姿を現した両手足が無い、まるでダルマのようにも見える女性に、久信は親しげに話しかけた。
「修実姉、どこかに体ぶつけてない?」
「ありがとう久くん。大丈夫よ」
修実(よしみ) というらしい女性からはあまり大きくはないが、よく通る声で返事がくる。
犬はしばらく不具の女性を見つめ、やがて携帯からはほっとしたような調子で言葉を寄越した。
『よし、二人とも無事だな。じゃあしばらくはこのアパートの部屋を使ってくれ。警察のほうで手を回して手に入れた物件だ。見た目はぼろいし曰く付きの幽霊アパートだが、探知にも引っかからないような細工をしてある。その点は安心しろ』
「ひどい宣伝文句だな」
外から見上げるアパートから住人の気配が感じられないのはその曰くのせいなのだろうか。
ともあれ、どんな曰くのある物件だろうと、追っ手を気にすることなく身を隠すことができる場所というのは今の久信たち姉弟にはありがたい。
「ありがとう昌夫」
『いいさ。事情が事情だしな』
昌夫が明るく応えると、それまでじっと話を訊いていた犬が、やおら立ち上がって背を向けた。
野良生活に回帰するのか、そのまま振り返らずに去っていく犬を見送る久信の耳に昌夫の声が届く。
『ここにあの町の生き残りが逃げてきてるのは確かなようだ。捜索は俺の部署と、あとは俺の犬たちが担当するからお前たちはあまり動くなよ? またさっきみたいなことがあってお前たちがどっかの組織に捕まっちまうと、俺みたいなぺーぺーには口出しもできなくなるからな』
「分かってるよ」
久信の即答に、電話の声は数秒沈黙した。やがて、
『修実のことで必死なのは分かるがな……あんまり無茶をするなよ?』
「ああ、善処する」
『……また連絡いれるから、今日はさっさと休んでおけ』
呆れたように言葉を残して切れた携帯をしまい、久信は修実を背負い直してアパートの敷地に入った。
事前に逃亡生活の用意がされる手はずになっていると聞いた部屋は一階の一番端の部屋だ。そこに行き着くまでに通る一階の外の部屋にはやはり他の住人の気配がない。
よくこれで潰れずにアパート経営を続けていられるな。
あるいは、このアパートを潰すことができないような加護か呪いがかかっているのかもしれない。
こんな物件の存在を認める代わりに、有事の際はこうして隠れ家として使えるように契約してるのかもな。
お互いに傷つけあわずに存在できるということは実にいいことだ。
鍵を開けると、古アパ―トらしい、軋んだ音を立てて扉は開いた。
1Kの部屋の内部にはほとんど荷物がなかった。
作りつけになっている空の本棚を素通りして居間に行くと、中央にはいまどき珍しいちゃぶ台が一つ置いてあった。その上にはダンボール箱が一つ放り出してあり、それらの他には荷物らしきものはない。
久信はダンボールの中に薬缶などの小物と、簡単に食べられる食料が詰め込まれているのを確認する。
「昌夫が警察に手を回して逃亡生活に必要そうな最低限のものは用意してもらったらしいから、とりあえず今日は飢えることはなさそうだ。持つべきものは犬のおまわりさんだ」
「あまり悪口を言ってはだめよ」
背中から窘めてくる姉の言葉に、けど、と久信は返す。
「実際昌夫は俺たと似た憑き物筋で、犬神憑きの契約者じゃないか。しかも警察で仕事中も犬を使う。
こう、まさに犬のおまわりさんって感じがしない?」
「そうだけど、でもやっぱり褒め言葉には聞こえないもの。あまりそういうもの言いはよくないわ」
「そういうもんかな」
久信は修実部屋の内部を見せるように一通り棚や冷蔵庫を開ける。電気や水が届いていることに少し感動しつつ、久信は今に戻ってちゃぶ台の横に配置されていた新品と思しき布団を片手で広げ、その上に修実を下ろした。
修実が付け根から無くなっている手足を動かして布団の上で落ち着くのを待ってから、久信は警察内に非公式に存在する対都市伝説課に中学卒業後すぐ勤め始めた友人のことを思いつつ、話しの続きを口にする。
「アイツの話だと、最近は警察組織の表の方でも上の地位につく契約者がいるらしいよ」
「そうなんだ。ちょうど警察組織ができあがった頃に回帰してきている気がするわね」
たしかに、この国に警察機構が初めて作られた時、一度崩した秩序を再編するまでの時間稼ぎとして、現在都市伝説と呼ばれるような妖物と契約した者たちが多く活躍していたという話は聞いたことがある。
