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『4seasons』 冬/きれいな感情(第一話)

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『4seasons』 秋/静かの海(第六話)より続く
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§プロローグ

 ――なんでキスなんてしたのよ。

 十二月二十四日。冬の夜を私は走っていた。
 丸裸の街路樹は、葉を茂らせる代わりにオレンジ色の豆電球を身にまとい、夜の街にぼんやりと浮かび上がっている。行き交う車のヘッドライトは街の底を進む光の川のようだった。どこかの店舗から『ジングル・ベル』のメロディが流れてきて、行き交う人々は皆どこか幸福そうな顔をしていた。その顔を見て、私はディケンズの『クリスマス・キャロル』を思い出していた。

 ――なんでキスなんてしたのよ。

 聖なる夜は住宅街の夜景も一変させている。そこかしこでささやかなイルミネーションがまたたいて、闇の底を普段より少しだけ明るくさせている。ドアにかけられたリース。窓に浮かび上がる家族の人影。楽しそうな笑い声。クリスマスチキンを焼いているのだろう、漂ってくるハーブの香り。それが、商店街を満たしていた作られたクリスマスムードよりずっと日本のクリスマスらしくて、胸がつまる。

 ――なんでキスなんてしたのよ。

 さっきまでちらちらと見えていた青い髪の後ろ姿も、今はもうない。脱兎のごとき逃げ足の速さに、あらためて舌を巻く思いだった。いや、逃げているのが狐で、追いかけている方が兎じゃないか。そんなどうでもいい考えが頭の中に浮かんできて、それが少しだけおかしかった。

 ――逃げるくらいなら、キスなんてするな!

 初めてのキスはケーキの味。甘い甘いバニラエッセンスの香り。ホイップクリームのように唇の上でふわりと溶けた。
 ――イチゴの香りを嗅ぐとショートケーキを思い出しちゃう。
 そう云ってつかさが笑ったのは、いつのことだったか。随分前のようにも思える。つい最近のようにも思える。
 ストロベリーケーキは、私の中でキスの味になった。これから先誰かとキスをする度に私はあの味を思い出すだろうし、ケーキを食べる度に今日のキスのことを思い出すだろう。
 こなたの唇は、少しだけ濡れていた。

 ちらちらと雪が降ってきて、思わず笑ってしまった。

 イエスか聖霊か父なる神か、その悪戯をしたのが誰かはわからないけれど、余りにもできすぎている。余りにもできすぎていて、まるで私がこの世界の主人公みたいで、思わず笑ってしまった。
 けれどどこかの家から「あ、雪が降ってるよ」と子供の声が聞こえてくるのを聞いて、主人公は私だけじゃないのだと思い直す。こんな夜には誰もが主人公になれるのだ。誰もが聖夜に祝福されて、誰かにとって特別な人になる。ましてや雪なんて降れば尚更だ。
『今夜は今年一番の寒さとなるでしょう』天気予報はそう云って、その通りに雪まで降ってきたのに。走り続ける体には、身につけているコートが暑いくらいだ。
 ぜーぜーと息を吸う。必死に息を吸うことしか頭になくて、吸った息はどこに行ってしまったのかと思う。勿論呼気となって吐き出されて白い雲を作って消えていくのがそれなのだけれど、そんなことを考える余裕は頭の中にはなかった。息を吸うこと。それとこなたを捕まえること。それだけが頭の中にあった。
 それだけを考える私を突き動かしているのは、どちらかというと怒りの感情だ。
 なんで逃げるんだ、あのバカは!
 こなたへの、自分への、こんな夜への、舞い散る雪への、受験というシステムへの、男と女に別れた人間への、そんな全てを孕んだ世界への、怒り。
 そんな感情が疲労に崩折れそうになる足を奮い立たせていて、そうして私はそれが醜いと思う。
 雪は強くなってきていた。夜の薄闇を背景に月の光を受け、白いすだれのように空を埋めていく。じっと眺めていると見当識を失って、それが降っているのか舞い上がっているのかわからなくなってくる。
 積もるのかもしれないな。そんなことを考える。
 いっそ積もってしまえばいい。そんなことを考える。
 降って降って降り積もって、世界の全てを埋めてしまえばいい。カッカと私の頭を湧き立てる怒りも、逃げていくこなたの弱さも、大人と子供の間で怯えて震えている私たちも、みんなみんな埋まってしまえばいい。
 そうしてまっさらな雪原となって、フラットな平面になって、何百年か後に掘り返されたときに、みんなきれいな氷の彫刻となっていればいい。
 愛だとか、友情だとか、未来だとか、夢だとか。言葉にすればどこまでもきれいなのに、きらきらと光輝いて見えるはずなのに、どうしてそれを口にする私たちの思いはこんなにも汚れているのか。愛は嫉妬を、友情は打算を、未来は不安を、夢は逃避をどうして内包してしまうのか。

