24-624「神曲の果て」後半


     *     *     *


 橘さん……これは、どういうこと。

 神である涼宮さんと佐々木さんを選ぶまで、この人の心にかけられていた封印を破ったのです。
 何者が掛けた封印かはわかりません。
 少なくとも情報統合思念体レベルの存在でしょう。

 そんなものを破ったの。

 破ったのは私じゃありません。佐々木さんです。
 私はただ、お手伝いをしたに過ぎないのです。

 手伝いって……キョンが死んだらどうするつもりだったの。

 死なせません。
 佐々木さんにとって彼が大事な存在である以上、私は必ず彼を守ります。
 ですけど、私にとっては彼よりも佐々木さんが大切です。
 彼を危険に曝すことになっても、佐々木さんの役に立ちたかったのです。

 ……、橘さん。あなたには、私の心が私以上にはっきりと見えているのね。

 それが私の存在意義なのです。
 佐々木さんは私のことが嫌いになったでしょう。
 でも、私はそれでも構わないのです。
 本当に佐々木さんの役に立てるのなら、私自身はどれほど嫌われてもいいのです。

 嫌いにはなっていないわ。
 ただ、すごく怒っているだけ。
 理不尽な怒りだとわかっているけど。

 やっぱり、あなたは私の佐々木さんです。
 さあ、行って下さい。
 この後何があっても、私には知覚できませんから。
 ただ、涙は拭いていって下さい。
 私と彼が大好きなあなたの美貌が台無しになってしまいます。

 ありがとう。
 キョンと向かい合ってみるわ。
 偽り無く、心から。


     *     *     *


 枕元で話されているようなその会話はひどく現実感が気迫で、声だけはずっと遠くから聞こえてきている。
 ラジオ放送でパーソナリティーがゲストと会話している人畜無害な会話に自分の名前が出ている心境が一番近いところだろう。
 その会話が終わったかと思うと、間近に人の気配がした。
 ああ、そういえば以前にもこんなことがあったな。
 昼食を終えてけだるい気分に浸る五時間目の授業後に、睡魔という甘美な天使に誘われて机に突っ伏している俺の隣にやってきて、そいつはこう言うんだ。

「キョン、起きてくれないかしら」

 ん?微妙に口調が違うような気がするが、声自体はあまりに慣れていたものだから、特に疑問にも思わず起きてしまったわけだ。
 で、起きた瞬間に、直前に起こったファンタジー極まりないRPG冒険のことを思い出して、その声が聞こえることに壮絶な違和感を覚えた。
 助けに来たはずの相手に起こされるとは、我ながら間抜けなこと極まりない。
 とりあえず起きるとしよう。
 いいたいことは山ほどあるが、そうだな、まずはどうしてお前が引きこもりになったのかを聞かせてもらおうか。

「この状況で最初に聞くことがそれなの?」

 一応救助隊としては知る権利があると思うがな。

「わざわざ助けに来てくれたというのにつれないけど、恩着せがましくないのはとてもあなたらしい。
 やはりあなたは、何かを意図して態度を変えていたのではなく、ただ単に自然体であっただけなのね」

 おーい、一人納得していないで俺の質問に答えろ。

「くすくす、確かに、ことここまで至った以上、隠しておく意味もさしてないし、どうやら不可能のようね。
 ええ、端から見ればたいしたことじゃないわ

 そこで佐々木の表情がはっきりと沈んだ。
 どこからどう見てもたいしたことのように見えたんだが、その答えは意外すぎるものだった。

「涼宮さんと少し話をしたの
 ただ、あなたのことを巡って最後は口論になってしまってね。
 思わず涼宮さんが口走ってしまったのよ。
 夢の中で、あなたとキスをしたってね」

 俺は盛大なため息とともに頭を抱えた。
 佐々木の論理展開に追いつめられて苦し紛れだったんだろうが、何を口走っているんだあいつは。
 それはハルヒの見た夢だ、と言っても説得力は無いんだろうな。

「私もムキになって全力で口論してしまったからね。
 彼女としては今あるアドバンテージを精一杯主張しようとして、勢い余ってしまったんでしょう。
 もちろん彼女は聡明だから、自分が言ってしまった言葉が客観的には何の意味も無いどころか、恥ずかしいことだということはすぐに悟ったようだった。
 それで話は物別れに終わってしまった。
 でも、彼女はわかっていなかっただろうけど、私は橘さんから聞いていたからすぐにわかったの。
 閉鎖空間であなたが涼宮さんと実際にことに及んだということがね」

