黄金へ導け紫鏡之蝶 ──『絆』は『夢』── ④

より


『DIO』
【午後 15:54】C-3 紅魔館 地下大図書館


 ほんの数刻前での事に過ぎない。
 この紅魔館の真下に広がる、地下シェルターとしても機能しそうな程に広大な図書館で、二人の男が激闘を演じていたのは。

 空条承太郎とDIO。
 世界に並居るスタンド使いの中でも一際抜きん出た能力を有す、天凛の才を発揮する二人だ。

 ひとつの気質として、スタンド戦というものは早々派手派手しく打ち上がる大花火とはならない。
 無論、“そうはなりにくい”という傾向に過ぎない話だが、例えば幻想郷で日常的に行われる『弾幕ごっこ』の方が余程派手で、見た目にも本質的にも如何に『魅せる』かが勝敗の大部分を占める。
 一方でスタンド戦は、案外に地味な応酬が続く事も多い。スクリーンの中で繰り広げられるような、大規模なアクションやパフォーマンスなど中々見れるものでは無い。

 しかし。
 例外中の例外と称しても良い例が、承太郎とDIOである。
 かのエジプトでも、カイロ市街の上空を駆け抜けながら拳の遣り取りを交わしたものであるし、先の激闘──承太郎の敗戦でも、同様のデッドヒートを経たばかりだ。
 彼らのような、直球に派手なスタンド戦を行える人種は珍しいといえる。薄暗い図書館のそこかしこに刻まれた死闘の跡が、その何よりの証明だ。


「WRYYYYYYYYYッ!!!」


 雄叫びとも絶叫とも聞き紛う、夜の闇の獣が喚声を轟かせた。
 闘争によってエクスタシーが誘発された、興奮状態に置かれたDIOの───吸血鬼の咆哮である。


「NUUUUOHHHHH―――――ッ!!!」


 また別の咆哮が空間全てを劈く。
 吸血鬼の遥か格上とされる、闇の一族。
 サンタナの金切り声が、吸血鬼のそれを凌駕した。

 怪物と怪物。
 此処に交わる二頭の暴獣が生み出す火花は、既にスタンド戦のような奇妙な静けさや謀略とは縁遠く、弾幕ごっこのような可憐さも欠片ほども無い。
 ただただ、敵を喰らう牙を以て、暴力的なまでの蹂躙を叩き付けるのみ。
 ある意味では、何よりも純粋な感情。神でさえ阻害する事は許されない、『自己』を守る為の闘い。

(だがそれは……奴のみが抱える事情だ)

 猛進するサンタナをスタンドの蹴り上げで蹴散らしながら、DIOは体面とは裏腹に心中、静かに観察する。
 このサンタナなる猛獣。彼の気迫には魂が込められていた。
 凶悪かつ荒々しい猛攻の内奥に秘められた、“脆さ”とも称せる一個の感情。
 その正体が、対峙するDIOには分からない。

(関係の無いことだ。このDIOには)

 獣のスペックは人外ならではの脚力と膂力を兼ね揃えた、まさに怪物の如しであったが。
 DIOは既に、承太郎や白蓮といった規格外のスピードスターとやり合っている。奴らに比べれば、このサンタナの動きは惜しくも一歩劣る、といった評価であるというのが、DIOの下した率直な見解であった。

 とはいえ。

「KUAAAAAAッ!!」
「ムッ!?」

 なんの学習もせずに突っ込んで来たサンタナの頭部を、ザ・ワールドが叩き割った───かに見えたが。

 クニォッ

 感触の柔らかい、どころではない。
 不可思議な擬音が目に見えてきそうな程、サンタナの頭蓋が内側にめり込み、DIOの拳は実質的に回避された。

(これだ。彼奴の、およそ理屈の通じない体内構造があまりに変則的。先が“読みにくい”……)

 本体の『盾』としても無類の万能さを誇るスタンドを切り抜け、頭部半分ゴム毬の形を描いたままにサンタナがDIO本体へと急接近してくる。
 どうやら『スタンドそのものに攻撃は通じない』という知能くらいは得ていたらしい。“獣”などという蔑称は撤回する必要があるようだ。
 間合いを詰め込んだサンタナは、敵を切り裂かんと双方の腕を振り上げる。
 舐められたものだ。そう小さく零したDIOは、すかさずサンタナの手首を掴み取って動きを封鎖した。

 が───。

(〜〜〜ッ!? お、『重い』……ッ!)

 事もあろうに、吸血鬼の腕力が圧倒されていた。
 単なるパワーでは、DIO本体の力は『ザ・ワールド』にも引けを取らない。矢の力でスタンドを得た今となっては、戦闘において昔ほど吸血鬼の力に依存する事も少なくなってきたのは事実だ。
 そのDIOが人間をやめて以降、恐らく初めて体験するであろう、吸血鬼をも超えた圧倒的なパワー。
 柱の男の秘めるふざけたスペックが、力比べに押し負けつつあるDIOの体を、足から順に床へ押し潰そうとしていた。

「ぐ……ッ! き、サマ……このDIOと、相撲でも……取る、つもりか……!」

 メキメキと、上から押さえ込まんとする膂力が、DIOの足を少しずつ床にめり込ませる。
 まるで上空からロードローラーでも落とされたかのような重圧に、次第にDIOは根負けを予感しつつ。

「スモウ……? 何だ、それは?」

 DIOとは対照的に、サンタナの顔色は涼しいモノだった。スタンドのもたらすエネルギーは相当なものだが、肝心の本体であるDIOの力は、やはり並の吸血鬼とそう変わらない。
 それを確信したが故の余裕が、サンタナの顔には浮かんでいる。

 余裕が見えるとはつまり、隙を覗かせたという事だ。
 押し組み合いに尽くされたサンタナの、あまりに無防備な背中から───世界の渾身の突きが二度、三度と連撃で入った。
 堪らず腕が離され、本棚の高い壁へと幾度目かになる衝突がサンタナを襲う。


「───相撲、とは。相手を土俵外へブッ飛ばす、もとい押し出す競技のことだ。因みに今の技は、相撲で言うところの『張り手』だな」


 めり込んだ両足を、何でもない事のように床板の下から持ち上げる軽快さは、DIOに積まれたダメージの軽量さを物語る。
 問題は足ではない。如何にも「それがどうした」と言わんばかりに余裕の台詞を吐いたDIOの視線は、今しがた化け物を掴んでいた両手を注視していた。

 ───溶けている?

 否。これは『捕食』の痕跡だ。
 僅かな時間であったのが功を奏したか。虫食いにやられたかのような指の痕は、使い物にはなるようだ。
 痛みも無かった。全く意識の外から、この化け物はぐずぐずと肉を喰らってくれたらしい。
 何と言っても、今腕を掴んでいたのはDIOの方であった。サンタナの手首を下方から掴んだ形では、相手の指先なり掌なりはDIOの皮膚に触れられる体勢とはならない。

「驚いたな。貴様は『皮膚』からでも捕食出来るのか」

 吸血鬼のDIOをして、全くもって不可解と述べずにはいられない。
 DIO達吸血鬼は、指先から吸血を行う。それ自体もあまり類を見ないスタイルであるが、例えば伝承に語られるような一般的な吸血鬼は大概歯先を当て、そこから血を吸うのがオーソドックスというものだ。
 しかし皮膚そのものから取り込む規格外の怪物が居るとは。

 目前に見据えるには歯痒い事実であるが。
 この敵──サンタナ、並びにその一族は。
 根本的に、吸血鬼よりも『格』が上等。
 考古学者ジョナサン・ジョースターは、かの石仮面のルーツを調べあげようと幾年もの月日を掛けていたが。

