人外と人間

オオタカと人間の女の子「キロロの森」2「誓い」

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キロロの森 2 5-490様

第二話 誓い


ガルスがランドットとの戦いを繰り広げて二日が経った。
森の南南西、戦った場所よりも少し離れた場所で、ガルスは木に止まって羽を繕っていた。
午後の穏やかな日差しがその青みがかった灰色の羽を包んでいた。
「おーい、もういいよー」
ふと、下の方でガルスを呼ぶ声がした。
見ると、小さな人間がこちらの方に叫んでいる。
「どうだった」
ガルスは小人のもとへ降り立った。
「やっぱりダメ、なーんも知らないって」
小人、アリクは小さな首を振った。

あの戦いのあと、二人(正確には、一人と一羽だが)は、ミコの呪いについて調べることにした。
ミコの呪い―アリクがかけられたその呪いは、やがてその身が虫になってしまうというものだった。
ガルスは呪いや魔術の類などは生来これっぽっちも信じていなかったが、現にいま、目の前の少女、アリクの頭には紛れもない虫の触覚が生えているし、先日はあのムクドリ、ランドットに魔法の力を見せつけられたばかりだ。
イヤでも信じない訳にはいかない。
「やっぱり誰も知らないね。虫なら何か知ってると思ったんだけどなあ」
アリクは小さな触覚を揺らしながら言った。虫に関係することなら、虫に聞けばいいと踏んでこれまで蟻やテントウムシ、ダンゴムシや名もない羽虫などに話を聞いてきたが、皆口々に知らないと言うのだった。
「やっぱり呪いじゃねえんじゃねえか?お前だけにかかった病気とかよ。ランドットのあれは勘違いとかで」
「そんなことないよ!かけられた私が言うんだから」
あれから、アリクは少し記憶を取り戻したらしい。事の発端は今から一週間ほど前にさかのぼる。

アリクは、森の西、ちょうどユタ川のほとりにかまえた小屋に一人で暮らしていた。ほとんど自給自足の生活だったが、それなりに充実していた。
その日も、いつものように川で水をバケツ一杯に汲んで帰ってきた所だった。ふと、小屋の脇に誰かが立っていることに気づいた。
アリクが近づくと、立っているのは老婆だということが分かった。
異様に小柄な老婆はアリクに気がつくと、ゆったりとした動きでお辞儀した。アリクは老婆に見覚えが無かったが、老婆につられてお辞儀を返した。だが…。
アリクが再び顔を上げると、そこに老婆はいなかった。
「あ、あれ…?」
思わず辺りを見回すアリク。その途端、
「こんにちわ」
「わっ!?」
背後から声をかけられた。
とっさに振り向くと、先ほどの老婆がいつの間にか背後にいた。
「えっ?えっ?」
アリクがきょとんとしていると、老婆はおもむろにアリクの顔に両手を伸ばした。どこか人間らしくない不気味な顔を近付けると、しわがれた声で言う。
「おお…やはり…やはりお前は素晴らしい物を持っているね。まさしくミコの呪いをかけるに相応しい。さあ、それをおくれ…私におくれ」
「え?なっ何のこと?ミコ?え?」
アリクは思わず手に提げていたバケツを見た。老婆は消え入りそうな声で何かを呟いた。
その瞬間、アリクの体を熱い光が包んだ。
「ひっ…!あっ…あああああっ!!」
体の奥にまで光が入り込むような感覚。それからすぐ、体の奥で何かが爆発したような感覚がした。
「おお…おおお…!素晴らしいっ…!」
老婆は光に包まれるアリクを見て歓喜に震えている。
アリクはやがて視界までもが光に覆われ、体の力が抜けていった。

「…で、気がついたらその姿だったってか」
「うん、その後そのおばあちゃん、まああれが金色の魔女だったんだろうけど、の隙をついてね、なんとか逃げたんだけどあの鳥に見つかっちゃって」
そして、ガルスと出会った。

アリクは頭に生えた触覚を引っ張りながら溜め息混じりに言う。
「はあ~あ、まさか本当に虫になっちゃうんじゃないだろうなあ」
「心配したってその角が無くなる訳じゃねえんだ。もう良いなら次に行こうぜ」
「うん、そうだね」
そう言うとアリクはガルスの背中によじ登った。始めはガルスに対してやや恐怖を感じていた彼女も、今ではすっかり打ち解けたようだった。
ガルスはアリクがちゃんと登ったことを確認すると一気に飛び立った。

