黄金へ導け紫鏡之蝶 ──『絆』は『夢』── ⑤

より


『DIO』
【午後 15:54】C-3 紅魔館 地下大図書館


 “変わった”

 火色の後ろ髪を目まぐるしく逆巻かせたサンタナの新形態を目撃し、DIOは実感と共に冷静な解析を終えた。無論、今までとは明らかに毛色の異なる奴の風貌を指しての印象でもあるが。
 特段と“変わった”部分は、見た目以上に戦闘への器用さだ。


「鬼人『メキシコから吹く熱風』」


 二桁にも上ろうかという数の爆炎が、形を保ちながら火矢の如く揃えて撃ち出された。
 大衆の喝采と何ら違わない喧しい音色を放出させつつ、弧を描いて一斉に射られた炸裂花火は、『世界』のみでカバー出来る範疇を追い越した。
 横に広がった弾幕は、DIOが誇る無敵の矛と盾を悠然と抜き去り、その本体の心臓を捉えて飛ぶ。

「ムンッ!」

 吸血鬼の動体視力と跳躍力で、その身に迫る全ての高温弾幕が空を切り、散った。床を蹴り上げ宙を駆け。デカい図体を掲げる重力の次なる足場は、壁。
 DIOは図書館の壁に“立ち”、地上からこちらを見上げる鬼人を忌々しげに見下ろした。

 戦闘への器用さ。つまりはあの形態、サンタナのパフォーマンスの幅が格段に増幅したことに繋がる。奴が『鬼』の流法とやらに転化した瞬間、颯爽と弾幕が飛び交うようになってきたのだ。
 以前までの闘牛を相手取る様に一辺倒とした近接戦から、ミドルレンジの遠距離武器が加わった。ただのそれだけで、攻撃の応用というものは恐ろしいくらいにバリエーションが富む。
 グーしか出さない相手がパーの札を手にした様なもの。こちらがパーを出し続ける限りまず負けは無いが、リスクを避けた無毒の駆け引きで白星を期待出来るほど安い相手ではなさそうだ。
 冷や汗をかこうが危険を顧みず、時にはバクチに打って出て、駒に頼らず王自ら敵を捻り潰す。

 それこそが『真の戦闘』だ。

(だが……それは『一か八か』ではない。オレの求める『天国』に、運任せは必要ない)

 この世で唯一の帝王たるDIOが望む、この世で最大の力。
 まさにそれが───『引力』と呼ぶに相応しい、千万無量の絶大なるパワー。
 賽の目で『六』を望めば『六』が現れるような、不確定の未来すらも自身の決定に引き寄せられるほどの圧倒的な引力。
 万物の理すらも味方にし、不都合な運命を叩き潰す事こそが、男が到達すべき理想郷であった。


サンタナ。君は何故、その形態を手にするに至った?」


 壁へと直立不動したままの状態で、こちらを見上げる鬼人に問い掛ける。
 サンタナは黙して語らず。元々饒舌な生き物では無かったが、意図して沈黙を貫いている──というより、DIOとの会話を避けているように見えた。
 この無愛想な態度にDIOは不服を覚える。一方的に喧嘩を仕掛けられ、意思の疎通すら拒絶されるとは。幻想郷の異変解決においてはよく見られる光景であるが、何かしらの戦う理由が聞きたい所だ。白蓮に対して、DIOが探ったように。

 しかし男は先程、彼なりの答えを既に示している。
 サンタナが、サンタナにとって必要なモノを取り返す為……と。
 DIOはじっくりと襲撃者を観察する。睨め付けるように覗き、心の隙間に手を差し込むのだ。
 相手が放った数少ない言葉や挙動から推察し、逆に何故押し黙ろうとするかも仮説を立ててみよう。


「私が石仮面により吸血鬼の力を願った理由とは、『必要』であったからだ。相応の力を手にするには、秤の釣り合う理由が必要となる。リスクもな」


 DIOの言葉に耳を貸そうともしないサンタナが、傍に立つ本棚へ手を掛けた。大容量に貯蔵する書物の数々を含め、それは相当の重量を占めていると一目に分かる物であるが。
 丹念に床へ固定された巨大な本棚は戒めごと外され、鬼人の腕力により軽々と持ち上げられる。紅魔の魔女が後生大事に蓄えてきた由緒ある本たちが、バラバラと派手な音を立てて舞い落ちない内に、

 ───壁に立つDIOに向かって、棚ごとブン投げた。


「力とはとどのつまり、『勝利』する為に得るものだ。君のその『鬼』のような異形も発端は同じなのだろう?」


 目前に迫る巨大な塊を、何一つ狼狽えること無く『世界』の拳で爆ぜらせる。一点から粉砕された本棚は敵への突進力を失い、無惨にも無数の木片と化した。
 代わりに、本棚の内臓を担う書物たちは一斉に吐き出され、埃の煙幕に紛れながら辺りに飛び舞う。
 敵の狙いがコンマ数秒ほどの撹乱・目潰しだとDIOが悟った時、地上からこちらを見上げていたサンタナの姿は既に消失していた。


「君は恐らく……孤独だった。
 何も与えられず、何も得られず。
 そこに不満を覚えていた嘗ても、過去の幻像。
 気が付けば君は〝善〟も〝悪〟も持たない……〝無〟の兵となっていた。
 その感情の起伏の薄さを眺めれば理解出来るさ」


 夥しい数の書巻、洋書、文献、図鑑、教材、禁書……書という書が、視界を埋め尽くす弾幕と化してDIOへと降り注いだ。
 子供がオモチャ箱をひっくり返したように雑な投擲。それ自体に攻撃能力はさほど無い。従って、本の雨あられなど気に留める必要ナシ。
 敵の動きのみに集中したDIOの視界では、周囲がスローモーションの様に緩慢となって見えている。
 ゆっくりと、疎らに飛び交う本と本の隙間。煙幕の奥が点滅と同時に光り、揺らめいた。
 またもや炎の弾幕。自分の位置を誤魔化す狙いか、一箇所からでなく数点から撃たれた火炎は、宙に舞う書物達を食い散らかしながらDIOへと迫る。


「人間を。或いは吸血鬼を。
 狩っては喰い、狩っては喰い……空腹を満たす為だけの、虚空の人生。
 腹に溜まるのは枯れた肉と、無味の糧。
 空虚と孤独に押しやられ、いつしか君は渇望する事すら忘れてしまった空蝉へと堕ちた」


 DIOは炎が苦手である。
 それは吸血鬼の体といえど熱には……という話でなく、彼の過去──三度経験した敗戦の記憶に『炎』が大きく絡んでいるから。
 だからではないが、男はまずこの火炎の回避に専念した。まだまだ稚拙と言える炎の弾幕は、集中力を欠かずに挑めたDIOによって完璧に見切られてしまう。
 重力に反発する全身を強引に動かしているにも関わらず、固い壁の上をスイスイと歩き回るDIOの足捌きは流麗の一言に尽きた。
 スケートリンクを舞う氷精。男にとってのリンクが氷上でなく壁上だということを差し置かずとも、その所作一つ一つには美しさすら感じ取れるほどだ。
 当然、付け焼き刃で得た弾幕などDIOには欠片も掠る筈はなく。火の粉が燃え移り、赤々と熱を吹く蔵書の数々を生み出すだけというあられもない結果となった。


 瞬間、DIOの目の前にサンタナの『左腕』が現れる。
 目の前に飛んで来たのは奴の腕のみで、本体は見当たらない。肉体を分裂させただけの実に浅い策だ。
 スタンドを前へと回らせ、叩き落とそうと構えるも。
 遠隔操作された片腕の中から先程と同じように『刃物』が突然飛び出し、『世界』の心臓を狙った。
 この武器──緋想の剣はスタンド貫通の威力を誇る、一癖ある得物だ。叩き落としから真剣白刃取りへと瞬時にして対応を変えたDIOは、妖しく輝く切っ先を紙一重で止めることに成功する。


「しかし君は今日。
 おそらく生まれて初めて、“得る為”の戦いに身を焦がそうとしている。
 大花火を上げる筒の導火線は、既に着火されているようだ」


 不可思議な事が起こった。
 煙に紛れていた鬼人の殺気がなんの脈絡もなく、DIOの背後に唐突として萃まったのである。

 背中に、奴が居る。

 しかし解せない。目潰しの撹乱に若干気を取られてはいたが、地上に立っていたサンタナがこの一瞬で背後に回った事に気付かぬほど集中は欠いていない。
 振り返る暇など与えてくれるわけが無い。『世界』もDIOの前方におり、咄嗟の対応は不可能。隙丸出しとなった吸血鬼の首を掻っ切る非情の一撃が、背後より穿たれる。

 ───が、そこにあった筈のDIOの首は、既に影も形も消え失せている。

 まただ。この予兆無しの動きが、鬼人の決定的な一撃を必ず虚空へ逸らしてくる。
 絶好の好機をまたも外したサンタナは、DIOがやる様に足首を壁に突き刺して固定し、焦る心中のままに敵の姿を探した。


「未だ味わった試しの無い『勝利』の味に酔うが為に……このDIOへと挑んだのではないかな? いや、そうである筈だ。
 私に勝つ為、ではない。茫漠とした君自身の『運命』へと勝つ為に、だよ。
 全てを終えた後に呑む美酒は、さぞや美味いだろう。尤も、私は酔いどれが大嫌いだがね」


 無性に響く声の主は背後や頭上の死角からでなく、遥か前方でこれみよがしに腕を組んでいた。
 壁に立つDIOとサンタナの視線が、10メートルの距離を跨いでぶつかる。

 ───ナメられている。

 幾度も訪れた、勝負を決するチャンスを一向に突き詰めようとしないDIOに対し、サンタナが身を震わせるのはごく自然な感情であった。
 サンタナワムウの様に、闘いに礼儀や美風を持ち込む気質ではないが、此方が一世一代の大勝負を仕掛けているのに対し、DIOはと言えば不遜な態度で邪険にしマトモに取り組もうとすらしていない。

 サンタナの苛立ちは募る一方である。

 この10メートルという距離は今までの戦闘間合いから言って、奴のスタンド『世界』の影響範囲外である事までは学習している。
 加えて鬼の流法には弾幕がある。奴を相手取るなら、この区間を維持していれば一先ずは脅威とはならない。


「人が成長するにあたって、勝利することは限りなく重要だ。
 しかし、それ以上に『敗北』が人を根源的に強くするファクターとなる。
 君は今日だけで果たして何度敗北した?
 奈落に堕ち、這い上がった分だけ確実に強くなっている筈だ」


 吸血鬼の頭が後方にククッ……と仰け反った。
 距離を開けたまま訝しむサンタナ。何かする気なのだと、身構えた瞬間……


 ───DIOの唯一開かれている右眼から、凄まじい速度の光線が射出された。


 眼球から圧縮された体液を超高速で撃ち出し、敵を貫く特技。帝王はかつてこの技を生涯唯一の“好敵手”に放ち、殺害に成功している。
 後に別の吸血鬼から『空裂眼刺驚(スペースリパー・スティンギーアイズ)』と名付けられたこの技を男が使用したのは、実に100年前の闘い以来であった。
 一見すれば強力無比な遠距離技であるが、スタンド戦においてはそうとも限らない事が、この技の使用をDIOが躊躇していた理由である。
 連発は不可能であるし生み出す隙も少なくない。殺傷力こそ抜群だが、スタンド相手には容易く防がれる……という諸々の点で、まだ銃を携帯した方がマシだという結論に至ったのだ。

 しかし相手にスタンドという盾が備わっていない場合でなら、この技も大きく有効だ。


「君は初め、自分の名を大きく叫んだ。その名乗りには、きっと深い意味があるのだろうね。
 名前には言霊という不思議な魔力が宿るのだから」


 果たしてDIOが不意打ちで披露した空裂眼刺驚は、10メートル先の壁に立つサンタナの脳を見事粉微塵とさせた。
 光線はそれだけに留まらず、彼が立ち止まっていた壁や柱も纏めて斜めに切断し、図書館ごと真っ二つにしかねない程の巨大な亀裂を入れた程だ。

 それほどの破壊を叩き込まれても、サンタナの身体はそこから崩れ落ちずにいた。
 違う。粉砕したと思っていた鬼人の頭部は、内部から炸裂するように肉片ごと霧散させ、光線を直前で躱していた……というのが真実であった。
 闇の一族の特徴として、骨肉をも畳むレベルの異様な肉体変化があるが、今サンタナが見せた霧散は肉体変化どころの技ではない。
 もはや『霧』と化す領域にまで身体を分解させている。あれでは攻撃など当たらない筈だ。


