自衛隊がファンタジー世界に召喚されますた@創作発表板・分家

第三章『御盾』

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第三章 「御盾」


交易都市『ブンガ・マス・リマ』沖
2012年 12月28日 13時20分

「……暑ぃ」

 海上自衛隊所属、輸送艦「ゆら(LSU4172)」の艦首部で、運用員の安芸英太三等海曹は、本日34回目のダレたぼやきを漏らした。
 安芸三曹は、入隊五年目の24歳。背丈は平均よりやや小柄ながら、防暑作業服に包まれた胸板の厚みや、肘まで捲った下から見えるよく鍛えられた腕からは、狩猟犬の様な俊敏さを持つ体躯が窺える。
 汗で色の変わった作業帽の下には、良く日に焼けた精悍な容貌があった。しっかりとした眉の下に、大きく黒目がちの瞳。鼻筋は通り、大ぶりの口元からは、並びの良い真っ白な歯が見える。
 彫りが深く細面のその顔は、なかなか整っている。ただ、その表情からはやる気の欠片も見えず、放っておけば口から舌を出しそうな勢いだ。
 今の彼からは、真夏に庭先で寝そべるウェルシュ・コーギーの様な空気が全力で発散されていた。

 安芸三曹は輸送艦「ゆら」の第一分隊所属の運用員である。出入港や投錨作業に始まり、搭載艇の運用や艦の整備作業まで、甲板上で艦の運用の一切を回す『運用員』は、正に船乗りその物であると言えるだろう。
 乗員が運用員長を呼ぶ時の旧い名前──『掌帆長』という呼び名が、彼等の有り様を如実に表していた。彼等は、未だ風を頼りに船を操った時代から連綿と受け継がれた役目を担う男達であった。
 その伝統ある職場の末席に連なる安芸三曹は、「ゆら」の艦首で運用員の伝統ある任務──見張りについていた。だが、お世辞にもその態度は職務に精励しているとは言い難い。

「あー、左右視界内いじょーなーし」

 安芸は艦首左右方向を確認した。空は馬鹿みたいな鮮やかさで晴れ渡り、名前も知らない海鳥が気持ち良さそうに飛んでいた。空の青さに一点のくすみも無い。
 照りつける陽光は、物理的な力さえ感じる程直接的だ。「ゆら」の甲板上に彼の額から落ちた汗が、短く音を立てて蒸発した。照り返しが全身を包み、身体中の汗腺がねっとりとした熱気で埋められていた。
 暑い。ひたすら暑い。

「……海面に変色なーし」

 辟易しながら視線を艦の前方の海面に向ける。異状は無い。この辺りの海域は、すでにリユセ樹冠国の妖精族達の案内の元、EODが確認済みであった。
 ブンガ・マス・リマ市域から東へ4キロメートル。浜辺際まで森が迫った、差し渡し2キロの砂浜は、適度に緩やかな海底傾斜と、肌理の細かい砂で作られた地形を持っていた。
 報告に戻った水中処分隊長の顔を思い出す。彼は真っ黒に日焼けした顔で「輸送艦が乗り上げるのに最高の場所です」と言い放った。余程楽しんだのだろう。顔中を皺だらけにした、とても良い笑顔だった。
 そりゃあ、楽しかっただろうなぁ。
 安芸は思った。視界の先にはタヒチやバリ島も顔色を失いそうな程、美しい砂浜が見える。人手が加わっていない天然の渚の白さが、背景に広がる木々の緑と絶妙のコントラストを描いていた。
 そして「ゆら」がディーゼルの音も喧しく、波をかき分けて進む海を覗き込めば、海中を海底まで綺麗に見通せた。翡翠色の海水の向こうに、白く輝く砂とカラフルな姿で泳ぐ魚の群れを見ることが出来る。
 豊かな森と島々を巡る海流が、この辺りの海に有らん限りの祝福を与えている。
 安芸は微妙な罪悪感さえ覚えた。「ゆら」が何かを垂れ流しているわけでは無いのだが、こんな楽園の様な海を、武骨な箱型の輸送艦が行き交う事に居心地の悪さを感じていた。
 ああ、こんな海には──。

 視界の片隅に、水面を進む影が映った。視線を向ける。そこには、一艘のカヌーがいた。片舷に浮子を備えたアウトリガーカヌーだ。地球では、南太平洋で良く見られる白く細長い船体は、真っ白な帆一杯に風を受け、「ゆら」と併走している。
 巧みに帆を操るカヌー乗りは、皆リユセの森の妖精族だ。自衛官達は彼等を、その風貌から『エルフ』と呼んでいた。
 また来てる。物好きな連中だよ。
 エルフ達は、その細くしなやかな身体を、僅かな布地で覆っただけである。一族の男達は、樹冠長の命を受け皆各地に散っているらしい。その結果、周囲でカヌーを操るのは妙齢(に見える)の女性ばかり。
 正直な所、目の毒であった。彼女達の見た目はほぼビキニ姿であり、揃いも揃って美形なのである。
 エルフといえば、森の民だろう? 何で海なんだよ? そうした日本人の先入観に、彼女達は「森の恵みは海の恵み。我等森の守護者が海をゆくのに、何の障りがあろうか」と、平然と答えたのだった。

 リユセの森の妖精族は、二つの族に分かれている。〈鎮守〉を司る東の一統は、調和と伝統を尊ぶ。世間一般のイメージするエルフはこちらであろう。彼等は洋上の〈門〉に関する秘儀を握っている。
 一方〈叡智〉を司る西の一統は、進取の気風に溢れた一族であり、航海技術に長けていた。彼等は、既知世界の各地に人間と共に旅立ち、知識と人脈を広げていった。今では、南瞑同盟会議の外交・諜報活動は彼等無しには成り立たない。
 この東西二族を両輪に、リユセ樹冠国は南瞑同盟会議の精神的・魔導的な中心として確固たる地位を築いていた。

 こんな海に似合うのは、あの娘達だよなぁ。ここは仕事で来る場所じゃないよ。

 伴走するエルフと目が合った。彼女はスレンダーな身体を躍動させ、カヌーを操りながら安芸ににっこりと笑いかけた。彼女達は「ゆら」に興味津々らしい。
 四角い艦首で波を掻き分けながら、海岸線を目指す「ゆら」の周囲では、エルフ達のアウトリガーカヌーが、頼まれもしないのに露払いを買って出ている。余程昨日のビーチングがお気に召した様だった。
 勢い良く砂浜に乗り上げた「ゆら」の姿に目を丸くし、バウランプが倒れる様子に船縁を握り締め、吐き出される車両や人員に黄色い歓声を上げる彼女達の姿を思い出し、安芸は自然ににやけ顔になった。
 手摺りにもたれ、だらしなく手を振る。
 可愛いなぁ。腕もふとももも真っ白だ。何で日焼けしないんだろう?

 ちなみに、エルフは日焼けしない。それは、世界の理である。

 突然、安芸三曹の顔色が曇った。
「……ちっ」
 彼は忌々しげに舌打ちすると、目を逸らした。猛スピードで走る灰色のボートの姿があった。ミサイル艇搭載の複合艇──RHIBだ。水飛沫をエルフ達のカヌーに浴びせつつ、跳ぶように「ゆら」の周囲を走っている。
 通常、臨検任務等に用いられるRHIBの上にはEOD隊員が乗艇し周囲の警戒に当たっている。ブーニーハットに迷彩服の軽装で、機関けん銃を構えていた。
 安芸は、そんな彼等の姿をどうしても見る事が出来なかった。彼等に含むところは無い。しかし、どうしても駄目だった。
「……畜生。辞めてえな」
 彼は、そう吐き捨てた。



 3ヶ月前、安芸三曹は広島県江田島市にある海上自衛隊第1術科学校の敷地内で、海自で最も過酷な教育を受けていた。
 その名を特別警備隊基礎課程と言う。
 海上自衛隊唯一の特殊部隊、特別警備隊の隊員育成がそこで行われていた。志願者はそこで徹底的に体力と精神力を鍛え上げられる。そこで行われる訓練は『育てる』より『篩(ふるい)にかける』という言葉が相応しい。
 彼等は、経験豊富な教官達により、将来自分の背中を預ける事が出来る人間であるかどうかを、厳密に試されるのだ。
 彼は、その試験を突破しようとしていた。基礎体力の錬成に始まり、武器・爆薬の取り扱い、徒手格闘、戦闘訓練。そして学生達をして、それらの訓練を「息が吸える分、楽だ」といわしめる程に過酷な潜水訓練。
 安芸はそれらを高い成績でクリアしていった。学生時代に水泳部だった事が幸いしたかも知れない。だが何より、彼はあらゆる困難を燃料に変え前に進むことが出来た。ガッツが有ったのだ。
 さらに、同期への態度も教官の期待以上の物を示した。彼は仲間を見捨てなかった。常に気遣い、鼓舞し、前進した。自分の限界を無視してでも、チームが目的を達成するために必要な行動をとった。
 献身と勇気。これは、彼等のような男達の中で、しばしば身体能力や戦闘技能より重要とされる。
 安芸は、訓練生につき物の様々なミスは犯したが、教官達が密かに持つ採点表ではほぼ完璧な成績を修めていた。

「あいつは、うちの小隊にもらうぞ」
「それはずるい。抜け駆けは無しでお願いします先輩」
「ヒヨッコ一人に随分な入れ込み様だな、お前等」

 だが、その日は訪れなかった。
 野戦訓練の最中、転倒したバディを助けようとした彼は絡み合うように谷へ滑落した。
 結果は、左アキレス腱損傷。大腿部骨折。半月板損傷。重傷だった。
 だが、入院した後も安芸は諦めなかった。医師が慌てる程の熱意で、リハビリに励んだ。驚く程短期間で退院の日が訪れた。

「おめでとう。よく頑張ったね。こんな患者は初めてだよ」
「有り難うございます。退院したら走ってもいいんですよね?」
「もちろんだよ。君ならあっという間にサッカーでもバスケでも出来る様になる。元の部隊にチームは無いのかね?」
「あったかも、知れません。でも、俺は早く治してもう一度課程に入り直すんです」

 安芸の言葉に、にこやかに笑っていた医師の顔に、微かな陰が差した。優しいが憐れむ様な表情。嫌な表情だ。
 病室のドアが開いた。複数の男達がドヤドヤと入ってくる。

「教官! それにお前等まで!」
「おぅ、すっかり回復したみたいだな」
「看護師のお姉さんが言ってたぞ。放っておくと何時までもリハビリ止めねえんだって」
「流石に少し太ったんじゃねえか?」
「うるせー」

 あっという間に、清潔で静謐だった病室が、暑苦しい運動部の部室の様な有り様になった。入ってきたのは、基礎課程の教官と同期達だ。皆真っ黒に日焼けしている。安芸は、羨ましく思った。自分はこんなにも白くなってしまった。
 彼は皆の後ろに隠れる様に立つバディの姿を見つけた。何だあいつ? 辛気臭い顔しやがって。

「よう! 久しぶりだな!」
「……お、おう。久しぶり」
「どうした? 元気ねえぞ。お前、もう復帰したんだろ?」
「ああ、何とかな」
 一緒に滑落したバディの伊藤三曹は、腕の骨折から回復し課程に復帰していた。彼は、その事を気にしているのだろうと、努めて明るく言った。
「もう一度バディを組むのは無理だけど、俺も次の期でまたやり直すからな! 部隊に行ったら頼むぜ先輩!」
 きっと、気持ちの良い返事が返ってくるだろう。伊藤も少しは気分が楽になるはずだ。気を遣いやがって。あいつらしいぜ。

 だが、誰も答えなかった。

 部屋に苦い沈黙が落ちた。同期達は曖昧に笑い、伊藤は下を向いた。医師が何かを言おうと息を吸った。
「先生、私が伝えます」
 教官が、静かに言った。安芸に真っ直ぐ向き直り、顔を見詰めた。普段は笑顔どころか仁王の様な表情を崩さない教官が、優しい表情をしていた。
「お前の身体は、任務に耐えられない。原隊復帰だ」
 教官の瞳はどこまでも優しかった。だが、同時に僅かな妥協も許さない鋼の冷たさを含んでいた。
「そんな!? 激しい運動も出来るって!」
「その通りだ。回復すればサッカーだって柔道だって出来る。だが、特警の任務は出来ない。そう判断された」
 安芸はひどく狼狽し、同期達を見回した。バディ以外の皆が、同じ目をしていた。全員が彼に同情し心から気遣っている。世の理不尽に怒る者も、同期の不運に悲しむ者もいた。だが、そこには不可視の崖が横たわる。


 お前は、もう俺達の仲間にはなれない。
 『特警』にあっては、情熱も根性も同期の絆も、厳然たるひとつの基準の前には、無意味であり無価値である。
 お前に能力は有るか? 命を預けるに足る者か?
 安芸は、その問いに対する答えを失ったのだった。

 原隊に戻された安芸は、荒れた。勤務態度は投げやりになり、周囲とのトラブルが激増した。艦を降ろされ、陸上配置になっても、収まらなかった。
 以前を知る上司がショック療法とばかりに、手を回した。「ああなっちまった奴は、余計な事を考えられない程忙しくしてしまうのが一番だ」安芸にとって迷惑極まりないこの配慮は、人手不足の現状と合わさって、彼をマルノーヴ大陸派遣調査団に押し込むことになった。

「帰りたいなぁ……」
 そんな経緯があり、現在、三等海曹安芸英太は『ゆら』の艦首で腐っていたのだった。



「やあ、暑いですねぇ」
 艦首でふて腐れていた安芸の背後から、のんびりとした声が聞こえた。振り返ると、ぼんやりとした印象の陸自幹部がにこにこと笑っていた。
「……鈴木二尉。どうもお疲れ様です」
「お疲れ様なのは、そちらですよ。どうですか? 水分とっていますか?」
「はぁ。大丈夫です」
 鈴木二尉は「ゆら」の荷物の一部だ。中肉中背、七三に分けた髪型の下には人の良さそうな笑みがある。目が細いことを除けば顔立ちは平凡だ。陸に降ろしてしまえば、「ゆら」の乗員のほとんどが彼の顔を忘れてしまうだろう。
「しかし、ここは楽園と言っても言い過ぎじゃないですね。エルフのお姉さん達も綺麗だし、海も綺麗だし。竿が有れば釣りたいなぁ」
「……暇なんですね」
「え? いやいやそんな訳は──はは、嘘はいけませんね。正直言うとね、暇です」
「荷造りは終わったみたいですね」
 安芸は車両甲板を横目で眺め、言った。そこには、浜辺に集積されるべき物資と車両の姿がある。鈴木二尉の高機動車も見えた。
「はい。荷解きはしていないので、楽なものです」
「ケースに入っているのは通信関係の装備でしたっけ? 随分厳重ですよね」

 高機動車の荷台には、黒色の耐衝撃水密ケースが積まれていた。それ以外にも、水や食料、燃料缶が見える。

「精密機器なので水や衝撃は御法度ですから」
「確か、広域通信設備の適地選定、ですか。通信教導隊ってそんなこともするんですね」
「ええ。通信の確保は重要なんですよ? ただ、私等だけで遠出するのはちょっと怖いかな──おっと、幹部がこんなことを言っちゃ駄目だな」

 鈴木は、照れたような笑いを浮かべ頭をかいた。その姿は、迷彩服よりよほど背広姿の方が似合いそうだ。安芸は密かに思った。日焼けしていなけりゃ中小企業のサラリーマンだな、この人。
 そこに、鈴木の部下が現れた。長く伸ばした髪が汗で額に張り付いていた。2人とも陸上自衛官というより、携帯会社の若手と言われた方がしっくりくる印象だ。

「やあ、田中三曹、佐藤三曹お疲れ様」
「あ、鈴木二尉、揚陸準備終わりました。マジ暑いっスね」
 革手袋を外しながら、佐藤三曹がぞんざいな口調で報告した。あまりにも気安い様子に、安芸は思わず鈴木二尉を見た。視線に気付いた鈴木二尉が苦笑いを浮かべた。
「気になりますか? うちの連中は普段から娑婆の方々とお付き合いが多いんで、あんまり自衛官っぽくないんですよ。かく言う私も迷彩服を着たのは久しぶりな程です」
「この髪型とかもね」
 田中三曹が前髪を引っ張りながら、悪戯っぽく笑う。色素の薄い虹彩が印象に残った。

「それより、その銃凄いな」
「俺も気になってた」
 田中と佐藤が口々に言う。その目は安芸の胸の前に下げられた短機関銃に向けられていた。やっぱり来たか。絶対こいつに食いつくんだよな、みんな。

「どんだけ物持ちが良いんだ、海自は」
「……まさか、M3が現役とはなぁ」
「うう」
「グリースガンだぜ。下手すっと爺ちゃん達と戦争したやつだぜ」
「何でも鑑○団に出せそうだな」
「うううう……」

 M3A1短機関銃。第二次世界大戦期、アメリカ合衆国で設計・製造された銃だ。軍の所要を満たすため生産性が優先され、鋼板のプレスと溶接のみで製造可能である。
 直線で構成された外見は、銃というよりは工具の趣を見せる。実際、グリースガンやケーキデコレーターの愛称を持っていて、美しい、という形容詞は似合わない代物だ。
 だが、この単純にして武骨な短機関銃は、奇異な外見とは裏腹に高い信頼性を示し、大戦期を通して兵士達に愛用された。

「だからって言ってもなぁ。限度があるんじゃね?」
「海自はどこも小火器不足なんです」

 生産ラインの限界と官僚的な意志決定が、現場にしわ寄せを押し付けていた。増産された89式小銃はまず弾火薬庫や総監部に優先配備され、その後、少ない在庫を護衛艦と警察が奪い合った。
 後回しにされた「ゆら」をはじめとする補助艦艇の小火器不足が明らかになったが、急な派遣に間に合う筈もなかった。

「それで、どっかの誰かが思い付いたらしいです。用廃間際の予備装備だったこいつを……」
「きっとドヤ顔だったんだろうね」
「おかげで派遣輸送隊の艦上は博物館状態。トンプソンM1A1に、コルトM1911、極めつけはBARですよ。コンバットかっつーの!」
「おぅ……でも、ちょっと撃ってみたいな」
「良かったらあげますから、代わりに89式小銃くださいよ! BARなんて重すぎてうちのおっさんが一人腰やっちゃったんですから」

 安芸は興奮して、左手を振り回した。銃把を握る右手の伸ばした人差し指が痙攣する。
 鈴木二尉が、もとから細い淡い色の瞳をさらに細め、楽しそうに言った。

「いや、安芸三曹なら使いこなせますよ。それに、.45ACPは逆に頼もしいかもねぇ」
「9㎜パラより良いかもな」
「このシンプルな排莢口、しびれるっス」

 陸自隊員達は、色褪せて灰色になったM3A1を口々に誉めた。
 腰道具ベルトにスパナやモンキーと一緒に刺した予備弾倉の重みが、増したような気がした。こいつら他人事だと思って好き勝手言いやがって。
 安芸は、手元の短機関銃がとてもみすぼらしく感じた。自分にはお似合いだ、そう思った。


「錨入れェ!」
 艦尾から、金属の擦れる音が響く。投錨したらしい。ビーチングした輸送艦は、着岸前に降ろした錨鎖を詰める事で離岸する。
 気がつけば、もう海岸がすぐそこに見えていた。甲板上が慌ただしい空気に包まれる。バラストが調整され、艦首が持ち上がった。
 鈴木二尉が、部下に言った。
「もう、着くようです。山田一曹達と準備にかかって下さい」
「了解しました」
 田中三曹と佐藤三曹が、意外な身軽さで車両に向かう。
「さて、安芸三曹。お世話になりましたね」
「いえ、鈴木二尉もお気をつけて」

 彼等は今から結構な奥地に入るらしい。通信員の彼等は、皆平凡な印象の隊員ばかりだった。この人達大丈夫だろうかと思う。顔を上げると、美しい異世界の砂浜と、そこに積み上がった物資の山を背に、鈴木二尉が微笑んでいた。
 明るい茶色の瞳が、安芸を見ている。何だ? どこかで、見たことがある気がする。一瞬そんな思いがよぎった。


 艦底から振動が伝わる。陸では陸自の施設科が宿営地を設営中だ。あちこちに物資がうず高く積み上がり、重機が走り回っている。
 轟音が聞こえた。視線を右に向けた安芸の視界に、海水を猛烈な勢いで水煙に変換し巻き上げながら陸岸へ向かうLCAC(エアクッション型揚陸艇)の、平たい船体が飛び込んできた。
 甲板上に角張った車体が見えた。あんなものまで持ち込むのか。安芸の目は暫く釘付けになった。


 気が付くと、揚陸準備に向かったのか、鈴木二尉は安芸の前から消えていた。



揚陸から9日目
ブンガ・マス・リマ北東5㎞ 前方監視哨
2013年 1月5日 13時04分

 地域最大の河川であるマワーレド川が、ゆったりと蛇行している。川幅500メートルに及ぶマワーレド川の流れは緩やかで、水量は豊富だ。川は南へ3キロ程下ったところで西に支流を分け、さらに毛細血管のように分岐しつつ海へ注ぐ。
 交易都市ブンガ・マス・リマは、このマワーレド川河口域の三角州地帯に、市街地を広げている。市は本流東側、本流と支流に囲まれた最も大きな中洲、支流の西側の3地域に分けられており、それぞれ「東市街」「中央商館街」「西市街」に分かれている。

 季節は乾季である。照りつける太陽が、灰色の水面に反射している。川の両側にはブンガ・マス・リマへと続く街道が整備され、流れに寄り添っていた。
 以前は鬱蒼とした熱帯林に覆われていたが、交易都市の営みにより周囲5㎞四方の森は切り開かれ、湿地と草原に姿を変えていた。

 乾季にもかかわらず充分な水量を湛えたマワーレド川の川辺では、背中に瘤を持つ水牛に似た生き物の親子がのんびりと水を飲んでいる。その背には色鮮やかな水鳥たちが、羽を休めていた。
 水面に水音が響く。大型の淡水魚が跳ねたのだろう。音に驚いた水牛が頭をもたげると、背に止まっていた水鳥が一斉に飛び立った。けたたましい鳴き声と共に、赤や紫の羽根が辺りに舞う。
 水牛は、自分には関係ないという風情で、また水を飲み始めた。

 のどかで平和な景色だ。

 だが、もしも地元の者がこの場に居たならば、すぐに違和感に気付くはずだ。

 川が静か過ぎるのだ。

 普段は街道を隊商がひっきりなしに往来し、川面には交易品を満載した船や、川魚を捕る小舟がひしめいていた。
 川縁には漁師や住民が生業の為に働き、舟を引く人足が賑やかな掛け声を上げていた。

 だが今は、全てが絶えていた。水面はたまに跳ねる川魚以外に揺らす者はなく、船も人も途絶えている。まるで、巨竜に例えられる事もあるマワーレド川が、息絶えたかのような静まり方であった。

 もう一つ。もし、景色を眺めた者が熟練のスカウトか猟師であれば、違和感に気付けたかもしれない。
 マワーレド川の東側。川と街道を見下ろす小高い丘の上に小さな森がある。その貧弱な茂みの端に、自然には存在しない獣がその身を伏せていた。下生えの中に目を凝らすと、その付近に岩のような気配がある。
 マルノーヴ派遣調査団、陸自先遣隊偵察隊所属の90式戦車だ。
 複合装甲を纏った鋼の獣は、ラインメタル社製44口径120㎜滑腔砲を北方に向け、獲物を待つ肉食獣の様に身を隠していた。角張った砲塔側面、偽装網の隙間からは北海道と蠍の部隊章が見えている。

 偵察隊付戦車小隊長、柘植甚八一等陸尉は車長席から上半身を出し、タスコ社製軍用双眼鏡を構えた。彼は偵察隊長を兼ねており、指揮下には90式戦車4両と73式APC1両、二個小銃分隊及び各種車両を置いている。
 一個戦車小隊という戦力は、先遣隊が普通科中隊基幹であることを考えると、かなり張り込んだ感がある。実際の所、偵察隊という体裁をとってはいたが、その装甲と火力が当てにされていることは間違いなかった。
 陸自は過去に得た捕虜や、南瞑同盟会議からの情報を基に、異世界での戦闘において戦車の火力を必要とする場面を想定しているのだった。

