ビターにはなりきれない

『ヴィネガー・ドッピオ』
【午後】E-3 名居守の祠


 また、だった。
 気付けば自分は、また探している。

 かつてはすぐ傍に置いてあり、手を伸ばせばいつでも触れることが出来た物。たとえ外出していようが、少し周囲を見渡せば『それ』は自分を待ち構えるようにして鎮座している。それくらいに、街中でもありふれた物。
 言うならばそれは『眼鏡』みたいな存在だ。視力の弱い人間にとっては無くてはならぬ必需品。ふとした時にその姿を見失いもするが、部屋の中をものの五分程探し回った辺りで唐突に気付き、苦笑ののち安堵する。探し物は初めから耳に掛かったままで、自分は無意味な労力を払っていたのだと。思った以上に、探し物は身近な所にある様な。
 常日頃、傍に置いてあることが当たり前で。肉体的な、或いは精神的な拠り所として大きく依存していたが故に、『それ』がいざ目の前から消えると途端に不安となる。

 個々人にとって、そういった拠り所は各々違ってくる。
 家族だとか。恋人だとか。想い出だとか。
 仕事だとか。趣味だとか。居場所だとか。
 いつだって身近に在るべきだ。人間が人間として満足に生きるには、より近い場所に拠り所を置くべきなのだ。
 裏社会に生きる側である自分もそれは変わらない。拠り所に安寧を求めざるを得ない性質は、光の外の人々よりも寧ろ顕著と言える。


 少年ヴィネガー・ドッピオにとって『それ』は何処にでもある様な、普遍的な『電話』だった。


「……まただ。ボクとした事が、また『電話』を探してる。もう掛けないと、誓ったばかりなのに」

 名も知らぬ一人の女性を事も無げに殺害したドッピオは、疲労と寒気から逃れる為に腰を下ろしていた。
 雫の落ちた音すら響いてきそうな、静寂と神秘の同居する小さな池。畔には何を祀ってるかは知らないが、これまた小さな祠。それらを一堂に視界に入れられる場所に開けた、またもや小さな洞穴。
 雨宿りならぬ雪宿り。ドッピオは一呼吸の意味も込めて、この空間でじっと心身共の回復を図っていた。膝を抱えるように腰落とし、洞穴の外に広がる斑な白模様を睨み付けるようにして居座っている。真っ白に吐かれる息をも忌々しげに見つめ、ふとその視線は何分かおきにキョロキョロと虚空を泳ぐ。
 視線の先に『電話』など無いことは、もう理解しきっているというのに。身に染み付いた習慣とは中々にして削ぎ落としにくいものだと痛感する。それが己にとって唯一の拠り所であったなら、尚更。

 いや。電話が無いというのは、やや語弊がある。
 手に取ろうと思えば手に取れる。少年のデイパックの中には受話器の体をなした立派な『電話』が、主人を待ちくたびれるようにして今か今かと出番を待っているのだから。
 だが、これを取るわけにはいかなかった。孤独による不安に押し負け、よしんば取ったとして。この電話が『ボス』へと繋がることなど、二度とないだろう。
 少年もそれを良しとしている。なにより彼が心の拠り所にしていたボスの為であった。
 それを自覚してなお、気付けば電話を求めている辺り……まだまだ自分は親離れも出来ない青二才。未だ尻に殻を付けたままの雛鳥でしかないのだろう。今後の前途を思えば、忌むべき悪癖であった。


「───親離れ、かぁ」


 はァ……と、白く濁った溜息が視界いっぱいに霧散してゆく。ピリピリとした眼差しも長くは続かず、ドッピオの思考は間もなく泥に沈む。
 いまさら深く懐かしむ事でもないし、それ故に普段は考えないようにしてきているが───ドッピオとて『親』はいた。
 当然だ。生物として生まれた以上、そこには古来から血の繋がりが必ずある。この図式に例外などあろうものか。
 自分を産んだ親がどのような人物であったか。ドッピオにその記憶は殆ど残ってはいなかったが、それとは別に育ての親がいたことは憶えている。心優しかったあの人は、血の繋がりのないドッピオを本当の息子のように可愛がってくれていた。

 それ、くらいだった。
 あの人に纏わるドッピオの記憶とは、その域にまで欠如した酷く曖昧な記憶でしかなかった。
 これ以上にない恩を感じていたはずの、大切な親。その存在の顔すら今はもう憶えていない。白黒のフィルターでも掛けられているかのように、昔の記憶を塗り潰しているのだ。
 今でもたまにあの人のことを考えようとすると、決まって頭痛が起こる。生まれつきの障害か何かだと決めつけ、大して深くは考えなかったが。虫に食われたセーターの、どの穴から頭や腕を通しているのかを知覚できない。そのような致命的なちぐはぐさが、頭の肝心な部分で不具合を起こし続けているかのような。

 そんなこんなで──などという言葉で片付けられる過去ではないが──ドッピオは現在、イタリアの巨大麻薬組織『パッショーネ』に身を落としている。
 この境遇に、いまさら不遇だと嘆いたりしていない。彼は新たな『拠り所』を見付けることが出来たのだから。

 親という存在は、必ずしも唯一ではない。
 真に大切なのは、血の繋がりではなかった。これを人生の教訓にもしている。
 ドッピオにとって家族(ファミッリァ)とは。
 こんなにも凡俗な自分へと才を見出し、仕事を与え、居場所を作ってくれた組織──すなわちボスその人であった。
 まるで生まれたその瞬間から自分を見守り続けてきたかのような。それは少年にとって、自分を産んだ『母』でもなく、自分を育てた『父』でもなく、代わりなど何処にもいない唯一無二の存在であった。
 生涯をかけて尽くすには十分すぎるほどの恩を受けている。この大恩を、失望という形で返すわけにはいかない。

 ゆえに、ドッピオは『拠り所』を失った今も、変わらずボスの為を想って動く。その信念の象徴が、返り血という形で少年の身体を穢していた。
 まだ十代も半ばという身なりの少年がこの穢れを受け入れるには、充分過ぎるほどの環境が彼の人生の大半を占めていた。彼は元来臆病な性格ではあったが、血生臭さに目を背けるほどヤワな世界で生きてもいない。



「──────来る」



 垢が抜けきっていない、とはいえ。
 裏社会を生きる者として最低限の警戒心。
 緩め切らない緊張感が、まだ姿を見せてもいない外敵の襲来を逸早く気取れた理由の一端を担えた。
 熟練の暗殺者でもないドッピオが、かの存在を察知できたもう一つの理由。言うまでもなくそれは、我が身に残された『帝王の遺産』による恩恵の他ない。

「女だ。真っ直ぐこっちに向かってくるぞ……!」

 すかさず迎撃態勢を整えたドッピオは、数十秒先の未来を視る『エピタフ』の予知に神経を集中させた。ひらひらと舞い落ちる雪桜の中を淀みなく進行する女の姿には見覚えがあった。
 確かあの毒ガエルの暴風域。ジョルノやトリッシュら含むゴチャついた中心地に、あの女も立っていた気がする。武装や雰囲気からして只者でないことは見て取れた。
 ドッピオはすぐに足元のアメリカンクラッカーを手に取り、再び予知をじっと凝視する。そして予知の中のドッピオが武器を構えたまま不動でいる姿に、疑問を覚えた。敵の襲撃を事前に察知した者の態勢にしては、あまりに受け身すぎるからだ。
 だがエピタフの予知は絶対だということを彼は熟知してもいる。予知の中の自分がそうであるならば、ひとまず自分もそれに倣ってみる事にした。
 やがてキュッキュッと、でんぷんを袋ごと押すような乾いた音が響いてくる。徐々に姿を現す外敵が踏み締める鳴き雪は、身構えるドッピオにとっては臓腑に響く重苦しさを含んでいた。

 女は一寸の誇張もなく、壮大な艷麗を蓄えた日本美人だった。それだけに残念でならないのが、背に掛けた巨大な輪状の注連縄──ではなく、右肩に掛けた物騒なガトリング銃の存在である。砲口こそ向けられていないものの、そのトリガーには指が添えられている。怪しい真似をすれば即蜂の巣にする、という意思表示なのだろう。
 不思議なことに気付く。この雪模様の中、女は傘の類を所持していないにもかかわらず、頭や肩に雪を全く被らせていない。目を凝らしてよく見れば、女の周囲を雪が自ら避けるようにして落ちているではないか。何らかのスタンド能力なのだろうとアタリをつける。
 対応が分からずに満面の冷や汗を垂らすドッピオとは対照的に、女が見せる表情は不敵な笑みだった。一目見て『乗った側』だということが察せる女の風体を前にして、さしものドッピオも蛇に睨まれた蛙と化している。
 とうとう女が目と鼻の先にまで来た。彼女ほどの美貌であれば、そこらを歩くだけでしゃなりしゃなりといった優雅な擬音が鳴りそうなものだが、この重武装であれば白の絨毯に残る足跡だってどっしりとした力強い証にもなるだろう。美貌よりも、その重厚な存在感に目が行く第一印象だ。


「捜したよ」


 女の第一声は、向き合うドッピオの鼓膜によく馴染むような深い心地良さがあった。貫禄のある立ち姿の第一印象とは正反対のイメージを醸す、彼女本来の生まれ持つ美的なトーン。
 彼女が舞台に立ち、愛をのせたバラードを歌ったならば……きっと多くの人々の記憶に末永く残るような。そんな力強い包容感。
 嫌な気持ちには、ならなかった。

「……何だって?」

 けれどもすぐに現状の危うさを再認識したドッピオは、女の発した内容を引き気味に咀嚼する。
 捜した、とはどういう意味か。このゲームの参加者は敬愛するボス以外、全て敵だという認識を抱くドッピオ。そんな自分にわざわざ会いに来るというのは、悪い意味以外では考えにくい。先程殺した女の関係者であるなら、真っ先に思い浮かぶ理由は『報復』か。
 しんしんと降り積もる雪景色の中、己の唾を飲む音が嫌にハッキリ聞こえた。こちらから先制攻撃を仕掛ける好機くらいはあった筈だが、予知の内容を優先したばかりに、今や完全に気圧されている。


