来歴
軍人の道へ
サラリーマン時代
1951年10月、
明和大栄に労政部安全課長として入社。
炭鉱労働者連盟や
印刷職工労働組合との団体交渉に二の足を踏む、明和大栄の交渉役として、当時「社外取締役」だった
奥名和一登に招聘された。
明和大栄は、1949年に
八雲炭鉱争議を起こされてから、労組との付き合い方が悪いと言われ、団体交渉の素人だと言われ続けてきた。1953年の春闘で、スト権行使を動きを見せる労働者側に対して、特別賞与と歩合給のシステム化を約束して交渉を妥結。一目置かれる存在になると、1954年の定期人事で、総務部事業室長に就任。
日本海運社との連携体制強化を目的に、日米間の鉄鋼定期船就航を実現を目標に掲げた、
上院議員法律スタッフなどの経験を持つ現役弁護士で日本海運社サンパウロ支店長の
足尾まつたを仲介人に立て、
日米港湾航路協会の
与沢拓郎と共にホワイトハウスに殴り込んだ。最終的に、反日政治家で知られる
パウロ・フルエリヒト(
上院議員)に泣きつき、対米投資委員会で日米貿易定期船の政治的意義を熱弁させた。この時の見返りで、パウロは、後の
日米協会会長を務める。1956年から、
日本船舶港湾協会、
日本鉄鋼産業協会に専従職員として出向。1961年に、資本関係を持っていた
新日本映画総務部長を歴任した。
プロ野球参戦
1964年、戦後復興の象徴と言われた
東京オリンピックが成功のうちに終焉を迎えると、
名古屋市内のプロ野球球団「
金鯱ドラゴンズ」の親会社である
名古屋新聞が
明和大栄への球団身売り交渉を水面下で進めた。当時、新日本映画総務部長の役職にありながら、
明和大栄社長室嘱託としての地位を持っていた伊田は、球団買収を当時の
岡村重信社長に打診。「球団経営は、僕がやりますから、買いましょう。これは黒字化できますよ」このように言ったが、役員会では結局否決。それでもあきらめきれず、
新日本映画、
日本海運社、
明和大栄の3社で合同購入しましょうと提案。それぞれの経営幹部への交渉役を買って出たため、岡村社長も折れて、三者の合同経営会議で球団買収が決定。
1964年10月に球団買収文書が締結され、新球団「
名古屋ドラゴンズ」が発足した。
戦後日本復興の体現者
最終更新:2025年09月13日 04:21