大学再編推進協議会(だいがくさいへんすいしんきょうぎかい)は、1957年11月に発足した
文部大臣を長とする内閣の諮問機関である。通称
「矢口機関」。
概要
大学再編推進協議会は、1957年8月の
文部省中央教育審議会の第二号答申において発表された「矢口計画(
国立大学の部分的削減を盛り込んだ大学再編プラン)」を受けた
遠山内閣によって設立された諮問機関である。事実上の裁定役となった
矢口敬からとって
「矢口機関」と通称される。
1957年11月に発足し、1958年10月の答申を発表を経て、1959年6月に解散した。
沿革
経緯
- 1950年以降、日本における高等教育の中核的な役割を果たしてきた国立大学は、自らの権威性と大学自治というハザマの中で存在意義が低下していた。特に地方の国立大学では、地方における学術の拡充という流れから大きく離れた教育機関的な思想が蔓延していた。
- 1955年、「自由主義の三権」を提唱した共和党が政権を獲得すると、大学自治の流れに拍車がかかった一方、公立教育機関の在り方を考え直す重要な時期に差し掛かることとなった。
- 1955年4月、中央教育審議会初代会長に就任したばかりであった村板卓志は、自らが提唱して設立した日本大学学術機構を中心とする大学再編の流れを打ち出して教育行政を審議するための分科会設立などに奔走することとなる。この信託を受けたのが、元内務官僚で東大教授(教育行政学講座)の矢口敬であった。10月に矢口が就任すると、矢継ぎ早に大学教育分科会を発足させ国立大学運営問題に切り込む体制を図った。
- 1957年、4月の第一号答申に引き続く形で、8月に中教審副会長矢口敬の名前で第二号答申が発表された。世に言われる「矢口計画」である。矢口計画では、自治経営が可能ではない国立大学や戦後において教育拡充が不十分とされていた国立大学を統合・廃止のいずれかの方針に分けて処理し、国立大学運営資金を徹底的に削減する狙いが含まれていた。
発足
- 1957年8月の第二号答申を受けた遠山内閣は、島津千代(文部大臣)を長とする行政委員会の発足に向けて動き出すことになる。
- 同年10月、従来の行政委員会案と、内閣総理大臣の権限を高める諮問機関案で別れると、矢口敬を中心とした中教審側が諮問機関案に偏ったため、後者で折り合うことになった。
- 同年11月、「大学再編推進協議会」が、内閣総理大臣の諮問機関として発足し、文部大臣を長とした組織が発足することになった。一方、事実上の裁定役とされたのが、副会長を務めた矢口敬であった。通称「矢口機関」と呼ばれるゆえんである。
再編方針と経過
- 1957年12月、矢口副会長を中心とする中教審側が、再編大学として14大学をリスト化し提示。大学の自治経営及び経営状況に関する書類の提出を対象大学に求め、返答を持って答申の内容を整理するとした。
- 1958年、岩国商科大学を皮切りに対象14大学の書類がそろったのが、6月であった。
- 同年7月以降、協議会を中心に経営健全化可能大学を挙げて、対象リストから外す作業を行い、同年9月までにすべての作業を終了させた。
報告・その後
- 1958年10月、協議会作業部会長となっていた矢口敬の名前で答申が内閣総理大臣に送られた。
- 同年11月の第回国会において提出された、改正国立大学法の中には、経営健全化方針が盛り込まれ、文部省から国立大学再編方針が発表された。
- 1959年1月、社会党を中心とする国立大学系の学生団体らによるデモ、ストライキなどが進む中で、大学に私学化もしくは他大学との統合を進めるように圧力をかけることになった。
構成員
対象大学
私立大学化された国立大学
独立学校法人となるも、1980年に私立大学教育拡充・推進機構運営へと改組。
単独学校法人化して独立。
独立学校法人となるも、1980年に私立大学教育拡充・推進機構運営へと改組。
他大学に統合された国立大学
対象となったものの再編を免れた大学
自主経営再建案の発表で再編を免れたものの、1969年に
愛知大学に再編される。
経営再建計画の報告で再編を免れたものの、1987年の第2次大学再編対象となる。
佐賀県内の中核病院経営計画を整理したため、再編を免れる。
最終更新:2026年09月12日 21:45