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CL1-7-2
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コラム1-7-2:【歴史ファクト】『32親等の養子』は昔から当たり前だった 〜親王宣下と猶子システム〜
【歴史的ファクト】「32親等の養子」の正体
この例(1-6、国会質問に対するベストな回答)は、明治時代初期(1889年の皇室典範で「養子の禁止」が明文化される前)に、明治天皇が旧宮家(伏見宮系)の親王たちを自らの「猶子(ゆうし:実質的な養子)」として迎えた歴史的事実を指しています。
1. 誰が養子(猶子)になったのか?
具体的には、伏見宮邦家親王(ふしみのみや くにいえしんのう)の息子たちです。
- 東伏見宮依仁親王(ひがしふしみのみや よりひとしんのう): 1886年(明治19年)に明治天皇の猶子となる。
- 閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう): 1878年(明治11年)に明治天皇の猶子となる。
2. なぜ「32親等」になるのか?(距離のカラクリ)
現在の天皇陛下と旧宮家が「約600年前の室町時代(北朝第3代・崇光天皇、およびその孫の伏見宮貞成親王)」を共通の祖先としているのと全く同じ構図です。
- 共通の祖先(貞成親王)から、明治天皇に至るまでが「16世代(16親等)」。
- 共通の祖先(貞成親王)から、伏見宮邦家親王に至るまでが「16世代(16親等)」。
- これを足し合わせると、明治天皇と伏見宮邦家親王(およびその息子たち)の間の距離は、「32親等(または33親等)」となります。
3. なぜそんな遠い親戚を養子(猶子)にしたのか?
当時の皇室のルール(システム)において、宮家に生まれた男子が正式に「親王(天皇の正式な身内としての高いランク)」を名乗るためには、「親王宣下(しんのうせんげ)」という天皇からの公式な認証を受ける必要がありました。
そして、この親王宣下を受けるための最も一般的な手続きが、「形式的に時の天皇の猶子(養子)になること」だったのです。
そして、この親王宣下を受けるための最も一般的な手続きが、「形式的に時の天皇の猶子(養子)になること」だったのです。
【霊的デバッグ】この史実が証明する「皇統の真実」
この具体例が持つ破壊力(左派の論理を崩壊させる力)は凄まじいです。
① 「親等の遠さ」は全く問題にならない
左派や蓮舫議員は「38親等も離れた赤の他人!」と感情的に煽りますが、歴史を見れば、32親等も離れた人物を天皇の養子(息子)として迎えることは、皇室の伝統的システムにおいて「ごく当たり前の日常業務(親王宣下の手続き)」でした。世俗の民法上の「親等」など、皇統の正統性を測るモノサシとしては何の役にも立たないことが、この史実によって完全に証明されます。
② 男系(Y染色体)の絶対的マスターコード
なぜ32親等も離れているのに養子になれたのか? それは彼らが「男系の血脈(Y染色体)」というマスターコードを完全に保持していたからです。コードさえ一致していれば、何百年(何十親等)離れていようが、システム上は「直系の家族(天皇の息子)」として即座に認証(プラグイン)できる。これこそが、レヴィ=ストロースの構造主義をも凌駕する、日本の男系継承システムの異常なまでの合理性と美しさです。
③ 養子を禁止した「明治の皇室典範」のジレンマ
明治22年(1889年)に旧皇室典範ができるまでは、このように柔軟に養子(猶子)をとって皇統のネットワークを維持していました。しかし、近代化に伴い「ルールを成文法化(ハードコード)」する際、世俗の政治家が勝手に養子をねじ込むのを防ぐため、あえて「養子禁止」という強力なファイアウォールを築きました(コラム1-8で扱った内容です)。今回の法改正は、その明治時代に自ら閉じたファイアウォールに、再び正規のアクセス権(旧宮家の復帰)を付与したに過ぎません。