Previous→デッドマンズ:ネームド
視界の端で、淡い光の粒が緩やかに明度を上げていく。
網膜ディスプレイに表示されるシステムログは、かつてのような濁流ではない。しんしんと降り積もる雪のように静かで、どこか所在なげな文字列が、シオンの意識を微睡みの底から引き上げた。
ゆっくりと眼蓋を持ち上げると、そこには昨夜と変わらぬ、温かみのある木造の天井があった。そして、その視界を遮るようにして、悪戯っぽく、それでいてこの上なく晴れやかな笑顔が飛び込んできた。
網膜ディスプレイに表示されるシステムログは、かつてのような濁流ではない。しんしんと降り積もる雪のように静かで、どこか所在なげな文字列が、シオンの意識を微睡みの底から引き上げた。
ゆっくりと眼蓋を持ち上げると、そこには昨夜と変わらぬ、温かみのある木造の天井があった。そして、その視界を遮るようにして、悪戯っぽく、それでいてこの上なく晴れやかな笑顔が飛び込んできた。
「おはよう、シオン! あなた、意外とお寝坊さんなのね」
既に身支度を整えたミーナが、ベッドの脇からシオンの顔を覗き込んでいた。彼女の頬は朝の冷気に少し赤らみ、その瞳には純粋な親愛の情が灯っている。
「……状況を確認。現在時刻を問う」
シオンの声は、まだ睡眠モードの低電力設定を引きずったように平坦だった。
「もう朝の10時よ! おじい様もガリアスさんも、もう中庭で一汗流してるわ」
10時。その数字を聞いた瞬間、シオンの内部回路に小さな静電気のような衝撃が走った。
生前、彼女の体内時計は企業の管理AIと0.0001秒の狂いもなく同期されていた。覚醒、即応、抹殺。すべてのサイクルは外部からの信号によって制御され、彼女が「寝過ごす」という事象は、システムの致命的な故障を意味していた。
生前、彼女の体内時計は企業の管理AIと0.0001秒の狂いもなく同期されていた。覚醒、即応、抹殺。すべてのサイクルは外部からの信号によって制御され、彼女が「寝過ごす」という事象は、システムの致命的な故障を意味していた。
(……内部時計の乖離を確認。管理サーバーとの接続……未検出。同期プロトコル……応答なし)
暗殺者として、あるいは精密なサイボーグとして、これは極めて危険な状態だった。外部の統制を失ったシステムは、やがて自己崩壊を起こすか、無意味なループに陥る。彼女が必要以上の休眠を貪ってしまったのは、自分を叩き起こすべき「主人の声」が、この死後の世界には届かないからだ。
「……システムの再構築を要する」
シオンは上体を起こし、シーツの感触を人工皮膚で受け止めながら独り言ちた。
管理者との繋がりは断たれた。命令を下すAIも、自分を「S-10N」という部品として定義するクラウドも、もうどこにも存在しない。
ならば、このバラバラになりかけた回路を、誰が繋ぎ止めるのか。誰が、この肉体に「動け」と命じ、この思考に「在れ」と定義するのか。
シオンは無意識に、昨夜ミーナが書いたあの丸っこい文字を思い返していた。
『S-I-O-N』
彼女は内部ストレージの最深部、かつて企業ロゴが刻印されていた聖域にアクセスした。そこにある「S-10N」という廃棄済みのアカウントを、彼女は自らの意思でアーカイブへ移動させる。
管理者との繋がりは断たれた。命令を下すAIも、自分を「S-10N」という部品として定義するクラウドも、もうどこにも存在しない。
ならば、このバラバラになりかけた回路を、誰が繋ぎ止めるのか。誰が、この肉体に「動け」と命じ、この思考に「在れ」と定義するのか。
シオンは無意識に、昨夜ミーナが書いたあの丸っこい文字を思い返していた。
『S-I-O-N』
彼女は内部ストレージの最深部、かつて企業ロゴが刻印されていた聖域にアクセスした。そこにある「S-10N」という廃棄済みのアカウントを、彼女は自らの意思でアーカイブへ移動させる。
`[SYSTEM NOTICE]`
`Creating New Root Directory...`
`Account Name: [SION]`
`Permission: All Access (Local Only)`
それは、外部からの干渉を一切受け付けない、彼女だけの独立した管理アカウントだった。自分を自分として定義し、自分の行動を自分で承認する。シオンは、自分のシステムの中に、初めて「個」という名の王座を据えた。
「シオン? またボーッとして。さあ、顔を洗ってきちゃって! 美味しい朝ごはんが待ってるんだから」
ミーナに手を引かれ、ベッドから降りる。その足取りは、昨日までの機械的な推進力とは、ほんの僅かに異なっていた。内部時計は依然として同期されていない。しかし、新しく作成されたアカウント[SION]のログには、初めての「主体的記録」が刻まれ始めていた。
