とさり、と松明が落ちた。
松明に宿っていた火の精霊は、思わず火の粉を吹いた。土はあまりに冷たく、火精から熱を貪欲に奪い取る。溺れる者が無様にあえぐように、火精もまた、日ごろの慎みを忘れ果ててもがいた。
バチバチとはぜる音は悲鳴であり――同時に、仲間を呼ばう声でもあった。ほんの先ほどまで、松明を掲げていた衛兵は、今や打ち倒されていた。一人でない。その傍らには隊長の姿がある。陵山の守護を務める一小隊が、まるで人形のように横たわっていた。抜かれずじまいのつるぎ、バラバラな向きを指す矛槍が、人の隙間を埋めるように渦を巻く。
そんな渦の中心には、一つの影がある。
たたずむ姿は枯れ木のように、動くことを拒んでいる。頭までをすっかり覆う外套の輪郭は黒く闇に沈んで曖昧である。
まるで喪服のようだと火精は思い、それならばいかにもここに似つかわしかった。
陵山。代々の大延国皇帝が眠る墓所である。この地にもたらされてから幾星霜、火精は多くの弔いを見てきた。送り火としてたかれる篝火として、あるいは参列者が戴く燈明の元火として。火精は火精なりに、出会う人々を照らし、温めることを願ってきた。
いま、火精の目の前にいるこの影もまた、そうした悲しみを抱えているように思われてならなかった。たとえその影が、守護兵たちを瞬く間に打ち倒したのだとしても。
ぼう、と篝火が二つながらに吠えて、深い沈黙が破られた。
陵山の地下墓所へ至る入り口を守るのは、衛兵だけではない。左右にそびえたつ大篝火は灯りとしてのみならず、精霊を宿して防護の役割も担っている。火矢を投じ、あるいは不届きものをからめとるために炎の舌が伸ばされる。いま、舌の一本がひゅっと伸びて火精を引っ張り込んだ。消えかけていた命を文字通り拾われて、火精は安どのため息をついた。
そうして今や篝火と同化した火精は、篝火たちの困惑とためらいも共有していた。
あれは何者か。
篝火はますます強く燃え盛り、だが影は一向に頓着する様子もない。ふと思い出したように一歩一歩歩みを進める。火精たちが手を出しあぐねているうちに、影はふと、扉の前に立った。
陵山それ自体の大きさに見合って重厚な扉には、一面に透かし彫りが施されている。火、土、風、水、光、闇のいわゆる六大を模した意匠はいかにも力強く、対称をなして扉を開かんとするものに相対する。そんな六角形がみしりと音を立て――ゆっくりと動き始めた。
篝火が火精を宿すように、扉もまた生きていた。南都水鳥県は鮮山に産する玉銅――俗にいう鮮山のはらわた――を鋳て作られた扉は生まれながらに誇り高く、彫刻師に触れられることすら拒んで自ら紋様を成したという。陵山に据えられてからも、この扉は開くべき相手を自ら選んできたのである。
ならばこの影はどうか。火精は揺らぐこともやめ、じっと見入った。
影の纏う外套から、つと腕が差し出された。
そのまま恐れる様子もなく、ぎちぎちときしむ扉に触れる。白く、細く、毛並みの薄い女の指が、何かを探るように滑る。
扉がふと、唸ることを止めた。
開く音は、ため息に似ていた。
墓所の内奥から流れ出す湿った空気に撫でられて、火精は身震いした。影の女もまた、わずかにたじろいだようだった。しばらくたたずみ、じっと暗がりを見つめ――だが、一歩を踏み出せばあとはもう迷わなかった。流れるような足取りで、影の女は闇の中へと消えた。
――灯りはいらぬか、照らしてやろうか。
そんな思いを火精は打ち消した。追い払うべき侵入者であり――なにより、答えがおのずと知れたためであった。先を照らす灯りも、身を温める火も、ともに歩む道行きさえも、女にはすべて必要ないのだった。扉の閉まる重々しい音を聞きながら、火精はそう結論付けた。
なぜならば、女は墓へとやってきたのだから。
あの女はこの世のものでなかった。収まるべきところに収まっただけのことで、だから寿ぐべきことでさえあるのだ。そこまで考えて、火精は思うことを止めた。火精は所詮、ただの火に過ぎなかった。
それから、どれほどの時が過ぎたろう?
