中年と少女 01
椋野利明、39歳。
ごく普通の会社員であった俺は今、中学生と思しき少女の手を引いて暗闇を駆けていた。
場面は1時間ほど遡る。
ごく普通の会社員であった俺は今、中学生と思しき少女の手を引いて暗闇を駆けていた。
場面は1時間ほど遡る。
*
「あぁ~c…今日も何事もなく仕事が終わったなぁ~c…」
会社を出て、肩を回しながら胸ポケットに入れていたタバコを取り出して火を付ける。
年々喫煙者には辛くなっているが、守っている人間などごく少数だ。
「……さて、帰るか」
どこかの店に入って酒の一杯でも飲もうと思ったものの、溢れる人の波を眺めている内にそんな気が失せてしまい、携帯灰皿にタバコを押し付けて駅に向かう。
この行動は、かれこれ3年ほど続いていた。
職場では特に目立つ事なく過ごし、重要な会議に関わる事も、仕事を任される事もない。
働き盛りの年齢ではあるものの、きっかけがなければそれを発揮する事もできない。
俺はいつしか会社での孤独を埋めるように、仕事が終われば学校町南区の繁華街に足を向けていた。
結果として、それま無益な試みだった。
人波に潜れば潜るほど孤独を感じてしまい、さりとて、それを解消する為の勇気も生まれず、孤独を再確認するだけの儀式めいた習慣だけが残ってしまった。
駅に着いて切符を買い、改札を抜けて、ちょうどホームに着いた列車に乗り込む。
辺湖市のアパートに着くまでに20分もかからないだろう。
しかし、今日に限って俺は日付けが変わるまで部屋に戻る事ができなかった。
その“原因”は列車の扉が閉まる直前に車内に飛び込んできた。
赤いスカーフと黒いセーラー服。
長い黒髪を結い上げたポニーテールはその人物に活発そうな印象を与える。
(若いなぁ……)
その人物……中学生の少女に抱いた感想といえばそんなものだった。
学校町は町と呼ぶには大きい都市であり、辺湖市も同じ規模の街だ。
何もこの列車に飛び込まなくとも、10分もすれば別の便が来る。
よほど急ぎの用事でもあるのだろうか。
腕時計で時間を確認する。
デジタル時計の液晶画面は21:50を表示していた。
少女ほどの年齢の子が出歩くには遅すぎる時間だ。
塾か何かの帰り、友達と話し込んでしまい、門限の事を忘れていた……そんな所だろう。
長い独り身生活で、椋野はそういう想像をひたすら膨らませる事で暇を潰していた。
読書の趣味もなく、携帯電話を弄る用事もないので、帰宅の途に就く時には車内に人間に対してそういう想像、妄想をする事がいつの間にか習慣付いていた。
何の気なしに車内を見回すとふとした異常に気付いた。
中途半端な時間であるとはいえ、人の多い町と街を繋ぐ電車にしては人が少なすぎるのだ。
目に付く範囲では、少女と、隣の車両で携帯電話を弄っている若者しかいない。
何年もこの時間の列車に乗っているが、これほどの異様な空き具合は初めての経験だった。
呼吸を整えた少女が少し離れた反対側の座席に座った事で、俺からは彼女の顔が見えた。
活発そうな印象とは正反対の、大人しくて静かな顔だった。
鼻にちょこんと乗った縁無し眼鏡がその雰囲気を助長するが、表情には若干の焦りと怯えが見えた。
車内をせわしなく見回し、時折、俺に視線を向けては逸らす行動を繰り返す。
気にはなったが少女とは間違いなく初対面の筈なので、特に気にせず窓の外を眺める事にした。
しばらく経って俺は別の異常に気付いた。
もうそろそろ辺湖市の駅に着いてもいい時間なのに、列車はいつまでも走り続けている。
そこでまた別の異常に思い至った。
南区の駅を出てから、どこかの駅に止まった覚えさえない。
窓の外の景色はいくつもの外灯と人の営みを証明する灯火が右から左へ、左から右へ、前から後ろへ流れている。
「どうなってるんだ?」
腕時計を見て更に驚愕する。
液晶は22:30を表示していた。
立ち上がり車内を見回す。
少女は突然立ち上がった俺から離れるように移動して、相変わらず何かに怯えていた。
隣の車両にいる若者は未だに携帯電話を弄っていた。
「あの……どうかしました?」
その挙動が不審だったからなのか、少女がおずおずとそんな事を訊いてきた。
「いや……別に何も……」
恥ずかしくなって再び腰を下ろす。
いつもより遅れているだけ……そう思って安心する事しか、できることはなさそうだった。
しかし、その安心も徐々に薄れていく。
窓の外の風景から1つ、また1つと光が消えていく。
段々人気のない場所に向かっているのは明らかだった。
少女もそれに気付いたのか、立ち上がっておろおろと歩き回り、座って視線を車内に巡らし、とにかく落ち着かない様子だった。
彼女ほどではないにしても、俺も同じような不安を感じていた。
窓の外の風景から光が消えた時、その不安は恐怖へと昇華した。
やがて甲高いブレーキの音が響いて列車が停まる。
辺りは闇。
車内が明るいせいで停まった場所が何処なのかさえ分からない。
「……ようやく着いた。いやいや、俺の『都市伝説』は時間がかかるのがいけねえ」
場違いな、面倒臭そうな声を発したのは、別の車両に座っていた若者のものだった。