「何だろうな…………そう、なんと言うか。
 君は『面白い』人材かもしれない。凄く……面白いよ。
 空っぽだったが故にか、吸収するのも早そうだ。
 いや……物事を、という意味で、物理的な食事の方の意味ではない」


 頭部を霧化させ、攻撃を回避したサンタナが。
 今度は体全体をも霧状とさせ、そこから消えた。
 先程、DIOの背後を容易に取れた手段も同じ技によるものだろう。
 あれも『鬼の流法』とやらの恩恵か? 以前よりも輪をかけて変則的だ。
 滅多に披露しない必殺技を躱されたにも関わらず、帝王は感心するように唇を吊り上げる。

 瞬間、霧状となった鬼人が猛烈な勢いで突っ込んで来る。
 ただの回避に終わらず、そのまま移動・攻撃に繋げられる幅広い形態は脅威の一言だ。速度も充分に伴っている。
 迎え撃たせた『世界』は、当然の様にすり抜けられてしまう。勿論狙うは、DIO本体への絶望的な一撃だろう。

 ヒットの直前、霧が集結して人型へと戻った。
 鬼人の構えはシンプルにして強大。

 ───握り締めた右拳を一瞬、DIOの体躯並に巨大化させ、殴り抜けるという暴虐だ。

 どこぞの波紋使いは『ズームパンチ』などという、関節を外して腕を伸ばすように見せかけて殴る子供騙しを好んでいたが。
 目の前のこれは錯覚ではなく、実際に拳が巨大になっている。受ければ重傷は免れそうにないが、そもそもパワー以前にこのサイズの皮膚と接触すれば全身を捕食されかねない。

 さて。カラクリは何だ?
 先の霧状化といい、体積をこれ程まで極端に増減させる事は人体の理屈に合わない。風船ではあるまいし。
 吸血鬼というよりは、どちらかと言えばスタンド使いや妖怪じみた『種』がありそうだ。

 仮説を立ててみた……が、まずは避けなければ。
 いや。身を捻って躱すまでもない。


 これまでの中で、最も巨大な爆破音が空間を歪ませた。鬼人がその規格外なパワーで『壁』を殴りつけ、大穴を開けた振動音だ。
 生物に命中したならば、ミンチと同時に一瞬にて取り込まれる凶暴さ。『鬼喰らい』と称すべき、恐ろしき攻撃。

 ───サンタナの拳は、壁になど打った覚えはない。目の前に居たはずのDIOは消え、代わりに身代わりとなったのは部屋の壁である。
 今度はDIOが避けた訳ではない。拳を打ったサンタナ自身が何故か位置を変え、標的を別の対象へと移された。

 やはり奴のスタンド……瞬間移動などではない。
 まるで───世界を支配するかの如く、自由自在にこの空間を捻じ曲げているみたいだ。


 パチ パチ パチ パチ パチ……


 背後から、耳に障る拍手の音が届いた。
 振り返ることすら億劫だ。だが、いつまでも無残な姿へと変貌した壁の穴など眺めていても仕方ない。
 諦めるようにしてサンタナは、音のする方向へと首を曲げる。


「いやいやいや。やはりだ……やはり君は面白い」


 余裕のままに君臨する帝王の姿。
 相も変わらず、サンタナに対し殺意を向けようとしない。


「パワーも然ることながら、そうまでして私を喰い殺そうとしてくる『執念』に感服したよ。
 この“白熱の攻防”で、君の想いの根源も何となく理解してきた。あまりに純粋な渇望だ」


 今や完全に遊ばれている。鬼の流法をしても、根本的に次元が違う。
 成程、改めて理解した。スタンド戦というものは、単なるパワーの強弱で勝負が決するものでは無いという事を。


「だがサンタナ。君は『不運』だ。恐らく、仲間や主従に長らく恵まれていなかった。
 君の持つ潜在能力を効率よく引き出してくれる指導者に、出会えなかった。嘆かわしい事だ」


 どう倒せば良いのか。
 今のままのサンタナでは、解を導き出すことは不可能とすら思えた。
 マトモな取っ組み合いでは自分に分のある相手。敵もそれを理解しているからこそ、マトモには組み合わない。


 では、どうすれば。


「だが、それも今までの話。
 私ならばその不安を解消してあげられる」


 どうすれば、この吸血鬼を倒せる。

 どうすれば……ッ





「───私の『仲間』にならないか? 〝サンタナ〟」





「ふざけるなッッ!!!!」





 ここが限界だった。
 今まで敵の言葉に返答の意思すら見せなかったのは、会話したくなかったからだ。
 言葉を交わしていれば……自分の中の何かが変えられてしまう。DIOが吐き出す言葉には、そんな魔性の魅力があったのだから。
 敢えて無視し続け、暴流に身を任せる。これが最も自分を傷付けない、最良の近道だと思い込もうとしていたからだ。

 だが──────


「さっきから聞いていれば、ごちゃごちゃと上から目線で……!」
「おや、嬉しい言葉だ。てっきり私の語り掛けは、全て右耳から左耳へすっぽ抜けているものかと諦め掛けていた頃なんでね」


 既にDIOはスタンドすら解除し、サンタナと友好的な関係でも築こうとしているのか、無警戒に歩み寄ってくる。
 その態度も、その言葉も、全てがクソに寄り付く蝿のように鬱陶しい。奴の一挙手一投足が、何もかも苛立たしかった。
 今まで誰にも……それこそ本人にすら不明であった心の内に、土足で上がり込んで来るこの男がサンタナは嫌いだった。他者に対し、こんなにも明確な嫌悪感を抱いたのも初めての事だ。
 これを良い兆候と捉えるか、悪い兆候と捉えるか。その判断を下すに足る人生経験が、サンタナには不足している。


「……ッ、オレは……DIOッ! 貴様を殺しに来たのだッ! これ以上ふざけた事をくっ喋るな!!」
「それは違う。君は私を殺しに来たのではない。運命へ『勝ち』に来たのだ。
 蔑まれ、奈落に転がる自分の運命を覆す、ただ一つの勝利を得る為にここへ来た。
 私を殺すというのは単なる一つの手段に過ぎない」


 どこまで。
 この男は、どこまでオレの心を覗くのだ……!
 何故……オレを『理解』しようとする!?
 どうしてオレを『仲間』に欲しいなどとぬかせる!?
 そんな言葉は、同胞からすらも掛けられた試しがない……!


「一つの手段? 違うッ!
 オレに残された手段は、最早それしかないのだッ!
 ここで貴様を殺し、主から認められるッ!
 そうしてオレはもう一度、証明しなければ───」

「───私なら」


 猛る声を遮るようにして、DIOが。
 とうとうオレの眼前にまで歩み、足を止めた。


「私なら……君が再び『在るべき場所』へ返り咲く手段を、きっと用意できるだろう」


 伸ばされる腕は、友好の証。
 握り合う掌は、信頼の証。
 だとするなら。
 オレは目の前に差し出された、裸の腕を───







「ほざくな。誰が吸血鬼の下なんぞに」


 払い除けた。

 DIOの腕に殺気の類は込められていなかった。
 不意を打って殴りつけても良かったし、握り返すフリをして喰えば全て丸く収まったろう。
 どういうわけか、それを行う気になれなかった。

「下、か。別に侍らせるつもりは無かったが」
「同じ事だ。たかが吸血鬼にオレの心は理解出来ん」
「究極的にはそうかもしれないがね」

 開き直った様子でDIOは払われた掌を引っ込め、やれやれと軽く首を振った。
 こうなる事はあたかも予想していた、とばかりに半笑いを作りながら。

「個人の抱える葛藤や痛みは、所詮他人とは共有出来ない。
 だが『干渉』し、和らげる事は出来る。君はそれを望まないかもしれないが」

 当然だ。相手が敵なら尚更の事。
 虫酸の走る輩だ。体の良い話を建前に置きながら、本音ではオレを使う気満々の癖して。

「お前がオレのメンタリストになるとでも? ……馬鹿馬鹿しい」
「いや。その様子なら君には言葉など必要無いだろう。だがこれもまた『引力』かな。偶然にも君と似たような境遇に陥った者がいる。私も先程少し話しただけだがね。
 白状してしまうと、彼女との会話を済ましていたからこそ、君の背後にある『闇』をある程度予想出来たに過ぎないのだよ。人と人の共通点ってヤツだ」
「…………関係、ない」

 そうだ。コイツが何を話そうと、誰と引き合わせようと。
 関係などあるか。オレはこの男を殺しにここまで来たのだから。


 ───だが、毒気を抜かれた。


「おや。鬼の流法とやらは終いかい?」
「……興が削がれた」

 ワムウみたいな台詞を吐く。切羽詰まった状況を顧みれば、興などで動く訳が無いというのに。
 流法が解かれ、ドっとのしかかる重みを内身に隠しながらDIOへ背を向ける。
 やはり持続時間は長くない。コイツにマトモに闘う気がない以上、これ以上は不毛だった。

 だが、背を向けてどうする。
 今やオレ自身、先程までの昂りが嘘のように静まり返っている。焼け石に冷水を、掛けられすぎた。

「お帰りかね」
「……お前の顔を、見たくない」
「世知辛い事だ。戻る場所があるのなら止めはしないが」

 痛い所を突く奴だ。分かってて言っているのだろう。
 そうまでして、オレを引き止めたいか。
 〝サンタナ〟の価値を、他の誰でもない……こんな吸血鬼なんぞに見定められる、など。

「君さえ良ければだが、会って欲しい人材がこちらにもいる」
「……オレに、大人しく応じろと?」
「好きにすればいい。気に入らないようなら喰っていいし、力は全く以て脆弱な少女だ」
「さっき言ってた奴か? 毒にも薬にもなりそうにないが、オレに何のメリットがある」
「少なくとも、君はこのままノコノコ戻る訳にもいかないんじゃあないかな?
 会って君がどう感じるかなど誰にも分からないし、ならばメリットが無いとも言い切れない。意地の悪い方便の様で、少しズルい言い方かもしれんがね」

 方便、というのは言い得て妙かもしれない。
 DIOという男は、方便で相手を絡み取り、望むがままの道にまで誘い込むようなタチの悪い芸達者だという事がよく分かった。
 こと今のオレにとっては最悪の相性だ。

 さて。この申し出をオレはどう受け取るべきなのだ?
 正直、揺れている自分がいること自体に驚愕せざるを得ない。
 コイツは我々からすれば舐め腐った傲慢さだが、皮肉にも今のオレはそういった誇り高いプライドを失った、謂わばマイナスの立場だ。

 だからこそ、言葉に揺さぶられる。
 だからこそ、心中では無視できずにいる。
 オレの精神が弱いという、何よりの証明だ。


「……少し、ここで頭を冷やす。
 そいつをとっとと連れて来い」


 出した結論は、身を任せる事であった。
 なるように、なれ。そんな身も蓋もなく出たとこ勝負の、受動的な成り行きに。
 しかしそれは決して従来みたいに主体性を持たず、無心が儘……という意味ではない。
 己に芽生えた確固たる意志が、自分から急流に身を投げたのだ。端から何も思考を産まず、ただ河の底で蹲るだけだった今までとは異なる考え方だった。

「嬉しいよ。彼女の方も、君とは多少『縁』がありそうでね」
「何だっていい。オレはオレのやりたいようにやらせてもらう」

 すっかり肩も透かされ、オレはドスンとその場へ胡座をかいた。
 DIOの側もやはり害意は無いのか、はたまた本気の本気でオレを誘う腹積もりなのか。乱れた衣服を几帳面に正し、脱ぎ捨てられていた黄のマントを肩へ掛けてこの場を気障に離れる。


「おっと、そう言えば……?」


 出入口に足を向けていたDIOが、唐突に振り返った。
 なるべくならコイツの言葉をこれ以上耳に入れたくないのも事実なので、オレも心底気だるげな表情で視線を返す。

「一つだけ、聞きたい事柄があったのを思い出した」
「……?」
「先程の戦闘で君が見せた、身体を霧状に分散させる技。アレは元々君の持つ能力か何かか?
 無粋だが、気になった事があれば“昼”も眠れないタチでね。種明かしをお願いしたいのだよ」

 何かと思えば、そんな事。
 あの技は夢中で“再現”したものだが、以前のオレでは到底真似できない芸当だ。他の同胞であろうと、同じく。

「……能力の種明かしを望むのはお互い様だろう。答える義務がオレにあるのか?」
「フフ……すっかり嫌われ者か。まあ、拒否して当然。誰しも手の内など知られたくはないからな」