「あっ…ねえ見てガルス」
森の南東へ向かう途中、アリクが何かを発見した。
「何だ?手がかりか?」
「ううん、そうじゃないけど…ほらあそこ、木の色が変わってる」
ガルスがアリクの指す方を見ると、確かに深緑の木々の間に一点だけ白っぽくなっている箇所がある。
「あそこちょっと行ってみたい!」
先ほどまで沈んでいた声のトーンが急に上がった。
「お前な、自分の置かれてる状況わかってるか?」
「いいでしょ、ちょっとだけ」
アリクは子供のような声でガルスにねだる。
ガルスはしょうがねえな、と呟くと、くるりと旋回した。

二人がそこに降り立つと、一面に咲き誇る無数の白い花が出迎えた。
「うわぁ…綺麗」
アリクはガルスの尻尾から枝に降りながら言った。
上空から見た白いものの正体とは、この木々、シトラの木がつけた花だった。
「白く見えたのってこれのせいだったんだね」
アリクは花をまじまじと見つめながら言う。
花は近くで見ると少しピンクがかっているのがわかる。狼の舌のような花びらが5枚ほどついていた。
ガルスは花を見ているアリクを見下ろしていたが、ある違和感を覚え、辺りを見回した。何て事無い、普通の木だ。
「わー、なんか甘い匂いがする」
アリクはというと、少し背伸びして花の中をのぞき込んでいた。

「…そうやってると本物の虫みたいだぞ」
ガルスがからかうと、アリクは慌てて花から身を離した。
「…もー、やめてよそういうこと言うの」
アリクは赤くなってガルスを睨んだ。その時だった。先ほどからの違和感の正体が分かった。
「…おい、今って秋…だよな」
「え?うん、そうだね。まだちょっと暑いけど」
「思い出した…これ…確か春にも咲いてるの見たぞ」
アリクはきょとんとしてうん、と頷いた。
「いや…その前もずっと前からこの花が咲くっていったら春だった。なのに今は秋だ。なんで今頃これが咲くんだ?」
「そう言えばそうだね…何で今咲いてるんだろう」
アリクも周りの木々を見渡し、少し悩んでいたが、
「ちょっと寝坊したんじゃない?」と、呑気に笑った。
「心配したって秋が春になる訳じゃないんだし、さっ次行こ次」
「…お前が来たいって言ったくせに」
ガルスはやはりこの花の事が気になったが、確かに心配したって何が変わるわけでもないので、アリクの言い分で無理やり納得することにした。
木にだって、間違えることはあるさ。
ガルスはまた背にアリクを乗せて、森の南東へ飛び立った。

その頃…森の南西の上空を、左目の潰れたムクドリが飛び回って

いた。金色の魔女の弟子、ランドットだ。ランドットは先日ガルスと戦った場所の付近で、彼を探していた。
たが、片目が潰れているおかげで、なかなか捜索がはかどらない。結果同じ所を何度もぐるぐると飛び回る羽目になっていた。
ランドットは探している間、何度も先日の事を思い出した。初めて味わった屈辱の味を。なんとしてもあのオオタカ、ガルスを探し出し八つ裂きにしないと気が収まらない。
と、その時、
“…まだ見つからないのかい?”
ランドットの脳内をある声が駆け抜けた。
しわがれたその声からは明らかな苛立ちが読み取れる。
ランドットは慌てて
「も…目下捜索中にございます!今しばらくお待ちを…」
と一人返事をする。
“もうその台詞は聞きあきたよ…ランドット、お前にはがっかりだ”
「っ…」
“もういい、お前はここに戻っておいで。私が行こう”
不思議な声がそう言うと、ランドットは慌てて止めた。
「そっ…それはいけません!お体に障ります!まだあの人間から受けた…」
“お前を待っていると、かえってこっちの体が持たないんだよ”
ランドットには返す言葉もない。
“やれやれ…骨がおれるね。あの娘の気配を追うよ”
「はい…」
ランドットには