彼は車両と車両を区切る扉に立っている。
視線は少女に向いており、その言葉が彼女に向けられたものである事が明らかだった。
ザッ、ザッ、ザッ
不穏な足音が鳴り、あれだけ人気のなかった車内が満たされる。
俺と少女のいる車両を挟むようにして、何十人もの黒服が現れたのだ。
「それもこれもお前が話を聞かねえからだ。え?」
凄みをきかせる若者に萎縮する少女だが、怯えながらも気丈に言い返していた。
「わ、私は貴方達の仲間になんか、な、なりません!」
「そうかいそうかい。しかしまぁ、俺はお前を連れて来いって言われてんだ。無理にでも来てもらう」
若者の言葉と同時に、黒服がじりじりと少女に近付いていく。
「お、おい!」
何が起きているのかよく分からないが、状況だけみれば少女が拉致されようとしている場面だ。
「オッサン。あんたみたいなのがどうして紛れ込んでるのかは知らないが、《組織》と敵対するってのは危険な事だ。生きていたけりゃそのまま動かずにいる事だ」
若者の言葉は殆ど理解できなかったが、彼が俺に大した関心を払っていないのは分かった。
そうしている内に、少女は黒服に囲まれてしまう。
1人が少女の肩を掴んだ。
「いやっ!放して!」
もがく少女に容赦なく黒服達の手が迫る。
「うわあああああああ!」
叫び声を上げる俺に振り返った黒服の1人の顔を、通勤カバンで殴る。
そのまま何人かを殴り飛ばして少女を背に、守るような形で黒服達を牽制する。
「OK。あんたは敵だ」
若者の声に動かされるように、黒服達の攻撃の矛先が俺に変わった。
「と、扉を開けるんだ!」
黒服達に応戦しながら叫ぶと、弾かれたように少女は扉のそばにある箱から小さいハンマーを取り出して、それで非常用開閉コックのガラスを割り、中の取っ手を回す。
「あ、開きました!」
プシュー、という気の抜けた音と共に扉があき、夜風が車内に潜りこんでくる。
俺は少女の手を引いて、列車を飛び出した。
「あぁ~……逃げられちまった」
深くため息を吐き、若者は暗闇の中を走っていく少女と男の背中を見つめている。
「何してんだ。さっさと追え」
若者の言葉に応じるように、黒服達が扉から降りて2人を追跡していった。
全員が追跡に向かったので、車内には若者1人が残される。
それを確認した若者は席に腰を下ろし、アドレス帳から呼び出した人物に電話をかけた。
「もしもし、俺だ。あぁ、そうだ。今、言われた通りに追い詰めて、逃がしたよ。黒服全員で追わせてるからすぐに捕まるだろうな……何?そうはならない?何でだよ?
……あのオッサンが?こう言っちゃ何だが普通の人だったぜ、あれは。 ……ま、俺にはどっちでもいい事なんだが」
報告を終えた若者は通話を切り、座席に深く腰を下ろした。
自分が動かなくても、事態は収拾される……そんな自信に満ちた落ち付きを体で表し、ふてぶてしいまでの面倒くささを顔に浮かべて若者は黒服が戻ってくるのを待ち始めた。
会社を出て、肩を回しながら胸ポケットに入れていたタバコを取り出して火を付ける。
年々喫煙者には辛くなっているが、守っている人間などごく少数だ。
「……さて、帰るか」
どこかの店に入って酒の一杯でも飲もうと思ったものの、溢れる人の波を眺めている内にそんな気が失せてしまい、携帯灰皿にタバコを押し付けて駅に向かう。
この行動は、かれこれ3年ほど続いていた。
職場では特に目立つ事なく過ごし、重要な会議に関わる事も、仕事を任される事もない。
働き盛りの年齢ではあるものの、きっかけがなければそれを発揮する事もできない。
俺はいつしか会社での孤独を埋めるように、仕事が終われば学校町南区の繁華街に足を向けていた。
結果として、それま無益な試みだった。
人波に潜れば潜るほど孤独を感じてしまい、さりとて、それを解消する為の勇気も生まれず、孤独を再確認するだけの儀式めいた習慣だけが残ってしまった。
駅に着いて切符を買い、改札を抜けて、ちょうどホームに着いた列車に乗り込む。
辺湖市のアパートに着くまでに20分もかからないだろう。
しかし、今日に限って俺は日付けが変わるまで部屋に戻る事ができなかった。
その“原因”は列車の扉が閉まる直前に車内に飛び込んできた。
赤いスカーフと黒いセーラー服。
長い黒髪を結い上げたポニーテールはその人物に活発そうな印象を与える。
(若いなぁ……)
その人物……中学生の少女に抱いた感想といえばそんなものだった。
学校町は町と呼ぶには大きい都市であり、辺湖市も同じ規模の街だ。
何もこの列車に飛び込まなくとも、10分もすれば別の便が来る。
よほど急ぎの用事でもあるのだろうか。
腕時計で時間を確認する。
デジタル時計の液晶画面は21:50を表示していた。
少女ほどの年齢の子が出歩くには遅すぎる時間だ。
塾か何かの帰り、友達と話し込んでしまい、門限の事を忘れていた……そんな所だろう。
長い独り身生活で、椋野はそういう想像をひたすら膨らませる事で暇を潰していた。
読書の趣味もなく、携帯電話を弄る用事もないので、帰宅の途に就く時には車内に人間に対してそういう想像、妄想をする事がいつの間にか習慣付いていた。
