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コンゴ侵攻

コンゴ侵攻
210年時点の勢力図
濃赤:ザイール人民連盟 黒:モスクワ帝国 赤:アフリカ人民連盟 緑:アフリカ連合
戦争:コンゴ戦争
年月日:統一暦210年 ~ 214年(第一次)
統一暦228年 ~ 229年(第二次)
場所:コンゴ、ルワンダ、ブルンジ、ウガンダ、ローデシア、カボン、赤道ギニア、サントメ・プリンシペ、マラウイ
結果:モスクワ帝国の勝利。ガボン周辺地域の被植民地化(第一次)
帝国の鷲側の勝利。中央アフリカ連邦(中央アフリカ暫定統治機構)の成立。(第二次)
交戦勢力
モスクワ帝国 (〜216)
帝国の鷲(228〜)
モスクワ領西アフリカ(228〜)
アフリカ民主連盟
ザイール人民連盟(~211)
コンゴ人民共和国(~211)
コンゴ民族統一戦線(212〜228)
コンゴ人民共和国領赤道ギニア(〜211)
ガボン人民共和国(〜213)
ガボン亡命人民政府(213〜)
コンゴ亡命政府(229)
アフリカ連合
ウガンダ共和国(213~)
ルワンダ共和国(213〜)
ブルンジ国(213〜)
ローデシア共和国(支援のみ*1)
ガボン臨時民主政府*2(213)
指導者
フリードリヒ・ヴィルヘルム
ルドルフ・ヨーゼフ
ヴォルフガング・エーリヒ
ヨアヒム・フォン・ハルトマン
モブツ・ンザンガ・セコ†
パスカル・サスヌゲソ†
トニ・サスヌゲソ
アリー・ンゲマ†
ポール・ルダヒグワ(ルワンダ)
ミルトン・ムセベニ(ウガンダ)
ドミシアン・ヌダイシミエ(ブルンジ)
セシル・スミス
被害
戦死者:約30万人(推定)
戦死者:400~85000人(推定)
戦死者:107〜223万人
民間人死者:400〜600万人前後(推定)
戦死者:18〜100万人
民間人死者:約5〜8万人



目次





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概要



コンゴ侵攻、別名、中央アフリカ戦争とは統一歴210年5月5日にモスクワ帝国ザイール人民連盟に宣戦布告した事から始まった一連の軍事衝突を指す。
この戦争は大きく第一次と第二次に分けられ、単に「コンゴ侵攻」や「中央アフリカ戦争」といえば第一次侵攻の方を指すことが多い。第二次侵攻は「アフリカ紛争」や「第二次東欧大戦継続戦争」、「中央アフリカ継続戦争」などと呼ばれ、第二次コンゴ侵攻と呼称される事は少ない。



背景



コンゴの経済的不況
統一歴206年に成立したザイール人民連盟は、社会主義体制の下、反体制派の粛清と厳しい統制という恐怖政治により政治的には安定していたが、経済的には苦境に立たされていた。207年にはモブツ・ンザンガ・セコ独裁の下、工業国への転換を目指す「五カ年計画」が実行されたが、農民による反対運動が発生、モブツはザイール国防軍による鎮圧を試みたが、農民上がりの者が多かった国防軍は出動を拒否し、五か年計画は失敗に終わった。その結果ザイール経済は発展どころか停滞、さらには悪化を招き、残る頼みの綱であるダイヤモンドの輸出も、隣国コンゴ人民共和国の妨害に遭い、ダイヤモンドの輸出は利益が出るどころか大赤字になり、210年2月にはハイパーインフレが発生、ザイール経済は事実上崩壊した。

モスクワの帝国主義
一方、統一歴204年10月に発生した10月革命で成立したモスクワ第二帝政、通称モスクワ帝国は、建国当初から植民地主義・帝国主義を掲げ、特にアフリカの植民地化を目標としていた。そんな中で210年2月にザイール経済が崩壊すると、モスクワ帝国はこれに目をつけ、モスクワの皇帝フリードリヒ・ヴィルヘルムはモスクワ帝国国防大臣であるルドルフ・ヨーゼフにザイール侵攻の計画を立案するように指示、210年の4月ごろにはザイールへの侵攻計画であるビクター計画を完成させた。 

コンラート最後通牒
ビクター計画を完成させたモスクワはザイールの植民地化に向けて行動を開始した。統一歴210年の5月2日に、モスクワの外相コントラート・アーノルトは、ザイール人民連盟に対し最後通牒を送りつけた。その内容はザイールの事実上の傀儡国化を要求する物であり、ザイール政府にとっては到底受け入れることのできる物ではなかった。ザイール政府はモスクワの最後通牒を拒否、統一歴210年5月5日、モスクワ帝国は最後通牒の拒否を開戦事由としてザイール人民連盟に戦線布告した。



第一次コンゴ侵攻



キンシャサ空襲
宣戦布告から僅か16時間後にモスクワ帝国は空母打撃群をギニア湾に展開し、爆装した艦載航空機合計220機以上を空母から発進させた。目標はザイール人民連盟の首都キンシャサであり、ビクター計画では「宣戦布告後すぐに首都を空襲し、壊滅的被害を出させることによってザイール政府に軍事力の差を教え込み、軍事衝突を早期に終結させる」としていた。しかしながらキンシャサ上空に展開した航空機部隊はモスクワ側の想定以上の対空砲火に遭い、モスクワ側の航空機部隊に決して少なくない損害を出した。にもかかわらずモスクワ側はほとんど成果を上げることができず、結果として軍事力の差を植えつけるどころか逆にザイール軍側を勢い付ける結果となってしまった。

アフリカ民主連盟の結成
ザイール軍の思わぬ奮戦っぷりやモスクワの脅威を感じたコンゴ人民共和国やその隣国ガボン人民共和国は、ザイールとの同盟締結を望むようになり、ザイール政府へと接近していった。210年5月11日にはキンシャサ共同宣言が発表され、コンゴ人民共和国およびガボン人民共和国=ザイール人民連盟間の敵対関係の解消および3カ国でのアフリカ民主連盟の結成が宣言された。翌日の5月12日にガボン人民共和国・コンゴ人民共和国両国はモスクワ帝国に対し宣戦布告した。

サントメ島沖海戦
アフリカ民主連盟の結成、およびそれに伴うガボン・コンゴ両国の参戦はモスクワ国防省にとってみればまさに寝耳に水の出来事であり、ビクター計画においても想定すらしていない物であった。そのような事態になったモスクワ軍は対応を迫られていた。最終的にモスクワ国防省が下した決断はビクター計画の中止であり、新たなる計画立案が進められた。現地に展開しているモスクワ軍は海上戦力が主体であり陸上戦力に乏しかったため、モスクワ国防省は現地モスクワ軍に対しサントメ島に停泊しているコンゴ人民共和国艦艇の攻撃を命じた。しかし事前にモスクワ軍が停泊している艦艇に対して攻撃してくることを察知していたガボン・コンゴ両国海軍はサントメ島に接近してきたモスクワ海軍をサントメ島から出航した艦隊とサントメ島を回り込んで後方から現地モスクワ軍艦隊を奇襲、モスクワ軍艦隊は挟撃される形となった。モスクワ軍艦隊はこれを前方に位置していたサントメ島から出航してきた艦隊に火力を集中し、なんとか突破することに成功したが、空母が2隻中破、1隻小破、さらには駆逐艦1隻を喪失、3隻大破、1隻小破、ミサイル艇およびドローン運用艇を多数喪失というかなりの損害を被ることになった。対するガボン・コンゴ両国海軍も海防戦艦1隻大破、巡洋艦2隻喪失、1隻中破、駆逐艦4隻小破という、国力・海軍規模的にはかなりの損害を被ったものの現地モスクワ軍艦隊よりかは被害は少なかった。

空白の1ヶ月
サントメ島沖海戦での大敗北・大損害を踏まえ、モスクワ国防省は現地モスクワ軍艦隊を帰還させる判断を取った。現地モスクワ軍艦隊はサントメ島を大きく回り、ガボンの沿岸砲の射程外を航行してそれ以上の損害を出すことなくモスクワ本土へと帰還する進路を取った。そのため、1ヶ月近くモスクワ軍とアフリカ民主連盟諸国軍の交戦は行われず、「空白の1ヶ月」と呼ばれる戦時下の中での一時的な平和が生まれた。

戦闘再開
しかし、空白の1ヶ月は突如として終わりを迎えた。6月29日に、秘密裏にギニア湾・ガボン沿岸部に展開していたモスクワ海軍の潜水艦隊の99型潜水艦からMAM-11G 艦対地ミサイルがガボン・コンゴ領赤道ギニアに向かって発射されたことにより両陣営間の戦闘が再開されることになった。ギニア湾に7月1日には強襲揚陸艦や空母を中心とする遠征打撃群が展開し、爆装した航空機を中心として艦載航空機300機以上が強襲揚陸艦・空母から発進し、リーブルビル空襲の準備を進めていた。