「私は八坂神奈子。通りすがりの神様さ」


 一拍の間が通り抜けて、ドッピオはこのやり取りが普遍的な挨拶なのだとようやく悟る。
 しかし、挨拶の後半には明らかに普遍的でない部分があった。

「ぁ……は、はぁ? 通りすがりの……何サマだって?」

 不意打ちだったので思わず変な声を漏らした。発言者本人の顔を窺っても、マジなのかギャグなのか読み取りづらい。

「山坂と湖の権化、八坂神奈子こそが私の名だと言っているのよ」
「い、いや……そこじゃなくて」
「なんだい? 別に神様なんて珍しくもなんともないだろうに。いや、実は珍しいのか? 幻想郷じゃあ」

 顎に手を当て、ふむむと考え込むイカれた女。ドッピオが判断する限り、その仕草に敵意はあまり感じられない。余程の天然でなければ、巧みな擬態か、はたまた特大な自信家のどちらかだろう。
 予想の斜め上からの接触に困惑するが、ドッピオは取り敢えず食ってかかる勢いで強引に対応した。

「て、テメーふざけてんじゃねえぞ! ブッ殺されたくなけりゃあ……」
「〝テメー〟じゃなくって、八坂神奈子よ。アンタの名前も聞きたいところだね。それとも幻想郷じゃあ挨拶の文化すら廃れちまってるのかい?」
「やかましいッ! ワケの分からねェことぬかしてオレを惑わせんなッ! 頭ブッ飛んでんのかテメェ!」
「おっとと……。随分とまたキレやすい若者ねえ。ブッ飛んでるのはアンタの方に見えるよ。私はただ話がしたいだけさ。この幻想郷の事とか、アンタ自身の事とか……目的は言うなら、異文化交流だね」
「だから、その『幻想郷』ってのも何だ! お前もスタンド使いかァー!?」

 互いの温度差はあれど、これは口論に等しい。先程から理解不能の売り言葉を仕掛けられるドッピオだっだが、ヒートアップの末につい失言を洩らしてしまった事に気付き、はっと口を噤む。
 お前もスタンド使いか、などという言葉は、彼自身もそうであると自らバラしたようなものだった。仮にもギャングの端くれとして情けない。この場に電話があれば、間違いなくボスから大目玉を食らう所だった。

 ところが目の前の不躾な女と来たら、ドッピオの予想した反応とは少し異なる面持ちをこびり付かせていた。
 鳩が豆鉄砲を食らう。端的に表すなら、そういう滑稽なリアクションだ。

「…………あ? アンタまさか……幻想郷を知らないわけじゃないだろうね」

 幻想郷。聞きなれぬ単語だ。
 だが思い起こしてみれば、確か最初にこの会場まで連れてこられたあの時……主催のどっちだかがそんな単語をポロリと口にしていたような気もする。
 しかしそれだけだ。そんな曖昧な〝気がする〟程度の、ほぼほぼ初聞きの単語には間違いない。

「し、知らねーぞ。そんな、ゲンソーキョーだなんて言葉は」

 よってドッピオは、正直な答えを示した。反射的に返した台詞だったが、何故だか相手にはよく効いたらしいことが分かる。


「幻想郷の人間じゃ、ないの? ………………マジ?」


 先までの威風堂々とした登場は既に過去となっていた。
 思いがけない成り行きに、図らずもポカンと口を半開きにする女。騙し討ちを仕掛けるなら今だろうかという邪念がドッピオの心に過ぎったが、エピタフの予知に新展開が現れない様子を見届けると、もう暫くこの微妙な空気を堪能しなければならないらしいと観念した。



「…………ワケがわからん」



 首を振りながら女は、細く呟くように零した。

 どう考えても、こっちの台詞だった。


▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽

 普段から自責や悔恨といった後暗い感情に縛られることも少ない八坂神奈子。時には奸計を巡らし、大胆不敵な施策を打ち出す頭脳派な一面もあるにせよ、後を引かないサバサバした快活な性格は、周囲にとって好ましく映っていた。
 そしてそれこそが自分にとっても無二なる性質であり、持ち味でもあると神奈子は自覚している。近頃ではフランクさを売りに転換し、少しでもと信仰を掻き集めたい商売根性を考え始めているくらいだった。

 そんな神奈子が、今日。
 この地上に顕現して恐らく初めて、本気で『後悔』している。
 豪胆な気質ゆえ、これまで面に出すことは控えてはいたが……本来は頭を抱えたい気持ちで一杯だった。

 ───早苗は幻想郷(ここ)に連れてくるべきじゃなかった。

 邪念を振り払うようにして、頭をブンと回す。最終的に幻想郷まで添う道を決意したのは早苗自身ではあったが、やはり強引にでも押し留めるべきだったんじゃないかと。
 不毛に過ぎない思惟をどこまで掘り進めたところで、自らの歩みを鈍重にするだけだ。後悔を重ねてあの子を外へ帰せるというのなら、幾らでも後悔してやる。
 現実はそうもいかない。幻想郷が我々の想像していた『理想郷』とは、遥かに異質で血生臭い土地である事を知ってしまった。ひとたび潜れば二度とは戻れぬ、地獄の釜である事も。
 神奈子にとって此処の『異常性』は既に十分な理解として呑み込んでいたが、どうやら幻想郷という閉鎖的な世界にとってはこれが『平常』であるらしいのだ。個の身勝手な感情でこの調和を乱せば、強制的に排されるであろうことは明白。
 座せる椅子は一つだという。九十という大人数を考えれば、随分と狭量な二柱だ。ただでさえこの土地には住処を追われた、或いは行き場を失った神や妖が、希望を求めて辿り着く最後の楽園と聞くのに。
 どう誂えて膳立てした儀かは神奈子の知らぬ所であったが、九十という夥しい生贄の数にも、一席という遥か狭窄な椅子の数にも、恐らくに意味は用意してあるのだろう。不平不満が無いとは言わないが、所詮新参者の神奈子が口を挟める道理もなかった。

 だがそれは、神奈子含む守矢家の三名に限った事情でしかない。
 「こんな土地(せかい)、来るんじゃなかった」などと泣き言を喚ける事情を抱えるのは、新入りである我々だからこそに許された痛恨の念であると。

 だから早苗は苦悩し、嘆き、絶望したというのに。
 だから諏訪子は困惑し、踠き、激昴したというのに。
 だから神奈子は理解し、動き、恭順したというのに。

 泣くも。怒るも。悟るも。私たち三人の家庭事情あっての迷妄だと、神奈子は割り切っていたのに。
 この土地の住人ではなかった我々新参者が、この土地の古い習わしに混乱や義憤を覚えることは、本来ならば当たり前で。
 逆説的には、我々家族以外の参加者(いけにえ)がこの儀式へ反旗を翻そうと動くのは、普通に考えて、普通ではない。
 保身に動きながらも、儀式を成功させんと各々躍起に立つのが、『此処』での普通なのではないのか。元よりこの幻想郷とは、そういう規律を敷いて大結界の成立を保つ特殊環境ではないのか。
 つまり守矢以外の参加者は、基本的には大抵が儀式に『乗る』ものだという前提で、神奈子はこれまで動いてきた。
 無論、彼ら一人一人にも神奈子の計り知れぬ事情ぐらいはあるのだろう。『例外』という存在はどこにでもいるものだ。

 たとえば最初に出会った少年・花京院典明。
 刑務所で〝天人〟を捨てた少女・比那名居天子。
 その隣で彼女を支えていた、活きのいい学ランの少年もだ。
 神奈子の客観では、彼ら彼女らが『例外』といえるのだろう。儀式へ対しあまり積極的な姿勢には見えず、徒党を組んで動いていた。
 この矛盾に対し神奈子は〝あの子らはまだ若いから〟程度のありがちな疑問しか挟まず、深く考えて来なかった。早苗と同じ人種だろう、と。


 ここに来て、心の隅に横たわっていた違和感が膨らみ始めた。それも、急速な勢いを伴って。


 ───儀式に消極的な生贄が、少し多すぎる。


(……どういう事だ? まさか私たち以外にも『新参者』がいるとでも?)


 生贄とは。どのような過程を経ようとも、最終的には一名を除いて全て死ぬ。こういう前提で此度の儀式は始まった。
 当然ながら、生者であれば誰しもが死を厭うだろう。退場を免れる為にあの手この手で儀式を生き抜こうと、武力に自信ある者は武器を取り、知力に長けた者は権謀術数を張り巡らせる筈だ。
 中には儀式そのものを台無しにしようと目論む『例外』も居るかもしれないという僅かな可能性も、神奈子の頭を過ぎったりしたが。そんな人種がいるのなら、きっと早苗と同じくらいに芽が若く、片手で数えられる程度に極少数の者だろう。

 故に、結局。
 最終的にはこの儀式も『成功』で終わる。
 これが予定調和。在るべき所に収まる、自然の律。
 だからこそ神奈子も、郷に入っては郷に従えを体現してきたというのに。




「幻想郷の人間じゃ、ないの? ………………マジ?」




 盲点というか、灯台下暗しというべきだろうか。
 よくよく考えてみれば、考えたことがなかった。


 ───まさか私たち守矢以外にも、『新参者』が居たなんて。


 いや、新参者どころか。
 この少年は確かに発言した。
 幻想郷なんて知らない、と。
 爆弾発言だ。



「………………ちょ、っと……、話を、整理させて」



 何かが、おかしい。
 不穏な予感が眩暈を引き連れて、脳を揺らす。
 目の前で憤る少年へと縋るように、神奈子は次第に違和感の尻尾を探り始めた。

            ◆

 ひとひら、ふたひらと、斑であった白雪も。刻を重ねるにつれて、力強く勢いを増してゆく。
 まるで彼ら一片一片に何者かの強固な意思が混在し、この地に脈動する魍魎を纏めて祓うかの如き指向性を感じる。
 寒い。薄めのセーター1枚という装いであるドッピオには、この環境が暫く続きそうだという空模様には憂いしかなかった。