どさ、と何かが転ぶ音に、火精は再び目を覚ました。気を発し、自らをかきたてた火が照らし出したのは、よろよろと起き上る少女の姿だった。
「いたた……」
これまたこの世のものでない。人とは異なるつくりの心を宿す火精にも、人並みでないことはそうと知れる。少女は大延国の民とは異なる姿をしていた。獣面でなく、つるりとした無毛の顔立ちは、遠く
エリスタリアに住む
エルフにも似て、だがどこか決定的に異なっている。
少女は腰をさすり、埃を叩き落とすと、足元に転がる衛兵たちを見下ろした。
「ずいぶん派手にやったねえ。そんなにせっぱつまってるのかな」などとつぶやきながら肩をすくめる。「間に合わなかったらやだねえ」
殊更大げさに足を持ち上げるのは、転ばぬようにするためらしい。兵士とその得物とがこんがらがった中からどうにか脱出しようとするも、なかなかうまくいかない。矛槍の柄につまづき、鎧の裾に足をひっかけ、ようやく下ろした足元には兵士の手やら頭やらがあって、踏まれた側が「ぐえ」と身をよじったりもする。死んだわけではなく、それほど時がたったわけでもないことが知れた。
少女は時間をかけて抜け出し「よっしゃ」と拳を突き上げた。
「さて、こうしちゃいられない。さっさと追いつかないと」とつぶやきながら、なぜかおっかなびっくり大回りするのは、足元が不確かなためであるらしい。火精はさらに強く熾り、すると少女は篝火に目を止めて「ああ、ありがと」とこともなげに言った。
「あのさ、ここを女が通ったよね。アレをやらかした奴」と兵士たちを指して言う。
人語を解する精霊は多く、人語を発する精霊もまた、この大延国には少なくない。だがこの火精は、言葉を忘れて久しかった。弔いの火におしゃべりは不要と知ったためであった。
だから火精はごう、と高く燃えてこれに答え、すると少女は屈託もなく「いつ?」と続けた。どうやって答えたものか火精が思案しているうちに、少女の注意は篝火から扉へと移っていた。すたすたと歩み寄り「いつ入った?」と今度は扉に問いかける。思えば篝火と扉とは日ごろからそばにあり、長い付き合いと言えばその通りなのだが、かたや炎、かたや石であって交流は薄い。まして会話など絶無である。扉が少女にどう対応するものか火精が興味津々で見守る中、扉は押し黙り、身じろぎひとつなく、「まあ扉はしゃべんないか」と少女が肩を竦めるに任せてどこ吹く風である。毅然とした対応に、火精は学ぶべきものを感じ取った。火もまた火らしく、泰然と構えてあるべきではないか。
だがそんな火精も、少女の次の行動には度肝を抜かれた。少女は扉に歩み寄り、いともあっさりとこれを押し開けたのである。
いかにも押し、開けていた。何しろ扉は大いに抗い、今もなおじたばたとあがいている。まるでつっかい棒をされた巨獣のあぎとのように、扉は満身の力を込めて閉じようとし、空しく引き下がることを余儀なくされている。要塞のそれにも匹敵する大きさの扉が、年端もいかぬ少女に押し負けたのだ。
少女はあがく扉を意に介するでもなく、不敵に笑って手さえはなしてしまう。宙にぬいとめられた扉にはすでに興味を失い、少女は腰に手を当てると大きく息を吸い込み、
「おーーーーーーーーーーーーーーーい!」と叫んだ。
言葉は墓所の暗がりに消えてこだまもなく、すると少女は再び息を吸い込み、ふと考え直して止めにした。そのまま何事もなく歩み入ろうとする少女が、ふと篝火に目を向けた。
「ねえ、先に入っていった女はさ、明かり持ってた?」