 ――だから。
 ――だから、そんな私の感情は、雪に埋もれて凍ってしまえばいいのだ。
 そうして何年か経って、何十年か経って、心の奥の方に埋まった今日のこの日のことを思い出して懐かしめればいい。どろどろした感情なんて全部記憶から捨て去って。
 思い起こせばあの頃は純粋だったなと、子供だったんだなと。
 そう思えればいい。
 ずっとずっときれいな物だけを見て、いつだってきれいな感情だけを抱いて生きていきたいのに。
 そんな風に考える今の私の感情は目を背けたくなるほど醜くて、どこまでも必死で、どうしようもなく苦しくて。

 ――なんで、キスなんてしたんだよ!

 十二月二十四日。冬の夜を私は走っていた。


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 4 s e a s o n s

 冬 / き れ い な 感 情

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§1

「あー、B判定かぁー」
 返ってきた進研模試の合否判定を眺めて、私はため息をつきながら机に突っ伏した。それでもC判定だった夏前に比べると上がっているし、十分合格圏内ではあるはずなのだけれど。
 六十~八十%というその確率が果たして安心していい数値なのかどうか、私は決めかねていた。確か去年の進研模試の判定と実際の合格率を検証してみた結果では、難関私立大では軒並み実際の合格率が判定結果の下限近くに位置していたはずだ。してみると今の私の合格率はぎりぎり六十%くらい。六十%なんてほとんど五十%と変わらないわけだから、結局のところ受かるか落ちるか半々でどっちかわからないんじゃないか。
 今日の天気は雨か晴れかのどちらかでしょう。そんなやる気のない天気予報は聞いたことがない。必死で頭をひねって解答した結果が“どっちかわからない”ではなんのための模試だったのか。いや、そのために頭をひねった分知識は頭に刻み込まれているはずだから無駄ではなかったのか。
『アニメなんかだとさ、確率が低ければ低いほど百%に近づくよね~』
 慌てた顔をしてそう云ったあいつのことをふと思い出す。
 秋口のころのことだった。模試の結果を体の後ろに隠しながら、あいつは云ったものだった。確かにアニメやなにかだと、九十九%の確率で負けるとなったら残り一%の確率で主人公は勝つのだし、0.00001%の確率でも主人公が乗ったロボットは起動する。けれど現実はアニメじゃない。それは全部本当のことだし、みんなが寝静まった夜に窓から空を見ていてもとてもすごいものは見られない。ってなんだこれは、なんのネタだったか。ああ、そうだ、ガンダムのどれかの主題歌だ。私もいつのまにか染められているな、なんてことを思う。
『ガンダムはオタクの基礎教養なのだよ、かがみんや』そんな風に猫口をニマニマとさせながら、あいつがガンダム主題歌をカラオケで熱唱したのはいつのことだっただろう。そうだ、春だった。あれは確か、まだ三年生になっていない春休みのことだ。
 私がまだ、こなたへの恋心を自覚する前のことだ。それだけはよくわかる。
 私の中で、春のあの日以前とそれ以降のことは、記憶の中で明確に区別されていた。それ以前のことは“思い出”であり、それ以降のことは“今”だった。それだけあの日気がついたことは――こなたに恋をしていると気がついたことは、私の中で世界が壊れるほど衝撃的な出来事だったのだ。たとえるなら、ある日自分が毒虫ではなく『異邦人』であることに気がついたグレゴール・ザムザのように。
 そうしてこなたが私のように『異邦人』である確率は――同性のことを好きになれる確率は――三%以下であり、それはアニメならぬ現実においてはほぼあり得ないに等しいのだ。