「……この雪は、アンタの仕業ですか」

 地べたに胡座をかきながら、じっと思いに耽ける神奈子と名乗った女。先程は彼女へ対しひどく攻撃的な態度で迎えたドッピオだが、今では幾分か落ち着き、やや萎縮しつつも警戒心混じりに会話出来ている。
 この小さな洞穴に正体不明の女を招き入れた理由があるのなら、それは彼女が望んだからだ。
 対話を望み。着座を望み。即ち一時的な停戦を彼女が望んでいるから、ドッピオは今このような場を設けている。
 実質的に抗う余地は無い。神奈子という女は、己の望みや我儘といった〝我〟を叶えさせる力を擁している。対峙してすぐ、ドッピオが気付かされた彼女の圧倒的〝格〟であった。
 そうでなければドッピオはとうに攻撃している。彼女の肩に担がれた無骨な銃器が牽制に一役買っていたのは偽りなき事実だが、それ以上に神奈子の纏う空気が尋常でない域のそれだと、ドッピオへ如実に伝えていた。
 早い話、ドッピオは臆した。無言の圧力に屈し、一時の自陣である洞穴へと彼女を迎えた。迎えざるを得なかった。孤軍奮闘という立場上、これはある種の敗北ともいえる。
 とはいえ、このコミュニケーションにもメリットは確かにある。女が何を企んで接触してきたのかは知ったことではないが……

 ───少なくともドッピオは第二回放送の内容を耳にチラとも入れてない。

 あらゆる局面においてこの穴は、大きな躓きを誘発する深い窪みになる。とても二の次に回していい問題ではなかった。

「……チッ。こっちからの質問は歯牙にもかけないってわけか」
「聞こえてるよ。雪(これ)は別に私の力じゃない。さっきのくたびれた里で空から落ちてきた、フードの男の能力だろうさ」
「だがボクには、アンタの周囲を雪が〝避けて〟落ちていくように見えた」
「そりゃ気のせいだ」

 気のせいの一言で一蹴。あくまで爪隠す鷹で通すつもりだろう。当然ではあるが。
 従ってドッピオも、秘中の秘であるエピタフの隠蔽は怠らない。互いに妥協のラインを探りながら、差し出せる札は差し出し、貰える札は根こそぎ奪ってやりたい。相手も同じ思考のはずだ。
 では〝自分が殺し合いに積極的かどうか?〟 これが隠蔽出来ると出来ないとでは今後に大きく響きそうだが、少なくとも今回は現時点で互いに悟っている。ドッピオの方は服の返り血を隠し切れていないし、神奈子の装いや空気も明らかに戦闘者としてのそれだ。

 お互い『乗った側』の姿勢を隠そうともしない。勘繰るまでもなく、まず前提にこれを承知している。
 偽りなき信条が記された名刺。このテーブルは、双方がこれを提示させた段階から合意の卓となっていた。

 ドッピオも当初は、差し当たり放送内容だけでも入手出来れば儲けもの、程度に考えていた。どこかのタイミングで隙を突き、仕留めにいける戦果を得たなら上々の出来。
 だがこのイマイチ浅略の域を出ないプランも、神奈子の口から『幻想郷』という単語が出た辺りで早くも霞みがかっている。

「確認するが、アンタは……いや、アンタもつまり『幻想郷』の人間じゃなく、『外の世界』の人間なのかい?」

 深い思案から放たれた神奈子が、今一度の念押しを試みた。何度問われようと、それに対するドッピオの答えに変化はない。

「その『外の世界』って言葉も、そもそも理解不能なんですけどね。アンタが『界隈』の人間だってんなら、まぁ分からなくもないですけど」

 神奈子が裏社会に生きる人間であれば、外の世界というのはつまり表社会の人間を指す。しかし目の前で真剣に物問う相手のニュアンスを噛み砕けば砕くほど、この解釈は明らかに誤りだと気付く。
 何かちぐはぐだ。会話間に筋がなく、互いが互いの常識観を疑っている。冬が終結すれば春が訪れる──そんな常識以前の根底を、いい歳した男女が真顔で問題としているのだ。
 この違和感を排除するには、問題を一段階先に進める必要がある。

「神奈子さん、でしたね。そろそろ説明してくれてもいいでしょう。……何なんですか、その『幻想郷』というのは」

 ドッピオにとって急を要する情報とは、先程流れたであろう放送の内容。禁止エリア含め生命線にもなり得るこの情報が、先ずはの最優先事項だった。
 しかし考えてみれば自分には、この殺し合いに纏わるあらゆるデータがインプットされていなかった。放送や参加者名簿で齎される情報源を元にして探ろうにも、単騎の身では限度がある。
 ただでさえこの会場にはコウモリのメスガキや兎耳の女、果てにはあのサンタナとかいう怪物が我が物顔で跋扈している。明らかに普通でない世界というのは流石に察していた。

 もしやすれば。
 自分は情報面において、周囲から遅れているのではないか。それも、とんでもなく。
 殺し合い開始から15時間は経つ頃合いにして、あまりに今更な気付きがドッピオを焦りに走らせた。
 焦燥心が事態の急速な把握をせき立て、逆に彼の掲げる狂気を抑え、落ち着きを与えた。表面上では、という話だが。


「…………私も詳しくはないよ」


 そう前置きし。
 神奈子はどこか心ここに在らずというか、散漫な面持ちで『幻想郷』を語り始めた。


            ◆

 我々守矢の三名以外にも『外』の者が居る。
 この新事実が神奈子にとって如何なる意味を齎すか?

 唐突過ぎて、未だ整理出来ずにいる。しかしよくよく思い返してみれば、あの花京院や不良風の少年の装いなどは、現代の男子学生のそれであった。(後者の髪型が果たして現代風と言えるかは判然としないが)
 また老化を操るスーツの男や刑務所のヴァニラ・アイス、諏訪子と共に居た黒髪の女や天候を操るフード男……あまりにも『異邦人』が多い。目の前の少年だってそうだ。国籍すらバラけていると来た。
 神奈子が幻想郷に越して刻は浅い。住民の豊潤なバラエティさに目を通す暇などなかった故に、今までは「こういう場所なのか」くらいにしか思わなかったが。

 九十の生贄は、幻想郷の内外問わずに強制召集されている。

 この可能性に気付いた瞬間。神奈子ら守矢の三名だけが特殊な事情を持つ──という全ての前提が一度に崩れ去るのだ。

 だから何だ。他人の事情など関係ない。
 そう割り切れるほど神奈子は単純ではなかったし、愚昧な神でもなかった。
 少なくとも神奈子がこれまでに下した二人の男は、見て呉れからして『外』の人間だったろう。つまりは、部外者だ。
 自分は新参者とはいえ、こうして幻想郷に籍を置く身だ。土地目線で一纏めに考えるなら、九十の生贄とは言うなら全員『身内』。
 その身内という前提が、実はそうでは無かった。内外問わずというのは、それこそ幻想郷とは完全無関係の参加者も幾多居ると考えていいだろう。

 この『無関係』の内二人の生命を、神奈子は奪った。
 〝内情を何一つ理解しないまま〟に、殺したのだ。
 更にはその真実を、今の今まで知らずにいた。
 独立不撓の神である、この八坂神奈子とあろう者が。

(私は、誰を殺した? 私は、誰を殺そうとしている?)

 心に灯った自問自答を、冷たく思議する。
 静電気に見舞われたような小さな痺れが、我が頬を引き攣らせた。それが苦悶を表す表情だと、神奈子には自覚出来ない。

 彼らは幻想郷に住まう者だから生贄として選ばれた──この常識は、跡形もなく決壊する。
 幻想郷のげの字も知らない人間がこうして現在する以上、九十の生贄それぞれは、恐らく無作為に選ばれた形に近いと予想する。特に外の人間からすれば、あまりに不本意な拉致だ。神隠しでは済まされない。

 これは『生贄』の範疇を逸しているのではないか。

 神奈子とて殺す相手を選り好みしている訳では無い。内の者だろうが外の者だろうが──それがはたまた家族の者だろうが。
 区別せず、自分含め全員が生贄だ。殺す手段に哀憐の差はあれど、そこは変わらない。
 そうでなければ、今までやって来た自分の行いに意味が生まれない。
 意味の無い殺生を行ったその瞬間。八坂神奈子と云う名の神は、真の意味で『死ぬ』のだから。

 しかし。
 だというのに。
 その『生贄』という、そもそもの大前提。
 ここに疑惑が生じた時。


(───私は、今まで通りで在るべきなのか?)


(───私は、今まで通りで在れるのか?)


 不条理といえば不条理。
 だが考えようによっては、条理ともいえる。
 幻想郷維持の為にこの儀式を行う必要があるのなら、内同士で争わせて数を減らしたのでは本末転倒だ。
 だから外の人間も連れてくる。理にかなうし、そもそも『生贄』とは元来、不条理な習わしである。

 筋は、通る。
 しかし、何一つ知らされず命を喰った側の神奈子にとっては。


(───何なんだ? この、幻想郷という地は)


(───そして、あの二柱の神も)


(───分からない)


 あろうことか神奈子は。
 外の世界の神という立場でありながら、幻想郷の最高神であろう二柱に疑心の目を向けた。

 八坂の神として、あってはならない事。
 是正すべき、心理状態だ。


 さもなくば…………本格的に、ブレてしまう。





「───……奈子さん?」



 暗い海に転覆していた視界が、光の下へ急激に引き揚げられる。


 神奈子の沈黙を不審に感じた少年が、目元を窺うようにして覗き込んできていた。神奈子は自身が思う以上に動揺していたらしく、こうして声を掛けられ、ようやっと意識を浮上させた。

「あ、あぁ。悪いね、私としたことが」

 その一言を以て、神奈子の強張りが抜けた。堅と柔を自由に応変させるその気質が、浮き足立つ気持ちに早急な挽回を促す。メンタルリセットという点で、こういった長丁場では重要なスキルと言えた。
 どうやら精神が一服を求めていることを自覚する。神奈子は息を吐き出し、小休止の意味も込めて支給品から一枚の紙を取り出した。
 手近な地面に落ちていた大きめの樹葉を数枚、手元に引き寄せて一箇所にまとめる。エニグマの紙を広げてひっくり返し、中からなだれ込んで来た菓子類を荒く落とした。樹葉は受け皿代わりだった。

「客側である私が言う台詞じゃあないが、まあ食べなよ。お茶請け代わりさ。茶は無いけどね」
「……菓子?」

 少年がいかにも怪訝そうに、神奈子の用意した菓子の数々を睨み付けた。
 当然の反応だ。あちらからすれば、神奈子は唐突に姿を見せた得体の知れない敵のようなもの。罠のひとつも勘繰らない方がおかしい。
 だが正真正銘、このお菓子はおかしくない。元々はヴァニラの所持していた支給品の一つであり、和菓子・洋菓子入り乱れる至って普通の菓子類だ。安物だが。
 戦場において糖分の類は貴重であり、重要な栄養ソースであるのは言うまでもない。言ってみればこの支給品はハズレの部類ではあるが、殺し合いが後半に進むにつれ、こういった『遊』の要素も精神的な支えになるのは自明だった。
 更に言えば、幻想郷に越したからには二度と御目にかかれないであろうと踏んでいたこの手の現代嗜好品に巡り会えたという点においても、神奈子の気休めになる程度には好感触だった。

