車種名 | LR0 |
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クラス | R2 |
最高出力 | 360ps |
車体重量 | 970kg |
パワーウェイトレシオ | 2.7 |
吸気形式 | スーパーチャージャー |
駆動方式 | MR |
入手金額 | |
0-100km/h加速 | 4.60sec. |
最高速度 | 202km/h |
メモ | MR最後の栄冠。 グループBを戦ったストラトスの後継機 |
記事は編集中です。
概要
元ネタ解説
ランチア・ラリー


フルヴィア、ストラトス、131アバルトと進化してきたランチア/フィアット系のラリー車両。その血統を受け継ぎ、ランチアとアバルトがタッグを組んで送り出したのがランチア・ラリーである。なお当記事では競技としての「ラリー」と正式な車両名「ラリー」の混同を避けるため、慣例となっている「ラリー037」の呼称を使用する。ちなみに037という名称はアバルトの開発コード「SE037」に由来するようだ。
ベースとなったのはランチア・ベータ・モンテカルロ。このミドシップマシンにストラトスのノウハウを注ぎ、ラリーウェポンとして生まれ変わったのがラリー037である。当時ラリーシーンではハイパワーターボ+フルタイム4WDで武装したクワトロ(本作に収録されている41SはスポーツクワトロS1なので、それよりも前の型である)が台頭し、四駆の有用性が明らかになっていった時代。しかし当時のランチアには開発資金もなければ4WDのノウハウもなかったため、新しい四駆のラリーカーを作るには時間がかかる。そこで、ストラトスで培った技術を応用できるミドシップのマシンが新たに開発される流れとなった。グラベルでは4WDが猛威を振るっていたものの、ターマックでの有用性が確立されていなかったというのもこの車両の開発に影響を与えたとされる。この車で戦うのは即ちグラベルでの不利を承知で参戦することであり、ランチアはグラベルラリーで手堅く点を取りつつターマックイベントで上位入賞し、ポイントを掻っ攫う戦法を取った。
シャシー設計を担当したのはG.P.ダラーラ、レースカーシャーシの販売を行うダラーラ・アウトモビリの創設者でもある。彼はキャビンモノコックの前後にクロームモリブデン鋼のフレームを組み、サスペンションやエンジンをマウントする先代ストラトスの技術を活かしつつ、ホイールベースの延長によって挙動をマイルドにするなど同車の弱点を徹底的に潰すように設計。ストラトスでシャープ過ぎると言われたサスペンションはストロークを確保しつつも緻密なジオメトリー調整が可能なように最初から調整幅が大きく取られていた。エンジンは131でも採用されていた「ランプレディ」と呼ばれる直4ユニット。これに、「ヴォルメトリーコ」というアバルト謹製のルーツ式スーパーチャージャーを搭載し、パフォーマンスの向上を狙う。スーパーチャージャー採用の背景としては、すでにレースシーンでストラトスやベータ・モンテカルロのエンジンに使用されていたKKK製ターボチャージャーでは急激に立ち上がるトルク特性(所謂ドッカンターボ)がラリーに向かないと判断されたためと言われている。兎にも角にも、このマシンはこれまでのランチアとアバルトで培われた技術が盛り込まれた集大成のようなものであることには間違いない。
ラリー037は82年4月1日付けでホモロゲーションを取得、その年のツール・ド・コルスにてデビュー。既に4WDが台頭し始め、予算も限られる中ランチアはあの手この手でレースを有利に運べるよう工夫を凝らす。例えばモンテカルロでは路面に塩を撒いて凍結を防止し、ターマックに近い路面状況を作るなど。こうしてラリー037はモンテカルロ、コルシカ、ギリシア、サンレモを勝ち上がり83年のマニュファクチャラーズ・タイトルを手にしたのである。これがMR勢最後のWRC制覇となった。
ランチアによる後継マシンの開発が遅れてしまったことにより、ラリー037は結局85年シーズンまで参戦を続けることになる。戦闘力の向上のためにチタンやカーボン製パーツの採用やエンジンのボアアップ、さらに大型の過給機の採用で改良は進められていた。そんな最中、ツール・ド・コルスでこの車に乗るA.ベッテガが車両ごと木に突っ込んで死亡する事故が発生。同年のアルゼンチンラリーでプジョー205を駆るA.バタネンが全治18ヶ月という瀕死の重傷を負う大事故を起こしたことと併せ、グループBへの安全性に疑問の声が上がることとなる。ちなみにツール・ド・コルスでは翌年にも死亡事故が起こっており、ゼッケン番号がどちらも「4」であったことから、シーズンを通してカーナンバーが固定となる1995年までは4は欠番となっていた。なお、95年のツール・ド・コルスで復活したゼッケン4番のマシンを運転したのはスバルのC.マクレーであり、彼はこの時には無事に生還を果たしているが2007年にヘリコプターの事故で非業の死を遂げている。やっぱり呪われてないか?