 ――わかっている。自覚している。私は目の前の試験結果から目を逸らしている。

 教室のそこかしこから同じようなため息が聞こえてくる。HR後の教室は、授業が終わった開放感など微塵も感じさせない淀んだ空気に満たされていて、なんとも気が滅入るものだった。
 十二月も半ばに入り、三年の教室がある高等部校舎西翼の三階そのものが、ピリピリとした受験ムードに包まれていた。けれど窓の外の景色は去年の冬とまるで変わらない。野球部員たちがちらほらと集結しているグラウンドの向こう、枯れた木々が寒空に梢を張り巡らせている。その先は住宅街と畑が点在している光景の中、遠くには土手に覆われた大落古利寝川が鈍色の空を写して流れていた。
 この場所からそんな景色を眺められるのも、あと三ヶ月と少し。まだ先だ、まだ先だと思いながら過ごしてきた一日一日がこんなところまで私を連れてきていて、気がつけばもう卒業の二文字が目の前にある。
 こんな風にしてきっとこれから先の人生も過ぎていくのだな。目の前の机に刻まれたひっかき傷を見ながら、そんなことを思う。それは私がつけた傷ではなく、最初からこの机についていたものだ。化粧板を貫いて深くうがたれた二つの穴と、その下に弧を描いて刻まれた長いひっかき傷。それは笑っている人の顔のようにも見えて、私は毎朝こっそりとその顔に挨拶をしていたものだった。
 こなた辺りにばれたら散々弄り倒されるだろうそんな日課も、あと少しで終わる。三月になったら私たちはこの陵桜学園を卒業するのだ。
 そのとき、果たして私は笑っているのだろうか。そんなことを考える。
 ひとえにそれを決めるのは、私が目当ての大学に入れているかどうかではなくて――。
「よぉ、黄昏れちゃってどーしたかがみぃ。そんなにモロ落ちそうな成績だったのかぁ?」
 物思いに耽っていたところに、底抜けに脳天気な声が聞こえてきた。
「そんなんじゃねーよ。っておいっ! 勝手に見るなバカ!」
 伏せていた判定結果の用紙をめくろうとするみさおを制止して、ポカリと頭を叩いた。
「むぅー、かがみが叩いたー」
 そんなことを云って、わざとらしくあやのに抱きつくみさおだった。
 全くこいつも少しくらいは空気を読んで欲しいものだ。皆それぞれに自分の成績と向き合っている受験生だらけの教室で、堂々と判定に言及するなんていい根性をしている。ましてや落ちそうな成績だとか、タブー中のタブーに気軽に触れやがって。案の定、周囲の席で何人かの生徒が頭を抱えているのだった。
 そんなことを思っていると、そのバカの口からは続いて爆弾発言が飛びだした。
「まー、私はもう推薦決まってっから人ごとなんだけどな。ほんと受験生は大変だよなぁー、うひゃひゃひゃひゃ」
 その瞬間静まり返ったクラスの雰囲気をどう表現すればいいのだろう。突然極寒のオホーツク海に投げ出されたようにというか、こなたと観に行った『時をかける少女』のクライマックスで未来人ケン・ソゴルが時間を止めたときのようにというか。
 とにかく凍りついた教室の中で、ただ一人何も気づかずにへらへらと笑うみさおのことを、私は危うく尊敬しかけるところだった。

