薪の燃え盛る暖炉の前にて、銀髪の男と黒髪の女が向かい合っている。
「――俺は今まで君のすることには一切口を出さずにいたつもりだ。いや、正しくは、君のしたいことには、かな。君が君自身を危険に晒すような真似をした時は何度かさりげなく手を出したこともある、君には気づかれないように。けど、君の意志を叩き折ったり君の感情をねじ伏せたりするようなことをした覚えはない。たったの一度たりともだ」
「存じ上げております」
「でも、でもな、今回だけはだめなんだ。俺は絶対に認めない。君の希望を全面的に却下する」
「左様でございますか」
「君の言いたいことが分からないわけではないんだよ、理屈の上では。確かに、今回も、君の希望をそのまま通してやれば、平和なのかもしれない。でも、俺は君を愛しているんだ。分かっている? 『愛している』。君たちにはその言葉のもつ概念は伝わる?」
「はい。ただし、わたくしも、理屈の上では、ではございます。わたくしは、今、わたくしどもの思う『愛』と貴方様がたの思う『愛』とはかくも異なるものかと、たいへん残念に思っております」
「そうだね。俺たちの思う『愛』と、君たちの思う『愛』が、あまりにも違いすぎる。何ヶ月も前から――いや、出会った時から、何となく分かっていたけど……君がこんな無茶を言い出した時から」
「わたくしは無茶を申し上げた覚えはございません。わたくしはわたくしの想いを貫いただけにございます。これが――これこそが、わたくしたちにとっての『愛』にございますゆえ」
「そこだ。そこを無茶だと思った時の俺の考えを君に分かってもらえないままここまで来てしまった。あの時俺はもっと厳しい態度を取るべきだったんだろうか、本当に分かり合えたと思える日が来るのを待つべきだったんだろうか。俺としては、何度も話したつもりだったんだけど――君が本当に分かってくれているのか、もっとよく確認すべきだったのかもしれない。同時に、君がどうしてそんな無茶を『愛』と呼ぶのか、俺はもっと君に問いただすべきだった。君にもっと話してもらうべきだった」
「わたくしは、初めてお会いした日からこんにちに至るまで、徹頭徹尾、わたくしどもの考え方は旦那様にはご理解いただけないものであり、なおかつ、わたくしにとっても貴方様がたの考え方は理解に至らぬものである、と思っておりました。わたくし自身のことは、あえて、言葉を尽くしてご説明せぬまま、旦那様にお仕えしてきたのでございます。旦那様のお考えも、わたくしは、わたくしどもには到底理解の及ばぬ何かがあるのだと思い、お話の中に多少分からぬことがあっても、さしでがましい口は利くまいと、黙してまいりました」
「どうしてその場で言ってくれなかったんだろう。俺を君の話も聞けないような男だと思った?」
「いいえ、そのようなことはけしてございません。けして。そう、けして、でございます。――旦那様は、少し、優しすぎるのでございます。分かり合えないと分かってしまった時に、旦那様は悲しまれるのではないか、と、思ったまでにございます」
「それは俺の感情であって君に何ら影響を及ぼすことではない」
「旦那様を悲しませるようなものは、いかなるものであっても排除するのがわたくしの使命にございます。それがわたくし自身であるのならば、わたくしは今すぐ旦那様の前から消えてご覧に入れます」
「そんな体で?」
「はい。わたくしどもの身であれば、この程度のことで動けぬわけはございませんので」
「こんな時でもそんな無理を言うの?」
「旦那様は――いえ、貴方様がたは、未だお分かりでない。わたくしどものくにのおなごではよくあることにございます。ここで無理などと言うおなごはおりません」
「分からない――分からない。俺は君を大事にしたいだけなのに」
「さればこたびのわたくしのわがままをお聞きくださいませ。生涯に幾度もあることではございませぬ。わたくしは、この件に関して、わたくしどもと貴方様がたが分かり合うことはない、と確信しているのでございますゆえ。わたくしめのためを思ってくださるのであれば、何とぞ、何とぞ、良き、おはからいを。わたくしどものことを、これ以上強引に掘り下げるのは、おやめくださいますよう」
「俺たちと君たちはまだ分かり合えないんだろうか。戦は何百年も前に終わったんだよ」
「わたくしどものくにでは、今でも、子は皆わたくしどもと貴方様がたは永遠に相容れぬものと教え込まれております」
「君と俺も?」
「はい。それも、ともに過ごす時が長くなるにつれ、より強く、そう思うようになりました。わたくしどもと、貴方様がたは、まったく異なる存在だ、と」
