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こなた

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Beautiful World 5章/かがみとこなたより続く
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

§12

 ――かがみは、自転車を買った。
 別に最新型の格好いい奴じゃない。かと云って凄くださいってわけじゃない。
 普通に荷台がついていて、普通にU字ハンドルで、少しだけタイヤが大きめの、どこにでもあるようなごく普通の自転車だ。けれど買ったばかりの自転車は新しくて綺麗でまっさらで。
 それはまるで、わたしたちの未来みたいに思えた。
 どこにでもある街を、どこにでもある自転車に二人乗りして走っていく。わたしはかがみの背中にぴったりと寄り添いながら、この自転車みたいにどこにでもあるような恋人同士になりたいって思う。
 そう、始まったばかりのわたしたちの新しい関係は、ありふれていて日常的で、そうしてまっさらでピカピカだ。
「――くっつきすぎ」
「いいじゃん、くっついてないと危ないよ」
 振り返りもせずそう云ったかがみに、わたしはくふふと笑いながら軽口を返す。
「だから、そもそも二人乗りは道交法違反だし危ないって云っただろ。どうしても乗りたいって云ったのは誰だよ」
「えー、だってほら。自転車でイベントシーンって云ったら二人乗りがデフォでしょ。夕陽が差し込む土手道を二人乗りなんて、定番シチュだよ?」
「今はまだ夕方じゃないし、ここは土手道でもねぇ」
「ちなみに胸は当てている!」
「……あ、ごめん、気づかなかったわ」
 しれっとそんなことを云ったかがみが憎たらしくて、垂れていたツインテールをハンドルみたいに引っ張ったら、割と本気で怒られた。
 自転車を買ったブレーメン通り商店街から裏道に入り、線路を左手に見ながら進んでいく。高架下の道を渡って反対側にでたときに、丁度通った電車が頭の上でガタンゴトンとやかましい音を立てていた。
 ――差し込んでくる、お昼前の強い陽射しが目に眩しい。
 目の前にある背中の陰に顔をひっこめると、逆光になったかがみの身体の輪郭が後光みたいに淡くぽわぽわと光っていた。サマーセータの毛糸も首筋の産毛も黄金色に揺れていて、なんだかかがみが天使か女神さまみたいに思えてくる。ビックリマンだったらきっとキラカードなんだろうな、なんて変なことを考えた。
「――そいえばさ」
「んー?」
「なんであの商店街が、ブレーメン通りっていうか知ってる?」
「ドイツのブレーメン市と提携してるからじゃないの?」
 せっかくみゆきから仕入れた知識を披露しようと思ったのに、あっさりと答えられてがっかりした。
「……知ってたんだ……」
「ふふ、こないだ私もみゆきに教わったのよ。『ブレーメン音楽隊』の像は来るとき見た?」
「えー、なにそれっ、そんなの見てないよ! どういうの? 萌える?」
「萌えるかっ! まあそんな大したもんじゃないけど、次きたときにでも見といたら?」
「――うん」
 わたしは、そんななんてことないかがみの言葉になぜだか胸がいっぱいになってしまって、小さな声でようやくうなずいた。
 かがみが、わたしがまたすぐここにきて当然だって思っていることが嬉しかった。
 ここがわたしの街じゃなくて、かがみを一人だけ残して帰らないといけないことが悲しかった。
 嬉しいけど悲しくて、わたしは一層強くかがみの身体を抱きしめる。顔を横に向けながらぴったりと張りつくと、視界の中でかがみのツインテールが風になびいて流れていた。ふわふわと上下に揺れるその髪先を、わたしは意味もなくじっと眺めていた。通り過ぎていく電信柱。何の変哲もない民家。がらんとしたガソリンスタンド。自転車が追い越していった通行人の小父さんが、不思議そうな目でこっちの方を見ていた。
 ――わたしたちの関係を、なんだと思っただろう。
 年が近い姉妹? 仲が良すぎる友達? それとも――恋人?
 気になった。
 気にしないといけないと思った。
 かがみは、どこまでもソレと戦うつもりらしい。昨日の丹野さんに見せた態度、お父さんや小父さんたちへの告白。どこまでもきっぱりとまっすぐ前向きに、『女同士で何が悪い』って臆することなく云いきった。
 それはかがみらしく誠実で、そうしてかがみらしく不器用なやり方だってわたしは思う。ずっと他人と違うことを怖がって、周りに合わせるように演技してきたわたしには、きっとできないやり方だ。そういえばかがみは中学の頃からそうだったって、あやのんも昨日云ってたっけ。
 ――二人乗りの自転車は、揺らぎもしないで進んでいく。
 わたしの小さな身体なんて、きっとかがみにとっては軽いものなんだろう。直線の広い大通りを、自転車はただ真っ直ぐに突き進んでいく。なんだか普段以上に広く感じるかがみの背中で、その筋肉が力強く動いている。
 いつのまにか、かがみのことを頼もしく感じるようになっていた。前からかがみは真面目でまっすぐで綺麗だったけれど、去年まではその分どこかもろいように感じていた。それはわたしに弄られるとすぐに照れてしまうっていうことだけじゃない。かがみは堅くて真面目な分融通が利かなくて、ちょっとした刺激でぽきっと折れてしまうんじゃないかってわたしは思っていた。
 でも、今のかがみは太くて力強い。それは昨日丹野さんにしたみたいにたまに勇み足をしたりもするけれど、でもちゃんと修正できるのは、かがみの根っ子がどっしりと揺るぎないからなんだろう。
 そう、つかさが竹ならば、今のかがみは空に聳える大樹だ。
 この一年でかがみっていう樹は太陽に向けてぐんぐんと成長し、そうして色んな方向に梢を広げて葉を茂らせる成樹になった。
 わたしは知っている。
 なんでかがみがそんなに急に大人にならなければいけなかったのか、それをわたしは知っている。
 ――わたしが、ずっとかがみに酷いことをしてきたせいだ。
「……こなた?」
「ん、なに?」
「くっつきすぎ」
「……くっつきたい気分なんだよ」
「――あ、そう」
 かがみはなんでもないように云ったけれど、後ろから見ても耳が真っ赤に染まっていた。わたしはそれが嬉しくて楽しくて、かがみの背中に顔を埋めながらくっくって笑った。
 自分がレズビアンだと気づかなかったなんて、云い訳にもならない。
 恋っていうのがどういうのか知らなかったなんて、理由にもならない。
 わたしは、かがみの想いを弄んだみたいなものだった。この一年、わたしはずっとかがみを振り回してきたんだ。
 夏には一人で空回りして酷い言葉をなげかけて、秋には無理矢理わたしの家の人間関係に引きずり込んで、冬には期待させるだけ期待させて投げ出した。
 見捨てられても仕方がないと思う。嫌われても当たり前だと思う。
 ――それなのに、かがみはあの日一瞬たりとも迷わなかった。
 桜の下で、あの日。
『つき合おう』って、まっすぐわたしの目を見て云ってくれたんだ。
「――こなた」
 矢神川を渡る橋の上で、かがみは唐突に自転車を止めてわたしの名前を呼んだ。
「ふぇ、どったの?」
「疲れた。交替」
「――へ?」
「いや、疲れたから。あんたが運転してよ」
「……まだ五分くらいしか運転してないよね?」
「悪かったわね、受験勉強で運動不足なのよ! ってかあんた私より体力あるんだからあんたが運転しなさいよ」
 わたしだって受験勉強頑張ってきたんだけどとか、もう合格発表されてから随分経ってるじゃんとか、そもそもわたしの自転車じゃないんだしとか、そんな反論の言葉は口にすることができなかった。自転車から降りたかがみに有無を云わさぬ感じで前に押されてしまったから、仕方なくわたしは高さを調節してからサドルの上にまたがった。
 ――暖かい。
 お尻に返ってくるその暖かさに赤面していると、背中全体がその温もりに包まれた。
「――かがみ?」
「ん、なぁに?」
 その嬉しそうな口調に、かがみが結局何をしたかったのかって、やっとわたしは気がついた。
「くっつきすぎ」
「そうしないと危ないし、当ててるし、くっつきたい気分なのよ」
「――当ててるって、ぽっこりお腹を?」
「――んなっ!?」
 口を開いて怒鳴ろうとしたところで、笑いながら勢いよくペダルを踏み込んで走り出す。かがみは小さく悲鳴を飲み込んで、ぎゅっとわたしの腰にしがみつく。
 要するにかがみは交替したかった。結局のところただそれだけ。
 かがみの背中にしがみついているのも嬉しかったけれど、かがみにしがみつかれているのも同じくらい嬉しい。