 そうとも。それが知れれば誰もこんな苦労などしていない。

「だから少し、推察してみた」
「お得意の当てずっぽうか」
「そう言うなよ。自説をひけらかすのも私の趣味みたいなものだ」

 この余裕がオレとDIOの違いなのだろうか。早くも友達気分でいるのか、DIOは床にバラ撒かれた古本を興味無げに拾い上げ、実に適当に中身を開きながら颯爽と自説とやらを語っていく。

「私たち吸血鬼も肉体をバラバラにされた程度なら本来は再生できる。
 その応用で君は細胞をマイクロレベルにまで分解させ、大気中にて再構成させた」
「口で言うなら簡単だな」
「無論、簡単どころの話ではない。が……幻想郷にはかつて、それが出来る『鬼』が居たようだ」

 驚きを通り越して、呆れてくる。
 どうしてDIOがあの小鬼を知っているかはどうでもいいが、その博識さがあの異様な分析力に磨きをかけているらしい。

 密と疎を操る程度の力。
 闇の一族の持つ能力と、奴を取り込んで得た莫大な妖力を掛け合わせて構築した、簡易版能力と言った所か。
 再生力に関して異常な力を発揮する我々の力は、小鬼の操る『分散』と『集合』の能力とは非常に相性が良かったらしい。
 悔しいがDIOの予測は殆ど正解だ。霧状になったり、一部分を巨大化させる能力は、闇の一族の力の延長線に過ぎない。
 あの小娘から得た力が、それらを助長し発展させたのだ。これで尚、未完成な所は自覚もしているが。

 人は幻想に干渉され、現実を形作る。
 あの本に綴られていた理が、此処ではオレに味方した……といった所か。

サンタナ。君は恐らく、まだまだ伸びる。渇きとは、人を無際限に強くするものだからね」

 男が背中越しに語る言葉は、馬齢を重ねただけのオレよりも遥かに豊富で重厚な歳月を生きた……老練家を思わせるアドバイス。
 しかし半端に残った種としての矜恃が、奴の言葉など真に受けまいと腹の奥でもがいている。
 それはそうだろう。少なくとも以前のオレならば耳を傾けることなく、空の心を揺すぶられる事なく一蹴していた。

「……オレの主は、お前ではない。カーズ様だ」
「君の渇望から生まれた『性』は、そんな形だけを取り繕った忠義で慰められるのか?」

 主の名を出すオレの声色に含まれた、ほんの些細な機微でも感じ取ったのか。
 オレの、主たちへ捧ぐ忠義心が、体裁を守るだけの荒廃した忠義だという事にDIOは気付いてしまっている。

「埋められん。ひとたび遠のいた威光を再び手にするには途方もない努力と、チャンスを懐に引き寄せる『引力』が必要なのだ」

 DIOは。
 オレにとってのカーズの立場に、なり変わろうとでもしているのか。

「私はただただ……君を惜しいと思う。
 この先を決めるのは君自身だが、私とて頼りになる『仲間』が欲しい切迫した状況でね。出来るなら良い返事を期待しているよ」

 ……違う、らしい。
 オレを、オレの能力を、惜しいのだと。
 去り際に放った一言は、またしてもオレの心を誘う蜜の味を占めていた。


「では、また。件の少女には話を通しておこう。
 蓮子。……それと、青娥もだ。上に戻るぞ」


 奴の部下らしき──戦闘に巻き込まれないよう端で備えていた黒帽子の女と、一体何処に潜んでいたのか、ヒラヒラの服装をした妖しげな女が上から降り、共にDIOに付き添って行った。
 奴にも部下がいる。そいつらは何故、DIOに従うのか。
 尊敬か。支配か。興味か。いずれにせよ、今のオレに理解出来よう筈もない。



 残ったのは、オレ独り。
 今までの喧騒が嘘のように、辺りは静まり返っている。


「───オレは、奴を殺しに来た……筈だったがな」


 醜態以外の何者でもないが、このまま撤退するのが無難だ。
 実際、一刻も早くここから去りたい気持ちで一杯だった。
 それを、やらない。気力が湧かない。
 何故か。
 DIOという男の魔力が、オレを捕らえて離さない。
 それは同時に……オレの未来から訪れる、また別のオレの姿が。
 ふとした時に、瞼の裏に浮かんでくるからなのかもしれない。


 火に飲まれ、半分が灰となった本が傍に落ちている事に気付いた。
 何となしにそれを手に取り、読める部分をパラパラと捲ってみても……内容は、全く頭に入ってこなかった。
 手持ち無沙汰と感じているのは、迷いが生じているからだ。


 オレは今、途方もない『選択』を強いられていた。


            ◆


「感心しないな、青娥。君にはメリーの護衛を命じた筈だったが」


 臆面もなくしゃあしゃあと背後を付いてくる邪仙の顔は屈託なくニヤニヤしたそれであり、彼女の良好な御機嫌が窺えた。
 その機嫌の根源など簡単に想像はつく。彼女の気質を考えれば、非常に心震わせる『見世物』をタダで観られたから、以外に無かろう。

「気付いておられたなんて、DIO様も一言言ってくだされば……。でもその点は本当にお詫びのしようがありませんわ。
 不肖、青娥娘々……居てもたってもいられず。気付けばその足は、一散に会場の陣取りへ泳ぎ出し。その手は、一心に貴方様への応援の鼓舞へ回り出し。
 ……あぁ、淑女としてお恥ずかしい限りです」

 言葉とは裏腹に、青娥の表情からはお恥ずかしさや申し訳なさ、必死さといった感情は見当たらず。ハッキリ言って癪に障るのだが、実のところ私は大して怒りなど抱いていない。

「元々、予想済みだったさ。君の軽薄な行動はね」
「まあ、人が悪いですわ。……と言っても“そうだろう”と私自身思ったからこそ、こうして堂々と抜け出たんですけども。
 ───メリーちゃんと八雲紫。あの二人を、会わせてみたかったのでしょう?」

 邪仙の胡散臭い笑顔が、一層影を増して黒ばむ。やはりこの女は相当に鋭いようだ。普段の奔放とする姿も偽りではなかろうが、腹に一物二物抱えた曲者である事を再認識出来た。
 部下としては正の部分も負の部分も持ち合わせる、組織を掻き混ぜるタイプのイレギュラーだ。そこがまた、彼女独自の素晴らしさだとも思うが。
 なので青娥の命令違反に関しては咎などあろう筈もない。そんな事よりも遥かに重要な計画がある。

 メリーと八雲紫を会わせる。
 それこそが私の目的の一つであり、眠りについたメリーを一旦は手元から離した理由だ。
 ディエゴの支配から解き放たれた八雲紫は、きっとメリーの奪還に戻ってくる。思ったより随分早い帰還ではあったものの、私の予想はズバリ的中したようだ。
 奪還の際、私が傍に居たのでは向こうも警戒を敷いてくるであろう事も踏まえ、敢えて部屋に置いてきた。青娥を護衛に命じたのは一応の体裁であり、興奮した彼女がすぐさま護衛対象を放置して来ることも計算済みだ。
 まあ、私のその予想すらも邪仙が読んでいたことはやや慮外ではあったが。

「……理想としては、二人を会わせるのはメリーを支配下に置いた“後”の方が都合が良かったがな」
「紫ちゃんが館に戻ってくるタイミングが、想像より早すぎたという事ですね」

 既に肉の芽内部で二人が出会った以上、恐らくメリーの陥落自体は難しくなった。傍にいる八雲紫がそれをさせないだろう。
 が、それならそれで構わない。優先順位はあくまで、メリーの『真の能力』……その羽化にある。
 きっかけは恐らく、メリーと八雲紫の邂逅。二人が『一巡後』の関係という予想が正解ならば、この引力にはきっと意味がある。


「───DIO様」


 後ろを歩く蓮子が、少々困惑気味といった様子で私に声を掛けた。言わんとする内容には予想も付くが。

「肉の芽の事だろう? 蓮子」
「はい。芽に侵入してきた相手は、八雲紫のようです。……申し上げにくいのですが、これでは今すぐメリーを堕とす事が困難になりました」

 蓮子の肉の芽の内部という事は、私の中という事でもある。初めにメリーと竹林で会話した記憶が私にもあるように、現在蓮子の肉の芽で何が起こったかは朧気ながら把握出来ている。
 と言っても、それは紫が現れた時点までだ。意識のみとはいえ彼女が見張る今、メリーとの間で何が起こっているかは私とて知る手段が無い。
 尤も、芽の中の『私の意識』を退かせたのは敢えてだ。全てはメリーの能力を円滑に引き出す為の舞台作り。彼女らにとって、私という観客すら邪魔者以外の何者でもなかろう。

「肉の芽の中で起こっている事柄については、流れに任せよう。定められた方向に反発するエネルギーというのは、気難しい運命からは排除されてしまいがちだからね」

 八雲紫は、メリーの覚醒に必要不可欠な要因であるのは間違いない。
 逆を言えば、紫の価値とはそれ以外に無い。長く生かしておけば、必ず大きな障害となる筈。


 早めの始末も、考えておかなければ。



「ところで〜。さっきDIO様が撃った『目ビーム』……隠れて見ていた私に危うく直撃しそうだったんですけど!」

 光線によって千切れたであろう羽衣の端を見せつけながら、青娥が不満げに頬を膨らませた。どうせ安物だろうに。
 もう10センチほど右を狙っていれば、そのお喋りな口ごと削ぎ落とせたろうか……と、私は冗談半分真剣半分に思いふけながら、プッチが待つ上への階段を登って行った。

▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
聖白蓮
【夕方 16:07】C-3 紅魔館 食堂


 神父服を纏った男が、無様に転がっていた。
 横転した椅子の背もたれ部に何とか肩を掛け、息も絶え絶えといった様子で睥睨する男の姿は、相対する白蓮から見れば滑稽には映らなかった。

 荒い呼吸が示す通り、彼は重傷を負っている。たった今、白蓮が痛め付けた傷だ。
 足を折られ、腕を折られ、アバラを折られ、とうとう立つこともままならない症状で口を動かす男の表情に浮かぶは、どういう訳だか不敵の色。
 白蓮の嗜虐心が今の満身創痍な神父を作った訳では決してない。免れなかった戦いの中、彼の殺意を伴った抵抗の結果として、男はこうして虫の息となっているに過ぎないのだから。

 容易に、とまでは言わないが、こうもあっさりと男が追い込まれたのは、プッチと白蓮の力量差を考えれば至極当たり前と言えた。
 邸内に身を潜ませながらの攻撃とはいえ、壁という壁を破壊しながら猛烈な勢いで本体を索敵する白蓮を止めるには、ホワイトスネイクでは過ぎた強敵である。
 猛追する白蛇をいなし、奥に長く伸びた食堂ホールに身を隠した神父を発見するのに、大した時間は掛からなかった。
 そうなってしまえば、均衡していたように見えた戦況など器から溢れ出した水の様に儚く、止め処無いものである。元々負傷も多かったプッチでは、結果として成す術もない。

 病院送りは確実である負傷と引き替えに神父が得た僅かな戦果と言えば、白蓮の体力と、取り分け厄介な得物『魔人経巻』の強奪くらいだ。
 割に合わない結果。

「……どうした。早く、やれ、よ……白蓮」

 だと言うに、男の苦し紛れに放った間際の台詞は、諦観や虚勢とは程遠い場所からの───挑発するような一言である。

「……その台詞は、私を試している……おつもりですか?」

 サーベル状に尖った独鈷を右手にぶら下げ、白蓮はプッチを見下ろしながらくたびれたように言う。
 魔人経巻を奪われた今、以前までの常識外れな速攻は発揮出来ない。攻撃の合間に詠唱を挟む必要があるからだ。
 が、それもこの戦況なら些事でしかない。右手の武器をプッチの胸へと、ケーキにナイフでも入れるようにストンと差し込めば、それだけで決着する。

「試す……? それは、違う。
 急かしている、だけさ。勝負は君の勝ち……だ」

 プッチは戦いの前に、こう言った。
 聖白蓮では私を殺すことは出来ない、と。

 確かに、白蓮は甘かった。
 それは彼女が戒律上、決して殺生を行わない人物である事をプッチが理解していた事も含まれるのだし、現にこうして彼女は未だにトドメを刺そうとしない。
 白蓮が本気でプッチを無力化させるつもりであれば、戒律など捨てて殺すべきである事も自分で理解出来ているだろうに。

 単に、決心の時間を要しているだけだろうか。
 又は、彼女に人殺しなどやはり荷が重いのか。
 どちらにせよ、と男は思う。
 こうなる未来も、初めから『覚悟』していた。
 だからこそ、プッチの顔には恐怖の片鱗すら浮かばない。

