原田宗次郎(はらだそうじろう)〈1846.8-1913.5〉は、日本の官僚。
来歴
1846年8月、東京に生を成す。幼くして日本開国の激動の最中、その目撃者として幼少期を過ごす。
父の盟友だった
澁澤洋洲翁が東京で開いていた
澁澤私塾にて英語や化学といった学問を修めた。1865年1月、18歳の若さで「
第1回高等文官試験行政科」を経て、
内閣審議会工業官に任官する。1867年8月、
国費留学生として米国に渡る。
ミシガン大学冶金学科にて金属学、工場制度を学ぶ。大学卒業後も図書館において自学に励み米国における人材制度を学んだ。この時期に、米国の組織がどのような存在であるかを学ぶ。
1873年8月、帰国の途に就く中、米国籍の船舶で水夫をしていた
浅見武居(後の
帝国商船社長)を気にかけ自らの書生として雇う。1874年1月、函館に帰国するとそのまま
官営函館造船所公務官に任官。1878年、
78事件で主流を取った立派に属し、内閣審議会工業官へ任官。金属産業への支出拡大を主張した。この年、浅見武居が東京港商船作業所(後の
帝国商船)を設立したため、
官舎を離れて本社屋の1階で寝泊まりをすることになる。1880年1月、新設された
官営小野田セメント理事官へ任官。理事官として創業に携わることになった。1884年、内閣審議会人事官に任官。1887年「高文人事構想」を樹立。1890年1月、
商工省に配置され、初代
商工事務次官と
製造局長を兼任。1893年に
商工省を退官。
1893年4月、
東京大学工学部教授。1905年1月、
柏内閣で
商工大臣として入閣。続く
石山内閣、
立石内閣、
宇井内閣でも留任。商工大臣としては、
日本商工会議所(当時の日本商業会議所)の設立、市場の原理に基づく資金調達方法を模索、
帝都公開株式取引所を開設した。官営企業の再編を進め、緊縮財政による小さな政府の実現を目指した。しかし、緊縮財政は、資本家と労働者の格差を広げたため世論からの批判が巻き起こる。
林田内閣の商工大臣を務めていた1913年8月、不満のはけ口となり大阪駅にて刺殺される。この際、自らの書生であった
浅見武(後の
衆議院議員)をかばって殺されて致命傷を負った。犯人は、
帝国ホテル大阪で料理人見習いとして働いていた18歳の若者、佐藤倉之進であった。佐藤は犯行後、ホームから特急列車の前に飛び出して自殺を図った。
経歴
最終更新:2025年07月15日 16:48