どよどよと何処となく居心地の悪い雰囲気を放つアパートを前にして私は立ち止まる
湿気をともなった晩夏の気だるげな暑さの中、噴き出した汗の心地は限りなく不快だ
湿気をともなった晩夏の気だるげな暑さの中、噴き出した汗の心地は限りなく不快だ
私は組織の黒服
昨晩、Aナンバーの女子との援助交際で
深夜までハッスルしていたのが災いし、今日の仕事に響いてしまった
一応、先方には謝罪の連絡は入れてあるものの、どうしても気を揉んでしまう
当初の予定より大幅に遅れたという事情だけではない
このアパートの雰囲気も、不安とも焦燥ともつかぬ気持ち悪い胸の内を燻らせるのに
確実に一役買っている筈である
私は、二三度深呼吸をすると、意を決してアパートへと乗り込んだ
昨晩、Aナンバーの女子との援助交際で
深夜までハッスルしていたのが災いし、今日の仕事に響いてしまった
一応、先方には謝罪の連絡は入れてあるものの、どうしても気を揉んでしまう
当初の予定より大幅に遅れたという事情だけではない
このアパートの雰囲気も、不安とも焦燥ともつかぬ気持ち悪い胸の内を燻らせるのに
確実に一役買っている筈である
私は、二三度深呼吸をすると、意を決してアパートへと乗り込んだ
三〇五号室
「新聞勧誘お断り」のステッカーが貼られた扉を前に、私はインターホンに手を掛ける
「新聞勧誘お断り」のステッカーが貼られた扉を前に、私はインターホンに手を掛ける
「失礼します、デンデンシャの山之内です、齊藤さんはいらっしゃいますか」
デンデンシャも山之内も一種の符牒のようなものだ
組織は俗にデンデンシャと呼ばれている訳ではなく
私の名も山之内ではない。尤も、山之内は私の偽名ではあるのだが
やや間があって、チェーンと鍵が外される音と、どうぞ、という声が扉の向こうから聞こえた
開いた扉の間から、長い髪とその奥にある目玉が覗く
組織は俗にデンデンシャと呼ばれている訳ではなく
私の名も山之内ではない。尤も、山之内は私の偽名ではあるのだが
やや間があって、チェーンと鍵が外される音と、どうぞ、という声が扉の向こうから聞こえた
開いた扉の間から、長い髪とその奥にある目玉が覗く
「随分と、久しぶりですね。山之内さん」
「さあさ、どうぞこちらへ。汚い所で申し訳ありません」
私は居間へと通された
室内はむっとした空気で換気されている気配はない
窓の類は全て遮光され、暗い蛍光灯の下、床には衣類や新聞が散乱している
最後に来たのは半年前だったか、何も変わっていない
室内はむっとした空気で換気されている気配はない
窓の類は全て遮光され、暗い蛍光灯の下、床には衣類や新聞が散乱している
最後に来たのは半年前だったか、何も変わっていない
私は鞄を下ろし、やけに大きな座卓を前に正座する
その向かいには齊藤夫人が座った
彼女の左頬には、大きな斬り傷の後がある
太い釣り糸で縫い付けているのは、もう二度と暴走したくない、という彼女の切実な願いによるものだ
夫人の出してきた茶を有り難くいただく
一口啜った。喉の奥に広がる苦みと生温さとそれ以上の暗黒
はっきり言って味は不味い。茶の筈なのに何故かすっぱい
その向かいには齊藤夫人が座った
彼女の左頬には、大きな斬り傷の後がある
太い釣り糸で縫い付けているのは、もう二度と暴走したくない、という彼女の切実な願いによるものだ
夫人の出してきた茶を有り難くいただく
一口啜った。喉の奥に広がる苦みと生温さとそれ以上の暗黒
はっきり言って味は不味い。茶の筈なのに何故かすっぱい
「お変わりありませんか、齊藤さん」
「お陰様で何とかやっています、にしても、本当に久しいですね、山之内さんが訪ねてくるなんて」
「今日は、お伝えする事があって。旦那さんはお仕事ですか?」
「……主人は、先日、勤め先を解雇されまして」
初っ端から地雷を踏んでしまった
夫人は明らかに顔を伏せている。ワナワナと震えているのは気の所為だろうか
夫人は明らかに顔を伏せている。ワナワナと震えているのは気の所為だろうか
「私がいけないんです、私が……あの日、山に行こうなんて、変な事言わなければ」
顔を上げた夫人の頬には涙が伝っている
不意に、昨晩の出来事が脳裏をよぎった
あの過激派の少女も、私が強く緊縛すると泣きながら更に被虐の欲望を露わにしたものだ