否であった。だがただごうと答えては伝わらぬのではないかといった火精の心配は取り越し苦労であったらしく、「そっか、明かりなしか。だったらまだ追いつけるかな」などとうなずいて訳知り顔である。
にしても重症だね、と少女がつぶやき、いかにも、と火精が応じた。
彼の女は五体こそ満足であり、だが一方で確かに重症と言うほかなかった。その様相を語る言葉を、火精は持たなかった。
火精は小さく揺らめいた。明かりはいらぬかと少女に問うたのであり、もはや人語は不要と了解していた。この不思議な少女の行く末を照らしたいという思いが、火精の心に熱を持った。あるいは、彼の女の行く末を。二つの思いは、同じ火となって燃えていた。
だが、少女は首を振った。
「ボクは暗くても見えるから」
火精は引き下がらなかった。炎の舌を伸ばし、先ほどまで宿っていた松明を取り上げる。さっき転んでいたではないか。あれは足元が見えぬせいではないか。すると少女は心外とばかりに目を見開いた。
「違うよ。あれは出たところが悪かっただけで」
出たところとは何かと問い返せば少女は「
ゲートだよ」と答え、これは火精には意味をなさない。陵山に留まって久しい火精は、異世界へと開き、あるいは神を運ぶ手段としてのゲートを知ることはない。
なおも断固として松明を差し出せば、少女は仕方がないとばかりに受取り――
「まあ、ダンジョン攻略には松明がつきものだよね」と機嫌を直した様子である。己の大半を篝火に残したまま、火精は少女の掲げる松明にひょいと飛び移った。
「それじゃ、行きますか」
今や松明となった火精は、少女の横顔を照らし出した。いかにも美しく、いかにも明るい。
――この明るさが届けばよい。
左右に残る篝火と、すっかりあきらめた様子の扉とに挨拶を送り、少女と松明とは墓所へと入っていった。
陵山の奥津城は迷宮を成している――道々、少女は火精に語り掛けた。
「そも陵山の始まりはと言えば、第39代皇帝ガンカイだ。玄王、つまり土の霊王であったガンカイは不老不死を望んだ。そこらの石くれですら永年を生きるんだから自分だってってわけだね。だが主神の金羅に止められて、じゃあってことで建築に凝りだした。今の宮殿もそうだし、ほかには……まあ、いろいろ建てたってわけさ。んで晩年の作品がこれ。でっかい墓場だ」
大人が五人は並んで歩けようかという通路に、少女の声は響かない。立ち込める闇は火精の放つ光に抗い、音までも吸い取る。まるで底知れぬ穴であった。
「ガンカイは材料に山ひとつ引っ張ってきた。大都を見守る四岳はもともと五岳で、この時引っ張られた山は皇帝の威光に恐れをなして名前を捨て陵山に――なんて話もあるらしいけど、まあまゆつばだよね。実際には、その辺のヒマしてる丘を引っ張ってくるのがせいぜいだったらしいよ。本人が言ってたから間違いない
とにかく、その辺の丘は命を与えられて、第地下墓地になった。無数の玄室と、それをつなぐ通路のネットワークに」
十字路に出くわした。少女は壁に松明をこすりつけ、焦げ目をつけてしるしとする。右に曲がり、ゆっくりと湾曲する道を歩みながら、少女は楽しげに話し続ける。
「なんで玄室がいっぱいあるかというと、子孫用だよね。それと、ほかの霊王のぶん。もともと、霊王の間で一時的に位をやり取りするなんてのは昔から当たり前だ。霊王の一人が死にそうだから名誉職としての皇帝にしてやって、用が済んだらまた戻す。そんなことやってるから皇帝があほみたいに増えるんだよね。代と統治期間がバラバラ。歴史の勉強する人ホントかわいそう。
後には皇族も押し込んでいいってことになって、するとますます部屋が増える。足りなくなったらどうするか――ガンカイはそこも考えてた。墓が、自分で自分を作り替えられるようにしたんだ。