何の気なしに車内を見回すとふとした異常に気付いた。
中途半端な時間であるとはいえ、人の多い町と街を繋ぐ電車にしては人が少なすぎるのだ。
目に付く範囲では、少女と、隣の車両で携帯電話を弄っている若者しかいない。
何年もこの時間の列車に乗っているが、これほどの異様な空き具合は初めての経験だった。
呼吸を整えた少女が少し離れた反対側の座席に座った事で、俺からは彼女の顔が見えた。
活発そうな印象とは正反対の、大人しくて静かな顔だった。
鼻にちょこんと乗った縁無し眼鏡がその雰囲気を助長するが、表情には若干の焦りと怯えが見えた。
車内をせわしなく見回し、時折、俺に視線を向けては逸らす行動を繰り返す。
気にはなったが少女とは間違いなく初対面の筈なので、特に気にせず窓の外を眺める事にした。
しばらく経って俺は別の異常に気付いた。
もうそろそろ辺湖市の駅に着いてもいい時間なのに、列車はいつまでも走り続けている。
そこでまた別の異常に思い至った。
南区の駅を出てから、どこかの駅に止まった覚えさえない。
窓の外の景色はいくつもの外灯と人の営みを証明する灯火が右から左へ、左から右へ、前から後ろへ流れている。
「どうなってるんだ?」
腕時計を見て更に驚愕する。
液晶は22:30を表示していた。
立ち上がり車内を見回す。
少女は突然立ち上がった俺から離れるように移動して、相変わらず何かに怯えていた。
隣の車両にいる若者は未だに携帯電話を弄っていた。
「あの……どうかしました?」
その挙動が不審だったからなのか、少女がおずおずとそんな事を訊いてきた。
「いや……別に何も……」
恥ずかしくなって再び腰を下ろす。
いつもより遅れているだけ……そう思って安心する事しか、できることはなさそうだった。
しかし、その安心も徐々に薄れていく。
窓の外の風景から1つ、また1つと光が消えていく。
段々人気のない場所に向かっているのは明らかだった。
少女もそれに気付いたのか、立ち上がっておろおろと歩き回り、座って視線を車内に巡らし、とにかく落ち着かない様子だった。
彼女ほどではないにしても、俺も同じような不安を感じていた。
窓の外の風景から光が消えた時、その不安は恐怖へと昇華した。
やがて甲高いブレーキの音が響いて列車が停まる。
辺りは闇。
車内が明るいせいで停まった場所が何処なのかさえ分からない。
「……ようやく着いた。いやいや、俺の『都市伝説』は時間がかかるのがいけねえ」
場違いな、面倒臭そうな声を発したのは、別の車両に座っていた若者のものだった。
彼は車両と車両を区切る扉に立っている。
視線は少女に向いており、その言葉が彼女に向けられたものである事が明らかだった。
ザッ、ザッ、ザッ
不穏な足音が鳴り、あれだけ人気のなかった車内が満たされる。
俺と少女のいる車両を挟むようにして、何十人もの黒服が現れたのだ。
「それもこれもお前が話を聞かねえからだ。え?」
凄みをきかせる若者に萎縮する少女だが、怯えながらも気丈に言い返していた。
「わ、私は貴方達の仲間になんか、な、なりません!」
「そうかいそうかい。しかしまぁ、俺はお前を連れて来いって言われてんだ。無理にでも来てもらう」
若者の言葉と同時に、黒服がじりじりと少女に近付いていく。
「お、おい!」
何が起きているのかよく分からないが、状況だけみれば少女が拉致されようとしている場面だ。
「オッサン。あんたみたいなのがどうして紛れ込んでるのかは知らないが、《組織》と敵対するってのは危険な事だ。生きていたけりゃそのまま動かずにいる事だ」
若者の言葉は殆ど理解できなかったが、彼が俺に大した関心を払っていないのは分かった。
そうしている内に、少女は黒服に囲まれてしまう。
1人が少女の肩を掴んだ。
「いやっ!放して!」
もがく少女に容赦なく黒服達の手が迫る。
「うわあああああああ!」
叫び声を上げる俺に振り返った黒服の1人の顔を、通勤カバンで殴る。
そのまま何人かを殴り飛ばして少女を背に、守るような形で黒服達を牽制する。
「OK。あんたは敵だ」
若者の声に動かされるように、黒服達の攻撃の矛先が俺に変わった。
「と、扉を開けるんだ!」
黒服達に応戦しながら叫ぶと、弾かれたように少女は扉のそばにある箱から小さいハンマーを取り出して、それで非常用開閉コックのガラスを割り、中の取っ手を回す。
「あ、開きました!」
プシュー、という気の抜けた音と共に扉があき、夜風が車内に潜りこんでくる。
俺は少女の手を引いて、列車を飛び出した。
「あぁ~……逃げられちまった」
深くため息を吐き、若者は暗闇の中を走っていく少女と男の背中を見つめている。
「何してんだ。さっさと追え」
若者の言葉に応じるように、黒服達が扉から降りて2人を追跡していった。
全員が追跡に向かったので、車内には若者1人が残される。
それを確認した若者は席に腰を下ろし、アドレス帳から呼び出した人物に電話をかけた。
「もしもし、俺だ。あぁ、そうだ。今、言われた通りに追い詰めて、逃がしたよ。黒服全員で追わせてるからすぐに捕まるだろうな……何?そうはならない?何でだよ?