 目の前はどこまでも視界が開けていて、なんだかんだでかがみの身体は結構軽いから。そんなかがみを背負って運転することくらい、わたしにだって簡単にできるんだ。
 それは多分、かがみみたいに真っ直ぐな走り方じゃない。かがみみたいに頼もしい背中じゃないし、かがみみたいに揺るぎない信念だって持ってない。
 だからわたしにはハンドルを少しも揺らさない力強い運転はできないけれど、それでも持ち前の運動神経で上手くバランスを取って、倒れることなく目的地まで進んでいけるんだ。
 ――少しくらい、寄り道するかもしれないけれど。
「このまま真っ直ぐでいいんだよね?」
「うん」
 かがみが疲れたら、わたしがこうやって代わってあげられる。わたしが寄り道しそうになったら、きっとかがみが怒って前を向かせてくれる。
 そんな風にまるっきり対等の関係になれるのは、わたしたちが女の子同士だからなのかもしれないって思う。もしどっちかが男だったら、運転代わってとか、お金貸してとか、宿題見せてとか、気軽に云えなかった気がする。
 そう考えると、わたしたちは多分、凄くぴったりの二人なんじゃないかなって思うんだ。昨日かがみの部屋にくるまでは、一体これからどういう関係になればいいのかまるでわからなかったけれど。かがみの顔をみて、かがみの笑顔にいつもの軽口を云ってみたら、それだけでもういつも通りのわたしたちになれた。まるで百年前からこういう関係だったみたいに、自然な笑顔がこぼれ落ちてきたんだ。
 ――女の子同士だから不自然だなんて、誰にも云われたくはない。
 だって、わたしとかがみに関しては、こんな関係が一番自然なんだから。
「――あ、もしかしてこれ?」
「そうよ。これから二年間、ここに通うの」
 いつのまにか道の左側にせり上がっていた石壁が、途切れることなく続いていた。壁の向こうに植わった桜並木が、緑とピンクのモザイク模様になりながら車道に花びらを投げかけている。その向こうに背の高い大きな建物が何棟も聳えているのが、ここからも見えていた。
 慶央義塾大学日良キャンパス。
 ここが、これからかがみが通うことになるキャンパスだ。
「おっきいねー」
「日本中からここに集まってくるんだもの。そりゃ大きいわよ」
 嬉しそうにそう云ったかがみは、隠そうとしていたけれど得意満面って顔をしていて、そんなかがみは凄く可愛らしかった。本当に難しい大学に合格したんだから、かがみはもっともっと得意になったっていいはずなんだ。
 でもわたしは、あえて意地悪なことを云う。
「――二年間じゃすまなかったりして」
「ちょっ、おまっ、不吉なこと云うなよ!」
 単位が取れなくて一般教養がメインの日良キャンパスにいつまでも留まっていることを、慶央では“在日”って云うんだって、昨日かがみが他人事みたいに話していた。せっかく美味しいネタをもらったんだから、こういうところで使わないと勿体ない。
 いつも通り、慌てたかがみが無駄に男らしい口調で突っ込んで、でもわたしはのらりくらりとかわしていって。
 こんな掛け合いを、一生続けていけるんじゃないかなんて気さえする。見に行った映画が酷くつまらなくても、遊びに行った先がびっくりするくらい混んでても、それをネタにしてかがみと笑い合うだけで、きっとどんなことでも楽しい思い出に変わるはずだった。
 ――これまでの、三年間みたいに。
 改めて考えると、信じられない思いがする。こんなになにもかもわたしとぴったりなかがみと出会えたことが、奇跡みたいに思えてくる。
 ――あの日。
 太宮駅前の雑踏の中、外国人に話しかけられて困っていた女の子を見つけたとき。
 普通だったらそんなのはスルーするはずなのに、どうしてわたしはそのときに限って声を掛けたんだろう。
 他人となるべく関わらないように、もう二度とあんなことにならないように、慎重に目立たないようにひっそりと生きていこうって、心に決めたばかりだったはずなのに。
 うなだれている黄色いリボンが持ち主の感情を表しているみたいで面白かったからなのか。わからないなら無視して通り過ぎればいいのに、真剣に相手の話を理解しようとしていた女の子の誠実さに報いたかったからなのか。視線だけなげかけて、何も見なかったかのように通り過ぎていく大人たちに腹が立ったからなのか。
 ――それはわからない。
 わからないけれど。
 でも、そのときわたしはつかさに声を掛けて、そうしてその結果かがみとここにいる。
 もしこれまでの歯車が一つでも噛み合っていなかったら、今頃わたしは一人きりで暗い高校生活を過ごしたあと、未来になんの望みも見つけられないままひきこもっていたかもしれないんだ。そう思うと、運命なんて言葉さえ信じられるような気がしてくるのが不思議だった。
 もし、わたしがこんな性向じゃなかったら。
 もし、わたしのお母さんが小さい頃に死んじゃってなかったら。
 もし、三年前のクリスマスのできごとがなかったら。
 わたしは、かがみとこんな関係になれなかったはずだった。例えかがみやつかさやみゆきと出会えて楽しい三年間を過ごせたとしても、今頃当たり前のように離ればなれになっていて、“仕方ない、こんなもんだよ”って自分に云い聞かせながら履修予定表とにらめっこしていたかもしれない。そう思うと、今までわたしの上を通り過ぎていった全ての出来事を、全部許せる気持ちになってくる。
 ――でも。
 今でも思い出すと、胸が張り裂けそうに痛むんだ。
 あのクリスマスが過ぎ三学期が始まって、教室で顔を合わせたときの彼女の顔。顔を合わせようともしなかった彼の後ろ姿。
 その放課後。
 二人だけになった教室。
 沈みかけた夕陽が、あの日彼が流した血みたいに赤かった。
 普段は勝ち気そうにつり上がっていたあの子のぶっとい眉が、見たことがない角度に垂れ下がっていて。
『――最低』
 わたしにそう云った。
 吐き捨てるような口調。嫌悪と批難と軽蔑に満ちたその言葉に押えつけられて、わたしは頭を上げることができなかった。
 ――初恋だった。
 今、あの頃のことを思い出してみればそれがよくわかる。わたしはずっとあの子に恋をしていた。
 何か面白いことを云うときにくるっと目を回す癖。つり上がったぶっとい眉と対照的に垂れがちな大きな瞳。髪は少しだけ天パー気味で、どうしても前髪の形が決まらないっていつだって気にしてた。そんなところも、全部好ましいって思っていた。
 活動的で、行動力があって、でも少し皮肉屋なところもあって。周りに誰も人がいないときにするアンニュイな表情が、ともすれば面白顔になりそうなパーツを、びっくりするほど魅力的なものに変えていた。
 ――好きだった。
 彼女のことが好きだった。
 それは過去形の感情だって、今かがみの隣にいるわたしは断言することができるけど。それでも彼女とのことを、わたし自身が彼女を傷つけてしまったということを、かがみに出会うための仕方がない犠牲だとは思いたくなかった。
「――こなた?」
 優しい声。凜としたその声が伝わるだけで、周囲の空気が甘い匂いを放ち出したように思うくらい。あの子とは全然違うその声は、いつだってわたしを落ち着かせてくれるから。恋人といるときに他の人のことを考えるのはいけないことだって、わたしは思った。
「ん、ごめん、なんでもないよ」
「――そう?」
「うん……あ! あれが噂の銀魂でしょ!?」
 わざとらしくそう云って、わたしは駅前にあるでっかい銀色の玉に向かって駆けだした。直径二,三メートルはありそうな銀色をした大きな球体が、日良駅のど真ん中に置かれている。現代彫刻だかなんだかわからないけれど、それがこの駅のシンボルだってかがみは云っていた。
 人通りも多くなってきたから、二人乗りはもうやめている。かがみは自転車を押しながら、ゆっくりとわたしの後を追いかけてくる。
「ぎんたまな、ぎんたま。なんか今のあんたの云い方は漢字が違う気がするわ……」
「んふー。やっぱりかがみんとしては銀時×土方の王道カプが一押しかね?」
「んなっ、なんか今危険なことを聞かれている気がする!」
「――危険だってわかる時点でもう片足踏み込んでいるのだよ、かがみんや」
 ぷくくと笑いながら、わたしは口元に手を当ててぎんたまの表面を覗き込む。ぴかぴか光る玉の表面に写り込んだわたしたちは魚眼レンズで撮られたように歪んでいて、まるで押井アニメの中に紛れ込んだような気持ちになってくる。
「だから、遅すぎたと云っているんだ!」
「ネタがわかんねーよ」
 せっかく後藤隊長の名シーンを再現してみせたのに、かがみはパトレイバーを見てないみたいだった。