リーブルビル空襲
遠征打撃群から発進した爆装した艦載航空機群はキンシャサ空襲の反省を生かし、対空砲では迎撃できない高高度からの爆撃を行った。高高度爆撃は爆撃の精密さには欠け、民間人に被害が出る可能性が非常に高くなるものの、モスクワ国防省はアフリカ民主連盟を萎縮させるためだとして無差別爆撃を許可していたため、高高度爆撃が実行されることとなった。300機以上の航空機による無差別爆撃が行われたリーブルビルは石油関連施設や港湾施設の他、スラム街のバラック等主要な建築物が破壊つくされ、また空襲警報の発令が遅れたがために約2週間の間行われた空襲で民間人にも大きな被害を出すこととなった。アフリカ民主連盟はこの無差別爆撃を国際社会に公表しようとしたが、モスクワの妨害工作員やコンゴ・ザイール内の反体制派のモスクワシンパ・親モスクワ派により妨害されたため、この事件が明るみになるのは第一次コンゴ侵攻が終結した後になる。

サントメ上陸作戦
リーブルビル空襲完了後、モスクワは強襲揚陸艦による強襲揚陸の準備を進めていた。7月17日にはサントメ上空を無人偵察機が飛行し始めるようになった。この時使用された無人偵察機はUAV-M03であり、本来は陸上機であったが航続距離の関係から解体して空母に積載し、カタパルトで強引に発艦させるという方法を取った。7月23日、モスクワ軍による強襲揚陸(サントメ上陸作戦)が実行され、海兵隊などの上陸部隊がホバークラフトを用いて上陸した。また同時にヘリコプターによる部隊を空輸(空中強襲)、水陸両用装甲車で物資・戦車の揚陸も行い、サントメ島の防衛部隊の不意をつくことに成功した。この強襲揚陸は後に「モスクワ史上最も成功した上陸作戦」と評価されることになる。事実、上陸作戦は成功し、サントメ島の防衛部隊約1500人はそのほとんどが降伏して捕虜となった。

ポワントノアール動乱
サントメ島を喪失したアフリカ民主連盟は、奪還のためにサントメ島沖の制海権奪還に動き出した。アフリカ民主連盟各国の指導部はアフリカ民主連盟各国の海軍に出撃を求めたものの、各国の海軍は「勝つ見込みがない」として出撃を拒否した。そのため指導部は海軍の重要幹部を自身の私兵集団等を使っての粛清に乗り出したが、水兵の妨害に遭い失敗、さらには海軍・水兵の政府への不信感が高まり、7月28日、アフリカ民主連盟各国の海軍は海軍の主要な港湾のあったポワントノアールにて反乱を起こし、アフリカ民主連盟各国の陸軍との軍事衝突に発展した。この反乱は陸軍によって約2ヶ月かけて鎮圧されたものの、海軍はもはやサントメ島沖の制海権奪還どころか現状の制海権維持すら厳しいものとなってしまうことになり、事実としてアフリカ民主連盟がサントメ島沖の制海権奪取を果たすことは無かった。

地上戦の開始
ポワントノアールにおける動乱の間に、現地のモスクワ軍はさらなる陸上戦力およびその護衛のための海上戦力を要請、国防省もその要請を受託し、モスクワ陸軍から約4個師団近い陸上戦力がアフリカへと派遣された。10月6日にモスクワ軍は大規模な上陸作戦を実施、コンゴ民主共和国の飛地だった赤道ギニアの沿岸部に上陸し、最大都市バタの攻略に向けて動き出した。一方、アフリカ民主連盟からすればバタは残る主要な港湾都市の中ではリーブルビルに次ぐ規模を誇る港湾都市であり、ポワントノアールという一大拠点を喪失したアフリカ民主連盟からすれば絶対に死守しなければならない都市であった。そのため、上陸から僅か8時間後には約6個師団というアフリカ民主連盟の陸上戦力の内の約4割がバタ防衛のために派遣されることになった。10月8日、モスクワ軍とアフリカ民主連盟軍のそれぞれの先遣隊が接敵し、アフリカ大陸における地上戦が開始された。

バタ近郊での戦い
モスクワ軍とアフリカ民主連盟軍はそれぞれが相手を包囲するために動き、お互いに大きく損害を出していた。そのため上陸後僅か2週間程度で戦線は停滞し始めていた。そこで、上陸したモスクワ軍は、海上にて待機しているモスクワ海軍に支援を要請した。モスクワ海軍は艦載機によるCAS(近接航空支援)を行い、戦線の停滞を突破しようと試みた。モスクワ海軍による初のCASは10月30日に行われ、CASを想定していなかったアフリカ民主連盟軍は大きな被害を出した。アフリカ民主連盟軍はバタへ派遣された部隊に対空砲を配備させようと対空砲を分解・車両輸送を試みたがこれもモスクワ軍の艦載機による航空攻撃により阻止され、早くもバタにおけるアフリカ民主連盟軍・モスクワ軍の戦力の均衡は崩れ始めた。

バタの戦い
CASによる戦果は大きく、僅か100機程度の航空機で行っているにも関わらず、戦果は合計で約1個師団分に相当していた。そこでアフリカ民主連盟軍は対空砲の装備されているバタまで後退、CASによる被害軽減を試みた。モスクワ軍はバタに立て篭もるアフリカ民主連盟軍を包囲、野砲やミサイル砲等での攻撃を実施していたが、バタの防衛部隊を救出するためにアフリカ民主連盟軍の増援が南部から向かってきており、時間をかけていれば逆に包囲されかねない状況となっていた。そこでモスクワ軍はバタへの突入を敢行。また海上から艦対地ミサイルや艦砲での対地攻撃を行った。モスクワ軍は市街地にてゲリラ戦を行うアフリカ民主連盟軍相手に苦戦しつつも、CASが対空砲のある環境でも大きく戦果を上げたことや、アフリカ民主連盟軍の武装が旧式だったのもあり、バタの主要施設を掌握。バタを防衛していたアフリカ民主連盟軍も主要な戦力を突入してきたモスクワ軍との戦闘で喪失し、最終的には降伏。11月24日にバタにおける大規模戦闘は終結した。が、それ以降も小規模戦闘はバタ市街の各地で相次ぎ、モスクワ軍は決して少ない戦力をバタに割かざるを得なくなった。

戦線停滞
バタの戦いにより、モスクワはコンゴ領赤道ギニアのほとんどを占領することに成功したものの、南下することは現存する現地モスクワ軍の陸上戦力では到底不可能だった。一方のアフリカ民主連盟軍もモスクワ軍を殲滅して北上し、赤道ギニアを解放することが可能な程の戦力があったわけではなかったため、赤道ギニア南部で両軍の戦線は停滞した。両軍は互いに戦線を突破しようとしたものの、死傷者を増加させるのみに終わった。思わぬ長期戦の傾向に焦りを覚えた現地モスクワ軍の司令官ヴォルフガング・エーリヒは、モスクワ国防省へのさらなる増援を含めた支援を要請した。が、モスクワ国防省は本土軍のこれ以上の派遣は国家安全保障に関わるとの観点から支援を拒否した。

逆襲作戦
戦線停滞から早6ヶ月、未だに戦線は停滞状態にあった。モスクワ軍は本土からの補給物資は届きこそすれど増援は到着せず、一方のアフリカ民主連盟軍も決定打に欠き、互いに停滞する戦線の突破は達成できていなかった。両国の戦線には長い塹壕が掘られ、両軍の航空機・走行車両が塹壕に潜む敵兵を殲滅しようとして撃墜や擱座し合うという状態になっていた。そこで、現地モスクワ軍は苦肉の策として現地に派遣されたスパイから入手した情報を元に、アフリカ民主連盟の幹部やザイール人民連盟の国家元首モブツ、コンゴ人民共和国の国家元首パスカル・サスゲヌソが集結するキンシャサの人民宮殿*3に爆撃を行い、上層部を壊滅させるという作戦、「逆襲作戦(独:Gegenangriff Strategie)」を立案した。キンシャサ空襲以降、さらに対空防御が強化されたキンシャサへの航空機による攻撃は非現実的だとして現地モスクワ軍の間でも意見が割れたものの、結局は現地モスクワ軍司令官エーリヒが許可したことから実行に移されることとなった。

キンシャサ奇襲
統一歴211年の5月19日の早朝に、海上に展開している現地モスクワ軍の遠征打撃群から作戦のために空母艦載機15機が発進し、同日の昼頃にキンシャサ上空に展開し、人民宮殿に急降下爆撃を敢行した。司令官エーリヒや艦載機のパイロット達は逆襲作戦が失敗すると想定していたが、アフリカ人民連盟側はキンシャサへの攻撃を全く想定しておらず、完全な不意打ちの内に作戦は完了され、モスクワ軍側は無傷でキンシャサへの奇襲を完了させた。一方のアフリカ民主連盟側は集結していた幹部16人の内13人が死亡、残りの3人の内二名も重傷を負った。また、ザイール人民連盟のモブツ、コンゴ人民共和国のパスカルが共に死亡、主要な指導者を失ったアフリカ民主連盟は混乱状態に陥った。