 そのルーツが……今、目の前に居るようだ。


(お前の求めていた『歴史』そのものが、このDIOの前に立っているぞ。
 なあ……ジョナサン)


 愚かで……尊敬の対象でもある友人の姿を脳裏に思い起こし、悠然と立ち上がってくるサンタナの姿と重ねた。
 本能で理解できる事もある。
 生物の歴史上に積み上げられた弱肉強食のヒエラルキー。その頂点に座するは、DIOではなかった。
 石仮面を作り上げた先人達がいる。とうに滅んだのであろうと、DIO自身軽く考えていた謎の存在が。
 ギリリと歯を鳴らす。不快な気分がDIOの頭頂から爪先までを駆け巡った。

 サンタナに、ではない。
 彼の同胞。石仮面を作った相手へと、である。


「石仮面をこの世に産んだのは、お前か? サンタナ」


 恐らく違うだろうと、あたりを付けながらもDIOは疑問を抱かずにはいられない。
 石仮面は、とてもではないが今の人類に作り出せるような技術から構築された代物ではない。
 オーパーツに近似する、理解を超えた高度な発明だ。医学的に人間の脳の大部分は、まだまだ解明に至れていない未知の領域だと聞く。
 完全に解明するには途方もない時間が掛かるだろうと言われるが、石仮面の発明者は脳を知り尽くした末にアレを産んだのだ。
 そして眼前のサンタナには、知性はあれどどこか幼稚な行動理論が垣間見える。
 到底、石仮面を開発したような天才には見えない。

「…………」

 サンタナの無言は、DIOの疑惑に対する否定の意。
 であるならば、はてさて。残すところはカーズエシディシか、ディエゴの報告には『ワムウ』なる男の名もあった。
 是非とも、拝顔の栄に浴したいものだ。言うならば、今のDIOが在るのは石仮面を作りあげた天才のおかげでもあるのだから。
 謁見し、一言ばかりの感謝の意を示し、吸血鬼の更に上位種である力を存分に味見した後……その生首に石仮面でもコーディネートさせ、屋敷の便所にでも飾ってやろう。

「サンタナよ。私をお前の同胞に会わせてはくれないか?」
「会ってどうするというのだ」

 DIOの振り撒く言葉の種は、適当に躱しながら。
 馬鹿の一つ覚えみたいに、サンタナは踵から爆ぜらせながら駆ける。
 十二分に速い初速を生み出してはいたが、白蓮の速さに慣れていたDIOの前では脅威とまでは言えない。
 結果、何者をも呑み込む肉の拳は、本命に届くことはない。遠距離から鋼玉も撃ち込んではみたが、どう繰り出しても常にDIOの傍に立つスタンドが弊害となるのだ。

 ザ・ワールドの膝打ちが、サンタナの突進力へと反発するようにして、その顎の中心から捉えた。
 即座に粉砕されるべきである顎は、やはり弾力性を揃えた構造が全ての衝撃を逃がす。

「興味があるからな。かの石仮面を作り出した天才とは、果たして如何程に高慢ちきな輩なのか、とね」
「…………」

 口に出す事は憚られたが、サンタナのDIOへの認識は、主──カーズに向ける認識と一致していた。
 即ち……DIOとサンタナは『似た者同士』であるかもしれない、という感想だ。
 DIOという男は、一見紳士的に振舞ってはいるが、所々でその居丈高な本質を隠し切れていない。
 邪人カーズを気飾れば、そのままDIOが生まれるのではないかという程に両者は似通っている。
 であれば、カーズの従者であるサンタナからすれば、DIOを相手取るというのはどうにも遣りづらい。


「……少し、試してみるか」


 不穏な呟きと共に、サンタナの構えが変わった。
 変わったというよりかは、猪突猛進の具現であった今までの浅略的スタイルに、僅かな画策を持ち寄った『構え』らしい構えが加わった、というべきか。
 が、相も変わらず跳躍からの襲撃。互いにダメージが中々通らない泥仕合への予感に、DIOは半ば呆れ気味にスタンドを構える。

「試していたのは私の方だよ。少々、拍子抜けであるがね」

 化け物の攻撃を馬鹿丁寧に回避する必要は無い。
 スタンド使いにとって、非スタンド使いへの対処が如何に容易となりやすいかが、この万能な盾の働きを見れば明らかである。
 宙から注がれるサンタナの襲撃を、ザ・ワールドの全身が食い止める。そこから発生するカウンターの隙は、蓄積を重ねれば化物の膝をも着かせるダメージの起点となるだろう。

 無駄無駄。
 お決まりのセリフを響かせる、その瞬間。


 DIOの左腕が、胴体から削ぎ落とされていた。


「グ……ッ!?」


 想定外の負傷に悶える。
 サンタナが直接、DIO本体に飛び道具か何かを射出した訳ではない。
 奴は正面からザ・ワールドに飛び掛かり。
 効かぬと分かっている拳を、振り抜いた。
 その結果としてスタンドの左腕に一線を入れられ、本体の腕にもダメージフィードバックが作用したのである。

(何か……腕の中から『刃物』のような物が顔出したのが一瞬見えた。スタンドではない)

 攻撃の正体は不明だが、どうやら敵にはスタンドにも直接干渉可能な攻撃の手段があるらしい。
 単に無意味な突進を繰り返していたわけでなく、こちら側の意識に『無策』だと思い込ませる意図があったのだ。
 化け物なりに、浅知恵を使ったというわけか。


「いいぞ。配られたカードは全部使え。生半可な闘争心で、このDIOを半端に煽るなよ」


 激痛を意にも介さぬ調子で、DIOは妖しく笑む。
 殺戮を振り撒く二つの内の、一本が削がれたのだ。吸血鬼にとって腕の欠損など、大した損害とはならないが。
 しかし、この一秒の狭間では、あまりに致命的な戦力の半減。
 サンタナは、その隙を見逃さない。
 今の攻撃は致命傷を逸らされたが、連撃を叩き込むのに充分な隙は与えた。



「         ム…………ッ!?」



 サンタナにとって、DIOへ肉薄するまでの僅か一秒は。
 DIOにとっては、悠久に等しい時の刻みだ。

 今。
 サンタナが抜き身の刃で、世界の腕を斬り裂き。
 脇目も振らずに抜き去った、一秒未満の間に。

 ───後方へ置き去りにした筈のザ・ワールドが、眼前で右拳を握り締めていた。

 全くの無防備であった顔面に鋼の砲丸が撃ち抜かれ、意識の外から打撃を喰らったサンタナの体は、床に二度三度とバウンドしながら木製の机に叩き付けられた。
 今の“不意打ち”にしても、やはりDIOのスタンドは単なる超スピードではない。
 これは他の同胞にすら備わっていない、スタンド独自の特異性だ。
 能力バレを恐れてか。術の使用は最低限に抑えられているようだが、発動があまりに突発的。
 予知も対処も困難だ。気付けば攻撃されているようなまやかし、肉を喰らう暇すら与えてくれない。
 基本的に接近させてくれないのだ。サンタナとて多彩な形態で獲物を喰らう能力持ちではあるが、それらの芸風は直接的な肉弾戦メインである。
 肉片を飛ばして喰らうなどという小細工も、この男相手に果たして通用するのか。

 無残にも両断され、ガラガラと崩れ落ちる横長のテーブル。その下から、サンタナの巨躯がすっくと立ち上がる。
 じわじわと疲弊が溜まりつつあるのが実感出来る。このまま泥臭いファイトを続行した所で、自身の敗北する姿が鮮明に見えつつある。
 やはりというか、DIOの方にはダメージらしいダメージは見られない。
 たった今、体内に仕込んだ『緋想の剣』でたたっ斬ってやった奴の左腕も案の定、元の肉体に帰っていた。