「……みさちゃん、いつか刺されるよ……?」

 そのとき聞こえてきた地の底から響いてくるような低い声が、あやのが発した物だと気がつくまでは。


§2

 珍しいと云えば珍しい。
 鷹宮駅で電車を降りたとき、一緒にいたのは私とあやのとみさおの三人だけだった。十一月頃からは皆ほとんど寄り道もせずに帰宅するようになっていたから、鷹宮駅からあやのたちと一緒に帰るのは当たり前のことだったけれど。いつも一緒にいるはずのつかさは、今日は進路相談があるとのことで学校に残っているのだった。
「あ、ちょっと寄り道していいか?」
 商店街を抜けようかというころだった。ふと、残りが心許なくなっていたものを思い出して、ついでに買っていこうと思ったのだった。
「うん、いいわよ。どこいくの?」
「裏通りに確か手芸用品売ってるところあったわよね? ちょっとニット買ってこうって思って」
「あ、あー。あったけど……。あそこ、ちょっと前に潰れちゃってるわよ?」
「え、うわっ、まじかっ!」
「おーっと、どんだけかがみが普段編み物してないか、それが今白日の下にっ」
「うっさいわっ! あんたに云われたくないっ!」
「へへん、私の場合はそーいうの全部あやのがやってくれっからいぃのだっ」
「いばるようなことかよ。あんただって一生あやのと一緒に生きてくことなんてできないだろ。志望校だって別なんだし」
「いやー、でもあやのは兄貴と同じとこだしなぁ。それに……なぁ、あやの?」
「……う、うん」
 目配せするみさおに、顔を赤らめて答えるあやのだった。その含羞に染まった顔を見ていて思い出す。あやのはみさおの兄と付き合っていて、もしかしたら結婚するかもしれないという関係なのだと云うことを。
 その人のことは、中学生の時に二、三度みさおの家で見かけたことがある。その頃彼は多分高校生で、本人を見て受けた印象としては、礼儀正しくて優しそうな人だということしか記憶にはない。ただ、あやのやみさおと話しているところを見て、この三人は本当に仲がいいんだなと、そう思ったことを覚えている。
「……もう、またかがみちゃん、そんな顔して」
「いや、別にそんな呆れたとか地雷踏んだとかじゃないわよ。ただ、そのことについて、あんまり深く考えてなかったのよね。そっか、結婚したらみさおのお義姉さんなのか……」
 それは、ある意味この二人に一番ぴったりとくる関係なのかもしれないと思う。今でもすでにあやのはみさおの姉のような存在なのだ。いや、それは今に限ったことではなく、私がこの二人に出会った頃からそうだった。なにせ初めてこの二人とちゃんと会話を交わしたとき、あやのはみさおがはしゃいで飛ばしてしまったブレザーのボタンを縫い止めていたのだから筋金入りだ。二人と同じ小学校だったクラスメイトが云うには、昔からこんな感じだったらしかった。
 そんな二人だからこそ、姉妹という関係は余りにもぴったりしすぎていて、そうして私はそこに一抹の違和感を感じていた。
 それは、余りにもぴったりすぎるのだ。
 その先のことを考えるのは、あやのにもみさおにも、そして何よりみさおの兄に失礼な気がして、私はそこでそれ以上考えるのを辞めた。友達相手でも簡単に踏み込んではいけない領域があって、そうして今の私はまだそこに踏み込む覚悟を持っていないのだから。
 友達であっても親友であっても、他人と関わろうとするならばそれだけの覚悟が必要なのだ。今年の夏、私はそれを学んだ。
「まあ、あやのはお義姉さんっていうより、すでにあんたのお母さんみたいな感じだけどな」
 そう云って、ニシシと笑う。
「まっなー、正直私の母さんよりお母さんらしいと思うぜ」
「……いや、別に褒めたわけじゃないんだが」
「な、なんだってー! かがみ、あやののことバカにしてたのかっ」
「バカにしたのはおまえのことだー!」
 ギャーギャーとわめき立てる私たちのことを、あやのは嬉しそうに微笑みながら眺めていた。

 道すがら、閉店してしまったという手芸用品屋の話をしながら歩いた。私が中学生の頃、少しは女らしい事でもしようと思って手芸に手を出していた時のこと。みさおは例によって私の不器用振りを思い出して笑った。あやのは例によってほんわかと微笑みながらそんな私のフォローをした。
「最近は、駅前の商店街もシャッターが降りてることが多いよね」
「そうよね。お父さんも商工会に顔出したりするけど、どこもいっぱいいっぱいだって云ってたわよ」
「そりゃそうだよな。食いもんなんてスーパー行くし、小物だってでっかい専門店にまず当たるもんな。駅前のちっちゃい店舗なんてあてにしないっつーか」
 かく云う私も、気晴らしに手芸をしようと思って買い物に行ったのは、糟日部駅前のミズサワヤなのだった。
「あのお店やってた小母さんはどうしたの? あやのは最近まで常連だったのよね?」
「うん、お店たたんで東京の娘さん一家と暮らすんだって云ってた」
「そっかぁ、不義利してて云えたことじゃないけど、なんだか寂しいわね」
「覚えてっか? 八百屋のこういちのとこも、店継ぐはずだった長男がIT企業だかに就職したとかで、潰すの潰さないのでもめてるらしいぞ」
「あー、いたいた。あの丸刈りの。そっか、あんた野球部で仲良かったもんね」
 ――変わっていくんだな、と思う。
 子供の頃、まだ何も知らずに近所を走り回っていた頃は、この街は大きくて、何もかもしっかりしていて、色んな物がずっと変わらずにそこにあるのだと思っていたけれど。大人になって改めて見てみると、なんてもろくて移ろいやすいものなのだろうと思う。
 この、人の世というものは。ほんのちょっとしたことで壊れてしまい、そうしてもう二度と元には戻らないのだ。
 みさおとあやのだって、そしてあやのの恋人であるみさおの兄だって、きっとそういったすれ違いの可能性を何度も乗り越えて、今もあの頃と変わらないように見える関係を築いているのだろう。
 けれどきっと、私には見えないところで、三人は子供だったあの頃とは少しずつ違っているはずだった。
 一度大人になってしまえば、男と女の違いを識ってしまえば、あの頃みたいな無邪気な関係なんて決して築けやしないのだから。
 そう、私とこなたの関係のように。