そう力無く返すより他はなかった。

森の南東部にある小さな池、パゴタの池で、ガルスとアリクは羽を休めていた。
川の神ユタの寝所といわれるこの池は、いつも恐ろしいほど澄んだ水を湛えている。
池のほとりで水を飲むガルスの横で、辺りをキョロキョロと見回すアリク。
「…お前さっきから何やってんだ?」
ガルスが訪ねると、アリクはなおも見回しながら言う。
「んー…ちょっとここで水浴びしたいんだけど」
「?ならさっさとすりゃあ良いじゃねえか」
ガルスはきょとんとしながら言う。するとアリクは少しむっとしながら返した。
「…じゃあ向こう行っててよ」
「何で?」
ガルスは素直に、そう聞いた。
「なっ…何でって、…何ででもいいでしょ!早く向こう行って!」
アリクはそう言うとしっしっ、とガルスを追い払った。よく見ると顔が真っ赤だ。
ガルスは訝しげな顔をしながらもしぶしぶその場を離れた。アリクはガルスが遠くに離れたことを確認すると草むらの中に隠れた。

「何だよあいつ…水浴びなんか適当にバシャバシャってやれば良いじゃねえか」
ガルスは一人ごちながら適当な木に止まった。
他人に見られると水浴び出来ない質なのだろうか。
まあどうせ水浴びなら一瞬で終わる。ガルスは仕方がないので少しの間だけ待つことにした。
…だが、待てども待てどもアリクの水浴びは一向に終わる気配はない。
それ程気の長い方ではないガルスはだんだん痺れを切らし、やがて我慢の限界に達した。文句でも言いにアリクのもとへ戻ろうとガルスは翼を広げた。
だがその瞬間、彼の体を嫌な感覚が駆け抜けた。
視線。沸き立つ殺気、湧き出でる歓喜、押し殺す動揺、その全てが複雑に混ざり合った、気味の悪い視線。

ガルスはとっさに上を振り向いた。だが、彼の視界が捉えた物は、ただ木々の間を縫って降り注ぐ穏やかな光だけだった。
「っ…!?」
気のせいではない、確かに感じた。ガルスはこういったことに関しては敏感な方だ。
…もしかすると、またあのランドットに見つかったのか?そうならば今、アリクを一人にしておくのはまずい。
不吉な予感がガルスの脳内を巡った。その時、
「うわぁっ!?」
アリクの悲鳴。予感が的中した!
ガルスは次の瞬間、木の上を飛び出していた。

「や…あ…!」
池のほとりで一人へたり込むアリク。服を抱えて前を隠している。足が震えて立てないのか、必死に腕で後ずさりする。
そして、そのアリクに舌なめずりしながらおもむろに近づく大きな影。
「おい大丈夫かっ!?」
そこへ勢い良く飛び込んでくるガルス。彼の目に飛び込んだものは、怯えた表情でうずくまるアリクと…
ただのアマガエルだった。
「…はァっ!?」
あまりの意外な展開にガルスは間の抜けた声で池に落ちた。
「ガッ…ガルス!?」
アリクは驚いて池の方を見るが、アマガエルは余り気にせずアリクに詰め寄る。
「いやあ~ヤッパリ見れば見るほど人間の肌ってすべすべしてるよなぁ~。ねえ今度は…そうだなあ肩の辺りペロッと行ってもいい?」
そう言うとカエルはベロリと長い舌を出した。
その瞬間
「…ざっけんなこのカエルがぁッ!!」
ガルスの大きな翼がアマガエルを弾き飛ばした。
「ぐげぁっ!?」
カエルはまさにカエルの潰れたような声を上げるとそそくさと草むらの向こうへ逃げ出した。

「…はぁ怖かったぁ…ありがとガルス」
「まったく紛らわしいことしやがって…何なんだあいつは」
「わかんないよ、服着ようとしてたらいきなり背中ベロッ何でここに居んの!?」
「何でって、助けに来てやったんだろうが」
ガルスはふてくされた。
「そっ…それはありがたいけど…」
アリクが言いかけたとき、ガルスはとんでもないことに気がついた。なんと、アリクが自分の毛皮を外して前に抱え込んでいる!人間は自らの毛皮を取り外すことが出来るのだ!
もちろん、人間のアリクにとってはそんなこと当たり前の常識なのだが、野鳥のガルスにとっては世紀の大発見なのである。
「おっおい…お前なんだそれ?どうなってんだ?よく見せろ!」
ガルスはやや興奮しながらアリクの体を覗き込む。
「やぁっ!?ちょ、ちょっと何!?」
「その毛皮どうなってんだ?どうやって外した!?」
「は、外っ…!?なっ…!?…もっ、もういいからあっち行ってよヘンタイ!!」
アリクはそう言うと、そばにあった小石をガルスに投げつけた。
「あ?ヘンタイ?ヘンタイって何だ!?」
「良いからあっち行ってよヘンタイ!」
アリクは更に小石を投げた。アリクが投げられる小石なんぞたかが知れてるので痛くも何ともないが、あんまりにも騒ぎ立てるのでガルスはまたしぶしぶ離れるのだった。
よく見ると、アリクの顔は、また真っ赤になっていた。