「毒なんか入ってないよ。単なるおやつさ」

 自らの発言を証明するように、神奈子は色とりどりの菓子から一つ、適当に見繕って手に取った。日本ではどこにでも売られているような、ごく一般的なバタークッキーだ。
 手際良く包装を剥がし、心地よい音を刻みながらクッキーの半分に齧り付く。馴染んだ味わいの通りに甘ったるい感触が舌を通り抜け、胃の中が洗われるような小さな幸福感が口の中を支配した。
 やはり甘い物というのは良い。こうした甘味は戦前と現代とを比べれば遥かに流通も増大し、今日では気楽に手に入る嗜好品として広く親しまれている。神の視点から見た人間の歩み……その一つとして数えてもいい、慈しむべき美点に違いなかった。
 このスイーツという発明、ひいては食の発展そのものが、人の歴史に生まれた壮大なユーモアを体現しているみたいに感じられ、テイストも含めて神奈子は好きだった。
 残った半分のクッキーも放り込むように口へ入れ、神奈子は間食を終える。神が人間の目の前でポイ捨てを行うというのは流石にバツが悪く、残ったゴミも几帳面に紙の中へと戻しながら。

「どうしたの? 遠慮しなくていいわ。単に情報提供感謝の意味だから」

 撒かれた菓子をじっと訝しむ少年へ、今一度誘いをかけてみる。あくまで兜の緒を緩めようという趣向を含んだおやつタイムであり、実際神奈子にもそれ以外の他意などない。
 あるとすれば……儀式には既に前向きであろうこの少年の出方を見てみたい、というのが心底に隠された狙いといえば狙いだった。

「……では、遠慮なく」

 唐突に少年が菓子へと手を伸ばす。掴み取った一つの菓子は、これまた日本では有名な老舗菓子。どこの店の棚にも並ぶような、ありふれたミニロールケーキの洋菓子だ。
 それを意外にも丁寧な手つきで、包装を取り除いてゆく。少年の顔立ちからして、彼は欧州出の人間らしかった。出身国はきっとスイーツに熱のある方面なのだろうと、神奈子は無根拠な想像をたてる。
 「毒など入ってない」とは念押したし、実際入ってないのだが、あからさまな敵から渡された不審物を警戒するのは世の条理だ。定石に倣うべきであるこの少年は、今まで随分とこちらを警戒していたにもかかわらず、次の瞬間あっさりと菓子を口に入れた。
 まるである時点から『毒などない』と把握したみたいに、次へ移す行動に戸惑いがない。なよなよしとした見た目に反し度胸があるのか。神奈子からすれば好ましい対応なのは確かだが。
 少年が頬張った一口サイズの菓子が、咀嚼と共にゴクリと胃に潜り込んだのを見届ける。残った空の包装紙を彼は、神奈子へ反目するようにその辺へと粗末に投げ捨てた。この悪質な行為に目敏く喝を入れるほど、神奈子も頓珍漢ではないが。


 さて。かなり話が逸れてしまった。
 尤もそれは、神奈子の抱える事情が自発的に陥没へと向かったような自爆。イレギュラーな交通事故でしかない。
 本来この少年に会いに来た理由は、とある参加者に興味が出たからであった。今は自分自身の都合など、考えるに詮無きことだ。

「で、そろそろ話を進めようかしら。ドッピオ君」
「〝君〟はやめろ……ッ!」
「失礼。じゃあ、そうだね……」

 一体何から話すべきかと、神奈子は顎に指を当てて逡巡する。確認しておきたい事柄が、思ったより多かったからだった。
 神奈子とこの少年──ドッピオは、既に最低限の情報は交わされている。名前は勿論ながら、ここ『幻想郷』という土地の大まかな概要と、神奈子が外の世界から来た『神』であること、先に行われた第二回放送内容、等々。
 これらを聞いたドッピオも流石に目を丸くし、暫く俯きながら何事かを思案している様子を見せた。時折小さく震え、頭を抱える素振りも見せていた。
 言葉が出ないのは、先の理由により神奈子も同様である。二人して一様に頬を打たれたような気分を味わったのだ。しかも神奈子に至っては、自身の存在意義にも影響しかねない新情報が明らかとなったのだから。

 だが……『存在意義』という話で語るなら。
 どうやらそれは、神奈子のみの特殊事情という訳でもなさそうだ。


「色々と話したい事もあるけど、まずは───アンタの名前についてだね。〝ヴィネガー・ドッピオ〟」


 初めにこの少年から名を尋ねた時より疑問だったのだ。まずはこの矛盾を紐解いていきたい。
 神奈子は荷から一枚の名簿を取り出し、ドッピオの眼前で軽くぱしんと指で叩いて見せた。

「どうしてアンタの名前がこの名簿上に記述されてないか。コイツは大きな謎だ」
「知るかッ! あのクソ主催共に聞け主催共に!」

 数度に渡って名を問い質してみたが、少年の返答は頑なに一本調子の内容で返される。嘘を吐いている様子にも見えなかったので、彼の名は実際にヴィネガー・ドッピオと考えていいのだろう。
 しかし幾ら名簿の上から下まで目を往復させようと、ドッピオの名は存在していなかった。参加者の一名を取り零すなどと、こんな初歩的な大ポカが有り得るだろうか?

「有り得ねえだろッ! 別に無くて困るようなモンでもねーが、奴ら絶対オレをナメてやがるぜッ!」
「キレるな、ドッピオ……」

 前触れもなくいきり立つドッピオへ対し、神奈子は早くも慣れたように「どうどう」と抑える。
 どうやら彼はかなりの癇癪持ちというか、ともすれば二重人格の様な変貌を時折に見せてくれる。基本的には自己主張の少ない、比較的穏やかな少年なのだろうが……ギャップもあって、どうにも扱いづらかった。
 従って神奈子は、これ以上彼自身の癇に障るような真似を避けるべく、現段階で考えても解けそうにない名簿の謎は切り上げることとした。

 本題に入りたい。
 考えようによっては、ドッピオにとっての『爆弾』は寧ろこっちの話題だろう。

「分かった分かった、ドッピオ。ひとまずこの話は隅に置いておこう。私がアンタを訪ねてここに足を運んだのは、まだ理由があるんだ」

 これまでと違い、ここから先は向こうの『領域』だ。
 それも他人には不可侵である筈の、神聖なエリア。土足で迂闊に上がり込むこの行為を何よりも嫌っていたのは、他ならぬ自分自身であった。

 それを今。
 神奈子は敢えて侵す。



「〝ディアボロ〟……ってのァ、誰のことだい」



 音が鳴った。外からだ。
 着雪の重さに耐えかねて、先端をポッキリと折らせた樹枝の───冬山の音だった。
 湯呑みにヒビが入るような……不吉な予兆を含む音色。


「───口には気を付けろ、テメェ」


 先程の。
 喚き散らすような幼稚な怒気とは、また別種の。
 捉えどころなく。薄気味悪い悪魔のような『殺意』が……神奈子の襟首を掴んでいた。

「離しなよ」

 神色自若の態度で、神奈子は厳かに警告を伝える。不遜の過ぎるドッピオの振る舞いに対し、微動だにせず坐を保っていた。
 神の襟首を掴むという大無礼を遂行せしめたドッピオの眼光は、殺意を振り撒く機械同然の様に冷たい。道徳などとうに捨てた者が作る貌だ。
 右手には鉄製の丸い鈍器が握られていた。夥しい量の返り血がこびり付いた、人の血を吸った武器だ。

 それが今、神奈子に向けられようとしている。
 人間の童が、神に武器を向けようとしている。


「もう一度だけ、言う。───離せ」


 言葉による重圧。神奈子が発した言霊には、人の力では不可抗力の重力が漲っていた。
 未知数。ただの一言で気圧されたドッピオは、冷汗垂らす心中にて八坂神奈子を端的にそう表現した。
 思わず眉根を歪めるドッピオ。握ったと思われたイニシアチブは、いつの間にか不動のままに握り返されていた。

「…………〜〜〜ッ!」
「血気盛んなのはお互い様、だけどね。とはいえ、しかし。無遠慮だったのは、寧ろこちらの方……」

 悪かった。
 素直に。誠心のままに。
 神奈子はそう言って、謝罪した。
 先程の威圧が、嘘のように霧散していた。

 有無を言わさぬ負荷を押し付けられたかと思えば、次の瞬間に自ら頭を下げる。変遷の激しい神の姿を前に、ドッピオは出す言葉を失った。

「デリケートな話題だってのは承知の上さ。アンタと〝ディアボロ〟の間に垂らされた糸が、ただならぬ関係にある事くらい。それは例えば──家族の様な。誰しもが持つ、他人には踏み越えられたくない、生まれながらの垣根って奴だ」
「…………家、族」
「ああそうさ。私も『あの場』に居た。ディアボロという人間が、自分の娘を手に掛けたあの地獄にね」

 家族とは何か? この命題に明確な解は出ない。
 地上に星の数ほどある家族という環。彼らそれぞれがそれぞれに苦悩し、喘ぎ、人外から見れば短い生を踏破する過程で、自ずと悟るイデア。そも、他人の助言によって解釈を得るのでは的外れなのだ。
 だからこそ重要視するべくは家族間でのみ紡がれる『絆』であり、神奈子もこれを絶対的な聖域だと捉えている。
 トリッシュと呼ばれたあの少女とディアボロとは、父娘の関係なのだろう。そこには家族という特殊な繋がりがあった筈だ。
 是非はさておき、ディアボロはこの唯一なる『絆』を自ら断ち切った。現状の神奈子ではとうとう達成に至り切れなかった行為だ。

 理由を、知りたかった。
 ディアボロがこれに至った心情……経緯……覚悟……その片鱗でも、と。

 それはまさしく神奈子が嫌っていた、他人の家庭事情に土足で立ち入ろうとする行い。不道徳だという自覚あるがゆえ、先程神奈子は誠意をもってドッピオへと謝罪したに過ぎない。
 本来なら頭を下げる対象は、ディアボロが望ましい。彼の行為の真意を知りたいならドッピオでなく、ディアボロ本人へと問い質せばいい。