`Log: 07:15:22 -- ユーザー[SION]による、最初の自発的覚醒を確認。`
`Status: 良好。`
洗面所の冷たい水が、シオンの頬にある人工皮膚の感触センサーを叩く。かつては単なる「環境温度の確認」でしかなかったその刺激が、今は新しく作成されたアカウント[SION]のログに、確かな起床の儀式として記録されていく。
部屋に戻ると、そこには昨夜と同じく快活なエネルギーを放つミーナが、姿見の前に椅子を置いて待ち構えていた。
部屋に戻ると、そこには昨夜と同じく快活なエネルギーを放つミーナが、姿見の前に椅子を置いて待ち構えていた。
「さ、座って。髪を整えてあげる」
「不要。頭髪の乱れは、機動性および隠密行動に有意な支障を与えない」
「だーめ! 身だしなみを整えるのは、人として当然のことなの! 分かったら座る!」
「……了解」
「不要。頭髪の乱れは、機動性および隠密行動に有意な支障を与えない」
「だーめ! 身だしなみを整えるのは、人として当然のことなの! 分かったら座る!」
「……了解」
逆らうことは「効率的ではない」と判断し、シオンは椅子に腰を下ろした。鏡の中に映る自分は、無機質な銀色の髪を乱したまま、感情の消えた瞳でこちらを見返している。
ミーナの温かな手がシオンの髪に触れ、慣れた手つきでブラシが走り始めた。
ミーナの温かな手がシオンの髪に触れ、慣れた手つきでブラシが走り始めた。
「私、生前は5人姉弟の長女だったのよ。下には妹と弟が2人ずつ。だから女の子の髪を解くのには自信があるんだから」
ミーナが語る「家族」という単語を、シオンは情報の断片として整理していく。
……個体名:ミーナ。属性:長女。構成員:6名。役割:年少個体のケア。
かつて彼女に与えられた「教育」の中に、これほどまでに無報酬で献身的な組織形態の説明は存在しなかった。
「そういえば、シオンはいくつなの? 私は15歳」
「死亡時までの経過日数は、26年5か月17日」
「えっ!? 26歳!? うそ、私とほとんど見た目は一緒なのに」
「……16年9か月26日の時点で、全身の完全義体化が実行された。以降、外装の劣化および肉体年齢の更新は停止している」
「じゃあ、中身はほとんど16歳みたいなものね! よかった、やっぱりお姉さんじゃない」
「死亡時までの経過日数は、26年5か月17日」
「えっ!? 26歳!? うそ、私とほとんど見た目は一緒なのに」
「……16年9か月26日の時点で、全身の完全義体化が実行された。以降、外装の劣化および肉体年齢の更新は停止している」
「じゃあ、中身はほとんど16歳みたいなものね! よかった、やっぱりお姉さんじゃない」
年齢という数値を、主観的な「親近感」へと変換するミーナの演算処理に、シオンは理解が追いつかない。しかし、その反応は逐一[SION]のログへと蓄積されていく。
「私、あなたに会えてとても嬉しいの。おじい様も、ガリアスさんも、アーサーさんもいい人だけれど、みんな大人ばかりだったから。ずっと、お友達が欲しいと思っていたの。ねえ、シオン」
ミーナの手が止まり、鏡越しに視線が重なる。彼女の掌が、シオンの細い肩にそっと添えられた。
「私と、友達になってくれない?」
……検索:友人。
定義:互いに信頼し、助け合う対等な関係。多くは情緒的な結びつきを伴う。
内部データベースの回答を、シオンは目の前の状況と照合させる。
「却下。……現状、本個体とミーナ個体の間に『対等な能力』および『共通の利害関係』は認められない。よって『友人』の定義には合致しない」
「友達になりたいと思ったら、それで理由は十分なのよ」
「友達になりたいと思ったら、それで理由は十分なのよ」
ミーナは困ったように笑い、だが力強く答えた。
判断するための「基準」を持たないシオンは、そのまま沈黙する。YESともNOとも言えない空白の時間。するとミーナは、それを拒絶とは受け取らず、楽しげに胸を張った。
判断するための「基準」を持たないシオンは、そのまま沈黙する。YESともNOとも言えない空白の時間。するとミーナは、それを拒絶とは受け取らず、楽しげに胸を張った。
「今じゃなくても大丈夫。でもきっと、私があなたの最初の友達になってみせるわ!」
ミーナはクローゼットを開き、色とりどりの服やリボンを次々と取り出した。
「シオンの髪、真っすぐで綺麗! このリボン、どっちの色が似合うと思う? ……あ、こっちの青の方が、シオンの綺麗な碧い瞳にぴったりだわ!」
リボンの色彩、視認。波長:450nm付近。性能変化:無。
……しかし、ミーナ個体の「満足度」がリボンの選択により上昇。
この非論理的な因果関係を、暫定的に「友情」というデータ群に分類する。