…思ったより、面倒な奴を拾ってしまったかもしれない。ガルスは歩きながら少し後悔し始めていた。だが、同時に新しい発見に対する興奮もあった。
前々から人間に興味があったガルスは、アリクを初めて見た時えもいわれぬ感情を抱いた。
目の前に、あの人間が居るのだ。
とても小さくはあるが、紛れもない、人間が。
人間の事をもっと知りたい。だから、アリクを拾った。
今だって、人間の毛皮が取り外し可能だという事を知ったばかりだ。まだまだ、人間には自分の知らない事が沢山あるに違いない。
ガルスは再び沸き起こる興奮に意味もなく翼を羽ばたかせ、上を見上げた。
だが、その興奮は、直ぐに不吉な直感に豹変した。
二、三羽のカラスが、木の影からこちらを見下ろしていた。

「お…おいアリク急げ!さっさとここを離れるぞ!」
カラス達に聞こえないように押し殺した声でアリクを呼んだ。
「んーちょっと待って…まだ全部着てない」
茂みの向こうからアリクの間延びした声が返ってくる。
こちらが気づいたことに向こうも気づいたのか、カラスの一羽が飛び立った。
もはやぐずぐずしていられない。こうなったら無理やりにでもアリクを連れてここを離れなければ。ガルスは茂みを乗り越えアリクのもとへ戻った。
「ひゃっ!ちょっとまだ着替え終わって…」
文句を言うアリクを強引に嘴でくわえ背中に乗せると、ガルスはすぐさま飛び立った。
急いで上へ上へと上昇していく。森の上空へ出ると一気に翼を翻した。が…もはや時はすでに遅かった。
四方から次々と飛び出してくる無数のカラス。辺りはあっという間に真っ黒に染まった。
「クソッ…囲まれたッ…!」
狼狽するガルス。
「うわぁ、すごいカラス」
それとは対照的にのほほんとカラスを見回すアリク。逃げきるつもりでアリクを連れてきたが、囲まれたとなってはそれも逆効果だった。
カラスのうちの一羽が二人を睨みつけながら言う。
「おいおいどこ行くんだ?ガルスさんよ」
その目に殺気が宿っている。先ほど感じた視線の正体が、今わかった。
「…てめえらに教える義理はねえ、とっとと失せやがれ」
カラス達を睨み返しながらガルスが凄むと、背後から低い声が聞こえた。
「…随分な態度じゃねえか、“傷嘴”」
「!その声…!!」
低い濁声。ガルスにとって、忘れたくても忘れられない声。
振り向くと、そこにはまさに“ボス”を名乗るに相応しい体格のカラスがいた。
「黒き爪」クロウクロウだ。
クロウクロウはガルスを見下ろしながら言う。
「久しぶりだな、デッカくなったじゃねえか」
「ちッ…わざわざあんたが出てくるとはな、たかがタカ一羽にご苦労なこって」
二人のやりとりを見たアリクは
「し、知り合い?」
とガルスに聞いた。ガルスは質問には答えず、小さく、隠れてろ、とだけ言った。

