足立孝標(あだちたかすえ)〈1926.4-2019.5〉は、日本の政治家、(6代)
社会党委員長、(公選13代)
北海道知事である。
来歴
生い立ち
1926年4月、
北海道旭川市出身。幼少期は、祖父の
足立興数(
北海道大学教授・法制史研究家)から政治や経済、国際学など様々な学問を吸収した。両親は、
札幌市内の高校への進学を希望したが、祖父の意向もあって道立
旭川東高等学校へ入学。現役時代は、官僚を目指して
東京大学法学部を受験したが滑り止めも含めて全落ち。当時の浪人学生は、基本的に兵役か
勤労動員が基本であったため、祖父が軍部に根回しをしたおかげで内地の兵器工場での勤労をしながら大学受験の勉強を行う。1浪の末、1945年4月に
大阪大学法学部に進学。
北海道から
大阪府へ向かう日本海側の寝台列車の中から遠くに見える空襲の赤い光を眺め、日本の敗戦という現実を身近に味わうことになった。この時に見たのが、
長岡大空襲であったと後に回顧している。
1945年8月、終戦詔勅を大学の自治会館で直立不動で聞いた。1946年から「
大学自治」が浸透すると、大学の友人とともに
自治会運動に参加。心の穴を埋めてくれることを期待し、大阪大学
学生自治同盟に入会。入会当初は、暴力革命思想を忌避して、同盟内で勉強会と称する学生思想討議会を主宰。1948年、「
国家治安庁法改正」に伴い、学生自治同盟幹部が自主退学に追い込まれると、自身の支持者らを擁して「大阪大学学生自治同盟中央執行委員会評議員」に選出。関西における自治会運動に、思想型の学生運動を伝播させていく。その後、阪大自治同では、組織体制部長、組織運動支援部長、中央執行委員長などの要職を歴任。
関西学生自治会連合会でも、組織運動連絡委員長、中央幹事会筆頭幹事を歴任。1949年の第3回関西学生自治会総会で「近代日本の忌避すべき革命思想と学生思想の対峙」と題した討論会を主宰したことが決定打となり、
全共闘思想派が旗揚げされ中核人物として全国に知られるようになった。2年の休学を経て、1950年4月に学部4年へ進級。生涯の恩師となる
松山総三郎(教授・学科長・憲法学講座)に心酔して
自治会運動から離れる。松山ゼミでは、護憲論について度々教授と激論を交わしたが、一度も納得させたことはなかった。ゼミの1年後輩には、のちに
保守党で改憲論争をする
山瀬瑞斗がいた。自身は官僚になるものだと思って、
高等文官試験を受験するつもりでいたが、「自治会なんかをやっていた奴が官吏になどなれるか」と教授から諭されて大学院進学を決める。1951年4月、大阪大学大学院法学研究科に進学。進学後も、松山ゼミから離れることはなかった。当時世界では例がなかった、護憲理論の研究手法を模索して院生時代5年間を過ごした。博士論文に「護憲理論の法学的歴史見解」を発表したが
日本憲法学会の評価を受けられず、1956年に博士課程単位取得退学。
文壇時代
博士論文の件があり、憲法の世界では生きられないと悟ったため文壇にその道を模索することになる。1957年に処女作の「日本憲法学会論議」を発表すると、
東亜文論ノンフィクション文芸賞(第10期)を獲得。これまで抽象的だった学問批判に対して、学問組織批判の観念をぶつける事で体系化させた。さらに、自治会時代の学生思想を集約させた「
近代学生問答集」を
日本文芸社から発表。全共闘思想派の経典的存在となったが、一部からは「一度捨てた学生思想への固執」として非難された。文壇に立っても自身の存在は認められないと感じて、1960年ごろから放浪の旅に出て、やがて
北海道に戻る。北海道で、私立高校の社会科教員として勤務しながら、詩集の執筆などに明け暮れる日々を過ごす。
復帰
1965年、恩師である
松山総三郎の葬儀参列のために訪阪。数年ぶり訪れた大学で、主義や主張の著しく乱れた
自治会運動に絶望。北海道に戻る道中、後輩の
山瀬瑞斗(
法務官僚)と再開。もう一度憲法と向き合う意義を確認した。帰郷後、博士論文の執筆を開始。1966年、博士請求論文「護憲理論の探究手法」を大阪大学に提出、
法学博士を得る。北海道大学に職を求めて、1967年4月から
北海道大学法学部客員准教授(憲法学講座)に異例の着任。学際団体である
国際憲法研究会を主宰して多分野の研究者を集めて憲法論議を加速。一貫して護憲理論の探究に体系的な学問分野を探し続けた。
政界進出
委員長に向けて
前任の
藤沢玲奈委員長が、1983年6月5日の
第26回衆議院総選挙で過去最低議席数となったことを理由に退任を発表。同月、「
党大会に代わる両院議員総会」によって、後継の委員長候補者として選任を受けそのまま任命されることとなる。足立の派閥であった
