夜の帳が街を包み込むと、ヴァンス・フリートンは人知れず静かなバーへと足を向けた。外では風がビル群を抜け、遠くで響く喧騒が彼の耳に届くが、この薄暗い店内だけは別世界だった。セトルラーム連邦の大統領として、彼は昼夜を問わず国の舵取りに奔走してきた。だが、その道は栄光とは程遠く、孤独と妥協の果てに築かれたものだった。
カウンターに腰を下ろすと、バーテンダーのアレクが無言でウイスキーを注いだ。琥珀色の液体がグラスに落ちる音が、静寂の中でかすかに響く。
「ヴァンス、今日はどんな顔してるんだ?」
アレクの声は穏やかで、どこか疲れた男を労わるような響きがあった。
フリートンは目を細め、グラスを手に取った。光に透けるウイスキーを眺めながら、かすれた声で答えた。
「今日も同じさ、アレク。志の欠片もない連中と、延々と続く無意味な議論。失望ばかりが積み重なるよ」
アレクはカウンターを拭きながら、静かに頷いた。「君の意志は鉄だ。だが、その鉄を曲げずにいるのは、並大抵のことじゃないだろう」
フリートンは小さく息をつき、目を閉じた。「その通りだ。誰もが私の背負うものを理解しようとしない。国の未来を切り開くためなら、どんな犠牲も払う覚悟はある。だが、それがどれほど重いか……」
言葉の端に、ほろ苦い寂しさが滲んだ。
アレクは新たなウイスキーを注ぎながら、穏やかに言った。「それでも、この国が前に進んでいるのは君のおかげだよ。少しは自分を休めてやれ。肩の力を抜くことも、時には必要だ」
「ありがとう、アレク」
フリートンはグラスを傾け、口に含んだウイスキーの渋い甘さに一瞬目を細めた。その香りは、彼の心の奥底に沈んだ記憶を呼び覚ます。かつて若き改革派として理想を掲げ、仲間と共に未来を描いた日々。だが、現実の荒波に揉まれ、妥協を許さぬ冷徹な決断を重ねるうちに、彼の手元からは多くのものが零れ落ちていった。信頼、友情、そして彼自身の笑顔さえも。
「アレク、私はこの国を守るため、数えきれぬものを捨ててきた。志の低い者たちに囲まれ、報われることのない労苦を背負うのは骨が折れる。だが、それが私の定めだ」
彼の声は低く、どこか諦念に似た響きを帯びていた。
アレクは目を上げ、じっとフリートンを見つめた。「それでも君は立ち続ける。それが本物の強さだよ、ヴァンス。誰に理解されなくとも、自分の道を貫く強さだ」
フリートンは唇の端をわずかに歪め、皮肉めいた笑みを浮かべた。「強さか。孤独を友とし、理解者を遠ざけるような強さなら、私ほどそれを体現している者も少ないだろうな」
その言葉を最後に、二人はしばらく言葉を交わさず、グラスの中の琥珀色を見つめた。ウイスキーの静かな揺れが、フリートンの心に微かな波を起こす。彼は孤独を背負いながらも、それを力に変える術を知っていた。だが、その力は時に彼自身を切り刻む刃でもあった。
やがて夜が深まり、フリートンはバーから出て執務室へと戻った。冷たい風が彼のコートを揺らし、遠くの街灯が細長い影を舗道に描く。明日もまた、理想と現実の狭間で戦う日々が待っている。彼の視線の先には、揺らぎながらも消えぬ国の未来が浮かんでいた。
その夜、フリートンは一瞬だけ政治の重圧から解き放たれ、生身の人間としての自分を取り戻した。アレクとの短い会話と、ウイスキーの静かな余韻が、彼の心に深く染み込んでいた。孤独を背負いながらも未来への意志を新たにし、彼は静かに次の朝を迎える準備を整えた。
最終更新:2025年01月06日 00:16