『
八雲紫』
【午後 15:36】C-3 紅魔館 二階客室
「聖がこの紅魔館に?」
「来ている筈さ。DIO達もそっちに出っ張らっちまってる」
幻想郷がアメリカにあれば、この男のような時代遅れな服装をした人間がわんさか表を出歩いているのだろうか。
取るに足らない事を思考の端に追いやり、
八雲紫は
ホル・ホースから一通りの情報を頂き終えた。
思い掛けない偶然に、命蓮寺の住職が単身でこの館にまで来ているらしい。無論、客としてでなく鼠として。
狙いは
ジョナサン・ジョースターのDISCだという。DISCといえば青娥や鈴仙の手に入れた『スタンドDISC』が例に浮かぶが、それとは別種の物だろうか?
その旨を
ホル・ホースへと訊いても、詳細は知らないと首を振った。
(また、ジョースターか。その家系、詳しく調査する必要がありそうね)
最早ただの一参加者では収まらない『ジョースター姓』の秘密。
なるべくなら全てのジョースターと接触を図りたい。尤も、
ジョニィ・ジョースターは既に故人。彼をよく知る者がまだ生きている筈だ。
「……で、貴方は?」
「え。お、オレ……?」
今考えても、答えなど分からない。
それよりかは、今は
ホル・ホース。この男の見極め及び処遇だ。
DIOの部下と名乗るわりには、会話や立ち振る舞いに奴への尊敬は感じられない。ディエゴが去った時には、既に『様付け』を早々に放棄している時点で、忠誠心は大してありはしないだろう。
幾つかの質問(という名の尋問)を交わして理解出来た。
彼は処世術に長けてはいるが、あくまで保身が最重要。悪い言い方をするならば、フヨフヨ漂う根無し草。だからこそ此処まで生き延び、だからこそ此処から先を見通せない。
運やマグレで今まで生きてこれた訳では決してないが、このゲームに限って言えば、何か拠り所を掴んでいなければすぐにも野垂れ死ぬだろう。
その“拠り所”とは、言うまでもない。
「
聖白蓮。彼女が本当にこの館に来ているのなら、貴方にとってみれば千載一遇のチャンスでしょう」
「だからそれはさっき話したろう。オレぁ、建前上はDIOの部下やってんのよ。お前さん、オレがあのDIOの目の前で聖の姉ちゃんと話せってのかい?」
「なんならDIOを撃てばいい。射撃の名手なんでしょ?」
勿論、そんな事でDIOが討てれば苦労はない。しかし問題は、このままだと白蓮の敗色が濃厚だという事だ。
あの尼の強さは理解している。並大抵の妖怪はおろか、マトモにぶつかれば私ですら少しは手を焼く。
しかしそれでもDIOには勝てない。実力どうこうでなく、『
聖白蓮』ではきっと……『人間の持つ邪悪さ』には勝てない。
彼女はそういう女だ。
少なくとも、一人では勝てない。
「下には多分、一緒にジョルノ君が居る。鈴仙も居る。そこに貴方が加われば、DIO相手にだって劣らないんじゃないかしら?」
口では上手いことを言うものの、紫の見立てではそれでも過不足。
ホル・ホースの実力はまだ不明なれど、DIOには届かない。
「なに!? み、味方が居んのかよ! 二人も!?」
しかし紫の申し訳程度の煽てに、
ホル・ホースは案外乗ってきた。
DIOには勝てない、とは思うものの、戦力に加算があるなら白蓮らの足でまといにはならないだろう。
紫とて、無駄な犠牲者など出したい訳もない。まして囮役を引き受けたジョルノ達のフォローに入るのなら、願ってもない援軍だ。
「表向きでもDIOの部下なんでしょう? 私が貴方なら、その立場を逆に利用するけどねえ」
ポン、と背中を後押し。
さあ人間。貴方の答えは?
「…………~~~く、ゥゥーー……っ!
だーーもうッ! わーった、わーったよ!
行きゃイイんだろが行きゃあ!!」
半ばヤケクソのよう。それでも頷いてくれた。
及第点だ。これならば、後顧の憂いなく彼に『任せて』やってもいい。
信用出来るか出来ないかで言えば、この男は信用出来ないに分類される。
良い人間か悪い人間かで言えば、間違いなく悪い人間だ。
でも、まあ……他に適役も居ないし? 時間も無いものね。
「つーか! 何でテメーがさっきから上から目線なんだよ!