 そうしたいのは、山々だ。
 そう出来ない事情が、出来上がってしまった。
 悔やまれること、と言っていいのだろうか。


「───ディアボロ本人がもう死んじまってる以上、当事者と言えるのはアンタぐらいかと思ってね」
「…………。」


 ドッピオには既に伝えていた事実だ。
 先の放送において『ディアボロ』は、名前を呼ばれている。娘を殺害したディアボロはあの後、何処かですぐに死亡したという訃報だった。
 この事実を聞いたドッピオは何を語るでもなく、静かに目を伏せた。深く思慮するように、死者へと想いを馳せていたのだろう。

「知ったふうな口を……と思われるかもしれないけどね。アンタにとってディアボロは凄く大切だったんだろう?」

 ストレートな切り口。配慮がないと、自分でも思った。相手は只者でないとはいえ年端も行かぬ少年で、大切な人物を喪った事実をつい今しがた知らされた所なのだ。

「……アンタは要するに、何を知りたいってんですか」
「ディアボロがどうして、娘トリッシュを手に掛けたのか。アンタなら知ってるかと思ってね」
「何故です。アンタは完全に部外者のはずだ。何故、それを知りたがる?」
「私個人の私情であり、エゴみたいなもんさ。血の通った家族を殺そうとしているのは、何もディアボロだけではない。先達に倣うってわけじゃあないけど、いつまで経ってもうじうじしている自分に何か切欠が欲しいのも事実よ」

 神奈子は手札の一部を早々に明かした。自らに陥った事情を潔く語るというのは、相手に弱味を握らせる愚行と同義だ。しかもそれが神聖であるはずの己が領域──家族に関する事情だというのだから、これはもう突けば角を出す急所を曝け出すようなものだった。
 だがこれも利害得失の代償と考えれば、当然の精算であるとも思う。神奈子は今、それだけ業の深い双手を伸ばして相手の泣き所を間探ろうとしているのだから。その上ドッピオにとってみれば神奈子の一身上の都合など、本当につまらない話だろう。何もかも打ち明けるつもりは毛頭ないが、少なくとも彼の心に響く対話にはなるまい。
 聞こえは良くないが、神奈子の身の上話を駄賃にして『ディアボロ』についての話を聞きたかった。自分で言ったように、これはエゴ以外の何物でもない。

「境遇こそ異なる。でも結局のところ、向かう到達点はディアボロと大差ないんだろうさ。私もいずれ『娘』を殺す。理から外れたこの大罪を円滑に、穏便に済ますには……少し遠回りが必要かと思ってね」

 如何にも唐突で、正当性は見当たらない神奈子の理屈。ドッピオもこれに不条理を感じたか、冷静に反論する。

「我が家の事情をお涙頂戴のように愚痴り、相手にもそれを強要する。……酒の席じゃないんだ。流石に通らないでしょう、それは。神奈子さん、貴方の理屈は烏滸がましく、そして破綻している」
「正論だ。アンタがそれを話したくないってんなら、私は黙ってここを立ち去るさ。話す話さないってのは、当人が決定する当然の選択肢だからね」
「…………話す、話さない。それもちょっと間違いだ。ボクにはその二択を決定する権利なんか、ないですよ。あの人について第三者に語る権利は、ボクには与えられていないんです。『話せない』、が正しい」

 滑らかな拒否を示すドッピオ。その態度はどこか断定的で、機械的。まるで兵士だ。
 話したくない、ではなく、話せない。この言い回しから予想出来るドッピオとディアボロの関係性は、神奈子の思っていた以上に序列を含みそうだ。封建的、とも言えるかもしれない。

 神奈子は目の前のドッピオにも悟られないくらいに小さく、ふぅと息を吐いた。
 本人が話せないと言い切っている個人事情を、無理やりにこじ開けるつもりは神奈子にも無い。半分ほど予想していた答えでもあり、さして落胆は無かった。

 ディアボロについては、諦めよう。
 元より『死人』なのだ、彼は。
 今も何処かで生きている早苗や諏訪子よりも優先して探る程の寄り道ではない。


(……私はこの期に及んで、何を惚けている)


 この足踏みがドッピオの指摘した通り、烏滸がましく、破綻した、それでいて無意味な時間だと。ふと気付く。

 他人に話して、楽になりたかった?
 それとも、引き留めて欲しかった?
 馬鹿な。そうなった所で、結局最後に苦しむのは自分や家族なのだ。分かりきった事じゃないか。
 寄り道だなんだと都合の良く聞こえる言葉は、逃げ道でしかない。こんなのは問題の先延ばしに過ぎないじゃないか。

 ディアボロは、もういい。
 死んだ者より、生きた者だ。
 私の〝これから〟は、此処に居るドッピオに向けるべきだ。

 神奈子は半ば自棄のように手を伸ばし、目の前に積んだ菓子の山へと突っ込んだ。
 甘ったるい砂糖菓子。外の世界の駄菓子の一種であり、早苗の小さい頃はよくこれを与えて喜ばせていた。
 やや乱暴に包装を剥ぎ、一口サイズのそれを口に放る。多量に振り掛けられた砂糖と果汁本来の酸味。この塩梅が、今の神奈子にとっては丁度良い刺激となった。

「相分かった。すまんね、変な話を持ち掛けて。忘れてくれ」
「いえ……。ボクの方も色々と教えて貰った事ですし」

 体面だけではあろうが、ドッピオも温柔な物腰で応じる。爆発的に感情を露わにするかと思えば、この様に低姿勢で物事を慎重に進めたりする。
 彼という二面性は、ディアボロ抜きにしても神奈子の興味を惹かずにはいられない。此処が殺し殺されの場でなければ、もう少しからかってみたりもしたかったが。


 それだけに……惜しい。


「アンタは……いや、アンタも優勝狙いなんだろう? ディアボロも死んだ今、孤軍奮闘を余儀なくされていると見える」
「……そう、見えますかね」

 わざわざ確認する程でもない。
 少年は現在、間違いなく単騎の身。今なら、どうとでも扱える。
 正直、神奈子の中でこの儀式そのものに向ける疑念は膨れつつあった。今まで通り、とは行かないかもしれない。
 それでも今更路線を切り替えるなど、愚かもいい所。ましてやこのドッピオは紛うことなき危険人物であり、放置すれば早苗たちにも危害があるだろう。そうなれば何の意味もない。

 家族間での決着は、あくまで家族間で。
 そうでなければ甲斐もなく。
 そうだからこそ、震盪する。



(───殺すか。今、この場で)



 決心までには一歩至らぬ、その邪念。
 底意がふつと沸き上がり、他者を害さんとする明確な形貌へ変異を遂げる───刹那だった。



「ボクと手を組みませんか」



 その言葉は、神奈子が今まさに手を下さんとする相手の喉奥から、ゆらりと這い出た先制の申出だった。


「………………何だって?」


 恐ろしく間が抜けた反応を示したもんだと、自分でも呆れた。ドッピオが放った言葉の意味が、一瞬なんのことだか理解出来なかったのだ。

「シンプルな提案ですよ。ボクも貴方も殺し合いに乗っている。しかし互いに単独の、謂わばアウトサイダーの身だ。支援の期待できない戦場に長く身を置くってのは精神的にも折れる。だから仲間のひとりも作っておきたい……ってのが、常人の心情でしょう。『神サマ』にとってどうかは知らないけどね」

 青天の霹靂に近い体感というべきか。圧倒的強者としての視点を持つ神奈子からすれば、それは不意を食らったような提案だった。
 人を殺しておきながら常人の心情を語るとは見上げた根性だが、そもそも神奈子には今まで〝仲間を作る〟という発想がまるで無かったのだ。
 儀式が始まって今に至るまで、記憶を掘り返すまでもなく、徒党を組んで動いている者たちを見てきた。あの不良コンビといった彼らのように、懸命に生きようとする姿に感銘は覚えても、その仲間意識に疑問を挟むことは今までなかった。
 それは結局の所、彼ら人間達に対して、神奈子はどこか『格下』を見下ろす気持ちで対してきたからだろう。神の生まれである以上、これは種族意識に近い自然現象の様なものだ。

 弱者ゆえ。人間ゆえに徒党を組む。
 自然界では当たり前の事象だ。
 神である自分が、その『集』という枠組みに収まろうとする。これにより発生するメリットや不具合などの掌握・処理の必要性、といった戦略以前に……まず考えにも及ばなかった着想だ。

「私が……よりにもよって『人間』と組む、か…………」

 無為にぼそりと零した言葉は、人間であるドッピオを見下すような意味にも捉われかねない。彼女にその意図は無かったろうが、日常的に人間を下に見ている節はありありと見て取れる台詞だった。
 これを耳に入れたドッピオは、少し目線を細めるだけで特に反応しない。単純な戦闘力で言えば明らかに神奈子以下である彼からすれば、この場で彼女の機嫌を悪くする訳にもいかなかった。

 形としては、ドッピオの交渉といえた。しかも話を切り出すタイミングと言えば、まさしく完璧だと言わざるを得なかった。
 さっき、神奈子の心証は間違いなくドッピオの始末という選択肢に傾いていた。今まさに手を出そうとする意識を遮るように、彼はこの『共闘』を持ち掛けたのだ。
 そして実際に神奈子は、その思わぬ提案を悪くない選択だと考え、首を縦に振ろうかと思い始めている。

 結果のみを見れば、ドッピオは寸での所で救われたのかもしれない。
 この事実が単なる幸運として片付けられるのか、はたまた彼の持つ『得体の知れない何か』が、未来を視るようにして凶兆を回避させたのか。分からなかったが、神奈子はこれをドッピオ自身の手腕として認識した。
 時折に彼の底から感じ取れる、得体の知れなさ。不気味な両面のある性格や、いざという時に人を殺せる程の冷徹さだけでなく、ドッピオの奥底に秘められた『切り札』のような何か。それを感じる。
 味方に付けるには底が見えないが、漠然とした頼もしさもあるにはある。まだまだ敵は多く、神奈子を脅かしかねない現存勢力も不明瞭。徒党はやはり、今後必要になるのかもしれない。

 自分の方針は変えるつもりもないが、今までが少し堅すぎたという自覚が出てきた。
 もう少し、柔軟に行ってみるか。



「……ああ。それも、良いのかもしれないね」











 ───本当に、良いのか?


