【異世界保険事始 ~大航海時代の扉を開いたもう一つの鍵~】

 異世界における大航海時代とは、国境を越えて外洋航海が本格的に発展しはじめた時期を指す。時期としては、ドニー・ドニーの独立戦争終結後にあたる。
 地球における大航海時代は、閉塞した経済圏を広げるために、未知なるフロンティアに乗り出して行くといった意味合いが強かった。対して異世界では、外洋を乗り越えてもそこにいるのは既知の文明であり、しかも神という存在を通じてある程度の交流は保たれていた。沿岸航海による小規模な交易網すら成立していたのである。だから大航海時代とは、外洋を通じて大規模な貿易を行うようになった時期と言い換えて差し支えない。現在でも繁栄している多くの交易都市、たとえばラ・ムールのコマルクル・カ・ムールや大延国の辛樹と言った外洋と河川の積み替え港、マセ=バズークのパロックのような内陸への玄関口、ミズハミシマのトヨツイデジマやドニー・ドニーのカラムス島といったターミナル港はいずれもこの時期に大きく活動規模を拡大し、人々を外洋へと送り出していった。送り出された商人たちは次々にさまざまな商品を買い付け、あるいは自国の産品を他国へと売り込んでいった。経済が大きく発展を遂げたのである。この時に成立した交易ネットワークは、現在でもドニー杉を大延国へ運び、あるいはマセ=バズーク産鉱石をラ・ムール経由でクルスベルグへと運んで鉄製品へ加工し、また各国へ輸出するといった、複数の国に跨る大規模事業を可能にしているのである。



 こうした大航海時代の引き金を引いた要因については、大きなものとして三つが提唱されている。すなわち測位法と造船技術の発達、関係諸国の国情が安定したこと、およびミズハミシマの開国である。
 測位法の技術は、オルニトイストモスでほぼ同時期に完成を見たとされている。いずれの国も、空や草原と言った、自らの場所を特定するランドマークに欠ける地域である。オルニトの測位法は原始的なジャイロと気流のマッピングとを用い、対するイストモスは星を観測することによって自らの場所を特定するというものだった。こうした場所で発達した測位法が小規模な交流を通じて流出し、それが航海に応用されるようになった事で、遠洋でも自分の場所を特定し、きちんとした航路を航海することが可能になったというのだ。
 また、長期間の航海に欠かせないもう一つの要素として、外洋の荒波に耐えられる造船技術が必要であるが、これはドニー・ドニーが当時も世界をリードしていた。ドニー・ドニーは新技術である大型帆船を用いて行動範囲を拡大し、それにつれて、陸地付近で小規模な略奪を繰り返すことよりも、外洋での交易のほうがはるかに儲かることに気がつき始めていた。そしてドニー・ドニーの中で、造船技術を独占する事で自らの権益を確保しようとした一派と、造船技術は高値で売りつけつつ、制海権は軍事力によって確保しようとする一派が対立し、結果として造船技術放出派が勝利を収めたのである。
 二つ目の要因として、単に各国の政情が安定したために国外に目が向いたということが挙げられる。特に、現在も巨大な貿易額を誇るクルスベルグは、この時帝政打倒の影響から脱し、国情が安定し始めた時期だった。活気を取り戻した工業力は多くの製品を生み出した。始めのうちこそ、イストモスが需要をカバーしていた。イストモスはこの時期に大まかな国体が定まり、星教会を中心とした交流ネットワークによって国が結びつきつつあった。この結果生活レベルが向上し、多くの物資を必要とするようになったのである。しかし同大陸ではすぐに供給が飽和し、クルスベルグの商品を取引するラ・ムール商人は輸出先を必要としていた。その輸出先として浮上してきたのが、延やオルニト、マセ=バズークといった他の大陸の国々だったのである。また、
 また第三の要因としては、大陸間の中心部に領海を保持するミズハミシマが、他国の船にも通行を許可したことがある。当時のミズハミシマは武断派が主勢力であったため、国防の観点から他国の船はみだりに立ち入ることを禁じられていた。それまでにドニー・ドニーの海賊行為が目に余る被害を出していたための措置であり、通行禁止のほかに海図や航路の情報なども隠匿していた。これらを開放するきっかけとなったのは将軍の交代である。新将軍フタバ=サツキは諸外国の情報を取り寄せ、異国の文化にも親しむ当時としては異例の開明派であり、各大陸の中心に位置するというミズハミシマの地勢的なアドバンテージをも理解していた。サツキは各地の士族に命じて通行の安全を確保させ、航路を整備させる一方、先に述べたトヨツイデジマをはじめとするいくつもの港を中継貿易港として開発し、各国の船団を受け入れることをオトヒメに進言した。結果として、ミズハミシマを通る多くの航路が開拓された。わけても、東大陸との交易ラインはマセ=バズークやオルニトの農作物や各種天然資源を運び出すルートとして注目され、非常に多くのラ・ムールやドニードニー、大延国の船がミズハミシマを経由して東大陸へと向かい、また戻ってくる事で、ミズハミシマには大量の金が落とされた。こうした大量の船がトヨツイデジマに寄港し、また出発していく様子は、当時検非違使長としてトヨツイデジマに赴任していた士族モリカタが残した手記『藻裏集』に詳しく描かれている。それによれば、さまざまな国の船が多い日は一日に五百隻ほど寄港することもあったほどだという。