……あのオッサンが?こう言っちゃ何だが普通の人だったぜ、あれは。 ……ま、俺にはどっちでもいい事なんだが」
報告を終えた若者は通話を切り、座席に深く腰を下ろした。
自分が動かなくても、事態は収拾される……そんな自信に満ちた落ち付きを体で表し、ふてぶてしいまでの面倒くささを顔に浮かべて若者は黒服が戻ってくるのを待ち始めた。
*
22:50。
俺は少女を連れて暗闇を走っていた。
次第に慣れてきた目は、今2人が何処にいるのかを教えてくれた。
「ここ……操車場か?」
何台もの電車が並び、何本もの線路が伸びているここは、普通の線路や路線というよりも、操車場や車両基地と呼ばれる場所であるように思えた。
しかし、稼動しているようには見えない。
いくら深夜とはいえ、学校町や辺湖市での最終便が出る時間ではない。
稼動しているなら、少なくとも明かりが点いているはずだった。
何台かの列車の間を抜ける時に車体に触ったが、ザラザラしていて酷い錆付きが暗い中でも簡単に認識できた。
ここが廃棄された土地である事に疑いの余地はないように思える。
「はぁ……はぁ……!」
繋がった手の先で少女に荒い息が聞こえた。
最初から少女は追われていたのだ。
あの若者と、黒服達に追われ、命からがら列車に飛び込んだのだ。
「はぁ……きゃっ!」
小石か線路に足を取られ、少女は派手に転んだ。
「あ、だ、大丈夫!?」
「大丈夫で、痛っ!」
立ち上がろうとした少女だったが、どうも足を怪我したらしい。
どこかで傷の具合の確認をしなければならない。
「……よし。あの小屋に行こう」
暗闇の中で見つけた小屋に、少女の肩をとって入った。
「……あまり酷い怪我じゃなさそうだ」
カバンの中を探ると、仕事中に汗を拭いたタオルが出てきた。
他に拭ける物が見付からなかったので、少し不安だったがそれで血を拭う。
「すいません……っ!」
少女の血を拭い、そのままタオルを包帯代わりに傷口を縛る。
ひと段落つくと、小屋の中を見回す余裕が出てきた。
どうやら入ってきた電車の運転手に、収める車庫の場所やその他の指示を出す為の小屋らしい。
窓は埃を被ったカーテンが引かれていたが、少女に傷口を確認する時に使った携帯電話の光が漏れていなかったかどうかは分からない。
「……君、あの人達に覚えはあるのかい?」
余裕が出てくれば疑問が同じように湧いてくる。
「……はい。あの人達は、《組織》の人達で、私の……能力を手に入れようとしているんです」
《組織》。
それは列車の中で若者が漏らした言葉にも出てきた単語だった。
「その《組織》ってのは何なんだい?」
「私にもよく……でも、『都市伝説』の能力を使って悪い『都市伝説』を退治している、と聞いた事があります」
「『都市伝説』……」
言葉だけなら俺にも何の事か分かる。
噂話や迷信の類だ。
それの能力とは、一体どういう事なのか。
「《組織》の他にも、《首塚》という組織からも声をかけられたんですけど……私、怖くて……」
沈黙に耐えられなくなったのか、ぽつぽつと少女は語りだした。
「今日、学校から帰る時にあの男の人に声を掛けられたんです。組織に入らないか、って。私は、自分が都市伝説の能力を持ってる事には気付いてましたけど、そういうの所属するのが怖かったんです。
だから、能力を使わずに静かにしていようと思ったんですけど……」
《組織》という連中はそんな少女の態度に業を煮やし、今日はより強気にスカウトしようとしたのだろう。
あの男、というと列車の若者の事だろう。
ひょっとしたら、彼1人の無理な勧誘だったのかもしれない。
「それで、カバンを投げつけて逃げたんです。でも、こんな事になってしまって……ごめんなさい、すいません……」
完全に暗闇に慣れた椋野の目は沈鬱な表情を浮かべる少女の所作を余す所なく彼に伝えた。
「いや……大丈夫。気にしなくていい」
巻き込まれた事への怒りや文句もあったはずだが、不思議とそういう考えは浮かばなかった。
しかし、少女の方は俺が怒っているように感じたのか、小声で謝罪を繰り返していた。
「何か楽しい話をしようか」
空気を変える為に、いつか見た映画の真似をして口火を切る。
「君、名前は?」
「……柊といいます」
「柊か。名前は?」
「いえ、名前が柊なんです」
バツが悪そうに苦笑する少女。
きっと、今迄、自己紹介をする度に同じ質問をされて、同じ返答をしてきたのだろう。
「俺も同じように名前に樹が入ってるんだ。ほら」
スーツの内ポケットに入れていた名刺入れを渡す。
渡してから、この暗闇では見えないという事に気付いた。
「あ、ごめん。何か癖で」
「名刺渡すのが癖って、社会人って感じですね」
暗闇の中で少女が笑った気がした。
「俺は椋野っていうんだ。椋って字、分かるかな? 木へんに京って書くんだけど」
「へぇ~、名字は何て言うんですか?」
「え?」
質問の意図が分からずにしばらく呆けてしまい、ようやくそれに気付いた時には、少女……柊が笑っていた。
俺は苦笑しながら、こう答えるしかない。
「椋野は名字だよ」
ザッ、ザッ、ザザザザッ
何人もの足音が聞こえて、俺と柊の間に流れていたちょっとよさげな空気が引き締まる。
足音は小屋の周りから何十にも重なって聞こえてくる。
どうやら、しらみ潰しに探し始めたようだ。
