【地域の教育力】
- 地域づくりと教育の関係については、戦前からの村落共同体における「習俗としての子育て」と関連する学校・家庭・地域の連携的実践を示す概念として論じられ、1970年代に「地域にねざす教育」や「地域教育運動」などの表現と関連づけられてひろく用いられるようになった「地域の教育力」の研究蓄積がある。佐藤(2002)は「地域の教育力」に関する今日的課題として「地域の教育力という日本的な用語は、伝統的に狭い教育観の制約のために、子どもと学校教育に収散する発想に偏っている」と指摘した上で、「学校に全ての問題の解決を期待する学校主義から脱却し,コミュニティ教育を公共的な教育領域として発展させていく教育研究の必要性」と、「教育文化的なNPO・NGOの発展をささえる条件の拡充によるそれぞれの地域に多様な協働関係(パートナーシップ)の形成の必要性」を説いている。
【エコ社会主義】
- 1970年代にはいってから、環境の視点から近代以来の思想や学説を反省し清算する作業が欧米でおこなわれ、そのなかで、マルクスの思想も近代主義の枠内にとどまり、エコロジー思想とは両立できないといった批判が高まってきた。これに対して、マルクス主義の側から反論が出され、マルクスの可能性を徹底してくみ上げ、エコロジーとの接点を見出そうとする「エコ社会主義」の思潮が形成されつつある。エコ社会主義の中核は、資本主義への批判にある。多くのエコ社会主義者は、マルクスの資本主義批判の理論にはすでにエコロジー的視点がふくまれており、環境問題の原因が他の社会問題と同様に、資本主義の内的な論理に内在すると主張している。
【エコロジー運動】
- 1970年代にはいって、環境問題に関する国際会議が次々と開催されるようになった。それに伴い、数多くの環境関連の国際条約が締結され、その数は900を超えるといわれている(ヨーロッパにおける酸性雨に関する条約(長距離越境大気汚染条約)は、初期における代表的な国際条約である)。ローマ・クラブの『成長の限界』(1972)がその大きな引き金である。それらをとおして、公害の頻発、生態系破壊と種の絶滅、資源枯渇、人口の増大、第三世界の飢餓など、工業化にともなう地球的危機が指摘されるようになった。こういった背景のなかで、世界各国でエコロジー運動といわれる政治・社会運動が出現するようになる。この運動は、一つのまとまった学説にもとづくものではない。自然保護はもとより、公害問題、地域保存運動、有機農業や安全食品運動、核兵器や原子力発電反対、反戦・平和運動、さらには動物解放運動などがふくまれる。
【NGO】
- ベトナム反戦運動のさなかの1970年4月22日、公害防止と自然保護を訴えた「アース・デイ(earthday)」の取り組みにつながり、さらには1972年の国連人間環境会議(ストックホルム)の開催へとつながっていく。この流れを後押しした環境保護団体らは、もはやアメリカ国内の市民運動にとどまらず、各国NGOと情報交換・連携しながら、国際的な条約の取り決めに際して市民の立場から対案を提示したり、自国政府に批准を働きかけたり、独自の行動計画を策定したりして、国家の枠を超えて世界の環境保護・改善をめざす協働のネットワークを築いている。NGOの活動は、自分たちの代表を直接議会に送ることで、自らの主張を政策や法律に反映させるという新しい運動パターンへと「飛躍」している。1970年代初頭、ヨーロッパ各国の地方レベルで環境政党をつくる動きがはじまり、地方議会で議席をもつ政党が現れた。1980年代にはいると、この運動が政治的にも大きな力を得るようになる。その典型的な例が、ドイツにおける「緑の党」を与党とする連合政権の樹立(1985)である。1992年の地球サミット(リオデジャネイロ)、2002年の地球環境サミット(ヨハネスブルグ)などでは、政府間会議とならんでNGO会議が開催され、二つ合わせて国連会議とされるのがもはや常識になっている。
【農業の環境負荷】
- 1970年代以降、開発途上国では、化学肥料や農薬などの有効な資材が適正に投入されないために、過耕作、過放牧となり、土壌劣化・土壌浸食などをもたらし、食料不足が解消しない状態が続いている。先進国でも、国際化(貿易自由化)のなかで競争が急速に激化し、農業労働力の不足と高齢化も加わって、化学肥料や農薬など化学物質の過剰投入,自然環境に配慮しない大規模な農業基雛整備がおこなわれ、他方、競争力のないところでは管理放棄(耕作放棄地)が増大するなど、自然環境への負荷が過大となる。
【生命倫理】
