谷内亮太

1991年2月3日生まれ。石川県出身。
読み方は「やち りょうた」
2012年にドラフト6巡目で大学を経てヤクルトに指名される。

高校時代はショート兼控え投手、2年時まで自分がプロ野球どころか大学野球も考えていなかったが、主将となり春の県大会に優勝したことがきっかけで自信につながったが、甲子園出場はなかった。
大学は國學院大學へ進学、1年時よりサードのレギュラーとなる。2年秋に野球部創部80年で初の優勝を経験した(関連後述)。その後自らの希望でショートへコンバート。3年春は最下位となり入れ替え戦でも敗北して2部へ降格。
4年時には主将となり春に2部で優勝してMVP、入れ替え戦を勝ち上がり再び1部へ昇格すると、秋にはショートでベストナインを受賞した。

ヤクルト入団後のルーキーイヤーは唯一開幕1軍であったが出場機会のないまま2軍へ、それでも6試合に出場。
14年シーズンはキャリアハイの43試合に出場、15年は侍ジャパン大学日本代表との試合にNPB選抜として同僚の西浦に代わって出場、岸里とチームメイトになった。
16年シーズンは同年4月19日の対阪神で左手首に死球を受けて手術を受け、8月7日に復帰した。

同年12月11日に秋吉と共に高梨裕稔太田賢吾との交換トレードでハム入りが発表。
19年春季キャンプはアリゾナ組。同年の開幕メンバーに名前を連ねた。同年4月23日の対楽天にて移籍後初ヒットを放った。
20年12月2日に全内視鏡ヘルニア摘出術(FED)を受けた事を発表した(試合復帰まで3か月)。
22年シーズンは移籍後初失策(同年4月27日の対オリックス)やプロ初サヨナラ打(同年6月10日の対中日)など初物づくしとなっている。
23年シーズンは7月5日にファーム行きとなりそれ以降は昇格もなかった。同年9月19日に現役引退を発表、9月26日に引退会見をし、翌日の27日の対ロッテにて7番サードでスタメン(後述)、第1打席にてタイムリーツーベースを放ち、最終打席はショートゴロだった。同年10月30日に1軍内野守備走塁コーチへの就任が発表された。

エピソード

  • 大学2年の明治神宮大会で当時九州産業大学にいた榎下さんと対戦、3安打を放ったことがプロを目指すきっかけになった模様である
  • ロニーからアミーゴ(親友)認定されている模様。
  • 引退試合ではサード→ファースト→セカンド→ショートと内野全てのポジションを守り、5回表に一度ライトへ着く。守備機会はなかったものの、ファンに最後の別れをと監督のはからい、最後は監督と抱擁。また引退セレモニーにヤクルト時代に守備のお手本だった宮本慎也さんとジェームスと共にラスト守備を行った。またエスコンFでの引退セレモニーは初の事であった。

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最終更新:2023年10月30日 20:25