 駅前から続く長い銀杏並木を、自転車を押すかがみと一緒に歩いていく。フランスかどこかの絵画みたいに整然と並んだ銀杏の木は、青々とした葉を梢に茂らせながら垂直に聳え立っている。秋になったらすごい綺麗な黄金色に輝くんだろうなって思うと、その頃に訪れるのが楽しみだ。
 もうここは大学の敷地内なんだって、かがみが教えてくれた。
「なんか、簡単に入れるんだね?」
「そりゃね。地域に開かれた大学を目指してるみたいだし。講義はなくても研究室やら運動部は活動中なんでしょ」
 云ってるそばから筋骨隆々とした柔道部員が掛け声を掛けながら通り過ぎていって、正直ちょっと怖かった。
 大学なのに不思議な感じがするけれど、老若男女沢山の人がいる。塾生だってきっとストレートで通った人ばかりじゃないだろうし、教授とか院生とか色々な人がいるんだろう。開かれていて、ごちゃごちゃで、なのにどこか活気があって。大学は、高校の雰囲気とは全然まるで違っていた。
 かがみと一緒に、大学の中を見て回る。
 いかめしい顔の福澤さん。夜になったらライトアップされるっていう第四校舎。歴史がありそうな記念館。敷地内でみつかったっていう弥生式住居跡。
 かがみが第一校舎って呼んだ建物は、前面のテラスにローマ建築みたいな円柱が立っていて古めかしい感じがした。戦前からあるその建物は今は慶央高等部の校舎らしくて、私たちが通ったときにも、何の用事があるのか制服姿の女子高生達が座りこみながら話していた。そんな光景をみるとなんだか安心してしまうのは、わたしがまだ高校生気分のままだってことなんだろう。
 記念館の裏手はこんもりと茂った雑木林になっていて、そこはマムシ谷って呼ばれる場所らしい。テラスから森を眺めるだけでも絶景で、コナラやクヌギ、イヌシデなんかの広葉樹が春の陽射しを求めて我先にと葉先を広げていた。森の中にはテニスコートとかグラウンドとかが点在していて、なんだかむやみに爽やかで健康そうな雰囲気を漂わせていた。
 テラスの先から森の中に入れる小道が下りていて、わたしはかがみと手を繋ぎながらその道を通っていった。林床にはササだけじゃなくて、サラシナショウマやムラサキシキブが生えている。こんなにササがはびこってないってことは、多分それなりに手入れがされているんだろう。森の木々は生き生きとしていたけれど、かと云って陽射しを完全に遮るほど密生しているわけじゃない。緑色の優しげな陽射しが差し込んでいて、なんだか心の底からほっとする。
「そういえば、私も見たことないんだけど、奥の方に旧海軍の地下司令部があるんだって聞いたわよ。やっぱり歴史がある建物は違うわよね。申し込めば見学できるみたいだから、今度一緒に見に行かない?」
「おおお、何それ行く行く! 地下司令部ってなんか超ワクワクする語感だよね~。やっぱり秘密兵器とか埋まってたりするのかな? 巨大な諭吉ロボとかさ?」
「埋まってねーよ。どんだけ調査されてきたと思ってるのよ。ってか諭吉ロボとか強いのか?」
「天は人の上に人を造らず、我諭吉こそは人の上に立つ存在なり! なんつって街を破壊するのだ!」
「諭吉ロボ悪役かよ! 創始者に失礼すぎるだろっ!」
 笑ってコブシを振り上げるかがみから、わたしは歓声を上げながら逃げだした。木漏れ日がさらさらとこぼれ落ちてきて、わたしの、そうしてかがみの身体の上を滑っていく。森の中追い駆けっこしていくわたしたちをはやし立てるように、チュンチュンと梢で鳥が啼いていた。
「――あ」
 その声に頭上を見上げたかがみが、ふと立ち止まって声を上げた。
「どったの?」
「啼いてるのね、ツグミ」
「……ツグミ?」
「うん。渡り鳥なんだけど、国内じゃほとんど啼かないのよね。春になって、北国に戻る直前だけ啼くの」
 しみじみとそう云って、かがみは満ち足りたような表情でうっすらと笑った。よくはわからないけれど、かがみの中ではツグミが啼いているのが重要なことらしい。
 訊こうかとも思ったけれど、訊かない方がいいような気もしていた。だからわたしはよくわからないなりにかがみの腕に抱きついて、ぷっくりとと盛り上がる目尻の涙を見上げていたんだ。
「――綺麗な声だね」
「……うん。本当に綺麗」
 ツグミの合唱の中こぼれ落ちたかがみの涙を、わたしは見なかったことにした。