 住宅街の外れで、手を振ってみさおと別れた。飼っている犬が、キャンキャンと吠えながら尻尾を振ってみさおに飛びかかっていた。あの犬も昔と変わらない。けれどもう、寿命も近いはずだった。
 用水路沿いを、あやのと歩いていた。
 さやかな水の流れはちろちろと澄んだ音を立てていて、空を写した水面には小魚の銀色の背が光って揺れている。夏の盛りには色々な草花で萌え芽吹く土手道も、今は枯色に染まっていた。
 その小川の向こうには、鬱蒼と茂った森林が見えている。そこが私たちの住む鷹宮神社を取り囲む鎮守の森だった。子供のころ、つかさと一緒に探検気分で迷い込んでからは一度も足を踏み入れたことがない、天孫降臨の神代から続いている――と、云われている――曰くつきの森だった。
 かさりと私が枯れ草を踏んだとき、あやのがおもむろに口を開いて云った。
「かがみちゃん、さっき変なこと考えたでしょう?」
 目を細めておっとりと笑うあやのの表情は、私に放課後の教室を別の意味で凍りつかせたときのことを思わせた。
「な、なによ変なことって。全然わかんないわね」
「……そう? ならいいけど」
「……目が笑ってないわよ」
「あら、失敗失敗」
 にっこりと笑うあやのは本当に楽しそうで、私は改めてこの子に対する認識を新たにするのだった。
「かがみちゃんが何を考えたかはわからないけど。あの人のことは本当に大好きよ。女としてね」
「……ずるいわね」
 嫣然と微笑んで、あやのは頬を桜色に染めた。私はそんなあやのにどぎまぎしてしまって、自らの業の深さを呪いながら視線を逸らして嘯いた。
「ずるい? どうして?」
「女として、なんて云われたらね。私たちのグループであんたに対抗できるやつなんていないわよ」
「変なこと云うのね。対抗とか、そういう事じゃないでしょう? 私はみんなのこと大好きよ。それぞれ色んな物を背負ってて、頑張ってるじゃない。泉ちゃんだって、普段見せてる通りの子じゃないんでしょ?」
 用水路を渡る風は、冬の冷気を孕んで身を切り裂くように吹いている。私のツインテールが、あやのの彼氏が好きな長さに切りそろえられた髪が、風に踊る。慌ててマフラーを引き上げて顎を覆うようにしても、全身に感じる寒気は中々ぬぐえなかった。
「――でもね。私にとってはみさちゃんはどうしても特別なの。みさちゃんは私にとって太陽で、ヒーローで、心の拠り所だから。好きとか嫌いとか、女としてとか恋人としてとか、そんなことじゃなくって、私はみさちゃんがいないと生きていけないんだ」
「――わかるよ」
「うん。かがみちゃんならわかってくれると思ってた。本当は、大学も一緒がよかった。……でも、それは駄目だよね」
 用水路を渡ると、あやのの家はすぐそこだ。

 ――結局、片足を踏み込んでしまった。

 別れ際に見せたあやのの笑顔は、どこかそれまでのものとは違っていて、何かの重荷を下ろしたようにさっぱりとした印象を受けた。
 あやのは恐らく同性愛者でもなければ両性愛者でもない。それでも、いや、それだからこそ、あんな風にみさおのことを愛せるのかもしれない。そんなことを考えた。

 ならば、その感情はきっとどこまでもきれいだ。

 鬱蒼と生い茂る、迷宮のような鎮守の森を見渡しながらそんなことを思って。
 私は、自分がこなたに対してもっている感情が、酷く汚れているように感じていた。

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  • 読みました!やっぱり最高 -- 名無しさん (2008-05-27 17:16:47)
  • 待っていました。 -- 名無しさん (2008-05-26 12:24:56)
  • 久しぶり!そして乙!! -- 名無しさん (2008-05-26 07:33:12)

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