第二部 価値への視座 ―価値論のタイプと“よくある”価値観―
第3章 価値論のタイプ
四 価値は結局はじめから決定されているか ―客観主義の価値論―
1 “価値=決まり”論と客観主義
客観主義(価値客観説):
価値=事物それ自体に内在するもの、評価者の主観的状態から独立に存在するもの
…リンゴの「よさ」はもっぱらリンゴ自身の性質によるのであって、誰が評価しても「よい」と一致する(はずだ)
ex) プラトンのイデア論、中世のキリスト教哲学、近代の観念論哲学
価値=事物それ自体に内在するもの、評価者の主観的状態から独立に存在するもの
…リンゴの「よさ」はもっぱらリンゴ自身の性質によるのであって、誰が評価しても「よい」と一致する(はずだ)
ex) プラトンのイデア論、中世のキリスト教哲学、近代の観念論哲学
- 価値客観説は規範的価値についてよく見られる
→諸個人の思惑や心情を超えて価値は決定している;“価値=決まり”
2 プラトンのイデア論
イデア:「見られたもの」「形」
…人々がさまざまなものについて「善さ」を認めるのは、そこに絶対的かつ不変の純粋な善さ(「善のイデア」)があるから
価値=対象内在的、諸個人の主観性から独立した客観的存在
…人々がさまざまなものについて「善さ」を認めるのは、そこに絶対的かつ不変の純粋な善さ(「善のイデア」)があるから
価値=対象内在的、諸個人の主観性から独立した客観的存在
- 問題点:客観的な存在はよきものとしてのみ存在することになり、結局客観は理念・観念的存在に還元されてしまう
→観念的存在が真に普遍的(客観的)であるか?どのように諸個人に認識・実現されるのか?
3 デカルトの価値論
善は人間の自然的存在と人間の本質に内在しているが、それ(善)は理性による合理的(客観的)認識をとおしてのみ現実には存在しうる:“穏やかな”価値客観説
→価値客観説の功罪を検討する素材となりうる
①価値(善)を人間の普遍的本質(自然も含めて)に内在するとすることによって、価値の客観的普遍的側面を、したがって諸個人に対する規範的価値の前提性を明瞭に析出している
②客観としての価値は、日常的な経験世界をこえて(その背後に)存在するとされることにより、経験世界を生きる諸個人にとって理念として行為を導く基準たりうることを明確にしている
③しかし、客観主義的価値論は存在に価値そのものを内在させるために、事物の客観主義的認識(事物認識)に価値認識を還元するとともに、事物と価値を混同することになる
- 仮に人間が心身合一でありその本質が意思の自由であることが客観的事実であるとして、それがなぜ善なのか?←説明され得ない(論理的前提)
→ 特定の歴史的社会的な価値を絶対的に普遍化する
事実認識そのものもそこに前提された価値によって歪める 危険性
事実認識そのものもそこに前提された価値によって歪める 危険性
④善・悪ないし価値一般を諸個人の欲望から完全に遮断することの問題性
感情・欲望を価値の基準としない→価値=規範的なもの(理性)
価値=精神的(理性的)→非精神的(感性的)=欲望(=動物的、自然的)=非(反)価値?
↑人間は社会的文化的存在であり、欲望も単純に動物的であるとはいえない
↑人間は社会的文化的存在であり、欲望も単純に動物的であるとはいえない
⑤個人とその対象が社会的関係のうちにあり、したがって主体・客体が社会的関係によって規定されて現実には具体的な歴史的内容をもつことをみない
デカルト—ホッブズ、客観主義—主観主義に共通
(主体:抽象的非社会的個人 客体:抽象的非社会的物体)
(主体:抽象的非社会的個人 客体:抽象的非社会的物体)
∴価値の現実的な歴史的社会的内容を・・・
客体の抽象的非社会的性格ゆえに、個人の主観的状態に還元(主観主義)
主体たる個人の抽象的非社会的性格ゆえに、客体または存在に還元(客観主義)
客体の抽象的非社会的性格ゆえに、個人の主観的状態に還元(主観主義)
主体たる個人の抽象的非社会的性格ゆえに、客体または存在に還元(客観主義)
ex)心理学主義、自然科学主義、生物学主義