 森から道を登っていった小高い丘は『嵐が丘』って云うらしい。
「別にキャサリンもヒースクリフもいないけどね」
 かがみはそんなことを云ったけれど、わたしには何のことだかわからない。
「……わかんないよ」
 わたしが口を尖らせると、かがみはニヤッと意地悪い顔で笑った。
 どうやら後藤隊長の復讐をしたつもりらしい。昔の海外小説で『嵐が丘』っていう名前の本があるんだって、かがみは教えてくれた。ラノベですら眠くなるわたしがそんなの読めるとは思えないけれど、かがみがもっとアニメとか観てくれるなら、試してみてもいいかなって思う。
 でもわたしがそう云ったら、「結構厚いわよ」なんてかがみは云ったから、とりあえずもうちょっと薄い物から試してみたいと思った。
 慶央の『嵐が丘』には、かがみが説明してくれたような人生を賭けた激しい愛憎なんて欠片もなく、天辺にあるグラウンドでムキムキのラガーメンが砂まみれになりながらアメフトの試合をしていた。
『セット!』『ハーット!』なんて掛け声が小さく聞こえてくるけれど、別にボールを投げる人はマシンガンなんてもってないし、前を走る人も光より速かったりしていない。アイシルと違って現実のアメフトは泥臭くて汗臭そうで、なにより凄く痛そうだった。
 そんなちっともロマンチックじゃない光景を見下ろしながら、かがみと二人座りこんで話していた。
 どんな本読んだらいいのかとか、どんなアニメ見て欲しいだとか、やっぱりネトゲやろうよとか、休日はどんなとこ遊びに行こうかとか、そんな色んなことを、芝生に座りながらわたしたちは話した。
 風は穏やかで暖かく、“嵐が丘”なんていうほど強くは吹いていない。いつのまにか午後ももう随分遅くなっていて、差し込む陽射しには夕暮れの気配が忍び寄っていた。
 ルールはわからないなりにアメフトは見ていると面白くて、誰かが倒される度にわたしたちは手を叩いて応援した。そのうちちらちらとこっちに視線を向ける人が増えてきて、その頃からだんだん試合が白熱していったような気がする。
「――あれ、かがみの方みてるんだよ」
 ニシシと笑いながらかがみの脇腹をつっつくと、かがみは慌てたような顔をしながらも、満更でもなさそうにほっぺを赤く染め上げた。
 ――自分で云っておいて、理不尽なことだと思う。
 それでもわたしはなんだか面白くなかった。かがみがモテるのは嬉しいけど、それでかがみが喜ぶのは嬉しくない。だからわたしは普通の友達同士くらいに離れていた距離を縮めて、かがみの横にべったりとくっついた。
「ちょっ、あんまくっつくなって……」
「いいじゃん、見せつけてやろうよ。わたしたちが恋人同士なんだってさ」
 ちょこんと逃げようとしたかがみの腰を追いかけて、わたしもちょこんと腰を動かした。
「いやよ。女同士っていうの別にしても、あんまり人前でいちゃいちゃしたくないんだって。なんかみっともないじゃないの」
「自転車乗ってたときはあんなにベタベタしてたのに?」
「あれはいちゃいちゃしてたんじゃないわよ。ただの二人乗りだもん」
 ちょこん。かがみが逃げる。
 ちょこん。わたしは追いかける。
「森の中で抱きついたのは?」
「あれは、ツグミしか見てなかったじゃない」
「丹野さんに見られたときはどうなのさ」
「それこそ不可抗力じゃないの!」
 ちょこん。
 ちょこん。
 ちょこん。
 ちょこん。
 結構真面目な話をしていた気がするけれど、いつのまにかわたしたちは笑っている。なんだかんだで中腰で立ったり座ったりするのは結構きつい運動で、わたしもかがみも息を切らせながら笑っている。
 しまいには笑いながらじゃれ合ってるだけみたいになったころ、かがみは丘に植わっていたクスノキの横においつめられて、ついにそれ以上逃げられなくなってしまった。それでもかがみは半分笑いながら、目にはきっぱりと意志を残していたから。わたしはそれ以上くっつくのを諦めて、すとんと腰を下ろすとかがみに云った。
「わかったよかがみ。人前ではあんまりいちゃいちゃしない。でもそれって別に女同士なのを隠したいわけじゃなくて、ただかがみが人前ではちゃんとしていたいから。それでいいんだよね」
「わかればよろしい!」
 冗談っぽくつんと顔を逸らしたかがみの、そのすっきりした顎の形をぼんやりと眺めていた。
 人前でべたべたくっつくなって云われたのは、やっぱり少し残念だった。不意打ちでいきなり抱きついて、慌てるかがみを眺めること。高校時代によくやったあの遊びをもうできないってことは、少しだけ寂しい。
 でも、あんな遊びも本当にはそういうつもりじゃなかったからできたことなんだ。不意のスキンシップに顔を真っ赤にして慌てることも、そんなかがみを見て楽しむことも、きっと無邪気な友達同士だからできたこと。本当に恋人になったわたしたちがそんなことをしたら、仲の良さを周りに見せつけようっていう、凄く嫌らしい行為になってしまうだろう。やってることは同じでも、それがきっとかがみにとっては我慢できないことなんだ。
 ――だから。
 わたしは心の中でそこに境界線を引いた。
 身体一人分くらい開いた距離。
 それが、人前で護らないといけない、かがみとわたしの境界線。
 昨夜に続いてわたしたちの間に引かれた、それが二本目の境界線だった。
「――あ、でも、手を繋ぐくらいなら……いいわよね?」
「あれ? そなの?」
「う、うん……。だって、つかさともよくそうしてたし……」
「それはそれであんまない気がするけど……」
「いいの! 私たちはそうだったんだから!」
「……要するに、かがみの中で自分に云い訳できればいいんだよね? 自転車乗るときみたいにさ」
「云い訳って云うな!」
 そう云ってそっぽを向いたかがみに、わたしは苦笑する。
 本当にかがみってば困った性格してるなって思う。
 真面目で堅っくるしくて理屈屋の癖に、妙なところで甘くって。下手に論理的な頭を持ってるから自分に上手く云い訳できちゃって、結局ダイエットだって続かない。
 でも、そんなかがみはどうしようもなく可愛いらしい。
 だから、そっぽを向きながらわざとらしく投げ出していたかがみの手を、わたしはそっと握ったのだった。
 かがみがぐっとその手を握り返してきたそのとき、グラウンドの方からわっと歓声が上がった。
 慌てて視線をそっちに向けると、正に二本のポールの間にあるゴールに楕円形のラグビーボールが吸い込まれていくところで、どうやらわたしたちが無意味に応援していたほうが勝ったらしかった。全然見ていなかったし正直どうでもよかったけれど、ラガーメンたちが期待に満ちた眼差しでこっちのほうを見てたから。
 わたしもかがみも、わざとらしく手を叩いて喜んだ。