夫人の表情を見て、思わず私はごくりと音を立てて唾を飲み込んだ
不意に、昨晩の出来事が脳裏をよぎった
あの過激派の少女も、私が強く緊縛すると泣きながら更に被虐の欲望を露わにしたものだ
夫人の表情を見て、思わず私はごくりと音を立てて唾を飲み込んだ
「山へ行ってから、主人は少し様子がおかしくなったんです
夜に寝言が多くなって、ずっと同じ言葉を。はいれたはいれたって」
夜に寝言が多くなって、ずっと同じ言葉を。はいれたはいれたって」
「はいれた、ですか」
何故か卑猥な妄想が脳をじわじわと侵食する
齊藤氏は半年前に会った際、ロイド眼鏡がこの上なく似合う堅実な好青年といった印象だった
そんな彼が、夫人を、眼の前に居る如何にも生活に疲れた陰のある年上の女性を……
「はいれた」とはつまり、たまらなく背徳的なそれである事には違いない
齊藤氏に対し、私は少しばかりの羨望と嫉妬を覚えた
齊藤氏は半年前に会った際、ロイド眼鏡がこの上なく似合う堅実な好青年といった印象だった
そんな彼が、夫人を、眼の前に居る如何にも生活に疲れた陰のある年上の女性を……
「はいれた」とはつまり、たまらなく背徳的なそれである事には違いない
齊藤氏に対し、私は少しばかりの羨望と嫉妬を覚えた
「今は持ち直しているんですけど。解雇された月はもう、酷くて」
「はあ……」
「今は勤め先を探しています。どうなるかは分かりませんが」
そう言いながら夫人はティッシュを目に当てている
その時、インターホンが鳴り、帰ったぞ、という声が室内に響いた
齊藤氏が帰って来たらしい
その時、インターホンが鳴り、帰ったぞ、という声が室内に響いた
齊藤氏が帰って来たらしい
「あなた、組織から山之内さんが……」
「山之内さんが? ああ、どうも。ご無沙汰しています」
見たところ随分と苦労しているらしい。頬はこけており、若干白髪が交じっている
しかし、雰囲気は半年前の齊藤氏と相変わらない
しかし、雰囲気は半年前の齊藤氏と相変わらない
「すいません、ご多忙な中を」
「いえいえ、私は職を探しているだけで。ああ、山之内さん
恥ずかしながら、私、数ヶ月前に勤め先をクビになりまして」
恥ずかしながら、私、数ヶ月前に勤め先をクビになりまして」
果たして齊藤氏はこんな直球の物言いをする手の人間であっただろうか
職探しの件は先程夫人から聞いた、などとは言わない方が良いだろう
職探しの件は先程夫人から聞いた、などとは言わない方が良いだろう
「郁恵、勤め先が見つかりそうだ。中央高校で働いている同僚が伝手で
技術屋を欲しがっている社長さんを見つけたそうでね、話をしてみると
週明けにでも直ぐ採用したいという事になった」
技術屋を欲しがっている社長さんを見つけたそうでね、話をしてみると
週明けにでも直ぐ採用したいという事になった」
「まああなた、良かったじゃない」
夫人の顔に笑顔が灯る
先程の表情からは想像できない程の柔らかいものだった
先程の表情からは想像できない程の柔らかいものだった
「ところで山之内さん、本日はまたどうして……まさかまた、何か危ない事が?」
「直接的に、という訳ではないのですが、そうですね、手短に」
齊藤氏の尋ねに私は本来の仕事を思い出し、本題を切りだした
「『夢の国』、という大規模な都市伝説についてはご存知かと思います」
「しかし、あの都市伝説は確か……学校町で沈静化した、と聞いたのですが」
「いいえ、各個体の起こした事件については既に解決はしています
しかし今回起こりうるそれは、今までの比では無いでしょう
大本が攻めてくる、という事になっていますから」
しかし今回起こりうるそれは、今までの比では無いでしょう
大本が攻めてくる、という事になっていますから」
齊藤氏と夫人に対面し、私はこれから起こるであろう事件の概要を説明し始めた
「恐らく秋祭りに照準を当てて、彼らはやって来るでしょう
組織は迎撃にかかります、凄まじい戦闘になるかもしれません
一般の人々が犠牲にならないように、一部の黒服たちが既に町のあちこちで仕込みを行い始めています
しかし、どうなるか分からない。大本の戦力も未知数です」
組織は迎撃にかかります、凄まじい戦闘になるかもしれません
一般の人々が犠牲にならないように、一部の黒服たちが既に町のあちこちで仕込みを行い始めています
