伊田游

伊田游(いだゆう)〈1916年9月-1984年9月〉は、日本の陸軍軍人、実業家、プロ野球コミッショナー。明和大栄代表取締役会長、名古屋ドラゴンズ代表取締役社長、尾張スタジアム代表取締役会長、日本プロ野球連盟会長(1971年1月-1977年9月)。

来歴

1916年9月、宮城県仙台市出身。父の伊田博、祖父の伊田拓郎は、共に陸軍の高級軍人であり、家系は仙台藩の家老だった。母方には、東北大学初代学長の松方弘樹札幌国立病院院長の松方美興など医学者が多数存在する医学家系だった。

軍人の道へ

上2人の兄が医師の道を志したが、兄弟の中で最も体格の良かった自分は自然と軍人の世界に進んだ。
陸軍士官学校仙台予科、陸軍士官学校で学び、最短ルートと言われる18歳(1935年4月)で、「陸軍少尉」として任官。第2師団第6歩兵連隊で若くして経験を重ね、第7師団師団司令部、第9歩兵連隊連隊事務部で事務官僚としての才覚を磨いた。職業軍人でありながら海外派兵経験がなく、第2次世界大戦で同志が散っていく姿を遠くから眺めていた。所属部隊長の推薦を受け、1943年1月に国防大学校入学試験に合格し、国防大学校へ入学。短期課程の第32期を卒業、同期には、荒井壮一平井壮などが在籍していた。大学校を経て、八重山本土防衛前線指揮所付の士官となる。7月1日付で陸軍少佐に昇進し、指揮所幕僚次長として終戦を迎える。
1945年8月の終戦後、前線指揮所は比較的早い時期に撤収が完了。沖縄行政管理庁に移って、奥名和一登沖縄行政管理庁長官の秘書官を務めた。公職追放によって中央の要職があいたため、奥名和が東京に移り日本陶磁器統制会会長として解散事務を担当すると、事務局嘱託として自身もそのサポートに徹した。1946年1月1日付の武装解除令で軍職を離れるように命じられ、内務庁への入庁扱いとなる。

終戦連絡事務局

1946年2月、内務庁に在籍しながら終戦連絡事務局へ出向。秘書室調整担当課長として大塚恒夫総裁を補佐。1948年1月から内務庁長官官房文書課で課長補佐を務めていたが、1951年に退職。

サラリーマン時代

1951年10月、明和大栄に労政部安全課長として入社。炭鉱労働者連盟印刷職工労働組合との団体交渉に二の足を踏む、明和大栄の交渉役として、当時「社外取締役」だった奥名和一登に招聘された。明和大栄は、1949年に八雲炭鉱争議を起こされてから、労組との付き合い方が悪いと言われ、団体交渉の素人だと言われ続けてきた。1953年の春闘で、スト権行使を動きを見せる労働者側に対して、特別賞与と歩合給のシステム化を約束して交渉を妥結。一目置かれる存在になると、1954年の定期人事で、総務部事業室長に就任。日本海運社との連携体制強化を目的に、日米間の鉄鋼定期船就航を実現を目標に掲げた、上院議員法律スタッフなどの経験を持つ現役弁護士で日本海運社サンパウロ支店長の足尾まつたを仲介人に立て、日米港湾航路協会与沢拓郎と共にホワイトハウスに殴り込んだ。最終的に、反日政治家で知られるパウロ・フルエリヒト(上院議員)に泣きつき、対米投資委員会で日米貿易定期船の政治的意義を熱弁させた。この時の見返りで、パウロは、後の日米協会会長を務める。1956年から、日本船舶港湾協会日本鉄鋼産業協会に専従職員として出向。1961年に、資本関係を持っていた新日本映画総務部長を歴任した。

プロ野球参戦

1964年、戦後復興の象徴と言われた東京オリンピックが成功のうちに終焉を迎えると、名古屋市内のプロ野球球団「金鯱ドラゴンズ」の親会社である名古屋新聞明和大栄への球団身売り交渉を水面下で進めた。当時、新日本映画総務部長の役職にありながら、明和大栄社長室嘱託としての地位を持っていた伊田は、球団買収を当時の岡村重信社長に打診。「球団経営は、僕がやりますから、買いましょう。これは黒字化できますよ」このように言ったが、役員会では結局否決。それでもあきらめきれず、新日本映画日本海運社明和大栄の3社で合同購入しましょうと提案。それぞれの経営幹部への交渉役を買って出たため、岡村社長も折れて、三者の合同経営会議で球団買収が決定。
1964年10月に球団買収文書が締結され、新球団「名古屋ドラゴンズ」が発足した。

名古屋ドラゴンズ球団役員

1964年12月、球団会社の新体制を敷き、球団取締役総務人事部長に就任。監督コーチ人事権を持つ球団強化本部長には、東京ロワイヤルズ統括マネージャーで次期監督候補の1人であった御鷹團を招聘。監督には、成績不振の責任を取って大阪パイレーツ監督を退いた川船昇成が就任。1968年の日本シリーズ優勝、翌1969年のアジアベースボールカップ優勝に導く貢献をする。1967年から球団専務取締役に就任。球団本拠地を名古屋市立球場からフランチャイズ球場として建設した尾張スタジアムに移転。開場した1969年シーズンからの使用に合わせて、尾張スタジアム代表取締役社長を兼任。1970年シーズンから、球団フロントの大規模人事異動により、名古屋ドラゴンズ代表取締役社長を専任する。

日本プロ野球連盟会長

1971年より、日本プロ野球連盟会長に就任。前任の田代隆一は、運輸省の国鉄官僚からプロ野球の世界に転じ、テレビ放映権制度や東京ロワイヤルズ神戸マーリンズの「伝統の一戦」の商業効果を確立させた。球団社長からの転身は、プロ野球の歴史上はじめてであった。連盟に専従したため球団を離れ、1973年から明和大栄代表取締役会長に就任。連盟会長時代に推し進めたのは、全天候型ドーム球場の建設後押しとプロ野球ドラフト制度の厳格化であった。1980年代の東京ドーム大阪ドーム開業につながる礎となった。球団関連では、ヨコハマ自動車横浜レンジャーズ身売りに際して、アメリカ発のIT大手「シルバーゲート」が外資として初参入。参入審査では、連盟会長として参入を認めた。結果的には、ヨコハマ自動車シルバーゲート太陽時計が三者共同で経営権を保有することとなった。1977年まで連盟会長を務めたが、自身の健康問題があって辞任。

戦後日本復興の体現者

1978年から明和大栄に社賓として招かれる。
最終更新:2025年09月13日 04:21