デジタル時計のライトを点けると、23:20の表示が見えた。
(……何で時間の確認とかしてるんだ、俺)
時間が経てば誰かが助けに来てくれるとでも思っているのだろうか。
そういう事は、あの黒服達や若者から逃げ切れた時に考えよう。
「立てる?」
「……あの」
俺の言葉に、彼女は何かしらの決意を感じる声で応じた。
「こんな事になったのは私のせいです。だから、椋野さんは逃げて下さい。あの人達は、私が行けば椋野さんには何もしないと思うんです」
「ダメだ」
柊の申し出を、即断する。
特に何か考えがあった訳でもなく、まるで脊髄反射のようだった。
「どうして……あの、本当に私はいいんです。誰かに会わせたいみたいでしたから、私が抵抗しなければ何もされないと思うんです」
「そんな事は分からない。それに、君みたいな子供を残していけない」
「でも……」
何か言おうとしている柊に背中を向ける。
「おぶって行けば大丈夫」
「でも」
「俺はね、明日が誕生日なんだ」
何年も前から、親や兄弟以外から祝いのメールしか貰わなくなったその記念日を、1つの区切りにしよう。
「明日になったら逃げられる。だから、それまでは頑張ろうと思うんだ」
デスクワーク中心の、中年の体で、少女を背負って何処まで逃げられるかは分からないけど、少女を無理矢理にでも納得させるには、こういう分かり易い区切りが必要だ。
「……分かりました」
申し訳ないような、でも安心したような、複雑な声で俺の指示に従った少女の重みと柔らかい感触を背中に感じてから、静かに小屋の扉に近付いてドアノブを掴み、聞き耳を立てる。
いくつもの足音がひっきりなしに聞こえ、しばらくしているとその内の1つが大きくなった。
黒服達の1人が近付いてきたのだ。
間を置かずに足音は扉の前で止まった。
相手が扉を開けようとしている事をドアノブを通じて感じた時、思い切りこちら側から押し開けた。
暗闇に溶けそうな黒服が地面に倒れる音が響き、俺は走り出す。
何人もの視線が背中に突き刺さるが気にしている場合じゃない。
線路を飛び越え、錆びた電車の脇を抜け、敷き詰められた小石に足を取られそうになりながら走る。
走って走って……頽廃している操車場を1分1秒でも早く抜け出さなければならない。
しばらくすると大きな建物の輪郭が見えた。
電車を収納し、点検する為の巨大な車庫のようだ。
「あ、あの、あれ!」
中で黒服達をやり過ごそうかという思いが浮かんだが、柊の指が示すものを見てすぐにかき消された。
倉庫の、巨大な扉の向こうに明かりが見えたからだ。
その光に向かって、俺はもつれそうになる足をフル回転させて速度を上げた。
扉の隙間から中に潜り込むと、いくつもの列車がぼんやりと照らされているのが分かった。
もう1つの扉、出口の方からもっと強い光が漏れている。
黒服達の足音が扉の内側に入って来たので、俺は慌てて出口に向かう。
入口よりも狭い隙間だったので急いで開き、光の元で飛び込んだ。
そこは、最初に逃げ出したはずの列車の中だった。
ひっ、と柊の口から音がこぼれた。
「よう」
若者が待ちくたびれたとばかりに溜め息を吐いて座席から立ち上がる。
「オッサンはこんな話を聞いたことないか? あるサラリーマンが会社の同僚達と酒を飲んだ帰りに電車に乗った。
サラリーマンの降りる駅まではすぐに着くはずだったが、酒と勤務の疲れから彼は眠ってしまった。
起きた時には電車の中が真っ暗になっていて、周りに目を凝らすと何台もの列車が見え、どうも操車場のようだった。熟睡したサラリーマンに運転手や車掌は気付かず、操車場まで来てしまっていた。
早朝、駅員が来るまで、サラリーマンは電車に閉じ込められてしまう……ってやつ。冬だとこれに凍死がプラスされるんだが、俺にそこまでの事はできない」
プシュー、という気の抜けた音が響き、列車の扉が閉じた。
ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン
徐々に列車の速度が上がっていく。
「俺が契約したのは、そのサラリーマンを閉じ込められた列車そのもの、ひいてはあの操車場そのものだ。何処に逃げても、あの操車場にいる限り、この列車に戻ってきてしまう。それが契約して手に入れた【操車場】の能力」
車窓の向こうに1つ2つと外灯が増えていく。
列車は、操車場から何処かに向かっている。
「しょうがねえからアンタらはこのまま《組織》に来てもらう。10分もあれば着く」
「電車を止めろ!」
「無理だね。この【列車】は“駅から駅、駅から操車場、操車場から駅への移動”の為のものだ。移動の途中で止まるようには出来ていない」
若者から視線を外すと、列車を出る時に壊した非常用開閉コックが見えた。
走ってその赤色の取っ手を握る。
「外は時速何百キロの世界だ。逃げれはするかも知れないけど、確実にアンタもその子も死ぬだろうね。
こっちは何もしない事を誓うから大人しくしててくれ」
このまま《組織》とかいう得体の知れない連中の元へ拉致されるのか。
そう思った時、電車の音とは別の音が耳に入って来た。
いや、それは音というより声だった。
『飛べばいい』
何でも無い事のように声は言った。
若くはあるものの、落ち着いた、妙齢の女性を思わせる声。
『さっきまでいた操車場なら逃げる事は無理だったけど、今なら出来る。扉を開けて、飛べばいい』