(だからって、うちが出張るのは無理やり感があり過ぎるな)
 柘植は思った。彼本来の所属は第1戦車群第301戦車中隊であり、彼は戦車中隊長であった。ところが、マルノーヴ派遣調査団に合わせて陸自先遣隊が編成される際、第9戦車大隊を押しのけて、彼の中隊から一個小隊が派遣されることになったのだった。
 どうせ、どこかの戦車屋が90式を異世界で好きなだけ走らせてみたいなんて考えたに違いない。俺自身話を聞いた時は素晴らしい考えだと思った位なんだから、間違いない。

 ごり押しは、それなりに高いところから行われたのだろう。表面上はすんなりと収まった。だが、当然ながら基幹中隊を派遣する第9師団側は良い顔をするわけがなかった。結果しわ寄せは現場が被ることになった。

 柘植は先遣隊長の神経質な顔を思い出した。細面がまるでカマキリのような雰囲気の一佐である。何かにつけて柘植の小隊を目の敵にしていた。
 柘植一尉、君の小隊はもう少し上品に食事が出来ないものかね? 我々は日本国を代表して来ていることを考えたまえ。
 ああ、思い出したら腹が立ってきた。柘植は顔をしかめると、前方に広がる景色に意識を戻した。雄大な大河と、緑豊かな草原。人工物のほとんど無い大自然の光景は素晴らしいものだったが、柘植はそう気楽な気分ではいられなかった。
 普段の彼は他人に穏やかな印象を与える男であり、その丸顔にはめったに厳しい表情を浮かべない。ともすれば頼り無げに見える程で、威厳で部下を統率するタイプの指揮官では無く、部下が自然に手助けをしたくなる類の男だった。
 だが、いま彼の表情は厳しい。
 そこには、彼に与えられた任務が影響している。

 彼の小隊はブンガ・マス・リマ北東5㎞の現地点に前方監視哨を設け、警戒監視任務に付いている。また、90式戦車の運用に関する地形偵察も行っている。併せて、北方に無人機及びオートバイ斥候を展開させ敵情の収集に努めていた。

 12日前、北方の平原において南瞑同盟会議野戦軍が敗北。帝國軍は同盟会議側の抵抗を排除しつつブンガ・マス・リマへと迫っていた。
 数日前から、偵察部隊と思われる敵騎兵の姿をオートバイ斥候が確認していた。近いうちに敵の主力が姿を現すことは間違いない。柘植はそう見積もっている。戦争が足音を立て近付いていた。気楽な気分になどなれるはずもない。
 さらに、頭痛の種はもう一つあった。

「中隊長、連中です」
「──ん、了解。それから今の俺は小隊長だ」

 操縦手の村上三曹からの報告にぞんざいに答えた後で、柘植は眼下の良く整備された街道上に目を向けた。
 マワーレド川に沿って南北に街道が走っている。舗装はされていないものの、道幅は約10メートルあり、車両の走行も充分可能である。街道を南に進めばブンガ・マス・リマ東市街が存在している。

 その街道上を、幻想世界の住人が北へ進んでいた。数は50名程。騎乗士が数名確認できる。
 隊列を組む兵士たちの鱗鎧が陽光を反射している。彼らはその上に遠目にも色鮮やかな緑と白の縦縞模様の長衣を着ていた。さらに頭には水鳥の羽根で飾った帽子を被っていた。中でも騎乗士の帽子は一際派手に飾られている。
 彼らは全員が武装していた。腰には短めの曲刀を下げ、肩には長刀のようなポールウェポンを担いでいる。列の最前には軍旗が誇らしげに掲げられていた。明らかな軍、ただし現代のものでは無い。

 彼らは「パラン・カラヤ衛士団」と名乗る集団である。ブンガ・マス・リマ東市街の警備を担当する、商都に残された数少ない戦力だ。


「相変わらず派手な連中ですね。まるでチンドン屋だ。虚仮威しにしかならないですよ、あんなの」
 砲手の根来二曹が、冷え切った口振りで言った。普段は物静かで冷静な性格なのだが、眼下の集団には明らかに好意的では無い。耳を傾ければ周囲からも悪し様に罵る声が聞こえた。
 声の主は戦車の周辺を固める普通科隊員たちだ。全身を偽装用の草木で覆い、タコツボに身を沈めている。
 本来ならばたしなめる立場の柘植であったが、とてもそんな気分にはなれなかった。彼にとって、目の前を巡察の為に行進している集団は、大きな頭痛の種であったのだ。


 気がつけば、衛士団の先頭を進んでいた騎乗士が、柘植たちが潜む森を見ていた。右手を頭の横に掲げ、隊列を停止させる。しばらくして騎乗士は従者を従え、こちらへと馬を進め始めた。こちらを見つけているようだ。
 柘植は顔をしかめた。偽装が不十分だったか? いや、履帯跡か。もっと丁寧に消さないと駄目だな。
 彼が偽装の手管についてあれこれと考えている間にも、騎乗士はどんどん近付いてくる。柘植は大きな溜め息をついた。放っておけばあの御仁は、周囲の普通科隊員たちと揉め事を起こすに違いない。柘植には確信があった。

「仕方ないか──各自そのまま待機」

 柘植は小隊長車から飛び降りると、普通科分隊に待機を命じ、自ら騎乗士を出迎えた。少しでも威厳を示そうと戦闘上衣の裾を引っ張って伸ばす。どうも、大した効果は無さそうだった。
 騎乗士は、柘植を認めるとゆっくりと近付いてきた。やはり、知った顔である。出来れば見たくない類の。だが、地元治安部隊の指揮官を無視する訳にも行かなかった。

 柘植は努めて友好的に、騎乗したままでこちらを見下ろす男に声をかけた。『通詞の指輪』で話は通じるはずだ。
「こんにちは。ケーオワラート団長殿。巡察お疲れ様です」
 騎乗士──パラン・カラヤ衛士団団長ウドム・ケーオワラートは極めて尊大な態度でそれに答えた。派手な羽根飾りのついた円筒形の帽子の下には、褐色の肌をした中年男の顔がある。
 毛虫のような眉毛の下のぎょろりと大きな瞳が、柘植を見下ろしている。蔑むような目つきを隠そうともしていない。鷲鼻と豊かな口髭、その下に隠されたへの字に曲げられた口元、全てが頑固で偏屈な性格を表しているようだった。
 彼はにこりともせず、言った。
「これは、ツゲ殿。貴公らはよく飽きもせずそうしておるな。まあ、その隠蔽の腕だけは大したものだ。野盗どもに優るとも劣らん」
「ありがとうございます」
「皮肉もわからんか──まあ良い。此処はそのうち帝國軍が現れよう。その前に避難するがよかろう」
 ケーオワラートの口振りは、酷く手厳しいものだった。こちらに好意を持っていないことは明らかだ。
「いえ、我々にも任務がありますので」
 柘植の答えにケーオワラートは口元を歪め、低い笑いを漏らした。
「戦いもしないのに森に隠れることが御役目か。貴国の軍はずいぶん変わっておるな。……そういえば軍では無いのだったな」
 森の中に伏せている普通科隊員や、戦車乗員からの刺すような視線に気付いているのかいないのか、彼は辛辣な言葉を柘植に浴びせ続けた。
「その後ろのハリボテが道を荒らして困ると近場の民から申し立てがあった。気を付けることだ」
「善処します」
「それから──街に来る際はもう少し綺麗な格好で来ることだ。他の客が迷惑する」
 ケーオワラートは、柘植の戦闘服を一瞥し、揶揄するように言った。柘植は何も返さない。ケーオワラートはその様子に、鼻を鳴らすと馬首を巡らせ隊列へと戻っていった。

「なんてムカつく野郎だ!」
「あいつらがだらしねえから、本拠地までヤバいんじゃねえかよ! それを棚に上げて好き放題言いやがって」
「あのクソ髭、引っこ抜いてやりてえな」

 尊大な衛士団長の背中に向けて、隊員たちから悪し様に罵る声が上がる。柘植も流石に怒りを覚えた。
 だがそこで、騎乗した主人の後ろを歩く小柄な人物が目に入った。柘植とは顔見知りの従者の少年だ。
 彼は柘植と目が合うと、その華奢なつくりの顔に心底申し訳ないという表情を浮かべ、頭をぺこりと下げた。そして、胸に槍を抱えてよたよたと主人を追いかけて行った。

 柘植は毒気を抜かれてしまい、気の抜けた口調で呟いた。

「最初は、こんなんじゃ無かったんだがな……」


 柘植小隊がマルノーヴ大陸ブンガ・マス・リマ市東方に揚陸されてから8日。帝國軍が北方約10㎞付近まで迫り、都市は危急存亡の情勢下にある。
 だがこの時、日本国陸上自衛隊マルノーヴ先遣隊と南瞑同盟会議ブンガ・マス・リマ市警備部隊、パラン・カラヤ衛士団との関係は、最悪の状態にあった。



派遣調査団
  • 政府特使及び随行員(外務省主導)
  • 合同調査団(各省庁合同チーム)
  • 警護班(警視庁警護課)

海上保安庁
マルノーヴ派遣船隊
 巡視船「てしお」「おいらせ」
 測量船「明洋」「海洋」
 設標船「ほくと」

海上自衛隊
マルノーヴ派遣
旗艦 掃海母艦「ぶんご」(群司令乗艦)
   海洋観測艦「すま」
  • 第1掃海隊
   掃海艇「いずしま」「あいしま」「みやじま」
  • 派遣ミサイル艇群
  第1ミサイル艇隊
   ミサイル艇「わかたか」「くまたか」
  第2ミサイル艇隊
   ミサイル艇「はやぶさ」「うみたか」

マルノーヴ派遣輸送隊群
  • 第1派遣輸送隊
 輸送艦「おおすみ」「ゆら」「LCAC1号」「LCAC2号」
 SH-60J×3機
  • 第2派遣輸送隊
 多用途支援艦「ひうち」「えんしゅう」
 曳船、特別機動船、交通艇他

陸上自衛隊
マルノーヴ先遣隊(増強普通科中隊基幹)
  • 先遣隊本部
  本部班
  通信小隊
  衛生小隊
  施設作業小隊
  • 普通科中隊
  中隊本部班
  小銃小隊×3個
  迫撃砲小隊×1個 
  対戦車小隊×1個
  • 偵察隊
  本部班(無人偵察機×1)
  戦車小隊(90式戦車×4)
  小銃班(73式装甲車×1、軽装甲機動車×2)
  オートバイ斥候班(オートバイ×8)
  戦車直接支援班
  • 後方支援隊
  本部班
  補給小隊
  整備小隊
  管理小隊
  • 施設隊

配置等
ブンガ・マス・リマ沖
  • 第1掃海隊(海自) 航路啓開
  • 第1ミサイル艇隊(海自) 周辺哨戒
  • マルノーヴ派遣輸送隊群(海自) 部隊・物資輸送
  • マルノーヴ派遣船隊(海保) 測量、航路啓開

ブンガ・マス・リマ南方多島海域
  • 第2ミサイル艇隊(海自) 調査団護衛
  • 合同調査団 現地調査

ブンガ・マス・リマ中央商館街
  • 政府特使及び随行員 外交交渉
  • 警視庁警護課 特使護衛
  • 小銃小隊 市街警備

ブンガ・マス・リマ西市街
  • マルノーヴ先遣隊本部(陸自) 全般指揮
  • 普通科中隊(二個小銃小隊欠)市街警備
  • 対戦車小隊 市街警備

ブンガ・マス・リマ東市街
  • 小銃小隊 市街警備
  • 迫撃砲小隊 市街警備

ブンガ・マス・リマ東方海岸
  • 後方支援隊 物資集積所設営
  • 施設隊 物資集積所設営
  • 戦車直接支援班 整備支援 

ブンガ・マス・リマ北東5㎞地点
  • 偵察隊 前哨警戒



揚陸から3日目
ブンガ・マス・リマ旧市街
2012年12月30日 12時34分


「うひゃあ、賑やかだなぁ」
「おい村上、迷子になるんじゃないぞ」
「いや、中隊長。ガキじゃないんすから、それは無いですよ」
「いや、村上なら有り得ると思うな」
「根来さんまで、そりゃないっすよ」

 雑踏の中を三人の自衛官が歩いている。アメリカ合衆国以上に人種の坩堝である(何しろ元の世界では恐らく百パーセントだった「人間」が、こちらでは『最大勢力』という扱いなのだ)交易都市にあっても、彼らの出で立ちはなかなかの注目を浴びている。
 彼ら三人がいるのは、ブンガ・マス・リマで『旧市街』と呼ばれる地域である。まだ都市が町であった頃、ここは交易の中心だった。商品を山のように抱えた隊商と交易船が行き交い、荷揚げ場は活況を呈していた。
 町には市が立ち、様々な取引が行われ、船乗りが旅の垢を落とした。各地から集まる彼らを当てにして、ありとあらゆる店が軒を連ねた。

 町が大きくなるにつれて、交易の中心は別の場所に移ったが、市民の為の比較的小規模な商いは残った。そして、商人たちの胃袋を満たすべく集まった店もまた、そのままであった。
 今では、市街有数の飲食店街として市民の憩いの場を提供している。

「美味いメシの気配がする」
 柘植が鼻をひくつかせて言った。
「出た出た、中隊長の美食センサー」

 以前は鮮やかな紋様が描かれていたのだろう。いまは色褪せた石畳の道が、川沿いに延びている。道の川面側には船着き場があり、小さな交易船が荷揚げを行っていた。荷揚げ場は、商人たちが少しでも儲けを出そうとするやり取りの喧騒に満ちている。
 道を挟んだ反対側は商店がひしめき、生活雑貨や衣料品が簡単な天幕の下に並んでいた。行き交う人々の波は途切れることがない。三人は人並みを縫うように街路を歩いた。

「本当に賑やかなところですね。まるで、シンガポールのボート・キーだ」
「ずいぶんと洒落た感想だな。俺はアメ横を思い出したよ」
「しかし、思ったよりずいぶんときれいな都市です。驚きました」

 露天商の売る針や籠を冷やかしながら、根来二曹が感心したように言った。根来二曹は柘植小隊長車の砲手である。和歌山出身、長身痩躯で落ち着いた態度の男だ。何時も淡々と的を射抜く腕の良い砲手である。
 大学時代バックパッカーとして放浪した経験から、根来は都市の衛生環境を地球の都市と比較し、予想より良いことに驚いたようだった。

「それ、俺も思いました。同期には『頭の上からうんこが降ってくるから気を付けろよ』なんて言われてたんで……」
 操縦手の村上三曹が辺りをキョロキョロと見回しながら同意した。体格の良い村上の子供じみた仕草を見て、すれ違った使用人風の少女がくすくすと笑う。
「うんこってなぁ、お前……まあ、いいか。確かにこの異世界の大都市は驚くほど清潔だ。捕虜の聞き取りから得られた『中世ヨーロッパ』程度の文明とは思えない」
 確かにその通りだった。人口二十万の大都市は、清潔さを保つ努力に余念が無く、それはある程度の成功──地球で言えば発展途上国の首都レベル──を収めていた。
「厚労省の担当官やうちの医官も驚いていたよ。ここの住人は公衆衛生の概念を体験的に理解している」
「はあ」村上が適当な相づちを打つ。
「つまりだ。煮沸消毒や紫外線消毒。上下水の分離に廃棄物処理、伝染病患者への対応まできちんとやるんだよ。どうも細菌の存在にも気付いているらしい」
「それは、大したものですね。でも、何故そんなに進んでいるんでしょう?」
 根来が質問した。柘植は二人の目を順に見つめ、ニヤリと笑って言った。

「神さまのいうとおり、だよ」

 柘植の言葉に根来と村上はぽかんとした顔になった。柘植は自分もこの話を聞いたときはこんな風だったなと思った。

「ある神官が、衛生員の持つ医療キットの中身を見て言ったそうだ。『これらは聖別されたものですね』とな。その神官は消毒液から抗生物質まで、たいていの薬効を言い当てた」
「どうやって? 俺たちでも見分けなんかつかないのに」
「こっちの神官は『本物』なんだよ。ちゃんと神さまのお告げを聞けて、信者に手をかざせば奇跡が起こせる。だから、いくつかある教団の神官や司祭は、修行を積んだ魔法使いなんだ──この表現が正しいかどうかは知らんがな」
「良いものと悪いものが分かるんですね」
「そうだよ。だから、抗生物質が『悪しきもの』をやっつける効果があると分かったし、信者たちには清潔な環境を維持するよう指導する」
 柘植は、微妙な笑顔を浮かべてその後を続けた。
「こっちの世界の村人は、怪我をしたらきちんと患部を清潔にして、薬効のある薬草を当てる。それでも駄目なら神の奇跡で治してもらうんだ。
 俺たちの御先祖さまはどうだ? 馬糞汁を飲んだり、水銀を塗ったり、悪い血を抜いてみたり。しまいには先祖の行いが悪かったとか言い出す始末だ。泣けてくるね」
「熱が出たら尻にネギを入れるなんてのも、俺やられたっす」村上が尻をさすりながら言った。
「効いた?」
「あんまり」
 村上の言葉に、根来がやや引き気味に応じる。柘植は、両手を広げなるべく胡散臭い顔を作ると、二人の部下に結論を告げた。

「この世界には、迷信なんて無いんだよ」

「……ファンタジーだ」
 根来が、呆れたようにぽつりと呟いた。

「だからこそ、俺たちが街に出られるんだ。良いことだよ。ほら、いい匂いがしてきたぞ」
 柘植たちが街をぶらついているのは、れっきとした職務である。一般隊員の現地民との接触は未だ制限されていたが、偵察隊や衛生員に対しては、情報収集目的での行動が認められていたのだった。
 戦いにおいて、その場所を『知らない』というのは、とてつもなく不利なことである。検疫は彼らの行動を許す程度には完了している。柘植は民情把握と市街地の地形偵察を兼ねて、街に繰り出していた。
 とはいうものの、柘植一尉の『偵察』はその対象の選定において、著しい偏りを見せていた。
「中隊長、あそこなんか美味そうじゃないですか?」村上が、前のめりになって言った。
 視線の先では、上半身裸の屈強な男たちが、大きな木の椀を抱えて何かをかき込んでいた。濃厚な肉と乳の匂いが辺りに漂う。
「どれどれ?──荷揚人足かな? あれは……粥か」
 堅太りの親父が大きな鍋で麦粥を煮込んでいる。乳とチーズで煮込まれた粥には、ゴロゴロとした大きな肉が浮いていた。親父は大汗をかきながら鍋をかき混ぜる。味付けは粗塩だろうか。男たちはたっぷりとした粥を、ガツガツと胃に流し込んでいる。
「確かに美味そうだが、多分味付け濃いぞ。肉体労働者の昼飯だ」

辺りを見回せば、食料品店が立ち並んでいる。
 魚屋には、裏手で荷揚げされたばかりの魚が並べられていた。どれも目は澄んでいて新鮮だ。ただ、やはりどの魚も見たことが無い種類だった。七色に輝くウロコを持つナマズがいる。一体どんな味なのか検討もつかない。
 店の親父が「どうだい兄さん、痺れる旨さだぜ!」と薦めてきたが、さすがに生魚には手を出せなかった。

 肉屋の軒先では籠に入れられた鶏がやかましい。頭上には羽根を毟られた仲間が、ぶらりと吊り下げられている。寡黙な店主が、手際よく肉をさばいては客に手渡していた。
 鶏、豚、水牛、山羊(に似た生き物)の肉に加えて、加工品も扱っているようだ。肉厚のベーコンやハム、干し肉が艶めかしい色を放っていた。よく塩が効いていてとても美味そうだ。チーズもある。水牛のものだろうか? 
 変わったところではカエルやヘビの肉も売られていた。柘植もカエルは食べたことがあった。鶏に似たさっぱりとした味がなかなかいける。ただ、彼が食べたカエルの足は六本も無かったけれど。

 隣は青果店だ。色鮮やかな野菜の葉が、南国の恵みを現していた。やはり柘植たちが知る野菜や果物は無かったが、新鮮さだけはよく分かった。熟れすぎてはじけたマンゴーに似た果物の果肉から、濃厚な甘い香りが漂っている。
 青果店では、ジュースも売っているようだ。おかみさんが手早く搾った果汁が飛ぶように売れている。柘植は一際繁盛している店を見つけた。

「氷だ。一体どうやって?」
 その店では、氷でよく冷えたジュースを出していた。柘植が裏手を覗くと、灰色のローブを着込んだ貧乏そうな青年が桶に氷を生み出していた。
「おーい、氷足りねえぞ。まだかバイト!」店員が怒鳴った。
「はいはーい!……いま、やってますって。魔力も無尽蔵じゃないんだけどなぁ──あ、やべ」バイトと呼ばれた魔術士は、ブツブツと小さく何かを唱えながら手から氷を作り出していたが、不意にストンと腰を落とした。
「おかみさーん、打ち止めです」そのままへたり込む。
「えぇ? もうかい──仕方ないねえ。冷やし果汁、いまあるだけだよー!」おかみさんは、桶の氷をガリガリと砕きながら、声を張り上げた。

「魔法使いが製氷機か──貧乏学生ってところかな」
「MPが切れたんすかね」
「値段見たらよその三倍でしたよ。コスト的に割りに合うんだろうか?」

 三人は口々に感想を言う。正直なところ街の豊かさに舌を巻いていた。店には商品が溢れ、庶民の購買力もある。異世界の全貌は未だ明らかではないが、少なくとも未開の蛮族たちという認識は誤りであることは間違いなかった。

 柘植はもう一度小鼻をひくつかせると、一軒の飯屋を指差した。
「あそこが美味そうだ。俺の魂が囁いている」
「えーっと……赤い、敷物──赤絨毯亭、ですか」
 根来二曹が先遣隊員に配布された『マルノーヴ語の手引き』と、看板の文字を見比べて言った。
「見ろ。客層が偏っていない。加えて近所の商人らしい連中もいる。ああいうところは、たいてい美味いぞ」
「何でもいいっす。はらへったー!」村上が叫んだ。
 三人は、天幕に下げられた日除けの布を潜り、店内に足を進めた。柘植が店主に声をかける。言葉は『通詞の指輪』で大丈夫なはずだ。
「こんちわ。親父さん空いてるかい?」
 その瞬間、椅子代わりの木箱に腰掛け食事をしていた客たちが、一斉に三人の自衛官の方を振り向いた。老若男女(とそれ以外)の遠慮ない視線に、柘植たちはたじろいだ。何だこいつら? 視線はそう言っている。
「適当に座ってくんな」店主がぶっきらぼうに言った。
「ち、中隊長。店、選択誤ってないっすか?」
「狼狽えるな。俺たちは異邦人だ。大抵こんなもんだよ」
 そうこうしていると、褐色の肌をした給仕の若い女が客をかき分けて近づいてきた。派手さは無いがエプロン姿がよく似合う。
「いらっしゃいませぇ。お客さん珍しいいでたちね。外国の方かしら?」
「そんなもんだよ。腹が減っているんだが、お薦めはあるかい? なまもの以外で頼む」
 柘植の問いかけに彼女は、小首を傾げた。くせ毛のショートヘアがさらりと揺れる。
「もちろん。看板メニューがあるわ」
「じゃあ、そいつを三つ頼もうか」
「何か飲む?」
「あいにくと仕事中でね。飲み物はいいよ」柘植が迷彩服の襟を引っ張りながら言った。
「それ、お仕事着なのねぇ。じゃ、お薦め三つ」
 彼女はそう言うとくるりと長いスカートの裾を翻し、寡黙な店主が鍋を振るう厨房へと戻っていった。

「いい店ですね、中隊長」
 村上が言った。その目は厨房へと戻る給仕の女の子の尻を追いかけている。柘植は、村上の背中を平手でどやしつけた。
「さっきと言っていることが違うじゃないか」
「痛ぇ! いや、いいお尻だなぁと」
「馬鹿。品位を保つ義務を忘れたか……いやまあ確かに見事な張りだが」
「でしょ?」
 確かに、給仕の女の子の尻は、スカート姿でも分かるほど豊満であった。柘植はもう一度村上の背中をひっぱたいた。

 それを見て、周囲の客がどっと笑った。
「どこでも、兵隊は同じじゃの」枯れ木のような禿頭の老人がニヤニヤ笑いながら言った。
「あんたら『ニホン』の兵隊じゃな?」
「はい、日本国自衛隊です。やはり、分かりますか?」柘植が答える。老人は笑いを大きくした。
「あんたらの格好はよう目立つからのう。それに、どこの国のもんでも兵隊は必ずアミィの尻を追っかけるでな。初めは話が通じるか分からんと思っとったが、そこの若いのを見て、ワシらと変わらんと思ったよ」
 老人の言葉に、また周囲の客が笑う。店内の雰囲気はいつの間にか和らいでいる。村上三曹の行動も、どうやら意外に役に立ったようだ。
「ご隠居だって毎日アミィの尻を眺めに来てるじゃねえか!」
「う、うるせぇ。年寄りを労れ」