§13

 ――その帰り道。
 わたしは、昨夜わたしたちが引いた一本目の境界線のことを思い出していた。

   *

 つかさのメールに起こされたわたしたちは、かわりばんこに歯を磨いてかがみのベッドに潜り込んだ。
 灯りの消された部屋に差し込むのは、濡れたような月明かり。
 闇の中にかがみの顔だけがほの青く輝いていて、まるで目の前のかがみがわたしが知っているかがみじゃないみたいな気持ちになってくる。それはかがみの形をしているけれど、本当はかがみじゃない誰か。ずっと子供の頃、まだわたしがお父さんと一緒に寝ていたとき、ふと目を醒ました夜中にお父さんを見つめてこんな気持ちになることがよくあった。そんなことをわたしは思い出していた。
 さっきまではあんなに眠かったのに、改めてかがみと向き合っていると、なんだか全然眠くならなかった。それはかがみも一緒みたいで、わたしたちは二人で枕を並べながら色んなことを話し合っていった。
 かがみは、わたしがバイトを続けることを許してくれた。
 やっぱりかがみとしてはあんまり嬉しいことじゃないみたいで、眉が嫌そうにしかめられたことをわたしは見逃したりはしなかった。でもわたしにとってあのバイトが結構大切なものだって、かがみはちゃんとわかってくれていた。反対したいっていう気持ちより、こうして続けていいかどうかを相談してくれたことが嬉しい。そう云って、かがみは困ったように笑ったんだ。
 ――わかってるなら、今度からわたしにも相談してよ。
 一人でおばさんたちに云っちゃったことを持ち出して釘を刺すと、かがみはちっちゃくなって謝った。
 ――こういうの、ピロートークっていうのかな。
 いつの間にかこれって決まった話題じゃなく、頭の中に思い浮かぶことをお互いにだらだらと云い合うようになっていた。別に飽きちゃったら寝てもいい。オチなんて特になくてもいい。そんな適当な会話がなんだか凄く楽しかった。
「――そう。あやのがそんなこと云ってたのねー」
「うん、なんかわたしも考えちゃってねー」
 電車の中であやのんが云った告白を、わたしはかがみにも話した。
 多分そういう悩みにちゃんと答えられるのは、わたしじゃなくてかがみなんだろうって思ったから。何が何だかわからなくてうろうろと彷徨っていたわたしと違って、かがみは恋と友情の違いについて明確な答えを持っているはずだった。
「そんなの、私だってわかんないわよー」
 なのに、かがみから返ってきた返事はそんなあっさりしたものだった。くあ、と手で隠しながらあくびをかみ殺したところをみると、もう結構眠くなっているのかもしれない。
「え? あれ? そなんだ?」
「そうよ。あんただって怒ったり笑ったり悲しかったりする感情のことを説明なんてできないでしょ?」
「そ、そだけどさ。ほらなんてゆーの? 恋と友情の板挟みで長年苦しんできた者としての含蓄のある言葉とかさ? そーゆーのないの?」
 わたしがそう云うと、喋り終わると同時におでこにデコピンが振ってきた。
「ふみゃ、何すんのさー」
「誰のせいだと思ってんだ誰の」
「かがみがわたしのこと好きなのはわたしのせいじゃないじゃん」
 我ながら凄いことを云ってるなって思って、ちょっとだけ顔が熱くなる。身もだえしそうな感情を、ぱたぱたと足を動かすことでわたしはなんとか逃がしていた。なのにかがみはちっとも照れた様子もなくって、変にだらけた笑顔を浮かべながらこう云った。
「いーや、あんたのせいですー。あんたがあんな風に私のことを受け入れてくれたのがいけないんですぅー」
「ふえ? そなの? そんなことあったっけ?」
「あーあー、そうでしょうとも。どうせあんたには自覚なんてないのよね」
「……むうー」
 かがみが云ってることに思い当たる節がなくて、わたしはうなり声を上げながら口を尖らした。そうしてかがみは、そんなわたしを面白そうな目で眺めているのだった。
 ――これじゃ、普段と逆じゃん。
 かがみにいいように遊ばれてる気がして、なんだか凄く悔しかった。
「……本当は私だけじゃないのよ。私はたまたまバイだったからこんなに好きになっちゃったってだけ」
「……わかんないよ」
 不満な気持ちが、つい口調に出た。口から出てきた低くてちっちゃい自分の声が、拗ねてるみたいで嫌だった。なのにかがみは、あははって声に出して笑うと、そんなわたしの頭を撫でてくれたんだ。
「……あのさ。相談されたこともあるからわかるけど、つかさのぼんやりしてるところとか、みゆきがやたらと発育いいところとか、本人は結構気にしてたりするのよね」
「……そなんだ? うむう……どう考えても萌え要素に見えるんじゃがのー……」
「それよそれ。あんたって、いつだってそういうところ萌えって云って受け入れてくれるじゃない? 欠点だと思ってるところをあんな風に喜んでくれるんだもん。あんたのこと嫌える人なんてそうそういないわよ?」
 ――うわ。
 まさかかがみが真っ正面からわたしのことを褒めてくれるなんて、思いもしなかった。
 どうしよう。どういう顔をしたらいいんだろう。笑えばいいんだろうか。
 こんな風に恥ずかしいことを照れもせず云えるようになったかがみのことを、わたしはどうしようもなくずるいと思った。
 結局どう反応したらいいのかはわからなくて、わたしはかがみの顔を見ながら固まっていた。青白く輝くかがみの顔は、月明かりに照らされてるっていうより、自分から光ってるように見えていた。
「そうね、普段そんなこと云うのあんたしかいないし、あんた云われたことないだろうから私が云ってあげるわよ。ぐうたらで元気でチビでマイペースで、でも本当は優しいオタク少女萌え~よ」
 ――本当だ。
 そんなこと云われたことがなかったのも本当で、云われてみたら凄く嬉しいってことも本当だ。
 確かにそんな言葉は凄く嬉しくて、しかもそれが好きな女の子の口から出た言葉だったら、ますます惚れちゃうっていうものだ。
 でもわたしはそんな自分の気持ちを見透かされたくなくて、顔をうつむかせたままかがみの胸に抱きついた。あくまでも抱きつきたくてしたってわけじゃない。ただかがみに顔を見られたくなかっただけなんだ。
「なにさそれ、そんな長ったらしいキャラ属性ないよ……」
「ふふ、じゃあ短くしてこなた萌えね。あ、ねぇ、今のあんたってこれデレ期なんじゃないの? こなデレよこなデレ。間違いないわ」
 調子にのってわたしの後頭部をなで回すかがみのことが、ちょっとだけ憎たらしい。でも、その鬼の首をとったみたいなはしゃぎ方がなんだか妙に面白くて、わたしはかがみの胸の中でくすくすと笑った。頭の上からも同じようなくすくす笑いが聞こえてきて、それがなんだか幸せで、やっぱりわたしは布団の中で足をぱたぱたさせていた。