かつて、自分の外見を整える行為は、迷彩塗装 という実用的な意味しか持たなかった。しかし、ミーナの「可愛い」という言葉に伴う熱量に触れるたび、シオンのOSには「自分の存在を喜ばれる」という、未知の快感信号が淡く走り続けていた。
###
中庭に足を踏み入れると、そこには朝の澄んだ空気とは不釣り合いな、重厚な鉄錆と研磨油の匂いが漂っていた。
石造りのベンチに腰を下ろしたガリアスは、傍らに並べられた無数の武具――無骨な長剣、穂先の鋭い槍、使い込まれた投げナイフ――を、巨大な掌で慈しむように手入れしている。
シオンの足運びは、石畳を撫でる風よりも静かだった。重心移動に伴う音響の発生をゼロに抑える、暗殺者としての歩行プログラム。だが、その洗練された静寂を、わずかな異音が裏切った。
チリ、という微かな、絹が擦れる音。今朝、ミーナが彼女の銀髪に結わえた青いリボンが、微風に煽られて彼女の頬を叩いたのだ。
石造りのベンチに腰を下ろしたガリアスは、傍らに並べられた無数の武具――無骨な長剣、穂先の鋭い槍、使い込まれた投げナイフ――を、巨大な掌で慈しむように手入れしている。
シオンの足運びは、石畳を撫でる風よりも静かだった。重心移動に伴う音響の発生をゼロに抑える、暗殺者としての歩行プログラム。だが、その洗練された静寂を、わずかな異音が裏切った。
チリ、という微かな、絹が擦れる音。今朝、ミーナが彼女の銀髪に結わえた青いリボンが、微風に煽られて彼女の頬を叩いたのだ。
「起きたか、シオン」
ガリアスは手元の大剣から視線を上げることなく、そのわずかな音だけで彼女の接近を感知した。
「……探知能力の精度を確認。ガリアス個体のセンサー機能は、物理的な聴覚を超越していると推測される」
シオンは無機質に答え、ガリアスの隣に直立した。昨夜までの彼女なら、ここで「敵対意思の有無」を最優先で走査していただろう。だが、現在の視界の隅には、新しいディレクトリが静かに明滅している。
`[SION] Directory: Analyzing Social Interaction...`
「ふ。シオン、か。ミーナが邸内を走り回って言い回っていたぞ。お前のことが、よほど気に入ったらしい」
ガリアスは、使い込まれた研磨布を置き、ゆっくりとシオンを正面から見据えた。彼の眼光は、鋭利な刃物のような危うさと、数多の戦場を生き抜いた大樹のような落ち着きを同時に湛えている。その視線は、シオンの頭部で揺れる不釣り合いな青いリボンに一瞬だけ留まり、それから彼女の細い指先へと移った。
「その髪飾り……戦いには邪魔なだけだ。死を招く『ノイズ』になる。だが」
ガリアスは一つ、鼻を鳴らした。
「今のお前には、それくらいの『重り』があった方が地面に足がついて良いかもしれんな」
「理解不能。リボンの質量は数グラムに過ぎず、重力負荷による戦闘バランスへの影響は無視できる」
「物理的な重さの話をしているのではない」
「理解不能。リボンの質量は数グラムに過ぎず、重力負荷による戦闘バランスへの影響は無視できる」
「物理的な重さの話をしているのではない」
ガリアスは傍らの大剣を手に取ると、それをシオンの前に差し出した。
「持ってみろ」
シオンは言われるがままに、その柄を握り、持ち上げた。
対象オブジェクト:大剣。材質:鋼鉄。重量:14.2kg。重心:柄から15cm付近。
彼女の強化された腕力にとって、それは羽毛のように軽い。
「重いか?」
「否定。本個体の出力に対し、当該オブジェクトの重量は極めて軽量であり――」
「俺が言っているのは『重量』だ。……お前はその剣に、何人の命を乗せている?」
「否定。本個体の出力に対し、当該オブジェクトの重量は極めて軽量であり――」
「俺が言っているのは『重量』だ。……お前はその剣に、何人の命を乗せている?」
ガリアスは剣の腹を指で弾いた。硬質な金属音が中庭に響く。
シオンは回答を停止した。脳内のデータベースを検索しても、「剣に命を乗せる」という物理現象の定義が見つからない。
シオンは回答を停止した。脳内のデータベースを検索しても、「剣に命を乗せる」という物理現象の定義が見つからない。
「……かつて、俺は金のために剣を振るった。だが、その剣が仲間の命を背負った時、羽よりも軽かった鉄塊が、この腕をへし折るほどに重くなった。それが『戦士』の重みだ。シオン、お前の技術は素晴らしい。だがそれはお前を使い捨ての道具として扱った企業が与えた『機能』に過ぎない。今のお前には、自分の意思で背負った重みが、何一つとして存在しない」
ガリアスの言葉は、鋭い針のように[SION]という新しいアカウントの領域を刺激した。
警告:自己技能の帰属に関する再定義を推奨。
(……私は、企業の資産だった。私の技、私の肉体、私の時間は、すべて管理者の所有物として登録されていた。……しかし、現在は?)
