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ザイール動乱(ザイールどうらん、Zaïre Crisis)は、容赦なき憤怒作戦によって国内秩序が崩壊したヴィラン・キンシャサ領域において発生した、旧政権残党(中央教団)と、国際社会が支援する改革派(南部同盟)の内戦に端を発する混乱である。 目次 1.コンゴ川の混迷 1.1.南部同盟の成立 1.2.ザイール人民連盟の成立 1.3.軍備拡張 2.戦闘の経過 2.1.三月攻勢 2.2.キンシャサ包囲 2.3.戦線の膠着とUNARSの迷走 2.4.人民クーデター 3.和平失敗、当事者のシフト 3.1.二頭会議 3.2.内紛 3.3.人民連盟の進撃 3.4.キクウィト渡河攻防戦 4.南部同盟の瓦解 4.1.カナンガ包囲戦 4.2.ゲリラ戦と、東部軍閥の終焉 5.戦後の状況・戦争犯罪の容疑 5.1.人民連盟による「ザイール」 5.2.戦争犯罪・人道に対する罪 5.3.UNARSの解散 5.4.人質救出 |
ザイール動乱 Zaïre Crisis |
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| 場所 | ヴィラン・キンシャサ支配地域 | ||||
| 日付 | 統一暦206年3月-207年8月 | ||||
| 関係国・組織 | 中央教団 | UNARS | |||
| 南部同盟 | |||||
| ザイール人民連盟 | #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 シランナ社会主義連邦共和国
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| 原因 | 容赦なき憤怒作戦、戦後統治の失敗 | ||||
| 結果 | ザイール人民連盟の領域掌握・UNARS撤退 | ||||
| コンゴ川の混迷 | |||||
| 南部同盟の成立 | |||||
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「容赦なき憤怒作戦」にて、ヴィラン・キンシャサおよびその支配地域は大きな打撃を受けた。戦後の不安定な占領地域を暫定統治する組織として「地域安定化を目指す連合諸国(United Nations Aiming for Regional Stabilizing、UNARS)」が結成され、有志連合軍は移行期間を経たのちに撤収し、同組織が該当領域の再建任務に当たることになった。同組織は、国際テロを引き起こすヴィラン・キンシャサの絶対的中央神権政治制度を問題視こそしていたが、これに対して過激派の鎮静のみを行い、大規模な現状変更は慣習国際法(占領法)に抵触しかねないものとして、避ける方針にあった。結果、キンシャサで政治の一切を取り仕切っていた中央教団は残置され、過激な思想を持つ者のみが排除されるように仕向けられた。 205年10月20日、UNARSはヴィラン・キンシャサ地域の再建のための国政選挙を、12月に実施し、「教徒評議会」を民族政治の基盤とするよう告示した。教団首脳部は選挙の実施に猛反発したが、交渉の結果、各選挙区の候補者に教団幹部を立てることで合意した。これに対し、容赦なき憤怒作戦で早期に占領されていた中部カナンガ地域を中心とする一派は、リベラル、あるいは国際協調的な考えに基づき、教団首脳部を批判するに至った。UNARS各国は選挙支援業務を実施するとともに、各都市圏に割り振られた選挙区の選挙監視任務に就いた。 12月20日に投開票が行われ、全選挙区全体ではヴィラン・キンシャサが立てた候補者たちが44.825%の得票率を得た一方、中部カナンガ地域を中心とする穏健派(民主派・反教団派)は55.125%の得票率を得る辛勝として終了した。この結果を受けて、国政の場にて圧倒的ではないものの有利状況を手にした穏健派はUNARSと協力して秩序の再建を目指すことを表明したものの、ヴィラン・キンシャサ中央教団は不正選挙が行われたとして、穏健派とUNARSを大々的に非難した。国政選挙を受け勢力図が入れ替わった教徒評議会は神官たちのコントロールから離れつつあったが、もとよりどちらかが圧倒的多数を獲得するような状況ではなかったため、キンシャサ川の評議会員による中傷と弾劾決議案、ボイコットの嵐が吹き荒れ、すぐに機能不全を起こした。翌206年1月、この状況に業を煮やした穏健派は、中央教団の統制を離れ自分たちこそがアフリカ系ヴィランの中央を担うべきとして、カナンガ市を拠点として「南部同盟(俗称:ヴィラン・カナンガ)」の設立に至った。UNARSも南部同盟に同調し同組織に対する支援を行うことを決定したが、キンシャサ中央教団と南部同盟というアフリカ中部のヴィラン勢力が並び立つことで、秩序の再建はもはや望めない状況へと陥った。 |