 老人とのやりとりが、引き金になったのだろう。刺すような視線から逃れたと一安心した柘植たちは、今度は遠慮ない好奇の目と質問の集中砲火を浴びる羽目になった。
「あんたが隊長さんかい?」商人が言う。
「はい、柘植と言います。この二人は私の部下です」
「なら騎士さまだね。それにしちゃ、兵隊とおんなじ格好だねぇ」
「海の向こうから援軍として来てくれたんだろ? ありがとうね」おばちゃんが頭を下げた。
「東の浜にどでかいゴーレムがたくさん上がったらしいが、あんたらかい?」背の低い髭面の男が、鼻息荒く尋ねた。
「ゴーレム、といいますかまあ我々の装備です。あなたはもしかしてドワーフですか?」
「そうだ。今度あんたらのゴーレムを見せてくれんか? ところでその腕につけた飾りはなんだ?」
「時計ですが」
 途端にドワーフが立ち上がり、顔を真っ赤にして柘植の腕に顔を寄せた。ちょっと脂臭い。かれは、柘植の腕時計をまじまじと見つめ、しきりに首を振った。
「ありえん。こんな小さな盤の上を針が……これは刻時盤だな? どうやって動いとる? むむむむ、ちょっと分解していいか?」
「いや、それは困る」
 さらに、魔法使い風の青年が身を乗り出して言った。
「あの、あの鉄船に乗ってきたんですよね? 有翼蛇を墜とした魔法はライトニングですか? そもそもどうやって動いているんですか? 系統は? 魔晶石を使うのですか?」
「いや、その……」


「『ニホン』にはあたしらみたいなのはいるの?」猫のような耳と目を持つ女が村上に聞いた。
「えーっと、アキバになら……」
「おお! 獣人もいるのか『ニホン』には」
「冒険者ギルドはあるか? 未知の世界に行ってみたいぜ」革鎧を着た戦士風の男が言った。
「えーっと、派遣登録みたいな感じ? なら沢山あるかな。多分数万人規模で登録してると思う」村上が答える。
「す、数万人!? そんな大規模ギルドが存在するのか?」戦士風の男を始め、周囲は目を白黒させた。
「で、では信仰の対象は? どの神に祈っているのですか?」気の優しそうな中年男性が言った。
「神? アイドル? アイドルならこないだ東京ドームで──」
「ほう、『ニホン』の人々は、48柱の女神を信仰しておられるのですか……え、48柱どころじゃない? なんと!」
 微妙に間違った情報が流布されるのを聞きながら、柘植は質問の制圧射撃に頭すら上げられない状況である。
 それを救ったのは、両手に料理を乗せた、給仕のアミィだった。
「はいはい、どいてどいて。おまちどうさま」
 テーブル代わりの樽の上に赤い皿が並ぶ。片方は沢蟹だ。からりと素揚げされた蟹が朱く色付いている。もう片方の皿には、見事に茹で上がった海老が山盛りになっていた。車海老より一回り大きな海老の身は、ぷりぷりと弾力があり肉厚だ。
「うちのお薦めよ。海老はたれをつけて召し上が──」
「いただきます!!」
 彼女が言い終わる前に村上は料理にかぶりついていた。柘植と根来も苦笑しつつ手を伸ばす。
「ンムッ」
 沢蟹を口に放り込む。噛んだ瞬間、口の中に蟹肉の旨味が広がった。パリパリとした食感が心地よい。シンプルな塩味と油の風味、微かな蟹味噌の香りに、次々と手を伸ばしたくなる。
「ビールが飲みたいな」根来が言った。柘植も全く同感だった。
 次に海老を食べる。赤いたれをつけて口に入れた。茹でた海老の身が口の中でほぐれ、肉汁が溢れる。海老の甘味とたれの辛味が絶妙だ。魚醤、大蒜、赤茄子、唐辛子、辺りだろうか。地球と全く同じものでは無いだろうがとにかく──
「うまいな」
「うめぇ」
「おいしいなぁ」
 三人は揃って料理の味を褒め称えた。
「!!」
 その瞬間、周りで息をのんで見守っていた客たちが、大きくどよめいた。何だか嬉しそうだった。
「な? いけるだろ? ここはこの辺でも一番の店なんだ」
「看板娘はかわいいしな。オヤジは無愛想だけどよ」
「……」
「よその人にも味は分かってもらえるのね。嬉しいわ」
「なあ、『ニホン』の軍人さんよ。あんたらの国にはこんな旨いものあるかい?」
「そもそもどんな国なんだ? 教えてくれよ」
 給仕のアミィが腰に手を当て、胸を張っている。店主の親父も、さり気なくこちらを見ていた。彼は柘植たちの食べっぷりを確認すると、また黙々と鍋を振り始めた。
 わいわいと賑やかな客たちに囲まれて、柘植たちは飯を食った。店が愛されていることが分かり、柘植も嬉しくなった。

 その時、店先で鉄の擦れる音が聞こえた。誰かが来たようだ。

「御免。おや、今日はいつもより賑やかであるな」
 重厚な印象の声が店内にかけられた。はっきりとした発音のそれは、喧騒の中でも不思議とよく響いた。給仕のアミィが声の主に返事をした。
「あら、団長さま。いらっしゃいませ!」
 団長、という単語を聞いた客たちが、さっとスペースを開いた。その空間を一人の威丈夫がゆったりと進む。
「おお、団長どの。御役目御苦労様ですな」老人が親しげに声をかけた。
「む、ご隠居。今日も生きておったな。重畳の至りである」
 声をかけられた男はそう言って笑った。周囲の客も笑う。柘植の目にも、その男が相当な敬意を払われていることが分かった。それでいて、みな親しみを持って接している。
 男はがっちりとした体格の身体をきらきらと光る鱗鎧で包み、その上から緑と白の縞模様が鮮やかな長衣を羽織っていた。背筋は真っ直ぐに伸び、鎧の重さを感じさせない。
 小脇に赤と青二色の羽根飾りがついた円筒形の帽子を抱えている。帽子の額には大きな赤い宝石が留められていた。
「この騒ぎの元は──貴殿であるな」
 漆黒の色を湛えた瞳は大きく、強い光を放っていた。鷲鼻と豊かな口髭が、父性を感じさせる。穏やかな態度であった。しかし、柘植はそこに風圧のようなものを感じ取った。
(ただ者じゃないな。軍人? いや武人、か)
 僅かに値踏みするような、言い換えれば人物を見られているような気配を感じ、柘植は箸を置き威儀を正した。二人の部下もそれに倣う。その様子を見て、男は腰に提げた曲刀の鞘に左手を当て、右拳を顔の横に掲げた。
「我が名はウドム・デールゥ・パラン・ケーオワラート。騎士にしてパラン・カラヤ衛士団団長。貴殿は?」
 ケーオワラートと名乗る男の時代掛かった口上に、柘植は陸上自衛官らしい生真面目な敬礼を返した。
「一等陸尉柘植甚八。日本国陸上自衛隊アラム・マルノーヴ先遣隊偵察隊長です」
 ケーオワラートは柘植の動作に、自分たちに通じるものを感じたようだった。彼は面白そうな表情をすると柘植の隣に腰掛けた。従者の少年が、素早く帽子を受け取る。
「ふむ。噂に聞く『ニホン』の騎士に相見えられたことを嬉しく思う。風変わりな出で立ちだが、なかなかの勇者揃いと聞いている。我はブンガ・マス・リマ参事会より兵権を預かり、東市街を鎮護している者だ」
 そう言うケーオワラートは、柘植の態度をじっと見ていた。警備部隊指揮官として、異邦から現れた軍を見極めようとしているようだ。柘植は努めて冷静に応じようとした。
「都市の警備に当たる責任者にお会いできたことは幸いです」
「貴殿──ツゲ殿で宜しいかな。斥候の長というが、どれほどの部下を率いておられる?」
「はい、約50名の部下がいます。それと車両がいくらか」
「ほう、なかなかの兵力である。イットウリクイというのはツゲ殿の軍における位階であるのか?」
「はい、その通りです。『通詞の指輪』にておおよその感覚は伝わっていると思いますが」

 ケーオワラートは大きく頷いた。
「百人隊長といったところであろう? 我が手勢は二百を数えるが、この広い市街を護るには手が足りぬ。『帝國』を名乗る蛮族どもが迫る昨今においては特にな。まあ、この界隈に戯けた悪党がおらぬ故、我が御役目もどうにかなっておる」
 ケーオワラートは周りで興味深そうにしている客たちを見回した。周囲の者はうんうんと頷いた。

 その後も、話は多岐に渡った。柘植の感触では警備部隊指揮官であるケーオワラートは、自衛隊に好意を抱いているようだった。おそらく海自ミサイル艇の奮戦が伝わっているからだろう。
 ケーオワラートは、陸自の編成や装備に興味を示し、様々な質問を投げかけてきた。
(警備上の情報収集が半分、個人的な興味が半分といったところか)
 加えて、彼の背後に控える従者の少年の態度がいかにもあからさまだった。年齢は13、4歳くらいだろう。手足のひょろ長い華奢な体躯は、まだ発展途上で凛々しさよりも可愛らしさが勝っている。数年後には立派な騎士に成長する要素はあるが、今はまだ子供でしかない。
 そんな彼は、柘植が話す自衛隊や日本の話に興味深々のようだった。いつの間にか直立不動の姿勢が、柘植の方向に20度ほど傾いている。
「我々の主力装備は戦車です」
「『戦車』とは如何なるものか? ゴーレムのようなものであるか?」
「ゴーレム、ですか。私はゴーレムを見たことが無いのでなんとも。90式戦車はこのお店にようやく一両入る程の大きさで──」
「ええっ!」
 ケーオワラートの背後で甲高い驚きの声が上がった。周囲の視線が集まる先には、顔を真っ赤にした従者の少年が両手で口を押さえている。
「カルフ! はしたないぞ」
「申し訳ありません!」
 カルフと呼ばれた従者の少年は、慌てて謝った。しかし、くりくりとした黒目がちの大きな瞳の奥には、隠しきれない好奇心が溢れていた。柘植は苦笑して言った。
「ケーオワラート団長殿。もし明日御時間が許すのであれば、我が隊の演習を御覧になりませんか? 参事会の許可を得て市街北東部で『戦車』の運用試験を行っているのです」
「誠ですか!?」
「カルフ!……失礼仕った。だが、大変興味深い。貴殿の申し出有り難くお受けしよう。この通り我が配下も噂に名高い異邦からの騎士団に興味が尽きぬようであるからな」
「では、お待ちしています」
 現地警備部隊指揮官と知己を得るのは、有意義であろう。柘植はそう考えた。同時に、ケーオワラートたちに対して純粋に好意を覚えた自分を感じていた。周囲の客たちも、両者のやりとりを誇らしげに見守っていた。

「では、間もなく巡察に出ねばならん。此にて失礼致す」
「はい、明日お会いしましょう」
「店主、邪魔をしたな。御免」
 そう挨拶すると、ケーオワラートは長衣を翻し大股で店を出て行った。

 ケーオワラートを見送ると、村上がしみじみと言った。
「いやぁ、雰囲気ありますね。渋い」
 すると、人足風の男が胸を張って言った。
「この街が平和にやっていられるのも、パラン・カラヤ衛士団のおかげさ。邏卒で手に負えない連中も、衛士団にかかればイチコロよ!」
「それでいて、こんなところまで気軽に足を向けて下さる。お優しい御方じゃよ」老婆が手を合わせた。
「あんたらも、何かあれば団長さまに話を持っていくといいよ」おばちゃんが言った。
(こいつは僥倖だったかな)
 柘植は周りの態度に大きな手応えを感じていた。少なくとも、現地住民との関係は良い滑り出しであると言えた。


「さてと、俺たちも行くか!」
 人垣の中から、溌剌とした声が上がった。柘植がそちらを見ると、革鎧を着た戦士とその仲間らしい集団が、荷物を抱え上げている。
「おい、オドネル。そんな装備を抱えてどこに出かけるんだ?」
 オドネルと呼ばれた戦士は、装備を確認しつつそれに答えた。
「義勇軍さ。帝國の奴らが迫っている。参事会がギルドを通して義勇軍を募っているんだ」
 後を受けて魔法使い風の青年が言った。
「私たちは冒険者ですが、戦の心得も有ります。街の危機に見て見ぬ振りは出来ません」
「その通りだレナーワ。俺たちみたいな冒険者は、精鋭として遊撃隊に編成される。見てな! この戦いで『碧の右腕』の名が高らかに響き渡るところを」
 オドネルはそう言って、腕輪を付けた右腕を高くかざした。腕輪には碧い水晶が飾られている。彼と彼のパーティーは揃いの腕輪をトレードマークにしているようだった。オドネルを含め8人の男女は、店主が作った携行食を受け取ると、意気揚々と店を出て行った。


「怪我しないといいけどねぇ」
 客の一人がぽつりと呟いた



揚陸から4日目
ブンガ・マス・リマ北東5㎞
2012年 12月31日 15時28分

「……これが『戦車』であるか?」
 ケーオワラートが怪訝な顔で言った。彼の後方に控える衛士団の部下たちも、一様に胡散臭い物を見るような目をしている。質の悪い武具を売りつけに来た商人の売り口上を聞く態度だ。
 市街地の北東約5㎞付近。マワーレド川を見下ろす小高い丘の上に集まった彼らの前には、4両の90式戦車がその巨体を並べている。濃緑色と茶色に迷彩塗装された全長9.8メートルの車体からは、無駄を排した戦闘車両の凄みが現れていた。
 現代人であれば、たとえ兵器から程遠い日々を過ごしている者であったとしても、その迫力に圧倒されただろう。「戦車」とは、本来ならとても『分かり易い』兵器なのだ。

 であるからこそ──

 異世界の戦士たちに、90式戦車の水冷2サイクルV型10気筒ディーゼルエンジンが叩き出す1500馬力の素晴しさを全身全霊をかけて力説していた村上三曹は、あまりの反応の鈍さに大きな不満を覚えていた。
 口ひげを生やした細身の衛士が言った。
「戦さ車というからには動くのであろうが、とてもそうは見えん。とてつもなく重いのだろう? ムラカミ殿」
「だから! こいつのエンジンは──」
「その『でぃーぜる』の魔術がよく分からん。巨大な『でぃーぜる』という魔獣に曳かせるのか?」
 再度説明しようとした村上三曹の言葉を遮って、衛士は見当外れのことを言った。
 堅太りの衛士が、ラインメタル社製44口径120㎜滑腔砲の砲身を見上げている。
「これは破城鎚か? 鋼のようだが先は尖っておらぬし、いささか細いように思えるのだが……」
 ボアサイトを済ませた砲手の根来二曹が、困った顔でそれに答えた。
「それは破城鎚ではなく大砲です。『戦車』はそこから弾を発射し、敵を撃つのです」
「その筒から火球を放つのか? では魔術士は何処に?」
「いえ、魔術士は──」
「それにしても、この臭いはたまらんな」
 ケーオワラートが顔をしかめた。視線はアイドリング中の機関部に向けられている。低音を響かせ振動する車体後面左右の排気孔からは、うっすらと黒い排気がたなびいていた。

「臭い、ですか?」
「うむ。こやつの吐く煙が堪らなく臭うぞ。何なのだこれは? 川向こうからでも分かるぞ」
「ケーオワラート団長。恐らくはこの『戦車』の中に飼われている『でぃーぜる』の吐息でありましょう」
 柘植より先に、ケーオワラートの配下が答えた。口ひげを生やした中年男だ(ちなみにケーオワラートの配下は殆どが口ひげを生やしている)。
「ほう」
「これだけの巨体。馬や牛では曳くことは出来ますまい。また、破城鎚であるからには矢弾を防げなければなりますまい。従って、この鋼箱の中に巨体な魔獣を収め、動かしているに相違在りませぬ!」
「面妖な」
「先ほどから臭うこの臭気。低いうなり声。中身はよほど醜悪で凶暴な獣でしょうな」
「なんと」
「しかし、いくら何でも大きすぎはせんか? とても動けるとは思えん」
 堅太りの衛士が装甲板を叩く。
「見ろ。響きもせん。よほどの厚みぞ。これを動かすとは如何なる獣か」
 それを聞いて、中年の衛士が陰気な口調で言った。
「おそらくは禁呪を用いて召喚されし妖魔よ。そういえば去年の夏、西の廃城を巡回しておったらな。不意にいやな気配がして、振り返ったのだが誰もいない。面妖なと思いつつも先へ進んだのだが、気配がついてくる。
 いやだのぅ恐ろしいのぅと思いつつも御役目を放り出すわけにもいかず。意を決して進むのだが、耳元でひったひったと音がする。あぁこれはアレだ悪霊だな、と──」

(これは、説明ではどうにもならんな)
 戦車を前にして何故か怪談話を始めてしまった衛士たちを前に、柘植は言葉でどうにかすることを諦めた。
 パラン・カラヤ衛士団の男たちにとって、目の前の物体は想像の埒外に過ぎた。彼らには目の前にある鉄の塊が地を走るなどとは、到底信じられないのだ。
 なまじ『通詞の指輪』でニュアンスが伝わるだけに始末が悪い。この世界で車を動かすには、何かで曳くか、魔術的な力を使うしか無い。彼らは自分たちが知る理で、目の前の物体を理解しようとした。
(その結果が『魔獣でぃーぜる』か)

 柘植は、ケーオワラートたちに声をかけた。
「我が国の言葉には『百聞は一見に如かず』とあります。この90式を実際に動かしてみせるのが、手っ取り早いでしょう」
「よかろう」と、ケーオワラートも同意した。衛士たちは「動かす」という柘植の言葉に、まだ胡散臭そうな態度だ。ただ一人、従者のカルフだけが期待を隠さない表情で、ケーオワラートの背後に控えていた。
 彼は従者という立場から、戦車に触ることも質問することも出来ず、そわそわと立ち尽くしていた。

「では、ケーオワラート団長殿。ひとつこいつの乗り心地を試してみませんか?」
「こやつに乗るのであるか?」
「はい。残念ながら定員は3名なので、団長には窮屈な体勢を我慢いただくことになりますが──宜しいですか?」
 柘植の提案に、ケーオワラートは面白い、という顔をした。
「他に何名か乗ることは可能ですが……」
 柘植はそう言って他の衛士たちを見たが、彼らは団長ほど戦車に興味を示してはいなかった。「どうせ、動くものか」という態度もあからさまである。ただ一人、カルフ少年だけが、大きな瞳を輝かせて柘植を見ていた。
「あー、ケーオワラート団長殿?」
「何であろうか?」
 二人の大人は、ことさら厳めしい表情を作った。互いに視線を合わせ、心中で密かに苦笑する。
「我が『90式戦車』の馬力ならあといくらか乗せられるのですが、どうも部下の方々は乗り気では無いようですな」
「うむ。そのようであるな」
「──!」
 カルフは、一生懸命に視線で訴えている。従者である彼は、勝手に名乗り出ることは許されていない。ただ、彼の顔を見れば「ぼく乗りたいです!」と墨で大書されたような有り様だ。
「うーん。では、お一人だけですか」
「まぁ、やむを得まい。いささか得体の知れぬ代物であるからな」
「誰か、志願者はいませんかねぇ」
 意地の悪い大人二人は白々しい会話を交わしている。カルフはぴょこぴょこと跳ね始めた。柘植は駐屯地祭を思い出した。根来二曹が、いい加減にしたらどうです? という表情で言った。
「柘植一尉、意見具申。ここは従者の彼に体験してもらうのはどうです? 未来の衛士に我々を知ってもらうのは良いことだと思います」
「なるほど」
 柘植は、ケーオワラートを見て「宜しいですか?」と視線で尋ねた。彼は白い歯を見せ大きく頷いた。
「ふむ。カルフがもし乗りたいと申すのであれば、よかろう。ただ、乗りたがるかどう──」
「し、志願します! 異国の魔獣に乗れるとは光栄ですし、わたくしは団長の従者でありますので、常にお側に控えるべきであり、その、あの!」
 顔を真っ赤にして、間髪入れずカルフは志願した。その尻尾があったら全力で左右に振っているだろう姿に、周囲で眺めていた偵察隊員たちが爆笑する。
 ケーオワラートも、笑いを堪えながらしかつめらしく許しを与えた。見かけより面白みの有る御仁だな、と柘植は思った。



 90式戦車のエンジンが出力を上げる。大きな音と共に、一際濃い排気煙が吹き出した。周囲で眺めていた衛士たちがとっさに身構える。一人は手を腰の曲刀に伸ばした。彼らには目の前の戦車が眠りから目覚めた魔獣に見えているのかもしれない。
 ごろりと起動輪が回る。履帯が軋む金属音が鳴った。50トンの車体が、じわりと前に進む。最初はゆっくりだった速度は、村上三曹の慎重な操縦を受け、徐々に力強さを増していった。
「う、動きよった」
「おお、タィヤーグ・ノ・リヴスの護り在れ」
 衛士たちの驚く声はたちまち後方に流れていった。履帯がマルノーヴの大地に爪を立て、泥を跳ね上げた。地面の凹凸をものともせず、90式戦車が前進する。
 柘植は車長席のケーオワラートを見た。その顔は、さすがに驚きを隠さない。
「真に動いておるな、このような重く大きな車が。信じられんが、我が身は確かに此処にある」
 カルフはといえば言葉も無いようだ。口をぽかんと開いて、あちこちを見回していた。
「操縦手、前方1000のボサを回って戻る」
『了解』


「ツゲ殿、これが『戦車』か。凄まじきものであるな」
 ケーオワラートは感に堪えないという様子だ。身に纏う長衣が合成風にたなびいている。
「まるで鉄の竜だ。かくも巨大な代物をこのような速さで走らせるその魔術、我には想像もつかん。貴殿の国は余程魔導が進んでおるのだな」
「はい」柘植は素直に頷いた。ニヤリと笑う。
「ケーオワラート団長殿。この戦車は今の3倍速く走れますよ」
「何!? 3倍だと? 軽騎兵並みではないか……うむぅ、この巨体が騎馬並みの速度で迫れば、重装歩兵の戦列など薄絹よりも容易く破られよう」
 90式戦車は時速約20キロで丘を下る。低木の茂みを履帯が噛み砕く。大きな窪みもものともしない。柘植はサービスとばかりに砲塔を左右に旋回させた。
「いかがですか?」柘植が尋ねた。
 キューポラの縁に手をかけ彫像のように微動だにしなかったケーオワラートは、前を見つめたまま答えた。
「この眺め、まるで我が身が巨竜になったかと思うほどだ。ツゲ殿、一つ伺いたいのだが、貴国にこの『戦車』はどれほどあるのか?」
「我が国全体では、およそ数百」柘植は曖昧に答えた。
「数百! この鉄竜が数百か?」
「ええ、私の中隊には18両あります」
「そうか……」
 ケーオワラートは黙り込んだ。下を向き肩を震わせている。柘植はその態度を訝しんだ。
「……フフ」
「ケーオワラート団長殿?」
「むはははははははははははッ!」
 突然ケーオワラートは大声で笑い出した。愉快で仕方がないかのようだった。
「うわはははははははははははッ! ツゲ殿よ。貴殿の国は何ということを考えるのだ。鉄の竜が地を駆け、あらゆるものを薙ぎ倒す。それが数百頭だと? 
 見よカルフ、この景色を。帝國の重装歩兵も、重騎兵も、魔術士の放つ雷や火球でさえもものの数では無いぞ。学べよ! うわはははははははははははッ!」

 戦車の威力を少しは分かってもらえたようだ。この時柘植はそう思った。直後に車体が岩に乗り上げ小さく跳ねたため、そちらに気を取られた柘植は、ケーオワラートが碧空を見上げ、静かにつぶやいたことに気付かなかった。