社会がある程度安定してからは、逆に社会を不安定にさせる要因になり得る都市伝説の存在は公の場から消失していたが、どうもここ最近そういう状況にも変化が見られるようだ。
「もしかしたら、そのうち都市伝説課が公然と設置されるのかもしれないな」
もしそうなれば、姉のような特殊な存在も、少しは生きやすくなるだろう。
「そうなったらそうなったで、混乱は起こると思うわよ。そうしたら犠牲は出ずにはいられない。それならこれまで通り、専門家は専門家で別の組織として在ったほうがいいのかもしれないわね」
そうかもしれないし、違うのかもしれない。自分たちのように生まれた時から都市伝説との関わりを続けている者には世の中の大多数の立場になった考えかたはできないことは承知のことだ。
「ともかく、警察もこの程度には都市伝説に対する対処法や協力関係を作れているってことで、いいんだろうな」
おかげで追われている立場のはずの自分たちはこうして力を抜いて休んでいられるのだ。それでいい。それに、久信たちにはそれ以外のことについて考えられるような余裕は今のところない。
あまり悩んでいてもしかたないと言えばしかたないんだけど……。
思いながら部屋に改めて視線を巡らせる。
最低限の掃除をされているだけの部屋は家具もほとんどない。部屋の真ん中に置かれているちゃぶ台とダンボールなどは、余計に寂しさを印象付けている気がした。
目を楽しませて心に癒しをくれるのは修実姉だけだな。
しみじみと修実に目をやっていると、修実は布団の上で傷を隠すように丈が余っている衣服の袖を揺らした。
「あんまり見ないで……ね?」
ほんのり赤く染めた顔で彼女は、こちらもまた付け根から無くなっている足をもぞもぞと動かす。
修実の言葉に弾かれるように、久信は目を逸らした。
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ」
「……ん、分かってる」
修実は微笑して、傷口が隠れるような位置を確保する。
「ごめんね久くん。お姉ちゃんに付きあわせちゃって。おかげでいろんな組織の人たちに追われることになっちゃって」
「俺は自分で行動するって決めたんだからいいんだ。それに今の状況はほとんどあの事件のせいなんだから修実姉が謝ることなんて何もない」
強めに言って、ダンボールの中からカップラーメンと、湯を沸かすための薬缶を引っ張り出した。
ダンボールの中に詰め込まれていた食料は、その全体量や彩りを考えていない同じ種類のカップ麺を雑多に詰め込んだラインナップから考えて、久信1人用のものだろう。
事前に食料は一人分でいいなんて言っておいたのは間違いだったか。
今更悔んでも後の祭りだ。少し危険ではあるが、明日あたりに周囲を気にしながら追加の食事を見繕うのもありだろう。
修実は今の状態になってから、食事も排泄も不要になっていた。それは一般的な生物とは活動のための燃料からして全く別のモノに変わってしまったということを端的に示しているように久信には思われる。
その変化がいいものなのかどうなのかは分からない。ただ、日常生活を送ることも難しい状態の姉にとっては、煩わしさから少しでも解放されることは悪いことではないだろう。追われる立場にある今となっては買い出しに走らなくてもいいという状態は便利であるともいえる。
楽観的に考えすぎか。
自嘲気味に内心呟く。そう、久信たちは現在、様々な都市伝説系組織に追われる立場にあり、この部屋に辿り着く前に追ってきた黒服のような者たちから危険人物としてマークされ、今は逃げ隠れる身である。
友人である見塚昌夫(みつかあきお)と、彼が勤める警察内の対都市伝説専門の部署の協力がなければ、今頃どこかの組織に捕まっているか、討伐されていたのかもしれない。
「そりゃ面倒な状況になったもんだな、とは思うけどさ。だからって謝らないでよ。それなら俺なんか何度謝ったって足りないんだから」
「……ごめんね、ありがとう」
小さい謝罪と感謝の言葉に頷くだけで応えて、久信は湯気を上げた薬缶の火を止めた。
「何にせよ、気を付けないとな。警察も大っぴらに俺たちを庇えるってわけじゃないんだし」
その理由は久信たち姉弟が追われている理由と同じものだ。
「面倒なことに、追われる理由については何も言い訳できないから」
そう、
「修実姉のせいで町一つが壊滅したっていうのは、結局のところ否定できないってのが性質が悪い」