 ことに及んだ、などと言われると恐ろしくとんでもないことをやらかした気分が絶賛倍増、さらに倍だ。
 いや、実際俺があの閉鎖空間でやったことは、殴られて記憶が消えるものなら消して欲しいくらいの出来事だしな。
 それ以上になんというか、この親友にそのことを知られたのが、これまたとんでもないことのように思えてならん。
 誰かとキスしたなんて事実を知られて都合がよいわけがないんだが。
 その、なんだろうな、そういった客観的事実を通り越したところにあるようなこのいたたまれなさは。

「くすくす、あなたがそんなに困った顔をしてくれるとはね。
 少しは溜飲が下がったわ」

 その言葉が9割9分ほど控えめに言ったものだと、赤くなった瞳が語っていた。
 そういえばさっきまでこいつは半狂乱になるまで泣き叫んでいたんじゃなかったか。
 よく見れば頬にはまだ涙の後があって……しまった。
 見ないようにしていたのに、思いっきりまじまじと佐々木を見てしまい、俺はいたたまれなくなって顔をそらした。

「あら、どうしたのキョン」

 どうしたもこうしたもねえ。
 今のお前を直視できるわけがないだろう。
 なんで、一体、どうして、裸なんだよ。
 それも完膚無きまでに一分の隙もなく。
 正直言って目のやり場に困るどころの騒ぎじゃないぞ。

「心象風景というものかな。
 今のこの光景が現実のものでないことは君も薄々わかっているだろう」

 まあここに来るまでがそもそもファンタジーRPGの領域だったからな。
 おまけにここは、立っている床すら定かではない光の世界ときたもんだ。
 閉鎖空間も現実離れしていたが、ここはそれ以上だ。
 妙におまえの考えていることがほいほいわかるところを見ると、ここはお決まりの精神世界とやらじゃないのか。

「おそらくそうでしょうね。
 私は、心の奥底まで君に蹂躙され、最も隠しておきたかったところまで見られてしまったのよ。
 精神的に今の私は全裸だということね」

 それでなんとなくわかってきた。
 今の佐々木の口調は、男子に対しての口調ではなく、女子と話しているときの女言葉だ。
 普段の男言葉は、佐々木が纏っている服のようなものなんだろう。
 つまり、今の女言葉の佐々木は、服を破り取った姿ということになる。
 その言葉遣いで言われると改めて罪悪感が込み上げて来た。
 要するに俺がしたことは精神的な強姦じゃないのか。
 佐々木自身が拒絶しているのに無理矢理押し入って全裸に剥いたわけだから、これは言い逃れできない性犯罪のような気がしてきたぞ。

「勘違いしないでキョン。
 強姦か和姦かを決めるのはされた女の権利であって、男のあなたに決定権は無いの」

 あきれた、といった口調で佐々木に釘を刺されてしまった。
 確かにその通りだ。
 日本国刑法には引っかからなくても、俺は事実上強姦犯というわけだな。
 済まなかった。
 謝って済む話でもないのだが、いたたまれなくて頭を下げる他ない。
 佐々木が深いため息をついたのが聞こえた。
 まあそうだろうな。

「まったく、性的衝動を取り戻してもあなたのその性格が不変であることに、喜んでいいのか悲しんでいいのか、私自身わからないわ。
 まあいいわ。顔を上げて」

 で、さっきから聞きたかったんだがな。

「なにかしら」

 どうして俺も裸なんだ。
 上着の一つでもあればお前に着せてやることができるのに、それもできん。

「くすくす、さっきの話の通りよ。
 私が心の奥底まで踏み込まれたのと同じように、あなたの心を解き放つために私もあなたの、本来見えざるところにまで入り込んだのだから、私とあなたの立場は同じなの。
 ここは私だけの精神世界じゃなくて、私とあなたの精神世界なの。
 嬉しいわ、キョン。
 あなたが今私に対して欲情してくれていることがよくわかるもの」