「同じ人間だよ。違うところに生まれ育っただけだ」
「いずれにせよ、わたくしはもうくにを捨てて旦那様のもとへまいりました。わたくしのことはもうよいのです。しかしそうであればこそ、なおのこと――」
「なおのこと。この件は、俺と君の間だけの話で収まることではないよな。もう一度繰り返すよ。俺は、今回の件について、譲る気はない。今夜こそ、徹底的に、話をしよう」
「……まことに、今、話さねばならぬことでございましょうか」
「話をしなければ何も分かり合えない」
「分かり合えぬと分かっていながらも分かり合うために長々と話さねばならぬのでしょうか」
「話をすれば分かり合えるかもしれない」
「今すぐ分かり合うことは、はたして本当に必要なものでございましょうか」
「必要に決まっている」
「わたくしは……、わたくし、は。分かり合えずとも、ともにある。理解できずとも、ひとつになれる。そういう希望を、わたくしは抱いているのでございますれば――」
「…………」
「旦那様の仰せのとおりにございます。話をしなければ伝わらぬことは多くございましょう。わたくしは、本当は、旦那様に話さねばならぬことがたくさんあるのかもしれません。しかし、わたくしと旦那様は異なるくにに生まれた者同士。今であればこそわたくしは旦那様とこうしてお話しもできますが、わたくしと旦那様は本来ことばさえ異なるところに生まれ育ちました。わたくしには、今なお、旦那様にすべてご理解いただけるほど上手く話せているという自信がございません」
「そうかな。君はとても短い期間で本当にたくさんのことばを覚えてくれたと思うけど」
「いいえ、ことばを覚えただけではすべてを知るには足りません。――長い、時を。わたくしは、とても長い時を経なければ、旦那様をご理解することはできぬと思っております。言葉だけでは足りぬ、と。ともに暮らし、ともに生き、常の暮らしの中で少しずつ学んでゆくものだ、と。されば、わたくしに必要なことは、わたくしの話を聞いていただくことでも、旦那様のお話をお聞きすることでも、なく。毎日毎日、一生涯をかけ、ただただ旦那様のお傍にお控えし、命をお預けしてお仕えし、旦那様の暮らし方、生き方を見聞きして、旦那様のご様子から貴方様がたのことを学んでゆくことだ、と。そう、考えたのでございます」
「……それでは……、いつかは、君は俺たちのことを知ることができるのかもしれない。けど、俺が君たちのことを知ることはできない。この集落には、君たちのくにの生き残りは、もう、君一人しかいない。その君も、あんな酷いことを言った。あんな――君のくにのすべてを、否定するような」
「ですから。旦那様にお願いし申し上げているのです」
「君の過去をすべて消し去るような、残酷なことを」
「いいえ、幸いなことにございます。旦那様がそうしてくだされば、わたくしどものくにのためにこれ以上の苦労をせずに済みましょう」
「君はそれで孤独ではないのかな」
「わたくしは。わたくしは、今、幸せなのです。誰もわたくしどものくにに生まれたおなごの中の誰よりも、恵まれた、幸せなおなごです」
「どうしてそんなことを言えるんだ」
「……、……旦那様を、お慕い、しているから、です。『愛している』からです。くにを捨ててもいいと思えるほど、わたくしは、この『愛』を、価値あるものと思えているのです。これは、くににいてはけして得られなかった幸せにございます」
「君たちの思う『愛』とは、くにの習わしを否定するものなのか」
「はい。貴方様がたのおっしゃる『愛』は、わたくしどもにとって、くにを脅かすものにございます」
「そんな恐ろしいくにで生まれ育ったのか」
「はい。……はい。そうでございますよ。ほら。ほら、お分かりいただけない。貴方様がたには、わたくしどもの生まれ育ったくにでは何が当たり前のことなのか、ちっともお分かりいただけない。わたくしは、貴方様がたにとってわたくしどもがいかほど野蛮で残酷なことをする民なのかと思うと――」
「ごめん。すまなかった。君に向かって乱暴なことを言った、君が悪いわけではないのに――俺が悪かったよ。ただ、もしかしたら君もそういう目に遭っていたのかなと思うと嫌だったんだ、許してほしい。俺は君たちを、野蛮で残酷な、なんて――」
「今、旦那様は、『そういう目に遭っていたのかと思うと嫌だ』とおっしゃいましたね」
「……本当に悪かった。……――いや、正直に言おう、その点についてだけは、分からないし、分かりたくない」