お前さんも来いよ! 同郷の奴なんだろ!?」
「あら、私にはキチンとやるべき事がありますのよ。貴方、レディを戦場に送る気?」
「あー? ンだよ、その『やるべき事』っつーのは」
待ってましたその言葉。
そう言わんばかりに溌剌とした紫の腕は、天に掲げたその扇子をある一点へと振り下ろし、指し示した。
「この娘の『意思』の行方をざっと探してみたのだけど、どうやらすぐ近くには居ないみたいなのです」
「意思ィ~? どうやって追ったんだよ」
「私と波長が似ているから難しい事ではないわ。
そして……『追跡』するのも、ね」
紫の指先が、メリーの肩に触れる。
ツツーと、優しく擦るように指先が滑り、少女の頬が撫でられた。
眠り終えた幼子を慈しむ母親のように、扇子の奥に隠れた口元がフ……、と緩む。
「これより、この娘が見ている『夢』を追体験……というより直に『侵入』します」
ひどく大真面目に言い放たれたその言葉に、
ホル・ホースの顔は硬直へと囚われた。
夢の中へ入る。そんなスタンド使いが、DIOの部下に居たとか居ないとか。
しかし非現実的な話だ。それこそ夢見心地の気分でいるのではないだろうか、この胡散臭い美女は。
「あー……えっと、夢の中に、侵入。それも他人の」
「夢みたいな話でしょう?」
「なるほどね。オレもガキの頃、テメェの望んだ好きな夢を見たくて、色々実験したもんだ」
「あら、意外と可愛らしい幼少時代をお持ちで」
「だろう? まあ、出来るわけもねー。そう、出来るわけもねーんだ」
「出来ます」
「どーやって」
「……私の力、じゃあない。どうやらこれは……この娘の『能力』みたいね」
「……じゃあその娘も、スタンド使いか?」
「少し、静かにしてて」
問答無用のお達しを受け、
ホル・ホースは大いに不満な顔で口を噤んだ。
外野の視線を難なく受け流し、紫の人差し指がメリーの閉じられた瞼にそっと重なる。
……。
………………。
…………………………。
「入れそうね」
「マジか」
何とも重たい無言の空気を耐え忍んだ
ホル・ホースの耳に飛び込んだ第一声は、ファンタジーの肯定を示唆するような短い内容。
メリーには、『境目が見える程度の能力』が備わっている。
かつて結界を通じて衛星トリフネ内部に侵入した際、相棒の蓮子の目に触れる事で、自分の見ているビジョンを相手に『共有』させるという際立った能力を発揮していた。
『夢』を他人と共有できるチカラ。
その能力を紫が知っている訳がない。
けれども、何故か紫の内には希望めいた確信があった。
何となく……自分の姿にそっくりなこの娘とは、何もかも通じ合える気がする、という奇妙な確信が。
その確信が、二人の関係を決定的なモノへと繋げてしまうという……ある種の『恐怖』も。
意を決して紫は振り向き、そこに立つ男へと声を掛ける。
「
ホル・ホース。貴方には、少しの間だけここを守っていて欲しいの」
ギョッとした表情が、男の動揺の全てを物語る。
予期せぬ要請。唐突すぎる申し出だ。
「ハァ!? なんでオレが!?」
「守って、というのは多少大袈裟ね。私が『向こう』へ行っている間、私本体は完全無防備になると思うの。
だからその間だけでも、ここで見守っていてくれるだけで構わない。元々、彼女を守れっていうDIOからの命令があったんでしょう?」
「いや……だけどよォ、アンタがついさっき言った事だぞ。“
聖白蓮に会いに行け”って……!」
あれは方便みたいなもので、紫は単に
ホル・ホースという男の『底』を確認したかっただけだ。
この場で白蓮に会いに行こうともせず、ひたすら保身にしがみつく軟弱な男であれば、この話を持ち出す気など無かった。
渋々ながらも彼は、最低限の男気を見せてくれた。ならば少しは紫の期待には添えてくれるだろうと信用し。
「聖なら簡単にやられるようなタマじゃないわ。
貴方が百人束になって掛かったって、あの尼には敵わない」
「……チッ。ここで見てりゃあ良いんだな?」
「ええ。でも、もしも…………いえ。何でもありません」
歯切れの悪い言葉を振り払うように、紫はスカートを翻してメリーの隣へ立ち、おもむろにその身体を抱き上げた。
部屋の奥に備えられたベッドの上へと彼女を横にして、自らも靴を脱ぎ、その隣に横たわる。
「それじゃあ、ちょっと神隠しに遭ってくるわね。
あ、私が寝てる間にオイタは駄目よ?」
「るせぇ! とっとと行ってきやがれ!」
茶目を見せながら、紫とメリーは互いに向き合うようにして。
瞳を閉じ、メリーの閉じられた目へと触れた。
それを合図に、部屋の中は静寂に包まれた。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
『
サンタナ』
【午後 15:47】C-3 紅魔館 地下大図書館
気が付くと
サンタナは、紅魔館内部に立っていた。
本当に、気が付いたら立っていた、という他ない。
ワムウに敗け、肉体がぐずぐずに崩壊していく
サンタナを放心から引っ張り上げたのは、主の命令であった。
勝利をもぎ取る事は成し得なかったが、ほんの僅かなか細い綱だけは何とか掴み取れたらしい。
サンタナの挑戦は終わらない。
相手取るDIOはたかだか吸血鬼でしかないが、格下であろうとそれは確かなる挑戦だ。
歩みを止めた瞬間に、
サンタナは今度こそ塵芥と化すかもしれない。
だから……今はただ、余計な思考に流されず、目の前の道のみを辿ればいい。
そうして彼は、胡乱のままにこの地へ立った。
曖昧にぼかされた視界で歩んだ侵入経路は、
聖白蓮がインドラの雷にて地下道にまでくり抜いた大穴。
頭上から灯された光天に導かれるよう、虚無であった怪物は無心で穴をよじ登った。
奈落の底から唯一の救いを求める為に、這い上がるのだ。
縦に伸びた、暗い暗いトンネルはすぐに抜け出た。穴は至極短い長さで、大した労力も時間も掛からなかったが、
サンタナの意識にとっては酷く冗長のように感じた。
どうやら随分と開けた空間に来てしまったらしく、辺りはやけに騒々しい。
その場所に、いきなり『居た』。
「───DIO」
此処までの道程は一心不乱であったが故に、作戦や気構えといった心の準備を殆ど立てられていない。
緊張しているのだろうか。こんな序盤で足踏みしている場合ではないというのに。
『挑む』という行為がそもそも、
サンタナにとっては馴染みが無い。彼が今までの生で働かせてきた暴力とは、戦闘というよりかは、集る害虫をまとめて踏み躙るような本能的衝動だ。
それらとは一線を画するこの鼓動の高まりは、
ワムウとの決闘前と似て非なるもの。
未知への挑戦、だった。
あの
カーズを一撃で吹き飛ばした男。
一目見て
サンタナは肌に感じた。確かにその辺の吸血鬼とは、何かが違う。
その『何か』を見極め、無事帰還し、主達に報告する事が
サンタナの任だ。可能ならば、討って良しとも。
重大な任務であるにもかかわらず、
サンタナは与えられた命令そのものに対しては、さほど執着を感じてない。
カーズの命令をこなすという勲章は、彼にとって一個の『手段』に過ぎない。あくまで大切なのは自分の意志にあり、そこを履き違えると本末転倒となる。
ワムウとはっきり異なる点はそこだろう。命令に対する『感情』と『意志』……それぞれに傾倒する比重が、
サンタナと
ワムウの対照的な部分だ。
とはいえ、用意された手段が現状、DIO討伐ルートしか存在しない以上、失敗の許されない道であることも承知の上。
迂闊な特攻は軽率に選ぶべきではない。
只でさえ
カーズからは「鬼の流法は未成熟」と釘を刺されている。
(驚異なのはやはり……奴の『スタンド』か)
触れた物に裂け目を生み出すあの人間の男との連戦は、
サンタナの意識に明確な『警戒心』を齎していた。
人間の非力な部分を補って余りある精神像は、脅威と呼ぶに相応しい我武者羅さをも備えている。
それぞれには固有の能力があるようで、
カーズは不意打ちとはいえリング外まで弾き飛ばされたと聞いている。
さて、どう仕掛けるか?