 長い思惟を終えた神奈子が、納得尽くである筈の答えを再確認するように自問を掛ける。
 再び陥る長考の迷路。既に口放ってしまった答えに、ドッピオが何やら確認を投げつけている気がしたが、今の神奈子の耳には大して聞こえていなかった。

 人間と組む。それ自体は神奈子の矜恃を崩すことは無い。そもそもこれは、神としてのプライドがどうのという話ではなかった。
 たとえドッピオが今、心中で神奈子に向けて舌を出していようが。この提案が神奈子の牙を避ける為に仕掛けた、一時的な苦肉の策であろうが。
 問題はそこじゃない。自分自身の心根に問い掛ける、信念への疑問を呈しているという発覚が、神奈子の足を今また沼へと引き摺りこもうとしていた。

 神奈子は今。ドッピオを殺す、生かすの二択を迫られていた。
 そして一見、耳障りの良い言葉・理屈で丸め込まれ、生かす──『手を組む』という選択肢を取ろうとしている。
 間違いではないだろう。囁かれた旨味は確かに存在し、互いにとって望む方向へ進むのであればwin-winだ。口八丁で言いくるめられた、などという浅慮は浮かばない。褒めるべくは相手の先見の明だと。

 彼女が足を搦める理由は、ドッピオを生かす選択を取ったこと、ではなく。
 彼を此処で『殺す』という選択を取れなかったことに起因する。
 ドッピオの提案を聞いた時、あまりにも自然に『生かす』方向へと意識が寄った。そして自分なりに納得のいく理由付けを、見る見るうちに積み重ねて行った。挙句には、彼の秘める先見性のような才を持ち上げる始末。


 甘いんじゃあないのか。
 都合の良い誤魔化しに、また逃げてやしないか。

 ───殺せよ。

 何が神。何が家族。
 これでよくもまあ、娘を殺すなどと大言を吐けたもんだ。
 目の前の童ひとりに、いいように抑えられて。

 ───殺せばいい。

 ディアボロも死んだ。
 ドッピオから引き出せる情報はもう無い。
 現実を見ろ。幻想は棄てろ。
 我々の理想する幻想郷は、此処には無かった。
 なればもう、見据えるべき終点は一つだろう。

 ───殺すべきだ。

 次は諏訪子だぞ。早苗だって残ってるんだ。
 あの子らに再会した時、お前はどう向き合うつもりなんだ?
 お前があの子らを殺せなければ、別の悪意に殺されるだけだ。

 家族だろ。
 家族なら、───よ。



 ──────────────。



 ───────。



 ──。







 頭の中に色々な声が混ざって。

 それは幻想郷の事だとか。

 家族の事だとか。

 様々な、声とか、色とか、景色とか、他にも、



 ……………………、……って。


 …………。


 あぁ。














「──────……では、ボクは先に行きますね」
「ああ。健闘を祈るよ、ドッピオ」




 いつの間にか、話は先に進んでいた。


 とうとう神奈子は、ドッピオをここでは『生かす』……手を組んでみようという結論に落ち着いていた。
 何もかも真っ白だったわけじゃない。寧ろ様々に物を考え、先々を見据え、現状を認識した上で出した結論、だったように思う。
 話を進行させていく上で神奈子は、東風谷早苗、洩矢諏訪子の二人には絶対に手を出すな、だとか。
 手は組むが、行動は別々にしよう、だとか。
 次に何時、どこどこで落ち合おう、だとか。
 そんな当たり障りもない内容を、交わしていた……ように思う。

 当たり障りもない、内容。
 可も不可もない、適当な落ちどころ。
 無難すぎて、笑けてしまいそうだった。

 薄白色の思惑が飛び交う中、幻想郷についての疑念も当然、頭を掠めたりもしていた。
 その中で、ふと……本当に、ふと。
 新たな疑問が湧いた。今まで疑問に思わなかったのが不思議なくらいだった。

 八雲紫が『生贄』に混ざっているのは、明らかに不自然だ、という疑問。


「あぁ、ちょい待ち」
「はい……?」


 八雲紫という女にも、取り敢えず手は出さないで欲しい。ディアボロが娘を手に掛けた現場にいた、紫色の装飾を纏った金髪の妖しげな女。アンタも見たはずさ。
 そのような内容を念押しした……ように思う。虚ろな思考の最中であったので、きちんと伝わったか自信がなかった。

 八雲紫。幻想郷においては本当に数少ない、少しは人となりを知る人物。少しは、だ。
 彼女は幻想郷の重鎮中の重鎮。郷の最古参であり、現行の幻想郷を創った賢者の一人と聞いている。
 そんな者が何故、他の生贄と同様に首を並べ、この儀式へさも当然のように参戦しているのか? 名簿上だけでなく、先刻諏訪子と行動を共にしていた場面だって漏れなく目撃している。百歩譲って何やら事情があるにせよ、八雲は儀式に『乗る側』なのが幻想郷にとっては好ましいと思うのだが、先の様子を見る限りそんな風でもなかった。
 本来であれば彼女の座すべき椅子は、あの最高神の隣であるべきではなかろうか? 目的は依然不明だが普通に考えて、此度の儀式を開催し、取り仕切る側の役職が彼女なのではないか? あの二柱と八雲紫の関係は?

 またしても、分からない謎が増えてしまった。だがこの謎は、本人をとっ捕まえる事で造作もなく解決する。
 八雲紫さえ抑えれば、幻想郷についてや今回の儀式への作為、果てはそれを切欠にして、家族への最後の踏ん切りも……と、芋づる式に憂色が晴れる事も期待できる。なんなら彼女自身に拘る必要はなく、お郷の顔役がもし他に居るならばそっちでも構わない。

 とにかく、優先事項と呼べる指標が増えた。
 心に多少は余裕が生まれた事への、弊害だろうか。


 次第に黄昏色へ染まる雪景色。
 下界へ急ぐように、ほとほとと降る雪粉の軒下へ出ようとするドッピオを、神奈子はくだらない疑問によって引き留めた。


「───アンタはどうして、誰かを殺すんだい?」


 言い終えて気付く。この疑問は何の脈絡もない、不意で無意味な質問でしかないことに。
 しまった、と後悔した。凡そ彼女の性格には相応しくない、無駄という名の追求。
 はっとした時点では遅かった。ドッピオはそれを背で受け、ゆっくりとこちらを振り返る。その瞳には、さっき神奈子へと見せたような冷たさがあった。
 今、神奈子が最も欲しているかもしれない冷酷さ。もしかして自分は、彼のその瞳に惹かれたから殺す気が失せたのかもしれない。そう思った。

 揺蕩う自分と少年とを見比べて、彼の秘める『原動力』がふと、気になっただけ。
 あるいは、どこかで彼を羨ましく思ったのかもしれない。

 だから、尋ねた。
 我慢できず、尋ねてしまった。
 大した意味もなく。

 冷徹を携えた眼光のままに、少年は唇を開く。


「……それは、何故ボクが優勝を狙うって意味ですか」


 愚問だ、とでも言いたげな視線。神奈子が後悔した理由が、その視線の中にあった。
 悪かった。訊くまでもなかったね、と。
 くだらぬ質問なんて取り下げ、ドッピオには早くここから去って欲しい気持ちが我が身に充満した。
 だが、訊いてしまった。馬鹿げた問いと分かりきっていながら、降って湧いた興趣を抑える気が起きなかった。
 彼の持つ不思議な原動力が、神奈子の〝これから〟にとって少しでもの『糧』になればいい。
 僅かながらの、そんな期待も込められた問い掛けだった。

「あぁ、そうとも。どうしてアンタは、この殺し合いを最後まで生き抜こうとする?」

 だが、ひとたび口走った疑問はもう、自らの意思で留めることは出来なかった。

 「命じられたから」と言って欲しかった。あの二柱の最高神から「生贄同士で争え」と。
 または「死にたくないから」とか、そういう尤もな理由。同情を引ける理由。
 神奈子が求めている答えは、そういう無難で、人として当然で、些些たる理由。

 それで良かった。それで納得できる。
 殺されたくないから、殺す。
 生物学的。原始的。そんな理由で、十分。


「命じられたから、ってのも大きいですがね」


 神奈子の求める答えが、少年の口から形違わず現れた。
 ほんの一瞬、安堵の笑みを覗かせる神奈子。
 そうでなければならない。元より我々は、巻き込まれた側の者なのだから。
 どれだけ人道に反しようと、誰しもが己が身を。または身内を重んじる。神奈子にその行為を否定する権利はない。

 しかし彼の答え……その意味する所は、神奈子の望みからは正反対の位置にあった。


「でも、あのクソ主催共に命令されたからじゃない。ボクに命令を下せる方は、この世で唯一人です。
 『ボス』に命令されたから、殺す。そしてボク自身も、あの方を優勝させる為に誰かを殺す。全部、あの方の為です。その為ならボクは、命だって捧げられる」


 少年の瞳は、黒く輝き放っていた。


「──────?」

 閉口する神奈子。その瞳に射竦められるように、全身が硬直する。
 言っている意味が、わからない。

「アンタは勘違いしている。ボクは優勝なんか狙ってない。最後の『二人』になるまで参加者ブッ殺して、後は胸にナイフを自ら立てれば終わり。勝つのはボスだ。これがボスの望んだ───永遠の『絶頂』だからだ」
「アン、タ……何を言って───」


「ボスは生きている。死んでなんかいない。ボクにはそれが分かる。だからこれからも、ボクはあの方の為だけに動く。それだけだ」


 自分の胸中に忍ばせていた価値観が、否定された気がした。


「それまでボクはアンタを利用するし、アンタもボクを利用するといい」


 ボス──つまり放送で確かに名を呼ばれた、死人となった筈の『ディアボロ』の生存を、少年は自ずから信じていた。
 絶望に打ちひしがれての。
 幻想に逃げ、縋りつこうと盲目する類の。
 なりふり構わなくなった者が最後に浮かべる脆弱な、虚飾の瞳ではなかった。
 少年の瞳は黒く濁りつつも、その中心には純粋なひたむきさを感じた。誰かを心から信じる者特有の、ある意味では純粋無垢な瞳だった。

