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  • 亀山純生論.3 〈宗教論〉

亀山ゼミwiki(非公式)

亀山純生論.3 〈宗教論〉

最終更新:2011年11月30日 13:55

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 亀山の<宗教論>の著作は、扱う対象によって大きく二つに分けることができる。ひとつは、オウム真理教の地下鉄サリン事件をきっかけとして、現代日本における「宗教(“宗教ブーム”)」の位置付けと、そこから近代化された宗教がはらむ問題について考察した『離脱願望』、『現代日本の「宗教」を問い直す』など。もうひとつは、唯物論を理論的立場としつつ、日本思想史における法然、親鴬の思想と意義の方位を明らかにしようとする『中世民衆思想と法然浄土教』である。前者と後者は扱う対象は違えども、<価値論>で考察された欲求(欲求的価値)の深化と検討が行われている。一遍思想 や中世東国武士と浄土教の関連 など、後者に関連する論考のほうがより早くから長期にわたって続けられているが、ここでは前者を先に扱うこととしたい。

+ 亀山の中世関連著作
亀山純生「一遍思想の構造とその歴史的意義--一遍の民衆性に関連して」東京農工大学一般教育部紀要 (二一)、一~二一頁、一九八四年
亀山純生「東国武士と法然浄土教--谷保の住人津戸三郎の場合」東京農工大学一般教育部紀要 (二三)、九~三三頁、一九八六年
など

 一九九五年三月に起きた地下鉄サリン事件へのレスポンスとして、翌年に刊行された共著が『離脱願望-唯物論で読むオウムの物語』である。同書は、「八○年代にその爛熟の頂点に達した日本型の大衆社会」=「企業主義的大衆社会」のもつ、能力主義・競争主義を特徴とする強い抑圧構造と、それが必然的に生み出した離脱願望が、新新宗教のなかでもとくに現実否定的・現実離脱的な色彩が濃く、「解脱」・「悟り」・「超能力」を説くオウム真理教と結びついた、という見取り図のもとで、一連のオウム事件の原因と背景を、九人の著者が、それぞれ異なるアプローチを行っている 。
(後藤道夫「企業主義的大衆社会からの離脱」『離脱願望』労働旬報社、一九九六年、九~三一頁)

 田平暢志は、オウム信者のみならず、日本の宗教全般における「近代的な主体性の欠如」を指摘し、またこの点からオウム事件を「近代化の過剰」による宗教の空洞化状況から説明する山折哲雄を批判している。(田平暢志「現実認識と宗教的知性の乖離」同書、一七〇~一九〇頁)
 これに対して、亀山は、近代の未成熟でも近代の過剰でもなく、「近代的」宗教観、そのなかに日本において伝統的に引き継がれている「日本的聖俗二元論」による「宗教的無責任構造」こそ、オウム問題を解明する鍵であるとする 。事件後、宗教界は、オウム事件を宗教に関係のない世俗の社会問題とみて、政教分離原則をたてに、それに責任的に対応しようとせず「沈黙」したが、もともと宗教と社会は、このように二元的に区別される別領域ではなく、宗教は、それが意味あるためには現実社会に責任的に関与しなければならない。オウム事件はきわめてネガティブな形で、宗教と社会の独自のつながりを実証した点で、「日本的聖俗二元論」の破綻を示しているとする。これをふまえて、亀山は宗教にたいしては「世俗的原理の独自性を端的に承認」したうえでの現実社会への主体的・責任的関与の道を、社会にたいしては宗教を排除しない「市民社会の宗教倫理」の確立の道を提起する。

 亀山の提起は「戦後民主主義と政教分離原則をも否定的にとらえる」 とみなされもするが、むしろ、宗教の公的性質の剥奪・私事化が、歪んだ「宗教」を数多く発生させる構造を備えているという指摘として捉えたほうが生産的である。なぜなら、宗教の公的性質の剥奪・私事化に関する問題意識こそが、その他の<宗教論>の著作でも扱われるテーマ、とりわけ「“一ヒラ文化”としての宗教」 へとつながるからである。

+ 「“一ヒラ文化”」
 亀山は、欲求論の立場から、諸個人におれる、それぞれ多様な欲求(=疎外・欠如の様態)に対応するものとしては、多様な宗教のみならず非宗教もあり(欲求の解決は、宗教的な解決だけでなく、非宗教的な解決も可能だからである)、どれが真の宗教か、あるいは真の生き方か、を問うことの無効性を主張する。「宗教は、現代の諸個人の問題を解決する現代人の社会的文化的活動の一環であり、あえて強調すれば、現代においては、宗教は事実的にも価値的にも“一ヒラ文化”である」(宗教、一二八)と主張される。