サンタナを初めとする闇の一族の特徴として、知能の高さが挙げられる。彼の同胞らが戦闘において度々謀略を巡らせたり、奇策により敵を欺いたりする行為も、闘いの土壌には戦術(タクティクス)を敷いて然るべきという基本事項を理解しているからだ。
一方で
サンタナは、学習能力こそ人類の域を逸してはいるものの、その特異な暴力性は寧ろ原始的だ。
秘められた肉体の力を、在るが儘に振る舞う。極めて単純で分かりやすい。それでも下等な人間から見れば充分におぞましく、化け物じみた能力であったが。
つまり、前提として“考えながら戦う”といった経験が、
サンタナには圧倒的に不足している。かの
ジョセフ・ジョースター相手にいい様に翻弄されたのも、戦闘に『思考』を持ち込めなかった事が原因だろう。
柱の男の能力がなまじ強力である為、大概の相手になら無策でも圧倒出来る。
頂点の種族という出自に胡座をかいて育まれた自惚れは、
サンタナから駆け引きの妙を奪った。
主達から見放された、主たる理由の一つであった。
「だが、それも今までの話だ」
誰に掛けるでもなく、目前で演じられる激闘を眺めながら、
サンタナは小さく吐き零した。
居たのはDIOだけではない。
他に数人。DIOの部下らしき人間二名と、それに対抗する男女二名。近くには、妙に長い耳の女が転がっている。
このまま我関せずとばかり、試合をコソコソと観戦しながらゆっくりDIOの能力を考察する事も可能だろう。
ワムウはともかく、あの主達ならばきっとそうする。
それが合理的。難しいようなら、既にDIOと相当組み交わしているあの男女を尋問するなりすれば、もしやすれば望んだ解答は、考察するまでもなくあっさり手に入るかもしれない。
無難だ。それらの選択肢は、なんの苦難も介さない無難な道。
生きていくには、時には必要となる経路でもあるだろう。
しかし、今に限れば。
サンタナの踏破するべき、この険しき道の中途で選ぶべきは、決して無難で頑丈な石造りの橋上には無い。
艱難を経て這い上がる崖の最上こそが、彼の目指す『柱』が建つべき、揺るぎない土台なのだ。
共生を選ぶつもりなど毛頭ない。
元より男は深淵に産まれた、孤独の身。
誰であろうと……刻み付けるは『恐怖』という名の原点。
かくして鬼人は、この戦場における完全イレギュラーな戦禍に化けて、宣戦布告の雄叫びを轟かせた。
◆
「貴様……───」
零れ落ちた一言は、DIOの妖艶な唇からであった。
床を爆ぜらせる程に驚異的なロケットスタートを見せた怪物の容姿に、見覚えがある。
カーズ。
確か、数時間前にここ紅魔館にてディエゴと交戦していた化物の名だ。
翼竜の情報では、特級の危険参加者だと聞いている。
その
カーズと目前の男は、衣裳や空気が大きく似ていた。
(なるほど。奴の送った刺客か偵察といった所か)
他には目もくれず、という程でもないが、この乱入者は戦地に現れると同時、DIOのみを瞳の中心に捉えて真一文字に突っ込んできた。
ターゲットがDIOである事は瞭然である。
「稚拙だな。血の昇った猪とて、もう少し捻りを加えた突進を試みるぞ」
一片の動揺すら漏らさず、ザ・ワールドが敵の突撃を身体で食い止め、続く蹴りの牽制で相手を引き離す。
白蓮の速度の方が余程恐ろしい。彼女と比較すれば、こんな猪同然の獣を止めることなど、時を止めるまでもない。
「───オレは」
わけなく振り払った獣が、両の拳をグッと握って僅かに俯いた。
か細い呟きが、男の口から転がり落ちるように漏れて床へとぶつかる。
「……?」
突如乱入してきたかと思えば、何をブツブツと。
DIOだけでなく、その場の全員が同じように首を傾けた。
振動する男の肌は、何処を根源として噴き出された震えか。
その怪物は、またも爆ぜるように……吼えた。
天を仰ぐ
サンタナの張り裂かれた喉元を震源地として、衝撃波が図書館を揺らした。
そこいらに積もった塵が一斉に吹き荒れ、棚の片隅に積まれたままとされていた古本達がバタバタと音を立てて崩れゆく。
「……〜〜〜っ!?」
倒れ伏した鈴仙、隻腕であったジョルノ以外の全ての人物が、何事かと反射的に両耳を塞ぐ。
キンキンと鳴り止まぬ派手な耳鳴りを見越しての、即興音響兵器。そういう意図を持たせた咆哮ではないらしいことが、
サンタナの鬼気迫る表情からは感じ取れる。
マトモな意思疎通くらいは可能なようだ。未だ鼓膜に響く耳から手を離し、DIOは極力、苛立たしい声色を隠しながら会話を試みる。
「そうか……“
サンタナ”。それで……貴様は何故、このDIOの前に立つ?」
白蓮相手にも質した内容は、
サンタナへも同じ言葉で投げ掛けられた。
尤も、問うまでもない疑問だ。
カーズの体のいい駒として使われた、都合の良い番犬。そんな程度の、聞く価値もないつまらん目的だろうなと、DIOは見下すように鼻を鳴らす。
しかし今、不必要なほど高らかに叫ばれた名乗りの意味が掴めない。
親交を深める為の“最低限”の礼儀作法として、DIOは見知らぬ相手にもよく名乗ったりはするが、今現れた暴君の咆哮は、お世辞にも交流を目的とした自己紹介には到底聞こえなかった。
闘いにも作法はある。剣を交える相手への前口上として、堂々名乗りをあげる輩も少なからず居るし、自らのスタンド名を明かして攻撃を仕掛けるスタンド使いもその一環と言っていい。
サンタナはそれらの、所謂『礼節』を重視するようなタイプと同列にはない事が、荒々しい言動や醸す空気から把握し足り得る。