「あの時、この『戦車』が我らにあれば……」
 ケーオワラートの顔は、寂寥感と自責に暗く沈んでいた。一人、カルフだけが気遣うように彼を見つめていた。

 硬質な音を内包した轟音が、見る者の耳朶を激しく打った。一拍遅れて生暖かい空気と共に、衝撃波が眼球を歪ませる。初めて見る戦車砲の射撃は、彼らの目を眩ませるのに充分な威力を持っていた。
 90式戦車から放たれた120㎜多目的対戦車榴弾は、標的とされた1500メートル先の廃馬車を容易く貫通し、背後にあるバックストップ代わりの丘で炸裂した。轟音と共に土砂が噴き上げられる。
 土煙が晴れると、廃馬車はバラバラに砕けていた。

「おおおおお、なんたる威力!」
「こ、腰が抜けた。何ちゅう音だ」
 すでに衛士たちは戦車の威力に心を奪われていた。団長を乗せ軍馬より速く駆ける90式戦車の姿は、彼らに衝撃以上の何かをもたらしていたのだった。
 そして、射撃訓練が始まった。
 ある者は轟音に腰を抜かし、ある者はその威力に目を見張った。ケーオワラートですら、二、三度頭を振り「信じられん」と呟いたほどだった。カルフに至っては、惚けたような顔で地面に座り込んでしまっていた。

 衛士たちは喜び、口々に戦車を讃えた。乗員たちも愛車を褒められ嬉しくない筈がない。すぐに両者は打ち解け、飯を食いながらの交流が始まった。

「おーい、カルフ君」根来二曹がカルフを呼んだ。
 カルフは、車体側面のスカートをのぞき込むのを止め、振り返った。
「何でしょうか?」
「君、戦車は好きかい?」
「はい! 今日一日でとても好きになりました。どれだけ見ていても飽きません」
 子供らしい素直な答えに、根来は笑顔を浮かべ、雑嚢から何かを取り出した。インスタントカメラだ。

「じゃあ、良い物をあげよう。ちょっと戦車の前に立ちなさい」
「? こうですか?」カルフは小首を傾げつつもちょこんと戦車の前に立った。
「皆さんも写真、いかがです?」
「何だそれは? 写し身?……いや、遠慮する」
 根来の誘いは、腕組みした衛士たちに断られてしまった。カルフもやや恐ろしいようだ。根来はカメラを構えた。
「じゃあ、撮るぞ。ほらもっと笑えよ。そうそう──チーズ」
 カシャリ。
 チープな音がして、小さな写真が繰り出された。根来は指で摘まんだそれをパタパタと振りながら、カルフの所に歩く。

「根来さん、何でそんなものを?」村上が尋ねた。
「同期に聞いたんだ。海外でモテるにはコイツがいいんだと──ほい」
 根来から写真を受け取ったカルフは、怪訝な顔をして彼を見上げた。
「黒い紙? 何ですかこれは?」
「いいからいいから。暫く眺めてごらん」
「は、はぁ」
 すると、暫くして徐々に画が浮かび上がってきた。90式の隣で、固い笑顔を見せる少年の姿。カルフはそれに気付くと震える手で写真を持ち、もう一度根来を見上げた。
「こ、これは私ですよね!? ネゴロさまは魔術士だったのですか? 凄い! 私が『戦車』と写っている」
「あげるよ」
「え?」
「君にあげる。記念になるだろ?」
 固まった。数秒間の後、根来二曹の言葉が彼の脳細胞に浸透しきると、カルフは華のような笑顔を満面に浮かべ、飛び上がって喜んだ。
「ありがとうございます! 凄い凄い! 家宝にしよう! 見てくださいジュンジーヤさま。これ私なんですよー」
「ほ、ほう。これは……」

 遠巻きにしていた衛士たちも、写真を覗き込んで驚きの表情を浮かべた。根来は満足気にその様子をみている。村上が言った。
「凄い威力っすね」
「だろう? ここまで喜ばれるとは思わなかったけどな」
「魔術士扱いですよ? 見てくださいカルフ君尊敬の眼差しでこっちを見てます。今度貸してください」
「ナンパに使う気だろ」

 カルフはクルクルと回りながらいつまでも喜んでいる。根来がそんな姿を眺めていると、ふと90式の前に三人の人影が立ったのに気付いた。
 衛士たちであった。何かを訴える目つきでこちらをじっと見ている。ヒゲ面の三人が黙って立っている姿に、根来は気圧された。だが、衛士たちは何も言わない。
「……えっと」
 堅太りの衛士が左手を曲刀に添え、右手を腰に当てて立っている。
「……その」
 細身の衛士は両腕を組み胸を張っている。
「もしかして」
 ジュンジーヤと呼ばれた中年の衛士は、口ひげを撫でつけ、90式の車体に肘を置き、片手を顎に添えた。
「……撮ってほしい、とか?」

 こくり。

 三人の衛士は揃って恥ずかしそうに頷いた。

「パラン・カラヤ衛士団というのは、つまり『パラン王国衛士団』なのですよね。王国はどの辺りにあるのですか?」
 柘植は、大騒ぎする部下たちを眺めながら、ケーオワラートに聞いた。ケーオワラートは少し逡巡する素振りを見せた。やがてゆっくりと話し出した。
「その通り。我らはパラン王国近衛衛士団であった。王国はブンガ・マス・リマより遥か南方にある豊かな島国、であったよ」
「であった?」


「王国は滅びたのだ」


「! それは……」柘植は絶句した。ケーオワラートは苦い笑顔を浮かべ静かに言った。
「良いのだ。今より十年前、聡明なるカラ・マレファ陛下の元、王国は平和に栄えていた」
 そこで、ケーオワラートは小刻みに震えだした。気が付けば額にびっしりと脂汗を浮かべている。
「だが、あの日。あの忌まわしい『ものども』が、冥い海より王国を襲った。我らは何も出来なかったよ。国と国王陛下をおめおめと喪った我らは、辛うじて大陸までたどり着いた。思えば何故生き延びてしまったのか……」
「……」
「生き恥を晒した我らは、屍に等しかった。だが、そんな我らを救って下さったのが、先代のブンガ・マス・リマ参事会議長閣下だ。彼は我らを励まし、叱咤し、目的を与えてくれた」
 ケーオワラートの瞳に力が戻る。彼は柘植の目を真っ直ぐ見つめて言った。
「ツゲ殿、貴殿の軍は臣民を護るためにあるのであったな?」
「はい。我々自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国民の生命と財産を守る為に存在しています」
 柘植が答えると、ケーオワラートは大きく頷いた。
「我らも同じだ。我らは恩に報いる為にも、身命を賭してブンガ・マス・リマを護る」
 ケーオワラートのゴツゴツした両手が柘植の両肩に置かれた。
「貴殿の軍は強い。だが心せよ。喪うは容易く、護るは難い。ひとたび喪えば取り返しはつかぬ。貴殿にはそのような思いをして欲しくないでな。努々油断は禁物ぞ」


「義勇軍が北へ向かうぞ!」
 誰かが叫んだ。その声に導かれ街道に目をやると、そこには北へ向けて進軍を開始した、ブンガ・マス・リマ市義勇軍の姿がある。兵の隊列と荷馬車が長蛇の列を組んでいた。
 側面を守るべく、馬に乗った冒険者たちがパーティー単位で左右を固めている。彼らは手を振る自衛官たちに応え、手にした得物を振りかざすと、北へ向けて歩みを進めていった。

「彼らは勝てますかね」
 柘植がふと漏らした言葉に、ケーオワラートが返した言葉は、微かに震えているようだった。


「──勝つ。彼らは勝たねばならんのだ」



揚陸から6日目
街道上 ブンガ・マス・リマ北方20キロ
2013年 1月3日 9時17分

 南瞑同盟会議野戦軍敗北。この知らせは伝令・撤退してきた敗残兵・交易商人などにより3日後の12月27日頃には詳報が伝えられ、同盟会議首脳部を狼狽させることとなった。
 自信を持って送り出した野戦軍約一万が、いとも簡単に打ち破られたのである。交易商人の情報網や、リユセ樹冠国西の一統による諜報活動により帝國南方征討領軍の兵力をある程度正確に把握していたからこそ、敗北は彼らに大きな衝撃をもたらした。

 帝國南方征討領軍先遣兵団の27日時点の兵力は以下の通りである。

 本営警護隊  騎士・正規兵504名

 コボルト斥候兵 約400名
 ゴブリン軽装兵 約1500名
 オーク重装歩兵 約500名

 諸都市徴用兵 約2000名

 総勢 約5000名

 この中で、よく訓練された騎士団や都市自警軍と正面から交戦可能なのは、本営警護隊とオーク重装歩兵を合わせた約千名程度。残りは非力な妖魔か素人の寄せ集めである。「勝てる」そう同盟会議首脳部が信じていたのも無理はない。
 だが、真の主力は別に存在した。南方征討領軍が誇る異能兵団である。

  • 帝國南方征討領軍飛行騎兵団 
 翼龍騎兵21騎
 『魔獣遣い』9名
 有翼蛇52頭

  • 帝國南方征討領軍魔獣兵団 
 約100名(『魔獣遣い』を含む)
 人喰鬼、ヘルハウンド、剣歯虎等多数


 数の上ではごく少数の彼らが、戦場で決定的な役割を果たした。


 同盟会議野戦軍を打ち破った帝國軍は、ゴブリン兵による小規模な部隊を多数編成し南へ放っていた。ゴブリン達は「逃げれば死罪。あとは好きにやれ」と命じられている。ゴブリン兵は街道沿いの町や河畔の村を襲撃しながら南へと進んだ。
 一部隊の兵力はゴブリン数十匹程度。同盟側の守備隊に遭遇すればあっさりと壊滅した。使い捨てである。しかし、守りの無い村や運悪く出くわした隊商は、ゴブリン兵により大きな被害を受けた。

 大急ぎで義勇軍を編成していた南瞑同盟会議の下に、マワーレド川流域のあちこちから悲鳴のような救援要請が殺到した。
 『レノの村がゴブリンに焼き討ちにあった。討伐隊を要請する』
 『タルワ商会の隊商が行方不明』
 『そこら中ゴブリンだらけだ。危なくて森に入れない』

 帝國軍のやり方は、戦術の常道からは大きく外れていた。だが、被害は絶えない。早く手を打たねば諸勢力が離反しかねなかった。危機感を露わにした首脳部は、編成完結を待たず軍を北に進発させた。
 野戦軍敗北の原因すら、はっきりしない段階での第二陣の出撃である。



森は兵を飲む。


 同盟会議義勇軍を率いる冒険商人上がりの将軍、テラン・バンジェルマはそのことをよく理解していた。
 ゴブリンの浸透を受けた同盟会議軍が取り得る手段は、守るべき拠点に僅かずつの兵力を配置しつつ、敵主力を捕捉し撃破することであった。ゴブリンの掃討には、兵が足りない。森に兵を分散投入しては、帝國の思う壷だった。

「さて。命からがら逃げてきたばかりの兵隊と、『進め』と『止まれ』しかまだ出来ねぇ民兵連中で、どうやって戦うべいかな、こりゃ」 
 諧謔味を感じさせる声で、バンジェルマがぼやく。シワの一つ一つに幾多の修羅場をくぐった経験を刻み込んだ隊商上がりのこの漢は、寄せ集めの義勇軍を率いる将軍として馬上の人となっていた。
 頬に走る十文字傷は、率いていた隊商が凶暴なリザードマンに襲われた時の傷である。彼は四方から迫る妖魔の群れを、ただの商人と人足たちを指揮して撃退した経験を持つ。

「敵も似たようなものと聞きますぞ」
 都市自警軍の百人隊長が、力づけるように言った。バンジェルマは噛んでいた煙草を道端に吐いた。
「確かに。んだが、なら何で精鋭揃いの野戦軍が負けたんよ? おかしかろ? 兵どもの言うには『ヘルハウンド』だの『翼龍』だのがおったらしいが」
「最近では、ブンガ・マス・リマ周辺にまで翼龍が出没しておりますからな」
 バンジェルマは空を見上げた。街道の左右からは森の木々がせり出していて、青空は隙間から僅かに見える程度だった。

「翼龍はやっかいよな。……あぁ、あの異世界から来たとかいう連中、〈ニホン〉とか言ったか? あれらの助勢があればなぁ」
「無い物ねだりをしても仕方ありますまい。我らとて無策ではありませんぞ」

 野戦軍本陣の壊滅により、どう負けたのかは依然不明である。ただ、魔獣に攻撃されたことは断片的に伝わっていた。
 「敵に魔獣あり」これを受けてバンジェルマは、義勇軍の要請に応じた冒険者たちを軍主力の左右に配置、森からの奇襲に備えさせた。彼らは元々魔獣退治のプロである。パーティー編成された冒険者は、小規模遭遇戦に絶大な威力を発揮した。
 すでにゴブリンとコボルトの小部隊を数個、捕捉殲滅している。


 その時、前方から一騎の伝令が行軍中の本陣に駆け込んできた。馬体にぐったりと身体を預け、息も絶え絶えである。よく見れば、矢傷を受けている。
「何事か!」
「伝令! アスース近郊に帝國軍出現! その数、千名余。軍装から降伏した諸都市徴用兵と思われます。……至急、救援を」

 諸都市徴用兵、その言葉に本陣の将兵は息を呑んだ。強いからではない。略奪暴行を欲しいままにするその暴虐ぶりが、すでに知れ渡っていたからであった。
 放置すれば、アスースは滅ぶ。

「相判った。貴殿は休まれよ」
 バンジェルマの言葉に安心したのか伝令は馬から崩れ落ちた。泡を吹いて痙攣する伝令を、慌てて兵が駆け寄り担ぎ出した。

 これ見よがしに出現した徴用兵。近郊には野戦に適した平野部が存在している。

「……罠だな」
 バンジェルマはあごひげをさすりながら、つぶやいた。
「だが、仕方ねえ。戦うべい」

 南瞑同盟会議義勇軍本陣から、行軍中の諸隊に向けて、一斉に伝令が飛んだ。



ブンガ・マス・リマ北方 アスース近郊
2013年 1月3日 14時23分

 交易都市ブンガ・マス・リマから北へ20キロ。この辺りまでくると、貪欲な都市の活動よりも大自然の地力が優る。
 蛇行するマワーレド川の両岸には濃密な熱帯雨林が繁り、地表を覆っている。ブンガ・マス・リマを発した大街道はマワーレド川に沿い、森を縫うように地を這っていた。街道に寄り添うように所々森が拓け、そこには大小の集落と、そこに住む人々が開墾した水田が並んでいた。
 それら人の営みは、まるで緑色の絨毯に描かれた、艶やかな紋様のように見えた。

 だか今、その美しい絨毯の紋様は、タバコの火で焦がしたかのような有り様を晒していた。


 街道沿いの町アスース、その周囲に広がる水田と畑のあちらこちらには、何かが燃えた痕が黒く点在し、今なお焦げ臭い煙を立ち上らせている。 
 燃えているのは荷馬車、駄馬、そして人であった。その周囲には、踏み荒らされた水田の上に、赤黒い内臓を晒したかつては人間だったものが散乱している。
 気温の上昇によって、それらは自然の理に従い腐乱し始めていた。

 川沿いには、ボロボロになった男たちがひざまずいていた。彼らの服装はまちまちで、鎧を着けている者、着けていない者、まともな着衣すら無い者すら存在したが、絶望に満ちた顔だけは同じだった。揃って青白く表情を喪っている。
 彼らの背後には、剣や槍、戦斧を構えた兵士や妖魔が並んでいる。
 指揮官の命令で、ひざまずいていた男たちに刃が振り下ろされ、槍が延髄を貫いた。唸りをあげた戦斧によって首が断ち切られ宙に舞う。
 死体は川に蹴り込まれ、無数に浮かぶ先客たちに混ざって下流へと流れていった。


「サヴェリューハ閣下、敵前逃亡者38名の処刑つつがなく執り行いました」
「見ていましたよ。……彼らの係累について調べはついていますね?」
 部下の報告に対し、帝國南方征討領軍先遣兵団主将、レナト・サヴェリューハは美しい顔を上気させ、うっとりとした口調で尋ねた。漆黒の薄金鎧のあちこちに血糊が付着している。戦場の興奮醒めやらぬ様子であった。
「は、親兄弟親類縁者に至るまで」
「では、処分しなさい。怖じ気づいた者の末路がどれだけのものか、この南蛮の地の無知蒙昧な方々に広く知っていただきましょう」
「御意」

 副官の合図で、翼龍に跨がった操獣士が空へ舞い上がった。龍騎兵がもたらす知らせは、帝國軍の支配下にある諸都市に少なからぬ死をもたらすだろう。


 南瞑同盟会議の北辺防備城塞「双頭の龍」を陥落させ、その全てを戮殺した帝國南方征討領軍先遣兵団は、驚くべき速さで同盟会議諸国を侵略していった。
 彼らの流儀は明確であった。

「逆らう者には死を」

 帝國は「双頭の龍」の惨劇に震え上がり、早々に降伏した都市に対しては寛大とも言える態度を示した。即ち、支配下に置き、物資と徴用兵を供出させるに留めたのである。
 しかし、僅かでも──それこそコボルト斥候兵一匹を殺しただけでも──抵抗を見せた者に対しては、苛烈な仕置きでこれに応えた。
 さらに巧妙なことに、帝國軍は同盟会議諸勢力が抱える反目を巧みに利用し、互いを監視させ、競って協力させるように仕向けた。
 徴用兵の背後には、対立勢力による督戦隊を配置し追い立てさせた。彼らはやがて帝國軍よりも背後の督戦隊を憎むようになった。


 戦場跡では、徴用兵たちが死体から金目の物を漁っている。また、林の影からは悲鳴と下卑た歓声が聞こえてくる。悲鳴の主は義勇軍に志願した冒険者に少なからず含まれていた女たちだろう。何が行われているのかは想像に難くない。

「『戦利品』の回収については、あと半刻許します。進発前には、余剰分や『使い終わった』ものについては処分するように」
 サヴェリューハは嘲りと満足を細面に浮かべた。それらが何に対して向けられているのか、副官には分からなかった。もしかしたらサヴェリューハは、呆気なく敗北した敵の無能を嘲り、本能に忠実な徴用兵たちに対しては、心の底から満足しているのかもしれない。
 彼にはそのような一面があった。

「同盟会議軍は、都市自衛軍残余千名にギルドが募った義勇兵──これは主に冒険者と呼ばれる者たちですが、これが約三百。さらに市民兵二千の総勢約三千三百程度でありました」


 副官は手元の羊皮紙に記録した戦闘詳報を見ながら、報告している。かき集められた同盟会議軍に対し、帝國軍は約千五百名の徴用兵を差し向けた。
「徴用兵の損耗は約五百名。ただし、増援により戦力は回復しています」

 損耗率三割。恐るべき死傷率であった。背後から追い立てられ、逃亡者には本人のみならず親兄弟に至るまで死が待っている。そんな過酷な立場の男たちに対して、帝國は対価を与えた。
 敵対者に対する暴行略奪の「明確な」許可である。小は敵兵の死骸から金品を奪うことから、大は指揮官に対して、制圧した村を下賜することまで。徴用兵は奪うことを許された。

 死への恐怖と戦利品の誘惑。相反する飴と鞭が、彼らを急速に血に飢えた兵士へと変えていった。前進か死か、と問われれば前へ進むしかない。
 帝國はその苛烈な公平さとでも表現すべき態度をもって、南瞑同盟会議の版図を切り裂いて行ったのだった。

 「敵将の首は確認しました。本陣を壊滅させ、混乱した敵軍の六割は包囲殲滅に成功しています。残余もゴブリン兵に追撃させています。あと二割は捕捉出来るでしょう」

 サヴェリューハたちの周囲は、黒い甲冑を纏った帝國南方征討領軍正規兵が隙なく固めている。その前方には、水田地帯に南瞑同盟会議軍が骸を晒している。死体の群れは街道上に延々と南へ続いていた。
 サヴェリューハはにこやかに言った。

 「我らの戦術に、敵は対応出来ないようですねぇ」

 この世界における軍の戦術は、その地域によって大きく異なっている。それは兵の種族や魔法の存在などの戦力倍化要素が勢力によって様々であることが影響していた。
 とはいえ、刀剣類による近接戦闘が中心である以上大まかな型は存在する。たいていの場合戦争は野戦において会戦の形をとり、短期間で決していた。これは、未発達の兵站が野戦軍の長期間に渡る行動を支えられないことに起因する。

 結果、短期決戦を必要とする両者は、陣形を組んだ軍勢を対峙させ、激突することになった。

 通常主力となる重装備の歩兵は戦列を組む。がっちりとした陣形を組んだ歩兵の群れだけが、最終的な勝利を掴むことが出来るからだ。
 主力歩兵の前面には軽装備の前衛部隊が配置され、主に弓矢や攻撃魔法で敵を攻撃する。また、主力歩兵の後方に長射程のバリスタやロングボウ部隊、魔導部隊が配置されることもある。
 歩兵は味方の火力支援の下で敵の投射武器に打ち減らされながら前進する(運が良ければ味方のカウンターマジックや矢除けが得られるかもしれない)。そのうち両軍は接触し削り合いを始める。
 戦闘はどちらかの陣形が維持できなくなったところで決する。陣形を組んだ歩兵は、一般的に驚くほど粘り強く戦うことができた。自分の隣に仲間がいることで、彼らは個人でいるときとは比べものにならない程の勇気を発揮した。
 言い換えれば、陣形を崩された側が敗北する。攻撃側は側背を突かんと騎兵を旋回させ、防御側は予備隊をもって戦線の綻びを塞ぎ、陣形の両翼を延ばした。

 側背──陣形の横や背後から攻撃されることが何故致命的なのかは、ラグビーのスクラム中に数名の重量級フォワードが横から突っ込んできたらどうなるかを想像してもらえば理解できるだろう。

 この世界における指揮官──騎士団長、将軍、軍長、族長、その他様々な呼び名で称される者たちは、基本的にはいかに自軍の戦列を維持し、また敵の戦列を崩すかにその能力を傾注すれば良かった。
 ごく稀に、国家級の魔導師による戦域魔法や、英雄と呼ばれる存在による一撃が戦争の勝敗をひっくり返すことがあったが、それは例外に過ぎない。


 再編成った南瞑同盟会議義勇軍も、その常識に従い動いていた。
 アスース近郊の平地で対峙した両軍は、互いに素人であった。市民兵も徴用兵も前進か後退しか出来ない。一度戦端を開けば、どちらかが崩れるまで戦うしか無い。
 同盟会議義勇軍指揮官のバンジェルマ将軍は、現れた徴用兵を囮と看破しつつも、これを撃破する以外に取り得る方策は無かった。
 同盟会議義勇軍は、市民兵隊を正面からぶつけ帝國軍を拘束、立て続けに都市自警軍を側面から突入させ、一気呵成に打ち破ることを目論んだ。冒険者たちは、軍の側面を守っている。

 だが、帝國軍はそれを許さなかった。龍騎兵に帯同した『魔獣遣い』による有翼蛇の集中運用──30匹以上の蛇が未だ行軍隊形の義勇軍本陣を空から奇襲すると共に、やはり集中運用された大型魔獣の群れが側衛の冒険者たちを食い破り、同盟会議義勇軍を大混乱に陥れた。

 バンジェルマは混乱の中戦死。統制を失った義勇軍は、包囲殲滅された。同盟会議は、全く同じ戦術に軍を打ち破られたことになる。
 情報は存在した。しかし、それを戦訓として取り入れる暇も能力も無かった。都市商業同盟としての性格が強い、彼らの軍事的限界だった。


 焦げた臭いに混ざって甘い腐敗臭が漂い始めた戦場で、サヴェリューハは副官が淡々と報告する言葉を聞いていた。彼の意識は、すでに次の戦場に向いている。
「飛行騎兵団は現有兵力、翼龍騎兵21騎。ワイアーム52頭であります」
 サヴェリューハの流麗な眉がぴくりと動いた。半眼を副官に向ける。
「翼龍が1騎、ワイアームが3頭足りませんね。墜とされましたか? 損害が出たとは聞いていませんが」
「……あ、はッ! その、今回の損害ではありません」
 たちまち副官は棒を呑み込んだかのような態度になった。顔面は蒼白になっている。
「では?」サヴェリューハの声が一段低くなった。副官は脂汗を流しながら釈明した。

