室内は薄暗い。ブラインドはすべて下ろされ、非常灯の光だけが会議卓の表面を鈍く照らしている。壁際には封鎖中のモニター端末、テーブルの上には紙媒体の報告書と1台の旧型データパッド。
静けさの中、ドアが静かに開き、ブーツの音がひとつ。
イズモ「……なんであいつなんだ、綾音」
綾音はすでに椅子に座っており、手元のファイルを閉じる。しばし、答えず。
綾音「技術的な適正、言語能力、外交耐性、現地理解、そして……かつての“反体制”視点」
イズモ「それは机上の話だろ。俺たちが今話してるのは……“あの夜”の話だ」
彼の声は低く、しかし明確に鋭さを帯びていた。綾音は口を結んだまま、わずかに視線を逸らす。
綾音「……彼は誰も殺さなかった。部下にそう命じていた。それだけで、すべてが帳消しとは言わないけど」
イズモ「殺さなきゃいい、じゃない。“止めようとした”んだぞ、組織そのものを。俺たちが築いてきたものを、根っこから」
綾音はゆっくりと立ち上がり、ブラインド越しに外の夜空を見る。遠く、衛星軌道上に停泊する艦影が小さく光っていた。
綾音「……
ピースギアが壊れていたのも事実よ。歪みを見て、叫んだのは彼だった。それを“破壊”に使ったのは、間違いだったけど」
イズモ「叫びたかっただけなら、中央制御区画に乗り込む必要はなかった」
綾音「彼は……信じてたのよ。誰かが動けば、全体が揺らぐって」
沈黙。どこか遠くでモニターの起動音が鳴り、すぐにまた静寂が戻る。
イズモ「なあ綾音。あんた、責任を取るつもりか?」
綾音(小さく息を吐いて)「あの十三人の派遣リストに、私の名前はないわ」
イズモ「それでも、世間は知ってる。SIC-02の首謀者が、君の推薦で連邦に派遣されたってことをな」
綾音(微笑を浮かべて)「いいの。彼が“次”を見て変われるなら、それで」
イズモ(声を低く落として)「もし、彼がまた──」
綾音「その時は、私が止める。次は、誰も手を汚させない」
イズモは視線を伏せる。しばらくの沈黙のあと、そっと椅子を引き、座る。
イズモ「……あいつがあそこまで本気だったとは、思わなかった。俺は、笑えるくらい鈍かった」
綾音「誰もがあの時、目を逸らしてた。あの歪みに」
イズモ「……あれを“改革の芽”と呼ぶなら、今はまだ危険物の域を出ない。だが……」
彼はデータパッドを手に取り、そこに表示された一枚の人物ファイル──"Toma Rheinell(トーマ・ライネル)"を見つめた。
イズモ「──信じる権利くらいは、与えてやってもいい」
綾音(静かに)「ありがとう」
静かな風が、換気口から音を立てる。会議室の壁の時計が午前2時を告げる音を低く響かせた。
綾音「……派遣は決定よ。彼は、今夜出発する艦に乗る」
イズモ「監視は?」
綾音「常時2名の連邦側オブザーバーに加え、ピースギアからも特殊通信班を一名帯同させる。表向きは“通訳兼記録係”だけど」
イズモ(小さく笑い)「念が入ってるな」
綾音「当然よ。私たちは、まだ“罪”の上で歩いている」
会議室のドアが静かに開き、綾音が最後に一言、振り返りながら告げる。
綾音「……信じたいの。あの夜の“叫び”が、ただの絶望じゃなかったって」
扉が閉まり、再び室内には非常灯の淡い光だけが残る。
静寂。
イズモは一人、目を閉じて座り続けた。
【ピースギア司令部・中央発着デッキ・ドックC】
静寂が張り詰める夜の発着デッキ。高層窓から見える夜空には、共立公歴602年の星々が冷たく輝き、その奥に青白い光が淡く瞬いている。滑らかな金属床をブーツが打ち、警告灯の緩やかな点滅が乗艦予定者の影を長く伸ばしていた。
シャトルに接続された転移ポータルが揺らめくたび、光の皮膜が風のように空間をなぞる。