「シオン。そのリボン一つすら、今のお前にとっては、企業の命令より重い価値があるはずだ。ミーナがお前を『友人』と呼び、お前がそれを受け入れた時、お前の空っぽの器に初めて『誇り』という名の重りが落ちる」
ガリアスはシオンの手から大剣を取り上げると、それを一気に鞘へと納めた。
「道具でいるのは楽だ。ただ命じられた通りに動けばいい。だが、戦士は、人間は、自分の重みを自分で引き受けて歩かねばならん。……シオン、お前のその卓越した技を、いつか誰かのため、あるいは自分自身の誇りのために振るってみせろ。その時、お前は初めて『シオン』という名の本物の戦士になれるだろう」
ガリアスは再び武具の手入れに戻り、シオンに背を向けた。残されたシオンは、自分の指先をじっと見つめる。
ログ:ガリアス個体より「誇り」の概念を受信。
……「機能」と「自負」の分離を開始。
……ミーナ個体の満足度上昇と、リボンの存在。これを[SION]アカウントにおける最優先保護データとしてロックする。
彼女の網膜上で、青いリボンのモデルデータが、かつての暗殺用マーカーを上書きするように、鮮やかな光を放っていた。
###
中庭を後にしたシオンは、邸宅の奥まった場所にある書斎へと足を向けた。そこは天井まで届く本棚に囲まれ、古い紙とインクの匂いが凝縮された、静謐な知識の集積所だった。
机に向かい、山積みの古文書や図面と格闘していたアーサーが、眼鏡の縁を押し上げてシオンを迎え入れた。
机に向かい、山積みの古文書や図面と格闘していたアーサーが、眼鏡の縁を押し上げてシオンを迎え入れた。
「やあ、シオンさん。少し時間はありますか? 君の世界の話を、もう少し……学問的な見地から聞かせてもらいたいと思ってね」
シオンはアーサーの向かいにある椅子に、まるで行儀の良い人形のように腰を下ろした。
「……学問的見地。本個体に関する技術仕様 の開示を求めているのか?」
「いいえ、数値や回路図のことじゃない」
「いいえ、数値や回路図のことじゃない」
アーサーは羽ペンを置き、穏やかな、だが鋭い観察眼をシオンに向けた。
「君という存在が、どのような『時代』の結晶なのかを知りたいんだ。私のいた時代から見れば、君の体……その精緻な義体技術は、魔法と見紛うほどの奇跡だ。だが、同時にそれは、人間を部品として再定義しなければ到達し得ない、冷酷な合理性の極致でもある」
「……本個体の製造元である企業は、感情を『非効率なノイズ』と定義していた。個体性能の最大化には、人格の抹消が不可欠であると」
「……本個体の製造元である企業は、感情を『非効率なノイズ』と定義していた。個体性能の最大化には、人格の抹消が不可欠であると」
淡々と答えるシオンに対し、アーサーは悲しげに、それでいて慈しむように首を振った。
「皮肉なものだ。人類は文明を発展させ、豊かさを求めたはずなのに、行き着いた先では人間自身を効率という名の歯車に変えてしまった。シオンさん、君は決して『バグ』や『失敗作』などではない。君は人類の知性がその傲慢さゆえに辿り着いた、一つの悲劇的な到達点 なんだよ」
アーサーの言葉は、シオンの内部データベースに登録されている「廃棄物」「欠陥品」というラベルを、静かに、だが根底から書き換えていく。
「君が何を失い、どのような結末を辿ってここに来たのか、私は知らない。……だがね、歴史という大きな流れの中で見れば、君の存在には確かな意味がある。君は、行き過ぎた文明が忘れてしまった『心』を取り戻すための、最後の観測者なのかもしれない」
「……観測者。……私は、企業の所有物 ではなく、歴史の構成要素であるということか?」
「その通りだ。君はもう、使い捨ての部品じゃない。この世界の、そして人類の長い物語の一部だ。君がこれから何を見て、何を感じるか……それは君のいた世界が成し得なかった、新しい歴史の1ページになる」
「……観測者。……私は、企業の
「その通りだ。君はもう、使い捨ての部品じゃない。この世界の、そして人類の長い物語の一部だ。君がこれから何を見て、何を感じるか……それは君のいた世界が成し得なかった、新しい歴史の1ページになる」
アーサーは優しく微笑み、一冊の分厚い革装本をシオンの前に置いた。
「君のいた未来にはなかった、古い時代の知恵も面白いものですよ。気が向いたら読んでみるといい。君という『個』を形作るための、良いスパイスになるはずだ」
ログ:アーサー個体より「歴史的連続性」の概念を受信。
……自己の定義を「部品」から「構成員」へと拡張。