「この間は俺の部下を可愛がってくれたらしいじゃねえか…こいつらがどうしてもって言うんでな、ちょっとお礼に来てやったぜ」
笑いながら、それでも目つきだけは変えずに言うクロウクロウ。
そいつはどうも、と返すガルス。
「というわけで…さあ、お待ちかねだ!てめえら、思う存分やってやれ!!」
クロウクロウの雄叫びに、一斉に呼応するカラス達。次の瞬間、真っ黒の輪が、その中央、ガルスに向かって一気に収縮する。
「ッ…!!」
もはやこれまでか…ガルスが目を閉じて覚悟を決めかけたその時。
突然、カラス達の動きが止まった。
「なッ…おいてめえら、どうしたッ!?何止まってやがんだッ!?」
驚いたクロウクロウがカラス達に向かって怒鳴るも、カラス達は石に変えられたように表情すらピクリとも変えない。
不思議なことに、カラス達は羽ばたきを止めているのに落下せずにその場にとどまっていた。
奇妙な事態に両者とも唖然としていが、ガルスはチャンスとわかると即座に身を翻した。
「あッ…!!ちくしょうッ!待ちやがれッ!!」
直後、やや出し抜かれたクロウクロウもガルスを追った。

クロウクロウの追跡を無我夢中で振り切る内、森の真東に来ていた。柔らかな草の上に半ば墜落するように着地するガルス。
「きゃっ…!」
ガルスの激しく揺れる背で体を揺さぶられたアリク。
「に、逃げきったの?」
「いや…まだだ。それほど簡単に逃がしてくれる様な奴じゃねえ」
上空ではクロウクロウがガルスを探して旋回を続けている。ガルスはその様子を確認するとアリクをおろして言った。
「お前はここでどっかに隠れてろ。俺がいいって言うまで絶対に出てくるな」
「う、うん…ガルスはどうするの?」
「…あいつとの決着をつける」
「だ…大丈夫なの?」
アリクは心配そうな目でガルスを見上げた。

「…さあな」
ガルスはそう言うと羽ばたき、近くの木の枝に止まった。アリクを見下ろすと、未だ心配そうな顔をするアリクを目で促す。アリクはためらいながらその場を離れ、近くの草の影に隠れた。
…これで良い。確かに、アリクは追われている身だ。一人にしておくのは先ほど感じたように余り得策ではないが、このままアリクを連れていては巻き込んでしまうかもしれない上、何より闘いに集中できない。
今を逃してはいつあるかわからないのだ。クロウクロウとの一騎打ちなどという、絶好の機会は。
ガルスの胸に、“あの日”の屈辱が思い起こされる。あの日、あの若かりし頃の自分との約束を果たすために、今はなんとしてもこの闘いに勝たねばならないのだ。
ガルスはその赤く燃える双眸で上空の黒き翼を睨み上げると、その力強い翼で大空へと舞い上がった。


事の始まりは今から約2年程前に遡る。
まだ幼鳥と呼ばれる段階にあったガルスは、巣立ちを終えたばかりの兄妹達と共に、親のもとで狩りの訓練に励んでいた。
共に巣立った兄妹の中でも、ガルスは特に狩りがうまかった。両親にも勝るとも劣らない実力を持った彼は、見事に獲物を捕らえては、両親や兄妹達を驚かしていた。そう、その日も、いつものように…。
それは偶然だった。ガルスは、自分と同じぐらいの重さのウサギを捕まえた。追いかけている途中、小さな崖から落ちたところを狙って仕留めた。
偶々だったのだが、ガルスはこれによって、自分に実力があると勘違いした。自分の力を過信してしまった。
彼は喜び勇んで両親のもとへ舞い戻った。驚く両親や兄妹の顔を思い浮かべながら。しかし、彼が両親のもとへ戻ると、その高揚もすぐに消え去った。

そこにいたのは、変わり果てた姿となった両親と、黒い、大きなカラス。
紛れもない、クロウクロウだった。
それは縄張り争いの結果だった。自分の縄張りを広げようとしたカラスが両親と衝突し、兄妹達を森から追い出した。
一気に激昂したガルスは次の瞬間、目の前のカラスに飛びかかっていた。自分の力を過信し過ぎた。勝てるだろうと思っていた。
気がついた時には、ガルスの体は地に強く打ちつけられていた。力の差は歴然だった。
カラスはガルスの顔を踏みつけ嘲笑を零した。彼は初めて味わった屈辱にただ打ちひしがれ、何もできずにいた。
殺す価値もないと判断したのか、カラスは嘲笑を残してその場を去った。ガルスには、耐え難い屈辱と、嘴の端に深く刻まれた傷だけが残った。
それから後、ガルスはカラス達の縄張りに残ることを許された。カラス達よりも格下の存在として、だが。彼の扱いはけして良いものとは言えなかった。
彼はこの時誓った。必ず彼奴に復讐してみせると。必ずオオタカとして生まれた自分の誇りを取り戻して見せると。そう、固く心に誓った。