統一戦線の構築
キンシャサ奇襲によって指導者を失ったザイール人民連盟・コンゴ人民共和国は共に混乱状態に陥り、反体制派が各地で蜂起、事実上の内戦状態に陥った。そこで、コンゴ人民共和国ではパスカルの息子トニ・サスゲヌソが国家元首として就任し、コンゴ人民共和国軍はザイール人民連盟との国境線を越境し、酒とキンシャサを占領した。キンシャサ占領後、トニは「ザイール人民連盟政府が我が国との連合を望んだ」としてコンゴ人民共和国・ザイール人民連盟の連合を宣言し、コンゴ民族統一戦線の結成を宣言した。しかしながら実情は連合と言ってもザイール人民連盟がコンゴ人民共和国の事実上の支配下に置かれた状態であり、決して対等な関係ではなかった。

大遠征
コンゴ民族統一戦線の結成後、コンゴ軍は早くも反体制派の鎮圧に乗り出し、各地で蜂起した反体制派への攻撃を開始した。大した組織力を持たない反体制派は各地で各個撃破され、6月上旬頃には内戦状態はほとんど終結した。一方のモスクワ軍はこの混乱状態を好機と見て、国防省に増援を要請、さらには司令官エーリヒが自らモスクワ本土へ赴き、国防省の首脳部を説得させた。国防省はアフリカ方面へ強襲揚陸艦8隻、空母14隻以上からなる大艦隊を派遣するという、モスクワ史上最大規模の作戦行動だった。この作戦は「大遠征」と呼ばれ、総数100隻近い艦隊と満載された陸上部隊の補給のために輸送船も大量に動員され、造船業の株価が一時的に急上昇することとなった。

二度目の停滞
大遠征によって派遣された部隊は6月中旬頃にはギニア湾に到着し、ガボン沿岸部に展開した。6月22日、モスクワ軍は「ゼーレーヴェ作戦」を開始し、海兵隊の他、陸軍等合わせて計6個師団近い戦力がガボン沿岸部に上陸した。上陸したモスクワ軍はアフリカ民主連盟軍の反撃に遭ったものの、地上からの対地攻撃が功を制し、大きな損害が出ることはなく上陸作戦は完遂された。そのまま赤道ギニアの戦線を包囲するように動き、赤道ギニア戦線は崩壊、アフリカ民主連盟軍は包囲を突破できずにモスクワ軍に降伏・捕虜となった。しかしながら再びガボン方面で戦線は停滞し、戦争は再び長期戦の傾向を見せていた。

アフリカ連合の介入
ゼーレーヴェ作戦から1年近くが経ち、モスクワ軍・アフリカ民主連盟軍は共に戦線の停滞を解消しようとしたものの、解消は達成できずに時間だけが過ぎていった。両軍の死傷者も増加を続け、停滞した戦線付近では再び長い塹壕が掘られていた。モスクワ国防省・現地モスクワ軍も数の問題ではないことを察し始め、さまざまな作戦行動を取ったがそのどれもが失敗または大した成果を得られない内に終わった。そうした情勢下で、統一歴212年の6月18日、それまで一連の先頭に対して静観を続けていたアフリカ連合が突如としてアフリカ民主連盟への支援を表明し、ウガンダやブルンジ・ルワンダ等からコンゴ民族統一戦線や、旧ザイール領を経由してのガボンやコンゴへの支援が送られた。また、旧ザイール領の南に位置する白人政権国家のローデシア共和国もアフリカ民主連盟への支援を送っていった。この行動をモスクワ側は避難したものの、これ以上戦争規模を拡大させたくなかったモスクワ軍は妨害行動を取ることは無かったため、戦線はさらなる停滞を続けた。

ローデシアの独自外交
アフリカ連合はアフリカ民主連盟との協力姿勢を強めていったが、アフリカ連合の加盟国の中で唯一ローデシア共和国は支援に消極的だった。ローデシア共和国は少数の白人による政権運営が行われており、アパルトヘイト政策が取られていた。今回の戦争でも、ローデシアにザイール等から避難してきた黒人難民に対して苛烈なアパルトヘイト政策が取られ、国際社会から非難の的となっていた。アフリカ連合の他の加盟国とは同盟状態にあるものの対立状態にあるという奇妙な外交関係だった。そんな中でアフリカ連合がアフリカ民主連盟との協力姿勢を強めていくのに反してローデシア政府はモスクワとの協力を模索し始めた。モスクワは白人政権国家であり、過去(第二帝国体制期)には友好条約が締結された*4こともあり、ローデシア政府も比較的友好的な国家と見ていたという背景もあるローデシアはアフリカ連合・アフリカ民主連盟各国に支援しアフリカ連合の一員としての立場を維持しつつもモスクワとの協力を模索するという奇妙な外交を行なっており、この外交は後に当時のローデシアの大統領セシル・スミスの名を取って「スミス・ドクトリン」と呼ばれる。

モスクワ・ローデシア首脳会談
ローデシアが協力を模索していることを察知したモスクワは、ローデシアとの外交関係回復及び戦争における協力を急ぎ始めた。統一歴212年8月頃にはモスクワの外交大使がローデシアへ派遣され、約3日間の協議の後に統一歴212年の8月22日には「ローデシア・モスクワ共同宣言」で両国間の国交回復及び友好条約の再締結が宣言された。その後もモスクワ・ローデシア両国は接触を続け、遂に統一歴212年10月21日にはモスクワ・ローデシア間での首脳会談が実現した。また首脳会談前後にはモスクワのメディアによりモスクワの皇帝ヴィルヘルムや国防大臣ヨーゼフらとローデシアの大統領スミスらが共に会食したりモスクワ国内を観光するなど、モスクワ・ローデシアの蜜月関係がアピールされた。首脳会談終了後、モスクワ・ローデシア両政府は「リガ協定」の締結を発表した。リガ協定によりモスクワによるローデシアのインフラ整備支援等が決定されたが、モスクワ・ローデシア両政府は秘密裏の内に本命である「フィギス・エルナンデス秘密協定」を締結した。これはコンゴにおける軍事衝突に関するものであり、この協定により、コンゴの戦争におけるローデシアのアフリカ民主連盟・アフリカ連合に送付できる支援物資の最大量が制限され、戦後のローデシアのモスクワへの全面的な協力が決定された。一方でモスクワ軍のローデシア領の不可侵の約束・ローデシアのモスクワ側寄りの中立姿勢の維持・モスクワ軍への支援物資の提供なども決定された。さらにはローデシア軍・モスクワ軍の部分的協力も約束された。結果としてローデシア政府としては領土の安全が獲得でき、モスクワ政府としては敵にまわる国家数を減らすことに成功するなど、両国の利害が一致したものだった。

アフリカ連合の対抗
一方、アフリカ連合はローデシアのこの外交姿勢を「裏切り」と非難し、駐ウガンダ・ブルンジ・ルワンダのローデシアの外交大使に1週間以内の国外退去命令を出すと共に計約10兆円近い資産を凍結した。アフリカ連合のこの動きに対しローデシアは当初対抗する構えを見せたが、「中立を維持することを最も優先すべきだ」との考えからアフリカ連合に対してはあくまでアフリカ連合各国の駐ローデシア大使の国外退去命令を出すのみに留めた。これ以降この戦争中ローデシア=アフリカ連合間の外交関係が改善する事はなく、ローデシアはモスクワ及び現地モスクワ軍との協力姿勢を強めていくと共に、アフリカ連合・アフリカ民主連盟への支援物資の送付量を減少させていった。一方でアフリカ連合もローデシアへ脱退命令を出すなどといったことはなく、ローデシア=アフリカ連合各国間の奇妙な外交関係は継続された。

アフリカ民主連盟の動き
ローデシアがモスクワとの協力姿勢を強めていくにつれ、アフリカ民主連盟各国、特にモスクワとの最前線に位置するガボンは危機感を募らせていった。ガボンの国家元首アリー・ンゲマはアフリカ連合各国の首脳と相次いで首脳会談を行った。ウガンダ・ルワンダ・ブルンジは引き続きアフリカ民主連盟各国との協力姿勢を継続していく方針を明らかにしたものの、ローデシアはアフリカ民主連盟との協力姿勢を継続していく方針は明らかにしたがモスクワとの協力関係についてンゲマが問い詰めると、ローデシア政府は「答える必要のある問題ではない。それ以上は国家主権の侵害だ。」として回答を拒否、結果的にローデシア・ガボンの首脳会談は決裂した。

