大宮友兼

大宮友兼(おおみやともかね)〈1948年11月-2023年9月〉は、国鉄総裁(34代目)、日本国有鉄道の役員などを歴任。

来歴

1948年11月、東京都出身。祖父と父は、小石川国立病院医療法人山陽会などで従事した医師。兄と弟も医師であった。

国鉄入社

東京都立日比谷高等学校東京大学文学部地理学科で学ぶ。東大では、東大鉄道旅行研究会にて会長を歴任したほどの鉄道ファンだった。1971年4月、日本国有鉄道へ総合職で入社。新宿駅品川駅での勤務を経て、新幹線畑、総務畑に従事。同期の総合職に比べて出世が著しく遅かったため、「ドン亀」「鈍牛」と呼ばれ、自身も出世に強い関心があるわけではなかった。
転機は、1985年の人事で職員局人事部昇進課長への昇進だった。課長就任は、同期の中で最も遅かった。自由党の国会議員が後見人として入社してきた縁故社員の昇進について、役員経由で圧力がかかり、その見返りで人事部長が私腹を肥やすという光景をいやというほど見ることになった。

90年国鉄整理令

人事部長付を経て、1989年に労組部争議対策課長に就任。前任者が通常より早く移動となったのは、国鉄中央労働組合連合会中央執行委員長に、「世紀の天才リーダー」と呼ばれた犬神宗憲が就任したためであった。犬神は、国鉄中労連の異端分子として経営者側から警戒されていた人物で、労組部は組合側リーダーを穏健派で抑えるための防波堤という役割だった。これに失敗した労組部は、課長補佐以上をすべて代えて新体制で春闘を迎えることになる。
1989年春闘では、スト権不法性を見極めて関東圏企業労働委員会からの勧告でストライキを抑えると、犬神体制に反対する国鉄中労連の地方幹部を懐柔。1989年10月の全国メーデーでは、体制側の前線司令官として争議対策を担当。雪村多稀国鉄中労連中日本本部委員長)などの地方幹部を人事を見返りに懐柔してメーデーの終息に貢献。組合側要求に屈さない経営姿勢を支えた。

出世ルート

春闘集結の論功行賞は大きく、労組部の課長以上全員は希望の移動先を用意された。1990年1月より高崎鉄道管理局総務部長に出され、1993年7月から職員局人事部長に就任し、雪村多稀を部長付として呼んだ。その後、仙台鉄道管理局管内の駅長を経て、1999年から仙台鉄道管理局長。2004年から総務局長、2006年から国鉄理事を兼ねて職員局長。2008年に社内監査役として国鉄監査委員会に送られると、出世ルートから外れ、定年を待つだけになっていたが、2009年の社会党政権成立以後、運輸省の方針転化によって棚ぼた人事で34代目国鉄総裁に就任することになる。総裁就任以後、反社会党の姿勢を崩さず、たびたび運輸大臣と対立。最終的に、6年間この地位を務め、社会党の不利になった国鉄不採算路線の清算をどんどん推し進めることになる。

系譜

1971 4 日本国有鉄道総合職入社
7 新宿駅駅務員
1973 1 品川駅駅務員
1975 1 新幹線総局運航管理局運航計画部ダイヤ課
1976 7 新幹線総局総務部法務課
1977 7 新幹線指令センター仙台指令台・新幹線指令
1979 7 仙台鉄道管理局総務部企画課・課長補佐
1981 7 仙台鉄道管理局総務部企画課長
1983 1 総務局資材部管理課・課長補佐
1985 7 職員局人事部昇進課長
1987 7 職員局人事部長付
1989 1 職員局労組部争議対策課長
1990 1 高崎鉄道管理局総務部長
1991 7 高崎鉄道管理局次長・総務部長
1993 7 職員局人事部長
1995 7 福島駅駅長・福島運輸区
1997 7 仙台駅駅長・仙台運輸区
1999 7 仙台鉄道管理局長
2001 7 横浜鉄道管理局
2003 7 総務局次長
2004 7 総務局長
2006 7 国鉄理事・職員局長
2008 7 社内監査役
2010 7 第34代国鉄総裁
最終更新:2025年09月08日 22:40