この墓は生きてるんだよ。変な言い方だけど」
ぐいぐいと曲がる通路の終わりには、また十字架が控えている。少女は迷うことなく左へ曲がった。今度は印をつけることはない。
「陵山の玄室は好き勝手に移動してる。それに合わせて通路も出来る。まるで山の中をひも付きの魚が自由に泳ぎ回ってるようなもんだ。そんなんじゃ埋葬だの参拝の時に困りそうなもんだけど、逆なんだよね。訪ねたい玄室を呼べば、向こうから来てくれるんだ。いちいち探して回る必要なんてないわけさ」
まさにいちいち探して回っている少女は、再び十字路に出くわして足を止めた。壁にはしるしが付いている。ほんの今しがた、付けたばかりの印である。少女が「ね?」と火星に頷きかけた。
「一方で、招かれざる客については、こんな風に通路が邪魔をしてくれるわけさ。歩いてるうちに構造の変わるダンジョンってわけね。こんなの詐欺だよね。抜けられるわけがない
いやーこまった、ほんと、困ったね」
少女は座り込み、かと思うと寝そべった。松明は投げ出しもせず、その点いかにも器用である。
「どーしろってんだ、こんちくしょー」
こんちくしょー、こんち……といったあたりで反響はおさまり、沈黙のみが残された。ここは迷宮であり、少女は迷っている。枯草に火が燃え移るように、当然の帰結である。
先行した女もまた迷っているのかと火星は思い、すぐに打ち消した。影に沈んだあの姿は、迷子とはいかにも縁遠い。その点、少女に迷子は似合っていた。
「こーしちゃいられないんだけどなー。ここにはさ、モンスターだっているんだよ。兵士の人形だの闇精霊だの。あー、ずるしちゃおうかなー。チートはいっちゃおうかな――お?」
仰向けに体を伸ばしていた少女が、ふと何かに目を止めた。
わう、とそれが吠えた。
大人ほどもある黒犬が、音もなく姿を現していた。闇そのものが犬の形を取ったようであった。いったいどこから墓所に入ったものか、あるいはここに住み着いているのではないかーーそう火精に思わせるほどに、黒犬はこの場に馴染んでいた。これこそ墓所を守る「もんすたあ」とやらか。そう危ぶんだ火精をよそに、少女はよっすと手をあげて、黒犬もまた少女に鼻先を押し付けた。
「きてたんだ。てことは何かな、向こうはもう済ませちゃったかな」
黒犬はなおも少女をつつき、少女がどっこらせと立ち上がるのを見届けると、すたすた歩きだして振り返った。
「お、連れてってくれるんだ?」
黒犬は答えるでもなく、ただ闇の向こうを見やるばかりである。と――
地が、響いた。
ずり、ごりと始まったうなりは、やがて耳を聾するばかりになった。黒犬と少女の前で、墓が自らを組み換え、道を開き始めていた。まっすぐに伸びる道は順繰りに沈み込んで階段をなし、潮が引くように闇が後退する。壁のそこかしこに開いた穴から、光精たちがおずおずと這い出してきて壁を埋めた。
「なんだ」と少女が言った。「もっと早く来てくれればよかったのに」
黒犬はちらり、と少女を見やり、意気揚々と歩みだすさまを見送った。明かりに導かれて角を曲がる瞬間、薄くやわらかな光の中で、黒犬がじわじわと宙に溶けていくさまを、火精は確かに見たと思った。
玄室へはわずかに下るばかりだった。少女が入り口に差し掛かると、闇が退き、部屋の隅にわだかまった。
「わかればすぐじゃん」と軽口をたたいていた少女も、玄室の中の光景を目にして口をつぐんだ。
女は石棺に縋り付き、息絶えていた。