第二次リーブルビル空襲
大遠征で動員された艦隊の8割程度は本土に帰還していたが、それでもモスクワは強襲揚陸艦2隻、空母2隻と護衛の艦隊をギニア湾に展開させていた。モスクワ軍は停滞している戦線からアフリカ民主連盟軍の目をそらすために第二次リーブルビル空襲の作戦の立案を開始し、9月16日に爆装した艦載機を発進させ、リーブルビルの上空に展開した。艦載航空機は第一次空襲と同様に高高度からの無差別爆撃を実施したため、目標の軍事施設以外にもその周辺のバラックや民需工場、さらには住民が多く非難していた倉庫施設等にも大きな被害を出し、計2週間にも及ぶ空襲で第一次の際の死傷者の8割に相当する約46万人近い民間人・軍人の死傷者を出した。

アフリカ連合義勇軍
アフリカ連合がアフリカ民主連盟との協力姿勢を強めていくと、統一歴10月11日には、ウガンダの大統領ミルトン・ムセベニの呼びかけの元、ウガンダ・ルワンダ・ブルンジの国家元首らによる三巨頭会談が行われ、その結果、アフリカ連合各国の義勇軍をアフリカ民主連盟へ派遣することが決定された。ローデシアは義勇軍の派遣を拒否するとともにアフリカ連合の重要な決定事項の会議にボイコットされたことに強い遺憾の意を示すとする外交文書を送付したが、アフリカ連合はこの外交文書に返答しなかった。ローデシアを除いたアフリカ連合義勇軍は規模にして計約3個師団分に相当していた。10月17日頃にはアフリカ民主連盟軍の指揮下に入り、モスクワ軍との戦闘を開始した。

クリスマスの戦い
統一歴212年12月23日、未だに戦線の停滞が続く中でモスクワ軍はこれ以上の戦争長期化を防止するためとして大規模攻勢を仕掛けた。この攻勢作戦はアフリカ民主連盟軍とアフリカ連合義勇軍が混在しており、なおかつ最も防御の薄い場所であった。モスクワ軍は陽動として攻勢をかける場所とは真逆の方向に位置する場所に全戦力の約2割を投入した。アフリカ民主連盟軍はモスクワ軍のこの動きを戦線を突破する目的の攻勢作戦だとは察知したが、陽動であることには気づけず、本来のモスクワ軍の攻勢場所の防衛部隊を陽動部隊側の方面へと移動させてしまった。モスクワ軍は移動させ直後に攻勢を開始し、奇襲を受けた形になったアフリカ民主連盟軍は善戦したものの敗走し、アフリカ民主連盟軍は戦線を約2.5km後退させた。クリスマスの時期と戦闘が被ったため、この戦いは「クリスマスの戦い」と呼称される。

国防省の焦り
年が明け統一歴213年1月、クリスマスの戦いで戦線を前に進めたモスクワ軍であったが依然として戦線は停滞していた。モスクワ国防省はクリスマスの戦いのように戦線を前に進めるよう現地モスクワ軍に要求したが、現地モスクワ軍司令官エーリヒは「クリスマスの戦いは奇襲だからこそ成功したものであり、敵が奇襲を警戒している今、成功するものではありません。」として要求を遂行不可とする返答を返し、「戦線を前に進めたいのは我々も同じです。国防省参謀部の意見も同様であるならば、本土の防衛部隊から3個機甲師団を派遣してください。」と増援を要請した。しかし国防省は増援要請を拒否し、エーリヒに対し、「これは要請ではない。命令である。速やかに攻勢作戦を立案し、戦線を少しでも前に進めよ。」と命令した。この命令の裏には国防省、ひいてはモスクワ帝国政府の危機感があり、すでにモスクワ国内では左派を中心として戦争を継続する帝国政府に対する反戦デモが発生するなど、国内情勢が不安定化し始めていた。

エーリヒ負傷
国防省の命令に対し、エーリヒは渋々ではあるが命令を承諾、というか命令を承諾しざるを得なかった。エーリヒは自らの副官に「出世したくないものだな、軍人は。部下に死ねと命じなければならないのだから。」と話したという。現地モスクワ軍は2月上旬には攻勢作戦の立案を完了させた。作戦は現地モスクワ軍が保有する機甲部隊をかき集めて敵の防御が薄い場所を海軍との連携によりCASも活用しての電撃戦を取るものだったが、機甲部隊は整備士不足で整備が不十分なだけでなく、本土から輸送されてくる物資は食料品類ばかりで機甲部隊に必須な燃料等が不足していた。そのような状態でもエーリヒは電撃戦を決行、自らも戦闘指揮車に搭乗して最前線に立った。機甲部隊戦力が不十分な状態で行われた電撃戦だったが、投入された機甲部隊の約半分が故障等により離脱、敵の防御が薄い場所をついたにも関わらず戦力が拮抗してしまうことになった。エーリヒは作戦の遂行が困難と見て全部隊に帰還を命じ、自ら殿を務めた。撤退は順調に行われたものの、エーリヒの登場する戦闘指揮者に対戦車バズーカが命中し、戦闘指揮者は擱座。エーリヒはなんとか脱出に成功したもの、戦闘指揮者が炎上し、そのままガソリンに引火し爆発。エーリヒは戦闘指揮者の破片が左目に当たるなどの重傷を負い、後送され2月18日前後に輸送船で本土に帰還した。

リーブルビル郊外の戦い
司令官を失った現地モスクワ軍は混乱状態に陥った。現地モスクワ軍の上層部でも副司令官グスタフ・フォン・ザクセンを新たな司令官に立てようとするザクセン派とエーリヒの副官マクシミリアン・ヴァイスを新たな司令官に立てようとするヴァイス派に分かれ、まともな作戦行動の取れる状態では無かった。現地モスクワ軍の様子を見かねたモスクワ国防省は現地モスクワ軍に新たな司令官として本土からヨアヒム・フォン・ハルトマンが派遣されることを通達すると共に、未だアフリカ民主連盟の支配下にあるガボンの最大都市リーブルビルを陥落させることを命令した。こうして現地モスクワ軍内の対立は収まり、2月27日、モスクワ軍はリーブルビル侵攻のために戦線から全戦力の約3割に当たる3個師団を引き抜き、海軍の支援も受けて3月2日にリーブルビル郊外の沿岸部に上陸した。しかしアフリカ民主連盟軍はこの動きを事前に察知しており、上陸してきたモスクワ軍はアフリカ民主連盟軍に南北から挟撃された。モスクワ軍は善戦したものの、突破できず最終的に降伏した。この戦闘だけで現地モスクワ軍は4万人を超える死傷者を出すことになり、モスクワ軍が大敗するのはキンシャサ空襲・サントメ島沖海戦に続き3度目だった。

アフリカ連合の直接参戦
リーブルビル郊外の戦いで主要なモスクワ軍の陸上戦力を殲滅したと認識したアフリカ連合は遂にモスクワに対し宣戦布告する方針を固めた。直接参戦には対モスクワ戦での戦果拡大を目指したものとされている。3月11日、アフリカ連合はモスクワに対し宣戦布告した。が、ここでもローデシア政府はモスクワに宣戦布告せず、アフリカ連合各国から非難された。アフリカ連合の直接参戦はモスクワ政府もローデシア政府を通じて察知していたものの、コンゴにおける陸上戦力の不足から先制攻撃を行なっている余裕は無かった。

第二次大遠征
大遠征で派遣した戦力の約半分を失い、コンゴに派遣された現地モスクワ軍の予備兵力が尽きると、モスクワ国防省は危機感を抱き始め、第二次大遠征を実施する方針を固めていった。第二次大遠征は第一次と違い航空母艦の派遣は行われず、強襲揚陸艦のみで行われた。主力艦艇としては強襲揚陸艦4隻が派遣されたのみだったが、モスクワ軍は兵員輸送船を総動員し、輸送船の一部も兵員輸送船に改装された。兵員輸送船は4月上旬頃には赤道ギニアのバタの港湾に到着した。この第二次大遠征で派遣された兵力は合計で約8個師団分の戦力に相当した。また、強襲揚陸艦の艦載航空機によるアフリカ民主連盟軍に対する航空攻撃も小規模ではあるが行われた。

ハルトマン就任
第二次大遠征後、4月7日に現地モスクワ軍の新たなる司令官としてハルトマンが現地に到着し、そのまま現地モスクワ軍の司令官に就任した。就任後、ハルトマンは早速ローデシアとの更なる協力関係構築のために動き始め、ローデシア政府との間に「ハルトマン協定」と呼ばれる協定を締結することに成功、これによりモスクワ軍はアフリカ連合各国を通じてアフリカ連合軍やアフリカ民主連盟軍の動きを把握することに成功した。ローデシアはアフリカ連合から裏切り者扱いこそされていれど、アフリカ連合各国の世論はローデシアに対して総じて友好的であり、ローデシアをアフリカ連合から追放することができていなかった。その結果、アフリカ連合加盟国としてアフリカ連合軍の動きを把握することはもちろんの事、アフリカ民主連盟=アフリカ連合間に締結された軍事協定の結果としてローデシア政府はリアルタイムでの軍の動きを把握することができていたのである。ウガンダの大統領ミルトン・ムセベニは後に「世論を放置してでもローデシアをアフリカ連合から追放すべきだった」と振り返っている。