対敵へと名乗る行為、それ自体に彼なりの大きな意義があるのか。
そう仮定するなら、
サンタナが此処まで足を運んだのは、勅命なりを受けて馳せ参じたといった受動的な理由だとも単純に断定できない。
DIOはものの一瞬で、
サンタナにまつわる事情をそこまで看破してみせた。
彼の人心掌握術が成せた業前という点も大きいが、
サンタナの名乗りには、それほどに魂の込められた熱い感情が渦を巻いていたのだ。
『名前』には、ときに不可思議な言霊が宿るものだというのは、白蓮とのやり取りでも分かるようにDIOの持論である。
目の前の『
サンタナ』とやらは、その理を理解しながら名乗ったのだろうか。
DIOの思う所では、男のそれは凡そ本能に沿った行為なのだろう。
漠然でありながらも、唯一彼にとっては重大な意図を占めるもの。本質を理解せずとも、遺伝子に残った感情が雄叫びを上げているような興奮状態。
そういった意味では
サンタナとDIOの思想は、真逆のようでいて、根源的な部分は一致していた。
不安定なままに、
サンタナはDIOから問われた意味を彼なりに噛み砕き。
うっすらと『自己』を主張する。
「何故、お前の前に立つかだと……?」
「簡単な事だ」
「“それ”が、必要だからだ」
「オレは、オレにとって必要なモノを取り返す為に」
「お前の前へと、立つ───DIO」
不敵に指をさされながら返された答えは、DIOを十全に納得させる内容には些か足りていない。
全く曖昧で不躾な返事。理解しろという方が理不尽で、揃えて示すべき言葉が不足し過ぎている。
向こうには何かしらの理由があるかのような言い回しだが、ハッキリ言ってDIOにはまるで思い当たる節もない。仲間から命令を受けた、とでも言っていれば余程納得出来たというのに。
それ以上の確たる理由が、
サンタナにはあるのだ。
そしてそれは、既に述べられた。
これ以上の詮索は、お望みでないらしい。
「……何やら懸命になっているところ悪いが」
興味は、ある。
しかし、今は時期が悪い。
「このDIOを名指しで指さしたからには、身の程を叩き込む必要があるようだ」
ザ・ワールド。
即座に時を1秒止め、戯け者の侵入者を真横から殴り飛ばした。
サンタナは突如襲った衝撃を堪えること叶わず、軽い弧を描きながら図書館の壁に激突する。
派手な光景とは裏腹に、手応えはほぼ無感触。
カーズの時と同じで、物理的なダメージは奴の皮膚に吸収されるように虚となって消えた。
とはいえ効いていない訳でもない筈。白蓮とは真逆で、柔軟な肉体構造が衝撃を散らす緩衝材の役割を担うといった所か。
「身の程ならば、よく理解して来たつもりだ。嫌という程にな」
口元を吊り上げながら、
サンタナは上体を起こした。
五臓六腑に染み渡る程の衝撃だが、蝿にでも止まられたかのような反応には、流石のDIOも少々青筋が立つ。
とうに理解してはいたが、この敵は人間ではない。近いところで吸血鬼にも思えたが、それとも少し違う奇妙な存在である。
今更な話だ。ここには数多くの妖怪が跋扈しているのだから、それを考える行為など『無駄』とも言える。
予想するに奴は、体面ではスタンドの秘密を暴きに現れた単体偵察の役目。ホイホイと時を止めようものなら、後々の進撃が予想される本隊との戦いに支障をきたす。
そう慎重になるも、ジョルノと白蓮が既にザ・ワールドの秘密を知っている。奴らがここぞとばかりに一声あげれば、能力などいとも簡単に知れ渡ってしまいかねない。
少し、面倒な状況だ。
小さく舌を打ち、DIOが
サンタナを鋭く見据える。
プッチがDIOの思考と同調するタイミングで、背後より語り掛ける。
「ああ……プッチ。私が出会った『
カーズ』や、君の話していた『
エシディシ』。その仲間の一人として考えていいだろう」
人伝いではあるが、
聖白蓮や
洩矢諏訪子が苦戦しながらも退けた男・
エシディシ。ディエゴからも軽く聞いていた特徴を重ね合わせて、目の前のサンタナは十中八九
エシディシの一派でもあるだろう。
「白蓮曰く、
エシディシは相当の手練であり、何よりその能力が異常極まると聞いている。
サンタナと名乗る奴も、同等の力量があるかも。……僕も手伝うかい?」
「いや、それには及ばない。それよりもプッチ……」
白蓮といえば……。そう続けようと首を後方へ回しかけたDIOへ、耳に障るエンジン音が侵入した。
サンタナに気を取られている隙に、白蓮とジョルノ……それに担がれた鈴仙が、倒れたバイクを起こして跨っていた。
狙いは、逃走か。
プッチはすぐさまホワイトスネイクを起動させ、阻止しようと迎撃態勢を取る。
「構わんプッチ。精々、一時的な前線脱却だ。奴らはまだ『目的』を何一つ達成出来ていない」
「……かもしれないが、見逃す理由にはならない」
「無論、奴らは必ず始末するさ。とはいえ……」
暴獣の如き
サンタナが、白蓮らと共同戦線を張るとは考えにくい。
しかしちょっとした“弾み”で、ザ・ワールドの能力の秘密が白蓮から
サンタナへと伝達する可能性は決して無視出来ない。
その“弾み”は、なるべくなら取り除きたい。であれば、白蓮らと
サンタナの分離はこちらとしても都合が良い。
DIOの無言に込められた含みを察したのか、プッチもそれ以上動かない。
そうこうする内に三人を乗せたバイクは、重量制限の規定を超過したままに、唸りを上げて出入口の扉を走り抜けた。