- 現在では「生命倫理bioethics」という言葉は、人間の医療倫理にシフトして使用され、環境をあつかう視点は抜け落ちている。それは、この言葉が提唱された1970年代当時のアメリカでは、環境問題よりも医療問題(心臓移植や中絶問題)に社会的な論議が集中していたことがあげられる。ローマ・クラブの「成長の限界」やストックホルムでの国連「人間環境宣言」、「自然の権利」を誼ったストーンの論文「樹木の当事者適格」が出されたのは、いずれも1972年であった。アメリカでも1970年代にはすでに、今日名のとおっている環境倫理の学術定期刊行物が出版されていた(ナッシュ1999)。生命倫理学と環境倫理学は出発点ではひとつながりの学問であったが、その後、今日まで、両者は対象を異にする学問として展開されるようになってしまった。
【自然の権利】
- 1970年代前後、世界的な環境問題の続発を前に、自然と人間の関係の改善をめざす数々の動向が生まれてくる。たとえば、南カリフォルニアのミネラルキング渓谷にウォルト・デイズニー社が大規模なスキー場を計画したのに対して、「シエラ・クラブ」が猛烈に反対して裁判を起こした(「シエラ.クラブ対モートン事件」)が、原告を支持する立場から、法哲学者ストーンは「樹木の当事者適格―自然物の法的権利について」と題する論文を発表し、後見人制度や信託制度を用いて自然物に法的権利を付与することができると主張した。彼は、新たな権利概念の方向性を打ち出したと同時に、この手法によってこそ根本的に自然保護が可能になると説いた。それと同じ時期に、レーガンやオーストラリアの哲学者シンガー事などの動物解放論者は、「動物の権利」を主張し、人間の支配から動物を解放することを訴えた。ナッシュは、ストーンやシンガーら出自の異なる一連の思潮を総称して、「自然の権利」論と呼んだ。
【動物の権利】
- 1970年代から1980年代にかけては,西洋を中心に大規模な動物実験反対運動が展開された。この動物実験反対運動の中でシンガーとレーガンの二人の哲学者が「動物の権利animal right」に関する議論を展開した(Singerl975;Reagnl982)ことにより、初めて動物の扱いに関する倫理的枠組みが形成されたとされる。Singerは女性の権利や生命倫理問題などの延長として「動物の権利」論を展開し、Bentham(1789)の功利主義に基づき、主体が倫理的な権利を持つためには、苦痛と喜びを経験する能力が契機であるとした。また、種の違いを根拠として動物を倫理的配慮の対象から除外することは種差別(speciesism)であり、倫理的に不適切な性質を境界とするという点で人種差別や性差別と類似する構造を持つと批判し、ひいては人による動物の利用を段階的に停止すべきであると主張した。
【ディープ・エコロジー】
- ノルウェーの哲学者ネスは、1970年代以降の環境運動の世界的な高まりのなかで、論文「浅いエコロジー運動と深く長期的なエコロジー運動」(1973)を執筆し、従来のエコロジー運動に支配的な傾向を、人間中心主義的で、現在の文明・社会を前提とした「浅いもの(sha1low)」と断じた。それに対し、近代文明批判を志向するラディカルな運動を「ディープ・エコロジー」と命名し、その哲学的考察をおこなった。その後、ディープ・エコロジーはとくにアメリカで、思想的な運動として大きな影響力をもつようになった。
【グローバリゼーション】
- 1970年代のオイルショック後急速に進行したグローバリゼーションは、途上国間の経済格差を拡大し、また途上国・先進国それぞれの国内の貧富の格差を増大させた。
【過疎】
- 1970年代になると、耕作が放棄されるところも出てきた。同時に、今日に至るまで、圃場整備が進んで水田の形状や構造が大きく変化している。1970年代に、農村でも土葬から火葬へのチェンジが起こった、火葬場が全国的に広まったのもこのころ。それは過疎化とも関連しているのだろうか?? また、里山の語が“再発見”されたのも、この時期である。里山は江戸時代から存在したが,現代的な意味では四手井綱英によって1970年代に再発見された。その後,環境問題への関心の高まりの中で一般的に定着するとともに,里山の意味は拡大し多様化したが、大きくは広義と狭義に整理できる(丸山2007)
【語法】
1970年以降の脱中心化、非人間化、性差の解消、デジタル化、といったパラダイムシフトの趨勢と「コレオグラフィー(振付師)としてのシステム」というイメージのあいだには深い関係がある。人間存在を機械とか装置とかサイボーグとかいうメタファーで語る語法が流行したのはこの時期からである。
1970年以降の脱中心化、非人間化、性差の解消、デジタル化、といったパラダイムシフトの趨勢と「コレオグラフィー(振付師)としてのシステム」というイメージのあいだには深い関係がある。人間存在を機械とか装置とかサイボーグとかいうメタファーで語る語法が流行したのはこの時期からである。