保守党は、かつて存在した日本の
国政政党である。
戦後期の結党から
自由党の設立による
二大政党制の時代まで政権を獲得はできなかったものの、強大な野党として存在していた。
成立年月日 |
1945年10月9日 |
前身政党 |
大日本政治会 |
解散年月日 |
1975年4月29日 |
解散理由 |
共和党との合流のため |
後継政党 |
自由党 |
政治思想 |
極右・右派・保守主義・新保守主義・復古主義 |
機関紙 |
新しい日本の復古主義 |
組織
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幹事長代行 |
幹事長代理 |
副幹事長 |
選挙対策本部 |
本部長 |
副本部長 |
委員 |
団体部 |
部長 |
次長 |
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遊説部 |
部長 |
次長 |
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運動部 |
部長 |
次長 |
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地域組織部 |
部長 |
次長 |
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都道府県支部 |
支部長 |
支部長代行 |
支部幹事長 |
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局長 |
局長代行 |
局長代理 |
次長 |
委員 |
立法事務部会 |
部会長 |
部会長代行 |
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委員長 |
委員長代行 |
副委員長(4名) |
委員長補佐 |
委員 |
参院国対委員会 |
委員長 |
委員長代行 |
副委員長(2名) |
委員 |
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議席
議席変動
選挙結果
歴史
結党と新生
大日本政治会解散の後、
皇道派と呼ばれる会内右派を中心に結集した。大日本政治会の№2だった
幹事長の
大峰義人が立党綱領及び政権構想綱領を発表した。1945年12月の
第13回衆議院総選挙で110議席を獲得して比較第二党に甘んじたが、
海堂内閣の支持を表明した。海堂内閣の総辞職後、保守一党体制を掲げる大峰支持の「本流」と、他党との対等合併による与党連合を目指す
長田秀三(党国対委員長)支持の「傍流」が分裂。一方で、
日本共和党から離れて内閣を形成した
第1次大路内閣に院内協力を表明。1946年12月、
第14回衆議院総選挙において、議席を減らしながらも90議席で比較第2党を確保。
第2次大路内閣においても政権構想に近づいて院内協力体制を構築。
1948年1月に傍流と呼ばれた53名が集団離党して
民主党を形成。そのため、所属議員数が37名に落ち込む。1949年10月の
第15回衆議院総選挙で、
民主党の急成長に伴い、議席数を減らす。この時期に、
大峰体制が盤石なものとなる。この期間、保守党は急速に右傾化。世間の右翼活動家や右翼団体幹部などとの交流によって全国的な右翼運動支持を大々的に表明。終戦から5年後の1950年8月15日には、
日本学生連合を設立。設立式典は、保守党本部前の
靖国公園で党幹部や右翼関係者を前に大々的に挙行された。急速に左傾化する
学生運動の流れに反旗を翻して、右翼学生の結集を全国的に訴えた。
深い反省と新体制
1952年1月1日、
長田秀三は「
深い反省」と題した新保守主義に関する一連の論文を発表して保守党への合流を宣言。法規的には、1月6日に保守党は民主党105名(衆64・参41)を吸収した。その後の長田秀三は、かつての民主党に属していた議員を中心に党内派閥の
政風会を設立した。1954年8月15日、靖国公園で
両院議員総会が開かれると、大峰義人総裁が退任を表明。後継総裁を選出する総裁選挙が開かれる。当日告示、当日投開票という異例の日程で行われた。大峰義人の後継総裁には、
森野三郎(
国対委員長・元
幹事長)が就任。これ以降、新総裁の任免権は、両院議員総会に委ねられることとなった。森野体制で迎えた翌1955年5月の
第17回衆議院総選挙では、大敗を喫して比較第三党に沈む。森野総裁は、党内勢力からの反対に遭って第2回両院議員総会において退陣を求められる。
長田新体制
1955年6月の第2回両院議員総会では、森野総裁が退陣要求にこたえる形で総裁選任投票を行うことを表明した。当日告示、翌日投開票の日程が決定されると、森野三郎と長田秀三の一騎打ちとなり、長田新総裁が誕生した。長田新体制では、これまで右傾化していた党人事を一新して中道右派路線に転嫁。これまで継続していた日本学生連合への支援を縮小し、右翼団体との交流を断ち切った。党内人事では、中道右派勢力を中心として登用。
深室慎太郎や
小田信二、
副島誠といった旧民主党の若手が保守党の幹部となっていった時期でもある。このころの保守党は、
三極政治の中で最右翼とされる位置にあったが、三党合意においては穏健的な政策を提言する。特に中道勢力である
共和党との連携に熱心であり、国対委員会を中心に院内連携体制を整備している。一方、長田体制に対して、大峰の愛弟子である
八尾育四郎(元
政調局長代行)が
八政会を立ち上げ保守党派閥を形成する。
最終更新:2025年03月19日 09:41