「……ジョルノが、さっきから見当たらないな。
 息の根を止めるトドメだけは彼に任せようという魂胆ならば、聖女が聞いて呆れるが」

 気にはなっていた。一緒だったジョルノ・ジョバァーナの姿が無かったことに。
 隠れた陰から不意打ちの可能性も考えたが結局音沙汰は無いし、そもそもプッチにはジョルノの位置が『感知』出来る。すぐ近くには居ない事が分かっていた。
 今更彼の行方を尋ねたって無益な行為だ。女に叩きのめされ、録に動けぬ体たらくとなった今では。

「最初に申した筈です。私は……聖女でも何でもない、と」
「その、ようだ。……君はやはり、人を導くに足る覚悟を有していない」

 人が敗北する原因は……『恥』の為だ。
 人は恥の為に死ぬ。
 あの時ああすれば良かったとか、なぜ自分はあんな事をしてしまったのかと……後悔する。
 恥の為に人は弱り果て、敗北していく。

 つまり。

「つまり……人は未来に起こる不幸や困難への『覚悟』を得る力を持たないから絶望し……死ぬのだ」

 荒い息を整えながら、白蓮がプッチの前に立った。
 手には独鈷。弱々しい魔力ながら、殺しには充分な威力を保った形状を漲らせる。
 見上げる神父の顔は……覚悟を決めていた。

「それは……貴方自身の体験談ですか? プッチ神父」

 後悔が人間を弱らせ、死なせる。
 ある町で神父に起こった悲劇は。
 確かな後悔を、青年へと齎した。

「そうでもある。しかし私のそれは、既に過去の話だ」

 一人の吸血鬼との出会いが、青年を後悔の呪縛から解き放った。
 天国。親友となった吸血鬼が呟いた其の場所に、いつからか神父は夢を見た。
 其処は、この世の全ての人間が『未来』を一度経験し、覚悟を得られる理想郷。

 加速する時の中……宇宙のループを経て元の場所へと帰り着く。
 予め予定されている未来。目指した場所とは、其処のこと。

 故に、今のプッチに後悔は無い。そう呼べる感情など、過去に置いてきた。
 妹を失った残酷な運命すら、神父を上へと押し上げる糧へと移り変わった。

「君には無いモノだ。過去を乗り越えられないままに迷う、未熟な君には……ね」

 まるで『勝利者』は、手も足も出せず立つ事すら出来ずにいる神父の方なのだと。
 まるで『敗北者』は、武器を振り上げ男の心臓を狙っている聖白蓮の方なのだと。

 悟ったように嘲る男の貌が、裏側に隠された真意を如実に表していた。

 恥、の為。
 後悔。
 聖白蓮には、振り払えるわけのない邪念がある。
 寅丸星への後悔が、未だ腹の底で疼く。
 神父が指しているのは、その事に違いなかった。
 曇ってしまった心眼が、白蓮の最後のラインを割らせる。

 命を、奪う。
 邪気も萎縮も漂わない、彼女の最後の覚悟。
 それは───
 『神父らを生かしては、きっとまた後悔する事になる』
 『無関係である穢れなき生命達が、消えてしまう』
 そんな未来を危惧し、自らの手を穢すことも厭わない覚悟。
 地獄にも堕ちてやらんとする覚悟が、泥のように重たらしい彼女の腕を動かした。

 この覚悟を固めた時点で、私は清らかではなくなってしまう。
 もう誰かを導く資格など、失ってしまう。
 それでも、と。
 邪心を持つ神父を止めるには、その生命の脈動をも止めるしかないと彼女は判断する。


 独鈷の切っ先が、神父の臓腑を穿つ寸前。
 男の額から、見覚えのある───煌めく『円盤』が半身を覗かせたのが、

 白蓮に、見えた。


 攻撃が、ほんの一瞬……緩む。



「やはり最後には、『ジョースター』が私に味方した」



 神父が邪悪にほくそ笑んだ。
 額から飛び出た『ジョナサンのDISC』を見せ付けながら。
 致命的な動揺を抑えきれなかった白蓮の額に、白蛇の牙が噛み付いた。


 戦いは終了した。
 女の両眼から、生命の灯火が尽きて。


            ◆

マエリベリー・ハーン
【夕方 ??:??】?-? 荒廃した■■神社


「三つのUですか?」
「層ね。層。───『三つの層』よ」


 雨上がりに掛かる虹景色をバックに、紫さんはそう言った。聞き慣れない単語を耳にしたからか、私もつい変な返しをしてしまったけれど、紫さんは冷静に訂正を入れながら『この世の理』について語り始める。

「この世には──いえ、あの世にもだけど。『異界』と呼ばれる数多くの世界が存在しているの」

 異界。普通の人間ならばそんな言葉を聞いた所で、変な顔となるか、一笑にふせるのかもしれない。
 勿論、我が秘封倶楽部はその限りではない。
 私にとっては、特に。

「冥界、地獄、天界……といった具合にね。そして異界には何らかの特殊な条件か力が無いと行き来出来ない。
 さて。貴方にも身に覚えがあるんじゃないかしら?」

 それは、日常の中に隠れる非日常。
 別の言葉では『結界』とも。

「貴方は過去に幻想郷を訪れている。それも何度か。幻想郷は、貴方にとっての『異界』となるわけね」

 紫さんの言う通り、私は自分の能力によって幻想郷に赴いたことがある。
 いえ、あの時は其処が幻想郷だなんて知る由もなかったかもしれない。ただ元の世界とはちょっぴりだけ違う場所の不思議な土地、程度の認識だったと思う。
 そんな体験があるからか、紫さんの話は特に引っ掛かる事なくスムーズに受け入れられている。
 少なくとも、ここまでは。


「ここからの内容は……マエリベリー。
 ───物凄く『重要』な話になる。心して聞きなさい」


 そう前置きする紫さんの顔つきが、僅かにシリアスなものへと澄まされる。
 思わずゴクリと唾を飲んでしまった。この人はユーモアも備えた多様な女性であったから、そのギャップに余計に空気が強ばる。


「この世界は三つの層から成り立つ。
 まず、生き物や道具などがある物理法則に則って動く『物理の層』よ」


 曰く、物体が地面に向かって落下したり、河の水が流れたりするのがこの層だと。
 万物が万物たる所以。私たち人類は永い時間を掛けて、この物理法則と呼ばれる真理を解明してきた。そしてそれらの探究は、これからもずっと続くのだろう。


「二つ目は『心理の層』。心の動きや、魔法や妖術などがこの層に位置付けされる」


 曰く、嫌な相手に会って気分を害したり、宴会を開いてわだかまりを解いたりするのがこの層だと。
 先程の物理の層とは真逆で、こっちは精神的な働きで構成される世界らしい。未解明の領域という意味では、物理の層と然して変わらない。私からすれば目に映らない分、心理の層の方がミステリアスな域の様に思える。

「大抵の妖怪はこの『物理の層』と『心理の層』の理だけで世界を捉えているから、歴史が繰り返したり、未来が予定されているといった戯れ言を言うものよ」
「歴史が……繰り返す?」

 何気なく述べられた“歴史が繰り返す”という言葉に、私は多少引っ掛かりを覚えた。その疑問を解消するべく、紫さんは自らの説明に補佐を加えながらフォローしていく。

 曰く、ご存知の通り(それほどご存知でもないのだけど)妖怪とは長命な生き物。永き寿命を生きる彼らからしてみれば、人間の百年にも満たない活動は、生まれてから死ぬまで同じ事を延々繰り返している様に見えるのだと。
 付け加えるなら、人間の人生がある一点の時期にまで辿り着くと、そこを起点にして再び過去と似たような行動を繰り返し始める。
 生まれて十年、三十年、六十年目といった一定の周期を迎え、記憶の糸は一旦途絶える。彼らの歴史は巻き戻り、再び同じ様な行動を始めてしまう──様に見えてしまうらしいのだった。妖怪達からの視点では。
 よく『歴史は繰り返す』といった言葉を聞く。私の中のイメージだと、その手の言葉を使うのは頭髪もすっかり薄れ立派な白髭をたくわえた、村の長老といった肩書きがよく似合うヨボヨボのお爺さんだ。
 永い時を生きた者からすれば、確かに人間の歴史なんて繰り返しループされている様に見えるのかもしれない。
 紫さんが語る話は、つまりはそういう人と妖の視点の違いから覗いた世界の片側を指していた。

「勿論それは真理ではない。あくまで妖怪側から覗いた、人類の歴史の一側面というだけ。
 実際は違うわ。未来が予定されていて、人々がループを繰り返しているなんて事象は“有り得ない”のよ」

 ハッキリとした否定。そんなワケがあるものかといった具合に、紫さんは凛として紡いだ。
 その理由というのが───


「三つ目の世界の層。それが『記憶の層』。
 この層の働きこそが、世界のループを拒んでいるの」


 曰く、万物が出来事を覚えるのがこの層だと。
 これは今まで出てきた二つの層と違い、ピンとは来ない。『物理』と『心理』は人間のごく身近な環境に確固として漂う理だけども、三つ目の『記憶』とは果たしてどういう事なのか?
 流石の私も首を捻りながらクエスチョンマークを頭上に浮かべると、紫さんは何処からともなく(本当に何処から?)正四角形の物体を一個、取り出して見せた。

「何ですか、それ?」
「見ての通り、賽子よ。極々普通で、種も仕掛けもございません」

 どちらかと言えば賽子本体より、何処にあった物なのかが気になるのだけど、ここは『夢』の世界のようなもの。ただ念じれば具現化出来るのだとすれば、種も仕掛けもないのは本当だろう。気にしたら負けなんだ、きっと。

「例えば、この賽子を一回振って『一』が出たとします」

 紫さんは袖を抑えながら屈み、手に持つ賽子を石段の上へと軽く落としてみせた。
 出た目は……『一』。偶然か必然か、宣言された目の数とピタリ一致。

「それではマエリベリー。質問よ。
 もう一度この賽子を全く『同じ条件』で振ると、賽の目はどうなると思う?」

 付加された条件とは『賽子の初期条件を前回と完全に一致させたなら』という内容。
 つまり位置、角度、力の入れ具合も全く一緒にするという条件で再び振ると、賽子はどうなるという問い掛けだ。
 私は凡そ直感で問題に答えることにした。

「前回と同じ目になる、ですか?」

 別段、おかしな解答にはなっていないと思う。合理的に考えれば、そうなったって何の不思議もない。

「なるほど。じゃあ、試してみましょう。これからさっきと全く同じ条件で、この賽子を振ります」

 ふわりと紫さんの腕が舞った。
 舞ったというのは無論比喩であり、地に落ちた賽子を拾い上げ、もう一度袖を抑えながらそれを構える彼女の姿が、残像を残しながら緩慢に動いたように錯覚したからだった。


 果たして、賽子の目は私の出した答えとは異なり───『六』の目をひけらかしていた。


「残念。結果は前回とは違ったわね」


 ……いやなんか、納得いかない。
 というのも当たり前の話で、普通に考えれば「そりゃそうでしょう」と不貞腐れたくもなる当然の結果だ。
 まず『賽子の初期条件を前回と完全に一致させる』という条件が極めて困難だと思うし、確かに今の紫さんの挙動は最初に投擲した動きをトレースさせている様には見えた。
 だからといって、実際どうかなんて分かりっこない。というか、そんな神技が人為的に可能なのだろうか。なにか、専用の装置のような物があればまだしも。

「貴方の不満顔は尤もでしょうけど……実際に今、私は確かに一回目の投擲を完璧にトレースしたわよ?」

 自己申告なんかで「したわよ?」とか自信満々に言われてもなあ。

「いえいえ。この程度の単純計算なら、我が未熟な式神ならともかく、私に掛かれば充分可能よ。
 位置、角度、力の入れ具合も完璧に計算した結果として、この賽子は『六』の目を弾き出したのですわ」

 正直、半信半疑だけど……そんな技巧が可能か不可能かなんて話題はどうでもいい。
 重要なのは『全く同じ条件で振ったに拘らず、前回と異なる目が出た』という結果。紫さんが言いたいのは、その事だろう。

「前回で『一』が出たという事実を、“この賽子が覚えている”以上、同じ確率になるとは限らない。
 何故なら『記憶の層』がループを拒む性質を持っているから。万物に蓄積された記憶が、過去のある一点と完全に一致する事はないの」

 曰く、物理の層が物理法則で、心理の層が結果の解釈で、記憶の層が確率の操作を行う感じで、相互に作用して『未来』を作るのだと。
 この世の物質、心理は全て確率で出来ていて、それを決定するのが記憶が持つ『運』だと紫さんは付け加えた。