 ふう、とサンタナは小さく嘆息する。
 成程。この敵は、最早ただの吸血鬼には収まらない。
 カーズが危険視するのも頷ける。よくぞまあ、これに単騎で挑ませてくれと懇願できたものだ。
 この挑戦に至るまでも長き葛藤はあったが、過去の自分を顧みれば、些か浅慮であったと思う。


 ───少なくとも……『流法』の獲得を経ていなければ、この段階でサンタナは絶望に塗れていたかもしれない。


「……時にDIO。お前は本物の『鬼』を見た事はあるか?」


 DIOの『世界』の真価もそうであったが、切り札とは迂闊に見せびらかすものではない奥の手。その上、長所と同じほど短所も見付かる形態変化なのも心得ている。
 故にサンタナは、今の今まで使用を躊躇ってはいたが。


「フム。残念だが……“此処”でも、鬼はまだ無いな。
 それとも貴様がそうなのかね? サンタナ君」


 この期に及んで舐められていると分かったなら。
 ここらでもう一丁、ハードルを超えねばなるまい。


「悪いが……オレは『成り損ない』に過ぎん。
 今はまだ、という意味だが」


 自然に浮き出た言葉は、まるでその存在に焦がれるような。
 間違いではない。好きに酒を食らい、自由に謳う彼女達へ焦がれたからこそ、サンタナはこの流法を獲得したのだから。
 そして、生物の頂点に立つべき闇の一族の『成り損ない』としてのサンタナが、自らを卑下するようにこの言葉を告げたのは、果てしなく大きな前進をも意味している。

 鬼の……ひいては『妖怪』の成り損ない。
 同時に、『柱の男』としての成り損ない。
 今やサンタナは、この中間に立つアンバランスな半端者でありながら、新たな自己を会得する旅の中途にいた。


「オレはこの流法に名を付けた。
 ───『鬼』の流法という」


 静かに告げた化け物は、今までとは異なる姿を招き寄せる。
 鬼の象徴とされる大角を生やし、敵を威嚇せしめ。
 額に萃められた極大の妖力は、『堕ちた化け物』から『這い上がる鬼人』へと変貌させる。
 隆々しい筋肉の鎧は、幾重にも強度を重ねたままに、体積のみを萎縮させ。
 地獄の釜から溢れ出たような血液の滾りは、肉体運動を異常な域まで加速させる。


 冠するは、鬼の異名。
 対するは、吸血鬼の帝王。


「DIO。お前は言ったな。“カードは全部使え”と」
「言ったとも。どうやら“鬼札”のお出ましのようだ」


 鬼人が不敵に、帝王を指差した。
 露骨な煽情に、帝王はあくまで余裕を保つ。


「“半端な闘争心で煽るな”とも、抜かしたな」
「ああ。暑苦しいのは、せめて意気込みだけにしておけ」


 前哨戦は終いにしよう。
 ここからは、僅かな時間で明暗が定まる。
 明暗──暗闇ばかりの『奈落』など、闇の一族の本来には似つかわしくないのかもしれない。
 そうだ。一族が目を背けた命題とは、カーズの説いた『夢』が……正しい本能の在り方だったのだ。
 星の胃袋で細々と暮らしてきた一族の弱腰に、カーズもエシディシもいい加減、嫌気が差してきたのだろう。

 だから、主たちは奈落から飛び出した。

 極めて矛盾するような話だが。
 太陽を───光を目指してこそ、我々は真に輝けるのではないか。

 帝王へと飛び掛る間際に、サンタナが一瞬だけ……脳裏に浮かべた『夢』を仰いだ。

 その『夢』は奇しくも、カーズの目指した究極生命体の姿と……一致していた。


▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
聖白蓮
【午後 15:59】C-3 紅魔館 中庭


 紅魔館の敷地、その中央部に位置する小洒落た中庭。
 そこは館主が厭う日光を遮らない、陽に恵まれた土の園。怠け癖のある門番が毎日愛でていた庭園。
 花壇の住人にマンドラゴラが混ざっている事に目を瞑れば、悪魔の館にそぐわぬ女々しい場所であった。

 それも、命の芽吹く春の話。
 現在ここは、色彩が失せ、生命の肌を突き刺すように寒々とした風情と化していた。
 まるで、自然の檻。
 仄暗く、頑なに落ち続ける冬の白羽は、紅の館を白銀へと変えつつある。


「─────────………………。」


 白の絨毯に坐する聖白蓮。
 その形は禅を組み、厳しい自然と一体となる精神統一法の基本。
 バイクスーツとは防寒仕様の作りであるが、経緯が経緯だけに、その下には何も着込まれていない。
 格好と気温を考えれば、雪の直上で身動ぎ一つ見せない彼女の精神は、真に落ち着いた状態にあると言える。


「来ましたか」


 瞑想のさなかである白蓮が、唇のみを開けて語る。
 会話の相手は、静かに姿を現した。


『……その坐禅は、これよりこの土地へ流される血への懺悔。
 そう受取ってもいいのか?』


 雪上を這う白蛇───ホワイトスネイク。
 さくさくと、雅趣に富む足音を鳴らしながら、白蛇は僧侶と対峙した。

『それとも、やはり邪念は振り払えないかな?
 君ほどの大僧正でも、側近の死は重いものか』

 白染めされた土に残る足跡は二人分。
 白蓮と、ホワイトスネイクのもの。
 プッチ本体のものは無い。ここに現れたのは、スタンドのみ。
 そうでしょうね、と。白蓮は口に出さずとも、当然の帰結を心で唱えた。
 本体がのこのこ姿を現したならば、それは果樹園の時と同じ結果にしかならない。
 プッチは絶対に姿を現さない。スタンド戦に疎い白蓮でも、遠隔スタンド使いのイロハはある程度想像出来るところにある。

 あの時と違い神父は正真正銘、白蓮を殺すつもりでこの場に現れた。
 殺意で身を固める決意。
 神父のそれはきっと、今日この日よりもっと……もっと昔に、とうに済ませてきた儀式なのだろう。

 彼に比べ、白蓮は。


「……懺悔。……後悔。
 何れも、私の心の中で色濃く渦巻いているのは事実です」
『人間とは、そういうものだ』
「もう随分昔に、人は辞めたつもりでしたが」
『君は振りまく暴力こそ化け物染みてはいるが、私の目から見た本質は“人間”に見えるがね』


 淡々と交わされる会話。
 本来二人は、言葉によって人々を救う立場にいる者。暴力などという力に依り沿うべきでない。
 それを得ているからこそ、穏やかな気質で互いに語り掛け、説き合う。

「私が、人間。……否定は出来ないでしょう」
『随分と素直だね』
「そして───DIOもまた、人間に見えます」
『……そう思うかい』

 ホワイトスネイクの無機質な口が、真一文字に噤む。
 獲物を喰らう蛇のように貪欲で、白濁で、作り物めいた角膜。水晶体の見当たらない、薄らとした瞳が白蓮を中心に捉えていた。
 こんな剥製じみたスタンドでなく、プッチ本人の表情と相対したい白蓮だったが、それは叶わない。
 坐禅を極め、会話の間にも磨かれた集中力で以て神父本体の視線や息遣いを探ってはいたが、すぐ近くには感じられない。相手は白蓮に対し、相当の警戒を敷いているようであった。