「だが、しかし、飛ぶって……そんな事は……」
『出来る。貴方が契約するのは、そういう都市伝説だから』
「……契約?」
『そう、契約。私との契約が結ばれれば貴方は私の力を使う事ができる。素質はある。条件も満たしている。だから、私の声が聞こえている』
何か呟き始めた俺に訝し気な視線を向ける若者だったが、何かに気付いたよう表情を変えた。
「まさかアンタ……今、何かと契約しようってんだな?」
若者の顔には列車に飛び込んだ少女のような焦りが浮かんでいた。
今まで若者は俺がどんな都市伝説とも契約していない、ただの一般人だと思っていた。
だからこその余裕だったのだろう。
普通の人間になら逃げられる心配はないが、都市伝説と契約を交わし、何らかの能力を行使されるとなれば話が変わる。
俺は取っ手を思い切り回した。
扉が開き、強風が車内で荒れ狂う。
何本かの外灯に照らされただけの、真夜中の闇が広がっている。
「おい!オッサン、てめぇ……!」
『飛べ』
声は何度も俺を急かす。
何となく、声に従った時に契約が締結されるのだと感じ、ほんの少し躊躇してしまう。
『飛べ』
「椋野さん……!」
柊が俺の肩を強く握った。
その、恐怖を堪える力で躊躇は霧散した。
男なら、困っている女の子は助けなければいけない。
腰を落とし、力を込めて列車から飛び降りた。
すさまじい暴風が俺と柊を包み、もみくちゃにしていく。
列車が彼方に走り去っていく様子が、かろうじて視界に入っていただけで、すぐにどちらが空でどちらが地面なのかさえ分からなくなった。
『何でもいいからイメージ!飛んでるイメージを!』
声が混乱した俺の頭を打つ。
それが女性のものであったからか、俺がイメージしたのは鳥などではなく、1本の箒に跨った魔女だった。
ふわり、と。
急に風が心地よくなり、浮遊感が俺の体を包んだ。
両手に硬いものを握っている感覚が生まれる。
閉じていた目を開くと眼下には遠くの学校町と辺湖市新町の夜景が広がっていた。
「飛んでる……?」
『あぁ、飛んでるね。初めてにしては上出来だ』
すぐ近くから声を感じて隣を見ると、丈の長い服……ローブというやつだっただろうか、それに身を包んだ綺麗な女の人が箒に乗ってニヤニヤ笑っている。
俺より少し若い、まさに妙齢の美女、魔女といった風貌だ。
「あ、あの、この人は……?」
風に煽られている最中でさえ叫び声も上げなかった柊が怯えながら俺に訊いてきた。
どうやら、この女性は柊にも見えているらしい。
「いや、俺にも何ていえばいいのか……」
『契約したんだよ。私は、この男とね。初めましてお2人さん。私の事は、まぁ、好きに呼んで頂戴』
空を飛んでる奇妙な感覚に包まれながら、女性の暢気ともとれる自己紹介が夜風に流れる。
現在時刻は0:07。
俺は魔法使いになっていた。
俺は少女を連れて暗闇を走っていた。
次第に慣れてきた目は、今2人が何処にいるのかを教えてくれた。
「ここ……操車場か?」
何台もの電車が並び、何本もの線路が伸びているここは、普通の線路や路線というよりも、操車場や車両基地と呼ばれる場所であるように思えた。
しかし、稼動しているようには見えない。
いくら深夜とはいえ、学校町や辺湖市での最終便が出る時間ではない。
稼動しているなら、少なくとも明かりが点いているはずだった。
何台かの列車の間を抜ける時に車体に触ったが、ザラザラしていて酷い錆付きが暗い中でも簡単に認識できた。
ここが廃棄された土地である事に疑いの余地はないように思える。
「はぁ……はぁ……!」
繋がった手の先で少女に荒い息が聞こえた。
最初から少女は追われていたのだ。
あの若者と、黒服達に追われ、命からがら列車に飛び込んだのだ。
「はぁ……きゃっ!」
小石か線路に足を取られ、少女は派手に転んだ。
「あ、だ、大丈夫!?」
「大丈夫で、痛っ!」
立ち上がろうとした少女だったが、どうも足を怪我したらしい。
どこかで傷の具合の確認をしなければならない。
「……よし。あの小屋に行こう」
暗闇の中で見つけた小屋に、少女の肩をとって入った。
「……あまり酷い怪我じゃなさそうだ」
カバンの中を探ると、仕事中に汗を拭いたタオルが出てきた。
他に拭ける物が見付からなかったので、少し不安だったがそれで血を拭う。
「すいません……っ!」
少女の血を拭い、そのままタオルを包帯代わりに傷口を縛る。
ひと段落つくと、小屋の中を見回す余裕が出てきた。
どうやら入ってきた電車の運転手に、収める車庫の場所やその他の指示を出す為の小屋らしい。
窓は埃を被ったカーテンが引かれていたが、少女に傷口を確認する時に使った携帯電話の光が漏れていなかったかどうかは分からない。
「……君、あの人達に覚えはあるのかい?」
余裕が出てくれば疑問が同じように湧いてくる。
「……はい。あの人達は、《組織》の人達で、私の……能力を手に入れようとしているんです」
《組織》。
それは列車の中で若者が漏らした言葉にも出てきた単語だった。
「その《組織》ってのは何なんだい?」
「私にもよく……でも、『都市伝説』の能力を使って悪い『都市伝説』を退治している、と聞いた事があります」
「『都市伝説』……」
言葉だけなら俺にも何の事か分かる。
噂話や迷信の類だ。
それの能力とは、一体どういう事なのか。