綾音(制服の裾を整えながら、モニターに目を走らせ)
「転移経路、安定継続。外郭ゲート、正常反応……いいわね」
傍らには、すでに搭乗チェックを終えた十三名の派遣職員。戦術、防衛、技術、因果分析、外交補佐……精鋭中の精鋭。
トーマ・ライネルはその列の一角にいた。黒の中に深緑が織り込まれた高機能外衣に、ピースギア徽章を左胸に備え、隠された眼差しに迷いはない。
イズモ(腕を組み、黙ったまま隊列を一瞥し)
「本当に、これでいいんだな」
綾音(短く頷いて)
「いいえ、良くなんてないわ。でも、行かなければ変わらない。私たちは、未知の宙域に“橋”をかけようとしてる。その重みを知るためにも……行かせるしかない」
トーマ(列から一歩前に出て、静かに)
「トーマ・ライネル。ピースギア防衛統制班所属、元資源管理班 副班長。本日より、共同派遣団に同行し、現地観測及び防衛態勢の整備・交渉補佐を担います」
イズモ(じっと見つめたあと、微かに目を細め)
「……帰ってくる時、同じ名前で呼ばれる保証はないぞ」
トーマ(間を置き、低く)
「それでも、名乗ることで守れるものがあると信じています」
背後で小さな気圧調整音が鳴り、ポータルが一瞬だけ収縮するように震える。ラティーナが通信班の確認デバイスを閉じて頷き、エシュルが黙ってヘルメットのバイザーを下ろす。
綾音(息を吸い)
「十三名、進行開始。近隣
B.N.S.ゲート転移まで残り120秒。全員、記録ログに応答して」
【司令部モニタールーム・同時刻】
壁面の大型パネルに映るのは、十三名のバイタルと意識レベル。安定している。転移ポイント座標も完璧に一致している。
サブオペレーター(緊張した声で)
「向こうの受信艦より、到着バッファに問題なしとの信号……接続完了しました」
【発着デッキ】
蒼白い光がさらに強くなり、トーマたちの輪郭がかすかに霞んでゆく。まるで空間そのものが、彼らを星の向こうへ押し出すようだった。
綾音(わずかに声を張って)
「これが私たちの第一歩。あなたたち自身が、ピースギアの顔になるわ。……誇りを持って、“見てきて”」
トーマ(振り返らず、小さく)
「了解」
【転移開始──座標同期/波長圧縮/転送カウント──3、2、1……】
閃光。
無音の爆発のような白い光が、室内を染め上げ、やがて静かに消える。
【数分後・司令部内応接フロア】
イズモ(窓辺で外を見ながら)
「……あれだけの人間を、一度に送り出すのは初めてだな。正直、胃が痛い」
綾音(ソファに座り、掌を握る)
「選んだのは私よ。彼らが“ただの交換材料”になることだけは、絶対に避ける」
イズモ(横目で見る)
「……トーマ・ライネルは、戦場帰りの人間にしては静かだ」
綾音(目を細め、遠くを見るように)
「彼は何も壊していない。壊されなかった者の目をしてるの。……それが、今一番必要なのよ」
イズモ「つまり、理屈じゃなくて、感情の賭けか」
綾音「いつだって、希望は理屈を超えたところから始まる」
そのとき、サブモニターに新しい信号が点灯する。セトルラーム連邦、観測艦からの連絡。
オペレーター(通信越しに)
「……ピースギア第602期共同派遣団、全員無事に現地転移完了。第一通信に遅延なし、各自初期登録済みです」
綾音とイズモは視線を交わし、どちらともなく微かに頷いた。
【夜空──星間静寂の中】
ポータルの残光は、いつまでも夜空に滲むように残っていた。それは航路灯でも、星でもない、ただ“誰かがどこかへ向かった”という痕跡だった。
そしてその向こうには、まだ誰も知らない未来が、静かに広がっている。
最終更新:2025年07月25日 22:52