戦局変化
ローデシアの協力により、アフリカ民主連盟・アフリカ連合軍の動きをリアルタイムで把握できるようになったモスクワ軍は、大規模な攻勢作戦を計画した。4月18日には作戦立案を完了させたモスクワ軍は作戦行動を開始し、第二次大遠征で到着した8個師団近い戦力が戦線の左端、ガボンのギニア湾沿岸部に大規模攻勢を仕掛けると、約2個連隊と増強大隊ほどの戦力で戦線を防衛していたアフリカ民主連盟軍は突破された。モスクワ軍は次に戦線に沿って東進を始め、アフリカ民主連盟軍・アフリカ連合軍は戦線を丸ごと包囲されてしまった。アフリカ民主連盟軍・アフリカ連合軍は救援の為に増援を送ろうとしたがモスクワの艦載航空機部隊による妨害を受けて失敗し、アフリカ民主連盟軍・アフリカ連合軍は合計で約7個師団近い戦力を喪失し、戦局は一気にモスクワ有利に傾いた。

リーブルビル占領
戦線の停滞を解消し、アフリカ民主連盟軍・アフリカ連合軍に大きな打撃を与えたモスクワ軍は、リーブルビルの攻略を目的として約6個師団近い戦力を反転させてリーブルビル方面へ向かわせた。4月22日にリーブルビル攻略を目指すモスクワ軍とアフリカ民主連盟軍・アフリカ連合軍のリーブルビルの防衛部隊が交戦を開始したものの、数・質両方で劣るリーブルビルの防衛部隊は苦戦した。防衛部隊は市街地に逃げ込み、リーブルビル市街地のビル等で入り組んだ地形を最大限活用したものの、補給物資のない状態での持久戦は厳しく、最終的に5月6日にビーブルビルの防衛部隊は降伏した。リーブルビルを占領下に置いたモスクワ軍はバタ以外の大規模港湾施設を確保したことにより補給状況が改善し、さらに勢いづくことになった。

ンゲマの策謀
リーブルビルが陥落すると、ガボン人民共和国の国家元首であるアリー・ンゲマは、自身と家族の保身の為に秘密裏にモスクワ軍と接触した。モスクワ軍は当初はンゲマを突き放したものの、最終的にはモスクワ軍がガボンを占領後も引き続きンゲマがモスクワの傀儡政権の主席としてガボンを率いることを承認された。これには当時のガボンがではンゲマに対する個人崇拝が行われており、モスクワ軍がガボンを統治する上でンゲマは役立つと考えたからである。ンゲマは自身とその家族の安全が保障され、安心しきっていたため、他の政府官僚や軍部から不信感を抱かれるようになった。

ンゲマ暗殺
ンゲマに対する不信感を持ったガボン軍はンゲマがモスクワ軍に接触した日も含める数日間の行動を調査した。その結果としてンゲマがモスクワ軍と秘密裏に接触していたことが明らかになり、ガボン軍はこれを裏切りだとしてンゲマに説明を求めたが、ンゲマが権力を行使しての粛清に乗り出したため、軍部は5月11日にンゲマがモスクワ軍と秘密裏に接触していたことを公表し、クーデターを宣言した。この公表に対し当初はガボン国民はガボン軍を非難したものの、政府が黙秘を続ける国民の政府への不信感が高まり、5月14日、外出中のンゲマをガボンの青年が狙撃し、ンゲマは暗殺された。(5・14事件)

ガボン内戦
ンゲマが暗殺されると、ガボンは更なる混乱に陥り、最終的にはクーデターを宣言した軍の一部・ガボンの未民主主義者・反体制派を中心とした民主派(ガボン臨時民主政府)・ンゲマ無き現政府軍の三つ巴の内戦状態に陥った。モスクワ軍はクーデターを宣言したガボン軍と接触し、条件付き協力を提案したものの、反モスクワ色の強かったガボン軍はモスクワ軍の提案を拒否したため、モスクワ軍は独自にガボン内戦に介入した。モスクワ軍は始めにリーブルビルから東進し、ガボン北東部で蜂起した民主派の殲滅を目指して行動を開始した。民主派は対した戦力を保有していなかったため目立った戦果を上げる事も無く、すぐにモスクワ軍により殲滅された。次にモスクワ軍はポールジャンティを臨時首都とする現政府軍の攻略に乗り出した。現政府軍はクーデター軍とモスクワ軍に挟撃される形となりつつも善戦したが、流石に数質両者で劣るモスクワ軍・クーデター軍には徐々に押されていった。が、現政府軍はポワントノアール動乱以後に残存していた僅かな艦隊で政府・軍官僚及び兵士の一部をコンゴへと亡命させることに成功し、現政府軍は旧ザイール領を経由してアフリカ連合加盟国のブルンジにガボン亡命人民政府を樹立した。クーデター軍との戦闘は現政府軍との戦闘と並行して行われていたが、両者とも現政府軍の殲滅を優先したため、当初はそれほど激しい戦闘は行われなかった。が、現政府軍が今後に亡命してザイール領に亡命政府を樹立すると、モスクワ軍・クーデター軍共に現政府軍の殲滅を一時中断し、互いに残るお互いの脅威の排除へと動き、両者はオゴウェ川を挟んで睨み合っていた。行動を先に開始したのはクーデター軍で、オゴウェ川の対岸に展開していたモスクワ軍に対して野砲での攻撃を開始した。モスクワ軍はオゴウェ川を渡河しての攻撃を試みたが、渡河中に攻撃を受けたり等で損害が続出し、また目立った戦果も上がらなかったことからモスクワ軍はクーデター軍への攻撃を中止し、オゴウェ川の川辺から撤退した。クーデター軍はモスクワ軍の撤退を確認すると更なる進軍のためにオゴウェ川の渡河を始めたが、それこそがモスクワ軍の狙いであった。モスクワ軍は今度は逆にオゴウェ川を渡河中のクーデター軍に対して攻撃を加え、さらにモスクワ軍はオゴウェ川から退却していくクーデター軍に対しCASを実施し多大な戦果をあげた。(オゴウェ川の戦い)この一連の戦闘で大きな損害を出したクーデター軍は急激に弱体化し、最終的には統一歴213年8月19日に臨時首都フランスヴィルが陥落し、クーデター軍は降伏。ガボン内戦はモスクワの勝利に終わった。

モスクワ領ガボンの成立
ガボン内戦でガボンの支配を確立したモスクワ軍は、当初は占領統治を敷いていたものの、モスクワ本国の命令によりガボンに傀儡政府を樹立する方針変更された。モスクワ軍は傀儡政府の指導者にンゲマの息子を選び、統一歴213年9月2日、未だ多くのモスクワ軍が駐留するリーブルビルを首都としてモスクワ領ガボンが成立した。ガボン亡命人民政府は「モスクワ領ガボン政府は正統なガボン人民共和国の後継国家ではなく、ガボン亡命人民政府こそが正統なガボン人民共和国の後継国家である。」として強く反発し、ガボン国民にモスクワによる統治への反抗を訴えかけたが、3ヶ月にも及んだ内戦で疲労していたガボン国民が目立った行動を起こすことはなかった。

第二次キンシャサ空襲
ガボンを獲得したモスクワ軍は更なる進撃を目指した。が、さらに進撃するにはガボン領との国境付近に展開してモスクワ軍の進軍を阻止するコンゴ軍・アフリカ連合軍を後方に引き付ける必要があった。そこでモスクワ軍は雪辱を果たすために第二次キンシャサ空襲を計画した。第二次キキンシャサ空襲は統一歴9月14日から開始され、モスクワ軍は今戦争の今までの航空攻撃で得られた経験の全てを活かし、高高度爆撃による住宅地への無差別爆撃、軍事施設への急降下爆撃等が、約2ヶ月間にも渡って行われた。モスクワ軍はあくまでもコンゴ軍・アフリカ軍の注意を後方に引きつけようとして行ったものであったが、コンゴ軍やアフリカ連合軍に強い憎しみを持っていた現地モスクワ軍の暴走を止めることができず、この空襲で計500万人近い*5民間人死傷者を出すこととなり、後のコンゴ国民の反モスクワ的感情・後世からの批判を浴びることとなる。