 そう言う佐々木の視線は……、えーと、これはだな、仕方がないだろう。
 その、全部見えているんだから。
 しかも、だ。
 綺麗なんだ、こいつの身体は。
 正直言って頭を下げて一時見えなくなるのも惜しかった。
 大きくはないが均整のとれた体型で、全体を見渡しても綺麗だし、普段なら絶対見られない細部はもっと綺麗だった。
 これで興奮しない男がいたら会ってみたいね。

「誉めてくれてありがとう、と言いたいところだけど、それはさっきまでのあなたのことじゃない。
 二年前の夏に、水泳の授業で水着姿を見せに近づいたのに、お前って女だったんだな、と感情を完璧なまでに排して評論してくれた男はどこの誰だと思っているの。
 あのときは心底傷ついたわ」

 済まなかった。
 しかし、今思えばなんともったいないことをしていたんだ、俺は。

「まったく、でもようやく興味をもってくれたからよしとするわ。
 私のあんな姿を見たとしても、軽蔑しないでいてくれるのね」

 あんな姿、ということが何を示すのか、さすがに言われなくてもわかる。
 目の前にある裸よりも数段過激な極秘映像集は、悲しいかな、脳裏にしっかり焼き付いていた。
 佐々木が俺を思いながらあんな行為をしていたことは確かに心底驚いたが、しかし、だからといって俺がが佐々木を嫌う理由にはならないし、そもそも軽蔑出来る立場じゃない。
 この状態じゃあな。
 正直言って、あれを見れて僥倖だったというべきなんだろうよ。

「橘さんの言う通りだったよ。
 さ、よく見てキョン。決して忘れないように」

 バカ、隠せ!

「隠すわ。
 残念だが次に会ったときには、私は心にも身体にも服を着ているだろうから。
 だから今だけ。
 あなたが犯した私の裸の心を、しかと目に焼き付けて欲しいの。
 こんなにも自分に素直には、もう、なれないだろうから」

 見ずにはいられなかった。
 一歩一歩、近づいてくる佐々木を、しかと、はっきりと、肌の細部まで。
 いつしか視界は佐々木でいっぱいになり、密着寸前にまで近づいた。

「じゃあ、またね、キョン。
 セカンドキスなのは悔しいけど、十分ハンデは貰ったと思うわ」

 えーと、佐々木さん。
 どことは言いにくいんだが、身体の先端がこっちの胸に当たっているんですが。

「あなたのも当たってるわ。
 熱いくらいに暖かい。
 あなたの心の中にあって、今この状況でも暴走しない、あなたらしい素敵な欲望がよくわかるの」

 赤く頬を染めた佐々木の顔が近づいてくる。
 やっぱりこうなるのか。
 自分がとんでもないプレイボーイのように錯覚してしまいそうだ。

「くすくす。まったくその通り。
 自覚していなかったの。
 本当に罪な男よ、あなたは」

 唇に甘く柔らかい感触が溶けるように触れた。
 いつか見た光景とは少し違って、世界を満たしていた光が俺と佐々木の中に戻るように集約されていく。
 最後に、声にならない声が聞こえたような気がした。



 そして、できれば、時々でいいから、私の裸を思い返して、して、欲しい。



 歴史は繰り返す。
 外出着だったはずが、いつの間にやら寝間着に着替えていた俺はベッドから転げ落ちて目が覚めた。
 まあこのくらいの不思議などもはや驚くにも値しないというのはどうしたもんかね。
 カムバック俺の平凡な人生。

 ただ、前回とは決定的に違っていることが一つある。
 まあ、アレがその、大変なことになっているわけだ。
 佐々木に襲いかかりたいのを必死でこらえていた状態そのまんまで現世に戻ってきてしまったらしい。
 うう、もう我慢できん。
 俺は脳裏に焼き付けたばかりの眩しい姿を細部までしっかりと思い出して、ええい、何をしたかは聞くな。
 健全な男子高校生なら誰しもやってることだ。
 言い換えれば、俺は今まで健全な男子高校生から逸脱していたということを認めざるを得ない。
 これが正常な姿なんだろうな。
 そう考えると、俺は佐々木と……それから、癪ではあるが一応橘のおかげで、ようやく健全な男子高校生になれたということか。

 さあてしかし、これからの人生どうしたもんかね。
 今の俺には、谷口が羨む気持ちがようやく理解できるようになった。
 俺は我慢できるのかね。
 あんなに美人に囲まれている俺の生活環境で。