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| ザイール人民連盟の成立 | |||||
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一方で、宗教に左右される生き方を嫌い、中央教団にも、教団分派である南部同盟にも従わなかった住民もいた。モブツ・ンザンガ・セコはそのような不満を抱く住民たちをまとめ上げ、205年11月16日、ザイール人民連盟を政党として旗揚げし、国政選挙へ立候補者を出すことを目標に活動を始めた。しかし組織結成に手間取ったり、宗教からの独立を唱えていたことで、今まで生活に根差していた宗教を取り上げられることを恐れた住民にも敬遠され、選挙までに支持者を得られないと判断し、人民連盟は地下へと潜伏することとなった。 |
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| 軍備拡張 | |||||
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もはや中央教団と南部同盟に和平の手段は残されておらず、中央教団は容赦なき憤怒作戦を生き残った部隊を再編制し、南部同盟は、元は要人護衛のために組織していた党員による私兵集団を軍として位置づけ、強化していた。UNARS参加国の一部は南部同盟への軍事支援を行い、これにより南部同盟は短期間で中央教団に対抗し得る戦闘力を確保していった。 一方で地下に潜ったザイール人民連盟は、紛争になれば自衛の必要があるものと認識し、闇市場などから火器等の調達を進めていた。ある程度の軍事物資を調達し、戦力を増やしたところで、人民連盟は東部の鉱山を占拠し、自身の資金源として運用を開始した。またこれを元手に増やした資金により、PMCを雇用し、戦力増強に勤めたが、中央教団と南部同盟はもはやそのような第三勢力の動きに戦力を割けるほどの余裕はなかった。 |
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| 戦闘の経過 | |||||
| 三月攻勢 | |||||
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小規模な戦闘が散発した後、206年3月から本格的な戦闘が始まった。南部同盟は南部や東部地域を掌握しており、東部最奥の国際水域であるキブ湖に面するゴマおよびブカヴといった都市を密輸拠点等として用いていた他、UNARSなどによる軍事支援を受けた精鋭部隊の育成にも充てていた。3月16日、南部同盟はドルゥバ作戦(日本語で「嵐」作戦)を決行し、国道2号線や1号線を経由して一気に西進した。 この情報を受けた中央教団は、南部同盟やUNARSの本拠地であったカナンガを電撃的に陥落させ、西進する南部同盟の主力との合流を阻止することを目論んだ。しかし南部同盟はUNARSから秘密裏に情報を得、密輸や軍事支援によって得た輸送機やヘリコプターを用い、カナンガ国際空港へ少数の部隊を先行させることでカナンガの防備の増強を果たした。またカナンガ近郊では、進軍する中央教団軍に対する態度は冷ややかなものであり、激怒した中央教団軍はいくつかの村落を焼き払った。この結果として中央教団軍は地元住民の信頼を完全に失った。 3月25日、カナンガに侵攻していた中央教団軍は、カナンガ市街地西5kmほどの地点で、東部からの部隊と地元の防衛勢力による挟み撃ちを受け、指揮系統が即座に瓦解。兵士の離脱や寝返りが相次ぎ、敗走の憂き目にあった。敗走の過程にて、中央教団軍が地元住民を拉致し、強制的に肉の盾として使用したことが記録されている他、ある村落では成人男性を徴発し、彼らは戦後になっても行方不明であることが報告されている(後述)。 この戦いにより、南部同盟はカナンガを中心に、ルアバ川・カサイ川の主要な渡河ポイントおよび鉄道網を完全に制御することに成功した。これにより、中央教団軍はキンシャサから東部(キサンガニやゴマ方面)へ陸路で進軍するルートが遮断され、中央教団軍はキンシャサに対する反攻作戦に備えなければならない状況に追い込まれることになった。 |