後部に乗せられたジョルノが一瞬振り返り、DIOの視線と交差する。
まなじりを細めながら彼らの逃走を見届けたDIOは、その後ろ姿がすっかり見えなくなると、肩の力を抜くように観念し、一言だけ呟く。
「プッチ。───奴らは任せた」
その言葉は、DIOによる『ただ一人の友人』への信頼。
同じ言葉でも、部下へ与える命令とは一線を画す、プッチにとって絶大なるエネルギーを働かせる言霊。
神父は何も返さず、ただ一度頷き。
闇を反射する駆動音を逃さないように、彼らの後をゆっくりと追跡していくのだった。
「DIO様。私もプッチさんにお供した方が……」
自らにだけ何の指示も無かったことに不安したか。控えていた蓮子が遠慮気味に意見する。
肉の芽の効力には個人差がある。この蓮子という少女は、同年代の少女よりかは幾分か勇気も度胸もあるようだが、それもあくまで一般的な範疇に収まっている。
花京院やポルナレフに比べたら、小突けばヒビが入る程度には脆い精神性だ。そのせいか、肉の芽の侵食率は抜群に具合が良い。
主の命令が無ければ人形同然。そんな憐れな少女の頭へとDIOは、掌で水を掬うように優しげな手つきで撫で、ひと言囁いた。
「案ずるな。君は私の傍に居てくれ。その方がずっと安心出来るさ」
年頃の女子が聞かされたなら、ややもすれば乙女心を揺れ動かすほど歯が浮く台詞だろうか。
当然、言葉通りに軟派な意味を含めたつもりはDIOには無い。わざわざ蓮子を連れ添ったのも、『カード』は手元に伏せて置くという基本の兵法に倣ったからだ。
「蓮子。『メリー』はどうだ?」
「……はい。もう間もなく、堕ちるかと」
視界の奥の
サンタナを警戒しながら、DIOにとっては重要な懸念を訊く。
肉の芽内部へ取り込んだメリーが完全にDIOの意思へ屈した後は、一先ず蓮子はお役御免となる。だからと言って用済みと断じ、わざわざ『始末』する必要性も無いのだが、いつまでも脇腹に抱えて動くのも億劫だ。
今後の行動に影響する優先順位は、なるべくなら早い段階で詰めておきたい。
心中、DIOは黒い笑みで算盤を弾いていると、蓮子が帽子に手を当てながら、「ただ……」と前置きして言った。
「メリーとはまた別の意思、のような者が私の中へと侵入してきています。一体、何処から……」
その言葉を聞くや否や、DIOは喜色めいた驚きを浮かべた。
『別の意思』……その存在に見当はつく。
(『鍵』は揃った。ここまでは……計画通りだ。後はオレの予想が当たっていれば……!)
もしも運命というものが存在するのなら。
それこそが、DIOなる男が打倒すべき最大の敵。
DIOは今、立ち塞がる鬼峰に手を掛けている。
未だ予想の段階であるが……この『幻想』が『現実』へと反転した時。
一組の番(つがい)が、鏡合わせに出逢った時。
きっと。
『蛹』は……えも言われぬ美しき色彩の羽を羽ばたかせながら。
空に広がる『奈落』へ向かって、堕ちるように翔ぶのだろう。
(メリー。貴様がいくら操縦桿を握ったところで……それを上から支配するのは───)
空を飛ぶ為に、空を翔ぶ。
かのライト兄弟など比較にならない程の偉業を成し遂げるのは、メリーではない。
(───このDIOだ)
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
『
八雲紫』
【深夜 00:03】E-2 平原
鬱屈。この不愉快な微睡みを感情へと出力するのなら、その単語が相応しいか。
天然の金糸を流麗に流し込まれた、国宝級と呼んでも差し支えない麗しの髪。
黄金に輝けるそれを包み込むように支える草のベッドで、彼女は仰向けとなっていた。
最低の夢見心地から覚醒しきった
八雲紫を初めに迎え入れた光景は、仮初の幻想郷に植えられた自然の数々ではなかった。
これより血に塗れるであろう大地。
その地平でなく、遥か上の世界。
天上に昇る星の海が、視界でひたすらに瞬いている。
覚醒した
八雲紫が最初に見た光景とは。
夜が降りてくると錯覚してしまいそうなほど、眼前に広がる巨大な星空だった。
たった今演じられた、最悪の公開処刑。
それらが夢でない事など分かりきっている。
故に、後味も最悪……だというのに。
満開の夜空の中心に煌めき連なる、『七つの星』。
言葉に出来ない、あまりに綺麗な輝きをぼうっと仰いでいると。
不思議と、怒りも絶望も湧き出てこなかった。
どこからか、喧しい四輪駆動のエンジン音が耳を打った。
第一参加者がこの場へ接近して来ている事を紫が悟ると、星の煌めきを名残惜しむように、気だるげな様子でゆっくりと腰を上げた。
愛用していた傘が手元に無いことに気付く。アレがないと、何だか落ち着かない。
大方、支給品として適当な参加者に配られたのだろう。抜群に手にフィットする使用感以外、これといった長所も無い大ハズレの品物だ。手にしてしまった参加者には同情を禁じ得ない。
心地好い微風が草花を揺らす夜天の下で、闇に溶ける紫色の衣装を翻し。
幻想郷を愛す賢者は、最初の一歩を踏み出した。
奈落の闇を抜け出さんと天へ伸びる、長ったらしい階段。
比較的、急勾配に積み上がっている石の凹凸を、ノーヘル&三人乗りという無茶でバイク疾走する住職には、撤退を提案したジョルノといえど若干引いた。
当然だが、階段というものは二輪で駆け上がれる構造では作られない。バイクのまま登るとなると、運転者に飛びかかる負担は降りる時よりも一層膨らむ。