85年、ラリー・サンレモ。地元での一戦を最後にラリー037は後継となる念願の四駆マシン、デルタS4にワークスカーとしての座を譲り引退(*1)。その後はプライベーターたちによって運用され、ヨーロッパのラリーシーンでその姿を見ることができたという。また、94年の全日本GT選手権の第3戦富士にもしれっと出走。GT-Rや962Cなどとともに走行し、グループA、グループB、グループC揃い踏みとなる豪華な1戦となった。
ランチアの栄光の血統を継ぐラリー037。フェラーリF40にはそのノウハウが生かされ、ホンダNSXの開発責任者の上原繁は「開発で最も参考にしたのはランチア・ラリー」との言葉を残している。ミドシップ最後の優勝マシンは、ラリー史のみならず後世のマシンのベンチマークとして自動車史に残る存在となったのだった。
ベースとなったのはランチア・ベータ・モンテカルロ。このミドシップマシンにストラトスのノウハウを注ぎ、ラリーウェポンとして生まれ変わったのがラリー037である。当時ラリーシーンではハイパワーターボ+フルタイム4WDで武装したクワトロ(本作に収録されている41SはスポーツクワトロS1なので、それよりも前の型である)が台頭し、四駆の有用性が明らかになっていった時代。しかし当時のランチアには開発資金もなければ4WDのノウハウもなかったため、新しい四駆のラリーカーを作るには時間がかかる。そこで、ストラトスで培った技術を応用できるミドシップのマシンが新たに開発される流れとなった。グラベルでは4WDが猛威を振るっていたものの、ターマックでの有用性が確立されていなかったというのもこの車両の開発に影響を与えたとされる。この車で戦うのは即ちグラベルでの不利を承知で参戦することであり、ランチアはグラベルラリーで手堅く点を取りつつターマックイベントで上位入賞し、ポイントを掻っ攫う戦法を取った。
シャシー設計を担当したのはG.P.ダラーラ、レースカーシャーシの販売を行うダラーラ・アウトモビリの創設者でもある。彼はキャビンモノコックの前後にクロームモリブデン鋼のフレームを組み、サスペンションやエンジンをマウントする先代ストラトスの技術を活かしつつ、ホイールベースの延長によって挙動をマイルドにするなど同車の弱点を徹底的に潰すように設計。ストラトスでシャープ過ぎると言われたサスペンションはストロークを確保しつつも緻密なジオメトリー調整が可能なように最初から調整幅が大きく取られていた。エンジンは131でも採用されていた「ランプレディ」と呼ばれる直4ユニット。これに、「ヴォルメトリーコ」というアバルト謹製のルーツ式スーパーチャージャーを搭載し、パフォーマンスの向上を狙う。スーパーチャージャー採用の背景としては、すでにレースシーンでストラトスやベータ・モンテカルロのエンジンに使用されていたKKK製ターボチャージャーでは急激に立ち上がるトルク特性(所謂ドッカンターボ)がラリーに向かないと判断されたためと言われている。兎にも角にも、このマシンはこれまでのランチアとアバルトで培われた技術が盛り込まれた集大成のようなものであることには間違いない。
ラリー037は82年4月1日付けでホモロゲーションを取得、その年のツール・ド・コルスにてデビュー。既に4WDが台頭し始め、予算も限られる中ランチアはあの手この手でレースを有利に運べるよう工夫を凝らす。例えばモンテカルロでは路面に塩を撒いて凍結を防止し、ターマックに近い路面状況を作るなど。こうしてラリー037はモンテカルロ、コルシカ、ギリシア、サンレモを勝ち上がり83年のマニュファクチャラーズ・タイトルを手にしたのである。これがMR勢最後のWRC制覇となった。
ランチアによる後継マシンの開発が遅れてしまったことにより、ラリー037は結局85年シーズンまで参戦を続けることになる。戦闘力の向上のためにチタンやカーボン製パーツの採用やエンジンのボアアップ、さらに大型の過給機の採用で改良は進められていた。そんな最中、ツール・ド・コルスでこの車に乗るA.ベッテガが車両ごと木に突っ込んで死亡する事故が発生。同年のアルゼンチンラリーでプジョー205を駆るA.バタネンが全治18ヶ月という瀕死の重傷を負う大事故を起こしたことと併せ、グループBへの安全性に疑問の声が上がることとなる。ちなみにツール・ド・コルスでは翌年にも死亡事故が起こっており、ゼッケン番号がどちらも「4」であったことから、シーズンを通してカーナンバーが固定となる1995年までは4は欠番となっていた。なお、95年のツール・ド・コルスで復活したゼッケン4番のマシンを運転したのはスバルのC.マクレーであり、彼はこの時には無事に生還を果たしているが2007年にヘリコプターの事故で非業の死を遂げている。やっぱり呪われてないか?
85年、ラリー・サンレモ。地元での一戦を最後にラリー037は後継となる念願の四駆マシン、デルタS4にワークスカーとしての座を譲り引退(*1)。その後はプライベーターたちによって運用され、ヨーロッパのラリーシーンでその姿を見ることができたという。また、94年の全日本GT選手権の第3戦富士にもしれっと出走。GT-Rや962Cなどとともに走行し、グループA、グループB、グループC揃い踏みとなる豪華な1戦となった。
ランチアの栄光の血統を継ぐラリー037。フェラーリF40にはそのノウハウが生かされ、ホンダNSXの開発責任者の上原繁は「開発で最も参考にしたのはランチア・ラリー」との言葉を残している。ミドシップ最後の優勝マシンは、ラリー史のみならず後世のマシンのベンチマークとして自動車史に残る存在となったのだった。
余談だが、この車のストラダーレ(公道仕様車)は極少数ながらガレーヂ伊太利屋の手によって輸入されている。当時の新車価格は980万円であった。