 この事実は、『未来が予め予定される事は有り得ない』という結論へと結ばれる。
 理由は、万物に宿る記憶の層の性質上、世界は決してループすることがない、という理論。
 これこそが、紫さんの持論だという。

「じゃあ……紫さんは一体どっち側なんですか?」
「……と、言いますと?」

 実にして要領を得ない質問が口から飛び出してしまったものだと、言い終わって後悔してしまう。
 この話を一通り聞いて、私は少し混乱している。当たり前だ、いきなりこんなスケールの理論をさも当然の表情で聞かされたならば、普通は受け入れたりしない。
 でも私はどういう訳だか、紫さんの話を疑おうなんて思いもしなかった。そして一方で、彼女の立場に確かな疑問が生じ、今みたいに曖昧な質問を投げ掛けてしまう。

「最初に貴方は『妖怪側から見た人間の歴史はループを繰り返している』と仰いました。
 でも……言うまでもなく貴方自身がその『妖怪側』の視点の筈であり、でも一方においては歴史のループを否定しています。
 じゃあ紫さんの立場は、果たして『何処から』覗いたモノの視点なのかなって……」

 八雲紫という女性は、賢者とはいえ妖怪だと聞かされた。
 長命な妖怪であるなら彼女自身が例に出したように、人間達の歴史は滑稽な反復行動に見えているんじゃないだろうか?
 それこそが私の抱いたちょっとした疑問だった。でも彼女は「何だそんなこと」とでも言いたげな面貌に変わり、こう答えた。

「賢者として幻想郷を囲うにあたり、様々な人脈・妖脈が必須となる懸念や課題も多々出てきます。
 一例として、八雲の者はとある“頭の良い人間の家系”と代々、良好に及ぶ関係を結んできました。あまり世間には公言せず、秘密裏に……という形ですが」

 それが───稗田の一族。
 その名前を聞いて、私の脳裏に阿求の健気な姿が自然と浮かんだ。
 この世界で出来た私の友達、稗田阿求。今思い返してみると、あの子はスマホに写った紫さんの写真に対し『八雲紫様』と敬称を付けていたように思う。

「その頭の良い人間は、体験した記憶を全て本に書き留めて代々受け継いできた家系なの。
 だから永く生きてきた妖怪にも、記憶の少ない人間にも判らない世界が見えてくるんでしょうね」
「じゃあ紫さんが今語った論は元々、阿求──彼女から伝え聞いた話で……?」
「というより、遥か昔に彼女の一族の者とそういった議題を交わした記憶があるわね。
 表沙汰にはされていないけど、稗田は独自のパイプを用いて時折、妖の者と接触する。幻想郷のバランスを取るって名目だけど、腹の内では人間側を優位に立たせる為に。
 結果として稗田家は様々な視点から歴史を俯瞰する術を得て、現在までの人里の特異な位置付けに立場を構えているのよ」

 ……何だか、私が想像していた以上に阿求という人間は大物だったみたい。
 力は私と大して変わらないどころか、人並みに悩み、躓き、それでも懸命に歩もうとする格好はどこまでも一般的な『人間』を体現しているというのに。

 人間側でありながら、裏では妖怪達とのコネクションを密かに繋げる稗田家。
 妖怪側でありながら、特異な人間達へと協力関係を築き世界の理を見る八雲。

 同じ妖怪でも、八雲紫という存在は格別に異端らしかった。
 異端ゆえに、通常では見えない世界の裏側が見えてくる。
 理の陰で蹲る深淵の幕を、まるでスキマを覗くかの様に。

「だから私は少々特殊。無論、立ち位置としては妖怪側なのだけど。
 幻想郷のバランスを保つ為には、人間との架け橋を担う役割がどうしたって必要なのよ。良くも悪くも、ね」

 そう言って彼女は西方の彼方に沈み往く陽光と、尚も途切れることの無い七色の架け橋、そしてその奥に煌めく七星の連なりを順に眺めた。


「……と、まあそんなこんなで、この世には今話した『三つの層』があり、宇宙を成り立たせているのよ。ここまでは理解できたかしら?」
「あ、はい。……何となくは」


 一呼吸を置いて、紫さんがこちらへと振り返る。
 未だ空に残る優雅な黄昏色が、その流麗な金色の髪に溶け込むように絡む様は、まるでキラキラと光る海辺の砂粒を思わせた。
 どこを取っても美女たる要素が有り余る程に存在感を醸す紫さんに見惚れる一方で、私の頭の冷静な部分では、今の話がほんの前置きに過ぎないことを理解している。

「でも、紫さん。今の『三つの層』の話は、一体何処に繋がるんですか? 元々、私と紫さんの住まう『世界』の違いについて説明されていた筈ですけど」
「うん。貴方、思った以上にずっと賢くって柔軟な頭をしてるみたいね。流石は私」

 どうやら彼女は一々茶化さなければ話を前に進められない性格をしてるらしい。やっぱりこの人、回りくどいわ……。

「今の話の、特に『記憶の層』のくだりを下敷きにしておいて欲しいのだけれど。
 DIOの言う『一巡後』……つまり私から見た貴方達の世界は、別の宇宙である可能性が非常に高い」

 別の宇宙。それはつまり、銀河の果て同士にある別々の地球……という意味ではなく。

「SF的に言うなら……平行宇宙という言葉がしっくり来るわね。
 それもただの平行宇宙ではなく、私の知る世界に存する事象線上が一旦は終焉を迎え、宇宙が行き着く所の特異点に辿り着いた──その『先』に生まれた『新世界』……それが貴方達の世界」

 一巡後とは宇宙が究極の終わりにまでとうとう辿り着き、夜明けと共にまた新たな宇宙が誕生した先の世界を云う。
 実に……実に巨大なスケールで展開された話を、私が持つ知識を総動員させて頭の中で組み込んでいく。

 紫さんが話したような内容に、昔見た本だったか……とにかく私は覚えがある。
 確かアレは、そう。

「それって例えば……『サイクリック宇宙論』、とかですか?」
「あら、よく知ってるわね。そうね……人間達の理屈だと、それに近いかもね」

 サイクリック宇宙論。
 宇宙は無限の自律的な循環に従うとする宇宙論。
 例えばかのアインシュタインが簡潔に考えを示した振動宇宙論では、ビッグバン(誕生)によって始まりビッグクランチ(終焉)によって終わる振動が永遠に連続する宇宙を理論化した、とか云々かんぬん。
 こういう専門的な知識はまたもや蓮子のお家芸だから、私では上手く言語化出来ないけど。
 要するに『この宇宙は既に誕生と終焉のサイクルを幾度となく繰り返して生まれた後の宇宙である』みたいな理論だったと思う。

「私の住む地球が……そうね。例えば『50回目に創造された宇宙』と仮定しましょう。
 一方でマエリベリー。貴方達の住む地球は『51回目の宇宙』の次元、という論が私やDIOの仮説なのです。
 尤もそれは52回目かもしれないし100回目なのかもしれないけど、そこは重要じゃない」

 私の口は、情けなくも半開きになっていたかもしれない。
 こんな壮大な、都市伝説の域を遥かに超える奇説をさも当然のように聞かされているのだから無理からぬ事だ。
 さっき引き合いに出したナンタラ宇宙論だって、別に学者間で決定的な根拠などある訳もなく、世間的にはトンデモ論に位置付けられる突飛説に過ぎないのに。

 でも───だからこそ面白いし、胸が高まる。
 何故って? そんなの私がこの世の謎を暴く『秘封倶楽部』の一員だからに決まってるじゃない!

「でも紫さん。幾ら別々の宇宙の世界だからといって、新宇宙が生まれる度に『地球』そっくりな惑星までもが新たに生まれるものですか?」

 私達の地球だけが知的生命体の住む星なのだとは別に思わない。
 でも紫さん達の話を聞く限りでは、彼女達の住む地球と私の住む地球は酷似している。例のレースの存在など、要所では微妙に食い違っているみたいだけども。

「あら。私と貴方の存在自体が、貴方の疑問に完璧に答えているのではなくて?」

 と、紫さんはこれ以上ないくらい美麗な笑顔を私へと向けてきた。首を傾けながら微笑む美女の絵は、同性の私すらをも虜にさせかねない程の破壊力を秘めていて、思わず返答に窮してしまう。

「ま、理屈じゃあないみたいよ。原初の成り立ちっていう構造なんて。
 宇宙の果てを知らないように、たかだか幻想郷の一賢者である私如きではそんな謎、知らないものね」

 開き直ったような素振りで、紫さんはぷいと視線を外した。知らないものねと言いつつ、実はこの人は何もかもをも知っている上で、敢えて含んだ言い方をしてるんじゃないかしら、とたまに訝しげずにはいられない。
 それに『理屈じゃあない』というのも真実で、私と紫さんがただの他人じゃないという奇妙な確信が私の中にあるのだって、きっと理屈じゃあないのだから。


「あ、もしかして」


 ここまでを考えた時、私にはある考えが閃いた。
 先程にも出た『記憶の層』とやら。この層が、私と紫さんの間で繋がる『奇妙な確信』に一役買ってるのではないか、という考えだった。
 物が過去の出来事──それも宇宙が一巡してしまうくらいに途方もない過去すら──を覚えているのが『記憶の層』だとすると、私と紫さんが出会ったことによってその層がある種の『シグナル』を発している、とは考えられないかしら。

 厳密には違うのだろうけど、分かりやすいようにここでは敢えて『前世』という言葉を充てさせてもらう。
 紫さんが私の前世である事は、この世界の記憶の層に刻まれる『マエリベリー・ハーン』が無意識下で覚えている。
 だからこそ私は彼女に並々ならぬ親しみを感じていて、逆に紫さんも私からのシグナルを受け取っている。私が立て続けに祈っていた『SOS信号』とやらも一種のシグナルで、紫さんはそれをキャッチしてここまで来た。
 私は前世の記憶を無意識の内に覚えている。記憶の層が物だけでなく人の意識にも適用されるというなら、充分に信憑性のある仮説じゃないかしら、これって。

 素人なりだけど、当事者なりでもある拙い意見。私がこの考えを紫さんに話すと、彼女はそれはそれは嬉しそうに頷き、愛用の扇子をパタンと閉じた。

「私が言いたかった事はまさにそこよ、マエリベリー」
「宇宙は終わりを迎え、また新たな宇宙が新生される。そして新たな地球が生まれる。でも……」
「ええ。記憶の層の話は、ここに繋がるの。新宇宙が創造されたとして、その事象が必ずしも歴史のループとはならない。一見これらは繰り返された宇宙規模の歴史の様に見えるけども、それは大きく違う」
「何故なら、私と紫さんの様に『似ているけども別人』といった事例や、前の地球には無かった『SBRレース』の存在が、歴史の繰り返しを否定している他ならぬ証左……ですね」
「そういうこと。では何故、似た地球が生まれながらこのような露骨な差異が現れるか……?
 それが『記憶の層』の働き。たとえ宇宙が終わろうとも、層に刻まれた幾多の記憶がループを拒もうと反発作用を起こす」
「そして記憶の深層に眠る無意識下での化学反応が、私と紫さんの魂に『共感』の信号を齎した」
「記憶の層とはつまり、物事ひとつひとつが歩んできた夢想の歴史。そしてこの宇宙全体が記憶する壮大な書物そのもの。
 原始からの全ての事象、想念、感情が記録されているという世界記憶概念──アカシックレコードの様なモノなの」


 紡がれる言葉の数々が私の瞳に真実となって映り、まるで踊りを舞うように煌めいた。


「私とマエリベリーが出逢った。その事実に大宇宙の意思が関し、引力となって互いを引き合わせたのなら。
 これこそが『運命』でしょう。そして、この運命には必ず『意味』があると私は考えます」


 それらはとても美しい言葉が羅列する唄のように聴こえ、同時に儚さをも纏っていたように……私は感じた。


「私がマエリベリーと出逢えた事に『意味』があると言うのなら。
 その意味を、私達は考えなければならない」


 ここまでは、単なる余興。
 最後の本題とも言うべき言葉が次に続いて、私は己の存在意義へと疑を投げる事となる。


「ここで一つ、過去を振り返ってみましょう。
 貴方は……如何にして結界を越える事が出来るのかしら?」


 賢者の問い掛けは、とても単純な内容で。
 私の原点へと立ち返る疑問を孕んでいた。


「それは『時』だったり、『場所』だったり。
 貴方の能力が発動し異界へ足を運ぶには、そんな条件が必要だった筈よ」


 私の能力。境目が見える程度の力について、根底的な謎。
 紫さんが言うように、私が『境界』を越えるには幾らかの条件が必要だった。
 私と彼女が出逢えた事が運命だとするのなら。
 その運命に意味があったとするのなら。
 引き合わせた『引力』とは、物理的にはそもそもどういった力か?