 四秒か、五秒かの無言が続く。
 白蓮は未だ、坐禅を崩さない。
 神父も、続く言葉を待つのみ。


「貴方は、DIOをどう思っているのですか?」


 白蛇の貌は人らしい色を灯さない。
 しかし、スタンドの向こう側で操るプッチの相貌はその時、確かに感情が灯されたように思う。
 瞼を閉じ、瞑想状態にある白蓮の感覚が、その僅かな動きを感知した。

 スタンドでなくプッチ自身の心が、水晶に照らされる輝きのように、ほんの一瞬だけ───穏やかに鎮まった。


『DIO、か。
 私にとって、彼とは…………』


 雪を透き通らせる白蛇が、静かな空に耽る。
 まるで大切な『親友』を想う人間のように。
 まるで愛する『恋人』を憂う少女のように。
 まるで尊敬する『師』へ従う弟子のように。
 まるで崇拝する『神』へ祈る聖者のように。



『私は、DIOを──────。』



 一際冷めた風が、二人の間をひゅうと駆け抜けた。
 耳元を掠めて吹き去った寒風は、神父の言葉を上から塗り潰す程に鋭い。

 それでも、白蓮の耳には確かに届いた。
 嘘偽りないであろう神父の告白は、真の儘に、その尼が聞き遂げた。


「……奇妙な関係、なのですね。貴方と、彼は」


 やがて、白蓮の瞼がそっと見開かれる。
 柔らかな言葉で紡ぎ出された相槌に混ざる感情は。

 エンリコ・プッチへの、憐憫だった。

 白蓮が知るDIOという男の背景は決して多くない。
 スピードワゴンからの人伝で、まず〝悪〟の化物だという漠然とした話を聞かされ。
 実際にDIOを目の前にし、その話には何ら誇張の無い、どころか想像を遥かに超える邪悪の化身だという確信を得た。
 かつてスピードワゴンが、ディオを一目見て『生まれついての悪』と断じたように。
 白蓮もそれに続くことが出来た。DIOは“環境によって悪と成ったのではない”という更なる確信へ。

 しかし、ホワイトスネイクを介して感じ取ったプッチ神父の感情や告白を垣間見て、白蓮の認識に若干の齟齬が生じる。
 これでも多くの人間と触れ合い、人が持つ他人への意識を察する術を育んできた住職だ。
 懐疑を厭う性格が災いとなり、常人であれば目を背けたくなる程の醜悪な裏切りを経験した身であろうとも。

 プッチの、DIOへと向ける視線に。
 悪意や欺瞞は勿論、打算や不実の一切も混ざっていない事が、よく解ってしまう。

 いや、一切というのは言い過ぎたかもしれない。
 人間は、他人との関係に少なからず見返りを求めるものだ。神父とて例外ではない。
 少なくとも彼はDIOに、大きな大きな『期待』のようなものを抱いている。

 まるで『夢』を魅る少年のように。

 そしてDIOの側も、同じようにプッチへと何らかの期待を掛けていた。先に交わされた二人同士の会話や呼吸を見て、白蓮も漠然とそれを感じていたのである。
 この関係性を指して『奇妙』だという感想を抱いた。
 DIOとは間違いなく〝悪〟そのものだが、両者の関係という『絆』は言うなれば、何処にでも転がっているような平々凡々とした繋がりにも見える。

 ありふれた日常こそが、幸福。
 忙しない環境を生きることに必死の人間達は中々それに気付くことも少ないが、平凡さとは至上の有り難みなのである。
 本来であれば、DIOとプッチの関係は模範とすべき正しい姿勢だ。
 しかし。DIOは、黒すぎた。
 水は方円の器に随う。人は、環境や付き合う相手によって良くも悪くもなる諺だが。
 DIOという歪んだ器に魅せられたプッチは、彼の器へと注いだ水を覗き込み、歪に曲がりくねった自らの姿を水鏡越しに見てしまったのかもしれない。

 実に客観的な評価ではあるが、エンリコ・プッチという人間はDIOとは違って、環境で〝悪〟に染まった人間なのだろう。
 白く、純真な少年だったプッチは。
 血塗られた巡り合わせと、『神』の悪戯という環境に放り込まれ。
 徐々に……徐々に黒雫が垂らされる。
 歪んだ器に垂らされた最後の漆黒は、DIOとの出逢いによりじわじわと清水を染め上げていく。
 最早その水面には、純真だった頃のプッチの姿は映ってなどいない。

 然して、ここに一組の吸血鬼と神父の関係が誕生した。
 彼らに起こった背景など、白蓮には知る由もない。
 それでも。神父の本質に、今は亡き『純』の痕跡を見た白蓮は、彼に対して思い浮かべたのだ。

 憐憫、という一重の情を。

 この憐れみの気持ちを口や態度に出すのは流石に非礼に値すると、白蓮は敢えて『奇妙な関係』とぼかすような言葉を選んだが。
 どうやら神父は同情に類する彼女の意中を、白蛇の瞳を通じて汲めたらしい。
 彼は三歩ほど足を進め、その場へとゆっくり座り込んだ。坐禅を組んだ白蓮と同じ目線へ同列するように、胡座を掻いて仄めかす。


『───人間は後天的に〝悪〟を識るか〝道徳〟を識るか。
 貴方の中にある『悪』は……果たしてどこから生まれたのか』


 白蛇が坐して放った言葉は、かつて白蓮がプッチへと尋ねた文句をそのまま復唱した内容。

『君は確か、以前私にこう言ったな』
「如何にも」
『その言を借りるのなら。
 私の本来とは、性善説の下に生まれた一個の〝善〟であり。
 破滅の折、DIOという引力に寄せられ、心に〝悪〟を生んだ……と、なるな』
「別段、珍しい事例でもありません。
 語弊があるのであれば、お詫びします」
『いや…………概ね、その通りだ』

 雪に組み座る白蛇は、予想外なことに肯定を示した。
 以前に会話した時、プッチはまるで“自身が正しい道を歩んでいる”かのように、独善的な視点で語っていたからだ。
 我こそが正義だ、と言わんばかりに。鼻高くする訳でもなく、誇らしげに振る舞うでもなく。
 自分の信念を信じ切って疑わない。当たり前みたいに宣言していた。

 だが彼は今、白蓮の言葉に同調する意図を白状した。
 DIOを悪だと認め、彼に引き寄せられた我が心すらも染まってしまった。
 それを肯定する言葉を吐いたのだから、虚を突かれた白蓮は僅かに目を丸くする。

『DIOは“悪の救世主”と呼称される事もある。自分の部下からに、だ』
「悪の、救世主?」
『そうだ。彼を心から慕う悪人も少なくない。
 面白い事に彼自身も、自分を〝悪〟だとハッキリ断言している』

 つまり、DIOは悪人正機。
 昨今では、自らの正義を神輿に担いで争いを止めない愚かな人間が増幅してきているものだが、DIOのような人物は少し珍しい。

「成程。では、貴方は?」

 気になるのはDIOではなく、プッチの方だ。
 彼はどう見てもDIOとはタイプからして異なり、先述したように歪んだ正義感を揮う人物だと白蓮は思っている。

『例えば……殺人を犯す者が裁判に掛けられたならば、そいつは誰から見ても〝悪人〟に間違いないだろう。
 そして私も、命を奪う側の人間であるのは自覚している。そういう意味で、さっきは君の言葉に肯定したのだ』
「その言い方では、まるで“別の視点から見れば必ずしも悪とは限らない”……と、そう言っているようにも聞こえますが」
『白蓮。君は正しいよ。世の中の殆どの人間は、私の行為を見れば〝悪〟と罵り、殺到しながら指弾しようとする筈だ。
 歪められた報道の向こうの安全地帯で、民衆という弱者の立場をいい事に“これは正義の糾弾だ”などと、自己満足を満たす為のみにのうのうと正義の真似事を行う』