「翼龍騎兵1騎とワイアーム3頭、随伴した『魔獣遣い』は、先月半ばから未帰還となっているものです。閣下のお耳に入れるほどではないと……」
「私の軍において、飛行騎兵団と魔獣兵団は要。それに損害が出たのに重要ではないと?」
 副官は首筋に刃を当てられているような気配に震え上がった。いや、気配ではない。彼の首は、目の前の優男の腕が一閃すれば落ちるのだ。
「そ、その。恐らくは敵の魔術士に墜とされたものと推測されます」
 副官は、しどろもどろになりながら弁明した。だが、サヴェリューハの表情はさらに冷たくなっていった。
「貴方の推測など要りません。確かな情報を集めなさい。それとも貴方──戦場の勘を取り戻す必要がありますか? 望むなら徴用兵の一隊を預けますよ?」
 最前線に立つ徴用兵の指揮官の生存率は五割を切る。冗談では無かった。副官は必死にすがった。
「いえ! ただちに情報を集めます。あらゆる手段を用いて。全力で」
「励みなさい」

 副官は虎口から逃れるかのように、猛烈な勢いで部下の元へと駆け出した。サヴェリューハはすぐに彼に対する興味を失った。爪を噛む。

(気に入りませんね。翼龍と有翼蛇を容易く墜とす程の敵が今の同盟会議にいるとは思えません)
 少なくとも、有翼蛇がやられた時点で、翼龍騎兵は戦場を離脱するはずである。それが揃って未帰還。サヴェリューハはそこに不穏なものを感じ取った。

「ブンガ・マス・リマに行けば、分かりますかねぇ」
 あと僅か20キロ南下すれば、そこは敵の本拠地である。サヴェリューハは新たな殺戮の予感に背筋を震わせた。



ブンガ・マス・リマ大商議堂
2013年 1月3日 夕刻


 柔らかな精霊光とランプの光に照らされた豪奢な会議室は、重苦しい沈黙に支配されていた。中央の円卓には、彫像のように動かない男女が力無く席に着いている。

 敗報は、泥まみれの兵士によってもたらされた。

 義勇軍後衛に所属していたその兵士は、顔を鼻水と涙と泥でぐしゃぐしゃにしたまま、息も絶え絶えに市域を護る衛士に告げた。
「義勇軍は全滅だ! 帝國がくるぞッ!」
 幸いにも、知らせは市民に広まる前に衛士団の所で留め置かれた。急報を受けて集まった同盟会議と商都の重鎮たちは、余りの事態に言葉を失っていた。

「おしまいだ」頭を抱えたままだった参事の一人が嘆いた。
「何を言うか!」
 水軍提督アイディン・カサードが吠えた。だが、賛同の声は無い。カサードの叫びは高い天井に吸い込まれるかのように消えた。
「ようやく編成した義勇軍が全滅したんだぞ。なけなしの軍だったんだ。もはやこの都市を護る者はいないんだ」
 見苦しく取り乱す参事だったが、その言葉は事実でもあった。
「こうも容易く全滅するとは……手練れの冒険者たちもいたというのに」
 ギルド長ヘクター・アシュクロフトが声を震わせた。年齢は五十を数えているが、鋼を寄り合わせたような肉体に衰えを見つけることは出来ない。かつて『狂える神々の座』最深部から生還したこともある、生粋の戦士だ。
 その彼の息子も軍に加わっていた。円卓に置かれた両手は小刻みに痙攣している。気付く者はいない。
「と、とにかく今後の対策を立てねば」
 ロンゴ・ロンゴの言葉が虚ろに響く。

「市の残存兵力は?」
「我がパラン・カラヤ衛士団が二百、市警備隊が三百、撤退してくる残兵から五百は編成出来ようか……あとは市民から募るしかあるまい」
「て、敵は?」
「恐らくは五千以上。一万の我が野戦軍を破り、また義勇軍三千を殲滅した恐るべき敵である」
 衛士団長のケーオワラートが重々しく言った。絶望的な戦力差だった。
「駄目だ。やはりおしまいだ!」
「ええい、いざとなれば儂のガレーから船手を全部陸に揚げるわ! それで五百はまかなえよう」
「水夫が陸に揚がって何ができる!」
「何をッ!」

「やめなさい」
 議長席から制止の声が放たれた。柔らかな声色だ。だが、有無を言わせぬ迫力があった。海千山千の商人と、歴戦の海将を一言で黙らせるのだから並みではない。
 声の主はマーイ・ソークーン。参事会議長である。
「それだけ声が張れるならば、街へ出て兵を集めなさい。今は仲間内で言い争う時では無いでしょう」
「……確かに」
「すみませんソークーン議長」
 諭すような口振りで言い争う二人を収めたソークーンは、しがないエビ漁師の息子から議長まで上り詰めた立志伝中の人物である。昔は美男子でならした彼だが、今は立場に相応しい貫禄を備えている。
 その外見と鷹揚とした態度からは、かつて冒険商人として西方諸侯領の御用商人たちと争い、彼らから『颱風』の名で怖れられた漢とは思えない。
 ソークーンは、リルッカに水を向けた。
「リユセ樹冠国はどうしていますか?」
「はい……情勢は樹冠長の耳に入っています。いくらかの戦士は出せますが、戦況を覆す程では……」リルッカはそう言って視線を円卓に落とした。
 リユセの妖精族は一人一人が優秀な精霊魔法の遣い手であり、弓手の上手であった。その妖精族の力をもってしても戦況は好転しないという。議場に再度重い空気が満ちた。
 別の参事が、すがるように言った。
「そうだ! 〈ニホン〉の助けを借りるべきだ! あの不可思議な力を持つ軍ならば、帝國に対抗出来はしないだろうか?」
「それはよい考えだ! あの有翼蛇を倒したのだ。その力を帝國にぶつければ!」
「すぐに〈ニホン〉の代表に使いを──」

「無駄です」

 ロンゴ・ロンゴが断ち切るように言った。普段の彼からは予想出来ない程、冷徹な響きだった。周囲が一様に黙り込む。問うような視線が集まったのを感じたロンゴは、重い口を開いた。

「すでに〈ニホン〉軍の指揮官の元へ出向いて、助勢を申し出ました。ですが断られました」
「な、なぜだ!? 帝國は〈ニホン〉にとっても敵であろう」
「私もそう言いました。ですがミヨシという名の指揮官は『我々が攻撃を受けない限り、こちらから手を出すことは禁じられている』と言うばかりで、全く通じませんでした」
 ロンゴは落胆を隠そうともしない。周囲の参事たちからも失望のため息が漏れた。その中で最も衝撃を受けた顔をしている男がいた。ケーオワラートである。彼は拳を握り締め、首を振った。
「ロンゴ総主計、それは真か? 〈ニホン〉軍はすでに帝國の有翼蛇を墜としているではないか」
「ええ、私にも彼らの考えはさっぱり分かりません。ですが事実です」
「何かの間違いであろう。確かめて参る!」
 ケーオワラートはそう言うと勢いよく立ち上がり、議場を飛び出していった。


 呆気にとられた一同であったが、事態は惚けていようが居まいが変わらない。
「早晩市民にも敗報は伝わろう。治安が心配だ」
「治安だと? 我らはすでに敵対したのだぞ。帝國軍が市を陥とせば縊り殺されようぞ」
「すぐに防備を固めて……」
「いや、いっそ大陸から退くべきかも」
「馬鹿な。財物は容易くは動かせんぞ。無一文でやり直せというのか?」
 参事たちは、てんで勝手に喋り始めていた。一人が気付いた。
「そういえば、何人か姿が見えないな」
「……言われてみれば」


「逃げ出したよ」
 揶揄するように言ったのは、痩せぎすの男だ。職工組合の長を勤める彼は薄笑いを浮かべ続けた。
「商館長たちは流石に目敏いね。敗報が入った途端、大急ぎで逃げ支度だ。恐れ入る」
 組合長は「俺たちは街を捨てられん。あんたらは好きにしたらいいさ」と吐き捨てると、天井を見上げ黙り込んだ。
 何人かの参事や団体代表が慌てて議場を後にした。櫛の歯が抜けたような有り様の円卓では、さして効果の無さそうな対応策が話し合われている。

 商都内の複雑な利害関係を捌き、他国商人たちを巧みに出し抜いて、ひたすら街を大きくしてきた参事会だが、眼前に迫る帝國軍に対しては何ら有効な手を打てず、ただ呆然と立ち尽くすのみだった。



ブンガ・マス・リマ北東5㎞ 前方監視哨
2013年 1月3日 18時27分

 柘植は街道をこちらに向けて進むケーオワラートを見つけた。かなりの勢いで馬を駆っている。何か急報だろうか。そう思った彼は作業の手を止め、立ち上がった。
 彼の率いる戦車小隊は、緊迫する情勢を受けその全車両を前方監視哨に配置している。ちょうど施設隊から借りた小型ショベルドーザで予備の戦車用掩体を掘り終えたところだった。
「ずいぶん急いでいますね。まさか、戦況に動きが?」
 砲手の根来二曹が迷彩服の泥を払いながら言った。南瞑同盟会議側が敗北を重ねていることは、すでに陸自側も把握している。無人偵察機からの映像には、街道に沿って延々と倒れ伏した南瞑同盟会議軍の死骸が映し出されていた。

 先遣隊本部は隷下の各隊に警戒を厳とするよう指示を出すとともに、偵察隊に対してオートバイ斥候の派出を禁じた。
 陸自は、鬱蒼と茂る熱帯林の傘に邪魔をされ、南瞑同盟会議軍を屠ったはずの帝國軍を見失っている。先の戦闘は北方わずか20キロ。どこから帝國軍が現れてもおかしくは無い。
「いや、無線は静かなままだ。第一、帝國軍が現れるなら俺たちが最初に接触するはずだ。別件だろう」
「何でしょうね?」
「分からん。まあ、ちょうど良い。小休止にしよう」
 柘植はそう言うと、ここ数日ですっかり打ち解けた異世界の武人を出迎えるため、森を出た。


 衛士団長殿はよほど急いだようだ。柘植はケーオワラートの姿に驚きを覚えた。彼が乗る葦毛の馬体はびっしりと汗をかいている。鼻息は荒い。そして、普段なら彼の後を駆けて付き従う従者のカルフの姿が見えない。
「こんにちは。ケーオワラート団長殿。何かありましたか?」
 ケーオワラートだけは、普段と変わらず鞍の上で真っ直ぐに背筋を伸ばしていた。
 いや。 
 よく見ると、ケーオワラートは尋常ではない緊張感をその顔面に漲らせていた。大きな瞳はつり上がり、口元は微かに震えている。戦の前でもこんな表情をするだろうか? 柘植は訝しんだ。

「ケーオワラート殿。もし、重要な話であれば向こうで伺いますが?」
「……いや、この場でよい」
 柘植の申し出をケーオワラートは即座に断った。重々しい動作で軍馬を降りる。彼は周囲の隊員などいないかのように、柘植を見つめていた。

「ツゲ殿。貴殿に問いたいことがある」
「何でしょうか?」

 ケーオワラートは、一言一言絞り出すように言った。常に不思議に思うことだが『通詞の指輪』は、その言葉の持つ空気さえ翻訳しているようだった。彼の言葉は重苦しい響きを纏っていた。

「昨日敗報が届いた。義勇軍が全滅した。聞いておるな?」
「……ええ、概略は」柘植は慎重に答える。

「参事会は貴国に救援を求めた。だが、貴国は断った──何故だ」

 ついに来たか。柘植は先遣隊長の三好一佐とのやりとりを思い出した。指揮官参集が命じられ集合した本部で、彼らは告げられていた。
『帝國軍と南瞑同盟会議軍の情勢は達した通りだ。だが、現状は部隊行動基準を満たしていない。各部隊は明確な敵対行為を受けるまでは、交戦を禁じる』
『しかし、帝國軍は確実にブンガ・マス・リマに来ますよ。そして、同盟会議側にろくな戦力は残っていません。我々が助けなければ……』
『南瞑同盟会議は日本国の同盟国ではない。そもそもまだ国家として承認したわけでもない。防衛出動の根拠が無い』
『でも、目の前で山ほど殺されている。そして、もうすぐもっと死にます』
『死んでいるのは我が国の国民では無い。治安出動の要件も満たさない。手出しはできん』
『じゃあ、我々は何を根拠にして、いったい何のためにここにいるんですか?』
『命令は命令だ。各隊は警戒を厳とし、攻撃を受けた場合は速やかに報告せよ。可能な限り交戦を避けよ。以上』
 参集した各指揮官は全員が納得のいかない表情を隠さなかった。三好一佐ですらそうだった。法律上、無理に無理を重ねた派遣である。彼らの立場はあいまいで、異世界の人々の扱いもまた、あいまいであった。

 普通科小隊長が柘植に言った。『まるでPKOだぜ』
 目の前で第三国同士が戦闘行為を行っていても、手出しできない。危険を回避しつつ、呼びかけるだけ。民間人が襲われていても、介入できない。幾度となく議論の俎上に上がりながら、なおざりにされてきた矛盾だ。
 柘植たちにとって最悪なことに、日本国民が回したツケの払いが今、彼らの元に回ってきたのだった。

「我々は部隊行動基準によって行動を定められています。現時点で『帝國軍』と呼称される武装集団から我々は攻撃を受けておらず、交戦は許されていません」
「……貴軍は戦えないと申すか」
「もし、攻撃を受けた場合は反撃を許可されています」
 ケーオワラートはうなった。
「すでに帝國軍の手によって多くの街が焼かれ、鬼畜の所業が行われているのだぞ。奴らは間違い無く来る。いずれは貴軍と当たるであろう。それが明らかでも今は戦わぬと言うのか?」
「……心情としては味方したいのですが」
 柘植は不条理を思い知らされながら言った。
「襲われているのは南瞑同盟会議の人々であり、我が国の法律上これを助けるための武力行使は許されていないのです」
 口を開くのが嫌になった。酷い話だ。
 ケーオワラートは、柘植の言葉に顔を歪めた。そして、一瞬目線を北へ向けた後、静かに言った。
「……ツゲ殿。我は貴軍が厳しい軍律を守り、鍛え上げられた兵たちであることを知っている。であるからこそ、国法は絶対なのであろう──それが如何なるものであれ」
 ケーオワラートはそこで言葉を切った。真っ直ぐに柘植を見る。黒々とした大きな瞳に、次第に感情が宿るのが分かった。
「だがッ!」ケーオワラートが吼えた。

「ツゲ殿。我が民の被害は是非も無きこと。我らの力が及ばぬが故に塗炭の苦しみを与えている。その責めは我らが負うべきであろう。
 だが、〈ニホン〉はすでに帝國軍の侵攻を受けたのであろう? 多くの民を殺され、街を焼かれ、千を超える民が拐かされたままなのであろう! であるのに何故だ! 何故戦えぬ?」
「それは……」
 ケーオワラートの剣幕に、周囲の隊員が一様に驚いた。ようやく彼に追いついて来た衛士団員やカルフも目を丸くしている。柘植は言葉を接げない。
「ツゲ殿は我に言ったな。〈ジエイタイ〉は日本国の平和と独立を守り、国民の生命と財産を守る。我はその言葉にいたく感服したのだ。まさに武人の本懐であると。我らと志を同じくする者たちだと──その言葉は、偽りであったのか?」
 ケーオワラートの顔は真っ赤だった。その瞳は真摯な色を浮かべ、柘植を見つめている。口ひげが震えていた。ケーオワラートは柘植の言葉を待っていた。
「……それでも」柘植は言葉を絞り出した。
「それでも我々は、命令に従わねばなりません。それが我らの義務──」
 柘植の内心は混乱していた。俺は、命令だからと思考停止しているのではないか? そんな思いが少なからず沸き起こった。だから、柘植は目を伏せた。後ろめたさを抱えたまま、ケーオワラートの視線に耐えられなかった。
「義務なのです。命令が無ければ交戦は出来ません」

 ケーオワラートの手甲がぎちりと音を立てた。
「貴殿は己を偽っている。……だが、もう良い。我は見誤っていたようだ」
 鱗鎧が金属音を立てる。彼は軍馬に跨がると、馬首を巡らせた。

「失礼する」



 その日を境に、自衛隊とパラン・カラヤ衛士団の関係は決定的に悪化した。衛士はことあるごとに自衛隊員を悪し様に罵り、それによって市民の態度も一変した。
 衛士や市民との問題が発生することが懸念された。ただ、それは杞憂に終わった。帝國軍南下による情勢の悪化から、先遣隊本部は各隊に外出禁止を指示。部隊は臨戦態勢に入ったのだった。



ブンガ・マス・リマ北東5㎞ 前哨陣地
2013年 1月6日 9時17分


 陸自偵察隊が帝國軍を再捕捉したのは、南瞑同盟会議義勇軍壊滅から3日後の午前9時を回ったころだった。
 稜線上に黒い染みが滲み出るかのように、帝國軍の姿が見えている。照りつける太陽の下で、その数は数千に達しようとしていた。くすんだ色合いの中に光るものは、全て彼らの持つ刃の煌めきだろう。

 街道を見下ろす森に布陣した陸自偵察隊指揮官柘植一尉は、念入りに偽装した小隊長車の車長席から、眼下の光景を睨んでいる。
 情勢が緊迫したことで監視哨から前哨陣地に役割を変えた森には、90式戦車4両が掩体壕に車体を沈めている。周囲には偵察隊の小銃班が展開していた。
 前哨陣地を預かる彼らの前に、味方は存在しない。マワーレド川流域に広がる草原と湿地には、今や帝國軍が満ちようとしていた。そして、彼らの後方に構築すべきはずの主抵抗陣地もまた、存在しなかった。
 偵察隊の後方は、ブンガ・マス・リマの市街地であり、小銃小隊と迫撃砲小隊が薄く展開しているだけである。彼らは部隊行動基準に縛られ、ろくに塹壕すら掘れていない。
 結局、積極的な行動に出ることは許可されなかった。各隊はそれぞれの持ち場で首をすくめながら敵を待ち受けることしか許されていない。柘植の偵察隊は市外に布陣していたため、陣地を構築することが出来た。
 幸運と考えるべきだった。柘植は部下に掩体壕の予備まで与えられたが、多くの部隊はバリケード程度しか用意出来ていないのだ。

「隊長、帝國軍が隊列を組み始めました」
 小隊班員が、双眼鏡を覗きながら報告した。柘植は右手で了解の合図を出すと、無線で本部に報告した。

「ハリマ、ハリマこちらエゾ。前方5㎞付近に帝國軍多数確認。目標連隊規模、なお増大中。交戦許可を要請する。送レ」
『エゾこちらハリマ。攻撃を受けているか? 送レ』
 先遣隊本部はすぐに返事を寄越した。無線の声はクリアだ。
「こちらエゾ。まだこちらは発見されていない。だが、帝國軍は南下している。当該勢力の脅威は増大中。発砲の許可を求む。送レ」
『交戦は許可できない。現在ブンガ・マス・リマ市警備部隊がそちらへ急行中。繰り返す。交戦は許可できない。送レ』
 予想通りの返答に、柘植は舌打ちすると叩きつけるように返答した。
「エゾ了解。現地点で待機する。終ワリ」

「クソッ!」
「隊長、ブンガ・マス・リマ市方面より接近する集団あり」
 柘植は身体をひねると、報告のあった方向に視線を向けた。蛇行するマワーレド川の流れに沿うように、道幅の広い街道があった。その路上を数百名の男たちが隊列を組んで北上していた。
「なんてこった。市警備部隊ってのはあいつらかよ……」
 眼下には、パラン・カラヤ衛士団の姿があった。鱗鎧を煌めかせ早足で北へ進んでいる。柘植は慌てて無線に叫んだ。

「ハリマこちらエゾ。市警備部隊を確認した。『パラン・カラヤ衛士団』一個中隊規模。間違い無いか? 送レ」
『こちらハリマ。間違い無い。送レ』
「敵は連隊規模だぞ。兵力差が大きすぎる」
『エゾは現地点で待機せよ。交戦は許可しない。終ワリ』
 戦車の周囲で小隊班員たちがざわめくのが分かった。「おい、あれっぽっちじゃやられちゃうぞ」柘植も同感だった。

 衛士団は約200名。ほとんどが歩兵で10騎程の騎乗士と数台の馬車を帯同していた。先頭にはよく知った顔が見えた。その指揮官が腕を高く掲げ左右に振った。
 衛士団の縦列が左右に開き始めた。
 そこは蛇行するマワーレド川と柘植たちが潜む森がある丘に挟まれ、最も平坦部が狭まる地点だった。衛士団はそこに3列の横隊を敷いた。背後に馬車を並べ、わずかな数の弓兵を置く。
 集団戦に慣れていないのだろう。その動きはどこかぎこちなく、列は一部に乱れを生じていた。
(まるで、ベニヤ板だぞ)
 彼方に迫る大軍勢に対し、衛士団の戦列はあまりにも貧弱なものだった。予備兵力は見つけられなかった。

 その時、視界の中に一台の馬車が入ってきた。馬車は土煙を立てながら丘を登っていた。間違いない。真っ直ぐに前哨陣地に向かっている。
「何のつもりだ」柘植は、入念な偽装を施した陣地の存在が暴露することを恐れた。だが、彼に馬車を止めるすべはない。彼は盛大にため息をつくと、車長席から飛び降りた。
「誰何の要なし! 俺が対応する」
 柘植を見つけたのだろう。馬車は彼の目の前に走り込んできた。幌を外した荷台には衛士が2名と、麻袋が3つ。何だろうといぶかしむ間もなく、馬車は陣前に停車した。

「我はパラン・カラヤ衛士団衛士長ガーワ・ジュンジーヤ。団長より荷を預かってまいった」
 御者台の上で細身の衛士が告げた。
「我らこれより戦に赴かん。願わくばこれなる荷を暫し預かっていただきたい」
「荷物?」柘植が質問する間もなかった。
「では、お頼み申す」
 ジュンジーヤ衛士長の合図で荷台から麻袋が地面に降ろされた。かなり大きい。
「いや、ちょっと待っていただきたい。一体何のことだか──」
「おお、帝國軍どもが迫りよる。では、これにて御免!」
 ジュンジーヤは言うだけ言うと、馬に素早く鞭を入れ猛烈な勢いで丘を下っていってしまった。

「隊長……こいつはナマモノですぜ」
 小隊班員が呆れたように言った。麻袋を見る。確かに動いていた。よく聞けばうめき声が聞こえる。
「開けてみろ」
 隊員が恐る恐る袋の口を開けると、そこからまろびでて来たのは手足を縛られた十代の少年たちであった。衛士団の従者である彼らは、袋から出るなりやかましく叫び始めた。

「団長! 僕らも戦います!」
「どうか、どうかお側に!」
「そこの異世界人。早く縄を解けェ!」

 一目見て事情は察した。同時に思う。俺たちはやつらに軽蔑されていたんじゃなかったか?
 とにかく、黙らせる必要があった。柘植は3人に優しく呼びかけた。
「まあ、落ち着きなさい」
 効果は無かった。
「あ、ツゲ様! お願いです縄を解いてください。私は団長のお側に行かねばなりません」カルフが懇願した。
「おい、早く縄を解けこの腰抜けどもが!」
「どうして、僕らを置いていくのですか! 戦えるのに!」
 他の2人も興奮したままだ。
「カルフ君。事情はよく知らないが、団長たちは君たちを死なせたくないんだと思う。だから我々に託したんだ」
「ツゲ様! 私は命など惜しくありません。栄光あるパラン・カラヤ衛士団の一員として、戦場に倒れるならこの上ない名誉! どうか私たちを団長の元へ!」
「君たちが行ってどうなる?」
「貴方も武人ならお分かりになるはず! どうかお願いです。解いて下さい!」
「カルフ! こいつらは武人じゃないんだ。無駄だよ! ちくしょうほどけよッ!」

「解くことは出来ない──おい」柘植は、小銃班員に命じた。腹が立っていた。何で死にたがる。ガキのくせに。
「どうしますか?」
「このまま、73式に放り込んでおこう。縄は解くな」
「はッ」
 柘植の命令を受けて、隊員たちは暴れる従者を抱え上げると、森の中へと運んで行った。その間も少年たちは叫び続けていた。

 柘植が街道に目をやると、馬車は戦列に組み込まれていた。衛士団は戦闘配置を完成させたらしい。柘植は、ケーオワラートの姿を探した。どんな顔をしているのか見たくなった。
 双眼鏡を構え、一番派手な男を探す。すぐに見つかった。戦列の右翼で背筋を伸ばしている。ケーオワラートはこちらを見向きもしなかった。
 ただ、部下を率いて敵を睨んでいた。その姿はまるで巌のようだった。