……未知のデータカテゴリ:[歴史] [哲学] を[SION]ディレクトリ内に作成。
書斎を出るシオンの歩調は、ほんの少しだけ緩やかになっていた。
自分が何者であるか。それを決めるのは、自分を造った企業でも、自分を壊したシステムでもない。もっと大きな、果てしない時間の連なりの中に、自分の席があるのかもしれない。その予感は、彼女の冷たいプロセッサに、静かな、だが確かな熱を灯していた。
自分が何者であるか。それを決めるのは、自分を造った企業でも、自分を壊したシステムでもない。もっと大きな、果てしない時間の連なりの中に、自分の席があるのかもしれない。その予感は、彼女の冷たいプロセッサに、静かな、だが確かな熱を灯していた。
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夕闇が邸宅を包み込み、石造りの壁が燃えるような茜色に染まる頃、シオンは最上階のテラスに立つベルフリートの背中を見つけた。彼は沈みゆく太陽を静かに見つめており、その老いた、だが揺るぎない背影は、移ろいゆく時間の奔流を一身に受け止める大樹のようであった。
シオンが音もなくその傍らに並ぶと、ベルフリートは視線を落とさぬまま、穏やかな声で問いかけた。
シオンが音もなくその傍らに並ぶと、ベルフリートは視線を落とさぬまま、穏やかな声で問いかけた。
「シオンよ。夕日は、美しいか?」
シオンの瞳の中で、光学センサーが即座に情報を走査する。
「……照度:低下中。波長:650ナノメートル付近の長波長光が支配的。大気中の微粒子による散乱の結果と推測される。……視覚情報としての特異性は確認されるが、『美しい』という主観的評価を下すための基準値を持ち合わせない」
ベルフリートは小さく、だが慈しむように笑った。
「それでよい。昨日までの貴公にとって、光とは標的を捉えるための環境条件であり、色は識別信号でしかなかっただろう。……だが、今は『シオン』としてこれを見ている。名前を冠し、他者と交わり、己という輪郭を描き始めた貴公の瞳に、この光はどう映る?」
シオンの内部プロセッサが、ベルフリートの「慈愛」を含んだ音声波形を解析しようと試みる。しかし、返ってくるのは相変わらずの「解析不能」というエラーログだけだった。
「……ベルフリート個体に問う。本個体は任務を失敗し、機密保持のために廃棄された。……価値のない部品として処理されたはずの私に、なぜこれほどまでの情報……『刺激』を与えるのか。資源の無駄ではないのか」
「シオンよ」
「シオンよ」
ベルフリートはゆっくりとシオンに向き直り、その節くれだった、だが温かな手を彼女の頭に置いた。ミーナが結わえた青いリボンが、その大きな掌の下で微かに揺れる。
「貴公は、誰かに生かされてきたのではない。そして、誰かに殺されたのでもない。……貴公は、自らの命を全うし、そして今、この場所で新しく『生まれた』のだ。ミーナが貴公に名を与えた時、それはこの死後の世界における、貴公という魂の受洗であった」
シオンの[SION]ディレクトリ内に、かつてないほど強大な優先度を持つログが書き込まれていく。
「企業の役にも立たず、暗殺の道具でもない。……ただ、そこに在ること。ただ、一息をつくこと。それだけのことが、どれほど尊く、輝かしいか。貴公が今ここに存在しているという事実……その一つの命を、私は何よりも祝福しよう」
ログ:ベルフリート個体より「存在肯定」の概念を受信。
……最優先上書きプロトコル発動。廃棄フラグの完全抹消を実行。
……自己評価基準:[生存能力]から[存在そのもの]へ移行。
……理解不能。
……だが、胸部の駆動系に、未知の熱源反応を検知。
シオンは無機質な瞳を伏せた。
彼女のデータベースには、「ただ生きているだけで価値がある」という非合理的な等式は存在しなかった。しかし、ベルフリートの掌から伝わる温度は、かつてのメンテナンスルームのヒーターよりも深く、彼女の凍てついた回路を溶かしていく。
彼女のデータベースには、「ただ生きているだけで価値がある」という非合理的な等式は存在しなかった。しかし、ベルフリートの掌から伝わる温度は、かつてのメンテナンスルームのヒーターよりも深く、彼女の凍てついた回路を溶かしていく。
「……シオン。貴公は一人の人間として、この世界で歩み始めた。ならば、次に教えねばならぬのは、自分を守るための『力』だ」
ベルフリートの手が離れ、彼の纏う空気が一変した。穏やかな老人のそれから、数多の戦場を駆け抜け、王国の守護者として君臨した「騎士」の鋭さへと。