ブラザヴィル陥落
モスクワ軍による第二次キンシャサ空襲の最中、キンシャサに居住する国民を1人でも救出しようと考えたコンゴ軍・アフリカ連合軍の青年部隊は独自行動をとってキンシャサに向かった。彼らは旧コンゴ人民共和国の首都でありコンゴ民族統一戦線の首都でもあったブラザヴィルの防衛を任されていたが、ブラザヴィルは要塞化されている事実から生まれた安心感が彼らが持ち場を離れてキンシャサでの人道支援という独自行動を行う決断を後押しした。しかしながらこれにより図らずも当初の目的を達成することができたモスクワ軍は一気にブラザヴィルへ向けて大規模攻勢を開始した。前線にいたコンゴ軍・アフリカ連合軍はモスクワ軍の行動を阻止しようと奮戦したものの、モスクワ軍の動きを止めることはできず、統一歴11月20日にモスクワ軍はブラザヴィルに到着、ブラザヴィルは一滴も血が流れることがなくモスクワ軍の占領下に置かれた。

ハルトマン=サスヌゲソ停戦協定
首都ブラザヴィルが陥落し、事実上の副首都であったキンシャサが第二次キンシャサ空襲で大きな被害を受けると、コンゴ民族統一戦線軍及びその政府は次第に継戦意欲を喪失していった。そこで、コンゴの国家元首であるサスヌゲソはハルトマン率いるモスクワ軍とローデシアの仲介の元接触、一時停戦のための交渉が開始された。当初は決裂するとみられていた交渉だが、コンゴ政府側が旧コンゴ人民共和国領及び旧ガボン領をモスクワが支配することを承諾したため、会議は決裂することなく進み、最終的には統一歴213年12月1日にコンゴの臨時首都ルブンバシにて「ハルトマン=サスヌゲソ停戦協定」が締結され最低でも2週間の停戦が保障されることになった。

停戦協定の揺らぎ
一方で、この停戦協定をよく思わない者も多かった。ローデシアを除くアフリカ連合は共同声明として戦争から一方的に離脱したコンゴ政府を非難し、体制転換のための軍事介入も辞さないとして停戦協定の即時破棄及び戦争再開を要求した他、コンゴ国内のタカ派・反モスクワ派やコンゴ軍の青年将校等は政府を非難した。ガボンのような内戦状態に陥ることを危惧したコンゴ政府は青年将校等の粛清に乗り出したが、これが逆にアフリカ連合に軍事介入される口実を作る事になった。

サスヌゲソ拘束
アフリカ連合はコンゴ政府が青年将校の粛清に乗り出しているとして、「虐殺を防ぐため」として軍事介入に乗り出した。これにコンゴ国内の青年将校やコンゴ軍の反モスクワ派等が協力し、コンゴは事実上のアフリカ連合・コンゴ軍の一部と政府軍での内戦状態に陥った。コンゴ軍はアフリカ連合軍に協力した軍の反モスクワ派には勝利したものの、量で劣るアフリカ連合軍相手には勝てず、統一歴213年12月9日にはアフリカ連合軍がコンゴの臨時首都ルブンバシに進駐し、サスヌゲソ等コンゴ政府閣僚は拘束された。アフリカ連合軍はサスヌゲソの邸宅を襲撃し、サスヌゲソの家族を拘束すると、サスヌゲソに対し家族を人質としてアフリカ連合に協力することを強要され、サスヌゲソは渋々ではあるものの受け入れた。以後、サスヌゲソは実権を失い、コンゴ政府の実権はアフリカ連合が掌握し続け、コンゴはアフリカ連合の操り人形として動く事になる。

戦闘再開
サスヌゲソ拘束後、アフリカ連合の強い支配下に置かれたコンゴ政府は統一歴213年12月11日にはハルトマン=サスヌゲソ停戦協定の破棄を一方的に通達し、1時間後にモスクワ軍に対する攻撃を再開した。モスクワ軍にとってみれば寝耳に水の事態であり、不意打ちを喰らう形になったモスクワ軍はコンゴ川に沿う形でつくられた防衛ラインまで撤退した。勢いづくアフリカ連合・コンゴ軍はコンゴ川を渡河しての更なる攻勢を試みたが、モスクワ軍の反撃にあい、コンゴ川付近で戦線は再び停滞した。

コンゴ沖海戦
一方で、モスクワ軍はコンゴ政府が停戦協定を一方的に破棄して攻撃を再開した事に対し激怒した。司令官ハルトマンは第二時代遠征以来艦艇の増減はありつつもギニア湾に展開し続けていたモスクワ海軍に対し艦艇の一部をコンゴ沖に派遣してバナナ港に引き篭もるコンゴ海軍に対する攻撃を要請し、モスクワ海軍がこれに応じてバナナ港に向かって航行を開始した。統一歴213年12月14日、モスクワ艦隊はバナナ港に停泊しているコンゴ軍艦隊に対し奇襲攻撃を仕掛けた。奇襲を受けたコンゴ軍艦隊はハバナ港からのモスクワ艦隊の迎撃及び緊急出航を試みたものの失敗し、コンゴ軍艦隊は壊滅、ハバナ港はモスクワ軍の手に落ちた。またコンゴ軍はこの海戦でコンゴ川用の小型の巡視艇以外の全ての海上戦力を喪失した。

キンシャサ陥落
コンゴ沖海戦でコンゴ沖の制海権を完全に確立したモスクワ軍は再びギニア湾に展開中のモスクワ艦隊との連携攻撃を計画した。未だにモスクワとの戦争継続の意思を見せ続けるコンゴ軍の戦意を完全に喪失させる*6のを目的として、統一歴213年12月20日からモスクワ軍はキンシャサを目指しコンゴ川の渡河を開始した。同時にギニア湾に展開している艦隊から航空機も発艦し、爆装した艦載戦闘機がコンゴ軍の砲兵部隊に対して爆撃を仕掛けた。砲兵部隊を喪失したコンゴ軍は続々とコンゴ川を渡ってやってくるモスクワ軍相手に敗走し、統一歴213年12月23日にはキンシャサが陥落、統一歴213年12月28日にはコンゴ軍はコンゴ川両岸の支配を完全に喪失した。

第一次ルブンバシ講和会議
コンゴ川の支配権を完全に喪失したコンゴ・アフリカ連合、特にアフリカ連合側はこれ以上の戦争遂行は自国の領土にも被害が出る可能性が高まったとしてモスクワとの講和を望むようになった。モスクワ側も本土に当たる東欧・欧州情勢の悪化に伴いコンゴからの主戦力の撤退を望んでおり、両者の利害が一致した結果、ローデシアの仲介の元モスクワとコンゴ・アフリカ連合各国との講和会議が開始された。統一歴214年1月2日から開始された講和会議は当初はモスクワ側・コンゴ・アフリカ連合側ともに順調に望むと楽観視していたが、モスクワがガボン・赤道ギニア・サントメ・プリンシペ・コンゴ領の一部*7の割譲を要求すると、アフリカにモスクワの一台拠点が築かれることを恐れたアフリカ連合側は一気に態度を硬化させた。アフリカ連合側は赤道ギニア・サントメ・プリンシペの割譲しか認めない代わりにこれらの地域の戦後復興支援という代案を出したが、アフリカに一大植民地を築きアフリカにおける影響力拡大及びアフリカのさらなる植民地支配の拡大を図っていたモスクワ側としては到底受け入れられるものではなく、その後も交渉は平行線を辿り、最終的に統一歴214年1月8日にモスクワ側が交渉の打ち切りを一方的に宣言し、交渉は決裂した。

ブジュンブラ爆撃
第一次ルブンバシ講和会議の決裂後の統一歴214年1月9日、モスクワ軍はブルンジの経済的首都であるブジュンブラを爆撃し、アフリカ連合の戦意を完全に喪失させるとしてブジュンブラ爆撃を決断した。翌日の1月10日からギニア湾に展開している艦隊から続々と爆装した艦載航空機が発艦していき、モスクワの占領下にあるコンゴの空港を経由して1月11日の深夜からブジュンブラへの爆撃を開始した。深夜の爆撃はアフリカ連合からの迎撃を恐れてのものであったが、その結果爆撃の精度は著しく低下し、軍事施設のみを目標としていたのにも関わらず民間人にも被害が出る事になった。

第二次ルブンバシ講和会議
ブジュンブラ爆撃でついに本土に被害が出たアフリカ連合はモスクワとの戦争の早期終結を望むようになり、態度も第一次ルブンバシ講和会議の時と比べ軟化した。コンゴ・アフリカ連合はローデシアを通じて第一次ルブンバシ講和会議でモスクワ側が要求した領土の割譲を認めることを引き換えに交渉の再開を要求、モスクワ側もこれに応じ統一歴214年1月13日から第二次ルブンバシ講和会議が開始された。モスクワ側は第一次で要求した領土の割譲の他、約30億軍事部円の賠償金の支払い、最低でも15年間の休戦を要求した。アフリカ連合側は当初は拒否したがモスクワ側がアフリカ連合各国へのさらなる攻撃を仄めかすとこれ以上の被害を出したくなかったアフリカ連合側はこの要求を受け入れ、統一歴214年1月16日に第一次コンゴ侵攻は終結した。