 “一ヒラ文化”としての宗教という位置付けは、宗教の軽視ではなく、宗教の公的性質を賦活させる効果を見込まれてなされている。そうであるからこそ、この視角は、プロテスタンティズムに範をとる「〈近代主義的宗教観〉」に対置される。つまり、「信仰をもっぱら心の問題へと内面化し、外面的行為のレベルで呪術や魔術的性格を否定する度合いが高ければ高いほど、より純粋で本来の形態に近い高次の宗教と見な」す宗教観である(宗教、一二九)。
 この〈近代主義的宗教観〉は、『現代日本の「宗教」を問い直す』で亀山が指摘する、現代日本の宗教をめぐる幾つかのディレンマ の一因にもなっている。近代の啓蒙主義思想は、「近代化=合理化=無宗教化」という図式を標榜し、日本でも従来の基本的宗教観の根底をなしてきた。だが、近代化の達成による“豊かさ社会”での宗教現象の増加、特に前近代的な低次の呪術宗教の氾濫や、“近代の申し子”たる、主に六〇年代生まれの“神秘好き”は、この図式を決定的に破綻させた。亀山は、これらの状況と、神仏並行信仰など、諸宗教の雑居あるいは宗教的多元性をふまえ、日本の宗教の特徴を「“神仏好き”の無宗教(「宗教」嫌い)」(宗教、二五)という言葉でまとめる。“神仏好き”に嫌われる「宗教」こそが、公的性質を帯びた「宗教」である 。

+ 現代日本の宗教をめぐる六つのディレンマ
亀山が同書で挙げている、宗教をめぐる六つのディレンマは以下の通り。一、宗教への期待と不信・警戒。二、信仰の自由の聖域性と公的規制。三、政教分離と宗教教育論。四、“真の宗教”の雲散霧消。五、近代化と“無宗教化”の矛盾。六、“神仏好き”の無宗教。

+ 「宗教」の、公的性質
 亀山は、丸山輝男(「仏陀の教えとオウム真理教」『プレジデント』一九九五年七月号)の議論を参照しつつ、以下のようにオウム真理教の、犯罪という形で示された「宗教」的側面についてまとめる。オウム真理教事件が発覚した時、マスコミや世論は、その凶悪性とともにそれが宗教団体の犯罪であることに驚愕した。そして、オウム真理教は真の宗教ではなくニセ宗教だと非難した。しかし、オウム真理教をニセ宗教と批判することは「伝統的宗教も含めて宗教における真とニセの区別の基準はどこにあるか?」を問うことになった。だが、宗教界は沈黙を続け、議論は泥沼化した。オウム真理教はまちがいなく宗教であったし、その犯罪はまさに「宗教」であるがゆえに起こりえた。そう考えなければ、教団の関係者(信者)たちが犯罪を“善行”と思いこんで実行するに至ることは理解できない。(宗教、一八~二〇頁)
 オウム真理教および麻原彰晃がどのように、彼ら自身の公的性質を自認していたかについては、大田俊寛『オウム真理教の精神史 ロマン主義、全体主義、原理主義』春秋社、二〇一一年が総覧的にまとめている。

 宗教については個人の内面的選択にまかされるべきでありだとする“放任型”の〈近代主義的宗教観〉とともに、『現代日本の「宗教」を問い直す』で批判されている宗教論が、〈認識論主義的宗教論〉である。
 亀山は、認識論主義宗教観を、〈“実践としての宗教”観〉を対置することで定位する。両者の相違点は、客観的認識を基軸にして宗教を理解するのか、諸個人の生の営み・実践を基軸にして理解するのか、いいかえれば,生の営みを認識の真偽・科学的認識を原理として理解するのか、諸個人の欲求や生の意味づけそれ自体を原理として理解するのか、である(宗教、三四頁)。通俗マルクス主義 が採用している宗教観とも言い換えられる。

+ 通俗マルクス主義 が採用している宗教観
注意すべきは、これがマルクス主義の宗教論への批判であって、マルクスの宗教論への批判ではない点である。亀山の批判対象は一貫して従来の日本の通説的、教科書的な、“宗教=アヘン”論として展開されたマルクス主義であり、「既成仏教など宗教をもっぱら封建的地主階級の利害を代弁し、民衆の主体性を眠りこませて絶対主義的天皇制に呪縛する毒薬的“アヘン”と見なした」(宗教、一九八)一面的なそれである。