「何を考えているんだ? あんたは」

 帝國軍も衛士団を捕捉したようだ。行軍隊型が、アメーバが形を変えるように横に広がり始めた。鈍重な動きだが数の迫力が柘植を圧倒した。
 戦闘は2時間もすれば始まるだろう。ケーオワラートの衛士団に勝ち目は無い。
 柘植は車長席によじ登りながら、小さく罵声を漏らした。



ブンガ・マス・リマ西市街 
陸上自衛隊マルノーヴ先遣隊本部
2013年 1月6日 9時35分


 左前になった小さな商館を借り上げた先遣隊本部内は、蜂の巣をつついたような喧騒に包まれていた。本部要員が異国情緒に頬を弛ませる余裕があったのは、ごくわずかな期間だった。
 情勢は坂道を転がり落ちるように悪化し、本部要員の睡眠時間は削られ続けている。簡素ながらも歴史を感じさせた石造りの部屋は、無数のケーブルが床をのた打ち、発電機が駆動音を響かせる空間になり果てていた。

「偵察隊より帝國軍視認の情報! 市域北東5㎞付近。目標は連隊規模。偵察隊は交戦許可を要請しています!」
「交戦は不許可だ。徹底させろ」
「西市街街路上で対戦車小隊が市民に保護を求められています。市民から洋上の艦艇に収容して欲しいとの要求が殺到しているようです」
「有線通信網が使用できません。あちこちでラインが切断されています」
「この街の連中が、珍しいからって切っちまうんだ。畜生め」
「政府特使は大丈夫か?」
「現在、護衛と共に大商議堂で同盟会議側と調整中です」
「最悪、脱出も考えておくぞ。海自とチャンネルを開けておけよ」

 無線がひっきりなしに鳴り響く室内で、周辺地図を見下ろしながら、先遣隊長三好一佐は、少し前まできれいに撫でつけられていたはずの髪をかきむしった。その細面には疲労が色濃く滲んでいる。
 隷下部隊からは、ひっきりなしに「交戦許可」や「現地部隊との協同」「市街での本格的な防御陣地構築」等を求める無線が入っていた。三好はこれを全て却下している。彼にもそれを許す権限が与えられていないのだ。

「幕は何か言ってきたか?」
「いえ……こちらの具申に対しては『しばし待て』の一点張りです」
「何なんだ! 普段は『全て報告しろ。政治的な難しい判断はこちらでやる』なんて言っておきながら、肝心なときにこれか!」
 上官の癇癪に首をすくめながら、幕僚の一人がささやいた。
「どうも、本国を含めたあちら側が相当大変なことになっているようです。2日前の中東から始まって中国国内もヤバいらしいですよ」
「だからって、こっちは放置か!」
「現状では、どうにもなりません。いっそ現地判断を考慮に入れるべきでは……」

 幕僚の言葉に、三好は背筋を伸ばすとはっきりとした発音でこれを否定した。
「駄目だ! 現地部隊の独断専行は許されない」
 彼は陸自の高級幹部として、現場指揮官の独自判断についていささか教条的なスタンスを持っていた。それは、一種のトラウマのようなものかもしれない。

「とにかく、部隊の保全に全力を尽くせ。陸幕に連絡を続けろ。情報は全て私に上げろ。いいな! 勝手に撃たせるな!」
「はッ」



ブンガ・マス・リマ北東7㎞付近
帝國南方征討領軍 義勇兵団
2013年 1月6日 12時18分


 帝國南方征討領軍に所属する義勇兵団──実態は降伏した都市からの徴用兵である──カルブ自治市軍の一隊を率いるディル・マイラーヒは、苦労して部下に隊列らしいものを組み上げさせた。
 彼の部下たちは控え目に表現しても荒くれ兵士という表現が似合う男たちであり、凡そ規律というものにはそぐわなかった。彼らに隊列を組ませていたものは、「隊列を組まねば死ぬ」という経験則であった。
(俺も堕ちたものだ)
 マイラーヒは自嘲の笑みを浮かべた。彼は元々カルブ自治市の警備隊長の一人だった。しかし、自治市が帝國軍に降伏。家族を守るためには、義勇兵団に加わることしか無かった。
 帝國軍に組み込まれたあとの戦闘は苛烈を極めた。損耗前提の任務。素人ばかりの集団。督戦隊。そして、逃亡者とその一族への処分。彼を始め義勇兵団の男たちが荒むのに時間はいらなかった。
「ブンガ・マス・リマといやぁ一番の交易都市だ。お宝で溢れているぜ!」
「女だ。いい女が山ほどいる!」
「手前はそればっかりだな! ぐははは」

 部下たちは好き勝手なことを言っては、下品な笑い声を上げていた。薄汚れた装備。いい加減な手当てのせいで、誰も彼も酷い面構えだ。マイラーヒ自身も左頬に大きな刀傷ができている。

「こないだの連中は、傑作だったなぁ」
「目の前で仲間が犯られているのをみて、泣いてやがった。ありゃ最高だった」
「スカした野郎だったからな。最期はぐちゃぐちゃに切り刻んでやったけどな」
 戦利品だろうか。楽しそうに笑う男たちの腕には碧い水晶をあしらった揃いの腕輪が見える。マイラーヒは明らかな虐殺と略奪の証拠を前に、何も咎めようとはしなかった。

 帝國軍は略奪を奨励した。元は善良な男たちは死の恐怖を逃れるために、最初はオドオドと、そのうち嬉々として悪行に手を染めた。
 指揮官たちはそれを制止しなかった。暫くするとマイラーヒのような例外を除き、指揮官たちも略奪に加わった。
 まれに悪行を止めようとした者もいた。しかし、そのうちいなくなった。死んだからだ。ある者は敵に討たれ、ある者は夜が明けると宿営地で死んでいた。

 元はただの市民である。奪った貴金属を山ほどぶら下げた男は寡黙な粉挽きだったし、犯し殺した人数を誇る男は、教会の下働きだった。皆傷付き、汚泥にまみれ、獣となった。
 マイラーヒは傷だらけになってしまった自分の手を見つめた。もう、俺はこの手に我が子を抱けないな。畜生、どいつもこいつも畜生だ。
 一瞬顔を伏せ、歪める。周囲が何かにどよめいた。顔を上げると、前方に煌びやかな軍装に身を包んだ南瞑同盟会議軍が見えた。わずか数百。

 加盟都市を守れなかった同盟会議のクソ野郎どもめ。俺たちはもう地獄に堕ちた。貴様等も道連れだ。
 マイラーヒは昏い笑みを浮かべた。前進か死か。どうせ狂った世界なら、我も狂って殺して死のう。

「野郎ども! 敵はたったあれっぽっちだ! さっさとぶち殺して、街になだれ込むぞォ!」
 マイラーヒの檄に部下たちが猛る。
「ウオオォォォォォオオ!」

「義勇兵団カルブ自治市軍、突撃!」

 その号令を皮切りに、義勇兵団約2000が突撃を開始した。



ブンガ・マス・リマ北東5㎞付近 前哨陣地
2013年 1月6日 12時24分


「帝國軍らしい集団、突撃に移行」
 了解、と返答した柘植は自分の声が震えていることに気付いた。部下にバレなければ良いが、と思う。眼下で繰り広げられつつある光景は、急速に破滅へと進みつつあった。
 パラン・カラヤ衛士団は、薄い横隊を組み上げ敵を迎え撃とうとしている。突撃をかけた帝國軍は数千名。明らかに練度は低く、連携もとれていない連中だったが、この兵力差では大した問題ではない。
 南方征討領軍主将レナト・サヴェリューハとその参謀たちは、圧倒的な兵力差を用いて、南瞑同盟会議軍を叩き潰そうと考えていた。

(連中、全滅しちまうぞ)
 結果は見えていた。このままだと30分後には衛士団は全滅し、2時間後には市街地が戦場と化す。もし、俺たちが何もしなければ。

「01より各車。多目的対戦車榴弾(HEAT─MP)を装填」
 柘植は、隊内系で指示を出した。敵に装甲車両が存在しないため、以後特令するまで弾種はこのままだ。ほどなく各車から装填よしの報告が上がる。
「小銃班、準備完了」小隊長車の傍らで、小銃班長が右手を上げた。柘植が頷く。小銃班長は「いつでも行けます」と言い残し、掩体壕に潜った。

 もし、俺たちが参戦したならば──。
 90式戦車の火力なら、たかだか数千名の兵隊など簡単に吹き飛ばしてしまえるだろう。衛士団は生き残り、街も助かる。

「やりましょう柘植一尉。このままだと、とてつもない被害が出ます」
「あいつら死んじまいます。ムカつく連中だけど、死なれたら寝覚めが悪い」
「隊長!」
 部下から、次々と意見具申が上がる。そうだ、やろう。だが……くそ。俺が戦争の火蓋を切っていいのか? 胃袋が収縮し、酸っぱい胃液がこみ上げてきた。いつの間にか柘植の顔面は脂汗塗れだった。

「ハリマ、ハリマこちらエゾ。帝國軍と南瞑同盟会議軍は間もなく交戦状態に入る。兵力比は1対10だ。援護射撃の許可を要請する。送レ」
 結局、陸上自衛官として受けてきた教育が柘植を踏みとどまらせた。先遣隊本部は混乱しているらしい。返答が来るまでに数分を要した。
「エゾこちらハリマ。交戦は許可できない。被攻撃時のみ反撃を許可する。送レ」
 焦燥感と憤りで身体が熱い。だが、脳の一部は自分が脱力感と安堵を微かに覚えていることも認識していた。
 ちくしょう、上に命令されたから撃ちませんでした。そう言い訳をして生きるのか、俺は。いっそ奴らが撃ってくれば。駄目だ。普通科の連中は生身なんだぞ。

 すでに、帝國軍とパラン・カラヤ衛士団との距離は500メートルを切っていた。辺りには、北から逃れてきた避難民の群れが、よろよろと南へ逃げている姿があった。家財を抱えた者もいる。衛士団が敗れれば、彼らも帝國軍に押し潰される運命にある。

「両軍間もなく交戦距離に入ります──衛士団が射撃開始!」
「駄目だ、あの程度じゃ止まらねえ!」
 アメーバのように形を変えながら前進する帝國軍の先鋒に向けて、衛士団の弓射が開始された。1斉射ごとに数名が倒れる。だが、偵察隊員が洩らした言葉の通り、押し寄せる大軍勢を止める力は無い。
 胴間声。喚声。帝國軍の戦列が一斉に歩みを早めた。彼我の距離約100メートル。突撃発起点に達した帝國軍の各指揮官が、最終命令を発したのだった。これに対し、衛士団は長刀を構えた。

 柘植は信じられない思いだった。あまりにも無謀な戦い方だ。衛士団は10倍の敵をただ正面から迎え撃っていた。
「おい、火の玉とか流星雨とかそういう魔法は無いのかよ……」
 操縦手の村上三曹が呆然とつぶやいた。
 鉄塊同士がぶつかり合うような音が響く。喚声は悲鳴混じりに変わり、戦列が接触したあちこちで血煙が舞った。

「ハリマ、ハリマこちらエゾ。帝國軍と衛士団戦闘開始。射撃許可を!」
「──」
 返答は無い。無線からは空電のガリガリとした音が虚しく響く。

 衛士団は精鋭の名に恥じぬ戦いぶりを示していた。長刀を振り下ろし、帝國軍の前衛を斬り捨てる。戦列はたわみこそしたが、破れなかった。
 だが、練度で返せる兵力差では無かった。正面の敵を衛士が倒す横から、帝國兵の槍が突き込まれる。衛士はその柄を叩き割るが、さらに別の帝國兵が蛮刀を振る。1人に対して3人4人と襲いかかられ、衛士団の戦列は櫛の歯が欠けるようにやせ細っていった。


 衛士団は勇戦敢闘した。
 ひとりとして逃げる者は無く、誰かが倒れれば誰かがその穴を埋め、戦列を維持した。だが、それもわずかな時間のことだった。最も圧力を受ける右翼で、崩壊の予兆が生まれる。一度天秤が傾けば、早かった。衛士は次々と討たれた。

 その時、柘植の耳に歌が聞こえた。

゛意気天を衝き双腕に血は躍る ここより後に兵は無し いざ起ち奮えわが勇士゛

 演習後の懇親会の席。酔った彼らがしきりに歌っていた歌だ。右翼──彼らの指揮官がいるあたりで朗々とした歌声が戦場に響く。歌声を聞いた衛士たちが力を取り戻したように見えた。彼らは次々と歌声に連なり、戦った。

゛われらパラン・カラヤ衛士団 誓って商都の御楯とならん゛

 しかし、ほどなくして歌声は止んだ。柘植はケーオワラートの姿を探したが、戦場のどこにも煌びやかな軍装などは存在しなかった。全てが血と泥にまみれていた。


 勝ち鬨が戦場に響く。戦闘開始からわずか十数分。パラン・カラヤ衛士団の衛士たちは全て地に倒れ伏していた。帝國兵は手にした剣で衛士たちに止めを刺している。青々としていたはずの草原は赤黒い血と臓物で黒く染まっていた。

「ぜ、全滅です。衛士団は全滅しました……」
 血の気の失せた声で根来二曹が報告した。柘植は、車長席の縁を握りしめた。無意味な玉砕にしか見えなかった。つい先日互いを讃え合い、また反目し合った衛士たちは一人残らず肉塊となり果てた。
 倒した帝國兵は数十ほどに過ぎない。

「何で……何で……」
 柘植の頭は靄がかかったようだった。目の前で数百の人間が死んだ光景に、自衛官とはいえ一般的な現代人の感覚を多分に残す、彼の意識がついて来ない。何も出来なかった──いや、やらなかった。見殺し。ちくしょう、何で逃げない。死ぬぞ。このままではもっと──。

『──らエチゴ──』

 ああ、奴ら避難民を襲い始めるぞ。何で交戦許可が下りないんだ。

『──ゾ、こちらエチゴ。感明いかが? ちくしょう、そっちまで──たのか?』
「──長」

 みんな死んじまった。くそ! 帝國兵の外道どもめ。さっそく死体から追い剥ぎを始めやがった。

『エゾこちらエチゴ。応答してくれ』
「隊長! 隊長! 無線です!」

 柘植は、そこでようやく現実に引き戻された。無線が彼を呼んでいる。村上三曹が心配気に砲塔を見上げていた。

「エチゴ、エチゴこちらエゾ。すまん、取り込んでいた。どうかしたか? 送レ」
『エゾこちらエチゴ。頼むからしっかりしてくれ! あんたが頼りなんだ』
 何の話だ? 柘植の思考はまだ戻っていなかった。だが、エチゴ──西市街を警備しているはずの普通科小隊長の声が、新た
な衝撃を柘植の脳に叩き込んだ。

『先遣隊本部は全滅した! 三好一佐は行方不明だ!』

「……何を言っているんだ? 敵が市内に侵入したとでもいうのか?」
『いや、敵の姿なんかどこにも見えん! だが、本部は全滅だ。通信が途絶したんで伝令を出したら、部屋は血の海だった。俺にも何が何だか……』
 互いに符丁を用いることすら忘れていた。
「一体誰にやられたんだ……。そっちは無事か?」
『無事だ。他も全部。本部だけがやられた。繰り返すが敵が市内に入ったとの報告は無い。あんたのところが最前線だ──ところで、どうすればいい?』
 柘植はぽかんとした。さっきからこいつは何を言っているんだ? 何で俺に聞く?
『おい、頼むよ。先遣隊で、あんたが先任なんだ』
「……そう、か」
 考えてみれば当然だった。三好一佐と本部要員は全滅。序列に従えば、柘植が先任幹部なのだ。古今東西の軍隊のしきたりでは、指揮官が戦死した場合、最先任者が指揮を引き継がねばならない。

 柘植は思わず空を見上げた。

 何かが、南の方角へ飛び去っていった。10はいただろうか。鳥? いや大き過ぎる。

 街道を見る。帝國軍は態勢を立て直しつつあった。おどろおどろしい太鼓の音が響く。避難民の一部はその場にへたり込んでいる。逃げる気力を失ったのだろう。
 最後に部下を見た。掩体の中から隊員たちが柘植を見つめていた。彼の脳裏にケーオワラートの顔が浮かんだ。ケーオワラートは大きな瞳で静かに柘植を見ている。
 あの親父、結局何も言い残さずに死にやがったな。


 柘植は息を吐いた。肺が空になる。自然に酸素が肺に流れ込み、頭がすっきりとした気分になった。

「エゾより各隊。ハリマに代わり指揮を執る。各隊は警戒を厳とせよ。ハリマは敵の攻撃により全滅した。敵は帝國軍と思われる。我々は攻撃を受けた。以後、敵性勢力に対する発砲を許可する。ただし、発砲の際は民間人への被害を極限せよ」
 柘植はゆっくりと命令を発した。大嘘をついたな、と思った。本部を全滅させたのが誰なのかまだ分からない。
 各隊から了解が伝えられた。もう後戻りは出来ない。

 柘植は吹っ切れた表情を浮かべると、張りのある声で戦車小隊に命令した。

「前方の帝國軍を撃退する。前方敵歩兵。距離500、対榴、小隊集中──」

 柘植はひどく凶暴な気分になった。

「撃てッ!」

 発砲音。爆風が顔を叩く。偽装に使っていた草が吹き飛ぶ。視界が白く染まる。柘植は笑顔すら浮かべていた。

「小隊前進用意。前へ!」



ブンガ・マス・リマ北東5㎞ 街道上
2013年 1月6日 12時53分

 ディル・マイラーヒは高揚感と不機嫌の狭間にいた。

 彼の所属するカルブ自治市軍は、南瞑同盟会議軍に勝利した。わずかな兵力にもかかわらず愚かにも立ちはだかった敵は、全滅した。マイラーヒ自身も、絶望的な抵抗を試みた敵兵を二人、切り捨てている。
 勝利。それは何物にも代え難い。勝ったからこそ、彼は生き残っている。もしかしたら戦利品を抱えて、家族の元へ帰ることができるかもしれない。マイラーヒは『未来』という名の果実を掴み取ったのだった。

 だが、その代償は大きい。
 わずか10分ほど前には何とかそれらしい陣形を組んでいたはずの彼の部隊は、無様に崩れていた。軍隊として非常に脆弱な状況だ。敵兵の死骸から金品を漁る者が続出している現状は、野盗の群れと何ら変わりのない姿であった。
 名誉。規律。練度。全てが存在しない。それなりに熟練した戦士であるマイラーヒにとって、目の前の光景は腹立たしいことこの上ない。彼は、盗賊の頭目になりたいわけでは無いからだ。

「いつまで浮かれている! 陣を組み直せ。すぐに市街地に突入せねばならんのだぞッ!」
 マイラーヒが吼えるように命じると、旗手がしぶしぶ旗を立て、組頭たちが兵を怒鳴りつけ始めた。動きはのろい。疲れもあるのだろう。部下たちは農奴のような態度だった。
 畜生め。いつもこれだ。もう、敵がいないから良いものの、まともな軍とぶつかったら酷いことになるぞ。
 剣を鞘に収めながら、彼は思った。


 突然、今の今まで血が昇っていたマイラーヒの思考が、ふっ、と冷えた。不思議な感覚だ。
 目を動かさなくても全てが分かった。
 昨日と同じように燦々と照りつける太陽の光の下、彼の間抜けな部下たちは、目の前のはした金を気にしながらノロノロと陣形を立て直している。
 彼の隊の右翼では自治市軍の一隊が避難民に襲いかかろうとしていた。軍太鼓が乱打され、泥を跳ね上げながら数百の兵が前進している。
 左翼には、気味の悪い森の土民ども──ソーバーン族の集団が勝利の舞いを踊っている。背後には糞忌々しい督戦隊。さらに帝國軍が堅固な縦隊を組んでマイラーヒたちを見張っていた。
 彼の正面。南には二十万都市、ブンガ・マス・リマがある。敵軍はいない。全部倒した。そのはずだ。

 そこで彼は違和感に気付いた。殺気と表現しても良い。誰かがこちらを見ている。どこだ? 後ろか? いや──あの森だ。

 マイラーヒがそこまで考えた次の瞬間、丘の上に張り付くように繁った小さな森で、閃光が光った。一斉に鳥が飛び立つ。貧弱な森の外縁部が、破裂したように見えた。


 柘植小隊の放った集中射は、パラン・カラヤ衛士団を全滅させた敵兵のど真ん中で炸裂した。一瞬、砂糖に群がる蟻のように見えていた敵兵の姿がかき消える。

 擬装を払いのけ、前哨陣地がある森を飛び出した4両の90式戦車は、低木をはね飛ばしながら猛烈な勢いで丘を下った。起伏の大きさをものともしない。履帯が地面を噛み、重量50トンの車体を力強く前進させた。
 世界水準の第3世代主力戦車として、北海道の原野でソビエト自動車化狙撃師団のTー80の群れを迎え撃つべく、三菱重工業によって設計された90式は、アラム・マルノーヴの戦野を疾走するために必要な性能を十分に与えられていた。
 とはいえ、さすがにお世辞にも乗り心地は良いとは言えない。起伏を越えるたびに、車体は前後左右に大きく揺れた。柘植は慣れ親しんだ振動を巧みにいなしながら、車長用視察装置を覗き込んだ。前方の街道上は帝國兵で埋まっているように見えた。
 敵はこちらの砲撃に混乱しながらも、慌てて密集陣形を組み直している。旗がしきりに振られ、兵たちが集結を始めていた。付近に味方の衛士たちはいない。全滅したからだ。

 柘植はこみ上げてきた感情を強引に無視すると、無線に向かって指示を出した。
「01より各車。01と03は右、02と04は左に開け。射線に注意しろ」
『02了解』小隊陸曹が指揮する2号車がすぐに返答した。ベテラン陸曹長が指揮する2号車は、返答と同時に切れの良い挙動で針路を変更した。4号車が後に続く。
 雁行陣形が左右に開く。2両ずつに分かれた戦車小隊は、左右から帝國軍を包囲するような機動をとっている。120㎜滑腔砲を重騎士が抱えるランスのように振りかざし、砲塔が重々しく旋回した。スタビライザが作動し、砲口はまっすぐに敵を睨む。
「砲手、前方敵歩兵、対榴。操縦手、停止よーい、止まれ! 撃てッ!」
 重量50トンの巨体が、わずか2メートルの制動距離で停車する。発砲。衝撃。大気を切り裂いて榴弾が敵兵に吸い込まれた。轟音と共に土煙があがる。赤い火がかすかに見えた。その向こうで人間が吹き飛ぶのが分かった。
 柘植は射撃が完璧な統制の元で行われ、寸分違わぬタイミングで弾着したことに満足した。彼の内心に、自身が少し前に見せた迷いは存在しない。戦闘が開始された今、柘植という存在は単純化されている。機動力と火力で敵を包囲し、分断し、殲滅するのだ。
「いいぞ、このまま開く。前進よーい、前へ。砲種連装、連装行進射──撃てッ!」
 柘植車はディーゼルエンジンの音高らかに前進を再開した。3号車が続く。距離が詰まる。掘り返された地面の上でもがく帝國軍に対し、砲塔主砲同軸に装備された車載機銃が火を噴いた。
 帝國軍義勇兵団は完全に混乱していた。無理もなかった。南瞑同盟会議軍を殲滅し、あとは市内に突入すれば勝ちだ。そう思っていたところに、奇襲を受けたのだ。
『右も左も敵だらけだ。どっちに撃っても当たるぞ』
『04、02。敵歩兵、対榴、班集中行進射、撃てッ!』
『命中、命中』
「砲手、続けて撃て」柘植は曳光弾の行き先を見つめ、命令した。
「発射」根来二曹の冷静な声色がレシーバーに響く。発砲。車内に焼尽薬莢の燃える臭いがした。
 機銃に引き裂かれ、算を乱して逃げ出そうとしていた帝國兵が吹き飛ぶ。パラン・カラヤ衛士団を全滅させ、その遺体を漁っていた集団はあらかた土に還っていた。柘植は、カラカラに乾いた唇をひと舐めすると、次の命令を発した。

「敵を蹂躙する。全車前進」

 帝國兵はまだ千名以上が健在だった。叩くなら混乱している今だ。柘植は、ごく自然に思った。
『エゾこちらヒナギク。支援は要らないか? 送レ』
 小銃班長のじれたような声が無線から響いた。彼らはまだ森で待機している。
「こちらエゾ。敵兵は多数だ。君らを出すのは危険だ。そのまま待機されたい。送レ」
『しかし、随伴歩兵無しだと危ないよ』
「大丈夫。弓、槍と刀じゃこいつはかすり傷一つ負わない」
 小銃班長の心配に、柘植は明るく答えた。彼は生身の隊員を敵に曝すことは、危険だと判断していた。道理であった。戦車は矢傷を負わないが、人間は違う。