修実はダルマのような体を小さく震わせて、もの悲しげに眉を曇らせた。
「修実姉、どこかに体ぶつけてない?」
「ありがとう久くん。大丈夫よ」
修実(よしみ) というらしい女性からはあまり大きくはないが、よく通る声で返事がくる。
犬はしばらく不具の女性を見つめ、やがて携帯からはほっとしたような調子で言葉を寄越した。
『よし、二人とも無事だな。じゃあしばらくはこのアパートの部屋を使ってくれ。警察のほうで手を回して手に入れた物件だ。見た目はぼろいし曰く付きの幽霊アパートだが、探知にも引っかからないような細工をしてある。その点は安心しろ』
「ひどい宣伝文句だな」
外から見上げるアパートから住人の気配が感じられないのはその曰くのせいなのだろうか。
ともあれ、どんな曰くのある物件だろうと、追っ手を気にすることなく身を隠すことができる場所というのは今の久信たち姉弟にはありがたい。
「ありがとう昌夫」
『いいさ。事情が事情だしな』
昌夫が明るく応えると、それまでじっと話を訊いていた犬が、やおら立ち上がって背を向けた。
野良生活に回帰するのか、そのまま振り返らずに去っていく犬を見送る久信の耳に昌夫の声が届く。
『ここにあの町の生き残りが逃げてきてるのは確かなようだ。捜索は俺の部署と、あとは俺の犬たちが担当するからお前たちはあまり動くなよ? またさっきみたいなことがあってお前たちがどっかの組織に捕まっちまうと、俺みたいなぺーぺーには口出しもできなくなるからな』
「分かってるよ」
久信の即答に、電話の声は数秒沈黙した。やがて、
『修実のことで必死なのは分かるがな……あんまり無茶をするなよ?』
「ああ、善処する」
『……また連絡いれるから、今日はさっさと休んでおけ』
呆れたように言葉を残して切れた携帯をしまい、久信は修実を背負い直してアパートの敷地に入った。
事前に逃亡生活の用意がされる手はずになっていると聞いた部屋は一階の一番端の部屋だ。そこに行き着くまでに通る一階の外の部屋にはやはり他の住人の気配がない。
よくこれで潰れずにアパート経営を続けていられるな。
あるいは、このアパートを潰すことができないような加護か呪いがかかっているのかもしれない。
こんな物件の存在を認める代わりに、有事の際はこうして隠れ家として使えるように契約してるのかもな。
お互いに傷つけあわずに存在できるということは実にいいことだ。
鍵を開けると、古アパ―トらしい、軋んだ音を立てて扉は開いた。
1Kの部屋の内部にはほとんど荷物がなかった。
作りつけになっている空の本棚を素通りして居間に行くと、中央にはいまどき珍しいちゃぶ台が一つ置いてあった。その上にはダンボール箱が一つ放り出してあり、それらの他には荷物らしきものはない。
久信はダンボールの中に薬缶などの小物と、簡単に食べられる食料が詰め込まれているのを確認する。
「昌夫が警察に手を回して逃亡生活に必要そうな最低限のものは用意してもらったらしいから、とりあえず今日は飢えることはなさそうだ。持つべきものは犬のおまわりさんだ」
「あまり悪口を言ってはだめよ」
背中から窘めてくる姉の言葉に、けど、と久信は返す。
「実際昌夫は俺たと似た憑き物筋で、犬神憑きの契約者じゃないか。しかも警察で仕事中も犬を使う。
こう、まさに犬のおまわりさんって感じがしない?」
「そうだけど、でもやっぱり褒め言葉には聞こえないもの。あまりそういうもの言いはよくないわ」
「そういうもんかな」
久信は修実部屋の内部を見せるように一通り棚や冷蔵庫を開ける。電気や水が届いていることに少し感動しつつ、久信は今に戻ってちゃぶ台の横に配置されていた新品と思しき布団を片手で広げ、その上に修実を下ろした。
修実が付け根から無くなっている手足を動かして布団の上で落ち着くのを待ってから、久信は警察内に非公式に存在する対都市伝説課に中学卒業後すぐ勤め始めた友人のことを思いつつ、話しの続きを口にする。
「アイツの話だと、最近は警察組織の表の方でも上の地位につく契約者がいるらしいよ」
「そうなんだ。ちょうど警察組織ができあがった頃に回帰してきている気がするわね」
たしかに、この国に警察機構が初めて作られた時、一度崩した秩序を再編するまでの時間稼ぎとして、現在都市伝説と呼ばれるような妖物と契約した者たちが多く活躍していたという話は聞いたことがある。