全体が青白く光る石室の中で、脱ぎ捨てられた外套がしみのようだった。白く輝く装束をまとう狐人の面立ちは、息を呑むほどに美しい。まるで凍り付いたかのようなその横顔には剣が寄り添っている。奇妙な剣だと火精は思った。鞘と柄とがひもで結ばれ、抜くことを戒めている。少なくとも剣で自害したわけではない――火精は小さく唸った。
そして――
「だはははははははははははははは!」
あろうことか、少女は爆笑していた。
「あははははは何それ、何それ、ひょっとして花嫁衣裳かな? すごいね、思ったより重症だこりゃ。なるほどそう来ましたか。さすが、何百年もこの世をうろうろしてると思いつめちゃうもんなんだねえ!」
厳粛な空気をたたき割り、あまりにもずかずかと玄室に押し入る。隅にわだかまっていた闇精霊が鎌首をもたげ、と、氷河にひびが入るように、横たわる女が目を開いた。
女の目は曇り、濁り、淀んでいた。生きていてよかったという火精の安堵は、あっさり吹き消された。
「はいどうも。お忙しいところ恐縮です、なんてね。ほら起きて、へんな気分出してないでさ」
「……邪魔を、するな」
乾き、かすれ、きしんでいてなお、女の声は小川の水音を思わせた。立ち上がる動きも滑らかに、女は少女に向きなおった。
「何者だ」
「君の望みさ、永代剣聖・スイメイ。君を迎えに来たよ」
少女の声から弄えが消えた。スイメイと呼ばれた女は、いぶかしむように目をしばたたいた。
「では、早く済ませてくれ。私はもう、疲れた」
「断る」
「何?」
「断るといったのさ。迎えに来たってのはそういう意味じゃない。思い上がんないでほしいね。大体、死ぬ気ないでしょ、キミ」
その剣みりゃわかるよ――少女は松明で剣を示した。立ちすくむスイメイは身をこわばらせ、剣を己の体で隠した。だが、少女は容赦なかった。
「何さ、その剣。さっさと紐なんか切っちゃえばいいんだよ。さっと抜いてスパッと切ってばたっと死ぬ。簡単なことじゃないか。なのに実際はぐずぐずしてる。衣装を引っ張り出してくる手間はかけたくせにさ。何が『早く済ませてくれ』だか」
「――るなと言われたのだ」
「何?」
「ついてくるなと言われたのだ! 自死は許さんと! だから――」
堰が切れたようであった。枯れ川のようであったスイメイのどこにこんな思いが潜んでいたものか。思いはそれ以上言葉を結ばず、ただ流れ出していた。
「知ってるよ」
そして少女は、奔流を正面から受け止めていた。
「キミはすぐにでも死にたかった。夫と一緒に墓に入ることが望みだった。だがシキョウは拒んだ。俺なんかのために死ぬなと。殉死を禁じられてどうしようもなくなった君は姿をけし、それから長い間彷徨い続けた。自分をシキョウのもとに送ってくれる何かを探して」
「シキョウ――」
その名を口にして、スイメイは再びくずおれた。少女は松明を掲げ、石棺を照らし出した。バカな男だ――少女はそうつぶやいた。こうなることぐらい、予想付いただろうに。剣で体を支えるスイメイを見やり、少女はやおら、にいと笑った。いかにも不敵な笑みだった。
「いいやり方がある、と言ったらどう思う?」
スイメイが顔を上げた。少女は松明を打ち振り、体をいっぱいに伸ばして円を切り取り――すると、そこに穴が開いた。流れ込む空気は、はるか遠くの地が香っていた。異なる場所に通ずる門――火精の心に、小さく理解がともった。
「君を
スラヴィアへ連れていく。それも、未来のスラヴィアへ。君があと十年かそこら粘ってくれたら時を超える必要なんかなかったし、なんなら君がそこでくたばってからあとでピックアップするって手ももちろんあったんだけど、それじゃ詰まんないんだよね。こちらとしては、がつがつしてて欲しいわけさ。願いをかなえてあげましょう、その代わり――という取引だから。