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| キンシャサ包囲 | |||||
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南部同盟軍はカナンガを西部攻略のための前線司令部として整備し、豊富に確保したダイヤモンド鉱山の利益を軍資金に充て、首都キンシャサを目指す第二段階(コンゴ川封鎖と西進作戦)へと移行した。 4月、東部からコンゴ川沿いに下った南部同盟軍部隊が、川沿いの要衝都市(キサンガニ、ムバンダカ)を次々と制圧。地方道路網が未発達なこの地域において、首都キンシャサへの最大の食料・物資供給ルートである「コンゴ川の舟運」はストップすることになり、内陸部からの農産物や木材、資源の流入は完全に途絶えた。 5月前半、カナンガから西進した陸上部隊がバンドゥンドゥ州(キクウィトなど)へ侵攻した。キンシャサから東へ約300〜400kmの位置に戦線を固定し、首都防衛に当たる中央教団軍を完全に足止めし、広大なジャングルと泥濘地帯を盾に、効率的な防衛・牽制陣地を敷くことに成功した。 また、南部同盟はダイヤモンド鉱山やコバルト・タンタル鉱山による莫大な資金力を背景に、UNARSの一部国家から高性能な戦闘機や武装ヘリ、精密弾の支援を引き出した他、PMCの戦術インストラクターを大量導入した。カナンガおよびキサンガニの空港は拠点化され、中央教団軍の駐屯地や補給拠点をピンポイント爆撃することによって、同軍の反撃能力の消耗を図った。しかし運用能力自体は一朝一夕で身に着くものではなく、南部同盟はしばしば誤爆を繰り返し、日和見的な立場であった北部の首長らからは「中央教団よりむしろ南部同盟の被害の方が多い」とまで抗議されるに至っている。 ここに来てUNARS総会は、人道の側面から、南部同盟の行き過ぎた攻撃に遺憾の意を表する決議を採択するなど(6月)、南部同盟の手綱を引き直す姿勢に転換し始めている。 |
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| 戦線の膠着とUNARSの迷走 | |||||
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南部同盟は首都キンシャサへの侵攻を強行せず、バンドゥンドゥ州周辺で防衛線を固定した。7月の時点で、中央教団は沿岸部と首都圏のみを支配し、また首都圏はコンゴ川物流が止まったことによる極限のハイパーインフレと重度の食料危機に陥った。これにより中央教団は攻勢に出る体力を完全に喪失していた。一方南部同盟は国際的な公式承認は得ていなかったものの、潤沢な資源出資と強力な軍事力を背景に、独自の通貨・税制・インフラを持つ「事実上の独立国家」として固層化していた。首都さえ陥落させれば、武力によってではあるが中央政権を完全に南部同盟側へと転換させることができるだろうと言うのが大方の見通しであったが、南部同盟の参謀団は決戦を避け、中央教団の降伏を待っていたようである。幾人かのPMCインストラクターには将校経験者もおり、有利な攻勢側たる南部同盟は、中央教団の準備が整わないうちに決戦を強いることができると進言していたものの、その案は受け入れられなかった。 UNARSは南部同盟の真意を測りかねていた節があったものの、戦線の膠着を、南部同盟による東部支配の既成事実化を狙ったものとして理解し、早急な戦闘の停止と社会秩序の再建を呼びかけ始めた。しかしこれは、中央教団を未だ完全な統治能力を有する政府として黙示的に示した決議であり、一方で南部同盟による誤爆問題などにはほぼ触れないなど、UNARS総会での意見対立を収めるために玉虫色の、あるいは南部同盟に有利な呼びかけに終始した。 |
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| 人民クーデター | |||||