 認識論主義宗教観への批判点は大きく二つ。一つは、科学の健全な発達や社会の正常な近代化とともに宗教は死滅するという枠組みを温存すること。これにより、現代日本の宗教現象、神秘好きや呪術的宗教などの意味を内在的に分析する視角を逸し、科学教育の不徹底、復古主義的反動イデオロギー、一時的な歴史的退行現象として「ブラックボックス化」させる(宗教、三五)。もう一つは、科学的合理的認識に(宗教の代わりに)万能性を与えることは、世界の客観的認識の原理が価値や生の意味づけの原理と混同されることとなる(同)。認識論主義 は近代主義的宗教観と軌を一にして宗教ディレンマに陥ってしまっている。
 これらの批判点をふまえて、亀山は、「宗教を現代人の生身の生の営みとして、生の意味づけ・価値領域の地平で分析する“実践としての宗教”観」(宗教、三六)への転換を促す。“実践としての宗教”観は、フォイエルバッハの唯物論的宗教論 にもとづいている。つまり、人間を身体的活動(感性的主体)の地平から理解すること。宗教を「生活の術die Kunst des Lebens」ととらえ、その本質を、諸個人が超越者に何を期待し超越者がどう応答するかの視点から分析すること。宗教は「疎外された実践」であり、それゆえに人間の生にとって肯定的否定的な両義性をもち、社会的イデオロギーと密接に連関していること 。以上の事柄が、宗教の分析枠組みとして求められる。

+ 認識論主義批判の射程
 付言すれば、亀山の認識論主義批判は、宗教理解のあり方に限定して用いられており、他の分野(社会変革論など)へは適応されていない。ただし、従来のマルクス主義が、実践を重視するなかで、世界観的にも社会・世界分析の点でも正しい認識(科学的合理的認識)を、変革主体の基本的要件と見てきたこと。それが科学的社会主義の神聖化と結びついたことが、認識論主義的宗教論の背景的基礎をなすとは考えられている。(亀山純生「唯物論的宗教論と認識論主義--伊藤敬氏の"批判"に応えて」唯物論と現代 (二五)、七七~九一、二〇〇〇年)

+ なぜ唯物論の宗教論が採用されるのか
 通説的な唯物論はむしろ認識論主義にもとづく宗教観の立場をとり、科学的認識・科学的世界観を基準にして宗教を虚偽意識・虚構の世界と見なす。それにもかかわらず、理論的立場として唯物論が採用されるのは、特定の宗教や自文化の宗教観の方法論的前提を排除するためには、多様な宗教や他文化の宗教観をも包括しうる第三の共通尺度が必要であり、その尺度は論理上、宗教を前提せずに人間・文化・社会を包括する射程の広さを有することが求められるためである(宗教、三一)。

 “一ヒラ文化”としての宗教とともに、“実践としての宗教”観は、宗教が行為システムとして、それを信仰する人の生と社会とのあいだにどのような意味づけと関連性を構築するか、その機能と効果に焦点を当てた視角であるといえる。その視角にあればこそ、亀山は以下のような「価値相対主義」の立場に立つ。「神を信ずる人とマルクス主義を信念とする人との間に、生の原理の相違それ自体によって価値的序列は生まれず、生き方の真偽があるわけでない」。
(亀山純生「唯物論的宗教論と認識論主義--伊藤敬氏の"批判"に応えて」八五頁。この発言がクリティカルなものとなるのは、宗教と唯物論が「価値的に平等ではない(唯物論は宗教に勝る)」ことを前提とする範囲においてである)
 この社会システム論的な視角は、日本思想史における法然、親鴬の思想の扱い方においても見られる。『中世民衆思想と法然浄土教』の序章では、「中世浄土教の思想史的研究への基礎視角」という表題のもとに、哲学者・三木清と歴史学者・服部之総の親鸞研究の批判的検討がなされている 。その検討を通して、宗教的自覚者としての親鸞か、社会的解放者としての親鸞かという親鸞像の選択ではなく、弥陀の本願の絶対化の徹底のなかで、隠然とした力で人々を支配する構造(それは正統派浄土教 をも含む)への抵抗を展開した親鸞の分析がなされる(中世、三六六)。