 さて、以上に挙げたのはこれまでの異世界史研究において大航海時代の開始要因として見出されてきたものだが、本稿では更にもう一つの要因があったということを主張したい。すなわち、統計学によって完成を見た近代的な保険システムである。
 大航海時代以前の貿易事業は半ば以上博打であった。儲けこそ莫大であったものの、その商売はリスクに満ち、また非常に煩雑で、小規模な取引が沿岸伝いに細々と行われているだけだったのである。
 まず第一のリスクとして、船が出発してから帰って来て儲けを出すまでに時間が掛かるということが挙げられる。船による交易は大量の荷物を扱うため取引額が大きくなりがちな上、航海にかかる経費も多額なため大金が動く。しかし、肝心の儲けが出るのは船が帰ってきた後のことである。船が戻ってこず、したがって収入のないまま半年も待つことはある程度の資本規模がなくては出来ないことであるから、勢いすぐ戻ってこられる範囲での取引が主体となるのである。
 この問題を解決する方法として、出資者を募って大規模な資本で経営を行うことが考えられる。しかし、そうして資金を集めて意気揚々と貿易に乗り出した経営者の前には第二のリスクが立ちはだかっている。すなわち、船は沈むこともあるという事実である。当時、ドニードニーの海賊たちは優れた造船と操船の技術でもって暴れ周っており、また運よく海賊の害を免れたとしても、今度は悪天候や座礁、未知の海獣や船員の叛乱などによって船が港に帰ってこない可能性は常にあった。船が沈めば当然儲けはふいになる。これを防ぐために、複数の航路を抱えてリスクを分散する方法があるが、それを可能にする資本を持つ組織は当時の民間には存在しなかった。
 こうした理由から、海外貿易は飛び込むに値しない事業だと思われていた。国家が、必要品目を仕入れるために損することも覚悟で行う場合としてのみ成立する事業だったのである。実際に、ラ・ムールと延が国家単位で交易を行っていた記録が双方の国に残されているが、いずれも船が沈んだ例には事欠かず、また取引も非常に複雑であったことが読み取れる。海外貿易とは危険なギャンブルだったのである。
 そんな状況を一変させたのが保険であった。