 その彼が、大切な者の為に誰かを殺し。
 そして自らも、死ぬという。


「東風谷早苗と、洩矢諏訪子……あとは八雲紫、だったっけ。この三人には手を出しませんよ。取り敢えずはね」


 次に落ち合う場所と時間……忘れないでくださいね。
 じゃあ───アンタも精々、頑張って。

 最後にそう言い残し、今度こそドッピオは神奈子の視界から消えた。



「…………ボスの為に、自分も死ぬ、か」


 すっかり孤独となった洞穴の中で、神奈子の独り言だけが虚しく木霊した。
 無意識に手元の菓子へと手を伸ばしていた。手持ち無沙汰のように、包まれた紙をくる、くる、と弄る。その度にぱりぱりとした感触が、皮膚を伝って神奈子の意識へと語りかける。

 ドッピオの最後の言葉は、神奈子の心に大きく傷痕を残していった。
 ディアボロが生きている。それを今すぐに確かめる術は現状無いし、仮にそうであっても大した問題ではない。冷静に見るなら、ドッピオの希望的観測と捉えるのが現実的だ。

 だが、重要なのはそこではなかった。

 ドッピオが自分に無いモノを掲げていたからだ。それが神奈子の視点では誇らしく見え、まるで正道を歩む者のように感じた。

 神奈子は───家族を殺そうとする者である。
 それはこの儀式が既に自分の力でどうこう出来る範疇の規模にないと悟り、またこの儀式が幻想郷の維持には必要不可欠の類であるものだと認識しているから。それが一つの理由。
 そしてもう一つは、中断不可能であるこの儀式に放られた我が家族に訪れる『最期』とは、必ず惨たらしく醜悪な末路となる未来を予期したからだった。まだ力の弱い早苗は、特にその不安が大きい。

 せめてもの。せめてもの救いと呼べる『抗い』こそが、家族による『最期』を宛てがう行為。
 これしか無かった。幻想郷へと来てしまった時点で既に決定事項となった我々家族の末路は、最後の一人となる以外には〝死〟……つまり、供物となる他ない。

 だったら、せめて。
 せめて血の繋がった家族の最期だけは、唯一無二の『家族愛』こそが救いの気持ちとなる。たとえ気休めであろうと、神奈子はそれを信じていた。
 否。信じる以外の道が、初めから用意されていなかった。

 八坂神奈子には、自らの命を供物にしてまで家族を生き残らせるという選択肢が無かった。つまりそれは、早苗を最後の椅子に座らせるというシナリオを指す。
 この発想が無かった。仮にそれをやったとして、家族を失い独りとなった早苗が、その後の人生を幸福に過ごせるなどとも思わない。


「…………でも、あの少年は違った」


 ドッピオは、神奈子が取ろうとも思わなかった選択肢を持っていた。彼にとっての『家族』がディアボロというのなら、神奈子とドッピオはよく似ていた。

 家族を生かすために他を殺すドッピオ。
 家族を生かすために自ら死を選べるドッピオ。

 家族を殺すために他も殺す自分。
 自分には、家族を生かす選択が無かった。
 それどころか一刻も早く殺してやらなければ、と焦ってさえいた。
 早苗を最後まで生き残らせて、そして自ら命を絶つ、などという選択も……思いもよらなかった。

 あの少年は幾つだろう? 十五? 十六?
 どちらにせよ、子供だ。
 果てしない長命である神奈子と違い、奴はまだ子供。
 そんな年端も行かない子供が、心臓を捧げようとしている。
 大事な者の為に。

 神奈子には選べなかった、尊い決意。
 神奈子では為せない、艱難辛苦の道。
 今更、道徳を問題にはしない。
 だが、確かに。
 不本意な形ではあろうが、あの少年は。
 神奈子の価値観、その全てを否定した。
 粉々にされたとまで断言してよかった。
 まるで矮小な自分を嘲笑うように、見下された惨めな気分さえ浮かんだ。


 手の中にあった正方形型ミニチョコレートの包装を、カサカサと破いて捨てた。口に入れたビターチョコレートの味はとても苦く、吐いて捨てたい衝動に駆られて……自重する。


 腕が震えていた。
 怒りか、悔しさか。空しさか。
 それは誰への感情なのか。
 分からないままに、どうでも良くなった。


「私は、早苗を…………殺さなければならない」


 心からの本音でない言葉なのは、当たり前であるはずなのに。
 家族としての義務か。義務感から、娘を殺そうとしているのか。
 はたまた、その権利が与えられたからか。家族を殺す権利などという、犬も食わない屑物を与えた秩序の仕組みになんの憤慨も抱かないというのか。


「私は…………あの子、を」


 殺す、殺す、と。
 私はここに来てから、頻りにこの言葉を多用している気がする。

 早苗を殺す。
 諏訪子を殺す。
 早苗を殺す。
 諏訪子を殺す、と。

 好きでもない単語を、わざわざ口に出して。まるで田舎のチンピラ共みたいに。滑稽で、薄っぺらで、子供っぽくて、中身の無い言葉だ。『殺す』なんて馬鹿げた台詞は。
 真に相手を斃す腹積もりであるなら、そんな単語を口にする必要など無いのではないだろうか。決心を固め、それを全うさせる技量の持ち主であれば、わざわざ殺すなどと口にする迄もなく、心の中で思ったなら、既にその凶行を終えているものだろう。
 少なくとも私にはそう思える。その上で私と来たら、相も変わらず早苗を殺す、諏訪子を殺す、などと。しかもその『殺す』とやらの絶好の機会に他ならない猶予が、早苗・諏訪子両方共に一度あったというのに。

 むざと見過ごしている。
 見過ごした上でまた、私はあの子らを殺すなどと口に出している。性懲りもなく、だ。

 何故……? ───考えるまでもない。

「…………結局、目を背けていたのは私の方、か」


 落としていた視線を、不明瞭な独言と共に持ち上げる。
 やがて意を決したように立ち上がり、ますます勢いが増しつつある雪模様を忌々しげに睨みつけた。
 先走りを始める感情に歯止めが効かない危うさを自覚しつつも……今度ばかりは、制御する気さえ起きなかった。

 胃袋に染みたチョコレートの味が、この世のどんな苦渋よりも苦々しく感じた。


            ◆


「クソ! 何、だよあの女は……! 何処そこの神だとかぬかしていたが、ンな事ァどっちでもいい……!」

 荒ぶらんとする武神を寸での間際で鎮めきったドッピオ。その功労者となったエピタフの予知が無ければ、きっと奴はその美貌の裏に隠した牙(ガトリング)をもって破壊の限りを尽くしたに違いない。
 浮き現れた予知の通りに神奈子の意識を遮り、体のよく聞こえる共闘案を持ち出したドッピオの腹は、実のところ焦る気持ちでいっぱいだった。
 矢も盾もたまらない神奈子の攻勢を懸念したドッピオだったが、それは杞憂に終わった。結果的にはこの提案が実を結び、そこから先は拍子抜けするほどトントン拍子で事が進んだのだ。

 かくして迫る災害を見事逸らしたドッピオは、悪態を吐きながら今に至る。小心者な性格など何処吹く風ぞ、と言わんばかりに、彼の悪い面の顔がおもむろに出ていた。
 あの場から脱することさえ出来たなら最早何だって良かったが、終わってみれば神奈子を味方につけるような成果さえ得られたのは、僥倖だと言えるだろうか。
 単騎でマトモにぶつかったなら、とてもではないが勝てる相手には見えない。そんな強者と(ひとまずではあるが)共同戦線を結べたのだから、上出来だろう。欲を言えば何とか仕留めたかったものだが。

「にしても……ボスが放送で呼ばれたらしいってのは、どういう事だ? 普通に考えれば運営側のミスか、何か意図があっての虚報か……」

 既にドッピオの意識は、神奈子から敬愛するボスへと移っている。一度はジョルノ・ジョバァーナに敗北を喫したとはいえ、彼の中での『頂点』は未だ揺るぎない帝王の椅子に座するボスだけだ。
 従ってドッピオは、ボスの訃報など毛の先ほども信じていなかった。この自分すらがこうして生きているのだ。なれば帝王が自分を差し置いて退くなど、この世で一番ありえない出来事だ。
 ボスは『トリッシュ・ウナ』の肉体を乗っ取り、そのまま闇へ消えた。放送で名が呼ばれた理由こそ不明だが、そこのカラクリにどういう形かで関わっている可能性も考えられる。

 とにかく、ボスは生きている。生きているならば、それで十分。
 これ以上を考える必要もなかった。考えるまでもなく、既にドッピオのやるべき事は決まっていたのだから。

 どうでもいい事だが。
 あの女は、自分の娘を殺すだとか言っていた。
 誰を指しているのか。多分、話に出ていた『東風谷早苗』か『洩矢諏訪子』のどちらか、或いは両方か。
 彼女らには手を出すなと釘を刺されている。一介の神がギャングに忠告とは、業の深い話だ。手を出すなというのはつまり、率先して殺して下さいと言ってる事と同じだろう。


「早苗か諏訪子……コイツらを優先的に狙うべきか」


 神奈子とその家族に如何なる確執があるのかは知らないし、どうだっていい。しかしあの様子だと、どちらにせよ娘は神奈子のアキレス腱になる筈だ。
 ギャングに忠告するとはいい度胸。娘を人質に取るのは職業柄お手の物だ。あの愚かな暗殺チーム共がボスに対抗して取った行動と同じく、家族を人質に取るってのは、交渉ごとをこれ以上なく有利に進められる有効手段なのだ。
 正面からぶつかるには厳しい神奈子を手玉に取れる糸口。娘の指でも数本切断して写真でも送り付けてやれば、泣きつくぐらいはしてくるかもな。

 近い将来に必ず立ち塞がる驚異へ対し、極めて悪どい算段で対抗策を立てるドッピオ。
 周囲への注意力が散漫となるのも、必然といえた。

 だが彼の持つ『強み』とは、周囲への危機管理に依存する必要がなかった。
 だからこそ強みと言える。依存するは周囲でなく、視界いっぱいに映される『予知』にのみ終始すればよい。