希望と平等の会は、派閥の枠や当選年次に関わらず実弾を飛ばし、前年の
北海道知事選挙などの功績の手伝って、対立候補とされていた
堀岡弘文(元
大蔵大臣・
堀田派代表)にダブルスコア以上の得票差をつけて勝利することになる。この後、堀岡は、
社会党全国委員長に就任することになったが、この人事はあからさまな更迭人事となった。委員長就任以降、従来の社会党構想に則って
戦後革命運動を支持してきた
主流派を人事上次々に更迭。また、労組との関係を深める
団体派を押さえつけて、自らも属す
福祉派を重用。
フェミニズム運動を背景とする国民運動に後押しを受けて 支持層による最低限度の得票数を堅持。1988年、前委員長の
藤沢玲奈(
世界医療代弁人協会会長)の仲介で
朝鮮社会党の
崔元道(書記長)と会談。国際的な
社会主義政党の連携を目指した国際団体の設立に向けて歩みを進める。1990年、
アジア社会党会議の設立式へ出席。同年より、非常勤理事に選任を受ける。この団体の下部組織でもある
国民運動委員会会長を務めていた
三宅健一は、
暴力団との関係を持つ
南洋商会の会長で、かつての
青島事件で利益を上げた政界フィクサーの1人でもあった。このいぶかしい関係性を持ちながら、社会党はなおも
二大政党制時代の野党勢力としての地位に安住。
社会党委員長の地位も安泰と考えられていたが、運命の
北海道議会議員一般選挙を迎えることになる。1992年12月に行われる予定であった北海道議会議員選挙では、選挙前から
社会党圧勝が報じられていた。しかしこの選挙で
社会党にとっての大きな誤算が発生する。立候補者に渡った選挙資金が、
暴力団フロント企業からの献金であり、この献金を支持していたのが足立自身だったことが
北海道新報を通じて報じられた。これは非常に大きな問題として国会での論戦材料となってしまい、1992年の
通常会で社会党が
自由党左派との連携により成立を目指した
国際資源輸出入規制法が廃案に追い込まれた。その後も、社会党の道議選公認候補者として出馬予定だった新人議員5名が公認を辞退、現職や元職も併せて19名が離党を表明。足元がぐらつく中、北海道経済の支配者となっていた、
半田秋成(
ハンナン財団理事)に選挙応援を依頼したが、
自由党支持を表明していた
ハンナン側が認めず、
総評北海道に加盟する
北海道食品産業労働団体連合会からも応援が取りやめられる。この時期、総評北海道の
前村和樹(総評北海道会長・
前村信康の次男)が「組織として、このような状態の
社会党を応援することはない」と発言したため総評北海道は地方組織単位での応援を拒否。そのまま、1992年12月の北海道議選に突入すると、議席数の51候補を大きく超える78名の立候補者を公認するが、選挙中にも闇献金の事実が浮上してしまったため強い逆風となったため選挙期間中に19候補が自ら公認取り下げ。最終的な当選者が29名にまで落ち込むこととなった。地元北海道の選挙区で選挙に勝てなかったという事実は、弱体化していた委員長としての支持基盤をさらに弱体化させるものであった。選挙の責任を負って
社会党委員長の職を辞し、社会党顧問に就く。
晩年
かつての盟友だった、
社会党の
向井千早(
常任幹事)から要請を受けて、1999年6月の
社会党結党50周年記念大会へ出席。この時期以降、
社会党内部の
ニューリーダーとの距離を詰めることになる。同年9月に、
ニューリーダーの
佐々木智也が
社会党委員長へ就任したことを皮切りとして、
社会党の党員資格停止命令が取り消されたため、社会党党員へ復帰。
社会党からの名誉職や北海道庁顧問職などの職責打診を固辞。在野の憲法学者として日本中を来訪しながら護憲理論について研究を続ける。2009年に
第35回衆議院総選挙で社会党が政権を獲得したため、久方ぶりに政治の表舞台に出て声明文を発表。かつての護憲政治を標榜した社会党と市民共闘を掲げた民間政治団体の
民社政治会を発足。民社政治会の初代顧問を務めたが、積極的な政治介入は行わず政治の世界に関係を持つことはなかった。2011年以降、85歳という高齢のため北海道に戻り余生を送るつもりであったが
北海道大学病院でそのほとんどを過ごす。2012年10月、86歳でその生涯に幕を下ろした。足立孝標は、後世の護憲派憲法学者にとって崇拝すべき存在であった一方、憲法の世界では憲法考察の甘さに目がいく存在でもあった。足立の政界引退後、子息は政治の道に進むことを極めて嫌がったため足立自身が戦った相手として見込んだ
蒲田安子(北海道議)が国政に進出。後の、
社会民主党結党などにも関与することになる。
選挙結果
最終更新:2025年04月14日 18:18