戦間期



モスクワの植民地支配
第一次コンゴ侵攻で獲得した領土に、モスクワは西アフリカ総督府を設置し、植民地支配を進めた。西アフリカのモスクワ領は西アフリカ総督府の元行政体の統一が進められ、統一歴214年の3月19日にモスクワ領西アフリカと呼ばれる植民地国家を成立させた。モスクワ領西アフリカの支配に対し当初は現地住民は抵抗する動きを見せたが、モスクワはモスクワ領西アフリカで都市部での高速道路や鉄道から村の井戸まで広範な範囲でのインフラ整備事業や農林水産業・鉱工業の発展に力を入れ多額の資金を投資し生活水準を大きく引き上げたため、次第に抵抗する勢力は減少していき、統一歴215年の中頃には抵抗する勢力はほとんどが消滅した。統一歴216年に第二次東欧大戦が勃発した際にはガボンを中心として志願兵まで現れたほどであり、モスクワの植民地支配は基本的に好意的に評価されることが多い。

ローデシア・モスクワ関係
第一次コンゴ侵攻後もローデシアとモスクワは経済・軍事・外交のさまざまな面で協力関係を継続し、統一歴216年に第二次東欧大戦が勃発した際にはモスクワに物資支援を開始し、翌年の統一歴217年にはモスクワ側として参戦した。内陸国であるローデシアにとってこの参戦はあくまでも形式的なものに過ぎなかったが、モスクワとローデシアの蜜月関係が未だに維持されていることが改めて印象づけられた。

アフリカ連合とコンゴ民族統一戦線
第一次コンゴ侵攻後、もはや旧ザイール領のみを保有しているコンゴ民族統一戦線の経済は苦境に立たされた。第一次コンゴ侵攻前にすでに経済が崩壊していたにも関わらず無理な戦時経済は経済を再起不能な状態に陥れ、統一歴214年1月22日にコンゴ経済は崩壊、1月24日にアフリカ連合が介入した事によりコンゴはアフリカ連合に経済的にも政治的にも支配され、コンゴは事実上のアフリカ連合の植民地となってしまった。一方のアフリカ連合も第一次コンゴ侵攻における無理な動員により経済に大きくダメージを負った。ただ、コンゴを事実上の植民地支配下に置いた事によりコンゴとアフリカ連合間でのブロック経済を何とか作り出す事に成功し、経済復興を進めていった。

第二次東欧大戦
統一歴216年に勃発した第二次東欧大戦はアフリカ情勢にも大きな影響を与えた。モスクワ領西アフリカでは前述したように志願兵が続出し、その結果、西アフリカに駐屯しているモスクワ軍を東欧・欧州に終結させたかったのもあり統一歴217年にはモスクワ領西アフリカの志願兵のみで組織された「西アフリカ自治防衛師団」が結成され、第二次東欧大戦中のモスクワ領西アフリカの防衛を担った。ローデシアは形式的参戦を行うとともにモスクワに対して物資支援を行った。コンゴ・アフリカ連合は第二次東欧大戦中の隙をついて西アフリカ地域の奪還を図ったものの、いまだ経済復興の途上であったコンゴ・アフリカ連合は終戦まで動くことができなかった。

モスクワ崩壊と混乱
第二次東欧大戦の結果、モスクワの中央政府は崩壊し、モスクワは各地に分裂した軍閥国家が乱立する状態となった。モスクワ皇帝は外国に亡命し、モスクワは象徴すら失った。そのようなモスクワ本国が混乱状態の中で、モスクワ領西アフリカもまた、混乱状態にあった。植民地国家であるが故にモスクワ本国との貿易に経済を完全に依存していたにも関わらずモスクワ本国との貿易が途絶えたモスクワ領西アフリカは経済が停滞し、モスクワ領西アフリカ政府は当初はローデシアとの貿易を活性化させての解決を試みたが大きくは好転しなかった。

帝国の鷲の亡命
混乱状態の中で、第二次東欧大後にルドルフ・ヨーゼフとその支持者を中心として結成されたモスクワ軍の残党組織、帝国の鷲がモスクワ領西アフリカに到着し、モスクワ領西アフリカの西アフリカ総督府に行政権の譲渡を要求すると、混乱状態はさらに加速した。モスクワ領西アフリカでは総督府中枢部の中で帝国の鷲への行政権譲渡を支持する者と支持しない者との間での分裂が起こり、さらにはモスクワ領西アフリカの現地住民の間でも意見が割れるようになり、モスクワ領西アフリカは帝国の鷲とその支持派・反帝国の鷲派での内戦寸前の状態となっていた。

アフリカ連合の介入
モスクワ領西アフリカの混乱を見たコンゴ・アフリカ連合はこれを好機と見てモスクワ領西アフリカへの介入の準備を進めていった。コンゴ・アフリカ連合も第一次コンゴ侵攻終結直後よりは改善したとは言ってもいまだに経済は苦境に立たされており、経済回復にはモスクワ領西アフリカの土地が必須だと考えていた。統一歴228年11月3日、第一次コンゴ侵攻とは真逆にアフリカ連合側がモスクワ領西アフリカに対しコンゴへの帰属を要求し、拒否する場合には武力行使も辞さないとする最後通牒をモスクワ領西アフリカに対して送付した。

思わぬ誤算
モスクワ領西アフリカ・帝国の鷲双方にとってアフリカ連合のこの動きは寝耳に水の事態であった。双方共に外国勢力が介入してくるとは想定しておらず、早急な対応が求められた。その結果、帝国の鷲・モスクワ領西アフリカ(西アフリカ総督府)両者が共にモスクワ領西アフリカの統治問題を後回しにして共にアフリカ連合と対抗することで合意し、「モスクワ反アフリカ連合統一戦線」が結成された。一方のアフリカ連合側にとってもモスクワ領西アフリカ・帝国の鷲のこの対応は想定外であり、アフリカ連合側はこの最後通牒によってモスクワ領西アフリカの混乱がさらに強まり、帝国の鷲とその反対派とでの内戦になった段階で介入するつもりだったので、最早帝国の鷲・モスクワ領西アフリカと全面戦争できるほどの国力は喪失していたアフリカ連合は対応を迫られた。最後通牒を出してしまった段階でアフリカ連合も引くことは出来ず、アフリカ連合は第一次コンゴ侵攻で唯一被害を受けておらず、半ば地域大国化していたローデシアに、協力を求めた。が、すでにローデシア政府はモスクワで統一戦線が結成された段階でアフリカ連合を見放しており、ローデシア政府は「第一次コンゴ侵攻の際に我が国の外交を非難し続けたのにも関わらず自らが窮地になった時だけ頼るというのはあまりにも虫が良すぎる。」として協力を拒否、アフリカ連合は孤立した。そのまま最後通牒にて定められた期限を過ぎても回答がなかったとして、アフリカ連合は統一歴228年11月8日、本心では戦争を望んでいないのにも関わらずモスクワ領西アフリカに対して宣戦布告した。



第二次コンゴ侵攻



帝国の鷲の電撃的侵攻
アフリカ連合・コンゴから宣戦布告を受けた帝国の鷲は、対アフリカ連合・コンゴ軍に対する作戦立案を開始した。帝国の鷲は当初は持久戦に追い込むことでコンゴ・アフリカ連合の戦時経済の息切れを狙う作戦を立案したが、そもそも帝国の鷲自体が長期戦ができるような拠点を保有しておらず、その上西アフリカ総督府との協力関係も完全なものではない上に、モスクワ領西アフリカ自体経済が停滞している状態で軍隊用に追加の食糧生産や軍需品生産が可能な訳が無いといった理由から当初の方針とは真逆の電撃戦での短期決着を狙う方針へと変更された。作戦立案を完了させた帝国の鷲はコンゴ川を渡河し、モスクワ領西アフリカとコンゴとの国境線に軍隊を展開させた。が、一方のコンゴ軍側は未だ再軍備が完了しておらず、プラザヴィル陥落以降臨時首都となっていたルブンバシの防衛で手一杯であった。そのため、コンゴ軍が国境付近に展開していないことを確認した帝国の鷲は1日あたり150kmという驚異的な進軍速度でコンゴ盆地の各地に占領地域を広げていった。帝国の鷲は統一歴228年の11月12日にはコンゴでルブンバシに次ぐ規模を誇る都市であるムブジマイをほとんど死傷者を出す事無く陥落させた。

ルブンバシの戦い
驚異的な速度で進軍していた帝国の鷲だが、コンゴの臨時首都ルブンバシに近づくにつれコンゴ軍の抵抗が激しくなり、進軍速度も次第に鈍っていった。さらには戦死者も出るようになり、元々保有している戦力が少ない上に持久力がない帝国の鷲は焦りを覚えた。そこで帝国の鷲は機甲部隊をUターンさせ敗走しているように見せかけ、機甲部隊を追いかけてきたコンゴ軍を後方で待機している歩兵で攻撃するという作戦を立案した。これは機甲部隊を囮として使う分、非常にリスクの高い物ではあったが帝国の鷲はこれ以外の方法がないとしてこの作戦を実行した。結果的にコンゴ軍はUターンしていく帝国の鷲の機甲部隊を敗走していると考え追撃を行うという、帝国の鷲の思い通りになったものの、戦車・装甲車を18両喪失するという、帝国の鷲の戦力を考慮すると大きな損害だった。しかしながら帝国の鷲は進軍を進め、統一歴228年12月6日、帝国の鷲はルブンバシを陥落させた。