 当時の異世界でも、原始的な保険にあたる制度は存在していた。
 保険とは、リスクに備える行為である。すなわち、何か損害を被る可能性があるとき、あらかじめいくらかの金を払っておく事で、いざ損害が発生したときにそれを補填あるいは軽減するだけの保険金を受け取れるという契約である。保険に加入したものが全てすぐさま保険金を受け取るわけではないというところに、保険業が利益を出せる理由がある。保険金の支払いはごくたまにしか発生せず、ほとんど全ての加入者は無事なままであることが多いため、集まった保険料は投資に回して利益を得ることが出来るのである。
 同様の仕組みは、大航海以前からいくつかの国で成立していた。いずれも互助的な目的から生まれた基金という意味合いが強い。特に規模の大きいものは、ラ・ムールの試練基金とドニードニーの海難賭博である。
 砂漠の国ラ・ムールでは、神の意思によって全国民に試練が訪れる。試練の性質はさまざまであるが、試練の失敗には多くの場合さまざまな損害を伴う。怪我や器物損壊といった明確な損害を被り、あるいは仮に試練に成功したとしても試練に取り掛かっていた期間に仕事が行えなかったり、試練の結果として商売を失敗して社会的信用を失ったりといった例は枚挙に暇がない。こうした損害そのものに対処することも試練であるとみなされているため、ラ・ムールの民は独自の対処法を編み出した。それが試練基金である。掛け金を支払い、試練によって損害を被れば支払いを受けることができるこの基金は各地の商人ギルドで散発的に成立したものが拡大し、後に国家事業として吸収されるに至る。しかし、このラ・ムールの試練基金はあくまで国内が対象であって、海外貿易には適用されなかったうえ、資金の運用もごく小規模な範囲に留まっていた。
 もう一つの例、ドニードニーの海難賭博は、酒場において船が沈むかどうかに賭けたことがきっかけであるとされている。始めのうちはただの娯楽に過ぎなかったものが、次第にリスクを分散するための性質を帯びてきた。自分の船が沈むほうに賭ければ、損害を低減できるという理屈である。適切な掛け率を定めるために海難事故の情報を集積することも始まり、酒場の賭けは、次第に賭けの範囲に留まらない多額の資金を集めるようになっていった。しかし運営のほうは賭けの範囲を逸脱することはなく、資金を運用するという観念も薄かった。
 このように、資金を集めることはできても運用するという意識は薄かったのが前大航海時代の保険業の特徴として見て取れる。果たしてこれはなぜか。
 こうした保険業で持ち上がってくるのは、一体どれほどの金を支払い準備金として貯め込み、一体どれほどを投資に回してよいのかという問題である。万が一支払準備金が不足すれば保険会社は信用を失い、金を集めることが不可能になる。一方でせっかく集めた金を死蔵しても利益は出せない。準備金と投資の適切な割合をどう定めればいいのか。ここに、保険業を成立させるための鍵がある。どれほどの頻度と金額で支払いが発生するかを見極めることができれば、準備金の額をも見積もることが出来る。未来に起きる災厄を見通す目が必要となってくるのだ。もちろん、未来予測は異世界においてもほとんど不可能とされている。だが、個々の災害は予想不可能でも、全体で災害が起きる確率となれば話は違ってくる。
 そうした予測を可能にするのは統計学である。



 異世界の統計学はエリスタリアで生まれ、ラ・ムールで完成を見たとされている。
 エリスタリアでは、世界樹が毎年エルフの個体を生産するという形で繁殖を行っている。この時、生産される個体の中に不良品が混じることがある。この不良品が発生する確率を把握することが個体の生産を運営する上では必要不可欠であり、それがためにエリスタリアでは不良品発生時の記録がつけられていた。この長大な記録を分析する事で、統計学の端緒にこぎつけたものと思われるが、詳しい内情を記す史料は残されていない。これらの記録はハイエルフの記憶としてのみ蓄えられていたためである。またそれは同時に、統計学が長い間、誰にでも学べる理論体系としてではなく、ある種の職人技的な技術としてハイエルフたちの中でも特別な個体にのみ受け継がれていったという事実からもうかがい知ることが出来る。この事実は、オックスフォード大学と民間企業の合同チームが、ハイエルフたちの中でも特に長寿の個体に対して聞き取り調査を行った結果として判明したものである。
 このように統計という技術は秘匿され、その起源も曖昧なものであった。しかし、こうした統計学がいかにして理論化され、他国の保険業者たちに用いられるようになったかについては確固たるたる記録が残されている。統計学の体系化を行ったのはラ・ムールの歴史に残る天才数学者エラヒムであった。彼はその著書『砂粒と砂丘の振る舞いについて』において、確率や大数の法則、相関や検定といった統計における理論的基盤を整備し、その上で、統計学を用いていかなる分析が可能になるかを実例を用いて示した。彼が用いた実例は直近の五十年間ジャール地方において発生した試練の発生件数とその内容であり、彼はその傾向を分析した上で、今後一年以内にどのような試練がどの程度発生するかを予測し、果たしてその予測は正確に一致していた。彼は自ら運営する学院で多くの人に統計学を教える一方、ラ・ムール全土を精力的に渡り歩いて統計学を適用できる事例の探究に努めている。
 この事実から、エラヒムこそが異世界における統計学の創始者であるとする考えもある。エリスタリアの統計はあくまで職人技でしかなく、学問ではないという考え方である。しかし『砂粒と砂丘の振る舞いについて』は、何もないところから生み出されたにしてはあまりに完成度が高すぎるという指摘もある。試行錯誤の結果として生み出された理論ではなく、すでにあるものを翻訳したと思われる証拠が各所に見出されるのである。すなわち、エラヒムは何らかの方法でエリスタリアのハイエルフか、あるいはそれに近い人物にアクセスし、統計学の秘密を知ったのではないかという仮説が成立するのだ。この仮説の傍証として、当時エラヒムに資金援助を行っていたさる豪商の残した記録がある。イブラエンというその奴隷商は、『砂粒と砂丘の振る舞いについて』発表の一年ほど前、エラヒムが一人のエリスタリア人奴隷を雇い入れたことを記録している。エルフの奴隷としては変り種であり、傷物でもあったため安かったことなどが記録からは読み取れる。この個体が、統計を身につけた後に何らかの理由で世界樹の元を離れ、傷ついたハイエルフの個体であった可能性はないだろうか。当時からラ・ムールは異国の知的階級を、専門的な職業を果たす特殊な奴隷として非常な高待遇で迎え入れることも行っていた。奴隷取引によって職人技や専門技能といった知的財産をもやり取りしてきたラ・ムールの歴史的背景を鑑みれば、ハイエルフの奴隷が果たした役割というのも、あながち荒唐無稽なことではないのではないだろうか。事実の究明には更なる研究が待たれるだろう。