森の上空に、2対の翼のはためく音が響き渡る。
クロウクロウの黒い翼と、もう一つは、ガルスの青みがかった灰色の翼。2対の大きさは、ほぼ互角だった。
不意にクロウクロウが背後を取った。彼は一気にガルスの灰色の背中にたたみかける。
「がっ…!」
ガルスは呻いて、体勢を崩した。クロウクロウは間髪入れずにガルスの体を爪で掴むと、そのまま地面へ一直線に急降下した。そして、
「オラァッ!!」
そのままガルスの体を放り投げた。ぐしゃりと鈍い音を立てて、ガルスは地面に打ちつけられた。

「ぐぁっ!!」
ガルスの体に電撃のような痛みが走る。
やはり、クロウクロウは強い。流石何百、何千といるカラス達の頂点に立つだけある。2年の歳月を経ても、その実力は衰えるどころか、更に増しているように思えた。
衝撃が頭に回ってきたのか、視界が徐々にぼやけ始めた。上空では、クロウクロウが見下すように旋回を続けている。
「どうした!?もうくたばっちまったか!?」
「ぐっ…」
言われると同時にガルスは体を起こす。
「へっ…しぶとさだけは前より成長したじゃねえか!そうでなくちゃ面白くねえ!」
ガルスはクロウクロウを睨みながら再び上空を舞う。だが…飛べばまた、奴のパターンにはまってしまう。そうこうしているとクロウクロウが背後を取る。
再びクロウクロウの蹴りがガルスの背中に命中した。ガルスはまた体勢を崩すが、追撃をなんとかかわす。
駄目だ…背後を取られては、相手の攻撃を見切ることが出来ない。せめて攻撃のタイミングだけでもわかれば…。
やはりクロウクロウに勝つなど…無理だったのだろうか。あの日の自分の姿が脳裏によぎる。
ガルスはうなだれた。自分との約束も守れないのか…自分が情けなくなった。ふとその時、ガルスの目にあるものが映った。
「…そうか…!」
…諦めるなんて柄にもない。くすぶっていたあの日の情熱が、再びガルスの胸に宿り始めていた。
「こっちだ!クロウクロウ!」
ガルスはくるりと旋回し、太陽を背に飛び始めた。クロウクロウもすかさず身を翻し彼を追った。
「いつまで逃げ回るつもりだ!この腰抜けが!!」
クロウクロウがもう一度ガルスの背中に飛びかかった。だが、クロウクロウの爪は呆気なく空を切り裂いただけだった。

「!?」
次の瞬間、ガルスとクロウクロウの位置は逆転していた。クロウクロウの背中が勢い良く蹴り落とされる。
「ぐぅッ!?」
慌てて体勢を立て直そうとするが、慣れていないためかうまく行かない。そのままくるくると回ってしまう。
ようやっと立て直すと、きっ、とガルスを睨みつけた。だが。
「ッ!?」
そのガルスが一直線に急降下して…。
一瞬だった。ガルスの鋭い爪が、クロウクロウの左肩を大きく切り裂いていた。
クロウクロウは肩から鮮血を吹き出しながら、森の中へ落ちていった。

草むらの上に、血を流しながら横たわるクロウクロウ。その側へと、ガルスはゆっくり舞い降りた。
「ッ…!!」
クロウクロウは頭を上げると、霞む目をガルスに向ける。
「………」
ガルスは何も言わず、クロウクロウをじっと見下ろす。
「何故だッ…!?何故…さっきの攻撃を見切れた…?後ろからの攻撃をッ…」
「…簡単だ、影だよ。森に映った影を見てタイミングを測った」
普段高いところを飛ぶ鳥には、あまり自らの影を気にするという習慣がない。
「…あんまり俺らには縁のない物だがな」
そう言いながら、ガルスはその鋭い爪をクロウクロウの首へ向ける。今のクロウクロウには逃げる力はない。首を絞めれば、それで終わる。
「…じゃあな」
ガルスの爪先が、クロウクロウの喉に触れた。
「だめッ!!」
高く澄んだ声が、当たりに響いた。声の主、アリクが草の影からこちらを見ていた。
「あ…えっと…あのっ…二人に何があったか知らないけど…その」
アリクは、とりあえず止めたものの、自分が部外者だということに気付いてあたふたし始める。
「や、やっぱり…殺すの…?」
アリクは不安げな表情をガルスに向けた。ガルスはアリクとクロウクロウを交互に見たが、やがて、喉に翳した足を下ろした。