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既に述べている通り、コンゴ川・陸路の封鎖で、キンシャサは深刻な飢餓とハイパーインフレに直面していた。市民の間では食料配給をめぐる不満が頂点に達し、中央教団軍内でも下士官や兵士の離脱が相次いでいた。彼らの怒りの受け皿となったのは地下で力を蓄えていたザイール人民連盟であった。東部で秘密裏に確保していた鉱山からの送金や、密輸ルートによって兵装量や兵站を確保していた人民連盟は、市民らの合流により一大組織へと膨れ上がっていた。 11月6日、食料暴動に乗じ、人民連盟と寝返った下士官部隊が国営放送局とキンシャサ港を電撃的に占拠した。彼らは「腐敗した教団政権と資本主義的傀儡の打倒」を宣言し、中央教団と南部同盟への敵対心を露わにした(注)。翌日、外交団や中央教団軍部隊が首都防衛に追われる混乱を突き、人民連盟部隊がキンシャサ神殿へ突入。中央教団のトップである最高神祇官および閣僚は沿岸部(マタディ港方面)へ逃亡を余儀なくされた。指揮系統上層を喪失した中央教団軍は、各個撃破されるか、人民連盟への恭順を選択した。 8日、人民連盟は政府を掌握したこと、首都圏の食料・倉庫・民間インフラの「全財産国有化」と配給制の導入を発表した。 |
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| 和平失敗、当事者のシフト | |||||
| 二頭会議 | |||||
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人民連盟のクーデターが成功したと見るや否や、南部同盟は人民連盟へ和平交渉を打診し、相互に敵対的行為の停止を確約した上で、12日に両組織のトップが出席する二頭会議がキンシャサにて開かれた。 南部同盟のトップであるイルンガ・ルベルワは「旧悪のキンシャサ政権は倒れた。今やコンゴ川以東の高度な自治と鉱物利権を相互承認し、不干渉条約を結ぶべきだ」として現状維持(二分)の和平を提案したものの、人民連盟のトップであるモブツは「南部同盟は外国資本と鉱物メジャーに国土を売り渡す 御用資本家・軍閥の野合に過ぎない。そもそも、国土を荒廃させる宗教を未だに旗印にしている点で言えば、教団と何も変わらない」と一蹴。全資源の人民国有化と「全コンゴのイデオロギー的解放」を掲げ、同組織に対して宣戦を布告した。結果、抗争は南部同盟対人民連盟の全面戦争へと移行した。14日から両勢力による交戦が確認されている。 |
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| 内紛 | |||||
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各国企業や隣国投資家は、狂信的な共産主義政権の出現と不透明な戦況を恐れて鉱物取引からの一時撤退を選んだ。これにより南部同盟の資金源であった鉱物流出ルートは塞がれることになった。 また南部同盟内では、カナンガの首脳陣を中心とするダイヤモンド利権派(統制派)と、東部で軍の育成に当たっていた軍閥との間で、対人民連盟戦略を巡って意見が対立した。利権防衛を優先したい統制派と、軍事決戦を望む軍閥側で結束が崩れ始めたのである。 UNARSは人民連盟の出現と南部同盟の内紛を見て、双方の落としどころを探っていたものの、この動きは東部軍閥側から敗北主義として理解され、信頼を喪失した。15日にはUNARS総会決議206117号が決議され、両勢力に対し民間人への被害を最小限にするよう求められたが、交戦の中止を命令できなかったのは、前述の通り東部側からの反発を考慮したのと、参加各国で主張の食い違いがあり、非公式に人民連盟側に武器を供給し、紛争を継続させることを狙っていた国もいたからとされる。 |
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| 人民連盟の進撃 | |||||
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人民連盟は長年の中央の腐敗と過酷な支配に苦しんできた中部・農村地帯の貧困層や青年層に対し、「鉱山と土地の人民への開放」を扇動した。またこの苦しみはヴィラン教自体が放置してきた社会構造の歪みにあると、従来からの主張をさらに加速させることで、一応ヴィラン教を奉じたままでいる南部同盟の背後(支配地域内部)での労働者や農民の蜂起も多発させた。 首都の防衛戦力を再編した人民連盟軍は、12月から翌年3月にかけて、水上輸送艇と奪取した重火器を使い、コンゴ川を逆のぼる形で東進。各拠点を点ではなく、農民蜂起による面で浸透・奪取することに成功した。 |