まして怪我人も無理矢理搭乗させているのだ。後部に跨ったジョルノは、意識の無い鈴仙が振り落とされないように抱え込む事で精一杯だった。
蓮子から切断された腕は、現在治療中だ。暴走するバイクとの相乗りの最中で、という悪環境でなければ、もう少し余裕を持った治療に落ち着けたものだが。
「少なくとも
エシディシという男は、私と
秦こころという手練が組んで、ようやく渡り合えたと呼べる程の強敵でした」
「あの
サンタナも、そのレベルの力を?」
「……どうでしょうか。相当の『妖気』を秘めているのは確かですが」
白蓮が青い顔で語るのは、戦いの疲労という理由だけではないだろう。
ジョルノの目の前に突如現れた助っ人の白蓮は、傍から見ていた限りでは信じられない力を振る舞う気高き女性だった。
その彼女をして脅威と認められた
エシディシや
サンタナとは、どれほどの男なのか。
幸運にも、奴の直接のターゲットはDIOであるようだ。何の因縁が絡んでいるかは知った事ではないが、窮地の状況から逃げ出せたこの好機を見逃す手はない。
DIO達から負わされたダメージは、無視できる量ではない。治療も兼ねた、一時撤退。あくまで一時的だ。
「あのスキマ妖怪がこの館に?」
「はい。僕と鈴仙の三人で、ちょっとばかし『人捜し』を」
「それで……
八雲紫は今、どちらへ?」
「位置は感知してますが……さっきから動いておりません。敵にやられた可能性もあるでしょう」
ジョルノが生命力を込めて預けたブローチは、あくまで紫の衣装へ身に付けた発信機に過ぎない。彼女の生死をここから判別する術は無いし、単に衣服から外れて落とされただけかもしれない。
至急それを確認する必要があるのだが、十中八九、後方から追手が来ている。この状況で紫の元へ考え無しに駆け込めば、何らかの理由で留まっている彼女諸共乱戦を起こす可能性がある。
そもそも囮隊として動いていた筈だ。上階へ出る事自体、リスクもあるが。
まず優先するのは、追手の掃討。
戦場を上階へと移した『別の理由』も、ジョルノの頭にはある。
「館の外まで脱出するのは、抜き差しならない状況にまで追い込まれた場合に限ります。
プランAです。このまま上で待ち構え、迎撃しましょう」
「賛同します。私にも、取り返さなければならない物がありますから」
より力強く、白蓮はハンドルを握り締める。
荒々しく強引な運転が、彼女達に刻まれた傷へと揺さぶられ、骨身に響かせる。
大魔法使い・
聖白蓮といえど、貯め込む魔力は決して無尽蔵ではない。DIOとの肉弾戦では軽々と動き回っていたように見えたが、燃費の事など思考の片隅にも置かず、魔人経巻の力をフルパワーで作動させ、戦闘中は常時魔力全開の状態を続けていた。
重ねて、幾らか叩き込まれたダメージも軽い質や量とは言えない。耐久力には自信があったが、相手がプッチであればそれも意味を為さず。
ハッキリ言って、予想だにしない苦闘を強いられた。じわりじわりとボディブローを貰ったような鈍い疲弊は、着実に澱んでいる。
プッチ神父。
彼とだけは、決着を付けなければ。
◆
冷たい雫が、頬を伝って顎先まで滴る。
糸に垂らされたマリオネットみたいに縛り付けられた腕へと纒わり付く、無数の雨雫。
濡れそぼった服が、その肌にべっとりとしがみつく。
気持ちが悪い。
でも、全身濡れるがままでいることなど……今の私にとってはどうだって良かった。
身動きが取れない。
全身の至る箇所に巻き付かれた『蜘蛛の糸』が。
背中越しに私を宙へ貼り付ける『蜘蛛の巣』が。
他のどんな粘ついた感触よりも気持ちが悪く、不快な気分に落とし込まれる。
どんな過程を経て、今の状況に陥ってしまったのか。それすら思い起こす気が浮かんでこない。
ただ気付けば、自分の体は蜘蛛に魅入られたように宙で拘束されて。
背後で我が友人・
宇佐見蓮子が、執拗に語り掛けてきているだけだ。
「メリー……。
苦しいよね?
寒いよね?
だったらさ……私が、救い出してあげるよ」
耳元で囁くこの声は、蓮子なんかじゃない。
声も、姿も、蓮子そのものだけど、絶対に蓮子じゃない。そんなわけが無い。そうであって欲しくない。
初めの内はそんな風にして、舌を噛みながら強く耐えていた。
唇から真っ赤な血が一滴。ドロリと滴って、透明な雨と混ざる。
痛かった。
『心』というものが心臓の部位に存するとしたら、私の心臓は真綿で締め付けられているように息苦しく、悲鳴を上げるしか出来ない。
灰色の空が嘲けながら、さぁさぁと涙雨を落とす。
僅かに動かせる首を精一杯に上げれば、この小さな町を一望できた。
長ったらしい石段の終わりに作られた鳥居は、ここが山の中に建てられた高所の神社だという証明。
振り返ることは出来ないけど、背後には廃墟じみた神社の成れの果てが、もう訪れる参拝客の居ない現在を嘆くように佇んでいるのだろう。
きっと。
私はこの場所を、知っている。
いつかの大晦日に蓮子と二人だけで訪れた……結界の薄い土地。
あの日みたいに、遠くの何処かから除夜の鐘が響いている。
鐘は、音の余韻を断たせることなく、永久を刻むようにして連鎖していた。
絶え間なく頭に響くこの音は、まるで私の精神を洗脳でもするかのように、ひっきりなしに鼓膜を叩いている。
気が狂いそうになる鐘の音の隙間から、ぬっとりと入り込むように。
親友の嬌声が、洗脳を重ね掛けしようと囁く。
「メリー……どうして私を拒むの?
