暗闇の中を、一人の男が走っていた。
まだ少年と呼べるような彼は、繁華街の路地裏にあたる道を駆ける。
彼の衣服は暑いこの季節にはつらいのではないかと思われる長袖で、その手には携帯電話が握られていた。
路地の曲がり角に手をついて勢いよく角を曲がり切った彼は、走りながら腰のあたりを気にするように何度か手を這わせた。
腰にはロープが巻かれており、やや前傾気味に走る彼の様子からして、どうも背中に何らかの荷物を背負っているようだった。――確かに何かを背負っているように見える。しかし、ロープは腰の後ろに回ったあたりからだまし絵のように見えなくなっており、ロープで結びつけられているであろう背の荷物も、路地裏の貧弱な灯りには照らし出されなかった。
「……っ、やっぱりむちゃくちゃに走り回ってるだけだと撒けないか」
息を荒げる少年の背後からは何人分かの足音を引き連れて何かが追って来ていた。
うまいこと隠れられると思ったんだけど、やっぱり甘くない。
内心で吐き捨てて彼、小野久信は次の角を曲がる。そして、路地の先に別の追っ手の姿を見た。
「げ……」
思わず声を漏らす。追っ手の方も久信に気付いたようで、「あ」の形に口を開いた。
一呼吸おいて、追っ手が声を上げる。
「待て!」
追っ手が持っている小型の灯光器の光が久信の体を浮かび上がらせた。
久信はとっさに身をひるがえし、先程曲がった路地を引き返して、別のルートで逃亡を続けようとする。しかし、進もうとしている方向からも聞こえてくる追っ手の声に足を止めた。
囲まれた?!
疑問する間にも追っ手は近付いてくる。久信は再び身をひるがえして、自分を発見して追いかけてくる男たちに自ら近づいて行った。
近付く追跡対象に警戒を示した相手を、久信は値踏みする。
特にこれといった特徴は無し。まいったな。
目の前にいる男の見た目からは黒服がどこの所属かは全く分からない。黒服といえばその構成員の大多数を黒服で賄っている〝組織〟と呼ばれる超大型の集団が有名だが、MIB自体は都市伝説に近しい組織であるならば多くの組織が揃えている存在だ。彼らの存在だけではバックの組織までは測れない。
どうするかな……。下手に倒してしまうとどこかも知らない組織が面子をかけて俺たちを追ってくるかもしれないな。
大きな組織が本気で捜索を行ったら久信が逃げ切ることは不可能だ。
ならばできるだけ相手を傷つけないように切り抜けるしかない。
そう覚悟を決めた久信の眼前にはもう、小さい拳銃のようなものを構えた男の姿が見えた。
久信は前に傾け気味だった体を更に低くし、地面を舐めるように走る。
突然姿勢を低くした久信を薄暗闇の中で見失ったのか、黒服からは息を詰める音が聞こえた。その顔に向けて、久信の袖から細長い何かが飛び出した。
「――?!」
顔に叩きつけられた何かを引きはがそうと黒服がもがく。すると、黒服の顔面に張り付いたそれは黒服から逃れるようにくねくねと蠢く。
「なんだ?!」
黒服が顔面に絡んでくる何かと戦っている間に久信は黒服の横をすり抜けた。
せわしなく姿勢を変える久信の腰にあるロープが、背後に背負うものを離すまいとするかのように、ひとりでにきつく締まる。
「数が多いなあちくしょう!」
上がった息で呟いていくつも角を曲がる。すると、路地の向こうに人通りの多い繁華街の大通りが見えた。
久信は大通りを突っ切って、向井の路地に飛び込む。
スナックの看板から投げかけられる光を頼りに路地の奥まで潜り込む。
これからあの黒服たちをどうやって撒いたものかと考えていると、進行方向の隅に小柄な影を見つけた。
犬だ。
ゴミ箱でもあさっていたのだろう、清潔とは到底言えない外見の犬は、近づく久信の足音に反応して、のっそりと顔を巡らせた。
目があった犬は、伸びを一つした後、おもむろに口を開いた。
『こっち こい あんぜんなみち おしえる』
「助かる」
人の言葉を口にする犬という存在を特に気にした様子もなく、久信は人に対してするかのように気軽な、そして慣れた返事をする。