「はい。ほら。分かり合えない。わたくしどもにとっては、それが生きることそのものであるというのに」
「…………ごめん。……泣かないでくれ」
「されば、わたくしは、旦那様と生きるために、くにを捨てるのです。これがわたくしの覚悟、わたくしの『愛』にございます」
「でも――それだけではないよね? それが、君たちの、人生のすべてでは。もしかしたら君たちの人生の一番大事な部分なのかもしれないけど――」
「わたくしどもの人生においては、一番大事な部分にございます。でなければ、出会っていきなりあのようなことを申し上げるようなことはございませんでしたし、今現在、このようなことには、なっておりませんでしょう」
「そうだね。そうだった。ごめん。では、こうしよう。二番目、三番目に、大事なことを。君たちの習わしの中で、俺にも分かるような、納得できるようなことを、教えてほしい。そして、それを、伝えていこう。少しずつでいい、表面的なことでもいい、君が、あのくにで生まれ育ったことを、良い印象とともに思い出せるような。そういうような、ことを」
「その『良い印象』とやらの『良い』も、貴方様がたの判断基準の『良い』でございますね。わたくしどもにとっては、このようなことも、この上なく重要なことですのに」
「……すまなかった。難しいな」
「いいえ、申し訳ございません。わたくしは今、旦那様に少し意地悪とやらを申し上げてみました。そんなお顔をなさるとは思ってもおらず」
「時機を考えて使おうか。君に意地悪をされること自体は、いつもだったら嬉しいんだろうな。君がいたずら心を発揮できるほど余裕を持てるようになったんだと思えるような時ならな。今は、だめだ」
「はい。申し訳ございませんでした。……わたくしは、本当は、旦那様が貴方様がたの基準で『良い』『悪い』と判断なさることについて、受け入れておりますゆえ。ひとは皆己れの価値基準でしかものを考えられぬものにございます。わたくしとてわたくしどもの価値基準でお話ししております。さればこそ、今、このような話になっているのでございますから。したがって旦那様は何にも苦しまれることはございません。強いて言うならば、そう……、時間を必要としている、呑み込みの遅いわたくしに、非が、あるのでは」
「お願いだ、君自身のことは責めないでくれ。今の君はそんなことをしている場合ではない、そんな体で、こんな状態では……、お願いだ」
「……――本音を、申し上げます」
「何かな」
「わたくしは、今、わたくしのくにで当たり前とされている、旦那様が嫌だと仰せになった習わしを、悲しくも恥ずかしくも思っております」
「悲しく、恥ずかしい……」
「わたくしが、貴方様がたの習わしや考えを学んだがゆえのことです。貴方様がたに――旦那様にお会いすることがなければ、わたくしはそのように感じることなどございませんでしたでしょう。かつてのわたくしは、その習わしを誇らしくすら感じておりました。貴方様がたの習わし、旦那様のお考え、それらのものが、わたくしの感じ方を変えてしまったのでございます」
「俺たちのせいで……変わってしまった……?」
「それが、『良い』のか、『悪い』のか。今のわたくしには、分かりかねます。きっと途方もなく長い時を経なければ、分からないだろう、と、思っております」
「……そうか……」
「――……わたくしのくにでは、名前をとても重んじます。名前はまじないのひとつでもありのろいのひとつでもあります」
「それは、俺のくにでもだよ。名前は特別なもので、祝福とともに授けられるものだ」
「されば、そこから、断たねば。絶たねば。この先に悲しみが続かぬよう、名前にまじないをかける――これは、わたくしどもの習わしであり、貴方様がたの習わしでもある。疑いようのなく、分かり合える点」
「そう……いう、もの、かな」
「そうなさってください。お願いにございます。どうぞそうなさってください」
「……寂しくは、ない?」
「いいえ、ちっとも」
「君があんなに苦しんで産んだ子なのに? 本当に、この子には、君のくにのことを何にも伝えずに育てる気なの? 俺のくにのことばだけで名づけをするなんて、そんな、そんなの、母親である君に対してあまりにも失礼だ」
