荒井壮一

荒井壮一(あらいそういち、1911年4月-1992年7月)は、日本の軍人、実業家。戦後における日本政界のフィクサーの1人。

来歴

1911年静岡県出身。旧制静岡高等学校(現在の静岡県立静岡高等学校)卒業後、名古屋大学へ進学。法学部で民法を専攻する。「法学部の入学同期には、浜中俊がおり弁論部のライバルでもあった」。

軍人

名古屋大学法学部在学中に、陸軍士官学校へ入校。陸軍軍人としての道を開くことになる。1935年1月の自主軍事宣言を軍人として受け入れ、同年4月に陸軍少尉として任官する。1939年4月、日本の大陸スパイ組織である日清華西研究所委員として中華民国に送られる。裏では、中華民国の新政府運動を監視するスパイをとして派遣されていた。1943年、国防大学校に進学。1945年3月、国防大32期として卒業。同期には、平井壮伊田游らが居た。その後、再び大陸に渡り、尾行される日々を送る。1965年12月に退官。

実業界へ

保守党所属の衆議院議員で、二大政党制論者として著名だった浜中俊に誘われて「浜中事務所政策サポーター」に就任、主だって国防政策などを提言する。1967年4月、旭光化学工業取締役に就任。同社は、日清華西研究所の3代目理事長を務めた林振東が名誉顧問を務める。1970年10月、旭光化学工業代表取締役会長に就任。国内の国立大学へ向けた研究機器の納入などに関して、政界で力を伸ばしていた浜中の後押しを受けていた。
1972年4月、日本経営者連盟理事に選任を受ける。1974年1月、第二次国共合作の発生を受けて、中華民国中央経済研究院諮問委員に就任。日中連携強化の橋渡し役を務めた。1978年の第24回衆議院総選挙では、浜中俊が代表を務めていた自由党西日本連合会へ多額の政治献金を行う。荒井の政治献金によって当選することのできた議員も複数名存在する。1980年の第25回衆議院総選挙でも、多額の政治献金を行い、政権与党となる自由党の屋台骨を支える。

政界への影響力

文部大臣として初入閣した浜中俊の任命により、1980年10月に科学技術中央審議会会長(1988年3月まで)に就任。1987年1月、浜中が設立した政治派閥である興和会の新年会に出席。同年5月から、同派閥の外部顧問の地位に就く。

1992年7月、81歳で心臓発作で死去。

経歴

1911年 4月 静岡県静岡市・出身
1930年 3月 旧制静岡高等学校・卒業
4月 名古屋大学・進学
1932年 4月 陸軍士官学校・入学
9月 名古屋大学・中退
1935年 3月 陸軍士官学校・卒
4月 陸軍少尉・任官
第16師団第52歩兵連隊第4小隊・副小隊長
10月 第16師団第53歩兵連隊第4小隊長
1937年 1月 第16師団第53歩兵連隊・連隊司令部付
1938年 7月 陸軍中尉・昇任
10月 第16師団第53歩兵連隊・連隊司令部庶務班長
1939年 4月 日清華西研究所委員
1942年 1月 上海特務機関所属
1943年 1月 香港特務機関所属
4月 国防大学校・入学
1945年 3月 国防大学校・32期卒
4月 陸軍大尉・昇任
在香港日本総領事館駐在武官付
9月 参謀本部第3部外交連絡課・課長補佐
1947年 1月 大本営国際本部情勢調査局同盟動向課・課長補佐
1948年 8月 大本営国際本部情勢調査局地域情勢課・課長補佐
1949年 4月 少佐・昇任
大本営国際本部情勢調査局地域情勢課長
1950年 1月 第1防空連隊第2中隊長
1952年 4月 第1砲兵連隊・副連隊長/弾道観測統制隊長
10月 中佐・昇任
第2機甲師団第7戦車連隊
1955年 4月 第1師団第2歩兵連隊
1957年 10月 第1師団・副師団長
1958年 1月 大佐・昇任
1959年 4月 第10師団・副師団長/第43特科連隊
1960年 12月 准将・昇任
第1特務師団
1963年 4月 北日本情報支局
1964年 10月 極東情報連絡所長官
1965年 12月 退官
最終更新:2025年07月25日 00:28