犬は久信の応答を待つまでもなく、既に路地の一隅にある飲食店の裏扉を鼻先で示しており、「開けろ」と言うかのように久信に視線を向けた。
示されるままに入ったのは、既に潰れた店だったのか、荒れ果てている。そこを通り抜けて今度は別のビルを通り抜けて次の路地を通過する。そんなことを何本かの通り分繰り返していると、いつの間にか久信は繁華街から離れたところにある古びたアパートの前に辿り着いていた。
アパートを鼻先で示すと、最初の一言以外何事も話さなかった犬は、行儀よくお座りをして、じっと久信を見上げた。
その時、タイミングを計ったように久信の携帯電話が鳴った。
「もしもし?」
『無事に逃げ切れたな?』
開口一番に確認をとってきた若い男の声に苦笑して、久信は応じる。
「おかげさまで、追っ手もうまいこと撒けたみたいだ。ありがとう」
電話の声は頷く気配の後、うかがうように訊ねた。
『修実さんも……居るのか?』
「居るよ。もう修実姉を一人で孤独にさせないて決めたから、一緒にいるさ。
この犬は昌夫の遣いだろ? 見えないのか?」
言ってから久信は気付いた。
「そう言えば隠形してもらってるままだった」
『ああ、におい自体は感知しているけど姿は見えない』
「ごめんごめん」
犬に向かって片手刀を切って謝ると、久信は腰の縄に手を触れた。
触れられたロープはひとりでに蠢めき、先端を久信の手が触れている辺りに現した。それは舌を出して手の主を確認するようにギョロギョロと目玉を動かす一匹の蛇だった。
「ごくろうさん」
久信が言うと、腰のあたりで何かを巻き付けるように絡まっていた蛇がほどけていった。縛りが緩み切る前に久信は背後に手を回す。
地面に落ちた蛇は、すぐ傍らにある犬の目を気にするように道の端へ移動すると、塀に空いた穴から素早く回りの家の敷地内へと消えて行った。
蛇を見送った蛇は、犬に見せつけるように、背のものを背負い直す。
「この通り、修実姉はちゃんと一緒にいるよ」
そう言う彼の背には、先程繁華街を逃げている時には姿を見ることができなかった同行者の姿があった。
彼女は久信の腰あたりまである長い黒髪を揺らし、肩越しに犬と目を合わせる。
「こんばんは」
挨拶の言葉に、犬が応じて短く鳴く。
1人と一匹の挨拶が終わるのを待ち、久信は皮肉げに口元を曲げる。
「まあ、こんな状態だから、あんまり無事……とは言いづらいものがあるけどな」
彼の背で犬と視線の交流をしている女性は、両手両足が、その付け根からなくなっていた。
まだ少年と呼べるような彼は、繁華街の路地裏にあたる道を駆ける。
彼の衣服は暑いこの季節にはつらいのではないかと思われる長袖で、その手には携帯電話が握られていた。
路地の曲がり角に手をついて勢いよく角を曲がり切った彼は、走りながら腰のあたりを気にするように何度か手を這わせた。
腰にはロープが巻かれており、やや前傾気味に走る彼の様子からして、どうも背中に何らかの荷物を背負っているようだった。――確かに何かを背負っているように見える。しかし、ロープは腰の後ろに回ったあたりからだまし絵のように見えなくなっており、ロープで結びつけられているであろう背の荷物も、路地裏の貧弱な灯りには照らし出されなかった。
「……っ、やっぱりむちゃくちゃに走り回ってるだけだと撒けないか」
息を荒げる少年の背後からは何人分かの足音を引き連れて何かが追って来ていた。
うまいこと隠れられると思ったんだけど、やっぱり甘くない。
内心で吐き捨てて彼、小野久信は次の角を曲がる。そして、路地の先に別の追っ手の姿を見た。
「げ……」
思わず声を漏らす。追っ手の方も久信に気付いたようで、「あ」の形に口を開いた。
一呼吸おいて、追っ手が声を上げる。
「待て!」
追っ手が持っている小型の灯光器の光が久信の体を浮かび上がらせた。
久信はとっさに身をひるがえし、先程曲がった路地を引き返して、別のルートで逃亡を続けようとする。しかし、進もうとしている方向からも聞こえてくる追っ手の声に足を止めた。
囲まれた?!