 裏を返せば、白蓮も所詮はその民衆の一部。
 その程度に過ぎないと、言外に指摘されたようだった。

『だが……君の、そして世間一般での〝正しさ〟という象徴は、別のマイノリティー……或いは声を掲げる力すら無い“真の”弱者から見れば、絶大な〝悪〟に映ることもある』
「一理、ありましょう。私共の仕事とは、それら偏った均衡を可能な限りまで釣り合わせる事ですので」

 白蓮の即答には、確固とした信念がある。
 人も妖も等しく救う『絶対平等主義』を謳う彼女の目的こそ、腐敗の一途を辿る妖怪社会の消滅を防ぐ、彼女なりの手段なのだから。

 元より同意を欲しがって語ったつもりなど白蓮には無いが、ホワイトスネイクは彼女の目的を聞くが否や、首を横に振った。
 呆れているというよりは「そんな事が出来るものか」という、にべもなく決め付ける様な態度であった。

『“可能な限り”と君は今、言ったが……。所詮、それが君たちの限界だよ。
 “出来るだけは頑張ろう”と、初めから完遂を目指そうとせず、不可能なハードルには予め布を被せる。
 半端な意志で、半端な目標を達成し、半端な信仰を得て生の糧にする。
 それでも幻想郷などという狭き庭なら、それなりの結果は期待できるだろうがな』
「揚げ足を取るのは止めて頂きたいですね。我々は仏教という形で〝正しさ〟を広める……もとい、説いております。
 そして手段は違えど、幻想郷の至る派閥や有権者達も、最終的な理想は皆同じ地点に在ると信じてます。
 貴方がたから見ればこの囲いは実に狭く、脆く見えましょうが、此処が私達の住む国なのです」


『成程。では聞こう。
 その幻想郷を遍く統べる派閥者とやらの理想に、人間側の意志は本当に在るのか?』


 今度は、即答出来なかった。


『お前は本当に、“人間”と“妖怪”の目指す最終的な理想──つまりは〝正しさ〟が、同じ地点に存するとでも信じ切っているのか?』


 人間と妖怪は、互いに手を取れる。
 白蓮はそれを信じて、人々を導いている。
 だが幻想郷のシステムは、彼女の思想とどうあっても剥離してしまう。
 両派が反目し合ってこそ成り立つバランスの囲いなのだから。
 妖怪にとっても、人間にとっても、絶対的な不平を強いて縛るこの世界に、誰もが納得出来る〝正しさ〟など───


『“迷った”な。聖白蓮』


 ホワイトスネイクの手刀が、白蓮の目先にまで肉薄する。
 居合抜きの形で不意を討つ攻撃に、その尼は坐禅の形を僅か足りとも崩さずに受け入れた。

 ───必殺の能力を秘めた手刀は、寸で止められる。

 指先に殺意が込められていない事を見抜いていた白蓮は、この行為が単なる威嚇や茶番でない事を悟り、彼の次なる言葉をじっと待つ。


『白蓮。君はあまりに永い刻の中に封じ込められていたようだ』


 それは恐らく幻想郷縁起で知見を得た、聖白蓮の背景を指した言葉。
 敵の手にあの妖怪大図鑑がある事を素知らぬ白蓮に、相手が如何にして自分の過去を知ったのかという疑問はあったが、それは今重要ではない。

『君は人々を導く為に聖職を担っているという話だったが……そのわりには人の世に明るくない』
「心外ですが、貴方の言いたい事は理解できます。確かに私は千年もの間、魔界へと封印されていました。
 印が解けた直後には、直ぐに幻想郷に降り立ったものなので、実際の所は俗世に精通しているとはとても言えません」

 従って白蓮の知識は、殆ど千年前の日ノ本で止まっているようなものだ。
 幻想郷は隔離された世界。
 現代の。今の娑婆の情勢について、彼女が見聞を広める術はほぼ失われていた。仕方のない事だと言える。

『十年や二十年程度でさえ、人心は大きく推移するぞ。ましてや千年だ。
 幻想郷では知らないが、“外”では想像だに出来ない変貌が、歴史の節目の度に起こっている。
 節目というのは、言い換えれば“戦争”の事さ。規模に大小はあれど、人類の馬鹿げた争いだけは昔から常に絶えない』
「……何を仰りたいのでしょう」
『不可能だと言いたいのだ。もはや“正しい手段”などに頼っていても、この世は変わらない。人も同じだ。
 そもそも〝正しさ〟とは、環境によって清くも醜くもなる曖昧な標に過ぎん。
 お前のようなちっぽけな女がいくら寄せ集まった所で、たちまち人間達の〝悪意〟に蹂躙されるのがオチだ』


      トクン……


 白蛇の言葉に、白蓮の澄み渡っていた精神に初めて明確な“揺らぎ”が生じた。
 小さな揺らぎは極小の波紋を生み、瞑想によって静かに保たれていた心の水面を僅かに揺らす。
 四辺から零れた一雫が心の外殻を伝い、白蓮の肌に湧き滲む流汗となった。


『今───動揺したのか? 聖白蓮』


 獲物の隙を捉えた蛇が、チロチロと舌を出しながら頭を前屈みに低くした。
 目と鼻の先で手刀を構えたホワイトスネイクの姿をそのように錯覚した白蓮の背に、冷たいモノが過ぎる。

 不覚にも彼女は、一瞬ではあるが気圧された。
 『人間の悪意』というキーワードに、白蓮という女の過去に打ち立てられたどうしようもない楔が呻きを上げてしまった。
 かつて信頼し合っていた人間達から裏切られた悲痛な過去。どうあっても、古傷は癒えたりしない。

『例えば……“肌の色が違う”だとか“産まれたばかりの我が子の死を受け入れられない”だとか。
 自覚・無自覚に関わらず、人間は反吐の出る悪意をバラ撒きながら生きている』

 白蓮とは対照的に。
 プッチの“古傷”は、彼という人間性を大きく歪めた。
 湖に打ち上げられた妹の遺体を前に、生まれて初めて『人殺し』をも為す覚悟を固めた。
 誰を憎めばいいのかすら分からなかった。発端が何なのかも、殺された妹の為に何を為せば善いのかも、何一つ分からない。

 しかし彼は、弟のウェスとは全く違って。
 憎悪に走ることは無かった。
 憎しみよりも遥かに大切な───命を懸けてでも掴むべき『真理』を目指そうと決心したからである。

 目指した場所は邪道。
 殺人をも厭わない手段は、世間からは〝悪〟だと罵られ、木槌を振り落とされることも理解している。
 故に、当時のプッチではまだ力不足であった。弟の記憶を封じたはいいものの、きっとこの先、巨大な困難が待ち受ける。この身一つでは、成す術もなく運命に叩きのめされてしまうのは目に見えていた。

 だから力を求めた。
 物理的な力でなく、概念的なパワーを。
 その為に、かつて礼拝堂で出会った奇妙な男───DIOとの再会を願う。


 この時、彼は〝悪〟へと成った。
 エンリコ・プッチの、悪のルーツだった。


『過去から生まれる恐怖に打ち勝つ困難こそ、人間に課された試練だ。
 白蓮。君は私とよく似ている。私も今では、人類を“真の幸福”へ導く事を使命だと心得ているからだ』

 人間の生んだ悪意の犠牲者となった過去を持つ、エンリコ・プッチと聖白蓮。
 何の因果か、二人は共に聖職へと携わりながら、それぞれの意志・手段で幸福を目指した。
 憎悪に囚われず、かつて自らを陥れた人間達をも含めた『救済』。正気の沙汰ではない覚悟であった。