私はこんなにも貴方を必要としているのに」
雨に濡れた背中へと、ベタベタくっ付く彼女の腕は、まるで蜘蛛のよう。
巣に招き、捕らえた蝶をじっくりと溶かしながら捕食する蓮子は……蜘蛛そのものだった。
「……私を必要としているのは、貴方じゃないでしょ」
もはや嗄声同然の音をなんとか絞り出し、腕に纒わり付く蓮子へと皮肉混じりの言葉を投げかける。
「貴方は……『私を必要とする蓮子』なんかじゃない。
『私の能力を欲しているDIO』よ。蓮子の意思じゃ、ないじゃない……」
「メリー。それは貴方の思い込みよ」
「思い込まされているのは、蓮子の方だわ……」
「ねえメリー? 今動いている自分の意思が、果たして本当に自分の意思であると証明する術はある?」
その言葉はまさに、いま私が蓮子へと問い質したい証明の方法だ。
私は私の意思で、確かにこの『場所』へ入ってきた。
“勇気”を持ち、自分の“可能性”を信じてほしい。
ツェペリさんが最期に遺したこの言葉を糧に、私は私に出来る可能性を信じて、こんな果てまで来たんだから。
「……少なくとも蓮子を含め、虚像だらけのこの世界に……『真実』は、私の意思だけ、よ」
「デカルトの方法序説かしら?」
項垂れた私の首に、蓮子の腕が回ってくる。
冷たい熱の肌触りが、私の意識を徐々に、徐々に絡め取っていく。
「『我思うゆえに、我あり』……。
メリーは身の回り全て……私すらも疑うことで、自分の存在や意識を“確かに此処に在るもの”だと、何とか証明しようとしている。
でもそれって、すっごく哀しい行為よ。信じられるのは自分だけって、私との友情を根底から否定するような話だもん」
実の親友にそう受け取られてしまうのは、私とて哀しい。
でも『この場所』においては……周り全てが敵。
そんな中で、自分の心だけは排除できない。切り捨てては、駄目なんだ。
疑う自分を自覚する事で、辛うじて私は自己を繋ぎ止められている。
「自分の事しか信じられないってのは、物語の悪役が吐くようなアウトロー台詞よ。
だとしたらメリーの足は、どうしてこんな所まで来たのかしら? たった一人で」
それ、は……。
「“
宇佐見蓮子(わたし)”を助ける為よね?
ねえメリー。
私は……『敵』?
私は……『偽者』かな?」
紡ぎ出すべき言霊が、喉から出ていこうとしない。
いま、否定したばかりの『この蓮子』は。
疑いようもなく、私の知っている『
宇佐見蓮子』だから。
朱に交われば赤くなる、なんて話ではない。いくら邪心を植え付けられようと、心を支配されようと。
その体は、確かに私の親友のモノなのだ。
彼女が『偽者』であったら、どれだけ救われただろう。
「うん。そうよねメリー。
私は偽者でも作り物でもない。
貴方の大切な親友……
宇佐見蓮子なのよ。
『この世界に真実は自分独り』だなんて……そんな哀しいこと、言わないで」
私を惑わす甘い蜜が、耳の中からとろとろと流し込まれて。
蜘蛛の毒を混ぜられた熱い蜜は、次第に私の全身を麻痺させながら血液と共に循環していった。
「思い出してメリー。貴方は他に頼る相手が居ないから、自暴自棄になって周りを排除しているだけ。
だから、自分だけしか信じられない。
だから、私の手を払い除けて殻に閉じ篭ろうとする。
だから、蛹のまま。
だから、一人じゃ何も出来ない。
だから、『秘封倶楽部』って幻想にいつまでも縋り付く」
背に絡んでいた蓮子は、いつの間にか私の目の前に移動し、黒墨を流し込んだような瞳を真っ直ぐに向けていた。
見たくもなかった親友の、あられもない姿が否応に映り込む。
四肢を蜘蛛糸に絡み取られている私はどうする事も出来ず、せめてギュッと瞼を固く閉じた。
「“勇気”……? 貴方のそれは、破れかぶれの末に振り撒く蛮勇なだけ。
“可能性”……? 一つに狭められたけもの道は、可能性とは呼べない」
真っ暗闇な視界の中、雨に濡れた両頬にそっと添えられる、暖かな指の感触。
蓮子の添えた指は、私の冷えきった心を暖かく染め上げた。
母が産まれた我が子を抱きしめるような、愛に満ち満ちた命の熱に……私は。
「もっかい訊くわね、メリー。
“貴方は本当に、自らの意思で此処へ来たの?”」
わ、たし……は…………
「違う。貴方は、そう思わされているだけ。
本当は、喚ばれたに過ぎない。
どんどんと削り取られた“可能性”っていう道が、
最終的にたった一つにまで崩されて。
貴方は、その道を“選ばざるを得なくなった”……
それが、私たちがいる……この『世界』よ」
私が、“思わされて”いる……?