しかし、どうなるか分からない。大本の戦力も未知数です」
「それなら、ど、どうすれば……」
「私の仕事は非戦闘員の都市伝説関係者に対して避難勧告を出す事です
秋祭りの期間、学校町の外へ避難して頂きたいのです
今なら組織からも補助金が支給されます」
秋祭りの期間、学校町の外へ避難して頂きたいのです
今なら組織からも補助金が支給されます」
その実態は上層部穏健派のポケットマネーから充当されるのだが
そこの事情は本筋とは関係がない
そこの事情は本筋とは関係がない
「あなた、どうするの?」
「む、そうだな」
私は身を乗り出して、齊藤氏に顔を近づけた
「もう既に夢の国の侵攻は始まっています
組織の構成員や所属の契約者の数名が行方不明になっている
一般の人々も分かっているだけで数十名、いえ、実態はそれを上回るでしょう
郁恵さんは危機察知はできるでしょう、しかし、契約者ではない齊藤さん、貴方にとって
この状況は危険過ぎます。彼らにとって見れば、貴方は口裂け女の臭いをまとった
餌でしか無いのです」
組織の構成員や所属の契約者の数名が行方不明になっている
一般の人々も分かっているだけで数十名、いえ、実態はそれを上回るでしょう
郁恵さんは危機察知はできるでしょう、しかし、契約者ではない齊藤さん、貴方にとって
この状況は危険過ぎます。彼らにとって見れば、貴方は口裂け女の臭いをまとった
餌でしか無いのです」
「な、そ、そんな」
「貴方ばかりでない。彼らは郁恵さんをも狙うでしょう
彼らは力を蓄えたいのです。取り込める者なら何だって取り込んできた巨大な都市伝説だ
どうか、秋祭りの期間だけでも、逃げては貰えませんか」
彼らは力を蓄えたいのです。取り込める者なら何だって取り込んできた巨大な都市伝説だ
どうか、秋祭りの期間だけでも、逃げては貰えませんか」
「ねえ貴方、私、海に行きたいと思わ」
「郁恵?」
「ほら、前は山で散々な目に会ったじゃない。だから、今度は海で羽根を伸ばしてみてはどうかしら
あなたはもっと休んでもいいと思うの」
あなたはもっと休んでもいいと思うの」
「そうか……そうだな
休みがてら、海にでも行ってみるか」
休みがてら、海にでも行ってみるか」
何処か迷いがちだった齊藤氏の顔色が夫人の言葉で軟化したのがそれとなく分かった
彼女はこちらを見て微笑んだ。私は静かに目礼を返す
彼女はこちらを見て微笑んだ。私は静かに目礼を返す
「海なら……そうですね、ささやかですが私の方からプランの提案があるのですが……如何でしょうか」
私がアパートを後にした時には既に日は西に傾いていた
結構な時間が経過したようだ
結構な時間が経過したようだ
電柱に貼られた真新しい張り紙に目をやる
「近日中、学校町にて夢の国が大きなパレードを開催する。各々方注意されたし、か」
のどかと言えばのどかだ、この町の雰囲気は
夢の国が侵攻するとは到底思えない程度にはのどかである
夢の国が侵攻するとは到底思えない程度にはのどかである
不意に着信音が響く。張り紙から端末へと目を落とした
穏健派所属の女子黒服からだ。今夜時間はあるか、という短いメールだった
そういえばこの子も手を掛けてかなりの時間が経った
初々しい感のあったこのメール主は、同僚の与り知らぬ所で私の手ほどきを受けている
誰も知りはしないだろう
穏健派所属の女子黒服からだ。今夜時間はあるか、という短いメールだった
そういえばこの子も手を掛けてかなりの時間が経った
初々しい感のあったこのメール主は、同僚の与り知らぬ所で私の手ほどきを受けている
誰も知りはしないだろう
私は下半身に熱が集中するのを感じる、一方で、胸の奥底から漠然とした何かが湧き上がるのを感じた
まるで、齊藤氏のアパートを訪れた時に感じたような、夫人から出された茶を飲んだ時に感じたような
漠然とした何か。何処までも暗い、引きずり込まれるような感覚だ
まるで、齊藤氏のアパートを訪れた時に感じたような、夫人から出された茶を飲んだ時に感じたような
漠然とした何か。何処までも暗い、引きずり込まれるような感覚だ
空を見上げる
育ち過ぎた入道雲が、西日を受けて不気味な赤に染まっていた
育ち過ぎた入道雲が、西日を受けて不気味な赤に染まっていた
〈お前の後ろ、天井、終わり〉