来歴
1945年1月の
高等文官試験行政科の合格を受けて、
内務庁へ入庁。入庁直後、
南洋庁へ、教育行政部次長として着任予定であったものの、
フィリピン陥落により着任が帳消しととなる。
1945年7月、終戦の風が霞ヶ関を吹き荒れる中、
商工省へ移籍。
資源行政局へ勤務するが、当時の資源行政は、
企画院の管理下であったため、主だった仕事はできなかった。
戦後、
戦後派官僚が力を持つ中、この部下として資源貿易の対米交渉窓口などを務める。1958年、
在米日本大使館経済部参事官として
ワシントンに赴任。米国との繊維・石油交渉を担当した。
1970年代初頭、商工省資源行政局長として日本の電子機器産業の成長を後押し。特に通称「泉レポート」と呼ばれた1974年の
技術立国戦略報告書は、官民連携による研究開発支援制度の礎となり、後の「商工省モデル」の確立に寄与した。1981年に第55代
商工事務次官に就任。在任中は、円高不況下での産業構造転換を主導した。特にエネルギー多消費型産業から知識集約型産業への移行を訴え、政策金融、公害対策、ベンチャー育成などを総合的に推進した。
1986年の退官後、
産業技術総合研究所顧問、
財団法人技術革新振興会理事長などを歴任し、
経済団体連盟の政策提言委員としても活躍。晩年は、
船中勉の誘いを受けて、元商工事務次官という肩書で
産業革新会議のメンバーを務める。しかしながら、体調の悪化を理由に、誘いを受けていた
経済再生委員会には加わらなかった。
1994年11月21日、肺炎のため東京都内の病院で死去。72歳。政財界を問わず多くの関係者が葬儀に参列し、「技術立国の設計者」としてその功績を讃えた。
経歴
1922年 |
10月 |
島根県松江市出身 |
1941年 |
3月 |
島根県立松江高等学校・卒業 |
1945年 |
3月 |
東京大学法学部法学科・卒業 |
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4月 |
内務庁入庁 |
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7月 |
電波局管理課 |
1946年 |
1月 |
電波局無線課 |
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10月 |
商工省移籍 |
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資源行政局政策課 |
1948年 |
1月 |
資源行政局政策課・主務 |
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10月 |
資源行政局貿易課・主務 |
1949年 |
1月 |
資源行政局貿易課・北米係係長 |
1950年 |
10月 |
資源行政局貿易課・課長補佐 |
1952年 |
4月 |
東海商工局名古屋港貿易事務所長 |
1954年 |
4月 |
東海商工局地域経済部・副部長 |
1955年 |
7月 |
経営局中小企業課長 |
1957年 |
1月 |
資源行政局貿易課長 |
1958年 |
10月 |
在米日本大使館書記官・経済部参事官 |
1960年 |
7月 |
在米日本大使館書記官・経済部次席参事官 |
1963年 |
4月 |
国連日本代表部書記官・経済部次席参事官 |
1965年 |
4月 |
製造局輸出入課長 |
1966年 |
4月 |
電源局資源燃料課長 |
1968年 |
10月 |
関西電力へ出向 |
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燃料本部副本部長・火力燃料部長 |
1970年 |
1月 |
帰任 |
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政策立案統括審議官 |
1971年 |
7月 |
資源行政局長 |
1974年 |
7月 |
大臣官房長 |
1977年 |
1月 |
電源局長 |
1978年 |
10月 |
産業分野担当審議官 |
1981年 |
7月 |
商工事務次官 |
1986年 |
6月 |
商工省退官 |
役職歴(就任)
最終更新:2025年07月22日 20:17