「貴方自身も、薄々感じてたんじゃなくって?」


 薄々、とは思っていた。
 今までの紫さんの話を聞いていて……ひとつ、筋が通らない事がある。
 というよりも、この筋が通ってしまえば……到底信じられないような、とんでもない事実が生まれてしまう。
 心のどこかで見ないようにしていた、私自身の謎。


 単純だ。
 それは私の『真の能力』について。


「今まで不思議に思わなかったかしら?
 『私と貴方が過去に出会った事がある』。それ自体の不整合性──矛盾について」


 そう。矛盾なのよ。
 言うなら、私と紫さんは表裏一体の存在。
 自分の前世の存在と会話している今現在そのものが、既に道理に沿ってないのだ。
 しかし事実として、私は過去にも幻想郷へと赴いた事がある。子供の頃には、紫さんらしき女性にも会っている。紫さん本人も、私と会った事があるとまで漏れなく発言している。食い違いは、無い。

 違う宇宙に生きる自分自身へと、私は遭遇しているのだ。
 現在の、この特異過ぎる状況の話ではない。
 過去の、日常生活の中で、だ。
 そこに疑問を挟むことさえ出来たのなら、真実など思いの外、単純で、簡単で。


 ───途方もない、現実だった。



「結果から述べると……マエリベリー。
 貴方の真の力は、言い換えたなら……


 ───『宇宙の境界を越える能力』、って事になるわね」



 そういう事に、なってしまう。
 だって紫さんが住む幻想郷が、私とは違う宇宙の場所ならば。
 過去に其処へと到達した経験のある私は、宇宙を越えたことになってしまうのだから。
 意図しない所ではあったけど、私は自らの能力を使って『禁断の結界』を乗り越え……また別の平行宇宙に存在する地球へと辿り着ける。
 一巡前だろうと、一巡後だろうと、無関係に。



 それが、私。
 マエリベリー・ハーンの、本当の能力。



            ◆


 この時点でのメリーではまだ知り得ない事実が『二つ』ある。
 無力でしかなかった少女の力はまさに。
 DIOとエンリコ・プッチの二人が焦がれ、求めてやまない境地であったこと。
 今在る宇宙を終わらせてまで欲した、全く新しい新世界──『天国』へと、その少女は扉を開いて行くことが出来る、神の如き力の片鱗を有していた。

 そしてもう一つ。
 まだまだ不安定なその力は、もう一人の自分──八雲紫との邂逅を経て、深層下で目覚めつつあるという事。


 冷たいままであった蛹は今、誰も見たことのない羽を彩った蝶へと羽化しようとしていた。

 邪悪の化身が握ろうと企む操縦桿は、まさに───


            ◆

エンリコ・プッチ
【夕方 16:10】C-3 紅魔館 食堂


 天国への階段──ステアウェイ・トゥ・ヘブン──


 かつてDIOが目指し、別の未来においては“後継者”エンリコ・プッチが到達した新世界。
 時の加速を経て、神父は其処への螺旋階段を駆け巡り……『天国』を実現させた。

 そして、今。
 其処へ到れる唯一つの螺旋階段。
 望み、焦がれた『天国』への階段を。
 気の遠くなる程に長い階段を経る必要すらない、秘宝の如く隠された近道が存在するのなら。

 其の『扉』とは、何処にあるのか。
 其の『鍵』とは、誰が握っているのか。


 天国への扉──ヘブンズ・ドアー──


 とある吸血鬼は。遥か東方の小さな島国にて──その少女と運命的に出逢った。
 天国への扉。その『境界』の向こう側に、男の望む楽園は広がっているのだろうか。

 扉の『鍵』は、二つ。
 鍵となる女は、鏡写しの様に似通った形をしていた。


 天国より創られし楽園──メイド・イン・ヘブン──


 理想郷は、すぐそこに在る。


(DIOは理解していたのだ。『あの少女』が天国への鍵となる、大いなる可能性だと)


 神父は心の中で、ゆっくりと唱える。
 神へと祈るように、友を讃える想いを。


(我々の勝利だ、DIO。今日という素晴らしき日を、私は生涯忘れないだろう)


 その少女と巡り逢えた幸運を。
 その少女と巡り逢えた引力を。
 その少女と巡り逢えた運命を。

 この素晴らしき世界──The World──を、DIOと共に祝福しよう。

 What a Wonderful World...


「私達の望んだ天国。それが今日、叶う」


 もしも……未来に起こる不幸が確実な予知となって、人々の脳裏を過ぎったとしても。
 運命の襲来に対し『覚悟』出来るのならば、それは絶望とはならない。
 覚悟は絶望を吹き飛ばすからだ。


「私が創り上げる宇宙とは、そういった真の幸福が待ち受ける世界なのだ」


 そんな世界が、もしも存在するのならば。
 人々が『前回の宇宙』で体験した出来事を、そのまま『次の宇宙』にまで“記憶を保持したまま”持ち越す事が可能ならば。
 言うなら『記憶の層』と呼べるような事象があり得、人類全てに根付いた記憶が無意識的に未来を予知出来る世界を生み出せたなら。

 例えば──あくまで例えであるが。
 産まれてくる息子の死という運命を、母親は覚悟して迎えることが出来るのなら。
 そうであるなら、きっと。
 息を引き取った息子を、他人の健やかな赤子とこっそり取り替える愚行など……決して行わない。
 エンリコ・プッチとウェス・ブルーマリンのような、呪われた運命に取り憑かれる非業者も……次第にいなくなり、完全に枯渇するだろう。

 神父には、そんな奇跡が可能だった。
 いや、可能だと疑ってもいなかった。

 親友DIOの遺した意志と、骨と、日記を読み取り。
 プッチは、そう解釈した。

 そしてそれこそが、親友DIOが夢見た天国だとも。
 プッチは、そう解釈した。

 未来は予定されている。
 歴史は繰り返される。
 プッチは、そんな奇跡を望んだ。


「まことに儚く、諸行無常……です」


 鮮やかであった瞳の色を無に薄めながら、女は虚空へと力無げに呟いた。
 穏やかながら隆々としていた生気は、消滅へと限りなく近付いている。
 彼女の生存がもはや絶望的だという確たる証明が、その覇気の無さに現れていた。

 それも止むなし。
 ホワイトスネイクから円盤を抜かれた者であるなら、如何な超人であろうと賢者であろうと、魂を強奪される事と同義。すなわち死だ。
 白蓮が覗かせてしまった僅かな隙の起因は、神父が予め額に潜ませておいた『ジョナサンのDISC』。トドメの刹那、彼女はその光景を目撃し陥ってはならない思考に囚われた。

 ───もしこのまま神父を貫いたなら、彼と一体化しているジョナサンの円盤はどうなる?

 分かりはしない。しかし最悪……神父の死に釣られて円盤も“死ぬ”のではないか?
 生まれた躊躇はそのまま硬直と化し、神父が貪欲に窺っていた反撃の隙を生んだ。

「今の台詞は……君が求めた理想への皮肉か?
 それとも……永久不変の幻想を憂う、胸の内に抱えた本音か?」

 叩き折られた右足を庇いながら、プッチは荒い呼吸で何とか立ち上がる。
 白蓮を下に見る為に。
 否。彼女よりも更に『上』へと昇る為に。

「貴方達の……『夢』の、話です」

 女の視線だけが、プッチを捉えていた。
 小さく掠れた声が、しんと冴え澄んだ食堂ホールの全域に反射したようであった。

 白蓮の生命線であるDISCが奪われたにもかかわらず、仰向きのままに倒れた彼女の声帯から萎んだ声が捻出された理由。それは、魂の痕跡が際の所で器を動かしているだけに過ぎない。
 かつて空条承太郎が娘を庇い、白蛇から額の円盤を奪われた時も同じだった。直ぐに昏倒する様など見せず、ゆっくりと眠りにつくように、次第に意識を失う事例もある。

 ただのそれだけ。
 聖白蓮は抜け殻だ。じきに意識は絶える。
 失われた円盤を在るべき場所に戻せば蘇生はするだろう。
 それを、目の前の男は決して許さない。
 神父が最後の力を振り絞り、スタンドの右腕を相手の心臓に狙い付けている構えが、殺意の証明。
 今やプッチに、瀕死の女なぞと禅問答を交わすつもりは無い。

「君の危惧した通り、さ。
 私のDISCは、体内に入れたままその者が死ねばDISCも消滅する」

 プッチの命と共に、ジョナサンの命をも喪う。
 男が白蓮に用意した天秤とは、そういった謀略を含んでいた。

「だが全ては無駄だ。君の判断で無事に済んだジョナサンのDISCはこれより、皮肉にも君の体内に仕込まれる。実の所……処分に困っていたのだよ、コイツは」

 フラフラとした様子で、男は宿敵の意志が篭った円盤を眼下へと見せ付ける。
 物理的な破壊が困難なDISCを効率よく消し去る術。神父は、白蓮の肉体を利用する手段を考案した。
 実に簡単な事だ。壊せないならば、目の前の死に掛けに“連れて行って”もらえば良い。

 不意に男が膝をついた。
 女に差し込もうと手に持っていた円盤が、コロコロと床を転がる。
 両者とも体力はとうに限界だった。格好を付けようと立ち上がる姿勢すら保つことが難しい。全く情けない醜態だと、男は自嘲せずにはいられない。
 しかし既に制した女ほどではない。歩行もままならない状態だが、スタンドの腕を練り上げる体力程度は残っていた。
 女を超人たらしめる肉体強化の魔法は、とっくに途絶えていた。すなわち、彼女の肉体的強度は常人にまで戻っている。魔人経巻も無いのでは完全に打つ手はないだろう。
 だが、やはりプッチの肉体も同様に悲鳴を上げている。このまま時を待ったとしても男の勝利は揺るがないが、別行動中のジョルノの警戒も忘れてはならない。尤も、首のアザの反応はここより近辺には無いが。


 その事に僅かなりの安堵を抱いてしまったからだろうか。
 プッチにとっては完全なる慮外者の接近に、気付くのが遅れた。



「ヘイ、お二人さん。立てないならば、肩でも貸すかい?」



 軽薄な声の主は、神父の属する一味の仲間であり。
 白蓮にとって見れば、顔も知らない赤の他人。それどころか新手のスタンド使いという認識でしかない。
 突如として姿を現したカウボーイがこの場に立つ、そもそもの因果を辿ったなら。


 かの住職の無邪気な身内が叫んだ最期の山彦が、全ての始まりだったのかもしれない。


▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
ホル・ホース
【夕方 16:05】C-3 紅魔館 二階客室

 どれだけの時間を無為に浪費したのか。ホル・ホースには計りかねた。
 時計を見やると、あれから30分の時間が経過していた。これを多いと取るか少ないと取るかは判断に困るところだ。

 あれから──突如スキマから現れた謎の美女がよく分からない理屈で寝床に入ってから──護衛を任された男は何をするでもなく、ただ部屋の中で待機するだけの時間を過ごした。
 無防備な姿でベッドに横たわる女は、曲がりなりにも美女と形容するに有り余る美しさを誇っている。男の欲を刺激する美貌と肉体をふんだんに手にした女が、息一つたてずに目の前で眠っているというのだ。
 オプションとして隣には、娘か妹かと見紛いかねない程に似た容姿の少女が同様に眠っていたが、こちらはホル・ホースの守備範囲からは外れていた。
 女とはやはり、相応に経験を蓄えた齢が放つ独特の魅力。大人の女性であることが、ホル・ホースのストライクゾーンである。
 従って八雲紫は彼から見ると、是非ともモノにしたい条件をクリアした、およそ完璧な美女である。

「見た目はモンク無しだし、中身だって許容範囲なんだがねぇ」

 手持ち無沙汰に『皇帝』を弄りながら、彼女への評価を冷静に口から零す。
 「おイタは駄目よ」と媚び声で釘を刺された以上、目の前に置かれた妖しい果実を齧ろうという悪戯心などホル・ホースには湧かない。
 毒があるかも、とかそんな理由は無きにしも非ずだが、それ以前に彼は女の扱いに関しては意外と紳士な事を自称している。
 寝込みを襲うといった野蛮な手口よりも、正当な手順を踏んでの行為を望む男である。この世の多くの女性がムードや雰囲気を重視するものだとも理解しており、そうであるなら女性側の気持ちを尊重してあげたいというのが、誰に問われた訳でもないが彼のモットーだった。

 以上の至極尤もな理由で、彼が八雲紫に手を出すことは無い。当人が望まない限りは。
 第一にして、女癖のある彼であろうと、今の状況で色に溺れるほど現実が見えてない訳でもない。下手をすれば返り討ちにあって死ぬ、なんて事も普通に起こり得る。

 よって、この男は暇を持て余していた。

(……さっきから建物全体が響いてやがる。DIOのヤローが戻ってきたら、オレァなんて説明すりゃいいんだ?)