『幻想郷などという世界の片隅でしか生きていない。
 私とお前を隔てた境界とは文字通り、その大結界とやらだ。
 お前達が言うところでの“正しさで世を導く”という夢物語は、この宇宙では到底通用しない、カビの生えた理想論でしかない』


 最早、正しさという理屈を武器に世界を変える事は不可能。
 若くしてそれを痛感したプッチは、心に従うままに〝正しさ〟を捨てた。
 その様は白蓮から見れば狂気的でもあるが……やはり憐れだという感情が先行してしまう。

 〝悪〟の中に見出した〝真理〟など、どうあっても世の中に綻びしか生まないというのに。


「悪を受け入れ、支配によってこの世の乱れを抑える……。
 貴方の『覚悟』の正体……正しき目的とは、そんな暴虐の彼方に在る真理なのですか」
『支配ではない。そんなモノよりも遥かに崇高で、果てしない“力”を得た者のみが、それを可能にするのだ』


 やはり、プッチと自分は絶対に相容れない。
 先程彼は、自分達はよく似ていると言ったが……白蓮にはとてもそうは思えなかった。
 あたかも達観した目線で物事を説き、白蓮を隔壁の内に見下すプッチは、あまりに独善的に映る。
 自分の行いを悪と自覚してはいるようだが、数多の屍の上に打ち立てる“より大切な目的の為ならば”という小を殺して大を生かす本音の奥には、世界で最もタチの悪い『正義』が顔を覗かせている気がしてならない。


 矛盾するような言い方だが。
 彼は自分が悪だと気付いていない、最もドス黒い悪だ。



「それでは伺いましょう、プッチ神父。
 ───貴方が目指す『最終目的』とは、何でしょうか」



 男は以前、白蓮に向けてこう言い放った。
 本当の意味で人を救うのは『天国』───過去への贖罪なのではなく未来への覚悟だ、と。
 白蓮には未だ推し量れずにいる。

 彼の言う『天国』とは、結局のところ何なのか?
 プッチとDIOの二人は、何を企んでいるのか?




 地面が僅かに揺れた。
 地下に広がる空間で行われている、DIOとサンタナの激闘の余波だろうか。
 中庭の窓の庇に積もった雪が、振動によりぱらぱらと落ちてゆく。

 未だ白蓮は坐を象った姿勢で、今にも襲いかからんとする白蛇の構えを丸腰で待ち受けていた。
 既に絶命必至の間合い。
 敵の攻撃が白蓮の鉄壁を容易く通過する能力に対し、白蓮からの攻撃は全く無効化するというのだから、この距離が如何に彼女の不利を語っているかは、幼子が見たって理解出来る。



『天国とは、時の加速により宇宙が一巡を迎えた“先”にこそ存在する。
 それこそが、全人類が手にするべき真の幸福であり、私とDIOのみが実現可能な〝正しさ〟なのだ』



 荒唐無稽としか思えない文節の連なりが、新雪の中に透ける白蛇の唇から、白い息と共にフッと吐き出された。
 言葉の意味を咀嚼するより早く、白蓮の洗練され尽くした感覚に危険信号が発される。

 時間の止まっていた白蛇の手刀が、生命を吹き込まれたかの如く始動した。

 今度は、本気の殺意。
 スタンドに漲った筋肉の動きを直視するより、息の根を止めんとする邪悪な害意を肌で感じた。
 真横に薙ぐ白き一閃を無抵抗に受けていれば、白蓮とて魂ごと分離されていたろう。
 が、ホワイトスネイクの動きはあのDIOのスタンドに比べると劣る。
 白蓮は坐りながらにして、足を組んだまま攻撃を躱した。
 首を後方に引かせただけの、軽い回避。白蛇の手刀は彼女の髪の毛一本攫う事すら叶わず、虚しく宙を切った。

 当然。殺意を込めたスイングは一振で終わらない。
 ガっと膝を立て、土と雪を蹴りながら白蛇が前のめりとなる。
 重心を地へ伸ばして安定させ、今度は両腕での突き。
 これもまた、全てが空を切る。
 坐禅、つまり胡座を掻いたような不安定の体勢で、上半身のみを紙切れのようにヒラヒラ舞わせた白蓮に、刀の切っ先すら入らない。
 空振り三振バッターアウト。打者の力足らずなどという事は決してないが、ただ其処に鎮座するだけの硬球にバットはまるで掠らない。

 白蛇はいよいよ立ち上がり、覆い被さるようにして尼へと飛び掛る。
 両腕を大きく広げ開け、躱す隙間すら与えずに三方から潰そうと。

 パサ

 ダイレクトの瞬間、雪をはたいたような軽薄な音が響く。
 その音は、まさに雪をはたいただけの衝撃。白蓮が静かに両掌を揃え、雪を被った地面を叩いた音。
 ただのそれだけの行為に、彼女の体は宙へ浮いた。
 座ったままの姿勢で空を浮き、左右と前方から迫り来る攻撃を、残った後方の逃げ道へと跳んで躱した。これが弾幕ごっこなら、難易度イージーもいい所といった低級弾幕だ。

 粉飛沫と化した雪を振り撒きながら、フワリ浮く女が声を投げた。


「貴方は弥勒菩薩にでも成るおつもりですか」


 宙空で姿勢を解き、ようやく坐禅を崩して両足で着地する。
 説の時間は終わり。不本意の気持ちもあったが、やはり彼らは言葉では止まりそうもない。

 白蓮が再び戦闘態勢に入る。
 目に見えて暴の空気を吐き出した彼女を前にし、白蛇も本気で身構えて、言った。


『数億、数十億年というレベルの話ではない。
 この宇宙を一度、直ちに終わらせるという次元の世界だ』


 白蓮の出した『弥勒の世』は、一説には56億年以上も先の未来の話。
 人間世界に弥勒菩薩が現れ、一切衆生を救い、世界を理想郷にするという仏教の思想。

 何十億年、という次元にすらない宇宙の終焉。
 プッチは。DIOは。
 それを人為的に起こそうとしている?
 如何な強大な魔法──禁術を行使したとしても、それ程の大掛かりな規模の術など聞いた事がない。
 スタンド、という異能はそんな事まで現実に移せるのか?

 だが……白蛇の口から轟くプッチの声色は、迫真に迫っている。
 奈落の闇から吹き出す、身も心も凍えそうな谷風。そんな冷気を孕んだ声だ。
 どうやら冗談を言っているつもりではないらしい。


「私は、それを許容する訳にはいきません!」


 男の語る理想は幻想の都でも類を見ない、末恐ろしき野望だ。
 宇宙を終わらせる、という終末は、具体性を得ない計画であるにも関わらず。
 超人の異名を取った大魔法使いをも、震撼させた。
 そこには、バトルロワイヤルという波瀾の枠内に留まらない、スケールを飛び越えた邪心が牙を研いでいる。


『いいだろう。私とお前……どちらの“運命”がより正しい結末に引き合うか。
 試してみるのも良いかもな』


 これは、双方の理解を得る為の戦争などではない。
 元よりそういう覚悟で立ち寄り、向き合う両者は。
 片や、膨れ上がる巨悪の断罪を決意した、善の拳。
 片や、運命に翻弄された男の歪み切った、悪の拳。


「貴方は『救済者』ではなく、哀しく歪んだ『破壊者』です───プッチ神父ッ!」
『ならばどうするね? ひとつ言っておく。
 お前に私は“殺せない” ───聖白蓮』


 善悪の彼岸に立った二人が、飛沫を撥ねらせ交差した。
 賽の河原にてぶつかる、善と悪の幕引きに相応しい紅魔の舞台は。
 ただただ、飛び交う演者たちを嘲るように見下ろしていた。

▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
秋静葉
【夕方 16:08】C-3 紅魔館 一階個室


 白のシーツに包まう静葉へと覚醒を促したのは、小刻みに揺れる床の微振動だった。
 地震だろうか、と虚ろな思考を浮かべながらも静葉の意識は、今しがた見ていた『夢』らしき光景への没頭から抜け出せずにいる。

 DIOの影。そう表現する他ない存在から、幾つもの『声』を囁かれ続けた。
 その声は、静葉の頭の中を掻き回してやまない『殺した者達の声』よりも一層妖しく響き、彼女が持っていた倫理観に溶け込むようにして、いつの間にか消えていた。


 ───代わりに、死者達の『声』は未だに頭へと響き続けている。


 この声は『痛み』だ。
 分不相応の身で殺戮を働いた、静葉が受け入れるべき痛みなのだ。
 痛みは、拒絶するものではない。それはきっと楽な道には違いないが、静葉の望む未来には通じていない。
 自らを苦しめる声の幻聴と、これから先どう折り合いを付けるか。或いは、付ける必要性すら無いのかもしれない。

 声に潰されたら、それまで。
 ゲームに優勝し、妹を蘇生させるという願いは、そういう暗澹とした生き方を選ぶということ。


「今……何時だろ…………」


 客室だからか、この部屋にも館主の嫌う窓は備わっている。
 そこから漏れる黄金色の陽光は、空に広がる乱層雲の隙間から僅かに差し込まれた、希望を思わせる光の筋に見えた。
 つまり、もう夕刻。
 時計の針は16時過ぎを指していたが、部屋に入るなり時刻を確認せずそのままベッドへと倒れ込んだ為、自分がどれほど寝入ってしまったかの判別が付き辛い。実際の所は一時間程度なのだが。

 しかし、随分と深く睡眠を貪った感覚が残っている。
 悪夢のような眠り心地だったにも関わらず、また現在進行形で頭の声は止まないに関わらず、身体に蓄積されていた疲労はすっかりと抜け落ちていたのだ。
 このゲームにて、比較的安全な睡眠が取れる環境を確保できたというのは、間違いなく幸運に違いない。
 肉体的な休息が重要なのは勿論、いつ寝込みを襲われるか用心しながら横になるというのは、メンタル面においても多大な負荷をもたらすからだ。

 見た事もないような豪勢なベッドを心中惜しみつつ、そこからモゾモゾと抜け出した静葉は、同じく立派な装飾の備わったドレッサーの前まで歩んだ。
 鏡面に映る自分の顔は、相変わらず酷いものだった。
 地獄鴉に灼かれた左半分の顔面は健在であるし、ノイローゼの患者みたいに表情には生気が無い。(これは単に寝起きだからかもしれない)
 一番の懸念である箇所……『心臓』には、ハッキリとは分からないが当然のように『結婚指輪』がぶら下がっている感覚もある。
 考えてみればたった33時間しかない制限時間の内、必要とはいえ不意の睡眠に浪費してしまったのは迂闊だとすら思え、段々と焦燥を覚えてくる。

 そもそもたった33時間そこらで、雑魚オブ雑魚神の紅葉神に「俺を倒せるほど強くなれ」と無理難題を押し付けるあの狂人も大概だ。
 まともにやったって敵う訳がないのは身に染みており、多少経験値を掻き集めてレベル上げをした所で、雀の涙にしかならない。


 では、強くなるとはどうなる事か。
 私は既に、夢の中で答えを貰っている。
 その為に何を成すべきかも、理解していた。

 今までそれは、『感情を克服すること』だと信じて戦い抜いてきた。
 間違ってはいない。でも、感情を克服するというのは、感情を捨て死人同然となってでも……という意味ではなかった。
 死人が、命ある者に勝てる訳がない。
 それを、教えて貰った。
 感情とは、決して捨ててはならない『自己』の一部なんだって。


 ───『愛すべきは、その未熟さだ。未熟さこそが自分の最大の魅力で武器なのだと、胸を張るといい』


 彼は戸惑う私にこう言ってくれた。
 こんなどうしようもない自分の事を認めてくれたみたいで、少しだけ嬉しかった。


 ……もう一度、会ってみたいな。





「にゃあ?」


 鉢のまま這って動いたのか。そこらに転がしたままだった気がする猫草が、いつの間にか窓際で日向ぼっこを楽しんでいた。


「ふふ。……あんたは良いね。悩みとか、これっぽちも無さそうで」


 愚痴のような独り言を零し、上機嫌らしい猫草の頭をもにもにと撫でてやった。
 たまに凶暴だけども、もしかすれば愛くるしいペットなのかもしれない。
 しかし私にとって“これ”は、人殺しの道具だ。
 自分に懐く生物として愛でるというのは、誤りなのだろう。


「……なんだか、外が騒がしいな」


 だとしても。
 すぐに訪れる、次の波瀾までの僅かな間だけでも。

 癒しを求めて“この子”と触れ合う時間を作るというのは、弱者である私にとっては……代えがたい『ひととき』のように感じた。

            ◆

マエリベリー・ハーン
【夕方 ??:??】?-? 荒廃した■■神社


 私は、か弱い存在でしかなかった。
 此処にはとても頼りになる男の人と、浮世を渡るに長けた強い女の人が多くいる。
 そんな中で、私っていう存在はちょっと境目が見れる程度の、普通の女の子でしかない。

 だから、かな。
 爪も牙も持たない弱者の私にとっては……こうして紫さんと普通に会話できる今は、代えがたい『ひととき』のように感じた。


「DIOは消えたわ。少なくとも、この世界からは」


 私と紫さんは、町の風景が見下ろせる神社の石段に腰を落としていた。
 クラスの友達と学校帰りに喫茶店で駄弁るような、そんなノリで。
 こんな事をしている場合じゃないような気もするけど、紫さん曰く「此処は時間流の進行が緩慢」らしく、こんな事をするべき場合なのだとか。

 ……時間にルーズ?な所は、何だか蓮子にも似てる。

「じゃあ、蓮子の『肉の芽』も……!」
「残念だけど、消えたのはあくまでDIOの気配。
 此処からじゃあ、あの芽は取り除けないわ」

 いやにあっさり退いたのが少し気になるけど……と付け加えて、紫さんは一瞬だけ目を細めた。

 それにしてもゾッとする話だわ。さっきまで朦朧だった私へと延々囁いていた蓮子の正体が、DIOだったなんて。
 もしも紫さんが来てくれなかったら……そこまで考えて私は、かぶりを振った。せっかく助かったんだから、そうならなかった場合のifなんて考えても詮無いことよ。

 その紫さんがどうやってここまで来れたかだけども、なんでも私の『SOS信号』をキャッチしたから、らしく。
 はて。私には全く身に覚えがないし、支給品の中に防犯ブザー的な物も無かった。
 キョトンとした表情で本人へ尋ねても「乙女のヒミツよ(はーと)」などと、ウインク混じりにはぐらかされた。私の顔でそれをやるのはやめて欲しい。


「紫さん。所で、あの……」


 強引に話題を逸らし……というより、いつ切り出そうか図り兼ねていた事柄があった。
 阿求のスマホに配信されていた『殺人の記事』……その真贋について。
 あの写真に載せられていた人物は、確かに紫さんだ。そっくりさんでも影武者でもなく、今私と会話している彼女本人だというのが私には理解できる。
 更に『被害者』の一人に幽々子さんの従者がいた、という話を私はおずおずと伝えた。どうやら紫さんは、その記事については詳しく知らないらしかったから。

