「またもらえるようにつけてきました」。

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最終更新:2024年07月03日 23:07