 大抵の場合、この力で事なきを得る。
 今回も、そうに違いなかった。


「──────ッ!?」


 普段のドッピオの身体能力では決して避けきれない攻撃が、背後から音もなく飛んできた。
 一直線の糸──『釣り針』だった。射線上に棒立ちのままであれば、間違いなく直撃していた。
 身体を飛び込ませるようにして、これを大袈裟に避ける。一見して殺傷力の低そうなこの投擲を、ドッピオは一瞥する事もなく逆向きの姿勢で回避を選んだ。
 この行動が正解だったと、直後に悟る。あらぬ方向に飛んだ釣り針の先端は、前方の木の幹に深々と突き刺さり──否。水面に潜るようにして、針が幹の中へ潜行していた。明らかにスタンドだ。

「驚いた。アンタ、背中に目でも付いてるのかい?」
「てめぇ……っ!」

 地面に這い蹲ったまま、ドッピオは自分が歩いてきた方向へ振り返った。


「また会ったね。ドッピオ君」


 地面を踏み抜くような酷く重々しい威圧感。その一歩一歩が、まるで人の形をとった岩石の如き重量を伴っているようだった。
 初めに邂逅した時よりも彼女のそれは、明白な違いが見て取れた。

 ───殺気である。

「〝君〟はやめろと言った筈だよなァ……!」

 立ち上がり、構えるドッピオの瞳には焦燥と怒り、そして覚悟が混ざり合っていた。これから命のやり取りを行使する者特有の目だ。
 現れた神奈子の腕には『釣竿』が構えられている。あれが奴のスタンドなのだろう。初撃の不意打ちを避けられたのは100%予知のお陰であり、心構えさえあれば追撃の回避も難しくないと推測する。

 だが、彼女の最も厄介な武装は他にあった。
 アレを全て回避する術が、現時点で見付からない。
 こうして向き合ってしまった瞬間から、詰みだった。

「フザけんなッ! いきなり裏切るつもりかてめぇ!」
「八つ当たり、と言われたらそうかもしれない。妬み、やっかみ、羨望……どっちにしろ、ロクでもない理由なのは確かさ。協定を違えたことだけは、謝っとくよ」

 理不尽な怒りを込めた猛りは、柳のように受け流す神奈子の全身を呆気なく通り過ぎる。
 心変わりしたのか、初めからこうするつもりでドッピオへ接触してきたのか。ともかく掌を返すような彼女の行動は、かつてないほどドッピオの命を脅かしている。

「アンタは私が成れなかった、理想のままの姿を体現している。その歳でよくやるよ。嘘偽りなく、私はアンタを尊敬しよう」

 神奈子が釣竿を手放した。しかしそれは正確ではなく、ただスタンドを解除したに過ぎない。
 両手を使用可能としたのだ。彼女に配られた『第二の矛』の威力と散弾範囲は、先のちっぽけな釣り針とは桁が違う。
 その穂先が今、ドッピオの胸を捉えていた。幾ら未来が視えても、防御の手段も無い状態であの掃射を回避するというには、この場所はあまりに開けすぎている。

「お、おい待て……!」

 武器であるアメリカンクラッカーを手に取り、すかさず構えるドッピオ。その視線の先には、数十秒後に訪れるであろう予知の光景がぼんやり浮かび始める。

 エピタフの予知は絶対だ。

 訪れる未来が希望に満ちた光景であれば、心晴れやかに足を踏み出すことが出来る。

 訪れる未来が絶望に染まる光景であれば───彼は、絶望を希望に変える為に足掻こうとする。

 ドッピオという少年は、それが出来る人間だった。


「だから、せめて最後は敬意を表す。暴れてくれるな、無駄に苦しませたくないんでね」


 ただ、そんな時。彼の隣にはいつも。

 自分にとって何より大切な、親のような存在───家族(ファミッリァ)が支えてくれていた。


「エピタフ(墓碑銘)───!!」


 エピタフの予知が、先の未来を伝えた。

 彼は、思わず──そう、いつもの手癖で──荷物から〝それ〟を探そうとしていた。


「ボ、ス──────」



 もう二度と〝それ〟が繋がることなど無いと……分かりきっていながら。

 予知の中の自分が、孤独の中で〝それ〟を握り締め、朽ち果てていた事も知りながら。

 ただ、ひどい未来を変えたい一心で。

 子が、親へと救いを求めるように。

 ただ、縋るように。

 懸命に。

 握り、


            ◆

 雪の花畑に、紅の池が生まれた。
 池の中心に咲く、少年だったものを神奈子は立ち尽くすようにして見下ろしていた。
 どうしようもない喪失感が、この胸に渦巻いている。何故こんなに悪い気分になっているかが、神奈子には分からずにいた。
 彼を至らしめるのも、いずれ訪れる当然の未来だと分かっていたはずなのに。こんなのは、いつ死ぬか、いつ殺すかという時機の問題でしかないというのに。


「ドッピオ。……アンタは凄いね。大切な奴ひとりの為に、自分を犠牲にしてまで守ろうとする」


 お話の中の世界では、そんなキャラクターは当たり前。王道で、純粋で、誰からも好かれるような……そんな尊ぶべき精神。童話の世界だ。


「でも、私にゃあそれが出来なかった。それどころか、思いもしなかったんだ。なあ。それって、そんなに悪いことなのかい? 私は、愚か者か?」


 末路のわりには、少年の身体は驚くほど原型を保っていた。
 だがそれがもう、口を語ることなどない。
 少年の左手に握られた『受話器』の意味を、神奈子は悟れずにいた。

 それでも、分かる。
 少年にとっての〝それ〟が、他者には理解できないほどに大きな意味を持つ物だと。


「白状するよ。私はアンタが本当に羨ましい。そしてそれと同じくらいに、アンタが憎く見えた」


 だから殺した、と。
 そこまでを口に出すことは、憚られた。

 神奈子はここに来て……否。この現世に受肉して初めて、自らの意思──個の感情で、他者を屠った。
 神としての使命、だとか。
 贄としての意義、だとか。
 それらの様に与えられた大義、表面的な建前など……一切関係なく。
 初めて、自分本位の感情で死をもたらした。
 〝彼は危険だから〟という、まだ体裁の保てる正当的な理由を捨て去って……〝憎しみ〟から、殺した。
 恥も外聞もない、八坂の神らしからぬ醜態だ。
 まるで、愚かな人間そのもの。


「私はこれからもきっと、アンタにやったように人を殺す。私は私なりのやり方で、家族への決着を付けさせて貰うさ」


 家族を守る為に戦い続け、そして自ら死のうとしたドッピオ。
 八坂神奈子の心が彼を倣おうとするには、未だ迷いがある。自分は彼のように、純粋ではなかった。
 幻想郷……八雲紫……疑問点は新たに出てきた。自分が今後どうすべきかは、これへの接触によって大きく変わる可能性がある。

 本当に、今更な話。
 神奈子は心で悔やんだ。そして、憎んだ。
 我々家族を取り巻く、こんな悲劇に対し。
 これもまた、あまりに今更。

 行き場のない感情を発露させるとしたら、今では八雲紫しかなかった。目下の所、神奈子の所持する情報では彼女が最も『幻想郷』に近しい人物だからだ。


「行く、か」


 気怠い気持ちを払うように、ガトリング銃を肩に掛け直す。


「──────。」


 その時、声が聞こえた気がした。
 振り返ってみても、ひとつの死体だけが冷たい雪を被ろうとするのみ。
 間違いなく、死体だ。
 そして考えられるなら、死体の持つ受話器。電話機本体にも繋がっていない、玩具同然のそれだ。

 その少年にとって唯一の肉親──『家族』を求める声は、神奈子に届かない。
 聞こえないふりをして。女はそこに背を向け、去った。


 ヴィネガー・ドッピオ。
 少年の名が何故、名簿に記されていなかったか。
 女はもう、そんな些細な疑問は忘れていた。
 彼という存在が神奈子にとって『三人目』の障害であった事実は、神奈子の中のみに証として在るだけでいい。

 そして、証とはそれだけだった。

 ヴィネガー・ドッピオなどという名の人間は、初めからこの儀式には存在していない。
 そして、この世にすらも産まれていなかった具象なのかもしれない。
 ディアボロという男の『影』か『光』か。その表裏すらも曖昧なままに、少年は此処で朽ちた。
 いつしかディアボロから分離し、己のルーツすら不明であった人間。そんな人間がひとり消えたところで、儀式には何の影響も与えないに違いなかった。
 きっと、今後来るだろう放送の記録にだって残ったりしない。

 誰も彼もドッピオの真実など分からぬままに、これからも儀式は何事なく、変わらず続く。


 何事もなく、続いてゆく。



【ヴィネガー・ドッピオ@ジョジョの奇妙な冒険 第5部 黄金の風】死亡
【残り生存者数───影響なし】

▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
【午後】E-3 名居守の祠

【八坂神奈子@東方風神録】
[状態]:体力消費(小)、霊力消費(中)、右腕損傷、早苗に対する深い愛情
[装備]:ガトリング銃(残弾65%)、スタンドDISC「ビーチ・ボーイ」
[道具]:基本支給品×2
[思考・状況]
基本行動方針:儀式そのものへの疑惑はあるが、優勝は目指す。
1:『家族』を手に掛けることが守ることに繋がるのか。……分からない。
2:八雲紫を尋問し、幻想郷についての正しい知識を知りたい。
[備考]
※参戦時期は東方風神録、オープニング後です。
※参戦時期の関係で、幻想郷の面々の殆どと面識がありません。
 東風谷早苗、洩矢諏訪子の他、彼女が知っている可能性があるのは、妖怪の山の住人、結界の管理者です。
 (該当者は秋静葉、秋穣子、河城にとり、射命丸文、姫海棠はたて、博麗霊夢、八雲紫、八雲藍、橙)

※ E-3名居守の祠近辺に「お菓子の山」が散らばっています。

〇支給品説明
「お菓子の山@現実」
ヴァニラ・アイスに支給。
色とりどりに包装された和菓子・洋菓子がゴージャスパックで纏められている。昔懐かしい駄菓子から誰もが知るあの菓子この菓子など、老若男女問わず人気のある商品が多い。杜王銘菓ごま蜜団子は無い。


203:きっと。 投下順 205:一世の夢と名も無き鳥
200:星屑になる貴方を抱きしめて 時系列順 205:一世の夢と名も無き鳥
177:かぜなきし 八坂神奈子 :[[]]
177:かぜなきし ヴィネガー・ドッピオ 死亡

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最終更新:2020年11月10日 11:19