私が……“喚ばれた”……。
それは───
「誰、に……?」
孤独の世界に、私は途端に恐怖した。
独りでいる事に、耐えられなくなって。
頬の温もりが、愛おしく感じて。
私はついに……、
───瞼を、開けた。
「このDIOだよ。メリー」
開けた視界に、親友の姿は無かった。
私の頬を慈しむように触れていた、その手は。
恐怖に負けそうになって、思わず求めてしまった、その温かな手は。
───DIOのモノだった。
「…………あ、……っ」
心が、グルンと反転するような。
そんな奇妙な感覚を、味わった。
空を堕ちる浮遊感が、私の全身を雁字搦めに支配する。
頬を伝う雫が、雨なんかではないと気付いた。
涙、だった。
何故。
どうして涙が出てくるのか、分からない。
それを考える余裕すら、今はもう。
「さあ……怖がることなんてないよ。
私と『友達』になろう。きっと君の心は救われる」
DIOの言葉が、私の理性をふるい落とす最後のスイッチとなって。
もう何も考えられず。縋るようにして私は、彼の腕を取ろうと動いた。
いつの間にか、私を縛っていた蜘蛛の巣はすっかりと剥がれ落ちていた。
騒々しいくらいに聴こえていた雨と鐘の音は、いつしか掻き消えている。
耳に入るのは、DIOの官能的とすら言える誘い詞だけ。
マエリベリー・ハーンの意識は、奈落へと消える。
たとえそうであっても、もう……どうでも良い。
所詮、私はただの蛹だった。
手足も、羽も、空へと伸ばすことすら出来ない。
殻に封じられた……無力な蛹。
「───助けて、ください。……DIO、さん」
せめて。
まともに動く、この口で。
私は、必死に彼へと助けを求めた。
こんな苦しい気持ちから救い上げてくれる“DIOさん”を、乞うように。
彼が最後に見せた───覗いた者を竦ませる程に強烈な『悪意』を帯びた表情を。
私は……見ぬフリをして、彼の手を取った。
「───罔両『禅寺に棲む妖蝶』」
瞬間、頭に反射する声と同時。
目の前のDIOが、灰天を裂く光によって割れた。
それは、無数の蝶だった。
まるで、幽々子さんの放つ弾幕みたいに綺麗で、自由で、圧倒的な蝶々の数々。
「春風の 花を散らすと 見る夢は さめても胸の さわぐなりけり」
何処からか響いてくる声は、私自身の声質にひどく似通っていた。
ただ……私の声には無い『色』が、その響きには含まれていた。
一言で言って、妖艶。
DIOとはまた違う艶やかさを持つ声が、鳥居の向こうの石段から姿を現してくる。
「詩を詠むのが好きな友人がいまして。
生憎の涙雨に、ついつい私も人肌恋しくなってしまったようです」
弾幕を放った者の正体が、頭部を裂かれたDIOの狭間の景色。その奥から、見えた。
あれは。
あの人は。
───私は、彼女をよく知っている。
───産まれる前から、とてもよく。
「人の心を喰い、弄ぶ邪悪の化身よ。
此処はお前が踏み入れてよい領域ではない。
───消えなさい」
女性の姿は、まるで私の生き写しのようだった。
髪は扇子みたいに長く広がっていて、私なんかよりも全然凛々しい顔付きだったけど。
「……や、雲……ゆ、かりィ……!」
弾幕が直撃し、DIOだったモノの形がいびつに歪んだ。
蓮子とDIOの姿を交互に反復しながら、顔貌を煙のように変化させる“そいつ”は。
女性が扇子の先を向けた途端、破裂音を響かせて一気に霧散した。
「きゃ……っ!」
吹き荒れる風が、帽子を撫でた。私は反射的に頭を抑え、情けない声を漏らす。
恐る恐る瞼を開けると、そこにDIOは居なかった。
灰色に覆われていた空も今では、あまりの美しさに魂を奪われるんじゃないかと言わん程の黄昏に照らされている。
空には、七色の虹が架かっていた。
思わず、吐息を漏らした。
「綺麗な夕焼けね……。雨も上がって虹が架かってるわ。
いつだったか、これと同じ虹を見た気がします」
その人は差していた傘を丁寧に折りたたむと、眼下の町並みを眺めながら優しげな声で言った。
逆光で見えにくいけども、夕影に覆われたその横顔は確かに……私と瓜二つだ。
突然の出来事に混乱し、私は場違いな台詞を口走ってしまう。
「あ……ぁ、えと……私に、言ってるんですか?」
「貴方に私の声が聞こえてるんだったら、貴方に話してる事になるわね」
彼女はまだ呆然と立ち竦む私に振り向きながら、首をチョイと傾けニコリと微笑んだ。
女の私ですら、その笑顔に見蕩れてしまいそう。それくらい美人な人だった。
「お嬢さん。貴方は、昨晩の夜空を見ましたか?」
お嬢さん、なんてくすぐったい呼び方に内心で照れを生みながらも、私は何とか訊かれた内容に応えるべく、昨晩の夜空とやらを想起する。
が、状況が状況だけにイマイチ判然としない。昨晩は殆どの時間、背の高い竹藪に囲まれていた事もあって、夜空の星を楽しむどころではなかった。蓮子なら真っ先に星を仰いだんでしょうけど。
「私は七つに眩く、その星辰の美しさに惚けておりました。
いま私の目の前に立つ、輝ける蛹の子……。
昨晩の空は、その暗示の“一つ”だったのかもしれません」
「七つの、星……」
黄金色に広がる夕焼け空。
そこへ架かる、目を奪われる程に透き渡った虹の隣に。
七つの星が、並んでいた。
「ねえ……マエリベリー。
“他に頼る相手が居ない”というのは間違いよ。
少なくとも、私は貴方を救いに此処まで来た。
“自分の事しか信じられない”なんて哀しいこと、もう言わないで。
貴方には、貴方を信じる友達が何人も居るのに」
その人は、私の名前を呼んでくれた。
どうして知ってるんだろう、とは思わなかった。
不思議なことに……私自身も、彼女をよく知っている様な気がする。
「貴方はあのDIOの意思に喚ばれて、この世界へ来た。
同様に……私も貴方に喚ばれて、此処へ来たの」
女性が、畳んだ傘をヒョイと回転させる。
その所作で一つ思い出せた。その傘は、私の支給品だ。
「これ? ふふ……私の傘、貴方が持っていてくれたのね。
ありがと。これでも結構、気に入ってるのよ」
「あ……いえ。それより……!」
そして、もう一つ……大切な事を思い出した。
「あ、あの! ……貴方の、名前は」
そうだ。確か……小さな頃、私は『夢』の中で。
───この人に、会ったことがある。
「私? 私はね──────」
これが私と彼女の。
……そうね。敢えて、こう呼ばせてもらうわ。
最終更新:2018年11月26日 18:06