 だが、次の瞬間。突然の衝撃に柘植は激しく揺さぶられた。身体が前方に放り出され目の前の操作パネルに頭を打つ。一瞬意識が遠くなる。戦車が何かにつんのめったようだ。

「車体正面に被弾! 被弾です!」

 何だと? 一体何があった? ぼやけた視界と思考の中で、柘植は村上三曹の悲鳴のような報告を聞いた。



ブンガ・マス・リマ北東5㎞ 街道上
2013年 1月6日 13時02分


 マワーレド川の水面が太陽の光を乱反射して金色に煌めいている。その光景はまるで一面に金剛石をちりばめたように美しい。だが大河に沿って伸びる大街道上では、数百名の人間たちが血と泥の海に溺れ、もがいていた。
 帝國南方征討領軍義勇兵団約二千は、完全に統制を失いつつあった。突如、軍の側面に叩きつけられた敵の奇襲は破滅的な威力を発揮した。閃光と共に浴びせられた火炎弾は、一瞬にしてカルブ自治市軍の一隊を肥料に変えてしまった。
 奇襲を受けた軍は脆い。その衝撃は、精鋭部隊をたやすく烏合の衆に変えてしまう。まして、義勇兵団は精鋭とは言えぬ徴用兵の集まりに過ぎない。

「……あの森から出てきたものは、何だ? あんなものは見たことが無い」
「分かりません。あの様な魔獣は聞いたことがありません」

 帝國南方征討領軍指揮官が魂の抜けたような声で呟き、参謀の一人である魔導師が青い顔をして答えた。
 ほんの数分前まで、彼は順調な戦ぶりに満足していた。彼が指揮するのは諸都市混成義勇兵団二千と、やはり徴用兵からなる督戦隊二百。そして直率するゴブリン三百と帝國兵約百騎。
 戦闘序列に従い前衛に横陣を組んだ義勇兵団、その後方に督戦隊。最後方に予備兵力として本営を配置し、帝國軍は南瞑同盟会議軍最後の防衛線に対して攻勢を開始した。
 対する南瞑同盟会議の最終防衛線は、わずか二百の衛士団に過ぎず、交戦開始からいくらも経たぬうちにあっさりと壊滅していた。損害は義勇兵団に数十程度。帝國軍指揮官はますます笑いを大きくした。
 人の財布で飲み食いするようなものだった。金の代わりに浪費されるのは生命だが、どれだけ増えても指揮官の懐は痛まない。

 だが、突如義勇兵団に叩きつけられた爆炎と、森から現れた4体の魔獣が全てを台無しにしつつある。
 幕下の騎士が咎めるように言った。
「呆けている場合ではありませんぞ。あの魔獣の正体が何であれ、このままでは軍が崩壊いたします」
 すでにカルブ自治市軍の半数が壊乱し、周囲の隊もそれに引きずられるように乱れ始めていた。魔獣は軽騎兵も顔色を失うほどの速さで駆け、炎を放ち、徴用兵を蹂躙している。
 幸いにして後方の督戦隊と直率する本営は統制を保っていたが、手を打たねばそれを失うことは時間の問題であった。
「……しかし、どうすれば良い?」
 魔獣は戦象より巨大で、ヘルハウンドより速く、強力な魔導を用いている。そんな相手にどう立ち向かえば良いのかさっぱり分からない。
「飛行騎兵団か魔獣兵団に援軍を要請しては──」
「莫迦なッ! そのような無様な真似が出来るか」
 主将サヴェリューハは無能を許さない。わずかな敵をもみ潰すだけの任務で援軍など求めては、身の破滅である。指揮官は両腕を振り回し、参謀の進言を却下した。そうしている間にも、前衛は滅茶苦茶に叩かれ続けている。

「御覧ください! 魔獣の一体が足を止めましたぞ」騎士が弾んだ声で言った。
 確かに、左翼を切り裂いていた巨体が足を止めていた。一体何が? 指揮官は目を凝らし数百メートル先の魔獣を見つめた。

「あれは……ソーバーン族の精霊魔法でございます」
「おおッ!」

 魔獣の体躯に、太い蔓が幾重にも絡みついている。精霊遣いが森の精霊に働きかけ、召喚したのだった。太いもので人の腕ほどもあろうかという蔓が、無数に地面から立ち上がり、まるで壁のように魔獣に立ち塞がっていた。
 並みの精霊遣いであれば、せいぜい10メートル先の人間の足を絡め捕るのが関の山である。獣の如く森に生きるソーバーン族が、どれほど濃く精霊と共に在るのかを示していた。
「あれならば、もしかしたら倒せるやもしれん」
 指揮官はすがるように言った。自らが征服し従えた者たちに頼らなければならない現状の滑稽さに、彼は気付いていなかった。

「柘植一尉! 大丈夫ですか?」
「ん、ああ……大丈夫だ。状況を」
 根来二曹の呼びかけに答えた柘植は、頭を振りながら言った。90式は停止している。システムに警報は──出ていない。発煙も無い。
「今のところ砲その他に異常はありません」根来二曹が操作パネルを確認しながら言った。となれば、駆動系か?
「村上、そっちはどうだ?」
「現在、停止中。エンジン異常なし。ですが、衝撃の後引っかかっているような感じです。車体前面に何かがあるようなのですが……よく見えません」
「車体前面だと?」
 柘植は車長用視察装置を見た。数十メートル先に蠢く敵兵。あちこちが掘り返された草原。十時方向に僚車が見えた。2号車だろうか? 当然の事ながら、車体前面は見えない。索敵のためのサイトは、数メートル先の地面を見るようには出来ていなかった。
 ハッチ全周に設けられたペリスコープも似たようなものだった。畜生、何が引っかかっているんだ? 戦場で止まったままなんで冗談じゃない。
 柘植は速やかに決断した。足を踏ん張り、両手でハッチを持ち上げる。新鮮な、だが生臭さを感じる空気が車内に流れ込んだ。
「直接確認する」
 両手両足で身体を持ち上げた。視界が一気に広がった。素早く周囲を確認する。先程より敵が迫っている気がした。気のせいではない。歩兵は、停止した戦車に肉薄しようとするものだからだ。
 彼の戦車を止めたもの──それは濃緑色の蔓の群れだった。車体前面下部をびっしりと覆っている。元からあったとは信じがたい。この世界の非常識が襲ってきたことに間違いない。柘植は魔法の非常識さに驚きながらも、被弾では無かったことに安心した。
「こんなものでどうにかなると思ったか! 操縦手、ただの蔓だ。前進して引きちぎれ!」
「了解、前進します」
 行く手を塞がれた怒りも露わに柘植が命じると、V10水冷ディーゼルエンジンが、車長に感化されたかのような唸りを発した。排煙が排気管から立ち上る。樹木を裂く湿った音が聞こえ始めた。



 森から飛び出してきた敵を足止めせんと、ありったけの精霊魔法をかき集め、叩きつけながら、ソーバーン族第四支族長ハイヤ・ソーバーンは絶望的な気分に陥っていた。
 敵は──いや敵かどうかもわからない異形は、巨大で速かった。長大な角を振りかざした四体の化け物は、絶えずその角と頭から炎を吐き、義勇兵たちを吹き飛ばしている。
 ハイヤは、無意識に登ることの出来る大木を探していた。肉食獣に遭遇したとき、森に糧を求め生きる彼らは樹上に逃げる。身体がその記憶を思い出している。
 未熟な若い男の中は、恐怖のあまりその場にうずくまってしまう者もいた。だが、ハイヤは支族長としての矜持と戦士としての経験を総動員し、己を奮い立たせた。
「あれは、祟り神ぞ」誰かが言った。
 色とりどりの獣骨で作った護符がじゃらりと鳴る。鮮やかな紋様を全身に彫り込み髪を結い上げたハイヤは敵を凝視した。
 古老より口伝えに聞く、森の奥深くに潜む禍。人に祟り仇なすそれは伝説の中にのみ存在していた。
 今日までは。
「駄目か……」
 高位の術師である彼を含めて、十人以上が精霊に呼びかけ顕現させた戒めも、化け物は容易くかみ砕こうとしていた。野太い蔓が激しい音を立てて引きちぎられる。あの調子では突破されるのは時間の問題だろう。
「何でもよい。放て」
 ハイヤが命じると、ソーバーン族の戦士たちは各々が持つありったけの得物を化け物にぶつけた。
 彼の右手側で、空気を震わす笛の音に似た音と共に拳大の石が放たれた。投石隊のスリングだ。熟練した戦士が用いれば、100メートル先の重装歩兵を昏倒させる投石が雨霰と化け物に降り注ぐ。矢が放たれる。
 左手側では精霊遣いたちが再度〈戒めの蔓〉を詠唱し始めた。付近に精霊が集まっているのを感じる。地中から湧き出た蔓が敵に伸びた。

 だがその全てが、化け物にわずかな手傷すら与えられずにいた。化け物は、ついに蔓を引きちぎると、猛烈な勢いで突進を始めた。悪夢のような姿だった。長大な角がハイヤに真っ直ぐ向いた。
 彼は化け物の上に人間が乗っていることに気付いた。魔獣遣いか。あれを殺すことが出来れば──いや、出来まい。
 化け物は剣歯虎より速く走っている。にもかかわらずその角はぴたりとこちらを向いて少しも変わらない。彼は自分が狩られる獲物であることに気付いていた。

「おお、偉大なる森の精霊よ。彼の祟神をどうか鎮め賜え──くそったれ! あんなものがいるなんて聞いてないぞ」
 ハイヤは引き続き何か冒涜的な言葉を発しようとした。化け物の角が赤く光った。何かが放たれる。猛烈な閃光と爆発がハイヤを包み、彼が続きを叫ぶことは無かった。

「命中。目標を撃破」
 根来二曹が冷静に報告する。
 柘植の90式は車体前面に絡みついていた蔓を纏めて引きちぎると、敵軍に対して突撃を再開した。民族衣装を身にまとった集団は、散り散りになって逃げまどっていた。熱風が柘植の頬を叩く。彼は車長席から上半身を出し、周囲をせわしなく見回していた。
「隊長、危ないですよ」
「ああ、確かに──」流れ矢が車体に当たって硬質な音を立てた。柘植は首を竦めたが、車内には戻らない。
「危ないな。だけど周りはよく見える」

 様々な努力が払われているにも関わらず、戦車内部からの視界がごくわずかな範囲に限られるという欠点は、完全には解消される見込みがない。
 今世紀に入っても、随伴歩兵無しに敵勢力圏に踏み込んだ主力戦車が、手酷い目に合った事例は無数に存在する。必要な対戦車火器を装備し、地形を利用するのであれば戦車の撃破は可能なのである。
 もちろん多くの場合、対価として相応の人命を支払う必要があるのだけれど。

「まずいな」
 再度周囲をぐるりと見回した後、柘植は固い声で言った。
 いつの間にか彼の戦車小隊は敵と混交してしまっていた。蹂躙された敵兵がバラバラに逃げ散った結果、敵のど真ん中に突入した形になってしまったのだ。数十メートルという戦車にとっての至近距離に、武装した敵兵が右往左往している。
「近過ぎて主砲が撃てません。機銃で叩きます」根来二曹の声が砲塔内から聞こえた。
 速度を保っているうちは良い。だが、さっきのように足を止められた場合は危険だった。柘植は改めて異世界である事を思い出していた。
 身一つで対戦車ロケット並の火力を持つ奴がいるかも知れないじゃないか。迂闊だったかな。とにかく動き続け、敵を叩き続けるしかない。
 90式戦車の周囲は、怒号と悲鳴、そして発砲の轟音が支配している。多くの敵兵は逃げ惑っているが、驚くべき事に未だ戦意を保っている集団も存在していた。柘植は、何が敵兵を踏みとどまらせているのか見当がつかない。
 彼はひとまず主砲で攻撃可能な相手を探すことにした。車長用照準潜望鏡を回転させる。パノラマサイトがすぐに敵を見つけ出した。300メートル前方に無傷の敵が待機している。あれなら、狙える。
「砲手、二時方向、距離300。あいつをやるぞ」
 根来二曹が旋回ハンドルを操作した。電動機の力で長大な砲塔が重々しく右を向く。砲身がわずかに動き、仰角が微調整された。当然の如く装填は終わっている。
「照準よし」

「撃てッ!」

 発砲。砲が後座する。すぐに駐退復座装置が作動し砲身は元の位置に戻った。発射された今日8発目の砲弾は、オレンジの光跡を残し敵のど真ん中に吸い込まれた。

本営の前方に展開していたケルド市軍が魔獣の炎に貫かれた。耳を塞いでもなお強烈な爆音が辺りに木霊した。濛々と土煙が上がり、視界を塞ぐ。
 今まで、督戦隊として前衛を駆り立てていたケルド市民兵たちは、一撃で大損害を受け戦意を根こそぎ吹き飛ばされた。悲鳴を上げてのたうつ者。悲鳴すら上げることなく横たわる者。それらを残し、あっさりと壊乱する。

 それを咎め戦列に引き戻すべき本営は、言葉を失い立ち尽くしていた。

「な、何故あんな化け物が我らを襲うのだ! 南瞑同盟会議の奴らは如何なる手管を用いている?」
 指揮官はひたすら狼狽し、金切り声を上げた。本営の帝國兵にも動揺が広がる。
「分かりません! 分かりません! あれはこの世のものでは無い! あのような魔獣はこのアラム・マルノーヴには」
 そこまで言った参謀は、突然何かに気付いたかのようだった。目を大きく見開き、ガタガタと震える。
「どうした? 何か心当たりがあるのか?」
「まさか、まさか……あれは。あ奴らは!」
「知っているなら申せ!」
「何ということだ。早くサヴェリューハ閣下にお伝えせねば! もし、あれが〈門〉を越えて来たのであれば──」
「〈門〉? それは何だ?」
 指揮官は参謀の変貌に得体の知れぬ気味の悪さを感じていた。恐る恐るといった風情で尋ねる。参謀は、白蝋の如き顔色のまま、言葉を絞り出そうとした。
「恐らくあれは〈門〉から現れし異──」

「化け物がこちらにッ!」
 本営詰めの騎士が警告を発するのとほぼ同時に、いつの間にかこちらを向いていた魔獣の角から、鮮やかな炎が吹き出した。
 参謀が最後まで言葉を発することは無かった。彼らを含む本営の帝國兵たちは、無数に飛び散った弾片を全身に受け切り刻まれた。


ブンガ・マス・リマ北東5㎞
2013年 1月6日 13時11分

 正午過ぎに始まった戦闘は、大量の死傷者を発生させつつ拡大の一途を辿っている。始めは南瞑同盟会議軍パラン・カラヤ衛士団が戦神の御許に突撃し、続いて帝國南方征討領軍が冥界へと進軍した。

 陸自マルノーヴ先遣隊が、わずか一両の90式戦車による射撃で帝國軍本営を粉砕したことは、義勇兵団に致命的と言える衝撃を与えた。
 後方に控える帝國軍の縦列が、華美な軍旗ごと消し飛ぶのを目撃したカルブ自治市軍の一隊──すでに壊滅したマイラーヒ隊とは別の部隊である──は、あっさりと士気を崩壊させた。柘植の90式戦車は、彼らを支えていた「欲」と「恐怖」をまとめて吹き飛ばしたのだった。


「待て! 逃げるな、おい!」
 カルブ自治市軍百人隊長が人の波に押し流されながら叫ぶ。当然聞くものなどいない。徴用された市民兵たちは、我先にと逃げ出していた。
「莫迦野郎ッ! あんな化け物相手に何が出来るよ」
「しかし、逃亡は死罪だぞ」
 百人隊長の傍らを駆け抜けながら、兵士は呆れたような顔で言った。
「お目付役はみんな死んじまっただ。誰も見ちゃいねえよ。悪いことは言わねぇ、隊長も逃げちまいな」
「マイラーヒ様の部隊を見なよ。誰も生きちゃいない。俺はああなりたくねぇ」
 百人隊長は辺りを見回した。彼の所属する隊は中央に位置していた。右翼のマイラーヒ隊は、街道上で全滅していた。左翼のソーバーン族は化け物に引き裂かれ散り散りに森へ逃げ込んでいる。
 彼は背後を見た。自分たちを戦場に追い立てていた、憎んでも憎みきれないケルド市の連中はすでに壊乱し、帝國軍本営は跡形も無かった。

 うなり声が聞こえた。気がつくと目と鼻の先に、小山のような巨大が迫っていた。角を振りかざし、全てを踏み砕いて進んでくる。気がつくと百人隊長は一人になっていた。マイラーヒ隊の生き残りを合わせて千名以上いたはずの兵士たちは、誰も残っていなかった。
 百人隊長は気付いた。目の前の暴力の塊に対し、自分が何を出来るというのだ。無力。ただ挽き潰される存在でしかない。
「ヒッ、ま、待ってくれぇ!」
 彼は情けない悲鳴を上げると、武器を放り投げよたよたと森の中へ駆け出して行った。
 後には無数の武具や軍旗、そして物言わぬ骸が残された。

 柘植は肩すかしを食らった気分だった。あれだけ頑強に抵抗していた帝國軍は、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまったからだ。
「01より全車、状況知らせ」
『こちら02、河川敷へ到達。被害無し。戦闘可能』
『03、車載機銃残弾僅少、戦闘可能』
『04、戦闘可能。付近に敵影無し。みんな逃げちゃいました』
「01了解。全車警戒態勢を維持せよ」
 終わるときはあっさりだったな。いくら砲撃を食らわせても引かなかった連中が、急に崩れたのは何故だ? 
 柘植は一つ息をつくと、森で待機している小銃班を呼び出した。北方から迫る敵がこれで終わりだとは限らない。速やかに生存者を救出し(仮に生き残りがいればだが)、防衛線を再構築しなければならなかった。
「隊長、囲まれています」
 村上の声に、柘植は慌てて周囲を見渡した。確かに囲まれていた。いつの間に。だが、戦車を包囲しているのは兵士では無かった。
 避難民である。
 本来なら帝國軍に蹂躙され、なけなしの財産ごと焼き払われる運命だった者たちだ。ある者はマワーレド川に身を踊らせ、ある者は諦めの境地でわずかな窪みに身を伏せていた。
 だが、森を飛び出してきた巨大な何かによって、あっという間に帝國軍は撃退された。最初は悪魔が出たと誰もが思った。ところがよく見れば人が乗っているようだ。そのうち、誰かが異国から来た風変わりな軍勢のことを思い出した。


「あなたが大将さまで?」
 目の前におずおずと進み出た、泥の塊のような見かけの男(声色で柘植はそう見当をつけた)が言った。そこだけは泥の色ではない瞳が、明らかに怯えた光を湛えている。柘植は右手にはまった『通詞の指輪』を確かめると、なるべく明るく聞こえるように答えた。
「私は日本国自衛隊の指揮官です。あなたがたの敵ではありません」
 だが泥の男は、ヒッ、と悲鳴を漏らし後ずさった。思ったより強めの声が出てしまったらしい。柘植はまだ、戦闘の余韻が消せない。
「〈ニホン〉? 聞いたことがございません。同盟会議の御味方で?」
 気がつけば周囲には百人を超える避難民が集まっていた。誰一人まともな身なりをした者はいない。傷つき泥にまみれていた。まだ幼い子供の姿もある。小学生くらいの兄が、妹を背中に守ろうとしている姿を視界の隅に見た柘植は、ぐっと奥歯を噛み締めた。
 みんな怯えている。殺されるのではと震えているじゃないか。彼は努めて明るい表情で避難民たちに語りかけた。

「我々は、南瞑同盟会議の味方です。帝國軍から守るために、この地に派遣された者です。もう大丈夫、安心してください!」


 その言葉の効果は劇的だった。
 避難民たちが一斉に戦車に駆け寄る。泥まみれの顔には笑顔が浮かんでいた。
「助かった! 俺たち助かったんだ!」
「おおお、信じられない。奇跡だ」
「ありがとう! ありがとうございます。あなた方のおかげです」
 彼らは口々に礼を述べた。柘植は「危険だから離れるように」と言おうとしたが、あっという間に周囲は避難民たちで溢れかえった。


 森を出た小銃班の隊員たちは、戦車が包囲されている様子に色めき立ったが、すぐに状況を理解した。凄惨な戦場でぼろぼろの姿で集まってくる人々。一部の者は額や腕から血を流し、動けなくなるほど衰弱した家族を抱える者もいる。
 彼らには90式の武骨な車体が、まるで神の御遣いのように見えているのだ。
 小銃班員たちは、速やかに行動を開始した。彼ら自衛隊員にとり、『被災者』救助はすでに本能に等しい。自衛隊創設後の歴史が、軍事組織としてはいささか過剰なまでの民間人保護を彼らのDNAに刻み込んでいた。


「柘植一尉! 一個分隊を警戒に就けます。残りは──」
「任せる。戦車は警戒に就く!」
 先回りした柘植の言葉に、小銃班長は感謝の表情を浮かべると部下の半数に救助を命じた。彼自身も突撃するような勢いで、両親を失ったらしい兄妹の元へ走り出す。彼には同じ年頃の娘がいるのだ。
 彼の部下たちも班長に劣らぬ勢いで、避難民たちの救護に取りかかった。衛生員が簡易トリアージを行い、治療が必要な避難民を選別する。軽傷の者には隊員が傷口を清潔にし、個人用キットで手当てを行った。
 疲労でへたり込んだ老人に、装輪装甲車から引っ張り出した毛布をかけ、少女にチョコレートを与える。隊員たちは淡々と、だが全力で避難民に対処した。

 驚いたのは、マルノーヴの民の方だった。戦場では虫けら程の扱いを受けるしかない自分たちを、この騎士団はまるで家族のように扱っている。
「有難てぇ。わしゃもう死んだもんと諦めとったよ……」
 上等な毛布をかけられ、額の傷を手当されている老人が言った。目の前の異国の兵士は、戦化粧であろう様々な色で塗られた顔に気遣いの色を浮かべながら、彼を丁寧に扱った。言葉は通じ無いようだったが、態度が老人を安心させた。
「……おいしい」
 少女はここが戦場であることを忘れた。恐ろしげな風体の兵士が近づいてきたときは身を堅くした彼女だが、心外そうな表情を浮かべた兵士が差し出した、銀色の紙に包まれた茶色の塊は、それ程までの威力を発揮した。
 今まで体験したことのない甘味に、口の中がびっくりしている。一口噛むごとに疲労した体に力が戻るのを感じた。彼女は(これは聖餐なのかしら)と思った。大地母神の御加護でもなければ、こんな美味しい食べ物は作れない。
「本当においしい……ありがとう」
 上目遣いに見上げた彼女が恐る恐る目の前の兵士に礼を言うと、熊のような見かけの兵士は嬉しそうに頷いた。よく見ると優しげな目をしていると思った。

 避難民たちは思った。何故〈ニホン〉の騎士団は、自分の領民ですら無い者を手厚く保護するのだろう?