「幾度お伝えすればよいのでございましょう。わたくしは、恵まれた、幸せなおなごなのです。一族のために急いで子を作らなくてもいい、幾人もの一族の男たちに子種を譲ってもらって焦って孕まなくてもいい。心よりお慕いし申し上げている旦那様に、長きにわたってこころとからだを気遣っていただき、生娘の頃より旦那様以外の殿方を知ることなく、旦那様以外の種ではけしてあり得ない子をこの腹で育み、たくさんたくさんいたわっていただいた結果、こうして、無事に健やかな子を産むことができたのでございます。これ以上の幸せが、ございますでしょうか。わたくしは、贅沢が過ぎて罰を受けるのではないかと、あるいは、いつか目が覚めてこれがすべて夢だったと気づく日が来るのではないかと、この十月十日ずっと恐れておりました。くにに帰って出来る限りたくさんの子を作らねばならぬと考える時が来るかもしれない、と」
「そんなことは絶対にさせない」
「わたくしは、この子に同じ心配をさせたくないのでございます。この子にも、貴方様がたの習わしのとおり、望んだお方とのみ満たされた思いでまぐわって、神の気紛れで子を授かるのを気長に待つような、そんな生き方を、してほしく。――されば。この子には、旦那様が、名前を。わたくしのくにを思わせるようなことばは一切使わない名前を、旦那様が、この子に与えてくださいませ」
「…………分かった。この子の名前は俺が一人で考えるよ」
「ありがとうございます。……ありがとう、ございます」
「最初に、子供を産ませてくれと言われた時は、どうしようかと思ったけど。なんだかんだ言って、君を妊娠させたのは俺なんだし、偉そうなことは言えないよな」
「いいえ、いいえ、わたくしが旦那様の子種を頂戴したく押し掛け女房に参ったのですよ。わたくしのくにでは、素敵な殿方の種を受けて健やかな子を産むことより大切なことはおなごにはないのですから。わたくしは、本当は、今、わたくしどものくにの習わしにも適った幸せをもつかんでいるのですよ」
「ああ、そうか。言われてみれば、そうなのか、な」
「あとは、この子を、旦那様のくにの習わしに沿った育て方で、成人するまで、世話をするだけに、ございます。これ以上、何を、求めることが、ございましょう」
「だから……、君たちのくにのことも、少しは、教えてあげようよ。だからと言って、お母さんの小さい頃のことを何も知らないで育つのは、悲しいことだと思うよ。断片的なことでもいいと思う。着物の縫い方や料理の仕方でもいい」
「……はい……」
「……やっぱり、たくさん話せば、分かることが増えて、分かり合える日がどんどん近づいてくると思うよ」
「そう……かも、しれません……、ね」
「もっと、たくさん、君や君のくにのことを、教えてほしい。この子のためにも。この子に何を伝えて何を伝えないのか、考えるためにも」
「……申し訳、ございません」
「何が?」
「今、ですから……、その、子が産まれたから……申し上げます、ね」
「何をかな」
「わたくしは……、わたくし、は。貴方様がたのことばを覚えたり、貴方様がたの習わしを覚えたり、している、うちに、年を、取ってしまうと……思って……。一刻も早く――旦那様のお子が、欲しくて――ことばで話すより、からだをつなげたいと、そればかり――考えて――」
「…………えっ、……そういうこと……だったのか……」
「申し訳……ございません……。旦那様から見たら、わたくし……はしたない娘で、ございました、で、しょうか……。まだ生娘のうちにと……思……かえって、ふしだらだったのでは……」
「何をそんなに焦っているのかとは思ったけど、はしたないとまでは思っていないよ。君にはすごく惹かれたし、家族が欲しいとも思っていたし、実際に今ここにいるこの子はとても可愛いし、……うん、まあ……確かに最初は少し驚いたかな。無茶苦茶だとは思った、最初は。でも今は、まったく」
「……良かった……。では……もう少し、したら……二人目……」
「まだ一人目の名前も決まっていないのに――あ。あれ? 疲れてしまったのかな、なんだかすごく眠そうな――」
「いいえ――でも、少し――今――休――」
「あー! 休もう休もう! ごめん! そうだ、そうだな、そもそも昨日初産を済ませたばかりの女性に長話をさせるべきじゃないな! すまなかった、またいつか改めてしよう! とりあえず今は休んで! 名前は考えておくから! な!」
「……ありがとうございます……おやすみなさいませ……」
「おやすみ、愛しているよ」
黒髪の女が、敷き布団に身を横たえた。銀髪の男は、女に掛け布団を掛けたのち、女の傍らで眠る赤子の額に口づけた。
薪が爆ぜ、炎が優しく揺れた。銀髪の男は、「薪、薪」と呟きながら出ていった。黒髪の女からは安らかな寝息が聞こえてきた。
最終更新:2015年11月23日 14:23