社会がある程度安定してからは、逆に社会を不安定にさせる要因になり得る都市伝説の存在は公の場から消失していたが、どうもここ最近そういう状況にも変化が見られるようだ。
「もしかしたら、そのうち都市伝説課が公然と設置されるのかもしれないな」
もしそうなれば、姉のような特殊な存在も、少しは生きやすくなるだろう。
「そうなったらそうなったで、混乱は起こると思うわよ。そうしたら犠牲は出ずにはいられない。それならこれまで通り、専門家は専門家で別の組織として在ったほうがいいのかもしれないわね」
そうかもしれないし、違うのかもしれない。自分たちのように生まれた時から都市伝説との関わりを続けている者には世の中の大多数の立場になった考えかたはできないことは承知のことだ。
「ともかく、警察もこの程度には都市伝説に対する対処法や協力関係を作れているってことで、いいんだろうな」
おかげで追われている立場のはずの自分たちはこうして力を抜いて休んでいられるのだ。それでいい。それに、久信たちにはそれ以外のことについて考えられるような余裕は今のところない。
あまり悩んでいてもしかたないと言えばしかたないんだけど……。
思いながら部屋に改めて視線を巡らせる。
最低限の掃除をされているだけの部屋は家具もほとんどない。部屋の真ん中に置かれているちゃぶ台とダンボールなどは、余計に寂しさを印象付けている気がした。
目を楽しませて心に癒しをくれるのは修実姉だけだな。
しみじみと修実に目をやっていると、修実は布団の上で傷を隠すように丈が余っている衣服の袖を揺らした。
「あんまり見ないで……ね?」
ほんのり赤く染めた顔で彼女は、こちらもまた付け根から無くなっている足をもぞもぞと動かす。
修実の言葉に弾かれるように、久信は目を逸らした。
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ」
「……ん、分かってる」
修実は微笑して、傷口が隠れるような位置を確保する。
「ごめんね久くん。お姉ちゃんに付きあわせちゃって。おかげでいろんな組織の人たちに追われることになっちゃって」
「俺は自分で行動するって決めたんだからいいんだ。それに今の状況はほとんどあの事件のせいなんだから修実姉が謝ることなんて何もない」
強めに言って、ダンボールの中からカップラーメンと、湯を沸かすための薬缶を引っ張り出した。
ダンボールの中に詰め込まれていた食料は、その全体量や彩りを考えていない同じ種類のカップ麺を雑多に詰め込んだラインナップから考えて、久信1人用のものだろう。
事前に食料は一人分でいいなんて言っておいたのは間違いだったか。
今更悔んでも後の祭りだ。少し危険ではあるが、明日あたりに周囲を気にしながら追加の食事を見繕うのもありだろう。
修実は今の状態になってから、食事も排泄も不要になっていた。それは一般的な生物とは活動のための燃料からして全く別のモノに変わってしまったということを端的に示しているように久信には思われる。
その変化がいいものなのかどうなのかは分からない。ただ、日常生活を送ることも難しい状態の姉にとっては、煩わしさから少しでも解放されることは悪いことではないだろう。追われる立場にある今となっては買い出しに走らなくてもいいという状態は便利であるともいえる。
楽観的に考えすぎか。
自嘲気味に内心呟く。そう、久信たちは現在、様々な都市伝説系組織に追われる立場にあり、この部屋に辿り着く前に追ってきた黒服のような者たちから危険人物としてマークされ、今は逃げ隠れる身である。
友人である見塚昌夫(みつかあきお)と、彼が勤める警察内の対都市伝説専門の部署の協力がなければ、今頃どこかの組織に捕まっているか、討伐されていたのかもしれない。
「そりゃ面倒な状況になったもんだな、とは思うけどさ。だからって謝らないでよ。それなら俺なんか何度謝ったって足りないんだから」
「……ごめんね、ありがとう」
小さい謝罪と感謝の言葉に頷くだけで応えて、久信は湯気を上げた薬缶の火を止めた。
「何にせよ、気を付けないとな。警察も大っぴらに俺たちを庇えるってわけじゃないんだし」
その理由は久信たち姉弟が追われている理由と同じものだ。
「面倒なことに、追われる理由については何も言い訳できないから」
そう、
「修実姉のせいで町一つが壊滅したっていうのは、結局のところ否定できないってのが性質が悪い」
修実はダルマのような体を小さく震わせて、もの悲しげに眉を曇らせた。