 どうやって避難民たちを安全な場所に移したものか。軽装甲機動車や装甲車ではとても追いつかないぞ。
 柘植は、車長席で周囲を警戒しながら、これからについて考えていた。避難民は二百名を超え、さらに集まり続けている。戦闘再開前にどうにかしなければならない。
「〈ニホン〉の大将さま?」
 柘植を呼んだのは、壮年の男だ。おそらくそれなりの立場の者だろう。彼の背後には治療を受けた避難民たちがいる。
「あなた様の騎士団が、帝國軍をやっつけたのでございますか?」
「……はい」
 柘植の答えに、避難民がどよめく。口々に「俺は見たぞ。この魔獣が帝國軍の奴らを蹴散らすのを!」「なんと凄まじい」「いったいどこの国の方々なのかしら」などと話している。見る見るうちに彼らの表情が歓喜に包まれるのが分かった。


「まことに、まことにありがとうございます。帝國軍の暴虐を前に、我ら死を待つのみでありました。それをお救い下さった皆様の御恩、いくら御礼を述べても足りません」
「いえ、我々は自衛のために戦っただけで……」
「自衛? はて、これは御冗談を。あれほどまでに凄まじい焔、見たことも聞いたこともございません。この魔獣はあなた様が使役なさっておられるのですか?」
「……まあ、そうなります」
「これほどの魔獣を手足の如く使役されるとは、さぞ名のある遣い手でございましょう!」

 避難民たちは、偵察隊の隊員たちを口々に讃え、感謝を表した。90式戦車の巨大さに目を丸くし、隊員の強さに感嘆した。
 そんな時だった。

「どうしてッ!」

 甲高い叫びが、温かだったその場の空気を凍らせた。あまりにも悲痛な響きだった。柘植は声の主を見た。予想はついていた。
「……カルフ」
 縄を抜けたのだろう。少年は肩を震わせ、全身を強ばらせて柘植を見ていた。柔らかな髪は乱れ、泣きはらした瞳は赤く、はにかむように笑っていた少年の面影は無い。憔悴した表情には絶望と悲嘆が満ちていた。
「どうしてなのですかツゲ様! これほどまでに圧倒的な力を持ちながら、なぜなのです?」
 少年の足下には、彼の所属したパラン・カラヤの衛士たちが血塗れの姿で事切れている。抱き起こそうとしたのだろう。少年の華奢な体は、衛士たちの血で染まっていた。
 柘植は、カルフから目が離せなかった。衛士団との関係が悪化した後も、何かと気を使ってくれた優しい少年は、咎めるような瞳で柘植を見ている。
(憎まれて当然か)
 少年が言わんとすることを柘植は理解している。
「これほどの力なら。帝國軍数千をたやすく屠ることができるのならば、何故衛士団を見殺しになさったのですか? みんな、みんな死んでしまった……私は何もできなかった。でも、でもあなたなら!」

 村上三曹は、カルフの元へ駆け寄ろうとしたが、できなかった。ある衛士の死体のそばには、血塗れの写真が落ちている。90式戦車を前にすました表情でポーズをとる三人の衛士が写っていた。

「私には理解できません! なぜ衛士団が全滅するのを待ったのですか? ツゲ様──」
 カルフは力無く跪き、血塗れの死体に顔を伏せ泣き続けた。

 避難民たちは困惑し、自衛隊員たちは凍り付いている。柘植は理解していた。自分たちは結果として、命の選別を行ったに等しい。
 己の選択が、避難民たちを救い、衛士団を救わなかった。その結果は眼前に示されている。

 慟哭するカルフの声を聞きながら、柘植は握り拳を90式の砲塔上部装甲に叩きつけた。鈍い痛みが走った。


 南からはくぐもった爆発音が響いていた。稜線の向こうに黒い煙が幾筋も立ち昇っている。無線は市内各所で戦闘が行われていることを伝えていた。どうやら敵は複数の経路でブンガ・マス・リマへ侵攻を企図していたらしい。


 柘植は部下に命令を発するため、カルフから視線を外した。戦闘の方が楽だと、一瞬でも思う自分を恥じた。
 感情のあれこれはあとだ。あとでたっぷりと苛まれてやる。だが、今は己の為したことへの責任を取らなければならない。柘植は思った。俺は指揮官としての責務を果たさなければならない。


 まだ、俺が始めた戦争は始まったばかりなのだ。


 柘植は熱を持ち始めた拳を頭の上に掲げ、命令を発するべく部下を呼び集めた。


南瞑海 無人島
2013年 1月6日 11時00分

 迷宮の主(あるじ)は目を覚ました。

 微かな波動を感じる。迷宮内に蜘蛛の巣のように張り巡らされた魔導が、侵入者を感知したのだ。
 か弱い下等生物どもが迷宮内に潜り込んでいる。
 彼は瞬時に状況を把握した。地下七層にも及ぶ迷宮は、彼の城であり、彼はその絶対的な支配者であった。何人もその目を逃れ忍び込むことなど不可能であり、不遜な侵入者に待つのは惨たらしい〈死〉でしかない。

 過去、迷宮に挑む者は星の数ほど存在した。多くは下等な『ヒト族』やその亜種である。ある者は宝物を求めて。ある者は彼らにとって災厄といえる迷宮の主を倒すために。
 その無謀な試みは、主によりことごとく粉砕され、骸を晒すこととなった。非力で下等な『ヒト族』如きが、神代の頃より迷宮を守護する存在に抗えるはずも無い。
 主自身にすら、いつからこの迷宮に棲んでいるのか分からなかった。はっきりとしているのは、この迷宮には何人たりとも侵入を許さぬという、自らの使命のみである。

 以前は迷宮の周囲に『ヒト族』どもの集落が存在した。主にはどうでもよいことであったが、この島は交易中継点としてこの上ない位置にあり、また太古の神々によって造られた地形は、天然の良港となる条件を満たしていた。
 生意気なことに『ヒト族』は当然のような態度で住み着き始めた。彼は、たまに気が向くと眷属を差し向け彼らを屠殺させた。
 畏れおののいた『ヒト族』は、生贄を差し出したが、彼にとってそれはただの肉袋以上の価値は無かった。柔らかいはらわたの感触はそう悪くは無かったが、そもそも主は飢えを感じないのだ。
 ある日、ある侵入者に手傷を負わされた 彼が、激情のおもむくままに『ヒト族』の集落を襲ったのち、島は無人となった。

 異変を感じてからしばらくの時が過ぎた。ヒト族どもは迷宮に出たり入ったりを繰り返しているようだ。
 久しく侵入者の絶えた迷宮に、忍び込む者がいる。迷宮の主は腹の底から湧き上がる凶暴な衝動を楽しみながら、傍らにあった得物を手に取った。
 涎が口元から溢れ、ふいごのような鼻息が荒々しく響く。馬の胴すら容易く引きちぎる程の膂力を秘めた体躯を震わせ、主は巨大な角をそびやかせ、ニヤリと確かに笑った。

 次の瞬間。

 迷宮の各所で何かが弾ける感覚が彼に伝わった。未知の感覚に彼はうなり声をあげる。その時には既に彼の棲む地下最深部の広間にも、断続的な振動と、鈍い音の連なりが届いていた。
 迷宮の主は身を起こし、広間の出口に向かおうとした。
 轟音が真上で響いた。小さな破片が剥離してパラパラと降り注ぐ。彼は天井を仰ぎ見た。ひび割れが瞬く間に広がった。

 彼が気付いた時には、全てが崩壊を始めていた。アーチ状の天井が崩れ、大量の土砂と石材が怒り狂う主の上に降り注いだ。


──3時間前。
 日本国政府マルノーヴ調査団と共に島に上陸した陸上自衛隊は、普通科と施設科で混成一個小隊を編成し迷宮へ進入させた。武装した隊員たちは、迷宮内を彷徨うモンスターの抵抗を排除しつつ、探索を進めた。
「どうだ?」
 陸自調査団付隊指揮官である島崎三佐が尋ねた。迷宮の地下第三層までの探索を終えた施設科分隊長が、埃と、何かの粘液にまみれた顔で答えた。
「こいつは何とも驚きました。どでかい城が地面に埋まっているなんざ、初めてです」
 迷宮は、洞窟では無かった。巨大な石造りの城が地中に埋まっているのだった。
「洞窟なら完全に潰すことは難儀でしたが、この構造なら大丈夫です。あたしの見立てじゃ、地下第三層までを支える柱さえへし折れば、重みで下層階まで崩落します」
 職人然とした分隊長の言葉に、島崎は頷いた。背後に立つ外務官僚に話しかける。腕まくりしたワイシャツ姿で、白の安全ヘルメットを被った官僚は、やたらと偉そうな態度の男だった。メガネが太陽の光を受けてギラリと煌めいた。
「登坂さん。爆破は可能です」
「よーし。では爆破だ! 派手にやるぞ」
 登坂と呼ばれた官僚の大声を受けて、自衛官たちは予め定められた手順に従い、行動を開始した。
 普通科隊員が89式小銃の薬室を確認する。弾薬を補充し装具のあちこちに取り付けられた弾倉ポーチに収めた。さらに暗視ゴーグルの電池を入れ替え、作動確認も忘れない。
 ある隊員は一人当たり4発携行する閃光発音弾のピンが、正しく刺さっていることを確認し、装具の確認を終えた。
 施設科の隊員は、爆破に必要な高性能爆薬と電気雷管を丁寧な手つきで背嚢にしまった。リールに巻かれた導爆線がよれていないことを確認し、彼は満足げに頷いた。
 隊員を直接指揮する下級指揮官たちは、即席で作成された見取り図を囲み爆薬の設置地点を打ち合わせている。施設科分隊長が赤ペンで印を付け、普通科の各分隊長や小隊・分隊陸曹が地点を確認する。
 そのかたわらでは、無線手が符丁を本部と確認していた。

 ほどなく、突入準備は完了した。

「突入」
 島崎三佐が命じた。隊員たちは冷静で、まるで通常業務に取りかかる会社員のような風情であった。ただ、その動作は機敏で淀みがない。それを見て島崎は成功を確信した。彼が鍛え上げた『施設科』という名の戦闘工兵たちは、淡々と任務に臨んでいる。
 再突入した隊員たちは速やかに爆破準備を進めた。迷宮の天蓋を支える巨大な柱に高性能爆薬を仕掛け、導爆線で連結する。コードは地表の点火器に接続される。
 混成小隊は、闇の中から湧き出る動き回る骸骨や巨大なドブネズミ、不定形の物体を排除しつつ、約30分ほどで爆破準備を完了した。

「爆破準備完了。退避宜しい」
 施設科分隊長が報告した。入口から約500メートル離れた本部で島崎三佐は了解した。傍らで登坂が南瞑同盟会議の人間と何か話し込んでいる。異世界の住人はひどく怯えていた。
「大丈夫、我々に任せなさい」
 登坂が異常なほどの自信を漲らせ、言った。大ぶりの眼鏡の奥で眼光が鋭く光る。
 だが、浅黒い肌をした相手は納得していないようだ。2メートル近い体格のいかにも海賊然とした男は、見た目に反して幼子のように小刻みに震えている。顔色は海よりも青い。
「主の迷宮を破壊するなど、能うはずがない! 貴殿らはあの化け物の恐ろしさを知らんのだ……」
 日本国調査団がこの島に上陸すると言い出した時、マルノーヴ大陸の人々の反応は一様に同じだった。
 正気の沙汰ではない。
 ある者は言外に、またある者は直接的に態度を表明した。つまり、誰も同行しようとはしなかったのである。
 最終的には淡々と準備を進める日本人の姿に、意を決した一人の水軍士官が「異世界人に南瞑同盟会議に人無しと言われるのは我慢ならん!」と、同行を申し出たのだった。
「過去、迷宮に挑んだ手練れは数多。いずれも『主』の餌食となった。我ら人の力では無理だ。悪いことは言わん。諦められよ」
 そう言いながら、今にも逃げ出したそうな大男の姿に、島崎三佐は首をひねった。(ここまで怯えるとは。一体何が潜んでいるんだろう?)確かに、突入した隊員たちにも、『何かの気配がする』と言いだす者がいた。どうやら、さっさと吹き飛ばすことにした方が良さそうだ。
「登坂さん。爆破します」島崎が確認した。
「派手にいこう。やってくれ」
 登坂がゴーサインを出す。島崎は拡声器を手に取り、命令を発した。
「点火百秒前!」
 傍らの無線手が無線機で各隊に通報する。あらかじめ安全な位置に退避した隊員たちが遮蔽物に身を隠した。安全係幹部が最終的な安全を確認する。異常なし。施設科分隊長が、机に置かれた点火器のハンドルを握った。

「十秒前──ヨン、サン、ニィ、イチ、点火!」

 衝撃が足元を突き上げる。くぐもった轟音は地中を伝わり、隊員たちの半長靴を震わせた。巨大な入口を始めとする開口部から一斉に土砂と白煙が噴き出した。生暖かい爆風が、500メートル離れた彼らの顔を撫でた。
「ぬぉッ!」
 南瞑同盟会議の男が、思わずよろめく。地面が揺れるこの事態が理解出来ないといった様子だ。ましてそれを為したのが、傍らの日本人であるとは思ってもいない。
 周囲の隊員たちも、過去に無い規模の爆破の結果を固唾をのんで見守っていた。
 しばらくして揺れは収まり、静寂が島に訪れた。


 年嵩の曹長が、白煙を吹き上げる迷宮入口をじっと睨んでいる。しばらくして彼は満足げに頷いた。島崎三佐に報告する。
「爆破完了。地下施設の崩落は間違いありません」
 付近の漁師から『悪魔の顎』と呼ばれていた地下迷宮への巨大な入口は、既に無い。石造りの神殿めいた建物も、周囲に林立していた無数の柱も、全てまとめて瓦礫と化していた。
 入口の周囲、半径300メートルが大きく陥没している。あちこちに開いた亀裂からは、濛々と白煙が立ち上っていた。

 爆破は完全な成功を収めていた。戦後、地味な扱いに甘んじながらも他の職種に勝る実戦経験を積み重ねてきた、陸上自衛隊施設科の真骨頂であった。
 熟練した技術者集団である施設科隊員たちは、初めて見る建築構造と素材を前にしても慌てなかった。彼らは知らぬ者が見れば魔法を使ったかのように、建物の急所を見つけ出した。
 陸曹の手によって仕掛けられた高性能爆薬は、点火器からの電気信号を受けた雷管の発火により、巨大な迷宮を支える支柱の群れを根元から吹き飛ばした。あえて偏った位置に仕掛けられた爆薬によって、構造物に大きな負荷がかかる。
 爆破から数秒後には、天蓋が崩落を開始していた。瓦礫は迷宮内の異形たちを巻き込んで、各階層の床を破壊。さらなる瓦礫となり最下層まで落ちていった。


「これで辺りの人々を悩ませていた地下迷宮も、消え去ったわけだ」
 登坂が言った。彼自身は何もしていないが、まるで彼が為したことだと言わんばかりの口調だ。実際、彼はそう信じている。
「……何という……これを貴殿らが為したというのか? いかなる魔導を用いた?」
 大男は口をパクパクさせた。
「だから任せろと言っただろう? さあ、確認してもらおうか。ここは確かに無主の──」

 登坂が言い終わる前に、地面が揺れた。迷宮の中を何かが動いている。島崎三佐は直感した。それは正しい認識だった。振動の発生源は地中を上り、ほどなく地表へと飛び出たのだった。
 轟音と共に破片が飛び散る。人の胴体ほどもある石片が100メートル以上先に落下した。中心は『悪魔の顎』だ。
「グオオオオオォォォオオオン!!」
 魂を消し飛ばす咆哮が大気を震わせた。声の主は迷宮入口にあった。瓦礫が砕け飛び散る。白煙の向こうにそれはいた。

「あ、ああ、あ。『主』だ」
 南瞑同盟会議の男が、腰を抜かしてへたり込む。彼は失禁していた。
 視線の先には、巨大な異形が姿を見せていた。身長は優に5メートルを超える。堂々とした逆三角形の上半身は、鋼線を寄り合わせたような筋肉で武骨に盛り上がっている。羆すらたやすく屠りそうだ。人型をしているが、全身が漆黒の毛に覆われている。
 そして、明らかに人ではない。
 一目で怒り狂っていることが判るその顔は、雄牛の姿をしていた。巨大な二本の角が天を衝き、真っ赤な瞳には理性の欠片もない。涎を撒き散らしながら、異形は再度咆哮した。
「終わりだ。皆殺しだ。主が地表に出たときは怒り狂っているときだ。我らは皆引きちぎられる」
 失禁した男が、放心したように言った。
「あれが『主』か。ほう……こっちでもやはりミノタウロスなのか」
 登坂は平気な顔をしている。その様子に南瞑同盟会議の男はいきり立った。
「貴殿らは阿呆か! あれを見よ! まもなく怒り狂って襲いかかってくるぞ。あの戦斧を防ぐ術など……どうしてくれる!」
「これは我々に対する挑戦だな」
 その時、『主』がこちらを見た。復讐に燃えるその異形は、正確に自分をこの様な目に合わせた者を見極めたようだった。
「ひぃ、見つかった。く、来るぞ」
 へたり込んだ男が、地面を後ずさった。腰が抜けて立てない。

「大丈夫。任せろ──」
「射撃始め!」
 登坂の言葉に被せるように、島崎三佐の号令が響く。背後でビールの栓を抜くような気の抜けた音が複数鳴った。続いて、左側面で重々しい射撃音が響く。それだけではない。周囲では無数の銃火器が一斉に火を吹いていた。
 81ミリ迫撃砲の射弾は、あらかじめ調定された座標──迷宮入口に向けて狙い違わず放物線を描く。迫撃砲弾が弾着する前に、まず『主』を襲ったのは普通科小隊の放った5.56ミリ小銃弾と7.62ミリ機関銃弾である。
 乾いた銃声を残して曳光弾が『主』に吸い込まれる。着弾点で黒い毛が舞い散る。だが、『主』は踏みとどまった。衝撃を受けてはいるが、倒れる気配は無い。
「効いてないのか? まさか」分隊陸曹が呆れたように言った。
 一拍遅れて、より大威力の砲弾が着弾した。貴重なLCACで揚陸された87式偵察警戒車の25ミリ機関砲だ。


 『主』の体表が鈍く光る。砲弾が炸裂し、破片が飛び散った。『主』の足が瓦礫を踏みしめその場に縫い付けられた。25ミリ機関砲弾を受け、流石に前進出来ないようだった。だが──
「こいつも耐えるか……化け物め」
 偵察警戒車の車長が呻いた。軽装甲車両やソフトスキン車両を破壊しうる砲弾である。生身が受ければ跡形も無い。だが、『主』は耐えている。全身から深紫の光を放ち、傷を負った素振りは無い。物理以外の力がそこに働いているのは間違い無かった。
 だが、自衛隊の火力はそこで終わりでは無かった。
 三脚に据え付けられた40ミリ自動擲弾銃から、多目的榴弾が叩き込まれる。普通科隊員が84ミリ無反動砲を放つ。弾丸は機関砲弾を受けて踏みとどまる異形の怪物に吸い込まれ、炸裂した。
 さらに上空から迫撃砲弾が降り注いだ。着弾した弾丸は辺りの瓦礫とともに粉塵を巻き上げた。閃光が粉塵に混じる。炸裂音が木霊する。『主』の姿は見えなくなった。
「グオオオオオォォォォ──ォゥ……」
 力無い咆哮が爆発音に混じったのを、島崎は聞き逃さなかった。
「打ち方待て!」
 号令が肉声と無線で伝達される。部隊はびたりと射撃を中止した。
 粉塵と白煙が風に流されていく。徐々に弾着点が姿を表した。

「お、おおお。迷宮の魔物が……」
 そこにはぼろ切れのように引きちぎられた『主』が横たわっていた。隊員たちは、それがまだ生きていることに驚愕した。
 だが生きているだけであった。手足は千切れ、角も片方が折れている。瞳は爛々と自衛官たちへの呪詛を湛えていたが、身動き一つ取れないようだ。地面に血溜まりが広がる。それはまるで赤い絨毯のように見えた。

「生け捕りは無理かな?」登坂が言った。
「止めましょう。悪い予感しかしない」
 島崎が首を振った。
「だな。ではよろしく」
 あっさりと諦めた登坂の言葉を受け、島崎は右手を上げ前方に振り下ろした。
 背中にボンベを背負った隊員が二人、小銃を構えた護衛を従えて前に進み出た。50メートルほど手前で、手にした武器を構える。
 轟という音と共に、紅蓮の炎が『主』に伸びた。ゲル化油を燃焼剤として燃え盛る炎は、すぐに『主』に燃え移り、肉の焼ける臭いが辺りに漂い始めた。吐き気と食欲を刺激する臭いだ。
 『主』は、長い断末魔を残して、息絶えた。

「倒してしまった……ああ、ワシは夢でもみているのか」
 呆然とつぶやく男の傍らで、登坂が鼻を鳴らした。
「ふん。ただの牛男なんぞこんなものだ。自衛隊を舐めるな。俺は件(くだん)の方がよっぽど恐ろしいぞ」

(おいおい、そりゃ俺の台詞だよ)島崎は密かに思った。口には出さない。面倒臭いやりとりになるからだ。
 登坂は黒こげの塊と化した『主』の残骸に対する興味を失ったようだった。辺りを見回す。島は支配者を失った。

「さて、確認する。この島は永く無主の島であったのだな?」
「『主』は妖魔の類だ。人が治めていなかったという意味なら、そうだ」

「よろしい!」登坂は頷いた。胸を傲然とそらし、高らかに宣言する。

「現時刻をもって、日本国政府はこの島を無主地であると確認し、先占の法理をもって日本国に編入する!」
 登坂は島崎を振り返り、人の悪そうな笑みを浮かべて言った。
「島の名前、何が良いかな?」


 2013年1月6日午前11時45分。
 日本国は異世界アラム・マルノーヴに史上初の『世界外』領土を獲得した。


東京都千代田区永田町 総理大臣官邸
2013年 1月6日 16時27分


 執務室にいるのは部屋の主だけであった。
 部屋の調度品は、チーク材で作られた重厚な執務机と、背後に掲げられた日の丸の他は、質は良いが簡素な品でまとめられている。棚に飾られた渋い色合いの井戸茶碗だけが、装飾品としての存在感を示していた。
 窓には分厚いカーテンが引かれている。照明の光度が落とされているため、本来明るい色合いのはずの執務室は薄暗く、どこか重苦しい雰囲気に包まれているようだった。


 内閣総理大臣、上総正忠(かずさ・まさただ)は、いつの間にか凝り固まった背筋を大きく伸ばし、椅子の背もたれに身体を預けた。五十を超えた今でも緩むことのない細身の体躯が悲鳴を上げていた。
 あいつも俺も、いつから寝ていないかな? 報告に訪れた情報分析官が退出するのを見送った上総は、中空を見つめながら思った。盗聴防止のため窓ガラスを震わせている微細な振動音が耳障りだった。

 2013年を迎えた世界は、沸騰した大鍋のようだった。中東で勃発した戦争は、世界経済へ深刻な影響を与えると共に、まるで群発地震のように世界各地に波及していた。
 日本の周囲に限っても、中国国内と朝鮮半島に不穏の種が顔を出しており、関係省庁は正月早々不夜城の如き姿を強いらている。
 おそらく霞ヶ関と市ヶ谷の庁舎の会議室辺りは、ダンボールと寝袋で埋まっていることだろう。上総自身も、ようやく地下の危機管理センターを出て、一旦執務室に戻る機会を得たところだった。

 あの異世界について、曖昧な位置付けで対応するのはもう限界だな。上総はため息をついた。方針と法律の不備が現地部隊に混乱と被害を生じさせている。最早、治安出動云々でどうにかなる状況ではなかった。

 政治が責任をとる場面だ。

 異世界の存在を公式に認め、国家として承認し、安全保障条約を締結する。世界は驚くだろうか? 普通なら俺の気が狂ったと思うだろう。たとえ事実と認めたとして、あちこちから口と手を挟もうとする連中が湧いて出るだろうな。
──だが。
 上総は口元に笑みを浮かべた。
 このどさくさはいい機会だ。国連も安保理も、これ以上厄介事を抱え込む余裕なんかない。連中、中東とアジアで過労死寸前だからな。
 第五次中東戦争への対応に米軍とNATOは注力しなければならなかった。中国は国内が旧正月の花火のようで、よそに手を突っ込む余裕はない。ロシアは中東と隣国がこの有様では迂闊に動けない。
 日本とて余裕が有るわけではないが、何せ『門』は青森県に開いている。

 アメリカの次に安全保障条約を結ぶ先が、ファンタジー世界の国家になるという冗談のような話に、上総が面白味を感じた時だった。

 執務机の引き出しの中で、電話のベルが鳴った。上総は一瞬動きを止めた。引き出しを開けると、懐かしの黒電話が顔を出した。
「やあ、トム。こんな時間に電話とは君も寝ていないようだな──ああ、私もだよ。この年になるとキツいね」 
 電話をとった上総の顔は口調ほど気楽なものではなくなっている。
「──その通りだよ。予定通り発表する。内容については……もうデータは受け取っただろう? トールキンやヴェルヌが話を聞いたら、小躍りしただろうか」

 電話の向こう側と少しのやり取りのあと、上総は目を閉じた。数秒の沈黙の後、彼は電話口に言った。


「君のボーイズにそんな余裕はあるのかい──ああ、分かった。その規模なら、受け入れ可能だろう。担当部局には伝えておく。但し、あの『門』は我が国の領域内にある。遠足の引率はこっちでやるよ。いいね?──うん。じゃあ、おやすみ。ミスター・プレジデント」


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