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| キクウィト渡河攻防戦 | |||||
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当時の人民連盟は首都キンシャサを奪取したものの、コンゴ川と陸路の兵糧責めにより深刻な物資不足に苦しんでいた。一方、南部同盟軍は「共産主義勢力の北上・西進の阻止」と「キンシャサ再奪還」を目指し、最新の重火器とドローン陣地を擁してバンドゥンドゥ州のクイル川沿いにある要衝都市キクウィトに巨大な防衛線を敷いていた。南部同盟の司令部は、ここで人民連盟を足止めして干上がらせれば勝敗は決すると高をくくっていた。 207年4月2日未明、南部同盟の正面火力が集中するキクウィト主橋梁に対し、人民連盟は正面突破を装った陽動を展開。その裏で、コンゴ川船頭や地元漁師たちの協力を得て、数千人の精鋭部隊が数キロ上流の広大な湿地帯・密林を夜間に手漕ぎボートと徒歩で密かに渡河した。渡河に成功した人民連盟軍部隊は、南部同盟の最大の強みであった「ドローン運用拠点」および「装甲部隊の補給処」を背後から電撃的に奇襲した。さらに、南部同盟軍内部に雇われていた地元出身の下級兵士や労働者たちが、事前に潜入していた人民連盟政治工作員の呼びかけに応じて陣地内で一斉にクーデター・離脱を引き起こした。 背後からの奇襲と内部からの裏切りにより、南部同盟の指揮系統は数時間でパニック状態に陥った。最新兵器に頼っていた反政府連合軍は、密林戦と近接戦闘に長けた人民連盟の「人民戦争」戦術の前に総崩れとなり、無数の重火器、ドローン、弾薬庫がそのまま人民連盟の手へ渡った。 この戦いにより、人民連盟はキクウィトで反政府連合が持ち込んでいた大量の最新兵器・燃料・補給物資を完品で押収した。人民連盟はそれまで致命的だった弾薬不足を一挙に解消し、自らの部隊を「軽武装の民兵」から「重火力機械化部隊」へと一気に進歩させた。またキクウィトの突破により、首都キンシャサから中部へ続く唯一の舗装道路(国道1号線)が完全に開放された。一方で南部同盟はこの大敗により、首都攻略の選択肢を永遠に失った。兵力と資金の大部分をキクウィト防衛線に投じていたため、これ以降はカナンガ包囲戦、そして東部撤退戦へとひたすら破竹の勢いで進撃する人民連盟に対する後退戦を強いられることになった。 UNARS諸国はこの敗戦を観測し、カナンガに設置されていた在外公館からの退避や、現地協力者の救出等を始めている。 |
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| 南部同盟の瓦解 | |||||
| カナンガ包囲戦 | |||||
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6月9日、人民連盟軍はコンゴ川および陸路の要衝を掌握した後、カナンガへの主要輸送網を遮断した。外交・鉱物取引の停止により、南部同盟軍は弾薬や燃料の補給が困難に陥った。西側のバンドゥンドゥ方面から進撃してきた人民連盟軍の、旧中央教団軍の投降兵を取り込んだ精鋭部隊がカナンガの外囲を固め、封鎖を完成させた。 人民連盟が真価を発揮したのは、軍事的包囲だけでなくイデオロギーと心理戦でもあった。キクウィトでも行われていたように、人民連盟の工作員がカナンガ市内の鉱山労働者や貧困層、下級兵士へ潜入し、ダイヤモンド鉱山の全労働者への開放や、軍閥による搾取からの解放を説き、秘密裏に民兵組織(人民防衛委員会)を結成させていた。また南部同盟内部で、利権を守るため早期に撤退・停戦すべきだと主張する統制派と、死守して打撃を与えるべきだと主張する東部軍閥の対立がさらに激化し、指示系統が完全に二分されており、カナンガを防御する南部同盟軍は、もはや組織だった防御行動を行えずにいた。結果、各部隊は個別の判断で人民連盟軍に応戦することになり、多くの被害を被った。また、UNARS諸国はこの時に至るまでにコンゴ情勢に実力介入する決心をできずにおり、即時停戦と人道回廊の開設を求めて中立的な停戦仲介を試みたものの、実効性のある圧力をかけられず外交交渉さえも空転した。 