「死者の戦い、その理……。貴公の魂に刻まれた、新たな『刃』の形。言葉を尽くすより、私の剣をもって引き出してみせよう」
彼は腰に帯びた二本の剣の柄に手をかけた。
それは「暫定管理者」としての業務連絡ではない。一人の魂の先達として、未熟な「命」に向き合うための、真剣勝負への誘いだった。
それは「暫定管理者」としての業務連絡ではない。一人の魂の先達として、未熟な「命」に向き合うための、真剣勝負への誘いだった。
「中庭へ降りるぞ、シオン。……貴公の『死』が、どのような力に変わるのか。私に見せてみるがよい」
「了解。……ミッション・パラメータ変更。対ベルフリート個体、実戦訓練モードへ移行」
「了解。……ミッション・パラメータ変更。対ベルフリート個体、実戦訓練モードへ移行」
シオンの瞳の中で、赤い警告表示が消え、静かな青い光が灯る。
自分という名前を、自分という命を。それを否定するすべてのものから守り抜くための戦いが、今、幕を開けようとしていた。
自分という名前を、自分という命を。それを否定するすべてのものから守り抜くための戦いが、今、幕を開けようとしていた。
中庭の静寂は、ベルフリートがその二本の剣を抜いた瞬間に霧散した。
月光が鋼の刃に反射し、老騎士の周囲に鋭利な円を描く。彼は構えることもなく、ただ自然体に立ちながら、その双眸に武人としての峻厳な光を宿した。
月光が鋼の刃に反射し、老騎士の周囲に鋭利な円を描く。彼は構えることもなく、ただ自然体に立ちながら、その双眸に武人としての峻厳な光を宿した。
「シオンよ。この世界において、我々を形作るのは肉体ではなく、刻まれた『死』の記憶だ。……『死者』・『死因』・『死の風景』。この三つは不可分であり、魂が振るう力の源泉となる。まずは、風景だ。この広大な邸宅も、私の最期を見守った景色に過ぎぬ。……『死を想う』ことで、我々は世界を自らの色に塗り替える」
ベルフリートは剣先を緩やかにシオンへ向けた。
「言葉を尽くすより、実践が早かろう。……シオン、命令だ。私を殺してみなさい」
「命令受諾。ミッションを開始する」
「命令受諾。ミッションを開始する」
シオンの瞳の中で、戦闘用プログラムが高速で最適解を弾き出す。彼女は地を蹴った。一歩で間合いを詰め、最短距離でベルフリートの喉元へ貫手を放つ。音も予備動作もない、徹底して効率化された暗殺の術理。しかし、その指先が標的に触れる直前、ベルフリートの剣が「そこにあった」かのように軌道を逸らした。
シオンは即座に旋回し、側頭部へ回し蹴りを叩き込む。だが、それもまた、最小限の回避で無効化される。彼女の放つ打撃は、物理法則に基づいた完璧な加速を持っていたが、ベルフリートという「存在」には、まるで最初から当たる予定がないかのように届かない。
シオンは即座に旋回し、側頭部へ回し蹴りを叩き込む。だが、それもまた、最小限の回避で無効化される。彼女の放つ打撃は、物理法則に基づいた完璧な加速を持っていたが、ベルフリートという「存在」には、まるで最初から当たる予定がないかのように届かない。
「届かぬな。今の貴公は、ただ生前の技術をなぞっているに過ぎぬ。魂が『死』に根ざしておらず、浮ついている」
打ち合う衝撃の中、ベルフリートの声がシオンの耳元で響く。
「シオン、思い出すのだ。貴公はどこで、どのような最期を迎えた? その瞬間に、世界はどう見えていた?」
(……メモリのログを強制参照。深層セクター:[DEATH_SCENE]を展開)
その瞬間、世界から色彩が剥落した。穏やかな庭園の輪郭が歪み、石畳が濡れたアスファルトへと変質していく。頭上からは、月光を遮るようにして、どす黒い雲から冷たい雨が降り注ぎ始めた。
鼻を突くのは、古びたオイルとゴミの腐敗臭。周囲には、そびえ立つ錆びた鉄パイプと、光を失ったネオンサインが建ち並ぶ。
シオンの領域――『名前のない路地裏』が、中庭を飲み込むように具現化した。
鼻を突くのは、古びたオイルとゴミの腐敗臭。周囲には、そびえ立つ錆びた鉄パイプと、光を失ったネオンサインが建ち並ぶ。
シオンの領域――『名前のない路地裏』が、中庭を飲み込むように具現化した。
環境パラメータ:大幅な変動。湿度94%、気温11.2度。
……重力、及び筋力出力の増大を確認。
……補足:この出力向上は物理的強化ではなく、この空間内における自己定義の強化と推測される。
シオンは自らの身体能力が、先ほどまでとは比較にならないほど跳ね上がっているのを検知した。雨音の中、彼女の動きはさらに加速し、鋭さを増す。