 ――でも。
 そのことを考えると、いつだってお腹の底がきゅっとなる。
 胃の下辺りからせり上がってきて、背骨を駆け上って首筋の毛を粟立てるその感覚。何か凄く重要なことを忘れているのに気がついたときの、全身が痺れたようになるその衝撃。
 ――わたしは幸せだけど、きっとかがみはそうじゃない。
 こうやってくっついてじゃれ合っているだけで満足なわたしと違って、かがみはいつだってその先にある感情を我慢しているんだっていう事実がある。わたしの幸せはかがみの我慢の上に成り立っているんだっていう、そんな身も蓋もない罪悪感がいつもわたしの心を寒くする。
「――こなた?」
 優しい声とともに、手にそっとかがみの手が触れられた。気がついたら、かがみのパジャマを思いっきり握りしめていたみたいだった。促されるまま手を開いて、そうして呆然とした思いでわたしはその手を見つめている。かがみの顔は見られない。
「――かがみは、さ」
「うん」
 その言葉を云わないといけないと思ったら、小さな震えが一つ、ぶるるとわたしの身体を走り抜けていった。
 云わない方がいいのかもしれない。
 そのままずっと触れないでいて、曖昧にしたままやっていった方がいいのかもしれない。
 でも、これから先わたしたちがずっと一緒にやっていくのなら、ちゃんと話し合わないといけないって思ったから。さっきのカミングアウトの話みたいに、なあなあにしておいていつか爆発したりしたら、きっと関係が終わってしまうから。
 だからわたしは、その言葉を口にした。
「わたしと、えと……エロゲみたいなこと、したいんだよね?」
 ――ごくり。
 目の前にあるかがみの喉が、変なものを飲み込んだみたいに大きく動いた。
 それっきり、沈黙。
 どんどんと身体が火照っていくのを感じている。かがみの胸の中で、わたしは火がつきそうなほど熱くなっているのを感じている。じっとりと身体が汗ばんできて、汗が流れ落ちていくんじゃないかと心配になるくらいだった。
 普段さんざんエロゲだのギャルゲだのの話はしてきたのに、いざこうして口にしてみると死にたくなるほど恥ずかしい。だって、いつだってわたしは当事者になることを避けてきたから。全部キャラ設定とかフラグとかオタクネタにして誤魔化して、生身で世界と関わることから避けてきた。だからあんな変なことでも色々云えたんだ。
 でも、今わたしが口にしている“エロゲみたいなこと”はモニタの中でも紙の上でもない、実際にわたしの身体の上にこれから起きるかも知れないことなんだ。
「――う、うん」
 かがみの、胸元が赤い。
 その首筋がきらきらと光っていて、もしかして月の雫でもこぼれ落ちてきたのかとわたしは思った。でもそんなレアアイテムが現実にあるわけないって気がついて、やっとわたしはかがみもちょっと汗ばんでるんだって理解した。
「――いいよ……。わたし、かがみだったらいいよ……」
「……え?」
「だから……我慢しなくていいんだよ。かがみがしたいこと、全部わたしにしてもいいんだよ……」
 口に出した途端、今度は急激に汗が引いていく。青くなったり赤くなったり、身体が変に忙しい。口の中がからからで、なんだか変な味がする。ごくりと唾を飲み込もうとするけれど、喉の動かし方を忘れている。
 ――ふと、かがみの身体から力が抜けていった。
 ふにゃっとなって、へなってなって、それが何の合図だかわからなくて怖かった。
「――こなた」
 覚悟はしてたのに、びくりと身体が震えた。
 低い声。
 肝が据わったみたいな、ちょっとだけ怖い声。
 そうしてかがみの身体が離れていく。硬直しているわたしの身体から、そっとかがみの身体が離れていく。もうすっかり引いた汗が冷たくて、わたしは改めて夜の寒さを思い出す。
 何が始まるのか、かがみが何を決めたのか、わたしにはまるでわからない。それでもこれから何かが起きることだけは確実だ。だからわたしはそのまま動かないで目をつぶっていた。衝撃から身を守ろうとするように、ぎゅっと身体の前で腕を抱えて縮こまっていた。
 ――ペチン。
「ぷぇっ!」
 なのにいきなりおでこに鋭い痛みが走って、わたしは思いっきり間抜けな悲鳴をあげてしまったのだった。全然予想していなかった攻撃に飛び上がるほどびっくりして、思わずぱっちりと目を見開いた。
 ――呆れたような、馬鹿にしたようなジト目だ。
 さっきまでの熱に浮かされたような様子はまるでない。普通に宿題見せてって云ったときにするような、“仕方ないなこいつは”っていういつも通りのかがみの顔だった。
 ――ペチン。
 呆然としたままそんなかがみを見ていたら、もう一発おでこにデコピン。それでわたしの身体からもふにゃふにゃと力が抜けていって、自分がどれだけ緊張していたかに気がついた。
「ばーか」
「ふ、ふぇ、な、なんでさぁ?」
 安心感と開放感と、なんでこんな仕打ちを受けてるのかわからない理不尽さがない交ぜになって襲ってくる。そんな感情の嵐の中でわたしはぐちゃぐちゃになっていて、自分でも意味がわからない涙がどんどん目尻に溜まっていくのを感じていた。
 そんなわたしのおでこに自分のおでこをくっつけて、かがみはきっぱりとした口調でこう云った。
「私は今充分あんたとしたいことしてんのよ、このばか。変な気回すなよ」
「だ、だってさっき、エロゲみたいなことしたいって云ったじゃん……」
「あーもー。泣くほど緊張しながら云うセリフかよばか」
 そう云って、かがみは優しく涙を拭ってくれるから。
「ば、ばかって云う方がばかなんだよ……」
 抱きつきながら云ったわたしの強がりは、自分でもびっくりするくらい弱々しいものになってしまうんだ。
 かがみの胸にしがみつきながら、なんとか涙をひっこめようと努力する。そんなわたしの背中をかがみは撫でてくれていて、だからわたしだって泣いてばかりはいられない。
 そうして優しい手つきで触れられる度に、わたしはどうしても思い知らされてしまうんだ。自分が一体なにをしようとしてたのかって、心の底から思い知らされてしまうんだ。
 あのセリフを云った瞬間、わたしは覚悟を決めたつもりでいたけれど。もしかしたらわたしがああ云ったせいで、今ここにいる優しいかがみは影も形もいなくなっていたのかもしれない。かがみは今までわたしが見たこともないかがみになってたかもしれないし、わたしは今までされたことがないことにじっと耐えていたのかもしれない。そう思うと、自分が捨てようとしたものの大きさに改めて愕然とする。
 かがみの胸の中で、やっとわたしは落ち着きを取り戻した。きっとまだ目が赤いだろうと思うと堪らなく恥ずかしい。慈しむように優しいかがみの表情も、今となってはどうしようもなく恥ずかしい。