包囲開始から数週間後、人民連盟は外からの砲撃・ドローン打撃と同時に、市内の地下組織へ一斉蜂起の合図を出した。カナンガ市内で労働者や一部の下級兵士が一斉に武装蜂起し、弾薬庫や通信設備が内側から奪取され、南部同盟の司令部はパニックに陥った。戦況の不利と内部の裏切りを察知した南部同盟軍の主力は、軍閥側の命令で東部(マニエマ・ゴマ方面)へ撤退を開始し、これにより防衛線が完全に瓦解した。 26日、人民連盟軍がカナンガに入城した。各地で略奪や虐殺などが発生する中、UNARS諸国および一部の協力者は退避することに成功したものの、統制派の南部同盟首脳部は瓦解した。 UNARSは南部同盟がキクウィト戦に敗北した後、現地スタッフの退避を始めていた。聖オストンは、多大に投入したアセットや、早期から開始していた退避活動が功を奏し、カナンガが完全に陥落する前までに派遣要員や現地協力者全員の退避を完了した。また、シランナ、西アフリカ、ウルクイナは限られた時間の中、派遣要員の退避には完了したものの、現地協力者の一部は取り残してしまう結果となった。一方でモスクワ、ネストニアの退避活動は間に合わず、また現地でのトラブルが重なり、UNARSの高官までもが侵攻してきた人民連盟に拘束される憂き目に遭っている。 |
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| ゲリラ戦と、東部軍閥の終焉 | |||||
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南部同盟の二大支柱のうち、中部の要衝とダイヤモンド資源を失った東部軍閥は、単なる地方の一勢力へと後退した。東部軍閥はそれでもなお抵抗を継続したものの、もはや大規模な反攻作戦を人民連盟に対して行える体力は残っておらず、自身の支配地域を消耗させながら、非対称戦(ゲリラ戦)を選択することを強いられた。 東部(ゴマ、ブカヴ、ルチュル周辺)は高山地帯と緻密な熱帯雨林が広がり、人民連盟が首都や中部で多用した大部隊の機動戦や重火器、ドローンによる広域監視の効果が著しく制限される地域であった。東部軍閥はこの有利な地形を最大限に活用し、正規戦からゲリラ戦へと戦術を移行させたのである。戦術の一例として、東進してくる人民連盟軍の長大な補給線に対し、小規模な遊撃部隊がジャングルから神出鬼没に奇襲を敢行、トラック車列や補給拠点をピンポイントで破壊しては即座に山林へ消える戦法を繰り返した。また、山岳部の狭隘な峠道や川の渡河点に即席爆発装置や野戦陣地を設置し、人民連盟の前衛部隊に多大な出血を強いた。 このゲリラ戦を後方から支えたのは、やはり紛争鉱物資源であった。東部軍閥は正規の輸出ルートを失った後も、東部軍閥は密林奥地の小さなコバルト・金・タンタル鉱山を支配下に置き、非合法に採掘を継続させた。徒歩や小舟で国境を越え、闇市場を通じて隣国の武器商人から小火器、弾薬、夜間暗視装置などを調達し、持久戦の資力を維持したのである。 しかしそうした努力も限界があった。東部軍閥の抵抗は当初人民連盟を苦しめたものの、やがて破綻が訪れた。人民連盟は単に軍事力で抑え込むのではなく、東部軍閥に長年抑圧されてきた地元農民や過酷な労働を強制されていた鉱夫に対し、軍閥打倒後の土地と鉱山の人民還元を説いた。これにより地元住民が人民連盟側の情報提供者(密告者)となり、東部軍閥は内部から追い詰められた。補給が滞り、勝ち目のないゲリラ戦が長期化するにつれ、軍閥内部の司令官同士で資金や残存資源の奪い合いが発生。利権目当てで集まっていた兵士たちの士気は底を突き、逃亡や人民連盟への寝返りが相次いだ。 もはやこの状況において、UNARSを含む国際社会が東部軍閥に味方することもなく、孤立無援となった東部軍閥の潜伏拠点は人民連盟の包囲・清掃作戦によって一つずつ潰されていった。207年8月までに、最終的に残存していた軍閥幹部が射殺または拘束されたことで、長年コンゴ東部を支配してきた軍閥構造は完全に潰滅した。こうして人民連盟による全土再統一が完了した。 |
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| 戦後の状況・戦争犯罪の容疑 | |||||
| 人民連盟による「ザイール」 | |||||