戦闘継続
ルブンバシを獲得した帝国の鷲は、これ以上の戦闘継続は意味のないものとしてアフリカ連合に対し和平を提案した。アフリカ連合各国政府からすれば手放しで喜ぶような提であったが、一方でアフリカ連合各国の国内世論は未だに反モスクワ派が多数を占めており、和平すればコンゴやガボンの二の舞になる可能性が高かった。アフリカ連合各国政府は連日話し合ったが、結局国内世論で多数派を占める反モスクワ派を恐れ、帝国の鷲の和平提案を拒否することで一致し、戦闘は継続された。

コンゴ亡命政府
コンゴの指導者であったサスヌゲソはルブンバシ陥落以後、帝国の鷲の監視の下ルブンバシの自宅に軟禁されていた。第一次コンゴ侵攻の際のハルトマン=サスヌゲソ停戦協定締結の時点でこうなる事を想定していたサスヌゲソは特に不満なく、むしろ忙しい政務から解放されて幸せですらあった。しかしながら、これをよく思わない者達がいた。アフリカ連合である。アフリカ連合からすれば、サスヌゲソの軟禁は自国の実質的な支配下にあるコンゴを喪失するという事であり、アフリカ連合からすればそれは絶対に避けなければならない事態だった。アフリカ連合は第一次コンゴ侵攻時のサスヌゲソ拘束の経験を活かして特殊部隊を帝国の鷲に勘付かれることなくサスヌゲソの自宅にまで送り込むことに成功した。しかしながら自宅において特殊部隊がアフリカ連合の手のものであり、自分をアフリカ連合へ送ろうとしている事を察して必死に抵抗した。数分後、サスヌゲソの自宅が騒がしいことを変に思った帝国の鷲の兵士数人が自宅に突入し、アフリカ連合の特殊部隊と接敵、戦闘に陥った。帝国の鷲側は直ちに歩兵1個小隊の増援を派遣したが間に合わず、突入した兵士18人の内10人が負傷、3人が死亡し、サスヌゲソはアフリカ連合に誘拐される結果となった。サスヌゲソの身柄を確保したアフリカ連合はサスヌゲソにコンゴ亡命政府の樹立を要求し、統一歴229年1月5日、ウガンダでコンゴ亡命政府が発足した。なお、帝国の鷲の最高指導者ルドルフ・ヨーゼフはこの結果に激怒し、アフリカ連合侵攻の決意を固めたとされる。

アフリカ連合本土決戦
統一歴229年1月9日、アフリカ連合各国首脳は迫り来る帝国の鷲のアフリカ連合本土侵攻にどう対処するかが連日話し合った。首脳達は最悪サスヌゲソおよびコンゴを引き渡してでも帝国の鷲と休戦したがっていたが、アフリカ連合各国の軍部は徹底抗戦派が牛耳っており、自身の保身を考えるアフリカ連合各国政府首脳部はクーデター回避の為休戦は不可能であった。統一歴229年1月14日、最後となるアフリカ連合各国首脳の話し合いが行われ、その結果アフリカ連合各国は帝国の鷲に徹底抗戦することで合意した。合意後、アフリカ連合では帝国の鷲に少しでも抵抗するため、苛烈な動員を行い、今まで徴兵を免除されていた子供や女性までもが徴兵され、銃を持った。また経済も軍需産業や食料品生産等戦争遂行の為に必要となるもの以外全ての産業が停止され、働いていた労働者はそれらの産業や軍隊に送られた。
統一歴229年1月22日、帝国の鷲は全軍をアフリカ連合との国境に展開させ、アフリカ連合本土侵攻の準備を完了させた。翌日、帝国の鷲はアフリカ連合との国境を越境し、それに対応するためにアフリカ連合軍が展開した。この戦闘は当初帝国の鷲が圧倒的優位性を持って勝利を収めると思われていたが、アフリカ連合が帝国の鷲やモスクワ領西アフリカ、ローデシアといった国・組織が想定していたものを大きく上回る善戦し、戦局は拮抗した。帝国の鷲はローデシアやモスクワ領西アフリカの支援を受け、アフリカ連合はほぼ全ての国民を徴兵して動員して行った。この戦闘は約5ヶ月にも渡って行われたが、最終的には帝国の鷲がアフリカ連合軍を破り、統一歴229年7月5日、アフリカ連合全域が帝国の鷲の支配下に置かれた。



終戦



キンシャサ講和会議
統一歴229年7月8日から、帝国の鷲・モスクワ領西アフリカ・ローデシアとアフリカ連合・コンゴとの間でキンシャサにて講和会議が開始された。この講和会議はあくまでも戦争を法的に終わらせるものに過ぎず、帝国の鷲の筋書き通りに進んだ。この講和会議でモスクワ領西アフリカ領・旧コンゴ領・旧アフリカ連合領(ローデシアも含む)を領域とし、国家元首にルドルフ・ヨーゼフが就任する連邦制国家である「中央アフリカ連邦(中央アフリカ暫定統治機構*8)」が成立した。なお、中央集権国家ではなく連邦制国家にしたのは一貫してモスクワ・帝国の鷲との協力関係にあったローデシアや戦争前に緊張状態にあったモスクワ領西アフリカ政府への配慮、旧コンゴ・アフリカ連合領における反モスクワ直接統治運動の高まりなどが要因とされる。 

リーブルビル裁判
キンシャサ講和会議と並行してアフリカ連合政府幹部の処理も開始され、アフリカ連合各国の首脳が侵略戦争の計画・準備・開始・遂行など、国家の戦争指導責任を問われ、A級戦争犯罪人として終身刑とされた。*9サスヌゲソは、当初は同様に終身刑となる予定だったが、ハルトマン=サスヌゲソ停戦協定での早期にモスクワとの和平を模索した動き等を評価され、無罪とはいかなかったが禁錮18年という比較的軽い罪になった。



影響



戦後の中央アフリカ
中央アフリカは中央アフリカ連邦の統治の元、戦後復興が進められたが、その統治は難航した。大きな問題の一つ目が連邦加盟国間での経済格差で、第一次コンゴ侵攻・第二次東欧大戦・第二次コンゴ侵攻の全て一貫してモスクワに物資援助を行いその結果大規模な経済発展に成功したローデシア(ローデシア連邦構成国)や、第一次コンゴ侵攻以後モスクワの統治下にあり早期の戦後復興に成功し、経済発展に成功したモスクワ領西アフリカ(西アフリカ連邦構成国)と、第一次コンゴ侵攻・第二次コンゴ侵攻双方で国土が荒れ果てたコンゴ(コンゴ連邦構成国)や第二次コンゴ侵攻末期の本土決戦で大きな被害を出したアフリカ連合各国(ヴィクトリア連邦構成国)とで大きな経済格差が発生した。2つ目が、地方における反モスクワ的勢力の台頭である。中央集権国家ではなく、連邦構成国の自治度の高い連邦制国家であった為、帝国の鷲が中心的人物となっている中央政府による反モスクワ的勢力の排除が難しく、各地で「中央アフリカ連邦は名前と姿を変えただけの悪しき帝国、モスクワそのものである。」と主張して、テロや暗殺事件、より大規模なものでは中央アフリカ政府の重要人物5名(全てモスクワ人)が襲撃され、うち2名が死亡するという事件を引き起こしている。中央アフリカに再び平和が訪れるのは、もう少し先の事である。
最終更新:2026年07月28日 00:53

*1 アフリカ連合・アフリカ民主連盟諸国だけでなく、モスクワおよび帝国の鷲にも支援を送っていた。また、モスクワ及び帝国の鷲側に送られた支援物資の方がアフリカ連合・アフリカ民主連盟諸国側に送られた支援物資の量と比べ多かった。

*2 アフリカ民主連盟・アフリカ連合どちらにも属していない。

*3 ザイール人民連盟の首脳官邸の愛称

*4 この友好条約は軍政国の発足と共に破棄された。

*5 モスクワ軍は最大でも200万人未満と主張

*6 モスクワ軍側はアフリカ連合がコンゴ政府の実権を掌握していることを把握できていなかった。

*7 旧コンゴ人民共和国領及び旧ザイール領のコンゴ川両岸

*8 中央アフリカ連邦は連邦構成国各国が連邦政府よりも強い権力を保有しており、中央アフリカ連邦自体が連邦制国家と言えるか怪しかった為、この呼称が使われることの方が多かった。

*9 モスクワでは死刑制度は統一歴205年に廃止されており、帝国の鷲もそれに準じた。