 予想以上に長く、紫の意識が戻らない。
 待機中に気付いたことだが、よく考えればこの部屋にはDIO達がいずれ戻ってくるに違いない。
 その時、ベッドに眠る彼女達を訝しんだDIOは、きっと現場責任者のホル・ホースに説明を要求するだろう。その場は誤魔化しきる自信はあるし、そもそもホル・ホースに現段階で過失は見当たらないので、誤魔化す必要すら無いかもしれない。
 が、面倒だ。少なくとも紫から(一方的に)任された護衛の任務は、あえなく失敗する未来が見える。

 とっとと目を覚ませ。さっきから浮かぶ言葉はそればかり。
 いよいよとなれば彼女を見捨てる決断も視野に入れてきた頃、外野の『騒音』が間近に迫ってくるのを、男の耳が捉えた。
 敢えて考えないようにしていたが、これは戦闘音だ。それも、この部屋からそう遠くない場所で。
 では、何者との戦闘か? それを考えずにはいられない。

「まさか、だよな」

 その『まさか』であった場合、ホル・ホースには選択が迫られる。
 捜し求めていた人物がこの館に侵入しているのは分かっている。だが『彼女』は既にDIOと交戦している可能性が高く、そこにホル・ホースが割って入れば──最悪、DIOに粛清されかねない。
 馬鹿げた選択だ。『彼女』と自分には、直接的な関係は皆無だというのに。
 それでも、あのサイボーグ野郎から自分を救った恩人の少女の影が、頭から離れようとしない。


 戦闘音が、止んだ。


(……終わったな。様子を見に行くくらいなら……バチは当たらねーか?)


 チラとベッドの女二人を一瞥する。
 起き上がる気配すらない。部屋を出れば、紫の頼みごとに反する。


 (様子を……見るだけだぜ)


 男は壁に掛けていた相棒のカウボーイハットを手に取り、音も無く部屋から退出した。
 約束を破るという行為が女をどれほど不機嫌にさせる起爆剤となるかを、深く理解しつつも。

            ◆

『命蓮寺か、たしかお前が住んでるとこだったな。で、その聖様とか言う奴はそんなに強いのか?』

『もちろん! 聖様は阿修羅みたいに強くって、お釈迦様みたいに優しいんだから! それにね、それにね!───』


 確かあの声のデカいガキンチョは、聖白蓮の事をそう評価していたか。
 オレの知る住職サマのイメージは、そこに転がっている女の着こなす恰好とは大きくかけ離れていた。詳しくねーが、寺の住職っつーのはバイクスーツみてーなスタイリッシュなのが普段着なのか?
 いや、偏見は良くねー。住職でもバイクくらい乗るだろーし、だったらこんなボディラインの強調されたスーツだろうが着るだろう。
 つか、想像以上にべっぴんの姉ちゃんというか……エロいな。本当にこのチチで住職か? こりゃさっきのスキマ女並みに上玉じゃねーの? いやいや、ンなこたーどうでもいい。
 ……それより、生きてんのか? お陀仏ってんじゃねえだろうな。


「お前は……ホル・ホース、か」


 長テーブルに腰掛け肩で息をする神父服の男が、背後に立つホル・ホースを振り返って言った。
 脈絡なく現れたホル・ホースには、今目の前で苦しそうにしている神父の顔に見覚えがある。さっきエントランスでDIOと共に居たプッチとかいう男。
 となればDIOもどこか近くに居るのかも知れない。迂闊な行動は自らの首を絞めるだろう。


「素晴らしいタイミングで現れてくれた。そこに落ちている円盤を彼女の額に嵌め込み……ホル・ホース

 ───聖白蓮を……撃て」


 肉体の負傷が激しいのか。プッチは呼吸するのも一苦労といった様子で、ホル・ホースに指示を飛ばす。
 足元には神父の言うように一枚の円盤が光っていた。先程聞こえた会話から察するに、件の『ジョナサンのDISC』だろう。
 腰を屈めて手に取ったそれは通常の円盤と違い、グニャグニャした手触りがなんとも奇抜だ。ホル・ホースはこれが、白蓮が追っていた重要な物品だという事を心得ている。
 これを相手の額に挿したまま命を奪えば、円盤ごと消えるという事も聞いた。

 合点がいった。プッチは、白蓮とジョナサンの二名を同時に殺害するつもりか。

「どうした、ホル・ホース。DIOからは君が極めて優秀な銃士だと聞かされている。
 見ての通り、私は多大なダメージがある。“君”にやって欲しいのだ」
「……ああ、なるほど。そういう事ですかい」

 状況は、極めて厄介。
 ここで白蓮を撃つのは容易い。見たところ彼女は反撃する様子など微塵も無いし、言われた事を行動に移せば神父やDIOからは小遣い程度の信頼くらいは貰える。
 しかし、その前に彼女とは一言二言交わすべき言葉がある筈だ。何よりもその事を最優先として、今の今まで会場中を彷徨っていたのだから。
 その努力が、全部パァとなる。それだけならまだしも、響子の気持ちを最悪な形で裏切る結果となる。


 何よりも、女は撃ちたくない。美人であるなら、尚更。


「神父様。DIOのヤロ……DIOサマは今、どちらですかい?」
「彼は地下に現れた下賎な敵と交戦中だ。尤も、時間の掛かる仕事にはならないだろう」
「そうですか」

 神父の目の前で、白蓮と言葉を交わすことは可能だろうか。
 危険はある。ホル・ホースとプッチは現状、仲間の括りに纏められており、そうなると白蓮は建前上──敵だ。リスクの芽がある以上、考え無しに水を撒くと後の開花が怖い。
 それにプッチとて、ホル・ホースがNoと断れば自ら動くだろう。少し疲れたから仕事を代わってくれないか、程度の代役なのだ、これは。


 本当に、極めて厄介なタイミングで顔を出してしまったものだ。オレとしたことが。
 周囲を確認する。白蓮が破壊した痕であろう壁の大穴以外、密封されたホールであり人目は無い。


「人は誰しもがカンダタとなりうる。そんな世の中で白蓮……君がやろうとした行い。そしてやろうとしなかった行いは、誰にも責められるべきでない。
 地獄に堕ちてでも私を殺害しようとした決意は称賛しよう。だが、やはり『覚悟』が足りなかった。
 ジョースターを道連れにしてでもとは考えず、垂れ下がった一本の蜘蛛の糸を彼に分け与えようとした。皮肉な話だが……君の敗因はそれだ」


 銃を構えて白蓮に狙いを付けるホル・ホースの背後。
 プッチは最後に語った。

 人は恥の為に死ぬ。
 聖白蓮はこれより、己が抱いた『迷い』という名の恥によって殺される。
 このような悲劇を生まない為にも、プッチは夢を創りあげようと手を染めているのだ。
 理解を求めようとは思っていない。彼の理解者は、唯一の友人だけで事足りた。
 未来が予定されてさえいれば。
 自らに訪れる困難を全人類が予め覚悟出来れば。
 聖白蓮は、こんな末路を辿ることも無かったろうに。


「感謝しよう聖白蓮
 君の迷いが私に勝利をもたらし人類を幸福に導く礎となる、『天国』の為の運命に……感謝しよう」


 その言葉が、エンリコ・プッチが世に遺した最期の言葉であった。



「じゃあオレが“こうする”未来は……覚悟出来ていたかい? 崇高なる神の代弁者さんにはよォ」



 倒れた白蓮を貫く未来はいつまで経っても到来せず、唐突に背後を振り返ったホル・ホースがプッチの心臓に銃口を向けた。


「そんなに天国へ行きてぇなら、オレが連れてってやるぜ」


 パンと、不気味な程に静かな破裂音が一発だけ轟く。


 〝善〟も〝悪〟も無い。
 崇高な目的など芥程も考えていない。
 今撃つべきクソッタレの邪魔野郎はこの神父だという、単なる直感。
 神も運命もどうだっていい。
 信じるは己の経験とカン。それに従って、引き金を引いただけ。
 迷いなんか、あるか。
 人を撃つ覚悟など、どれだけ昔に済ませたかも覚えていない。


 僅かな震えも起こさず、〝白〟にも〝黒〟にも属さない、只々無機質な〝灰〟の弾丸が───神父の臓腑を、正確無比に穿った。


 赤黒い血飛沫が神父の空いた胸から散った。
 弾丸が背へと貫通することは無かった。銃士の卓越した技術が、心臓を通過した一瞬のタイミングを狙って弾丸を解除するという神業を成功させたからだ。
 これで死因となる弾丸痕は胸の一つのみ。なるべく死体には目立つ傷を付けたくなかった。
 血の溜まり場に沈んだプッチの遺体をホル・ホースは慎重にうつ伏せの形へと覆した。焦げ付いた風穴が神父の胸と床との間に隠れる。一目では『銃殺』とは気付かないだろう。無論、少し遺体を検分すれば即座に見抜かれるだろうが、やらないよりかは随分とマシだ。
 『犯人』がこの自分だと気付かれるのは、勘弁願いたい所だった。こんな雑な工作にどれほどの意味があるかなど分かったものでは無いが、後から本格的に死体遺棄へ移せばどうとでもなる。

「返り血は……よし、掛かってねえな。
 オイ! 聖の姉ちゃん、まだ意識はあるよな?」

 ホル・ホースはそれきりプッチの殺害など忘れた過去のように、ピクリとも動かない白蓮の元へ駆け寄った。
 真っ先に呼吸を確認する。今にも途絶えそうな程に弱々しい。


「あ、なた…………どうし、て…………?」


 虚ろだった女の視線が、僅かに彷徨った。小さいが、声もしっかり届いた。
 この瞬間、ホル・ホースが胃の奥に今までずっと溜めていたドロドロとした気持ちがとうとう溶け始め、解消された。
 長かった。アレは今日の朝方……いや、まだ日も出てない時間帯だから、ちょうど半日くらいか。
 山彦が吼えた瞬間を、まだよく憶えている。必死に耳を閉じようとした気もするが、隙間からヌルりと侵入してきた少女の最期の雄叫びは、ホル・ホースをひどく動揺させた。
 本当の所は、寅丸星が逝く前に辿り着くべきだった。それに間に合わなかったのは誰のせいでもなく、運が無かっただけ。そう思おうと努力した。


「オレの名はホル・ホース聖白蓮だな? アンタをずっと捜してここまで来た」


 最悪の事態には間に合ったらしい。正直、聖白蓮の生存も半ば諦めかけていた所だ。余計な死体が一つ生まれてしまったが、彼女さえ無事ならば後は共にトンズラこくなりすればいい。
 教誨師を撃つという非道の罪にも、さほど心は痛まない。この神父に怨みは無いが、まあ『運』が無かったんだろうと切り捨て、女との会話を優先した。

「わたし、を……?」
「そうとも。響子の嬢ちゃんに頼まれ……たわけじゃあねぇんだが、オレなりのケジメだ」

 響子。その名前を出した時、白蓮の瞳に色が灯った。
 懐かしい響きに寄り掛かるように、灯った瞳をそっと閉じ……涙を流した。

 優しい涙だな、とホル・ホースは思う。
 この綺麗な一雫を間近で見れただけでも、今までの苦労が全て救われたとすら感じた。

「そ、ぅ、ですか……。あの娘は、貴方と……」
「オレもあのガキに救われたクチさ。響子ちゃんは本当にアンタと、その……寅丸星の事を最期まで想っていたぜ」

 一瞬、口ごもった。その響子を殺害した張本人の名前を出す事に。
 幼い少女へあまりに惨い運命を用意してくれたもんだと、ホル・ホースは今更ながらに歯痒くなる。

「星から、事の顛末は聞いております。彼女も、その罪を償おうと改心してくれましたが……」

 今度は白蓮が口ごもる。
 改心した矢先の……悲劇を思い出してしまったから。

 沈黙が場を支配した。
 遣りきれない思いがあって当然。
 幽谷響子も、寅丸星も、聖白蓮も、ホル・ホースも。
 誰一人として救われない結末を経験したのだから。


 逸早く沈黙を破ったのはどちらだろうか。殆ど同時だったように思う。
 ホル・ホースは彼女らほどの悲惨を迎えてはいないし、本来のひょうきん者の性格が一助になったからか。
 聖白蓮は当事者であり少女らの家族のような位置付けであったが、同時に命蓮寺の長たる立場だからか。
 この沈黙に意味は無い。黙祷するならば、然るべき時と場所を用意すればいい。
 やがて、どちらからともなく口を開け……先んじてホル・ホースが、うっかりしていたとばかりに立ち上がった。