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コンゴの全土を再統一したザイール人民連盟は、モブツ・ンザンガ・セコ独裁の下で社会主義体制を確立させ、反体制派の粛清と厳しい統制により秩序の再建を目指した。この地域に根付いていたヴィラン教の痕跡は、徹底的に取り除かれ、宗教に左右される国政は完全に過去のものとなった。ザイール人民連盟主導により、地域名を由来としてコンゴと呼称されていた国号は、ザイールへと変わった。また人民連盟の武装部隊は、ザイール国防軍として再編された。 207年後半には内戦勝利への熱狂冷めやらぬ中、工業国への転換を目指す「五カ年計画」が実行された。しかし政府のこの動きに対しては、農民たちが反対運動を行った。モブツは国防軍による反対運動の鎮圧を試みたが、農民上がりの者が多かった国防軍は出動を拒否し、五カ年計画は失敗に追い込まれた。この混乱の中でザイール経済は発展どころか停滞、さらには悪化を招いた。残る頼みの綱であるダイヤモンドの輸出も、隣国等の妨害に遭い、ダイヤモンドの輸出は利益が出るどころか大赤字を計上した。210年2月のハイパーインフレをもって、ザイール経済は事実上崩壊した。この結果、植民地化のチャンスを伺っていたモスクワ帝国による介入を招くことになる(コンゴ侵攻)。 |
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| 戦争犯罪・人道に対する罪 | |||||
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この内戦の中で、いくつかの戦争犯罪や人道に対する罪と疑われるケースが判明している。 206年の三月攻勢時、機を制するためにカナンガへ進撃する中央教団の部隊に対し、抵抗を行おうとしたカサイ州東部の伝統的首長領や農村集落が標的となりました。見せしめとして集落全体が放火され、住民に対する無差別殺害や掠奪が発生。数百人規模の国内避難民が発生する端緒となった。また焼け出され、脱出に失敗し地域に留まっていた住民たちもいたが、今度はカナンガ侵攻に失敗して敗走する中央教団軍が肉の盾として拉致・使用するケースも存在した。さらにある村では、放火こそ免れたものの、成人男性が徴発され、戦後になっても戻ってこなかったことが報告されている。追跡調査の結果、何人かは所属が変わって人民連盟軍にいることが確認されたものの、残りは戦死したか、あるいは狂信的な中央教団軍の統制下、反ヴィラン的というレッテルを貼られ、不詳の場所で殺害された可能性がある。 4月、キンシャサに向けて進む南部同盟軍が、コンゴ川の舟運網を断つため、川を下る避難民船や物資輸送船に対してしばしば無差別砲撃・機銃掃射を実施した。ムバンダカ近郊では、首都キンシャサへ向けて逃走中だった民間船数隻が沈没・爆破され、乗っていた避難民・船員ら数百人が死亡した(ムバンダカ事件)。また首都キンシャサ外郭のバンドゥンドゥ州において、南部同盟軍は政府軍の潜伏や反撃を防ぐ名目で無人地帯(無差別狙撃区域)を設定した。指定地域からの撤退に応じなかった農民らが中央教団への協力者とみなされ、多数の集落で大量殺害が繰り返された。この行為が、6月のUNARS総会決議など、南部同盟に対するUNARSの態度が次第に硬化していった遠因とも分析されている。 6月から10月にかけて、南部同盟の包囲下にあったキンシャサ市内は、コンゴ川・陸路の遮断により極限の食料危機に陥っており、市内では大規模型の食料暴動が発生。飢えた民衆に対し、追い詰められた中央教団軍の首都防衛部隊が機関銃や装甲車で無差別開火し、市街地で多数の市民が殺傷された。これが人民連盟の蜂起に火をつける直接の要因となった。 11月前半に人民連盟が首都を完全掌握すると、同月後半は人民連盟による赤色テロ(大粛清)の嵐が吹き荒れた。旧中央教団の宗教指導者層、軍高官のみならず、過激なイデオロギーに基づき「資本家・搾取層」と判定された実業家、富裕層、また人民を虐待し、搾取したと見なされたヴィラン教神官たちが市街で拘束・処刑された。 207年7月、カナンガを制圧した人民連盟と地元の人民防衛委員会は、街に残された東部軍閥の残党、および反社会主義的とみなされた親東部系住民らを「反革命・傀儡分子」として大規模な人民裁判にかけ、市内の広場やスタジアムで集団処刑を行った。 カナンガ陥落後、孤立し資金が途絶えた東部軍閥は、残存する密林地帯の採掘場において地元住民や避難民を拘束し、過酷な強制労働を強いるとともに、人民連盟のドローン打撃を防ぐための肉の盾として陣地周辺に配置。逃亡を図った者は見せしめに即座に殺害された。また人民連盟側も、東部軍閥のゲリラ戦術(伏撃・補給線破壊)に対抗するため、東部各地で焦土作戦を展開した。軍閥へ食糧や潜伏先を提供したと疑われた複数の山岳集落に対し、対ゲリラ工作の一環として完全破壊と住民の掃討が断行された。 この一連の内戦激化と過激化により、従来の国家体制や軍閥利権は全て破壊されたものの、数百万人の直接・間接的犠牲者(戦闘、無差別殺害、飢餓、病気)および同国史上最大規模の国内避難民を生む凄惨な結果が生じた。 |