疑問する間にも追っ手は近付いてくる。久信は再び身をひるがえして、自分を発見して追いかけてくる男たちに自ら近づいて行った。
近付く追跡対象に警戒を示した相手を、久信は値踏みする。
特にこれといった特徴は無し。まいったな。
目の前にいる男の見た目からは黒服がどこの所属かは全く分からない。黒服といえばその構成員の大多数を黒服で賄っている〝組織〟と呼ばれる超大型の集団が有名だが、MIB自体は都市伝説に近しい組織であるならば多くの組織が揃えている存在だ。彼らの存在だけではバックの組織までは測れない。
どうするかな……。下手に倒してしまうとどこかも知らない組織が面子をかけて俺たちを追ってくるかもしれないな。
大きな組織が本気で捜索を行ったら久信が逃げ切ることは不可能だ。
ならばできるだけ相手を傷つけないように切り抜けるしかない。
そう覚悟を決めた久信の眼前にはもう、小さい拳銃のようなものを構えた男の姿が見えた。
久信は前に傾け気味だった体を更に低くし、地面を舐めるように走る。
突然姿勢を低くした久信を薄暗闇の中で見失ったのか、黒服からは息を詰める音が聞こえた。その顔に向けて、久信の袖から細長い何かが飛び出した。
「――?!」
顔に叩きつけられた何かを引きはがそうと黒服がもがく。すると、黒服の顔面に張り付いたそれは黒服から逃れるようにくねくねと蠢く。
「なんだ?!」
黒服が顔面に絡んでくる何かと戦っている間に久信は黒服の横をすり抜けた。
せわしなく姿勢を変える久信の腰にあるロープが、背後に背負うものを離すまいとするかのように、ひとりでにきつく締まる。
「数が多いなあちくしょう!」
上がった息で呟いていくつも角を曲がる。すると、路地の向こうに人通りの多い繁華街の大通りが見えた。
久信は大通りを突っ切って、向井の路地に飛び込む。
スナックの看板から投げかけられる光を頼りに路地の奥まで潜り込む。
これからあの黒服たちをどうやって撒いたものかと考えていると、進行方向の隅に小柄な影を見つけた。
犬だ。
ゴミ箱でもあさっていたのだろう、清潔とは到底言えない外見の犬は、近づく久信の足音に反応して、のっそりと顔を巡らせた。
目があった犬は、伸びを一つした後、おもむろに口を開いた。
『こっち こい あんぜんなみち おしえる』
「助かる」
人の言葉を口にする犬という存在を特に気にした様子もなく、久信は人に対してするかのように気軽な、そして慣れた返事をする。
犬は久信の応答を待つまでもなく、既に路地の一隅にある飲食店の裏扉を鼻先で示しており、「開けろ」と言うかのように久信に視線を向けた。
示されるままに入ったのは、既に潰れた店だったのか、荒れ果てている。そこを通り抜けて今度は別のビルを通り抜けて次の路地を通過する。そんなことを何本かの通り分繰り返していると、いつの間にか久信は繁華街から離れたところにある古びたアパートの前に辿り着いていた。
アパートを鼻先で示すと、最初の一言以外何事も話さなかった犬は、行儀よくお座りをして、じっと久信を見上げた。
その時、タイミングを計ったように久信の携帯電話が鳴った。
「もしもし?」
『無事に逃げ切れたな?』
開口一番に確認をとってきた若い男の声に苦笑して、久信は応じる。
「おかげさまで、追っ手もうまいこと撒けたみたいだ。ありがとう」
電話の声は頷く気配の後、うかがうように訊ねた。
『修実さんも……居るのか?』
「居るよ。もう修実姉を一人で孤独にさせないて決めたから、一緒にいるさ。
この犬は昌夫の遣いだろ? 見えないのか?」
言ってから久信は気付いた。
「そう言えば隠形してもらってるままだった」
『ああ、におい自体は感知しているけど姿は見えない』
「ごめんごめん」
犬に向かって片手刀を切って謝ると、久信は腰の縄に手を触れた。
触れられたロープはひとりでに蠢めき、先端を久信の手が触れている辺りに現した。それは舌を出して手の主を確認するようにギョロギョロと目玉を動かす一匹の蛇だった。
「ごくろうさん」
久信が言うと、腰のあたりで何かを巻き付けるように絡まっていた蛇がほどけていった。縛りが緩み切る前に久信は背後に手を回す。
地面に落ちた蛇は、すぐ傍らにある犬の目を気にするように道の端へ移動すると、塀に空いた穴から素早く回りの家の敷地内へと消えて行った。
蛇を見送った蛇は、犬に見せつけるように、背のものを背負い直す。
「この通り、修実姉はちゃんと一緒にいるよ」
そう言う彼の背には、先程繁華街を逃げている時には姿を見ることができなかった同行者の姿があった。
彼女は久信の腰あたりまである長い黒髪を揺らし、肩越しに犬と目を合わせる。
「こんばんは」
挨拶の言葉に、犬が応じて短く鳴く。
1人と一匹の挨拶が終わるのを待ち、久信は皮肉げに口元を曲げる。
「まあ、こんな状態だから、あんまり無事……とは言いづらいものがあるけどな」
彼の背で犬と視線の交流をしている女性は、両手両足が、その付け根からなくなっていた。
第二話「罪跡」へ