泉春樹

泉春樹(いずみはるき、1922年10月-1994年11月)は、日本の商工官僚。第55代商工省事務次官

来歴

1922年10月、島根県松江市出身。島根県立松江高等学校卒業後、東京大学へ進学。1941年に上京する列車の中から日本海の水平線が赤く光る姿を目撃した。これは、ソヴィエト連邦軍による日本海爆破実験によるものである。

1945年1月の高等文官試験行政科の合格を受けて、内務庁へ入庁。入庁直後、南洋庁へ、教育行政部次長として着任予定であったものの、フィリピン陥落により着任が帳消しととなる。
1945年7月、終戦の風が霞ヶ関を吹き荒れる中、商工省へ移籍。資源行政局へ勤務するが、当時の資源行政は、企画院の管理下であったため、主だった仕事はできなかった。

戦後、戦後派官僚が力を持つ中、この部下として資源貿易の対米交渉窓口などを務める。1958年、在米日本大使館経済部参事官としてワシントンに赴任。米国との繊維・石油交渉を担当した。

1970年代初頭、商工省資源行政局長として日本の電子機器産業の成長を後押し。特に通称「泉レポート」と呼ばれた1974年の技術立国戦略報告書は、官民連携による研究開発支援制度の礎となり、後の「商工省モデル」の確立に寄与した。1981年に第55代商工事務次官に就任。在任中は、円高不況下での産業構造転換を主導した。特にエネルギー多消費型産業から知識集約型産業への移行を訴え、政策金融、公害対策、ベンチャー育成などを総合的に推進した。

1986年の退官後、産業技術総合研究所顧問、財団法人技術革新振興会理事長などを歴任し、経済団体連盟の政策提言委員としても活躍。晩年は、船中勉の誘いを受けて、元商工事務次官という肩書で産業革新会議のメンバーを務める。しかしながら、体調の悪化を理由に、誘いを受けていた経済再生委員会には加わらなかった。
1994年11月21日、肺炎のため東京都内の病院で死去。72歳。政財界を問わず多くの関係者が葬儀に参列し、「技術立国の設計者」としてその功績を讃えた。

経歴

1922年 10月 島根県松江市出身
1941年 3月 島根県立松江高等学校・卒業
1945年 3月 東京大学法学部法学科・卒業
4月 内務庁入庁
7月 電波局管理課
1946年 1月 電波局無線課
10月 商工省移籍
資源行政局政策課
1948年 1月 資源行政局政策課・主務
10月 資源行政局貿易課・主務
1949年 1月 資源行政局貿易課・北米係係長
1950年 10月 資源行政局貿易課・課長補佐
1952年 4月 東海商工局名古屋港貿易事務所長
1954年 4月 東海商工局地域経済部・副部長
1955年 7月 経営局中小企業課長
1957年 1月 資源行政局貿易課長
1958年 10月 在米日本大使館書記官・経済部参事官
1960年 7月 在米日本大使館書記官・経済部次席参事官
1963年 4月 国連日本代表部書記官・経済部次席参事官
1965年 4月 製造局輸出入課長
1966年 4月 電源局資源燃料課長
1968年 10月 関西電力へ出向
燃料本部副本部長・火力燃料部長
1970年 1月 帰任
政策立案統括審議官
1971年 7月 資源行政局長
1974年 7月 大臣官房長
1977年 1月 電源局長
1978年 10月 産業分野担当審議官
1981年 7月 商工事務次官
1986年 6月 商工省退官

役職歴(就任)

最終更新:2025年07月22日 20:17