「……ねぇこなた」
 そんなわたしにかがみは云った。そのどこまでも優しい口調は、やっぱりわたしにとって死ぬほど恥ずかしいものだった。
「……う、うん」
「そりゃ、その、正直あんたとそういうことは、したいわよ……。でもね、あんたがしたくないと思ってたら、一方的にそんなことしても全然意味ないの」
「……そ、そなの? わたしがしていいって云っても?」
「云っててもよ。あんたにはよくわかんないんだろうけど……。その、あんたがされてて喜んでくれてるならこっちも嬉しいけど、そうじゃないなら今一っていうか……ああもう、恥ずかしいだろばかっ!」
「ちょっ、そんなとこでデレないで、ちゃんと云ってよ!」
「だーもう、わかったわよ! 云うわよ! あんたが感じてるって思うとこっちも感じるの! 好きな人が我慢してるのわかってて、一方的に気持ちよくなんかなれるかよ!」
 ぼしゅって音がしそうなほど、一瞬にしてかがみの顔が真っ赤になった。それは何かの病気なんかじゃないかと心配になるくらいの勢いだったけれど、きっとわたしにしても似たり寄ったりの状態なんだろう。
「……そ、そなの?」
「そーなの!」
「で、でもほら、エロゲなんかだとそんな感じじゃないっていうかこう、もう辛抱たまらんって感じでおかまいなしに襲ってるじゃん?」
「エロゲの展開なんて知るかよっ。私は自分のことしか知らないからわかんないけど、男と女で違うんじゃないの?」
「……そ、そういうもの?」
 なんだかよくわからなくて目をぱちくりさせていると、かがみは心底呆れたって感じのため息を吐いた。
「……はぁ……。正直そうじろうさんの教育方針に疑問を感じてきたわよ……。あんたまさか、エロ同人の世界とか本気にしてたんじゃないだろうな」
「えっ、違うのっ!?」
「違うわっ、どこの世界にあんな乱暴にされて感じる女がいるかっ」
「……あれあれ? なんか結構詳しいね?」
 ニマニマと笑いながらそう云うと、慌てたように手で口を覆うかがみだった。語るに落ちるとは、まさにこのことだ。エロ同人なんてそもそも千差万別だし、一般的なイメージで云ってみたってことにすればよかったのに。そんな風に慌ててしまったら、見たことあるって云ってるようなものだった。
 ずっと主導権握られっぱなしだったわたしだけれど、こうなってくるともうこっちのターン。さんざん弄り倒して、夏には一緒にコミケを回るっていう口約束まで取りつけた。
「コスプレもしようね?」
「……はぁ、もうわかったわよ……すればいいんでしょすれば」
「わーい、だからかがみ大好きだよー!」
 わざとらしく抱きつこうとしたら、ぺしっと頭にちょっぷが振ってきた。
「やっすい愛情だなおい」
 って、かがみは呆れたみたいなジト目でわたしを見ながらニヤニヤと笑い出す。
「ぬおっ、なんて失礼な。さっきまでのわたしの献身的な愛情をもう忘れたのかね? 身も心も野獣に捧げる決心をした乙女の悲壮な決意に全米が泣いた!」
「誰が野獣だ誰が!」
 ――そんな、いつも通りのツッコミ。
 いつも通りの空気。
 いつもどおりのわたしたち。
 学校で、わたしん家で、かがみん家で、出かけた先で、何度となく繰りかえしてきた、それはわたしたちのやりとりだ。
 遠い街の新しい部屋、まだかがみの匂いが染みついていない新品のベッドの中で、ついさっきどこか知らないところに落っこちそうになったのに。
 気がついたら、二人で顔を見合わせてくすくすと笑っていた。
 だからこの部屋も、わたしにとって大切な場所の一つになった。ここはもう、どこかの街の知らない部屋じゃない。かがみとの思い出が染みついて、そうしてこれからも沢山のイベントが起きていくはずの、ここはもう、かがみの部屋だった。
 ――なんだか、安心したら急に眠くなってきてしまった。わたしは身体の奥から沸いてきたあくびを隠そうともせずに解放すると、もう寝ちゃおうかと思って目を閉じる。
 ――ふわり。
 体中が、柔らかいもので包まれた。
 もちろん、布団なんかじゃない。布団だったらこんなに暖かくて柔らかくて安心できるはずがない。頭ごと胸の中に抱え込まれるようにして、わたしはぎゅっとかがみに抱きしめられていた。
 さっきまで身体をくっつけてきた行為とは、まるで違う。
 照れ隠しで抱きついたこととも、すがるように泣きついたこととも、ましてや自分が傷ついても構わないと思って身を捧げる行為ともまるで違う。
 自然で。
 想いが籠もっていて。
 お互いの気持ちを大事にした。
 ――それが抱きしめるって云う行為なんだって、やっとわたしは気がついた。
「――こうしてると、あんたも嬉しいのよね?」
「……うん。暖かくて安心できて、凄く嬉しくなるよ」
「ふふ、わたしも……だからこれでいいの。これでいいのよ」
 そう云ったかがみは本当に嬉しそうで、無理してる様子なんて少しも見られない。
『相手が感じてるって思うと自分も感じる』
 かがみはそう云っていた。
 感じるって云う感覚はいまいちわからないけれど、でも、確かにかがみが幸せなんだって思ったら、わたしだってどんどん幸せになっていく。そうやってお互いの間で幸せがどんどん増幅していくこの行為に比べたら、想いが一方通行な行為なんてどんなものでも嬉しくないだろうって、なんとなくわたしにもわかる気がした。たとえそれが、どうしようもない本能に根ざした衝動だとしても。
「――あ、でも」
「んー?」
 ふと云っておきたいことに気がついて、わたしは目を閉じたままぼんやりと呟いた。
「おでことかにちゅってされるのは、結構好きかも……?」
 なんでだろう。顔と顔をくっつけることが嬉しいのかな。柔らかい唇を押しつけられる感覚は、意外とあんまり嫌じゃない。それが唇と唇になるとなんだか嫌な気がしてくるのは、やっぱり“想いの一方通行状態”だと思ってしまうからなんだろうか。
「なぁにそれ、おねだりかー?」
 かがみの言葉の端々に、笑いと嬉しさが煌めいている。見えてもいないのに、いや、見えていないからこそ、その声は宝石のようにキラキラした光をばらまきながら空中に漂っているように感じられていた。そんなイメージも、要するにわたしが眠り掛けていたってことかもしれないけれど。
 ――ちゅっ。
 そうしておでこに柔らかい感触が降ってきて。夢の世界が虹色に変わっていく。
「――ここから先のことを、わたしは絶対にしないわ。――だから、これが私とあんたの境界線。踏み込んじゃいけない、わたしたちの間の境界線よ」
 琥珀のように穏やかで、真珠のように清潔な。
 そんなかがみの言葉を、わたしは胸の中の大切な場所にしまいこむ。
「――おやすみ、こなた」

