山﨑福也

1992年9月9日生まれ 埼玉県出身
読み方は「やまさき さちや」
2014年に明治大学を経て
オリックスバファローズにドラフト1巡目指名を受ける。

小学校よりリトルリーグで投手として野球を始め、中学時代はシニアリーグで投手とファーストでプレー。
高校進学前に脳腫瘍が判明し手術を受けて克服した(後述)。
高校では1年秋よりファーストとしてベンチ入り、2年時春にはレギュラーに定着、この年の夏の甲子園に出場も振るわなかった。3年時のセンバツでは投手として出場、5試合で先発登板33奪三振と防御率2.55の成績で準優勝に貢献した。
卒業後は明治大学へ進学、1年秋より東京六大学リーグ戦に出場、2年春より先発ローテーションの一角を担った。3年時には11勝(春秋通して)をあげて2季連続でベストナインに選出、7月の日米野球の代表に選出された。この年の11月の明治神宮野球大会では2試合に出場、5回4安打、防御率1.80の成績を残した。4年時にはハーレムベースボールウイークの日本代表に選出、3試合を4回途中を自責0という成績であった。またドラフト指名後の明治屋神宮野球大会では2試合に投げ、12回途中を8安打防御率1.42の成績を残した。
オリックス入団後のルーキーイヤーの15年シーズンは開幕ローテーション入りを果たし、同年3月29日の対西武にてプロ入り初登板初先発となったが、3回途中で降板となった(勝敗つかず)。一度は2軍落ちも同年5月に再昇格、同年6月5日の対中日でプロ初勝利をあげた(同日にプロ初打席で初安打を放つ)。シーズン終了後は17試合で3勝6敗の防御率4.53という成績を残した。
16年は2軍スタート、チーム事情でロングリリーフの時期もあったが、先発で登板する機会もあり、同年8月7日の対ロッテで2勝目をあげそのまま先発登板かと思われたが、同年9月7日に左肩甲下筋損傷を発症してそのままシーズンを終えた。
17年シーズンは主に中継ぎとして投げ、先発機会が巡った際に対ロッテで3回途中4失点を喫し、試合途中でありながらも強制帰阪を命じられたり、また同年9月18日の対ハムの時には1アウトのみ奪えず4失点で降板、宿舎へ帰ることを命じられた事もあったが、同年7月10日の対ハムにて9回7安打無失点でプロ初完投初完封をあげることもあった。またシーズンオフには増井浩俊のFA移籍によって背番号17から0へ変更となった。
18年シーズンは中継ぎとして登板もagesageの繰り返しで結果、7試合のみの登板となった。
19年シーズンは中継ぎとして開幕1軍入りを果たすと、7試合連続無失点を記録や、同年4月13日の対西武ではロングリリーフで642日ぶりに白星をあげた。この年もagesage繰り返しであった。
20年シーズンは新型コロナの影響で変則のシーズンであったが、同年7月2日に先発として昇格、同年7月16日の対ソフトバンクで5回2失点と先発の仕事を果たし、3年振りに先発として勝利をあげた。またこの年もagesageの繰り返しであった。
21年シーズンはチーム事情で登録抹消もあったが、同年6月22日に先発ローテ投手が離脱した事もあり、以降は再調整もありつつも先発ローテーションの一角を担った。
22年シーズン以降は開幕ローテーション入りを果たして先発陣の一角を担い、2年連続でチームの優勝に貢献、23年シーズンは自身初の2桁勝利をあげた。シーズンオフにFA権を行使、ハムを含めた6球団の争奪戦となったが、同年11月25日にハムとの入団に合意、同年12月6日に入団会見が行われた(後述)。
24年4月2日で本拠地エスコンFにてオリックス時代の同僚トライさんとコンビを組むも勝ち星つかずだったが、同年4月9日にビジター(対ソフトバンク)はあるが移籍後初勝利、同年4月30日の対西武にて7年振りの完投勝利をあげた。

エピソード

  • ファンの間では中島に激似と言われてる模様。球団の公式Xでも2人並んだ状態で掲載されていた。
  • お父様の章弘さんは1990~91年に選手として、1992~95と1997~2004年にはコーチとしてハムに所属していたこともあり、幼少期には鎌ヶ谷にも遊びに来ていてひちょりにかわいがられたらしい。
  • 幼少期の夢は「日本ハムの3番打者」。24年の交流戦、対阪神にて打順は3番ではなかったが、3打数1安打1四球でしかもその安打が先制タイムリーだった。
  • 脳腫瘍の手術を受けた場所は北海道大学の病院、その手術前日に札幌ドームでダルの完封試合に立ち合い感動していたらしい。
  • 入団会見の時にその手術を担当していたドクターが会見に登場、再会した。

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最終更新:2024年06月13日 14:35