「《組織》の他にも、《首塚》という組織からも声をかけられたんですけど……私、怖くて……」
沈黙に耐えられなくなったのか、ぽつぽつと少女は語りだした。
「今日、学校から帰る時にあの男の人に声を掛けられたんです。組織に入らないか、って。私は、自分が都市伝説の能力を持ってる事には気付いてましたけど、そういうの所属するのが怖かったんです。
だから、能力を使わずに静かにしていようと思ったんですけど……」
《組織》という連中はそんな少女の態度に業を煮やし、今日はより強気にスカウトしようとしたのだろう。
あの男、というと列車の若者の事だろう。
ひょっとしたら、彼1人の無理な勧誘だったのかもしれない。
「それで、カバンを投げつけて逃げたんです。でも、こんな事になってしまって……ごめんなさい、すいません……」
完全に暗闇に慣れた椋野の目は沈鬱な表情を浮かべる少女の所作を余す所なく彼に伝えた。
「いや……大丈夫。気にしなくていい」
巻き込まれた事への怒りや文句もあったはずだが、不思議とそういう考えは浮かばなかった。
しかし、少女の方は俺が怒っているように感じたのか、小声で謝罪を繰り返していた。
「何か楽しい話をしようか」
空気を変える為に、いつか見た映画の真似をして口火を切る。
「君、名前は?」
「……柊といいます」
「柊か。名前は?」
「いえ、名前が柊なんです」
バツが悪そうに苦笑する少女。
きっと、今迄、自己紹介をする度に同じ質問をされて、同じ返答をしてきたのだろう。
「俺も同じように名前に樹が入ってるんだ。ほら」
スーツの内ポケットに入れていた名刺入れを渡す。
渡してから、この暗闇では見えないという事に気付いた。
「あ、ごめん。何か癖で」
「名刺渡すのが癖って、社会人って感じですね」
暗闇の中で少女が笑った気がした。
「俺は椋野っていうんだ。椋って字、分かるかな? 木へんに京って書くんだけど」
「へぇ~、名字は何て言うんですか?」
「え?」
質問の意図が分からずにしばらく呆けてしまい、ようやくそれに気付いた時には、少女……柊が笑っていた。
俺は苦笑しながら、こう答えるしかない。
「椋野は名字だよ」
ザッ、ザッ、ザザザザッ
何人もの足音が聞こえて、俺と柊の間に流れていたちょっとよさげな空気が引き締まる。
足音は小屋の周りから何十にも重なって聞こえてくる。
どうやら、しらみ潰しに探し始めたようだ。
デジタル時計のライトを点けると、23:20の表示が見えた。
(……何で時間の確認とかしてるんだ、俺)
時間が経てば誰かが助けに来てくれるとでも思っているのだろうか。
そういう事は、あの黒服達や若者から逃げ切れた時に考えよう。
「立てる?」
「……あの」
俺の言葉に、彼女は何かしらの決意を感じる声で応じた。
「こんな事になったのは私のせいです。だから、椋野さんは逃げて下さい。あの人達は、私が行けば椋野さんには何もしないと思うんです」
「ダメだ」
柊の申し出を、即断する。
特に何か考えがあった訳でもなく、まるで脊髄反射のようだった。
「どうして……あの、本当に私はいいんです。誰かに会わせたいみたいでしたから、私が抵抗しなければ何もされないと思うんです」
「そんな事は分からない。それに、君みたいな子供を残していけない」
「でも……」
何か言おうとしている柊に背中を向ける。
「おぶって行けば大丈夫」
「でも」
「俺はね、明日が誕生日なんだ」
何年も前から、親や兄弟以外から祝いのメールしか貰わなくなったその記念日を、1つの区切りにしよう。
「明日になったら逃げられる。だから、それまでは頑張ろうと思うんだ」
デスクワーク中心の、中年の体で、少女を背負って何処まで逃げられるかは分からないけど、少女を無理矢理にでも納得させるには、こういう分かり易い区切りが必要だ。
「……分かりました」
申し訳ないような、でも安心したような、複雑な声で俺の指示に従った少女の重みと柔らかい感触を背中に感じてから、静かに小屋の扉に近付いてドアノブを掴み、聞き耳を立てる。
いくつもの足音がひっきりなしに聞こえ、しばらくしているとその内の1つが大きくなった。
黒服達の1人が近付いてきたのだ。
間を置かずに足音は扉の前で止まった。
相手が扉を開けようとしている事をドアノブを通じて感じた時、思い切りこちら側から押し開けた。
暗闇に溶けそうな黒服が地面に倒れる音が響き、俺は走り出す。
何人もの視線が背中に突き刺さるが気にしている場合じゃない。
線路を飛び越え、錆びた電車の脇を抜け、敷き詰められた小石に足を取られそうになりながら走る。
走って走って……頽廃している操車場を1分1秒でも早く抜け出さなければならない。
しばらくすると大きな建物の輪郭が見えた。
電車を収納し、点検する為の巨大な車庫のようだ。
「あ、あの、あれ!」
中で黒服達をやり過ごそうかという思いが浮かんだが、柊の指が示すものを見てすぐにかき消された。
倉庫の、巨大な扉の向こうに明かりが見えたからだ。
その光に向かって、俺はもつれそうになる足をフル回転させて速度を上げた。
扉の隙間から中に潜り込むと、いくつもの列車がぼんやりと照らされているのが分かった。
もう1つの扉、出口の方からもっと強い光が漏れている。
黒服達の足音が扉の内側に入って来たので、俺は慌てて出口に向かう。