 やれやれ。




 翌朝、いささか気怠い身体を引きずりながら出かけようと思ったら、自転車が無い。
 はてと考え込んだところで、佐々木の家まで突っ走ったままだということに気づいた。
 俺の身体は佐々木の閉鎖空間から帰ってきたが、俺の自転車はそうではなかったらしい。
 とりあえず佐々木の家まで歩いていって確認するしか無さそうだ。
 そういえば盾として使っていたが、そもそも無事なのか。

「やあ、おはようキョン」
「うおっ!」

 考え込んでいるところに、聞き覚えのある声が掛かった。

「佐々木……」
「そんなに驚かなくてもいいだろう。
 僕の自宅前に止まったままだった君の自転車を届けに来たんだよ。
 君の自転車に一人で乗るというのは初めての経験だが、僕を幾度と無く運んでくれた君の視点で乗るというのは実に感慨深いね。
 思わず胸が熱くなったよ」

 聞き慣れた口調で語りかけてくる佐々木の態度からは、昨夜のことなど何もなかったようにしか思えない。
 だが、佐々木が俺の自転車に乗ってきたという事実が、昨夜の出来事が真実であると証明していた。

「それはそうと佐々木よ、その格好で自転車に乗ってきたのか。
 自転車に乗るには、そのスカートは短いという気がするんだが」
「君が僕の身体を気にしてくれるとは嬉しいね。
 君もようやく健全な男子高校生になってくれたということかな」

 佐々木に失礼だとはわかっているんだが、膝上から少し距離があるスカートの裾につい目が行ってしまう。
 これではただの変態ではないか。

「その様子だと、昨夜はあのあとやってくれたのかな?」

 追い打ちというか、ほとんどトドメを差すかのような小悪魔的笑顔で佐々木が尋ねてきた。
 もはや尋ねているというよりは確認しているに等しい。
 こちらがうろたえるのを待ちかまえているかのようだ。
 くそう、その手に乗るか。開き直ってやる。

「ああやったぞ。最高だった」

 口に出してからとんでもないことを言ってしまったと後悔した。
 考えてみれば、いいオカズだったぞ、などと言われて喜ぶ女子がいるか?
 ああくそ、穴があったら入りたい。
 自己嫌悪でその場から逃走したくなったとき、佐々木がふっと、とても嬉しそうに微笑んだ。
 それから、どこか安堵したようにしみじみとつぶやいた。

「……僕もだよ」

 何をだ、ともはや聞くまでもない。
 以前の俺だったら気づかなかったかもしれないが、今ならよくわかる。
 その答えに、ぐらりと来た。
 あの世界で言ったように、今の佐々木は服を着ているが、十分に素直じゃないか。
 それに、女の子前とした服を着ている今の方が、あの世界で見た姿以上に惹きつけられた。
 もう目をそらす必要はない。

 逃げ出しそうになっていた足が向きを変えた。
 引き寄せられるように、数歩の距離が縮まっていく。
 万有引力という言葉を信じたくなったね。
 俺の歩みに合わせて、佐々木もまた近づいてきた。
 あの空間で密着した時よりも一歩だけ離れて、俺と佐々木は向かい合った。
 さっきはしっかりと見つめる間もなかったが、今はまじまじと見つめていることができた。
 何度となく見たはずの顔だった。
 偏差値で言えば65は堅いくらいの美人だということは、客観的評価として踏まえていた。
 古泉に言われるまでもなく、こいつが魅力的だなんてことくらいはわかっていた。

 だが、そういった評価を飛び越えて、今の佐々木はとんでもなく可愛かった。
 誘っているわけでも、誘惑しているのでも、焦らしているのでもない。
 それなのに、今まで見たどんな佐々木の姿よりも心が揺さぶられた。

「閉鎖空間で言うのはフェアじゃないと思ったのでね」

 突然に、しかし当たり前のように佐々木の唇が開かれた。

「言うのであれば、君と共に生きているこの世界で言わなければ意味がないと思ったんだよ。
 タイミングがずるいかもしれないが、君を解き放った特権で、先手必勝とさせてもらおう」

 最後の躊躇らしいものを断ち切って、

「好きだよ、キョン。
 僕とつきあってくれないか」

 もはや誤解しようのないことを、告げた。





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最終更新:2011年10月31日 02:43
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