スラヴィアへ来てくれるなら、シキョウにも会わせてやるよ。こっちはいわば手付金、サービスだ」
スイメイは動かず、答えず、だが確かに反応していた。炎を移す瞳に、別の輝きが宿りつつあった。少女が笑みを深めた。
「決まりかな?」
「決まりだ」
「よしよし。じゃあ、さっそく移動してもらおうか。あ、旦那さんもつれていくよ。そこの死体のことね。ボロボロになってても、あるとないとじゃ全然手間が違う――お?」
上機嫌の少女が、ふと眉根を寄せた。
少女が穿った門から、炎が吹き上がった。火精のそれとは一線を画する炎は門を瞬く間に覆い尽くし、金色の縁取りを描く鏡となった。門から矢のように飛び出した炎は、地に降り立つと燃え上がって狐人の形を取った。
「そこまでよ!」
九尾を扇のように広げ、肩を怒らせた妙齢の狐人は、少女をねめつけると牙をむき出して唸り声をあげた。金色の毛に炎を纏うその姿は、まぎれもない神の偉容――大延国主神・金羅である。
「思ったより早かったね、金羅おばちゃん」
「ご挨拶ね、わざわざ何しに来たのかしら?」
「死神が墓場にいちゃまずいかな」
「まずいわ。死体をおもちゃ代わりにするような輩はね」
「ひっどいな。ちゃんと大事に扱ってるよ」
「盗みだって言ってるの」
「別に盗んでないけどね。進んできてもらうだけ」
「あら、そう?」
少女の開いた門は、すでに金炎によって燃やし尽くされている。ちらと見やった金羅は満足げに鼻を差し上げると、両の掌に更なる金炎を握りこんだ。煌々たる灯りが、火精の放つそれを圧した。
「まあ、へ理屈なら後でゆっくり聞かせてもらうわ」
「こっちこそ聞かせてほしいなあ。何をそんなに目くじら立ててるのやら」
「人の悲しみに付け込んでたぶらかすような真似、見過ごせないわ」
少女から移された視線が、スイメイの上に止まった。金らの纏う灼熱の怒りは勢いを弱め、いたわりの温かみへと変じた。
「ねえ、こんなやつの言うこと聞いちゃだめよ、スイメイちゃん」
「――覚えていてくださったのですね、聖母」
スイメイの声は、まるで氷のようだった。何の感慨も溶かされず澄みきり、それゆえに温度を持たぬ水だ。金羅はたじろぎ――だが引かなかった。
「忘れたことはなかったわ。あなたが出て行ってから、ずっと」
「慈悲深い、ことですね」
スイメイの表情には霜が降りていた。触れるものの指を貼り付け、肉をはぎ取る衣だ。いかなる火も、それがたとえ神の金炎であっても、融かすことの叶わない氷だ。
火精は初めて、スイメイのことを恐れた。
「とにかく、連れて行かせるわけにはいかないわ。スイメイちゃんも、それにシキョウも」
「そういわれてあっさり言うこと聞くとでも?」
「ゲートは閉じたわ」
「新しいのを開けるさ。何なら今すぐにでも」
「それで時間を超えられるの?」
「そっちは少し手間なんだよねえ」
「覚悟なさい」
「お断りだね。それに、ボクが良くても、彼女を納得させられるのかな、おばちゃんは」
少女がつと、スイメイを見やった。
「仮にボクがゲートを開けられないとして――ほかにも逃げ道はあるんだよ。たとえば、大ゲートとか」
金羅がはっと顔を上げ――ごうと音を立てて、火精の世界は回転した。
少女が松明をなげうち、金羅がつかみ取って旋回する。入れ替わるように突き出された左手から金炎が吹き上がり、飛来した岩の塊を飲み込む――スイメイが弾き飛ばした石棺のふただ。巨大な岩が跡形もなく燃え尽きる、そのほんの一瞬をついて、金羅の上をスイメイが飛び越している。屍衣にくるまれたシキョウを抱えるスイメイの姿を、瞬く間に闇がくるんでいく。通路がぐにゃりと曲がり、開いた穴がスイメイを吸い込んでふさがる。追いすがろうとした金羅が大きくつんのめった。少女が金羅の尾を握りしめ、にんまりと笑いかけていた。その下半身は、闇の中へ消えている。どこからともなく現れた黒犬が、少女を苦労して飲み込もうともがいていた。