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| UNARSの解散 | |||||
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南部同盟が瓦解し、また諸外国の高官あるいは協力者を脱出させた時点でUNARSの存在意義はほぼ消滅していたものの、取り残されてしまい拘束された一部の高官や現地住民の返還交渉、あるいは東部軍閥対人民連盟の戦闘経過を注視するために、UNARSの枠組み自体は残されており、東部軍閥がゲリラ戦を展開していた207年7月から8月にかけても、停戦や人道的待遇を訴える総会決議が発されている。また戦闘の経過によって発生していた各種の戦争犯罪容疑に対し、中央教団や南部同盟が管轄を及ぼす意思を見せない、あるいはその能力がないことを前提として、206年後半には総会の指揮下に戦争犯罪追跡委員会(Pursuit Committiee of War Crimes、PCWC)を設置し、情報収集に努めていた。 207年9月、東部軍閥の瓦解と人民連盟による統治体制の確立を確認し、UNARSは解散手続きを開始した。しかし人民連盟は、内戦中に行われた戦争犯罪に対して適正手続きや公正な裁判を保障せず、捜査に当たった秘密警察による即時処刑が頻発したため、国際社会はこの状況に憂慮を示し、追跡委員会をUNARSから独立させ、コンゴ動静独立調査委員会(Independent Committee of Investigating Congo Situations、ICICS)として発展的解消させた。本委員会はUNARS参加国以外からも人員を募り、ザイール動乱で発生した犯罪やその処罰に対して、真相を究明し、将来の解決や和解を見据えた活動を続けている。 |
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| 人質救出 | |||||
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カナンガが陥落した頃、モスクワ、ネストニアの人員退避活動が失敗に終わり、UNARSの高官までもが侵攻してきた人民連盟に拘束される憂き目に遭っていた。この二国の対応は分かれた。 モスクワ帝国は、派遣していた陸軍・空軍部隊を投入した、実力行使による人質救出を選択した。第86歩兵旅団の歩兵1200名は砲兵による援護を受けながら、人民連盟支配下の都市を急襲し、一時制圧下に置いた。都市内に分散していた拠点に隠匿されていた人質たち6名(高官および現地協力者)は無事に発見・保護されたものの、残る2名の行方は不明のままであった。後にPCWCやICICSの調査によれば、この2名はいずれも現地協力者であり、モスクワの作戦前に別の地域に連行され、そこで銃殺刑に処された可能性が高いものと結論づけられた。 ネストニア共和国連邦は20名を人質に取られたが、その人数の多さによる難しさを考慮し、モスクワのような軍事オプションは選択しなかった。代わりにUNARSやICICSの仲介を受け返還交渉に臨んだものの、人民連盟はもはや国内に憂いを持たず、強気な態度に出た。結局ネストニアは、人民連盟による身代金の要求に応じ、17名の身柄を取り戻した。しかし残る3人については既に死亡しており、かつ人民連盟はそれを交渉時点で隠しており、ネストニアは救出に際して3人分余計な金額を支払っていた。この選択は、国内から大きな批判を受けた他、国際社会においても人民連盟に地域不安定化に資する資金を提供してしまったことを責める論調が見受けられた。 |
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