入口よりも狭い隙間だったので急いで開き、光の元で飛び込んだ。
そこは、最初に逃げ出したはずの列車の中だった。
ひっ、と柊の口から音がこぼれた。
「よう」
若者が待ちくたびれたとばかりに溜め息を吐いて座席から立ち上がる。
「オッサンはこんな話を聞いたことないか? あるサラリーマンが会社の同僚達と酒を飲んだ帰りに電車に乗った。
サラリーマンの降りる駅まではすぐに着くはずだったが、酒と勤務の疲れから彼は眠ってしまった。
起きた時には電車の中が真っ暗になっていて、周りに目を凝らすと何台もの列車が見え、どうも操車場のようだった。熟睡したサラリーマンに運転手や車掌は気付かず、操車場まで来てしまっていた。
早朝、駅員が来るまで、サラリーマンは電車に閉じ込められてしまう……ってやつ。冬だとこれに凍死がプラスされるんだが、俺にそこまでの事はできない」
プシュー、という気の抜けた音が響き、列車の扉が閉じた。
ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン
徐々に列車の速度が上がっていく。
「俺が契約したのは、そのサラリーマンを閉じ込められた列車そのもの、ひいてはあの操車場そのものだ。何処に逃げても、あの操車場にいる限り、この列車に戻ってきてしまう。それが契約して手に入れた【操車場】の能力」
車窓の向こうに1つ2つと外灯が増えていく。
列車は、操車場から何処かに向かっている。
「しょうがねえからアンタらはこのまま《組織》に来てもらう。10分もあれば着く」
「電車を止めろ!」
「無理だね。この【列車】は“駅から駅、駅から操車場、操車場から駅への移動”の為のものだ。移動の途中で止まるようには出来ていない」
若者から視線を外すと、列車を出る時に壊した非常用開閉コックが見えた。
走ってその赤色の取っ手を握る。
「外は時速何百キロの世界だ。逃げれはするかも知れないけど、確実にアンタもその子も死ぬだろうね。
こっちは何もしない事を誓うから大人しくしててくれ」
このまま《組織》とかいう得体の知れない連中の元へ拉致されるのか。
そう思った時、電車の音とは別の音が耳に入って来た。
いや、それは音というより声だった。
『飛べばいい』
何でも無い事のように声は言った。
若くはあるものの、落ち着いた、妙齢の女性を思わせる声。
『さっきまでいた操車場なら逃げる事は無理だったけど、今なら出来る。扉を開けて、飛べばいい』
「だが、しかし、飛ぶって……そんな事は……」
『出来る。貴方が契約するのは、そういう都市伝説だから』
「……契約?」
『そう、契約。私との契約が結ばれれば貴方は私の力を使う事ができる。素質はある。条件も満たしている。だから、私の声が聞こえている』
何か呟き始めた俺に訝し気な視線を向ける若者だったが、何かに気付いたよう表情を変えた。
「まさかアンタ……今、何かと契約しようってんだな?」
若者の顔には列車に飛び込んだ少女のような焦りが浮かんでいた。
今まで若者は俺がどんな都市伝説とも契約していない、ただの一般人だと思っていた。
だからこその余裕だったのだろう。
普通の人間になら逃げられる心配はないが、都市伝説と契約を交わし、何らかの能力を行使されるとなれば話が変わる。
俺は取っ手を思い切り回した。
扉が開き、強風が車内で荒れ狂う。
何本かの外灯に照らされただけの、真夜中の闇が広がっている。
「おい!オッサン、てめぇ……!」
『飛べ』
声は何度も俺を急かす。
何となく、声に従った時に契約が締結されるのだと感じ、ほんの少し躊躇してしまう。
『飛べ』
「椋野さん……!」
柊が俺の肩を強く握った。
その、恐怖を堪える力で躊躇は霧散した。
男なら、困っている女の子は助けなければいけない。
腰を落とし、力を込めて列車から飛び降りた。
すさまじい暴風が俺と柊を包み、もみくちゃにしていく。
列車が彼方に走り去っていく様子が、かろうじて視界に入っていただけで、すぐにどちらが空でどちらが地面なのかさえ分からなくなった。
『何でもいいからイメージ!飛んでるイメージを!』
声が混乱した俺の頭を打つ。
それが女性のものであったからか、俺がイメージしたのは鳥などではなく、1本の箒に跨った魔女だった。
ふわり、と。
急に風が心地よくなり、浮遊感が俺の体を包んだ。
両手に硬いものを握っている感覚が生まれる。
閉じていた目を開くと眼下には遠くの学校町と辺湖市新町の夜景が広がっていた。
「飛んでる……?」
『あぁ、飛んでるね。初めてにしては上出来だ』
すぐ近くから声を感じて隣を見ると、丈の長い服……ローブというやつだっただろうか、それに身を包んだ綺麗な女の人が箒に乗ってニヤニヤ笑っている。
俺より少し若い、まさに妙齢の美女、魔女といった風貌だ。
「あ、あの、この人は……?」
風に煽られている最中でさえ叫び声も上げなかった柊が怯えながら俺に訊いてきた。
どうやら、この女性は柊にも見えているらしい。
「いや、俺にも何ていえばいいのか……」
『契約したんだよ。私は、この男とね。初めましてお2人さん。私の事は、まぁ、好きに呼んで頂戴』
空を飛んでる奇妙な感覚に包まれながら、女性の暢気ともとれる自己紹介が夜風に流れる。
現在時刻は0:07。
俺は魔法使いになっていた。
続く