身体よりはるかに小さいはずのあぎとの中に吸い込まれながら、少女はなおも金羅のしっぽを離さない。
「さて、スイメイ逃がしちゃったね、おばちゃん」
「ちょっと、どこ掴んでるの、はなしなさい」
「どっちを追う? どっちを選ぶ? ボクを選ぶとスイメイは大ゲートをくぐって逃げる。ここから門までなんて彼女の足ならあっという間だ。かといってスイメイを追っても、フリーになったボクがスイメイを拾って逃走プランBなんてこともありうるよね。さー、どっちにする? ボク? スイメイ? それともご飯にする?」
「本当に大ゲートから逃げられるとでも思ってるの? 門神に命じて止めさせるだけよ」
「ゲートにはボクの力も流れ込んでるってこと、忘れてないかな? 特に、例のお祭り用の機構が組み込んであることとか、さ。大ゲート同士が相互に行き来できるようになってるってのは、つまりボクだってここのゲートで好き勝手出来るってことだよ。ま、短時間ならね」
「まさか」
「もちろん、ここに来る前に仕込んでおいたさ。準備は万端、何より――この場でボクが勝つのは必然だね。歴史の」
少女は今や、首まで黒犬のあぎとに飲み込まれていた。もはや尾を握る腕すらない。力なくため息をついた金羅に、少女は微笑みかけた。奇妙に優しげな笑みであった。
「大丈夫、誰にも悪いことにはならないよ。何が正しいことなのか、みんなわかってるさ――おばちゃんだって、本当はそうなんでしょ?」
ぽん、と音を立てて、少女が黒犬の中に消え失せた。黒犬は首をひねり、伏せて小さくげっぷをした。金羅は松明をだらりとたらし、火精が抗議すると戻した。
「誰がおばちゃんか」
すっかり心ここにあらずといった体である。空しくなった棺に歩み寄り、たまったほこりに指を這わせ、小さく咳き込む。
と、その傍らに、影が立った。
影は貴婦人の姿を取っていた。古の装束をまとった影の貴婦人は、衣に空気をはらんでひざを折り、こうべを垂れた。
「あなた――」
もの言いたげな貴婦人に、金羅は「駄目よ」と告げた。
「そういうわけにはいかないの。絶対に」
自分に言い聞かせているようであると、火精は了解した。
墓所を出る道すがら、金羅は案内を務める闇の貴婦人と言葉を交わしていた。話の断片から、夫人がこの地にあって長いこと、墓所の中でスイメイを導き、逃がしもしたこと、夫人もまた、誰かと死に別れていたことが知れた。
そして――
「ハイ、ご苦労様」
松明から篝火へともどされ、火精は大きく息をついた。背後では、金羅を見送る夫人の姿が、重々しく閉じる扉の向こうへ消えていく。縛めから解き放たれた扉は、いかにも満足げに空気を吐き出した。
「どうしたもんかしらねえ」
金羅が独りごちた。火精は答える言葉を持たず、ただこっと小さく揺れた。
ふと、金羅は地に転がる衛兵たちに目を止めた。指先ではじいた金炎が兵士たちに降り注ぐと、うめき声は安らかな寝息に転じた。満足げに見やりながら、金羅は小さく頷いた。
「何させるつもりか知らないし、同でもいいけど、問題はスイメイちゃんの方よね」
金羅は篝火に微笑みかけた。自ら発する金炎に照らされて、女神の九尾がばさりと開いた。
「別にね、ほっといたわけじゃないのよ。ただ――こうするしかなかったの」