 ――その夜は、なんだかひどく幸せな夢を見た。

§14

「──うん、うん。これから帰るところー。え? だいじょぶ、大丈夫だって。もー、お父さんってたまに放任主義なのか過保護なのかよくわかんないよね。──ん。当たり前じゃんそんなの。いくらお父さんでも、ゆーちゃんに変なことしたらマジ瞬獄殺だよ。うん、はいはーい。……あ、あとさ、帰ったら大事な話があるから覚悟しておいて」
 そう云って、わたしはお父さんが返事をする前にケータイを切った。
 隣のかがみは苦笑しながら“お手柔らかにね”なんてこぼしていたけれど、本当はかがみだって同罪だ。二人で勝手に大事な話をしておいて、それをわたしに黙ってるなんて許せない。だからかがみにも罰を与えないといけないところなんだけれど、昨日わたしを抱きしめてくれたから仕方なく許してあげるんだ。
 でも、お父さんは絶対駄目。
 一ヶ月はべたべたさせない刑だって、わたしは心の中の裁判所で判決を下したのだった。
 ケータイをぱたんと閉じて、かがみと一緒に歩き出す。
 あの銀色をした自転車は、今はメゾン・ド・エルメームの自転車置き場に止まってる。小さなスコップが籠に入った、三輪車の横に止まってる。
 日良からの帰り道も、わたしたちは二人乗りをしないでこんな風に並んで帰っていった。急いで地平線に戻ろうとする太陽を恨めしげに眺めながら、言葉少なに帰っていった。
『夕方になって人通り増えたし、二人乗りだと危ないわよね』
 かがみはそう云ったけれど、そんなことはお得意の云い訳なんだってわかってる。少しでも帰る時間を先延ばしにしたかっただけだって、聞くまでもなくわかってる。
 ――わたしだって、同じ気持ちだったから。
 もう随分と馴染んだかがみの部屋に戻って、黙々と荷物をまとめて、そうしてかがみと一緒にドアを出た。
 来たときと同じように集合ポストは少しだけ錆びついていて、庭では春の草花が咲き誇っていて、そうして窓枠の白い桟は綺麗な垂直の線を描いていたけれど。
 もう、それがかがみの背筋みたいで好ましいなんて、とても思えやしなかった。
 ――なんでだろう。
 楽しい時間ほど早く過ぎていってしまうのは、一体なんでだろう。
 かがみと一緒にベッドの中で眼を覚ましたのが、ついさっきのことみたいに思えるのに。
 今までの人生で一番と云っていいほど幸せな朝を迎えたのが、ついさっきのことみたいに思えるのに。
 ──もう太陽が、茜色だった。
 駅前の裏通りで、クリーニング屋のお兄さんは相変わらず暇そうだった。オズ通り商店街は今日も活気に溢れていて、肉屋さんの店先から漂ってくる焼き鳥の煙が黄昏時の空に消えていく。杖をついたおばあさんの腕を小学生の男の子が引きながら歩いている。元住良駅の真新しい駅舎は、その半分を宵闇に青く沈ませながら夕陽を浴びて金色に光っている。
 ――いつのまにか、自分の街みたいに思っていた。
 最初にきたときにはまるで見知らぬ街だって感じたこの元住良も、かがみと一日過ごした今となっては、糟日部や鷹宮と同じくらい大切な街になっていた。
「――なんて顔してんのよ、こなた……」
 改札横のオープンテラスで、かがみと二人でベンチに座って電車を待っていた。辺りにはわたしたち以外に誰もいない。さっきまで大時計の根本で人待ち顔をしていた女の人がいたけれど、下り電車でやってきた男の人の腕を取って幸せそうに街の中に消えていった。
 上りの電車はあと五分経たないとこないって、電光表示板が教えてくれている。
 だからあと五分。
 わたしとかがみに残された時間は、あとたった五分だけ。
「――別に? かがみこそすっごい寂しそうな顔じゃん」
「そっ、そんなことないわよ、ばか……」
「あるよ、大ありだよ。わたしはこれからゆーちゃんとお父さんがいる家に帰るのに、かがみが帰るのはひとりぼっちの部屋じゃん。寂しくないわけないよね?」
「……あの、もしもしこなたさん? なんでそんな一生懸命私を凹まそうとしてますか?」
「……あれ?」
 ――本当だ。
 かがみを励まそうとしたかったのに、口から出てきた言葉はそれとはまるで反対のことだった。思わず苦笑したわたしを見て、かがみも“やれやれ”って顔をして微笑んだ。
 そんなことをしているうちに、時計の長針がかちって回った。
 ――あと四分。
「……そろそろホーム行った方がいいんじゃないの?」
「大丈夫だよ。あと四分もあるし」
「……そ? ならいいけど」
 そう云って、かがみはわたしの手に自分の指先を伸ばしていった。かがみのなめらかな指先が、そっと手の甲を撫でていく。わたしはその手を捕まえようとして指を絡めていくけれど、その度にかがみの指先は逃げ出して。
 ――本当に、こんなこと姉妹とか友達同士でやるのかな。
 そう思った瞬間、わたしの指先が逆にかがみに捕まった。
 わたしたちは指と指を絡めたまま、ぎゅっとお互いの手を握り込む。
「入学式、もうちゃんと準備できるの?」
「ん。いくらわたしでも、流石にね。スーツも仕立ててもらったし、着合わせもしてあるのだよ」
「大丈夫かー? あんただと、ちょっと間違えると私立の制服着た小学生みたいに見えそうよね」
「んなっ、なんて失礼なっ。いくらなんでもそれはないっしょ……たぶん」
「ふふ、本当かなぁ?……あ、じゃあさ、写メ撮ってもらって私にも見せなさいよ。そうじ……いや、ゆたかちゃんに撮ってもらってさ」
「うん。ゆーちゃんにデジカメで撮って貰うね。ぷくく、大人っぽくなったわたしを見て、腰抜かしても知らないよー」
「はいはい。期待しないで待ってるわ」
 ――かちっ。
 あと三分。
 かがみが吐き出したため息は、深くて長いものだった。
「――しばらく、会えなくなるわね」
「……そだねー。お互いばたばた忙しくなりそ」
「講義日程とか、もう決まってるの?」
「あ、うん。履修案内とかきてたよ。でもまだよくわかんないなー。ほら、バイトもあるしさ?」
「あ、そっか……。空き時間わかったらちゃんと教えてよね」
「んー。できるだけ合わせたいから、あとで相談しない? 日程表メールで送るからー」
「……ん。そうしよっか」
 満面の笑顔。
 でも、西日が当たっているとそんな顔だって寂し気だ。
 ――本当に。
 どうしてかがみが一人暮らしなんてしないといけないんだろうって、今更ながらにわたしは思うんだ。
 よりによってかがみが。
 誰よりも寂しがり屋で、誰よりも強がりで、誰よりも素直じゃないかがみが。
 わたしが好きになったかがみが、どうしてよりによってわたしから離れていかないといけないんだろうって、わたしはどうしようもなく理不尽な気がしてしまう。
 ――わかってる。
 かがみにはわたしと違って夢があって。かなえたい未来とか、なりたい理想の自分とかがちゃんとあって。そのためには自立していくことが大事なんだってこと、理屈の上ではわかってる。
 だって、そんなかがみだから、わたしは好きになったんだ。
 ――かちっ。
 あと二分。
「……そろそろ、本当に行った方がいいんじゃないの?」
「……だいじょうぶだよ、わたし足速いし」
「そういう問題かぁ?」
 困ったような顔をして小首を傾げたかがみだったけれど、それ以上わたしをうながそうとはしなかった。
「――こなた」
「――ん?」
「昨日の夜云ったこと、ちゃんと聞いてたわよね?」
「……えと。境界線のこと?」
「……ん。半分寝てたみたいだから、覚えてなかったらどうしようって思って。一応確認ね」
「だいじょぶ、ちゃんと聞いてたし覚えてるよ」
「……じゃあ、これも変なことじゃないって、わかるわよね?」
 そんな言葉にかがみの方を振り向くと。
 ふわりと、かがみの身体が飛び込んでくる。
 視界を横切るツインテール。
 閉じられた瞳。
 漂ってくる、かがみの香り。
 ――ほっぺに触れた、唇の感触。
「口紅、塗ってないから大丈夫よ」
 キラキラと瞳を輝かせながら、かがみは悪戯っぽくそう云った。
 ――けれど。
 そんなかがみに何か云おうと口を開いた瞬間、駅のアナウンスが聞こえてきたのだった。
『――お待たせしました。二番ホームに、日々谷線直通、北千寿行きが参ります――』
「うわっ、まじですかっ」
「あははは! ほら急ぎなさいよ、足速いんでしょ」
 慌てて荷物を抱えたわたしを見て、かがみは声を上げて笑った。
「もー、酷いよかがみ。何あのタイミング、余韻も何もないじゃんか!」
 ――じゃあね。
 最後に投げ捨てるようにそう云った後、べーっと思いっきり舌を突き出して。
 わたしは、一目散に駆けだした。
「――またね!」
 背中にかがみの声が飛んできたけれど、振り返りはしなかった。

 ――今もまだ、ほっぺにそのときの感触が残っている。

 口紅はつけてないって云ってたから、拭ったりはしていない。
 それは勿論悪戯だったら困るから、慌てて飛び乗った電車の中で、こっそりと手鏡で確認したけれど。
 確かに、跡なんて何も残っていなかった。
 でも、それでもわたしは、そこにくっきりとかがみの唇が残っているのを感じていた。
 だって、口紅の跡なんてついてなくっても、わたしのほっぺは真っ赤なままだったから。

 ――そんな唇を心の中に残したまま。

 わたしは、大学生になった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
Beautiful World 7章/そうじろうへ続く













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