+ 『中世民衆思想と法然浄土教』の整理
 図式的に整理すれば、亀山は服部の史的唯物論の立場を認識論主義と見なしている(中世、三五)。ここでも、ほとんどのマルクス主義的宗教論において、宗教が、本質的に幻想的虚構の世界として、専ら自然・社会・人間の非科学的・非合理的認識という側面から理解されていることが疑問視され、感性的人間による「生活の術(わざ)としての宗教」への転換が、中世民衆の浄土教理解にとって、新たな視点を開くことが可能になることが提起されている(同、五〇)。
 亀山は中世史学の知見をふまえ、。法然や親鸞によって提唱された専修念仏思想は、必ずしも当時の民衆に広く受容されたわけではなく、むしろ異端として弾圧を被らなければならなかったこと。親鸞が生涯かけて緊張関係をもち対決したのは、彼の認識では聖道門・「旧仏教」、専修念仏を弾圧する限りでの朝廷・幕府・地頭等であったとしても、客観的には、荘園において新たに中世的支配体制を構築しつつあった「顕密体制」・正統派浄土教であったことを明らかにしている(中世、三二一)したがって、どのような悪人も念仏を唱えれば往生できるという他力易行の提唱は、同時に正統派浄土教の諸行往生論を前面に立てながら階層往生を言わず、ただ機根に応じた多様な仏道修行の主張として見なすのが妥当である(同、一五八)。

 現代における宗教論と、法然・親鸞の浄土教理解において、共通するのは、宗教を信仰する人の生と社会とのあいだの意味づけの機能として捉える視角である。そこにおいて価値とは真偽の基準と同じではない。私たちは善悪の絶対的基準、真偽の一挙的展望を、宗教(ならびに唯物論)を介して手に入れられるものとして欲するべきではない。宗教の機能とは、自己の受苦についての徹底的な直視と省察が、現実的生の諦め・放棄ではなく、逆に「現実的生と活動の価値的肯定とそれへの種極的なエネルギー導出」(中世、五六)へとつながる面に、基本的性格がある。

 このような亀山の「宗教」の機能の位置付けにもまた、〈価値論〉で概観してきたデカルト=野田=亀山の、生の経験による「試し」の実践と思索がその裏面にあることを読み取ることができるだろう。ただし〈宗教論〉においては、くり返すとおり、「試し」の実践と思索を内面の問題に限定しないところにあるのであり、デカルトにおいては希薄であった「人間が社会的存在として歴史的過程の内に現存するということ」を補完しているといえるだろう。

■
 ここでなお、付言すれば、亀山が深く言及していない、「自然及び社会に関する科学のどのような進歩によっても満足させられることのできぬ宗教的欲求」という、三木の独特の「パトス的人間論」 と不可分に結び付いている欲求についての考察は別途、必要なものと思われる。三木のパトロギーが不可避的にもつ人間存在の身体的な世界内存在性から言っても、個の内面が、個をそこに緊縛している歴史的社会、なかんずく身体的欲求から切断された真空の世界としてあることは、ありえない(宗教、三四)と亀山は指摘するが、恍惚において主観的にはまさに真空の世界としてあるからこそ「無」や「空」の思想がいまもなお根強く残っているのではないだろうか。〈私は誰かに夢見られている夢ではないと、なぜ言えるのか?〉
 また、霊術によって一挙的に自己を切り替える人格的変身への期待(宗教、四九)は、超能力・オカルトや神秘現象への関心や、能力主義への抵抗としてのみ位置づけられるものではなく、〈食〉 や、原生自然との対峙 など、広域かつ多様なあり方をもつ元型的欲求の一つの様態としても位置づけられる。
 これら、〈「無」への欲求〉や〈変身=転成transformationへの欲求〉の考察が必要であるのは、それらが、亀山が位置づける快・幸福という「欲求的価値」の範囲外にあるばかりではなく、利己主義的欲求(私的所有、および自己保存)とも異なるためであり、また、〈風土論〉で取り上げられる「ありふれた自然の意義」を補強する上でも有効であると考える 。

+ 三木の「パトス的人間論」
 三木は、処女作『パスカルに於ける人間の研究』(岩波文庫、一九八〇年)以来、人間的生を「パトス的なもの」として、不安の内にあっての揺れ動きとして描いている。三木によれば、人間の存在は宇宙全体に対しては取るに足らない微小な存在であるが、同時に虚無に比すれば一個の世界であり全体である。このような人間の様態を、三木は全体と虚無との中間的存在として捉える。パスカルのいう人間の「偉大さ」と「惨めさ」は、この全体と虚無の間にあって絶えずさまよう中間者としての様態にその根拠をもつ。この「パトス的な人間」、「中間者としての人間」という思想は三木の人間学のなかで多様な形で展開され、遺稿『親鸞』まで一貫している。

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