言葉は火精へのものか、はたまた自分へのものか。
金羅は金炎の中に姿を消し、火精は答えを失った。
一人取り残された火精は、留守を務めていたもう一方の篝火に飛び移り、心を共有した。墓への侵入者、神々の争い、そして何より、スイメイの深い悲しみ。
すべてを飲み下すには、火精の心は素朴に過ぎた。
だんだんと意識を取り戻し、立ち上がり始めた衛兵たちを眺めながら、火精は揺らめいた。
揺らめきながら、炎を願った。あのスイメイの行く先を照らし、温める炎を。
それはただの炎であるかもしれないし、神の金炎であるかもしれず――あるいは、炎とはかけ離れた何者かであるかもしれなかった。
答えを見つけることは、火精の手に余る。己には務まらぬとだけ思い定めて、火精はただ、ぽっと小さく唸るのみである。
かつて、延国全土から集めた武芸者を師としてありとあらゆる武術を身につけた男がいた。名はシキョウ、後の大延国七十五代皇帝である。
その天稟をもって武芸百般を窮めたシキョウであったが、ただ一人、どうしても打ち破れぬ相手がいた。名はスイメイ、後に永代剣聖の一人としてたたえられる美貌の剣士である。
国中を股にかけた追跡行の果てに、二人が結ばれたことは、大延国なら知らぬものとてないおとぎ話であると同時に、確かな史実でもある。
皇帝シキョウは齢八十に至るまで生きた。では、皇妃スイメイはどうなったか? その足跡は歴史の闇に消えている。ひそかに自死を選んだともいう。生き続けて神に戦いを挑んだとも、すべてを忘れて生きる屍と化したとも、神々が開いたゲートをくぐってこの世界から失せたともいう。
天然道士であったスイメイは老いを知らず、超人的な剣技と美貌を具えて人の世の理を外れ、そのことが、荒唐無稽な説の存在を許してきた。
あるいは、それらはすべて真実であったのかもしれない。
201x年、大ゲート祭。すべてのゲートが結ばれ、人と運命とが交錯する、歴史の結節点。
その一環としてスラヴィアにて催された武闘大会に姿を現したのは、まぎれもないスイメイその人であったからである。
但し書き
文中における誤りは全て筆者に責任があります。
独自設定については
こちらからご覧ください。
また、以下のSSの記述を参考としました。
【続・その風斯く語りけり】
四周年企画・スラヴィア大バトル大会における対戦カード シキョウ&スイメイ ○ ― ● セイラン&テンコウ にいたる、スイメイ側の前日譚として書きました。
- おおおおおおお!前日譚来た!そして想像してたけどスイメイ相当病んでる! -- (名無しさん) 2015-05-17 13:37:49
- エレメントのギミックがイレヴンズゲートらしくてすっと目に浮かぶ面白い。 それぞれが個を持ってるような描写もいい -- (名無しさん) 2015-05-17 17:16:09
- 今までにないフランクな書き味でおどろいた反面で時の流れといなくなってしまった伴侶の重さが痛切だった -- (名無しさん) 2015-05-18 21:21:16
- 大延国関係以外のキャラはまず登場しないと思っていただけにがっつり企画に沿ってNPCまで出してきた以上に不自然さが全くないのでするする読めた。金羅様優しいなぁというのと毒気よりも神らしさが見えたモルテがよかった。大会では一体どんな感じでシキョウとスイメイが登場するのか… -- (名無しさん) 2015-05-19 23:48:33
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最終更新:2015年06月02日 08:53