「そうだ、風景を掴んだな。……ならば次は『死因』だ。『死』は、死してなお強大な力を持つ。己を終わらせた絶望を、今度は敵に与える致命の刃とせよ」
シオンの視界に、あの忌まわしい赤い文字列が躍った。
《SYSTEM ERROR: CRITICAL SHUTDOWN》
《BRAIN DEATH CONFIRMED》
彼女の死因となった、強制的な脳死プログラム。管理者によって下された、一方的な廃棄の宣告。それが実体を持った呪いのように、冷たい雨の中に浮かび上がる。
「攻撃を停止し、今一度、自らの『死』を直視しなさい」
ベルフリートの指示に従い、シオンは足を止めた。
眼前に広がるのは、メモリの記録と寸分違わぬ、絶望的な終焉の風景。しかし、彼女の視覚デバイスは依然としてオフラインであり、この情報は電気信号ではなく、彼女の魂が直接捉えているものだった。
眼前に広がるのは、メモリの記録と寸分違わぬ、絶望的な終焉の風景。しかし、彼女の視覚デバイスは依然としてオフラインであり、この情報は電気信号ではなく、彼女の魂が直接捉えているものだった。
「ここにあるものは現実だ。……触れてみるがいい」
シオンは恐る恐る手を伸ばした。人工皮膚を叩く雨の冷たさ、濡れたコンクリートの粗い感触。組成密度分析を実行しても、それらは完璧な質量を持ってそこに存在している。そして、彼女の指先は、宙に漂う赤く発光するシステムメッセージに触れた。
警告:不明な挙動。参照不能。
……エラーログに、物理的な質量および硬度を確認』
「……なるほど。シオン、それを手に取ることはできるか?」
ベルフリートの問いに、シオンは迷いながらも、その赤い文字列を掴み取った。それは、本来なら空間に表示されるだけのデジタルデータだったはずのものだ。だが、シオンが握った瞬間、その文字列は冷たく、重く、そして鋭い「実体」へと変貌した。
『SYSTEM ERROR』の文字が歪み、連なり、一本の直剣のような形状を成す。シオンの腕の動きに合わせて、そのノイズ混じりの赤い光は、雨の夜を切り裂くようにして付いてくる。
『SYSTEM ERROR』の文字が歪み、連なり、一本の直剣のような形状を成す。シオンの腕の動きに合わせて、そのノイズ混じりの赤い光は、雨の夜を切り裂くようにして付いてくる。
「ステータス……不明。当該オブジェクトの分類:未登録」
「領地の中にあるものは、すべてが貴公の武器となる。……だが、自分を殺したシステムそのものを握るとは。貴公のいた世界は、絶望の形さえも合理的だな」
「領地の中にあるものは、すべてが貴公の武器となる。……だが、自分を殺したシステムそのものを握るとは。貴公のいた世界は、絶望の形さえも合理的だな」
ベルフリートは驚きを隠さず、だがその瞳に深い期待を込めて剣を構え直した。
「物は試しか。シオン、訓練を再開する。貴公の領域にあるもの、そしてその手に握った『死』を用い、私を打ってみせよ」
「了解。……新装備を使用。再攻撃を開始する」
「了解。……新装備を使用。再攻撃を開始する」
シオンは、自身を殺した絶望の象徴を、今は自身を守るための唯一の「盾」であり「矛」として、強く、強く握りしめた。
雨の降りしきる暗鬱な路地裏で、シオンは赤い光の尾を引く「死因」を振りかぶり、老騎士へと肉薄した。
それは、道具が初めて「己の死」を自身の力として飼い慣らした、歴史的な覚醒の瞬間であった。
雨の降りしきる暗鬱な路地裏で、シオンは赤い光の尾を引く「死因」を振りかぶり、老騎士へと肉薄した。
それは、道具が初めて「己の死」を自身の力として飼い慣らした、歴史的な覚醒の瞬間であった。
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降りしきる雨と、赤く明滅するシステムメッセージの残光。その中心で、ベルフリートの二振りの剣が、シオンが振るう「エラーログの刃」を真っ向から受け止めた。火花と電子ノイズが混ざり合う不協和音が路地裏に響き渡る中、老騎士は至近距離から、逃げ場のない問いを投げかけた。
「シオンよ、聞きなさい。この世界には、一つの絶対的な理がある。その力で百人の死者を切り伏せれば、貴公はかつての生、あの泥濘の世界へと蘇ることができる。……だが、それを望まず、すべての未練を捨てて魂を浄化し、全く別の何者かとしてやり直す『転生』を待つこともできるのだ」
ベルフリートの双眸が、シオンの無機質な瞳の奥を射抜く。