アリクはその様子を見届けると、ほぅ、と溜め息をついた。だが、それを受けたクロウクロウは黙っていなかった。
「なっ…てめえッふざけるな!!何で止めるんだ!!何で殺さねえ!!てめえッ…俺に情け掛けようってのか!?この俺にッ!?侮辱してんのか!!俺をッ…この“黒き爪”を侮辱するのかてめえはッ!?」
クロウクロウはガルスをなじった。持てる力を全て込めてなじった。
これまで絶対的な力を持ってカラス達を束ねてきた“黒き爪”が、高々オオタカ一羽に負け、その上そのオオタカに情けで命を助けられるとあっては、その名が折れるも同じだ。折れた名を背負って生きてゆけと言うことと、同じだ。
「そんなんじゃねえよ」
静かな声が、クロウクロウを遮った。
「てめえの為じゃねえ、俺のためだ。どうせ今、てめえを殺したって」
ガルスは、クロウクロウを見ずに言った。
「後味が悪くなるだけさ」
てめえには殺す価値もねえ、とガルスは付け足した。その無慈悲さが、彼なりの、クロウクロウへの慈悲だった。
「…後悔しても知らんぞ」
「しないさ。…あいつに誓ってな」
ガルスは、ゆっくりと草の影から出てきたアリクを見ながら言った。
あの頃の自分が、いつの間にか太陽の光を浴びて、淡く消え去っていった。

「…ミコの呪い?」
クロウクロウは首を傾げた。
「うん、何か知らない?かな?」
アリクはクロウクロウを見上げながら言う。
「…何ていうかだな、お前ら切り換え早すぎだろ」
その様子を脇で見ながらガルスは突っ込んだ。
「…いや、聞いたトキねえな」
「うーん、そっか…」
「無視か」

先ほどからアリクはクロウクロウと何故か仲良くなっていた。あれだけ殺せと意地を張っていたクロウクロウだが、やっぱりアリクに止めてもらったのが嬉しかったのかもしれない。やっぱ殺しとくべきだったか、とガルスは少し本気で後悔した。
血の気が多いと豪語しただけあって、クロウクロウの先ほどの出血もすぐに止まり今はピンピンしている。
「いやそれにしても、虫になる呪いか…嬢ちゃんも難儀してんだなあ」
「うん…でもわからないんじゃしょうがないね」
アリクは触角を下げてうなだれる。
「いや、俺の部下どもが何か知ってるかもしれねえ、なんなら探させてやるよ」
「えっほんとに!?やったありがとう、クロウクロウ!!」
「クロウでいいさ、どうせ本名じゃねえしよ」
「へえ、そうなんだ?クロウって割と親切なんだねぇ、ね、ガルス」
アリクがガルスに振ったが、ガルスはそっぽを向いて無視した。
「?どうしたのガルス」
「………」
アリクはガルスの尻尾を引っ張ったが、ガルスはアリクの手を振りほどいた。
「もー、なんなの」
いじけてんの?と言おうとしたアリクの声が詰まった。アリクは突然すっくと立ち上がると辺りを見回した。
「ん?何やってんだお前」
ガルスが気付いてアリクを見ると、アリクの顔に再び不安の色が出ていた。それも今までのような表情ではなく、恐怖の入り混じった表情だった。
「…?何か居るのか?」
クロウクロウも辺りを見回すが、誰の姿も見当たらない。
「…いる…あのおばあちゃん…」
「金色の魔女が!?」
すると、どこからともなく、しわがれた声が聞こえてきた。
“…ほう…私を察知したか…やはり素晴らしい…”
「なんだ…この声ッ…?」
それは、遠くから聞こえるようでも、頭の中から聞こえるようでもあった。
「ッ…!」
アリクがふととっさに振り向く。
「ますますお前が欲しくなったよ…」
アリクが振り向いたその先には、
「…ねえ、アリク」

異様に小柄な、老婆がいた。






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