 ともあれ、ラ・ムールのエラヒムの手によって体系化された統計学は、やがて保険業に利用されるようになっていく。
 最初に統計学を利用した保険業を行ったのはドニードニーのマルフォであった。ゴブリンのマルフォはそれまでの貸金業で培った感覚と人脈を利用して資金と客とを集め、大規模な投資を行って事業を拡大、最終的には自らの船団を抱えるにまで至った。これこそは二枚重ねの盾をシンボルとし、現在でも海難保険の大手として隆盛しているシールズ船団の走りである。この後にも、各国で次々と保険業者たちが成立していった。現在に続くラ・ムールのジャーミン連合やマセ=バズークの《ミリオンズネスト》、あるいは滅び去った延の楼商会もまたその振り出しは保険業者であった。初めのうちこそもっぱら海運業のリスクを軽減するためにのみ行われていた保険であるが、次第に次第にその範囲をひろげ、巨大な資金を集めていくことになる。商取引や個人の生活を守る仕組みによって、大規模な市場が成立したのである。
 保険業の成立によって、いまや海外貿易にまつわるリスクは対処可能なものとなった。人々は次第に保険の便利さを知り、掛け金を払って安心を買うようになり、そうして集められた資金は主に航路を整備するための投資に回された。経済が活性化し、儲けは更なる儲けと更なる資金流入を呼び寄せる。こうして発生した正のフィードバックによって、交易事業は瞬く間に拡大した。異国の産物を手に入れる事で人々の暮らしは全体的に豊かになり、交易に伴って文化の交流も拡大した。大延国易州で有名な香辛料料理は羅椒とよばれる唐辛子の一種を用いるが、これはラ・ムールから運ばれるものであるし、オルニトの神官文字に影響を受けた抽象的なモザイク模様の刺青は、今ではドニー・ドニーの伝統的な模様となっている。大航海時代とは、国と国との距離が大いに縮まった時期であるのだ。同時に、交流には痛みも伴った。自らの権益を確立しようとする多くの勢力が海に繰り出し、多くの争いを引き起こした。大航海時代の中期から後期にかけてはいくつもの戦が発生したが、しかしこの荒波を保険業界はしたたかに乗り越え、存続していった。
 こうして大航海時代の扉を開いた保険業は、現在でも異世界の経済において非常に重要な役割を果たしている。経済という視点に立って異世界の歴史を考察すれば、今後も新たな見地が我々の前に開かれていくことだろう。

終わり

 但し書き
 文中における誤り等は全て筆者に責任があります。
 参考文献
 『マネーの進化史』ニーアル・ファーガソン

  • 技術史かー面白いな -- (名無しさん) 2013-01-02 20:06:14
  • 絡み合う異世界国家の特質がよく表現できてるなあ -- (名無しさん) 2013-01-02 20:28:06
  • 工業でも商業でも発展してくるとやっぱり保険とか欲しくなりますよね -- (とっしー) 2013-01-12 18:30:08
  • 大航海時代の大まかな流れは地球も異世界も似たような感じなんですね。何となくではなくしっかりと学問が根幹にある保険に驚きました。科学技術によるインフラのない異世界で保険最大のポイントは証明する手段とその調査になるのでしょうか -- (名無しさん) 2015-08-30 18:36:08
  • 異世界だから何かが遅れているとかそういうのよりも異世界だからこれがあるという魅力を前面に出すのっていいね。地球と異世界でものの考え方はそう変わるもんじゃない -- (名無しさん) 2016-07-02 09:47:46
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最終更新:2013年01月03日 00:13