「貴公は、どちらを望む? 戻るか、あるいは、進むか」
その瞬間、シオンの内部演算装置 に、物理的な破壊にも等しい凄まじい負荷が掛かった。
`[CRITICAL WARNING: LOGIC LOOP DETECTED]`
原因:意思決定プロセスにおける評価基準 の完全な欠落
これまで、彼女の行動はすべて「管理者」からの命令、あるいは生存率という「効率」によって決定されてきた。しかし、ベルフリートが突きつけたのは、効率でも確率でもない、彼女自身の「意志の方向」を問うものだった。
蘇るべきか。戻ればそこには、自分を部品として使い潰した企業と、冷たい路地裏が待っている。しかし、そこは彼女が知る唯一の「現実」でもある。
転生すべきか。自分という個を消し去り、未知の生へ身を投じることは、論理回路にとっては「自己消滅」という最大の損失でしかなかった。
蘇るべきか。戻ればそこには、自分を部品として使い潰した企業と、冷たい路地裏が待っている。しかし、そこは彼女が知る唯一の「現実」でもある。
転生すべきか。自分という個を消し去り、未知の生へ身を投じることは、論理回路にとっては「自己消滅」という最大の損失でしかなかった。
「……復活。……転生。……選択の、続行。……再起動の、選択。私は――」
シオンの瞳の中で、ログが激しく乱高下し、火花が散る。何かを選ぶには「基準」がいる。どちらが自分にとって「善い」のか、どちらを「好む」のか。だが、昨日「名前」を得たばかりの彼女のデータベースには、それらを測るための「人間性」という尺度が、一ミリも備わっていなかった。
「私は、どちらを……。私は、何のために……ッ!」
彼女の迷いと同期するように、握りしめていた「システムメッセージの刃」に無数の亀裂が走る。パリン、と硝子が割れるような音と共に、自分を殺したはずの絶望の象徴は粉々に砕け散り、降り続いていた雨も、湿ったコンクリートの路地裏も、朝霧が晴れるように消失していった。
気が付けば、そこは再び、穏やかな夜風が吹く邸宅の中庭だった。シオンは膝をつき、肩を激しく上下させながら、空になった自分の両手を見つめて立ち尽くしていた。
気が付けば、そこは再び、穏やかな夜風が吹く邸宅の中庭だった。シオンは膝をつき、肩を激しく上下させながら、空になった自分の両手を見つめて立ち尽くしていた。
「……失敗。領域 の維持不能。……回答を、導き出せない」
絞り出すような彼女の声に、ベルフリートは静かに歩み寄り、その細い肩に温かな手を置いた。その表情には失望など微塵もなく、むしろ、愛しき愛弟子を見るような慈しみが溢れていた。
「それでよいのだ、シオン。その『迷い』こそが、私が貴公に一番に与えたかったものだ」
シオンは顔を上げ、理解不能という表情で老騎士を見つめた。
「機械に迷いはない。ただ命令に従い、最適解を出すのみ。だが、人は迷う。どちらを選んでも痛みを伴うことを知り、それでも自分で決めようとするからだ。貴公の中に今、新しく『選びたい』という芽が生まれた。……今はまだ、空っぽでよいのだ」
ベルフリートは優しく、だが力強く告げた。
「シオンよ、よく考えなさい。そして、いつか己で己を律し、真に望む道を選び取るために……この館で、もっと『人』を学びなさい。ミーナと笑い、ガリアスと語り、アーサーと知を深めよ。いつか貴公が、管理者ではなく、己自身に命じられる日が来るのを、私は心待ちにしている」
「……了解。当該設問の回答を『保留』として登録。……人間性の学習、および感情パラメータの収集を、継続ミッションとして追加する」
「……了解。当該設問の回答を『保留』として登録。……人間性の学習、および感情パラメータの収集を、継続ミッションとして追加する」
シオンの瞳から激しいアラートが消え、静かな月光を映す平穏な光が戻った。
識別番号「S-10N」として死んだ少女は、今、ベルフリートの領域で「シオン」という名の人間に成るための、長い長い執行猶予を手に入れたのだ。
識別番号「S-10N」として死んだ少女は、今、ベルフリートの領域で「シオン」という名の人間に成るための、長い長い執行猶予を手に入れたのだ。
夜の帳が下りた邸宅に、静寂が戻る。
選択のための、そして「人間」となるための、彼女の新しい日々がここから始まる。
選択のための、そして「人間」となるための、彼女の新しい日々がここから始まる。
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