「……とと。いや、話は後回しだ。アンタ、例の円盤を抜かれたんだろ?」

 今、額に戻してやるからな。
 男はそう言って慌てて神父の遺体をまさぐり、程なくして白蓮の物らしき円盤を発見した。


「見っけたぜ。これだろ? お前さんの───」


 嬉々の表情で、ホル・ホースは白蓮に確認を取るために振り返った。





「───そこに居るのはホル・ホースか。聖白蓮も居るのか?」





 五臓へ沈む重い声差しに、全身が硬直する。
 金縛りとは今の状態を指すのかもしれない。
 あまりに理不尽なタイミングに、唾を吐きたくなった。
 白蓮との再会を遂げた気の緩みが、ここに更なる絶望を呼び込んでしまったのだ。


「倒れている人物は聖と───我が友人、プッチのものか」


 最悪は、黄昏を喰らう宵闇を顕現したように、音も無く忍び寄っていた。
 扉の開閉音があれば、このだだっ広い食堂ホールだ。直ぐに気付く。
 侵入経路は、白蓮の破壊した壁の大穴。

 そこから一人、二人……三人。


「それで? ホル・ホース。お前は一人、ここで何をやっている? 死体のすぐ傍で」
「ディ……DIO、様……っ」


 DIO。
 霍青娥
 宇佐見蓮子

 突如に現れた三人を前にし、然しものホル・ホースとはいえ絶望の暗幕が心を覆った。
 背中からどっと嫌な汗が噴き出す。心臓が鎖にでも縛り付けられたように、きゅうと苦しい。

(み、見られたか……!? 神父を撃った所を……!)

 焦燥が体内の血の巡りを加速させる。浮かび上がった最悪の予想は、取り敢えず頭の冷静な部分で否定させた。
 銃殺のシーンを見られたにしては、登場のタイミングがやけに遅い。ホル・ホースとて目撃者には最大限気を配っていたのだから、ひとまずは見られていないと判断した。
 つまり、まだ弁明の余地は充分にある。問題はこの男がきちんと誤魔化されてくれる迂闊者か、だ。

 カツカツと優雅ったらしく靴音を立てながら歩み寄るDIOの表情に警戒色は皆無だ。ただ、当然ながら訝しんでいる。
 クソ。せめて白蓮のDISCを戻した後に現れてくれれば、まだ逃走の余地はあったろうに。
 それならば、この状況を大いに利用して誤魔化す。白蓮には悪いと思いつつも。

「オレがこの部屋へ辿り着いた時には、既にこの状況が仕上がってたんでさァ。どうやら……『相打ち』のようですぜ、こりゃ」

 自身の用心深さがここで活きた。念の為プッチの遺体に工作しておいて助かった。
 パッと見では神父の死因が銃殺とは分からない。都合の良い事に、白蓮の付近にはサーベル状の武装が一本転がっているのだから、相打ちと言われても信じてしまえる。
 何と言っても、ホル・ホースには動機がない。聖白蓮を捜してこの館まで辿り、彼女を救う為にはそこの男が邪魔だったなどとDIOに分かるわけがない。

(……だなんて都合良く考えるオレはオメデタ頭か〜!?)

 DIOという男はホル・ホース以上に用心深い男だ。世界中から部下や用心棒を集め、エジプトなどという果てに身を隠し、アジトも定期的に移動する。
 そんな周到な奴が、こんなお粗末な工作で納得してくれるだろうか?

「先程、銃声の様な音が一発聴こえた。アレは何だ?」

 ホラなクソッタレ!

「す、少なくともオレじゃあありません。二人の戦いの音が、発砲音のように聴こえたのでは?」

 苦しい! 苦しいぞこの野郎!
 どーすんだこの後始末! チクショウ、やるんじゃなかったぜこんな事なら!

「フム。……で、お前が手に持つ『それ』は?」

 膨れ上がる威圧を伴いながらいよいよホル・ホースの目の前まで来たDIOは、男が左手に持つ円盤を目敏く指摘する。
 言われて気付いた。白蓮のDISCを持ったままである事に。

「こ……コイツは」

 駄目だこれ以上は誤魔化しきれない。
 覚悟を決めなければ。DIOはきっと、うつ伏せに倒れる神父の遺体を詳しく検分する為に座り込むはずだ。遺体との位置関係からして、それはオレに背後を見せながら屈む事となる。
 そいつはこれ以上無くデケェ隙となる筈だぜ……!

「ああ神父様、なんと痛々しいお姿に……おいたわしや、よよよ……」
「DIO様……心中お察しします。私が身代わりになれたならどれほど良かったか……」

(だが……後ろのオンナ共が邪魔くせえ! チックショー、妙にヒラヒラした青い女は知らねーが、アヌビス神持ってる奴が最高に厄介だ……!)

 DIOとは少し離れた後方に、部下の女が二人いる。青い髪をかんざしで留めた女は肩に掛けた羽衣みてーな布で口元を押さえ、大袈裟なくらいに悲壮感を表現していた。(どう見ても嘘泣きだが)
 黒い帽子の女の方は、青い女と比べればホンモノっぽい悲壮感を漂わせながら神父を見つめていた。反応自体は二人共似た様なモンだが、どこか対照的でもある。
 隙丸出しのDIOを奇跡的に一発で仕留められたとして、残りの……特にアヌビス神の方はオレの『皇帝』じゃあどうにもならねえ。

 ……待てよ? この円盤を聖の姉ちゃんに嵌めれば、復活してくれんじゃねえか?
 そうに違いねえ。だったら彼女にも協力して貰って、この場を力技で何とか……!


「ディ……オ……」


 あまり芳しいとは言えない策をホル・ホースが脳内でこねくり回していた時だった。
 唐突に、倒れていた白蓮の口が開いた。

「ほう。DISCを抜かれた状態で、まだ喋る元気があるか。大した生命力だ、聖白蓮
「プッチ、神父を……刺した、のは…………殺めたのは…………この、わたし、です」

 もはや力を揮うことすら出来ずにいる白蓮が最後に示してみせた行為は、偽ることであった。
 それも、殺生という最悪の罪への偽り。
 死に掛けていながら、罪を被る事への迷いはその瞳に映らない。

「真に罪深きは、この聖白蓮……です。
 尼で、ありながら、明確な殺意……伴って、人様を……殺め、まし……」

 この期に及んで、このお優しい住職サマは……生き意地汚いオレなんぞを庇っているのか、と。
 ハットの下で、ホル・ホースは唇を強く噛んだ。男として、なんて情けない野郎なんだと。

「寺に勤める尼が神父を殺す、か。確かに大罪だな」

 ひ弱な告白をDIOが素直に信じ込んだかは不明である。
 しかし窮地のホル・ホースにとって、この上ない救いの手が垂れ下がった。
 この糸にぶら下がらないという選択は、無い。
 逃せば、死ぬのだから。

「犯した罪に、偽りなど……申しません。
 全ては……『覚悟』の、うえ…………です」

 女の眼に震えは無い。
 違えた真実で他者を欺く。
 よりにもよって、殺生の戒で。
 その行為は、嘘をついてはならないという領域の不妄語戒を破る行いでもある。

 白蓮は決してホル・ホースとは視線を合わさない。
 ホル・ホースの方は、白蓮のその行為から目を背けまいと、逆に視線を外そうとしない。
 そこに不自然さは無く、極めて細々とした偽りの告白が場に流れるだけであった。
 この嘘により、ホル・ホースの命は助かるのかもしれない。しかし、白蓮の命は粛清という形で確実に奪われる。
 またしても、自分は女に庇われて一命を取り留めるのだ。


「プッチは私の友であった」


 寂しげもなく、そこにある事実を告げるだけのようにして、DIOはただ伝えた。
 今度はDIOの告白だった。白蓮はどうあれ、男の告白を聞く義務がある。身内の喪失を嘆く彼女にとって、友を亡くしたという感情は分からなくもなかった。
 しかしDIOのそれは、名状し難い表情と共に無味の声色で広がった。

 男は、エンリコ・プッチの事をどう思っていたのか。
 本当に、誰もが持つような唯の友だと思っていたのだろうか。
 プッチ本人と深く言葉を交わした白蓮は、薄れゆく心中でそれを疑に感じた。失礼な事だと思いながらも。


ホル・ホース聖白蓮を撃て」


 DIOのただ一言だけの告白は終わり、非情な命令が飛んだ。命じられた男は、深いハットの下で僅かに目を見開く。
 わざわざホル・ホースに命じた理由を察せないほど、彼は鈍感な男ではない。
 ホル・ホースは大した逡巡もなく皇帝を右手に顕現させ、倒れる白蓮の額に銃口を狙い済ました。


 震えは、なかった。
 ならば、迷いは。


「どうしたホル・ホース。君の腕前ならば、なんの難しいことも無い筈だ。
 君と彼女は全くの『無関係』なのだからね」


 ああ、その通りだ。
 無関係。無関係なんだ、元々。
 女は撃たないっつーポリシーはあるが、テメェの命が掛かっているとなっちゃあ話は別だろうが。
 彼女だって、こうなる事を分かってあんな嘘を吐いた。
 だったら、その良心にあやかろうじゃねえか。
 これにて全部元通り。丸く収まる話だろう。


「早く撃てよホル・ホース。君が撃たずとも、どの道彼女はここで死ぬのだぞ?」


 うるせえな。分かってんだよ、ンなこたァ。
 だからこうして素直に銃を構えてんだろーが。
 どの道、死ぬ。そうだ、死ぬんだよどの道コイツは。
 誰が手を下すかの違いだこんなモンは。笑わせるぜ。
 もしDIOを裏切り聖を助けたところで、オレはどうなる?
 莫大な恩赦金でも出るのか? 寺から。
 出ねーだろ。なんの金にもならねー話だろ。
 たとえ出たとして、オレはそっからどうすりゃいい?
 撃たねーっつー事は、DIO一派を敵に回すっつー事だろ。
 撃つっつー事は、何だ? オレを庇った女が一人死ぬだけっつーこったろ。
 だから言ったじゃねーか。この女はどの道、死ぬ運命なんだ。不憫だとは思うがよ。
 ああもう、クソ。これじゃオレが殺すみてーだろ、彼女を。
 いや、オレが殺すっつー話だがよ。違うだろ、これは。


ホル・ホース。これが最後の警告だ。
 聖白蓮を、撃ち殺せ」


 何でこんな事になっちまってんだ? マジで何でだ?
 オレが何した? 何も悪い事やってねぇよな? 人生の話じゃねえ、今日の事を言ってんだ。
 寧ろ、滅茶苦茶人助けみてーな事やってきてんだろ、今まで。
 それか? だからなのか?
 人なんざこれまで散々ブッ殺してきたオレが急に人助けやり始めたもんだから、ツケが回ってきたとか、そんなんか?
 神父なんか殺すもんじゃねえぜ、やっぱり。因果応報っつー力はあンだろーな、この世にゃ。
 あー、何か初めて人を殺した時も確かこんな感じだったよな。
 あん時ァ、腕がクソ震えてたのを覚えて……いや、どうだったかな。
 どうでもいいか、昔の事はよォ。それより今だ。
 早く撃てよオレ。DIOのクソ野郎が背後で睨んでやがるぞ。
 わざわざオレなんぞに撃たせやがって。忠心でも試してやがんのか? 性格悪すぎだろコイツ。
 撃ちたくねェなあ。女には世界一優しいんだぜ、オレはよォ。
 腕震えてねえよな? 汗も掻いてねえよな? ……大丈夫みてーだ、流石に。


 情けねえ。
 マジで情けねえぞ、男ホル・ホース

 …………。

 ……覚悟、決めたぜ。
 撃てばいいんだろ、撃てば。

 こうなりゃ、ヤケだ。
 オレの皇帝ならやれるさ。
 一発で楽にしてやるぜ。
 降下中の鷹だって目をひん剥く早業だ。
 見てやがれ。潰れたその片目で見えるならな。






 今度こそ脳みそ床にブチ撒けてやる。
 死ね、DIO。







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最終更新:2018年11月26日 18:19