「そう……そんな記事が出回っているのね」
「はい。幽々子さんも内容を知っています」
「で、貴方はその記事……信じてるのかしら?」

 悪戯心を芽吹かせる少女のような。
 真を追求する誠実な大人のような。
 相反する年格好と善悪の含みが、この人の表情に浮上した気がした。
 虚実を混ぜこぜに溶かして周囲を欺く形態を目撃し、彼女が人間でなく妖怪だという確固たる事実を再確認させられる。

「い、いえ! 勿論信じてません!」

 だから私は少し怖くなって、やや早口で答える。
 当然、紫さんを信頼している気持ちに変わりはない。

 でも、次に返ってきた言葉は……私が期待していた内容とは違っていた。


「───残念ながら、事実よ。半分は、だけど」


 静寂の中にガラス玉が落とされたような音が聴こえた。
 不吉な響きは、鼓膜の奥へと驚くほどすんなり入り込んで。
 私は、声を失った。


「その記事を私は見てないから何とも言えないけど……私から言える事実は『二つ』。
 魂魄妖夢星熊勇儀の命は、私が奪った。
 もう一人……人間の男の方は違う。そっちは完全な捏造ね」


 悪びれる様子や、開き直る様子は微塵もない。
 真実を語る彼女の表情は、平然としているみたいだけど。

 私には、どこか『痛み』に耐え忍んでいる苦悶の顔にも見えた。
 それを見て、ちょっぴり安心する。
 やっぱりこの人は、そんな非道を働くような人じゃないと分かったから。

「あら……『人殺し』を前にして、随分お気楽な面構えじゃない?」
「貴方は、人殺しなんかじゃありませんよ」
「随分と知った風ね。一応、人間を攫いもする妖怪なんだけど」
「知ってますよ。貴方の事でしたら」
「さっき、ちょっと怖がってたクセに」
「……バレちゃってました?」
「そりゃそうよ。貴方は『私』なんだもん」

 あはは。うふふ。
 純朴と鷹揚の笑いが飛び交う、微笑ましいやり取り。
 記事のことは杞憂だった、だなんて、幽々子さんの状態を考えればとても言えないけれど。
 その拗れは多分、紫さんと幽々子さんの間でしか解くことの出来ない、複雑なもつれ。
 私と紫さんは、もしかするとただの他人ではないのかもしれないけど。
 幽々子さんの親友である『八雲紫』は、『私』ではない。
 だから、二人の間に『私』が入っては駄目。
 そう思う。

 あぁ。何だかやっぱり、友達ってイイわね。
 そんな事を考えていたら、途端に自分の親友に逢いたくなってきた。


「マエリベリー。幽々子の事は───……〝私〟がきちんと伝える。
 あの子も何だかんだ強い子だから、きっと大丈夫。
 だから、心配しなくていいわ」


 ……?
 気のせい、かな。今、紫さんの言葉のどこかに強い『違和感』というか……妙なニュアンスを感じた気がする。
 言い淀むかのような、若干の迷い……?


「それより、今は貴方のことよ。私のこと、でもあるんだけど」


 不意に感じた私の違和感を強引に拭い去るように、紫さんが話を前に進めた。
 蓮子に早く逢いたい……。私が浮かべたそんな気持ちを掬い取り、本題へ急ごうとこちらに目配せする。

「DIOは貴方に言ったそうね。貴方が『一巡後』の私だと」

 一巡後。
 言葉の意味は正直、よく分かっていない。
 でももし……この場に蓮子が居たなら、彼女はきっと嬉々としてその謎を暴こうとするだろう。
 だって、それが私たち秘封倶楽部なんだから。

「まず確認しておくわ。DIOの語った話は、恐らく事実でしょう」
「どうしてそう言えるんですか?」

 とは返したものの、実際の所、私自身もDIOの話を信じかけてきている。
 少なくとも私と紫さんが魂のどこかで繋がった存在なのだという事は、心で理解出来ているから。
 でもそれは蓋然性としては乏しい理屈。“なんとなくそんな気がする”程度の拙い根拠だ。
 対して紫さんやDIOには、何かしらの裏付けがあるみたいで。

 何食わぬ顔でこの人は、続けて言った。


「だって私、貴方の話にさっき出てきた『スティール・ボール・ラン』なんてレース、初耳だもの」


 スティール・ボール・ラン。
 私だってよく知っているワケじゃないけど、少なくとも私の住んでいる世界の史実には、その単語がちっちゃく並んでいる。
 あのDIOも興味津々みたいな顔で尋ねてきたから私も気になっていて、さっき紫さんと会話してる時に何気なくその話を出した。
 彼女は一瞬だけ考えに耽けるような、神妙な顔付きをしたっきりだったけど、その時は特に突っ込まれることなく場を流された。

「これでも外と内の情勢はそれなりに把握しながら賢者やってる身よ。
 そのレースの開催が西暦1890年だとして、歴史の教科書に載る程度の知名度なら、この私が今の今まで全く見聞きすらしなかったなんて有り得ない」
「つまり私と紫さんは、幻想郷と外界なんてレベルの区切りではなく、そもそも全く異なる『別世界』に住む存在って事……ですか?」
「貴方の話を聞く限りだと、可能性はかなり高くなったわね」

 狐に摘まれたような話だった。
 とは言え、参加者同士の連れてこられた年代が違うって話は既に聞いていたから、スケールとしては大差無いのかもしれないけど。

「でも……もし別世界の人同士だとして、一巡後っていう概念がよく分からないんですけど」

 オカルト……所謂SFの世界では、例えば『並行世界』なんて単語はよく聞くし、私もどちらかと言えば信じてる側の人間だ。
 パラレルワールドといえば、所謂『超ひも理論』にも通ずる考え。ズバリ蓮子の専攻する理論だから、彼女ならこういう話も目を輝かしながらすんなり受け入れられるんだろうけど。
 ……あれ? じゃあ蓮子が私の能力の謎に心当たりがある風だったのは、私と紫さんの関連性に超ひも理論(並行世界)をある程度結び付けられていたから?
 うーん、専門って訳じゃないから私には何とも言えないし、本人を目の前にした今となってはどうでもいいとも言える。

 だけどDIOは『一巡後』と述べた。それはつまり、横ではなく縦に繋がった次元の並行世界。
 ちょっと発想が突飛というか……どうしてそういう結論に至るのかが不明瞭だ。

「そうね……外の人間には、ちょっとその辺のメカニズムは理解し難いのかもしれないわね」

 馬鹿にしたニュアンスではないだろうけど、ちょっとムッとした。
 これでもオカルトを扱う(メンバー全二名の)サークル代表片割れだ。蓮子程じゃないけど、その手の心得なら一般大衆よりも精通してる自信はあるもの。

「───って顔してるのが丸わかりよ、貴方。もう一人の私とはいえ、まだまだ青いわねえ〜」

 ここぞとばかりに扇子を広げて口元を隠す紫さん。
 今度は確実に馬鹿にしてますわよってニュアンスを(扇子の奥では釣り上がっているであろう口元と共に)申し訳程度に隠しながらも、実態は隠し切れていない。
 ……妖怪って、皆こうなのかしら。清廉だったり、おどけたり、本当に掴めない人だ。


「まま。ジョークはこの辺にしといて」


 前置きを終え、紫さんはこほんと咳払いして次へ移る。


 ここから私が聞く話は、まるで青天の霹靂を実現させたような。
 常識では考えられない……『夢』を見ているみたいな話ばかりだった。


「まず初めに───この宇宙は、主に『三つの層』から成り立っているの」



へ→

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2018年11月26日 18:14